卷之二百八十六 志第卌三
國郡二
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶畿内は五か国を統べ、五十三郡・三百四十九郷を領する(注:延喜式・和名抄による)。思うに大八洲の中にあって、大日本豊秋津洲の中心をなす地域である。
¶そのむかし、天祖が高天原にましました際、多くの神々が参集した場所を天高市(あめのたけち)といい、賢木(さかき)や金属を採った場所を天香山(あめのかぐやま)といった(注:大己貴命以下は延喜式による。その地はいずれも大和国にある)。大己貴命(おおなむちのみこと)は、その子である味耜高彦根(あじすきたかひこね)・事代主(ことしろぬし)・賀夜奈流美(かやなるみ)らとともに、その神霊を三諸(みもろ)・葛城(かつらぎ)・鴨(かも)・宇奈提雲梯(うなでのうなて)・飛鳥(あすか)の地に鎮め、天孫を守護させた。太祖(神武天皇)がまだ西国(九州)におられたころ、長髄彦(ながすねひこ)は長髄に拠り、兄猾(えうかし)は菟田(うだ)に拠り、兄磯城(えしき)は磯城に拠っていた。高尾張(たかおわり)・層富(そほ)・和珥(わに)・臍見(ほそみ)・長柄(ながら)などにも、それぞれ土豪が割拠していた。太祖はひとたび東征するや、浪速(なみはや)・河内・茅渟(ちぬ)・吉野の地を平定し、諸々の賊はことごとく懾伏(しょうふく)した。中州(大和)が平定されると、橿原(かしはら)に都を定め、もろもろの功業はことごとく興った。そこで道臣命(みちのおみのみこと)に築坂邑(つきさかのむら)を賜い、畝傍山(うねびやま)の西に大来目部(おおくめべ)を置き、大倭(やまと)・葛城・凡河内(おおしこうち)・山背(やましろ)の国造、および磯城・猛田(たけた)などの県主を任じたが(注:大倭以下の任命は旧事本紀を参照)、まだ畿内の制度はなかった(注:崇神紀に「畿内」とあり、仁徳紀に「畿を封じて畿外とす」とあるのは、いずれも漠然とした呼称であって、実際にその制度があったわけではないと考えられる)。大化の改新に至り、初めて畿内が定められた。東は名墾(なばり)の横河を限り、南は紀伊の兄山(せのやま)を限り、西は赤石(あかし)の櫛淵(くしぶち)を限り、北は近江の合坂山(おうさかやま)を限りとした。持統天皇の御代には「四畿内」と称し(注:日本書紀による)、大和・河内・難波・山城の四国を指した。霊亀二年、河内国を割いて和泉監(いずみのげん)を置き、これによって「畿内五国」と称するようになった。当時は芳野監(よしののげん)もあったため、あるいは「四畿内二監」とも称した。天平十二年、和泉監を河内国に併合し、天平宝字二年、和泉国を再び置いた(注:続日本紀による)。これより先、難波に摂津職(せっつしき)を置いていたが(注:日本書紀・令義解による)、延暦十二年、摂津職を廃止して摂津国とし、芳野監も廃止して大和国に編入し、ついに畿内は五か国に定まった(注:日本紀略・和名抄による)。承和三年、「畿内諸国の順序は大和を第一とする。新式に拠り、山城を首位とすべきである」との制が定められ(注:続日本後紀による)、延喜の制もこれに従った(注:延喜式・和名抄による)。
¶そのむかし、太祖が都を定めてより、歴代の天皇は大和に都したこと、およそ千三百年に及んだ。中宗(天智天皇)が都を近江に遷すと、壬申の変が起こった。天武天皇は吉野を出て伊勢に入り、東国の兵を徴発して不破関(ふわのせき)を塞ぎ、兵を分けて大和を攻略し、さらに京師(みやこ)を犯して瀬田で大いに戦い、官軍は敗れた。弘文天皇(大友皇子)は急逝し、天武天皇が入って皇統を継ぎ、再び大倭に都した(注:日本書紀による)。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こし、一党を率いて東方へ逃走したが、たちまち誅殺された(注:続日本紀による)。桓武天皇は都を平安京に遷し、左京・右京、東市・西市を置き、制度典章はおおいに整った(注:日本紀略・拾芥抄による)。嵯峨天皇の御代、薬子(くすこ)と仲成(なかなり)が乱を起こし、平城上皇が伊勢へ行幸しようとしたため、天皇は兵を遣わして宇治・山崎の渡し場を扼(おさ)え、仲成は処刑されて事は平定された(注:日本後紀による)。それ以後、京師には兵乱がなく、三百四十余年が過ぎた。保元年間、崇徳・後白河の両帝が相争い、血が宮廷を汚すこととなり、皇室の衰微はまことにここに始まった(注:保元物語による)。藤原信頼が反乱を起こすと、詔によって平清盛にこれを討たせたが(注:平治物語による)、清盛は功を誇って驕り高ぶり、ついに天皇を福原へ遷すよう強いた。源義仲は以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて挙兵し、京に入ったので、平氏一門は西国へ逃れた。義仲の暴虐は日ごとに募り、その頃源頼朝が鎌倉に興り、弟の範頼・義経を遣わして義仲を討たせ、さらに平氏を滅ぼした。頼朝は北条時政に命じて京畿を統制させ、あわせて宮闕(御所)を警護させ、その後も将士を遣わして次々にその任にあたらせた(注:玉海・東鑑・源平盛衰記による)。承久の乱以後は、北条泰時・時房がともに探題となり、六波羅に府を置いて皇室を守護し、あわせて京畿および西国の軍務を管掌した(注:東鑑・太平記による)。建武の中興に際しては、大内裏を営み、官司を建て、すべて旧式に復した(注:太平記・建武記・梅松論による)。足利尊氏が反すると、後醍醐天皇は叡山に行幸し、まもなく花山院に還御されたが、やがて吉野へ出て行かれた。東西の義士で王のために敵愾心を燃やす者は、しばしば回復を図り、天皇方の軍勢は都に攻め入ることおよそ五度に及んだが、いずれも功を奏さなかった(注:太平記・皇年代記・元弘日記裏書による)。これより先、尊氏は北朝の天皇を奉じて京師に居させ、国命をほしいままにして吉野に対抗した。それ以後、畿内は擾乱し、もはや収拾することができなくなった(注:太平記・神皇正統記・続神皇正統記による)。
¶山城国は上国である(注:延喜式による)。古くは「山背」と書いた(注:日本書紀による。一に「山代」とも作る)。大和の北にあることから名づけられた(注:諸神記・山城志による)。天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子孫が代々ここに居住し(注:古事記による)、太祖が阿多根命(あたねのみこと)を国造に任じたのは、その後裔である(注:旧事本紀による)。もとは墮国(おちのくに)・葛野(かどの)・岡田・内(うち)・許国(このくに)・大国・栗隈(くりくま)・筒城(つつき)・懸木(かけぎ)・賀茂・刈幡(かりはた)・羽振苑(はふりその)の地があり、いずれも本国に属していたが(注:日本書紀・古事記・山城風土記・万葉集による)、後にこれらを郡とし郷と定めた(注:延喜式・和名抄による)。延暦の遷都の詔に「山河襟帯し、自然に城を作す。この形勝に拠って、新号を制定すべきである」とあり、これによって今の名に改めた(注:日本紀略による)。八郡・七十八郷を管轄し(注:延喜式・和名抄による)、国府は葛野郡にあったが、延暦年間に乙訓郡に移った(注:日本紀略による)。東は近江に接し、南は大和・河内・伊賀に至り、西は丹波・摂津に隣り、北は丹波に境を接し、山々が三方を囲み、西南だけが平坦である。琵琶湖の下流は近江から流れ来て宇治川となり、賀茂・葛野・出水(いずみ)の三水を合わせて淀川となり、河内・摂津を経て海に注ぐ。景色は秀麗で、土地は肥え水は甘く、名勝の地がことに多い(注:山城志・山州名跡志・山城国図による)。文治年間、源頼朝が平氏を滅ぼすと、後白河上皇は源義経に勅して京都に留まり宮闕を守衛させた。頼朝はこれを快く思わず、兵を率いて西上した。義経は逃れ、そこで京都守護の設置を奏上して近畿を統治させた(注:東鑑による)。承久の乱以後は、北条氏が陪臣の身でありながら国政を執り、六波羅に府を置いて京畿・山陰・山陽・南海の政治と刑罰を掌握した(注:東鑑・太平記による)。元弘年間、綱紀が一新され、もろもろの制度は旧に復したが、まもなく足利尊氏が反すると、後醍醐天皇は南山(吉野)に出て行かれた。尊氏はそこで北朝の天皇を擁立し、室町に本拠を建てて官軍に対抗した。七道は沸き立つように乱れ、畿内は喪乱し、ほとんど安寧の年がなかった(注:保暦間記・太平記による)。
