卷之第二 本紀第二

崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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崇神天皇

崇神天皇は、開化帝(かいかてい)の第二子である。母は伊香色謎(いかがしこめ)皇后。

天皇は生まれつき聡明で、幼いころから雄大な計略を備えていた。成人してからは度量が広く慎み深く、神々を篤く敬い、常に天業を経営し治めようとする志を抱いていた。開化帝の二十八年、皇太子に立てられた。六十年四月、開化帝が崩御した。十月三日乙卯、開化天皇を葬った。

元年甲申、春正月十三日甲午、天皇が即位した。時に52歳(注:年齢は水鏡・皇代記・愚管抄、および本書に皇太子に立てられたとき19歳とある記述による)。これを御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)という。皇后を尊んで皇太后とした。二月十六日丙寅、御間城姫(みまきひめ)を皇后に立てた。

三年丙戌、秋九月、都を磯城(しき)に遷した。これを瑞籬宮(みずかきのみや)という。

四年丁亥、冬十月二十三日壬午、詔してこう仰せられた。「思うに、わが皇祖の歴代天皇が皇位に光臨されたのは、どうして御一身のためであったろうか。それは人と神とをともに治め、天下を経綸するためであり、それゆえ代々深い功業を明らかにし、時とともに至徳を流布させてこられたのである。今、朕は大いなる運を受け継ぎ、万民を慈しみ育てている。どうすれば皇祖の御跡に従い、永くきわまりない皇位を保つことができようか。群卿百官よ、汝らの忠誠を尽くし、ともに天下を安んぜよ。」(注:先代旧事本紀には、この年の二月、建膽心命(たけこころのみこと)を大禰(おおね)、多辨命(たべのみこと)を宿禰、安毛建美命(やすもたけみのみこと)を侍臣とした、とある)

五年戊子、民の多くが疫病にかかり、死者は半数を超えた。

六年己丑、百姓は流浪し、中には背く者もあった。天皇はこれを憂い恐れ、神々に罪を謝した。これより先、天照大神・倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は宮殿の内に祭られていたが、この時に至って神威を穢すことを畏れ、皇女の豊鍬入姫(とよすきいりひめ)に命じて神鏡と霊剣を倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷させ、天照大神を祭らせた。別に鏡と剣を模して作り、宮殿の内に安置して、護身の御璽(みしるし)とした(注:模した鏡剣を遷したことは古語拾遺による)。また皇女の渟名城入姫(ぬなきいりひめ)に命じて大国魂神を祭らせた(注:垂仁紀の注に載る一説には、これを垂仁帝二十六年の出来事とする。その説はここと異なるが、今はいちいち注記しない)。

七年庚寅、春二月十五日辛卯、詔してこう仰せられた。「昔、わが皇祖は大いに基業を開かれ、聖なる御業はいよいよ高く、王者の教化はますます盛んであった。ところが思いがけず、朕の代になって度々災いが起こっている。おそらく朝廷に善政がなく、神々の咎めを受けているのであろう。試みに神亀に命じて、災いを招いた由縁を問い質すべきである。」そこで天皇は神浅茅原(かむあさぢはら)に行幸し、八十万(やおよろず)の神々に占いを行わせた。そして大物主神(おおものぬしのかみ)を祭った。天皇はさらに斎戒沐浴し、宮殿の内を清め、災いが消えるよう祈った。すると夢に大物主神が現れて、こう告げた。「天皇よ、なぜ国が治まらぬことを憂えるのか。もしわが子の大田田根子(おおたたねこ)に私を祭らせれば、国はたちまち治まるであろう。海外の国々も、おのずから帰服するであろう。」天皇は大いに喜び、天下に布告して大田田根子という者を探し求めた。茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)でこれを見つけた(注:古事記には河内の美努村とある)。冬十一月八日己卯(注:諸本には丁卯とあるが、今は干支を推算し、卜部兼永本によって訂正した)、伊香色雄(いかがしこお)に命じて神への奉納物を分け配らせ、大田田根子に大物主大神を祭らせた。長尾市(ながおち)には倭大国魂神を祭らせ、その後に他の神々を祭るべきか占わせたところ、吉と出た。そこで八十万の神々を別々に祭り、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)・神地(かんどころ)・神戸(かんべ)を定めた。これにより疫病はようやく収まり、年は豊作となって民も安らいだ。