¶乙訓郡は中郡である(注:令義解・和名抄による)。古くは葛野に属し、「墮国」といった。垂仁天皇の御代、丹波の竹野媛(たかのひめ)が郷里へ帰る途中、輿から堕ちて死んだことから、この名がついたという。後に「弟国(おとくに)」といい、継体天皇はここに都を遷した(注:日本書紀による)。和銅年間に今の字に改めた(注:続日本紀・延喜式による。「弟国」と「乙訓」は音訓が相通じる)。東は紀伊郡に接し、南は綴喜郡および摂津の島上郡に至り、西は丹波の桑田郡に境を接し、北は葛野郡に隣る(注:山城志・国図による)。九郷を領する(注:和名抄による)。
¶山埼(やまざき)郷には山埼駅があった(注:類聚国史・延喜式による。凌雲集には「河陽駅」とあり、淀川の北にあったためそう称したという)。山埼社(注:延喜式による)、山埼橋があり(注:文徳実録・扶桑略記による)、この地は河内・摂津との境にあたり、山陽道・南海道・西海道に通じる重要な渡し場であった(注:三代実録・本朝文粋・朝野群載による)。弘仁四年、嵯峨天皇が交野(かたの)で狩りをした際、この駅館を行在所として河陽宮(かやのみや、また山埼離宮)と称し、その後もしばしば行幸した(注:類聚国史による)。貞観三年、国司が「河陽離宮は長らく行幸が絶えている。国司の政務所とし、ただし宮の名は存続させ、あわせて行宮に充てたい」と申し出て、これが許可された(注:三代実録による)。山埼山があり、後鳥羽天皇がかつてここで狩りをした(注:明月記による)。五位川が流れ出る(注:山城志による)。相応寺があり(注:三代実録による)、葛原親王(かずらはらしんのう)の墓が園明寺村にある(注:山城志による。なお古い郷の区域は詳らかにすることができず、山川・邑里の帰属も確かめがたいため、今は地図に基づいて方位を推し量り、各郷の項に付した。また延喜式の神名帳・諸陵式に挙げられた地名も、必ずしも改変・移転がなかったとは限らないが、他に徴すべき書がないため、現在の所在地によって故地を証することとする。以下も同様である)。鞆岡(ともおか、今の友岡村)は土地が小竹(しの)の産に適し(注:神楽歌譜・枕草子による)、木土山(きづちやま、奥海印寺村にある)があり(注:文徳実録による)、狐川(今の小泉川)が流れ出る(注:夫木集・山城志による)。海印寺があり(注:文徳実録による)、保安年間には富坂荘があった(注:三鈷寺文書による)。
¶長岡(ながおか)は、刊本には載っていないが高山寺本によって補う(注:続日本紀・類聚国史・扶桑略記および山城志・国図によれば、北は上里・寺戸から南は神足・開田の諸邑に及ぶ地域が古い郷の地であったと思われる)。延暦の初め、都をここに遷した(注:続日本紀による)。長岡野があり、天長年間に禁野と定められ(注:三代実録による)、長岡園(注:延喜式による)、長岡陵があった(注:続日本紀による)。典侍(ないしのすけ)小野石子(おののいわこ)の長岡第(邸宅、跡は上里村)があり、弘仁年間には天皇の行幸があった(注:類聚国史による)。後に長岡荘といい(注:三鈷寺文書による)、寺戸荘・鶏冠井里(かいでのさと、今の寺戸・鶏冠井の二村)があった(注:今昔物語・三鈷寺文書による)。島院(しまいん、旧跡は白井村)があり、延暦の初め、曲水の宴を催した(注:続日本紀による)。乙訓社・乙訓園(注:延喜式による)、乙訓寺(今里村にある)があり(注:性霊集による)、ここはすなわち古い弟国の地で、継体天皇が都したのもここである(注:日本書紀による)。
¶長井(ながい)は、現在は所在不詳だが、承久年間に長井荘があった(注:三鈷寺文書による)。
¶大江(おおえ、今の沓掛村、郡の西北)には大枝陵(おおえのみささぎ)・後大枝陵があり(注:延喜式・類聚符宣抄による)、大枝氏はここを本貫とした(注:姓氏録による)。大枝駅があり(注:延喜式による。本書では丹波国に繋けているが、今の老坂〈おいのさか〉がこれにあたる)、丹波に通じて大枝道と称した(注:万葉集、続日本後紀による)。長寛年間、郷名がなお存していた(注:三鈷寺文書による)。大原野(今の大原野村)では桓武天皇がしばしば狩りをし(注:類聚国史による)、天長年間に禁野と定められ、仁和年間には陽成上皇の遊猟地となった(注:三代実録による)。大原野社があった(注:二十二社注式・諸社根元記による)。
¶物集(もずめ、今の物集女村、郡の北)には秦氏の一族である物集氏が居住し(注:姓氏録による)、後に物集荘といった(注:仁和寺諸堂記による)。
¶訓世(くにせ、あるいは「国背」「来背」とも書く。今の上久世・下久世の二村)には国背宍人(くにせのししひと)が居住したとされ(注:姓氏録による)、文永年間に久世荘があった(注:東寺文書・三鈷寺文書による)。
¶榎本(えのもと)は現在所在不詳。山城志には坂本村とあり、姓氏録の左京皇別に坂本朝臣があることから、「榎」は「坂」の字の誤りかと思われる。
¶羽束(はつかし、今の古川・志水などの諸村、訓世の東南)には羽束師社(はつかしのやしろ)・羽束志園(はつかしその)があり(注:延喜式による)、赤日埼(あかひのさき、今の赤井村)では桓武天皇が洪水を御覧になった。赤日厩(あかひのうまや)には宇多上皇が遊猟の際に御し(注:日本紀略による)、弘安年間には赤日荘(注:後宇多院御領目録による)、正安年間には菱河荘(今の菱川村、注:東寺文書による)があった。与杼社(よどのやしろ)・与等津(よどのつ、官船を置いた)があり(注:延喜式・山城志による)、久何社(くがのやしろ、注:延喜式による)・久我里(こがのさと、今の上久我・下久我の二村、注:春雨抄による)があった。正治年間、久我荘といい(注:明月記・後宇多院御領目録による)、源雅定(みなもとのまささだ)の久我水閣には白河上皇が行幸した(注:中右記による)。河原寺(廃址は菱川村)では、大同の初め、伊予親王とその母をここに幽閉した(注:日本紀略による)。
¶石作(いしつくり、今の灰方・灰谷などの諸村、物集の西南。高山寺本には別に「石川」の項があるが、重複の誤りと思われるため採らない)には石作連(いしつくりのむらじ)が居住したことから名づけられた(注:姓氏録による)。石作丘(いしつくりのおか)では桓武天皇がかつて狩りをし(注:類聚国史による)、石作社・石作陵(注:延喜式による)、石作寺があった(注:三代実録による)。小塩山(おしおやま、注:古今和歌集による)があり、小塩荘(今の小塩村)といった(注:桃花蘂葉・三鈷寺文書・東寺文書による)。
¶葛野郡(かどのぐん)は上郡である(注:令義解・和名抄による)。初め葛野と称した。応神天皇が近淡海(近江)に行幸した際、人家の煙が盛んに立ち上るのを望み見て、「これは国の奥深い地域である」と言った(注:日本書紀・古事記による)。桓武天皇もまた「この地は山川清麗にして、大道が四方に通じている」と言い、ついにここに都を遷して平安京と号した(注:日本紀略による)。東は愛宕郡に接し、南は乙訓郡に隣り、西北は丹波の桑田郡に境を接する(注:山城志・国図による)。十二郷を領する。
¶橋頭(はしのほとり、今の唐橋村)は、延暦年間、詔によって佐比川橋(さいがわばし)を造った際、その橋のほとりにあったことから名づけられた(注:日本後紀・国図・山城志による)。嘉祥年間、朝原宿禰河雄(あさはらのすくねかわお)がここに居住し(注:東寺文書による)、後に唐橋里といった(注:二水記による。山城志には、唐橋は唐橋村の西南にあり、昔外国からの使節が入京する際ここを通って鴻臚館〈こうろかん〉に至ったため、この名がついたとある)。
¶大岡(おおおか、今の岡村、郡の南)には大丘野(おおおかの、注:続日本紀による)があり、大岡忌寸(おおおかのいみき)が居住した(注:姓氏録による)。桓武天皇の藤原夫人の大岡墓が御陵村にある(注:延喜式による)。
¶山田(やまだ、今の山田村、大岡の北)は、元亨年間、郷名がなお存していた(注:興福寺官務牒による)。松尾社・葛野坐月読社(かどのにいますつきよみのやしろ)・櫟谷社(いちいたにのやしろ、注:延喜式による)があり、顕宗天皇の御代には歌荒樔田(うたあらすだ、注:日本書紀による)があった。荒子山(あらこやま、今の嵐山。「荒樔」「荒子」「嵐」はわが国の読みで同じである、注:松尾鎮座記による)には桜の木が多く、亀山上皇が植えたものである(注:新千載和歌集・山城志による)。葛野川(注:山城志・図志による)・葛野堰(かどのゐ、注:政事要略が引く秦氏本系帳、令集解による)・大堰里(おおいのさと)には歴代天皇の遊幸が絶えなかった(注:山城志による)。亀山(かめやま、注:本朝文粋による)には後嵯峨・亀山の両上皇が御し(注:百錬抄・古今著聞集による)、足利尊氏はここに天龍寺を創建した(注:太平記による)。小倉山荘は兼明親王(かねあきらしんのう)が営んだものである(注:後拾遺和歌集・山城志による)。嵯峨野(小倉山の東)は元慶年間に禁野と定められ(注:三代実録による)、嵯峨山上陵があった(注:文徳実録による)。嵯峨院には嵯峨上皇が御し(注:続日本後紀による)、貞観年間、大覚寺として喜捨された。観空寺もまた上皇が創建したものである。左大臣源融(みなもとのとおる)の栖霞観(せいかかん。「栖霞」と「嵯峨」は音が通じる)には清和天皇がかつて行幸し(注:三代実録による)、後に栖霞寺といった(注:本朝文粋・花鳥余情による)。嵯峨荘(今の上嵯峨・下嵯峨の二村、注:東寺文書による)、陶野(すえの)には淳和天皇がかつて来て狩りをした(注:類聚国史による)。大沢池(注:古今和歌集による)・広沢池があり(注:風雅和歌集による)、仲野親王(なかのしんのう)の高畠墓(嵯峨の西北、注:延喜式による)があった。宝亀年間、天皇の行幸があり(注:続日本紀による)、水尾山寺には清和上皇が御した(注:三代実録による)。愛宕山(水尾の北)には阿多古社(あたごのやしろ)があり、古くは丹波国に属していたという(注:延喜式・山城志による)。
¶川辺(かわべ)は現在所在不詳。嘉祥年間、秦忌寸冬守(はたのいみきふゆもり)が居住した(注:東寺文書による)。
¶葛野(かどの、今の郡村・上野村を合わせて葛野と称し、山田の東)は、太祖の御代、鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)の子孫が葛野県主(かどののあがたぬし)となった地である(注:日本書紀・旧事本紀・姓氏録による)。桓武天皇はしばしばここで狩りをした(注:類聚国史による)。梅宮社(注:延喜式による)、梅津里(うめづのさと、今の梅津村、注:延久百首による)・梅津荘(注:東寺文書による)があり、古くは郡家(ぐうけ)がここにあった(注:和名抄大意による)。
¶川島(かわしま、今の河島村、大岡の東)には、昌泰年間、宇多上皇が遊猟し(注:日本紀略による)、安貞年間には河島荘といった(注:東寺文書による)。宇多天皇の外祖母である当宗氏(まさむねうじ)の河島墓が徳大寺村にある(注:延喜式による)。桂里(かつらのさと、今の桂村)は、伝えるところによれば、大昔、月読尊(つきよみのみこと)が葦原中国に降り、保食神(うけもちのかみ)のもとを訪れた際、桂の樹に寄りかかって立ったため名づけられたという(注:山城風土記による)。弘安年間、桂荘といった(注:後宇多院御領目録による)。
¶上林(かんばやし、今の龍安寺・北野などの諸邑、郡の東)には大伴氏の一族である林宿禰(はやしのすくね)が居住し(注:姓氏録による)、伴氏神社(とものうじじんじゃ、注:延喜式による)があった。承和年間、本郷の地一町を伴宿禰(とものすくね)に賜い、氏神を祭る場所としたのが、これである(注:続日本後紀による)。北野社(注:北野縁起・諸社根元記による)・平野社があり、徳岡氷室(とくおかのひむろ、跡は龍安寺村柱吉山、注:延喜式による)・衣笠山(一に絹笠岡、龍安寺村)があった。等持院(注:太平記による)、鹿苑寺(ろくおんじ、世に金閣と称する、注:宣胤記による)、紙屋川があった(注:古今和歌集・山城志による)。
¶櫟原(いちはら。今の上嵯峨は三町六村を領するが、思うにその地であろう)には櫟原野(いちはらの)があり、嵯峨天皇がかつてここで狩りをした(注:類聚国史による)。元慶年間、本郷の地三町を興福寺の僧修審(しゅうしん)に賜った(注:三代実録による。本書に載る修審の牒には「櫟原郷はもと嵯峨院の四至〈しいし、境界〉の内であった。貞観年間に大覚寺を建立し、四至を定めた日に公地に戻された。処分を願いたい」とあり、詔によってこれを賜ったという。大覚寺は上嵯峨にあり、これがその故地であることの証となる)。高雄山には神護寺があり(注:類聚国史・神皇正統記による)、栂尾山(とがのおさん)には高山寺があって、僧高弁(こうべん、明恵)が初めてここに茶を植えた(注:海人藻芥・酒茶論による)。
¶高田(たかだ、今の高田村、山田の東)は、嘉祥年間に郷長(ごうちょう)の部某(なにがし、名は欠けている)がおり、天永年間には郷名がなお存していた(注:東寺文書による)。広隆寺があり(注:広隆寺縁起による)、いわゆる葛野秦寺(かどのはたでら)である(注:日本書紀による)。木島社(このしまのやしろ、注:延喜式による)があった。
¶下林(しもばやし、今の下林村、川島の南)には川勝寺(かわかつじ、跡は川勝寺村)・津寺(つでら、山城志による。川勝寺の西)があり、延暦年間、桓武天皇が新京を巡覧した際、右大臣藤原継縄(ふじわらのつぐただ)の高橋津第(たかはしのつのてい)に御したのが、これである(注:類聚国史による)。
¶綿代(わたしろ)は現在所在不詳。