八年辛卯、冬十二月二十日乙卯、大田田根子に命じて大物主神を祭らせ、天皇自らその場に臨んだ。祭りが終わると、神宮で宴を催した。

九年壬辰、夏四月十六日己酉、天皇は夢のお告げを感じて、墨坂神(すみさかのかみ)・大坂神(おおさかのかみ)を祭った。

十年癸巳、秋七月二十四日己酉、詔してこう仰せられた。「民を導く根本は、教化にある。今すでに神々を礼をもって祭り、災害はことごとく収まった。しかし遠方の荒々しい人々は、いまだ王化に浴していない。群卿を選んで四方に遣わし、朕の意を知らしめよ。」九月九日甲午、大彦命(おおひこのみこと)を北陸に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)を西道に、丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)を丹波に遣わし、命じてこう仰せられた。「教えを受け入れない者があれば、兵を挙げてこれを討て。」そしてともに印綬を授け、将軍とした。将軍という呼称はここに始まる(注:将軍の称がここに始まることは職原鈔・神皇正統記による。古事記には、大彦命を高志道(こしのみち)に、武渟川別命を東方十二道に遣わして従わない者を平定させ、また彦坐王(ひこいますのみこ)を丹波に遣わして玖賀耳御笠(くがみみのみかさ)を殺させたとあり、彦五十狭芹彦命・丹波道主命については記載がなく、本書と異なる)。出発しようとしたとき、ちょうど武埴安彦(たけはにやすびこ)が謀反を起こし、妻の吾田媛(あたひめ)とともに帝都を襲おうとした。そこで大彦命・彦五十狭芹彦命・彦国葺(ひこくにぶく)にこれを討たせた。武埴安彦・吾田媛は誅殺された。冬十月乙卯朔、群臣に詔してこう仰せられた。「謀反人はすでに誅せられ、畿内は無事となった。ただ海外の荒々しい風俗の地では、なお騒動が止んでいない。四道将軍は速やかに出発せよ。」二十二日丙子、大彦命らはそれぞれ四方の道へ赴いた。

十一年甲午、夏四月二十八日己卯、四道将軍が戎夷(じゅうい、異民族)を平定した様子を奏上した。この年、異俗の者たちも帰順し、国内は安寧となった。

十二年乙未、春三月十一日丁亥、詔してこう仰せられた。「朕は初めて天位を継ぎ、宗廟を保つことができたが、明知には至らぬところがあり、徳もまだ民を安んずるに足りない。それゆえ陰陽の巡りが乱れ、寒暑の順序も乱れ、疫病が大いに起こり、百姓は災いを被った。そこで今、罪を解き過ちを改め、篤く神々を敬い、教えを垂れて荒々しい風俗を安んじ、兵を挙げて従わぬ者を討ってきた。これにより官には廃れた事がなく、民には怠ける者もなくなり、教化は広く行われ、人々は生業を楽しみ、異俗の民も言葉を重ねて通訳を介し、海外からも帰化する者が現れた。ちょうどこの時にあたり、あらためて人民を調べ、長幼の順序、および課役の先後を知らしめるべきである。」秋九月十六日己丑、初めて人民を調べ、あらためて調(みつぎ)・役(えだち)を課した。これを男の弭調(ゆはずのみつぎ)、女の手末調(たなすえのみつぎ)という。この頃になると、神々は和らぎ祭りを享(う)け、風雨は時にかない、五穀は実り、家々は富み人々は満ち足りて、天下は太平となった。そこで天皇を称えて、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と申し上げた。

十七年庚子、秋七月丙午朔、詔してこう仰せられた。「船は天下にとって役に立つ器物である。しかし今、海辺の民は船を持たず、陸路の運搬に大いに苦しんでいる。諸国に命じて船舶を造らせよ。」冬十月、初めて船舶を造った(注:皇代記・皇年代略記・歴代皇紀・濫觴抄はいずれも、十四年丁酉に伊豆国が巨船を献上したとする。歴代皇紀はまた、この御代に初めて人民に名を付け、衣冠の制度を定め、酒酢や橋・車を造ったとする。何によったものか明らかでないが、付記して参考に備える)。

四十八年辛未、夏四月十九日丙寅、活目尊(いくめのみこと)を皇太子に立て、豊城命(とよきのみこと)に東国を治めさせた。

六十年癸未、秋七月、詔して出雲に使者を遣わし、神宝を求めさせた。出雲振根(いずものふるね)は弟の飯入根(いいいりね)を殺した。彦五十狭芹彦命・武渟川別を遣わして振根を討たせた。振根は誅殺された。

六十二年乙酉、秋七月二日丙辰、詔してこう仰せられた。「農は天下の大本であり、民が頼って生きる術である。今、河内の狭山(さやま)では、埴田(はにた)の水が少なく、百姓は農事を怠りがちである。多くの池や溝を開いて、民の生業を豊かにせよ。」冬十月、依網池(よさみのいけ)を造った。十一月、苅坂池(かりさかのいけ)・反折池(さかおりのいけ)を造った(注:本書の注に載る一説には、天皇は桑間宮(くわまのみや)におられ、この三つの池を造らせた、とある)。