¶田邑(たむら、今の御室・中野・宇多野などの諸邑、上林の西)には田邑陵・後田邑陵(注:延喜式による)、真原岡(まはらのおか、注:三代実録による)・小松原(注:延喜式による)があった。双丘(ならびがおか)には淳和天皇がかつて遊猟し(注:類聚国史による)、双池(ならびのいけ、注:後撰和歌集による)では仁明天皇がしばしば鷹を放った(注:続日本後紀による)。双丘寺(注:三代実録による。今は宝金剛院と称する)には丘があり、五位塚(ごいづか)と称した。仁明天皇が登ってその勝景を御覧になり、勅して従五位下を授けたため、この名がついたという(注:続日本後紀・山城志による)。大内山(注:扶桑略記・詞花和歌集による、一名御室山)には仁和寺があり(注:扶桑略記による)、宇多野(注:類聚国史による)・宇多氷室があった(注:新後撰和歌集による)。鵜原寺(うはらでら、注:三代実録・延喜式による)・鵜原氷室(いずれも平岡村、注:朝野群載による)があり、鳴滝里(注:扶桑略記による)には鳴滝川が流れ出た(注:山家和歌集による。今の鳴滝村、旧称は小松荘)。
¶愛宕郡(おたぎぐん)は中郡である(注:令義解・和名抄による)。思うに古くは久我国(くがのくに)であった(注:山城風土記大意による)。後に郡となり、今の名に改めた(注:延喜式による)。東は宇治郡および近江の滋賀郡に至り、南は紀伊郡に連なり、西は葛野郡に接し、北は丹波の桑田郡および近江の高島郡に境を接する(注:山城志による)。十一郷を領する(注:和名抄による)。
¶蓼倉(たでくら。ある書に「蓼倉郷田中里」とあり、今の田中村〈京城の東北〉がその名残という)は、寛仁年間、郷名がなお存していた(注:類聚符宣抄・賀茂注進雑記による)。後に蓼倉荘といい(注:永享四年文書・花洛往古図による)、賀茂御祖社(かもみおやのやしろ)・三井社(みついのやしろ、注:延喜式・釈日本紀による)、法雲寺(一名蓼倉薬師堂、注:薩戒記による)、白川があった(注:古今和歌集による)。
¶栗野(くりの、今の栗栖野。蓼倉の西北)には栗栖野があり、桓武天皇がここで狩りをした(注:類聚国史による)。天長年間、禁野と定められ(注:三代実録による)、綿子池(わたごいけ、西賀茂村、池田という)には仁明天皇が行幸して隼(はやぶさ)を放った(注:続日本後紀による)。栗栖野氷室(今の氷室村、鷹峯の北、注:延喜式による)、高岑寺(こうしんじ、注:三代実録による)があり、紙屋川が流れ出た(注:山城志による)。
¶粟田(あわた。刊本では上粟田・下粟田の二郷とするが、これは後世の呼び方であって古い制度ではない。高山寺本に従い訂正する。ただし本書の注の「上」「下」は、郷に上粟田・下粟田の二里があったことを言うのであり、後出の出雲郷の例と同じである。今の粟田口・北白河などの諸邑がその区域にあたる)には粟田氏が居住した(注:姓氏録による)。後に粟田荘といい(注:永享中文書による)、粟田院(藤原基経〈ふじわらのもとつね〉の旧居)には元慶年間、清和上皇が御し、そのまま円覚寺として喜捨された(注:三代実録による)。粟田殿は藤原在衡(ふじわらのありひら)の別業であり(注:拾芥抄による)、白河陵には清和天皇の外祖母である源氏の墓があった(注:延喜式による)。白河院は藤原良房(ふじわらのよしふさ)の別業であり(注:簾中抄・古今栄雅抄による)、白河天皇はここに法勝寺を建立して離宮とした(注:百錬抄・簾中抄・応仁記による)。南禅寺(法勝寺の東)は亀山上皇の離宮であったが、後に寺として喜捨され(注:南禅寺記による)、禅林寺(南禅寺の北、注:三代実録・山城志による)もまた亀山上皇の離宮であった(注:南禅寺記による)。康楽岡(こうらくおか、一に神楽岡)では桓武天皇がかつて狩りをし(注:類聚国史による)、吉田社があった(注:二十二社注式による)。粟田山(注:文徳実録・三代実録による)の頂には将軍塚があり、延暦年間、勅命によって甲冑を着け弓矢を帯びた偶像を埋め、皇城を鎮護させた(注:田邑伝記による)。
¶大野(おおの、今の大宮村。栗野の南)は、寛仁年間、本郷を賀茂祭田(かもさいでん)に充てた(注:類聚符宣抄・賀茂注進雑記による)。紫野では桓武天皇が狩りをし(注:類聚国史による)、大徳寺は花園天皇が創建した(注:大徳寺文書による)。船岡(ふなおか)では貞観年間、ここで晴れを祈った(注:三代実録による)。雲林院(うりんいん、一名紫野院)は淳和天皇の離宮であり(注:類聚国史・河海抄による)、仁明天皇もここに御した(注:続日本後紀による)。後に常康親王(つねやすしんのう)に賜い、やがて仏寺となった(注:三代実録による)。小野篁(おののたかむら)の墓が雲林院の南にあった(注:河海抄・山城志による)。
¶小野(おの、今の高野村に小野社があり、その地)には小野朝臣(おのあそみ)が代々居住し(注:三代実録による。高野村に小野毛人〈おののえみし〉の墓がある)、小野社・小野氷室(注:延喜式による。朝野群載には松埼氷室とあり、今松埼村がある)、御蔭山(みかげやま、注:小右記による。本書には「小野郷大原御蔭山」とあり、また御生山〈みあれやま〉とも称する)があった。比叡山は近江にまたがり(注:古事記・叡岳要記・国図による)、その西麓を小野山という(注:小右記・山城志による)。音羽川が流れ出た(注:拾遺和歌集・八雲御抄による)。南淵年名(みなぶちのとしな)の小野別業(今の修学院村に赤山社があり、その跡)があり(注:古今著聞集・山城志による)、八瀬里(注:類聚符宣抄・小右記による)・大原里(注:拾遺愚草・山城志による。河海抄には「小野郷大原村」とあり、今の大原荘は八つの邑からなる)があった。惟喬親王(これたかしんのう)の小野山荘(跡は上野村)があり(注:古今和歌集による)、江文山(えぶみやま、井出村)・松埼川(注:元亨釈書による)には弘仁元年に禊(みそぎ)をした(注:類聚国史による)。伊佐弥里(いさみのさと)・八塩岡(やしおのおか、注:三代実録・山城志・新勅撰和歌集による)があった。
¶錦部(にしごり。類聚三代格に、本郷の百姓が「鴨川堤の東西の水田・陸田は、われらの口分田であり、そのことは図籍に詳しい」と言ったとあり、兵範記には「錦織郷吉田村」とある。これによれば、吉田村より西、京師に至るまでが古い郷の地である)には錦部首(にしごりのおびと)が居住した(注:姓氏録による)。寛仁年間、本郷を賀茂社の祭田に充て(注:類聚符宣抄による)、建長年間には吉田泉殿(よしだのいずみどの)に後嵯峨上皇が行幸した(注:百錬抄による)。
¶八坂(やさか、今の八坂町)には八坂造(やさかのみやつこ)が居住し(注:姓氏録による)、光孝天皇の外祖母である藤原氏の八坂墓があった(注:諸社根元記による)。八坂寺(一名法観寺、注:続日本後紀・拾芥抄による)、清水寺(八坂の東南、注:百錬抄・東宝記による)があった。
¶鳥戸(とりべ、今の新熊野村の付近)には鳥部山(その頂を阿弥陀峰という)があり、鳥部寺・鳥部野(注:日本紀略・扶桑略記・山城志による)、鳥部野陵(注:三代実録による)があった。恒世(つねよ)・実仁(さねひと)二親王の鳥部野墓(注:日本紀略・扶桑略記による)、藤原総継(ふじわらのふさつぐ)の拝志墓(はやしのはか、注:延喜式・山城志による)があった。清閑寺(清閑寺村、注:百錬抄・拾芥抄による)、泉涌寺(泉涌寺村、注:元亨釈書・薩戒記による)があり、その裏山を月輪山(つきのわやま)と称し、四条天皇以後、歴代天皇の山陵の多くがここにある(注:前王廟陵記・山陵志・山城志による)。法住寺は後白河上皇が営んだものである(注:山槐記による)。
¶愛宕(おたぎ、今の八坂の西に愛宕寺があり、名の名残)は、古くは郡家がここにあった(注:和名抄大意による)。延暦年間、諸臣の墓地と定められ(注:河海抄が引く延暦遷都記による)、愛宕寺(一名珍皇寺、注:河海抄・伊呂波字類抄による)、建仁寺(注:百錬抄による)、六波羅蜜寺があった(注:本朝文粋・扶桑略記が引く往生記による)。六波羅第には平氏が代々居住し(注:山槐記・東鑑・百錬抄による)、源頼朝もまたここに邸を構えた。承久の乱以後、北条氏はここに二つの庁を置き、南北六波羅と称した(注:東鑑・百錬抄・太平記による)。
¶出雲(いずも。原注に「上下がある」という。東大寺正倉院文書に、郷には雲上里・雲下里があるとあり、それによってこう言う。今、賀茂の西に出雲寺の跡があり、その名残である)には、神亀年間、出雲臣(いずものおみ)が居住した(注:東大寺正倉院文書による)。出雲井於社(いずもいのべのやしろ、注:延喜式による)、出雲寺があった(注:智証年譜による)。
¶賀茂(かも、今の上賀茂・西賀茂の二村、栗野の東)は、上古、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が岡田の賀茂から山代川(やましろがわ)を遡り、賀茂川を望んで「なんと水も石も清らかなことか」と言い、石川瀬見小川(いしかわのせみのおがわ)と名づけ、ついに久我国の北山に居を定めたが、これがここである(注:山城風土記による)。太祖の御代、その子孫が葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)となり、子孫はこれによって氏とした(注:旧事本紀・姓氏録による)。賀茂別雷社(かもわけいかづちのやしろ、注:延喜式による)があり、賀茂川と高野川がここで合流して南へ流れ、淀川に入る(注:山城志・国図による)。泥濘池(でいねいち、鴨山の東)では淳和天皇がかつて水鳥を網で捕らえた(注:類聚国史による)。小塩山の麓を芹生里(せりゅうのさと)といい、寂光院は建礼門院が居住した所で、大原陵もここにある(注:源平盛衰記・長門本平家物語による)。貴布禰社(きふねのやしろ、注:延喜式による)・貴布禰山(注:夫木集による)には貴布禰川が流れ出た(注:千載和歌集・山城志による)。鞍馬寺(鞍馬山、注:元亨釈書・伊呂波字類抄による)には源義経が幼少の頃寓居した(注:平治物語・源平盛衰記による)。久多荘(鞍馬山の東、五つの邑、注:醍醐三宝院文書による)・静原里(今の静原村、注:山家和歌集による)があった。
¶紀伊郡(きいぐん)は中郡である(注:令義解・和名抄による)。古くは許国(このくに)と称した(注:山城風土記による。「許」と「木」は音訓が通じ、和銅年間に「紀伊」と改められた)。東は宇治郡に至り、南は久世郡に接し、西は乙訓・綴喜の二郡に連なり、北は愛宕・葛野の二郡に境を接する(注:山城志・国図による)。八郷を領する(注:和名抄による)。
¶岡田(おかだ、今の東福寺前に岡田という地名があり、その名残)には法性寺(跡は東福寺前、注:日本紀略による)、東福寺があった(注:元亨釈書・東福記年録による)。藤原兼実(ふじわらのかねざね)の月輪墓(つきのわのはか)は、彼の別業のあった所である(注:明月記・類聚大補任による)。
¶大里(おおざと、今の西荘村、郡の西北。古い郷の地であろう)には、養老年間には邑薩(おおさと)と書き、茨田連(まむたのむらじ)が居住した(注:東大寺奴婢籍帳による)。
¶紀伊(きい。文徳実録に、深草陵の近隣の七寺に使いを遣わして先帝の冥福を修したとあり、その中に紀伊寺がある。これによれば、本郷はおそらく深草の隣にあったと知られる)には紀伊寺(一名隆成寺、注:文徳実録・広隆寺縁起による)があり、古くは郡家がここにあった(注:和名抄大意による)。
¶鳥羽(とば、今の上鳥羽・下鳥羽の二村、郡の西)では、寛治年間、白河上皇が離宮を営んで鳥羽殿と号し、門や垣は四方百余町に及んでこの上なく華麗を極め、公卿の邸宅が軒を連ねて新しい都のようであった(注:扶桑略記・百錬抄による)。これより先、上皇はみな朱雀院に御して後院(ごいん)と称していたが、ここに至って鳥羽殿を後院と定めた(注:神皇正統記による)。安楽寿院(竹田村、一名城南寺、注:山槐記による)は後に鳥羽荘といい(注:管見記・東寺文書による。古歌にいう「鳥羽田」とはこれである)、元中年間には竹田荘(注:東寺文書による)・三栖荘があった(注:後宇多院御領目録・東寺文書・袖中抄による)。芹川野(今の芹川村)では桓武天皇がしばしば狩りをし(注:類聚国史による)、天長年間に禁野と定められ(注:三代実録による)、後に芹川荘といった(注:東寺文書・袖中抄による)。
¶石原(いしはら、今の石原村、鳥羽の西北)は、嘉元年間、石原荘といい(注:三鈷寺文書による。跡は吉祥院村)、佐比川があり、弘仁年間、天皇がここに行幸して禊を修した(注:日本紀略による)。
¶拝志(はやし)は現在所在不詳。拝志寺があり(注:文徳実録による)、承安年間には拝師荘があり(注:東寺文書による)、真幡寸社(まはたきのやしろ)があった(注:延喜式による)。
¶深草(ふかくさ、今の深草村、鳥羽の東)には、欽明天皇の御代、秦大津父(はたのおおつち)が居住し、皇極天皇の御代には深草屯倉(ふかくさのみやけ)を置いた(注:日本書紀による)。深草山(注:類聚国史による)・霞谷(かすみだに、注:古今和歌集・山城志による)があり、深草陵・後深草陵、および陽成天皇の外祖母である藤原氏の深草墓があった。稲荷社があり(注:延喜式による)、後に稲荷荘といった(注:東寺康正二年文書による)。竹葉山(たけはやま、注:新勅撰和歌集・山城志による)があった。
¶石井(いしい。高山寺本には載っていない。今の石井村、深草の南、伏見に属する)は古くは俯見村(ふしみのむら)と称した(注:日本書紀による)。伏見荘(注:毘沙門堂記録による)、伏見山(注:増鏡・風雅和歌集による)、伏見津(注:東鑑による)、伏見沢(今は大池と称する、注:新拾遺和歌集による)があった。伏見離宮には建長七年、後嵯峨上皇が行幸し(注:百錬抄・太平記・椿葉記による)、柏原野は桓武天皇が遊猟した所で(注:類聚国史による)、柏原陵がそこにある(注:延喜式による)。
¶宇治郡(うじぐん、一に「宇遅」、また「菟道」とも書く)は中郡である(注:令義解・和名抄による)。初めは許国に属していた(注:山城風土記大意による)。東北は近江の滋賀郡に境を接し、南は久世郡に接し、西は愛宕・紀伊の二郡に連なる(注:国図による)。八郷を領する(注:和名抄による)。
¶大国(おおくに)は現在所在不詳。垂仁天皇の御代、山代大国之淵(やましろのおおくにのふち)という人物がいた(注:古事記による。「淵」は日本書紀では「不遅」と書く)。
¶賀美(かみ、今の上野村、郡の北)は、天平年間、賀美郷の戸主に宇治宿禰大国(うじのすくねおおくに)という者がおり、堤田村(つつみだむら)があった(注:東大寺古文書・山科古図による)。諸葉山(もろはやま、四宮村にあり、柳山という、注:夫木集・源平盛衰記による)、四宮川・袖河原があった(注:夫木集による)。