六十五年戊子、秋七月、任那国(みまなのくに)が初めて使者を遣わして朝貢した(注:水鏡・皇年代略記、および熊野略記が引く古今皇代図はいずれも、この年初めて熊野本宮を造ったとする)。

六十八年辛卯、冬十二月五日壬子、天皇が崩御した。御年119歳(注:年齢は水鏡、および本書に皇太子に立てられたとき19歳とある記述による。本書・先代旧事本紀はいずれも120歳とする。古事記には168歳とあり、戊寅の年の十二月に崩じたとする)。山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬った。追って崇神天皇と諡した。

垂仁天皇

垂仁天皇は、崇神帝の第三子である。母は御間城姫皇后。

崇神帝の二十九年正月己亥朔、瑞籬宮でお生まれになった。生まれながらにして人並み優れた資質を備えていた。成人してからは、度量が大きく屈託がなく、生まれつきの性質のままに飾らぬ人柄であった。崇神帝はこれを愛し、常にそば近くに置いた。

四十八年正月、崇神帝は天皇と豊城命に、こう仰せられた。「朕は二人の子に対して、慈しみに差はない。どちらを跡継ぎとすべきか分からぬ。もし夢を見たならば申せ。朕はその夢によって占おう。」二人の皇子は沐浴して眠りについた。翌日、豊城命が参内してこう奏上した。「夢に御諸山(みもろやま)に登り、東に向かって槍を振るうこと八度、刀を撃つこと八度いたしました。」天皇はこう奏上した。「夢に御諸山の頂に登り、四方に縄を張り巡らせ、粟をついばむ雀を追い払っておりました。」崇神帝はこれを聞いてお諭しになった。「兄はただ東に向かったのみゆえ、東国を治めるがよい。弟は四方に臨んだゆえ、朕の位を継ぐがよい。」そしてついに皇太子に立てた。

六十八年十二月、崇神帝が崩御した。

元年壬辰、春正月二日戊寅、天皇が即位した。時に41歳(注:年齢は本書に崇神帝の二十九年に生まれたとある記述による。水鏡・愚管抄・皇年代記は43歳とするが、誤りである)。これを活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)という。冬十月十一日癸丑、崇神天皇を葬った(注:本書の崇神紀には、八月甲寅に葬ったとあり、いずれかに誤りがあるはずだが、どちらが正しいかは分からない)。十一月二日癸酉、皇后を尊んで皇太后とした。

二年癸巳、春二月九日己卯、狭穂姫(さほひめ)を皇后に立てた。冬十月、都を纏向(まきむく)に遷した。これを珠城宮(たまきのみや)という。この年、任那の使者が帰国を願い出た。これを許し、格別に厚く物を与え、任那王に赤絹百匹を賜った。新羅人が道中を襲ってこれを奪ったため、両国はこのとき初めて怨みを構えることになった。

三年甲午、春三月、新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)が帰化した。

五年丙申、冬十月己卯朔、来目高宮(くめのたかみや)に行幸した。皇后の兄・狭穂彦(さほびこ)が謀反を起こした。将軍の八綱田(やつなだ)にこれを討たせた。狭穂彦は誅殺され、皇后もその城中で亡くなった。

七年戊戌、秋七月七日乙亥、当麻邑(たいまのむら)の人・蹶速(けはや)と、出雲の人・野見宿禰(のみのすくね)を召して、力比べをさせて御覧になった。

十五年丙午、秋八月壬午朔、日葉酢媛(ひばすひめ)を皇后に立て、その妹三人の渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)・真砥野媛(まとのひめ)・筋瓊入媛(あざみにいりひめ)を召し入れて、いずれも妃とした(注:水鏡には、この月、星が雨のように降ったとある)。

二十五年丙辰、春二月八日甲子、武渟川別(たけぬなかわわけ)・彦国葺(ひこくにぶく)・大鹿島(おおかしま)・十千根(とおちね)・武日(たけひ)の五人の大夫に、こう詔した。「わが先の天皇は、深い叡智をもって聖徳を成し、聡明で物事に通じ、謙り退いて驕らず、政務のはかりごとに心を尽くし、礼をもって神々を祭り、己を慎んで日々励んでこられた。それゆえ人民は富み足り、天下は太平であった。今、朕の代にあたり、神々を祭ることに、どうして怠りがあってよかろうか。」(注:先代旧事本紀には、二十三年八月、十市根命(とおちねのみこと)を大夫としたとある)三月十日丙申、倭姫(やまとひめ)に豊鍬入姫に代わって天照大神を斎(いつ)き奉らせた。倭姫は天照大神を奉じて伊勢に祠を建て、五十鈴川(いすずがわ)のほとりに斎宮(いつきのみや)を建てた(注:本書の注に載る一説には、倭姫命は天照大神を奉じて、磯城(しき)の厳橿(いつかし)のもとに鎮座させて祭ったが、その後神のお告げに従い、丁巳の年の冬十月に伊勢国の渡遇宮(わたらいのみや)に遷した、とある)。