¶岡屋(おかのや、今、岡屋村があり、その付近の七村を合わせて五箇荘と称する。郡の西南)には岡屋公(おかのやのきみ)が居住し(注:姓氏録による)、後に岡屋荘といった(注:慈恵遺告による)。岡屋野では桓武天皇がかつて狩りをし(注:類聚国史による)、岡屋堂(注:山科古図による)・二子塚があった(注:台記による)。
¶余戸(あまるべ)は、今、四宮の東に余古木村があり、近江の滋賀郡に属するが、思うにこれであろう。
¶小野(おの、今の小野村、岡屋の北)は、後に小野荘といい(注:醍醐三宝院文書・源平盛衰記による)、藤原高藤(ふじわらのたかふじ)の小野墓、宮道氏(みやじうじ)の後小野墓があった(注:延喜式による)。勧修寺(勧修寺村、注:日本紀略による)、小野陵・後山科陵(注:延喜式による)、醍醐寺(醍醐村、注:伊呂波字類抄・元亨釈書による)があった。貞観年間、笠取荘があり、醍醐寺領であった(注:醍醐寺雑事記・三宝院文書による)。日野(今の日野村、笠取の西)は桓武天皇が狩りをした所である(注:類聚国史・国図による)。
¶山科(やましな。山科古図によれば、南は小野郷に至り、東は近江との境に至り、北は加美郷をめぐり、西は愛宕郡に至る)には山科野があり、中宗(天智天皇)が遊猟した所である(注:日本書紀による)。山科陵があり(注:延喜式による)、鏡山(陵の北、注:万葉集による)があった。延暦年間、山科駅があり(注:日本後紀による)、後に山科園を置いた(注:延喜式による)。山科川が流れ出る(注:山城志による)。山階寺(やましなでら、跡は東野村)は中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ、藤原鎌足)が創建したもので(注:扶桑略記・帝王編年記による。本書には「山階陶原〈やましなのすえはら〉」とある)、山階離宮(跡は大宅村)には治承年間、白河上皇が御した(注:百錬抄による)。後に山科荘といい(注:三宝院文書による)、音羽里(今の音羽村、注:山科古図による)・音羽山(注:古今和歌集による)・音羽滝があった(注:夫木集による)。正平年間、音羽荘といった(注:三宝院文書による)。元慶寺があり(注:三代実録による)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の墓がそこにある(注:田村伝記による)。
¶小栗(おぐり、今の南小栗栖・北小栗栖の二村、小野の西南)は、後に栗栖里(くりすのさと)といい(注:山科古図による)、木幡村(こわたむら、注:古事記による。政事要略には「小栗栖郷木幡村」とある)があった。応神天皇が近淡海に行幸した際、途中で和珥臣(わにのおみ)の祖である日触(ひふれ)の家に御し、その娘の宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を納れて菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を生んだ(注:日本書紀・古事記による)。許波多社(こはたのやしろ、注:延喜式による)、強田山(こわだやま。「強田」と「木幡」は訓が同じである、注:万葉集による)があった。浄妙寺(一名木幡寺)は藤原道長が建立したもので(注:政事要略・道長公記・小右記による)、藤原氏で皇后や大臣となった者の多くがここに葬られ、宇治陵墓と称した(注:延喜式・政事要略による)。木幡野は天長年間に禁野と定められ(注:三代実録による)、伊予親王の巨幡墓(こはたのはか、紀伊郡六地蔵村、注:延喜式による)があり、後に木幡荘といった(注:源平盛衰記による)。長和年間、石田荘(今の石田村)があり、醍醐寺領であった(注:醍醐寺雑事記による)。
¶宇治(うじ、今の宇治町、五つの邑、岡屋の東南)は、もとは許国といい、菟道稚郎子が桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや)を築いて居住したことから今の名に改めた(注:山城風土記による)。武内宿禰(たけしうちのすくね)が忍熊王(おしくまおう)を討った際、ここに兵を屯した(注:日本書紀による)。宇治社・宇治彼方社(うじのおちかたのやしろ、注:延喜式による)、今木嶺(いまきのみね、注:万葉集による)・朝日山があった(注:新古今和歌集による)。山には宇治墓があり(注:延喜式による)、菟道稚郎子を葬った所である(注:日本書紀による)。槙尾山(注:続後拾遺和歌集による)、三室戸山(今の三室村、一名明星山)、阿後尼原(あごにはら、今の三室村の蜻蛉野〈かげろうの〉であろう、注:万葉集による)があった。宇治川は琵琶湖に発し、西へ流れて淀川と合流し(注:山城志・国図による)、氷魚(ひお)を産して網代司(あじろのつかさ)を置いてこれを貢がせた(注:延喜式・侍中群要による)。弘安年間、僧叡尊(えいそん)が石塔を建て、網代の官符を刻んだ(注:帝王編年記による。塔は宇治橋の南にある)。宇治津(注:延喜式による)、宇治橋があった(注:続日本紀による)。嘉禄年間、宇治荘といい(注:東大寺要録による)、古くは郡家がここにあった(注:和名抄大意による)。
¶久世郡(くせぐん、一に「久勢」、また「久西」とも書く)は上郡である(注:令義解・和名抄による)。東は宇治郡に至り、西南は綴喜郡に接し、北は紀伊郡に境を接する(注:山城志・国図による)。十二郷を領する(注:和名抄による)。
¶竹淵(たかぶち。竹淵社は綴喜郡禅定寺村にあり、本郡と接している。思うにこれがその名残であろう)。
¶奈美(なみ)は高山寺本には載っておらず、その地は不詳である。
¶那羅(なら、今の上奈良村・下奈良村、綴喜郡に属し本郡と接する)には、欽明天皇の御代、帰化した高麗人を置いた(注:日本書紀による)。奈良園(注:延喜式による)、奈良野があり、天長年間に禁野と定められた(注:三代実録による)。男山(おとこやま、注:朝野群載による。類聚国史には「河内交野の雄徳山〈おとこやま〉、一名八幡山、あるいは鳩峰、また石清水」とある)に八幡宮(注:類聚三代格による)・護国寺があり(注:三代実録による)、放生川(ほうじょうがわ)があった(注:石清水御幸記による)。
¶水主(みぬし、今の水主村、綴喜郡に属し本郡の西南の境に接する)には水主氏が居住し、その一族に榎室連古麻呂(えむろのむらじこまろ)という者があって、厩戸皇子(うまやどのみこ、聖徳太子)がかつてその家を訪れた(注:姓氏録による)。水主社があった(注:延喜式による)。
¶那紀(なき、今の伊勢田村に那紀河があり、名の名残)には奈癸勝(なぎのすぐり)・奈癸私連(なぎのきさいのむらじ)が居住した(注:姓氏録による)。奈癸園(注:延喜式による)、名木川があった(注:万葉集による)。
¶宇治(うじ。高山寺本には載っていない。今、宇治町があり、川を隔てて宇治郡の宇治町と相対する)には、思うに宇治宿禰(うじのすくね)・宇治山守連(うじのやまもりのむらじ)が居住した(注:姓氏録による)。忍熊王が乱を起こした際、ここに兵を屯した(注:日本書紀による)。宇治院は源融(みなもとのとおる)の別業であったが、藤原頼通(ふじわらのよりみち)に伝わり寺として喜捨され、平等院といった(注:醍醐雑抄・花鳥余情による)。宇治川では寿永の役の際、源義経がここに軍を進めた(注:源平盛衰記による)。橘小島埼(たちばなのこじまのさき、注:古今和歌集・明衡往来・平家物語による)は佐々木高綱(ささきたかつな)らが馬で渡った所である(注:平家物語による)。藤原忠文(ふじわらのただふみ)の富家別業(ふけのべつぎょう、注:江談抄・拾芥抄による)には関白忠実(ただざね)もまた居住し(注:今鏡による)、永久三年、白河上皇が行幸した(注:百錬抄・今鏡による)。巨椋社(おぐらのやしろ、注:延喜式による)、巨椋入江(おぐらのいりえ、小倉村の西、大池と称する)は宇治川が集まる所である(注:万葉集、山城志・国図による)。真木島(まきしま、注:東鑑・金葉和歌集による)、夷島(えびすじま、注:夫木集による)があった。
¶殖栗(えぐり)は現在所在不詳。殖栗連(えぐりのむらじ)が居住した(注:姓氏録による)。
¶栗隈(くりくま。高山寺本には「栗前」とある。今、大久保村に栗隈社があり、名の名残)は、古くは栗隈県(くりくまのあがた)といった(注:日本書紀による)。栗前野では桓武・嵯峨の両天皇がしばしば遊猟し(注:類聚国史・日本後紀による)、天長年間に禁野と定められた(注:三代実録による)。栗隈山(後に栗子山、また栗籠とも書く)では仁明天皇が狩りをし(注:続日本後紀による)、栗隈天神祠があった(注:興福寺官務牒による)。栗隈渠(くりくまのみぞ、跡は長池町)は、仁徳天皇の御代に開いて田とし、推古天皇の御代にさらに浚渫した(注:日本書紀による)。
¶富野(とみの、今の富野村、郡の南)。
¶拝志(はやし、今の林村、郡の中央)。
¶久世(くせ、今の久世村、拝志の東南)には久世鷺坂(くせのさぎさか、一に鷺坂山、注:万葉集による)があった。弘安年間、久世荘といい(注:後宇多院御領目録・桃花蘂葉による)、久世川(注:山城志による)、小篠峰(おざさのみね、注:堀河百首・藻塩草による)があった。古くは郡司がここで政務をとった(注:和名抄大意による)。
¶列栗(なみくり。刊本には「羽栗」とあるが誤りである。高山寺本には載っていない。東寺の天平年間の文書に「列栗郷」とあり、延喜式には「雙栗社」とある。「列」と「雙」は訓が同じである)には並栗臣(なみくりのおみ)が居住した(注:東寺文書による)。雙栗社(なみくりのやしろ、注:延喜式による)、狭山江御厨(さやまえのみくりや、注:類聚雑要抄による)があり、後に佐山荘といった(注:太子伝玉林抄・興福寺官務牒による。今の佐山荘は十一の村からなる)。美豆牧(みずのまき、注:袖中抄・拾玉集・藻塩草による。今の御牧村)、美豆厩(注:延喜式による)があり、瑞野(みずの、「瑞」は一に「箕津」とも書く。今、御牧の西に美豆村があり、綴喜郡に属する)では桓武・嵯峨の両天皇がしばしば狩りをし(注:類聚国史による)、天長年間、禁野と定められた(注:三代実録による)。
¶綴喜郡(つづきぐん、一に「管木」、また「筒城」とも書く)は中郡である(注:令義解・和名抄による)。東は近江の栗太郡に境を接し、南は相楽郡に至り、西は河内の交野郡に連なり、北は久世・紀伊の二郡に接する(注:国図による)。十郷を領する(注:和名抄による)。
¶山本(やまもと、今の山本村、郡の南)には、和銅年間、山本駅があった(注:続日本紀による)。区毗丘(くひのおか、飯岡村、注:類聚国史による)は古くは馬咋山(うまくいやま、注:万葉集による)と称し、咋岡社(くいおかのやしろ、注:延喜式による)があった。正応年間、飯岡荘といった(注:西大寺田畠目録による。今昔物語には「飯岳」とある)。
¶多河(たか、今の多賀村、山本の東北)には高社(たかのやしろ、注:延喜式による)、贄野池(にえののいけ、注:蜻蛉日記・源平盛衰記による。「贄」は一に「新」とも書く。今、多賀の西南にあり、地蔵池と称する)があった。後に安堵荘といった(注:醍醐三宝院文書による。本書には「多賀郷安堵荘」とある)。
¶田原(たわら、今の田園郷、十五の邑、多河の東)では、天平宝字の乱に際し、国守日下部子麻呂(くさかべのこまろ)がこの地から近江へ向かった。神護景雲年間、鋳銭所を置いた(注:続日本紀による)。田原野は天長年間に禁野と定められ(注:三代実録による)、香達原(こうたつはら、注:催馬楽歌譜による)・香達池(郷口村、天長八年に開いた、注:日本紀略による)があった。田原栗林(符作村)については、世に伝えるところでは、天武天皇がかつて手ずから栗の木を二株植え、その後この実を貢ぐことが慣例となったという(注:宇治拾遺物語・山槐記による)。猿丸嶺(さるまるのみね、禅定寺村、近江に接する、注:山城名勝志による)、田原川があった(注:山城志による)。
¶中村(なかむら)は、今、中村があり、久世郡に属する。
¶志磨(しま、今の奈島村、多河の西であろう)には梨間宿(なしまのしゅく)・市野辺山(いちのべやま)があった(注:太平記・国図による)。
¶綴喜(つづき、今の普賢寺荘、十の邑、志磨の西南)には開化天皇の孫である大筒木真若王(おおつつきまわかおう)が居住した(注:古事記による)。継体天皇はここに都を遷した(注:日本書紀による)。管木原(つつきはら、注:万葉集による)・筒城岡(つつきおか)には筒城宮の跡が今も存する。仁徳天皇の皇后磐之媛(いわのひめ)がここに居住し(注:日本書紀による)、韓人の奴理能美(ぬりのみ)がここに家を構え、天皇と皇后が行幸した(注:古事記による)。朱智社(すちのやしろ、注:延喜式による)は後に朱智長岡荘といい(注:興福寺官務牒による)、普賢寺川があった(注:山城志による)。ここもまた古い郡家の所在地である(注:和名抄大意による)。
¶大住(おおすみ、今の大住村、綴喜の北)には大隅隼人(おおすみのはやと)が居住したことから名づけられた(注:続日本紀・康富記による)。嘉禎年間、大住荘(「住」は一に「隅」とも書く)・薪荘(たきぎのしょう)があった(注:東鑑・百錬抄・東大寺要録による)。甘南備山(かんなびやま、大住の西南)は水晶を産し(注:山城志・国図による)、多奈久良野(たなくらの、注:万葉集による)には棚倉孫社(たなくらひこのやしろ)があった(注:延喜式による)。伽和羅邑(かわらのむら、今の河原村)は、武埴安彦(たけはにやすひこ)が死んだ際、敗れた兵卒が甲(よろい)を脱ぎ捨てて逃げたことから名づけられた(注:日本書紀による。「甲」を訓じて「伽和羅」という)。松井村(河原の西北)では、天平神護年間、紀益女(きのますめ)をここで絞首した(注:続日本紀による)。
¶有智(うち、今の内里村、大住の北)は古くは内村(うちのむら)と称し(注:日本書紀による)、内臣(うちのおみ)が居住した(注:古事記による。「有智」と「内」は音訓が相通じる)。内社があった(注:延喜式による)。往箕里(おうみのさと、注:万葉集による)があった。
¶甲作(よろいつくり)は現在所在不詳。霊亀年間、山背甲作部(やましろのよろいつくりべ)が居住した(注:続日本紀による)。
¶余戸(あまるべ)は現在所在不詳。
¶相楽郡(さがらかぐん)は下郡である(注:令義解・和名抄による)。東は伊賀の阿拝郡に境を接し、南は大和の添上・添下の二郡に連なり、西は河内の交野郡に隣り、北は綴喜郡および近江の甲賀郡に至る(注:国図による)。七郷を領する(注:和名抄による)。
¶相楽(さがらか、今の相楽村、郡の西南)は、垂仁天皇の御代、竹野媛がここを通りかかり、樹によじ登って縊死しようとしたことから「懸木(かけぎ)」と称し、後に今の字に改めた(注:古事記による。日本書紀も参照。「懸木」と「相楽」は音訓が相通じる)。ここに郡家があった(注:和名抄大意による)。相楽社(注:延喜式による)、相楽山(注:万葉集による)、相楽頓宮(跡は枝村の東、蜻蛉平、注:江家次第による)があった。藤原百川(ふじわらのももかわ)の相楽墓、藤原氏の後相楽墓(いずれも吐師村、長塚と称する、注:延喜式による)があり、後に相楽荘といった(注:東大寺要録による)。山田寺(注:興福寺官務牒による)、鹿背山(かせやま、一に「駕世」、また「挊」とも書く、注:万葉集による)があった。橘清友(たちばなのきよとも)の加勢山墓(注:延喜式による)、円提寺(いずれも鹿背山村、注:類聚国史による)があった。
¶水泉(みずいずみ、今の木津村、甕原郷〈みかのはらごう〉に属し九つの邑)は、また「出水」とも書く(注:興福寺官務牒による)。泉川は旧名を輪韓河(わからのかわ)といい、彦国葺(ひこくにぶく)が埴安彦を討った際、河を挟んで挑みあったことから挑河(いどみがわ)と号し、後に訛って泉川といった(注:日本書紀による。今は木津川と称する)。泉川渡があり(注:中右記・続古事談による)、出水連(いずみのむらじ)が居住した(注:姓氏録による)。和銅年間、甕原離宮を置き(跡は岡崎村と井平尾村の間)、元明・聖武の両天皇がしばしば行幸した(注:続日本紀による)。後に泉荘・甕原荘に分かれた(注:東大寺文書・東大寺要録による)。国分寺(登大路村、注:続日本紀による)、海住山寺(仏生寺村、出水山と号する、注:興福寺官務牒による)があった。布当山(ふたぎやま)・布当野(井平尾村、注:万葉集による)には福当造(ふたぎのみやつこ)が居住した(注:姓氏録による)。和束山(注:万葉集による)・和束杣(わつかのそま、杣山村、注:興福寺官務牒による)、和束川(一名布当川、注:山城志による)があり、後に和束荘といった(注:北野社文書による。十五の邑からなる)。鷲峰山(じゅぶさん、綴喜郡と境を接する、注:増鏡・太平記による)があった。
¶賀茂(かも、今の賀茂郷、六つの村)は、上古、賀茂建角身命が大和の葛木山からここに遷って岡田の賀茂に居住したが、これがここである(注:山城風土記による)。岡田は後に賀茂郷・恭仁郷(くにごう)に分かれた(注:山城風土記・続日本紀・延喜式による)。和銅年間、岡田離宮があり、元明天皇がここに行幸し、岡田駅があった(注:続日本紀による)。岡田山があり、貞観年間、採銅使を置いて銭を鋳造させた(注:三代実録による。今の銭司村)。岡田鴨社があり(注:延喜式による)、後に加茂荘といった(注:扶桑略記・東大寺要録による)。岡田国社があり(注:延喜式による)、これが恭仁郷である(注:続日本紀・延喜式・山城志による)。聖武天皇が新しい宮を営み、天平十三年、ここで朝賀を受け、大養徳恭仁宮(おおやまとのくにのみや)と名づけた(注:「大養徳」とはすなわち大和のことで、中国全体の総称であるためこれを冠したもの。「恭仁」は万葉集には「久邇」と書き、また布当宮〈ふたぎのみや〉とも称する。その地は賀茂・甕原・木津・上狛の諸郷にまたがり、鹿背山西道より東を左京、西を右京とした。大路を開き、大橋を架け、東北は近江の甲賀郡に通じていたという)。天平十八年、宮を廃止し、大極殿を国分寺に施入した(注:続日本紀による)。恭仁郷もまた廃された(注:和名抄による)。寛平年間、鹿鷺郷(かさぎごう)があり(注:類聚符宣抄による)、後に笠置荘といった(注:宣胤記による。「鹿鷺」と「笠置」はわが国の読みで同じである)。延喜年間、鹿鷺園があり(注:延喜式による。今、鷲峰山の麓に園村がある)、笠置寺があった(注:今昔物語による)。後醍醐天皇がかつてここに賊を避けたことがあり、笠置山(注:太平記による)、笠置川があった(注:山城志による)。大川原社、市社があった(注:三代実録による)。
¶大狛(おおこま、今の上狛村、一名大狛)には大狛造(おおこまのみやつこ)が居住した(注:日本書紀・姓氏録による)。欽明天皇の御代、高麗の使人を高楲館(たかいのむろつみ)に住まわせたが、これがここである(注:日本書紀による。跡は上狛村)。後に狛郷といい(注:興福寺官務牒による)、また狛野荘といった(注:東大寺続要録による)。狛山(注:万葉集による)、狛済(こまのわたり)があり、土地は瓜の栽培に適していた(注:催馬楽歌譜による)。高麗寺(跡は上狛法華野、注:日本霊異記による)、泉大橋があり、僧行基が創建し泉橋寺を置いてこれを管理させた(注:三代実録・類聚三代格・行基年譜による。行基年譜には「大狛村泉橋院」とある)。天平十七年、天皇の行幸が恭仁京の泉橋に至ったのが、これである(注:続日本紀による)。
¶蟹幡(かむはた。高山寺本には載っていない。東大寺の延暦年間の文書に「蟹幡郷」とあり、今の綺田村〈かばたむら〉がこれである)には垂仁天皇の妃である刈羽田刀弁(かりはたとべ)が居住したという(注:古事記による。日本書紀には「綺戸辺」「綺苅幡」とあり、いずれも「蟹幡」と訓が通じる)。綺原社(かんばらのやしろ、注:延喜式による)、雁羽野(かりはの、注:万葉集による)があった。蟹満寺(一名紙幡寺、注:今昔物語・元亨釈書による。この二書ではともに久世郡としている)、和支社(わきのやしろ、注:延喜式による)があった。埴安彦が敗れた際、士卒がここに至り、逃れられないと悟って頭を叩いて「わが君よ」と言ったことから我君邑(あぎのむら)と名づけ(注:日本書紀による)、後に今の字に改めた(注:延喜式による)。光明山(注:東鑑・元亨釈書による)には以仁王(もちひとおう)の墓があり(注:山城志による。綺田の東南、鳥居邑)、玉井頓宮(跡は石垣村)には天平十二年、天皇の行幸があった(注:続日本紀による)。後に玉井荘といい(注:東大寺要録による。本書ではこれを綴喜郡に繋けているが、今の綴喜郡には井手荘がある)、井堤郷(いでごう)・井堤寺があり(注:興福寺官務牒による)、井手玉川(注:新古今和歌集による)、井手山があった(注:夫木集による)。
¶祝園(はふりその。高山寺本には載っていない。今の祝園村、大狛の西)は、彦国葺が輪韓河で埴安彦の軍を破り、ことごとく屠り殺して残す者がなかったことから、羽振苑(はふりその)と号した(注:日本書紀・古事記による。「羽振」とは屠るという意味であり、「祝」の字はその仮借で、いわゆる嘉名〈佳字〉を取ったものである)。祝園社があり(注:延喜式による)、後に祝園荘といった(注:北野社文書・東寺文書・西大寺田畠目録による)。
¶下狛(しもこま。高山寺本には載っていない。今の下狛村、祝園の西)は、欽明天皇の御代、高麗の俘虜をここに置いたことから名づけられた(注:三代実録による)。狛人野氏(こまひとののうじ)が居住し(注:姓氏録による)、後に下狛荘といった(注:興福寺官務牒による)。和気王(わけおう)の狛野墓があり(注:続日本紀による。下狛村)、稲八間里(いなやまのさと)がここに属した(注:興福寺官務牒・体源抄による)。これはすなわち稲蜂間連(いなはちまのむらじ)が居住した所である(注:続日本紀・興福寺官務牒による)。正応年間、稲松葉荘といった(注:西大寺田畠目録による。「八間」と「松葉」は訓が近い)。蔵満祠(くらまのほこら)があった(注:興福寺官務牒による)。