二十六年丁巳、秋八月三日庚辰、物部十千根(もののべのとおちね)を遣わし(注:先代旧事本紀によれば、八十一年に十千根命は物部連公の姓を賜ったとある。しかし本書のこの条ではすでに物部大連と記しており、姓を賜った後のことのように見える。あるいは後から遡って書いたものであろうか。今はひとまず本書の旧文に従う)、出雲の神宝を検分させ、そのままこれを管理させた。

二十七年戊午、秋八月七日己卯、祠官(かんづかさ)に、兵器を祭りの幣(ぬさ)とすべきかを占わせたところ、吉と出た。そこで弓・矢・刀を諸社に納め、あらためて神地・神戸を定めて、時節ごとに祭らせた。兵器をもって神を祭ることは、これに始まる。この年、来目邑(くめのむら)に屯倉(みやけ)を置いた。

二十八年己未、冬十月五日庚午、倭彦命(やまとひこのみこと)が薨じた。近習の者たちを集めて殉死させた。天皇はこれを聞いて心を痛め、群卿に詔してこう仰せられた。「生きているときに愛された者が、死んで殉じさせられるとは、なんと痛ましいことか。たとえ古くからの遺風であっても、どうしてこれに従い続けてよいものか。今後はこれをやめよ。」

三十二年癸亥、秋七月六日己卯、皇后の日葉酢媛が崩じた。詔して、「土で物の形を作り、殉死に代えるものとし、これを永久の制度とせよ」と仰せられた。野見宿禰を土部(はじべ)の職に任じた。建真利根命(たけまりねのみこと)は石棺を献上し、石作大連公(いしつくりのおおむらじのきみ)の姓を賜った(注:建真利根命以下は新撰姓氏録による)。

三十四年乙丑、春三月二日丙寅、山背(やましろ)に行幸した。

三十五年丙寅、秋九月、皇子の五十瓊敷命(いにしきのみこと)を河内に遣わし、高石池(たかしのいけ)・茅渟池(ちぬのいけ)を造らせた。冬十月、倭狭城池(やまとのさきのいけ)・跡見池(とみのいけ)を造った(注:古事記には、血沼池(ちぬのいけ)・狭山池(さやまのいけ)・高津池(たかつのいけ)を造ったとある)。この年、諸国に命じて池や溝を合わせて八百カ所開かせ、農事を勧めたところ、民はこれによって大いに富み栄えた。

三十七年戊辰、春正月戊寅朔、大足彦尊(おおたらしひこのみこと)を皇太子に立てた。

三十九年庚午、冬十月、五十瓊敷命は剣千口(せんこう)を作り、石上神宮(いそのかみじんぐう)に納めた。天皇はそこで五十瓊敷命に命じて神宮の宝物を管理させ、河上部(かわかみべ)を定めた(注:河上部を定めたことは古事記による)。

八十七年戊午、春二月五日辛卯、物部十千根を五十瓊敷命に代えて、石上の神宝を管理させた(注:歴代皇紀・濫觴抄はいずれも、八十六年に初めて漢に使者を遣わしたとする。これはおそらく後漢書光武紀の、中元二年に倭奴国が使者を遣わして朝貢したという記述に基づくものであろう。しかし倭国伝を調べると、倭奴国が貢物を奉り、使者が自ら大夫と称した、倭国の最南端の地である、とある。してみれば、それは辺境の邑が私的に通交したものであって、朝廷が命じたものでないことは明らかである。ゆえにこの説は採らない)。

八十八年己未、秋七月十日戊午、但馬(たじま)に使者を遣わして清彦(きよひこ)に詔し、その曾祖父・天日槍が持ち渡った宝物を献上させ、これを官の蔵に納めた。

九十年辛酉、春二月庚子朔、田道間守(たじまもり)を遣わし、常世国(とこよのくに)に非時香果(ときじくのかくのこのみ)を求めさせた。

九十九年庚午、秋七月戊午朔(注:今、干支を推算すると、七月は乙巳朔で、戊午は十四日にあたる。脱字誤りがあるのではないかと思われる。先代旧事本紀は戊子朔とするが、これも誤りである)、天皇は纏向宮(まきむくのみや)で崩御した(注:本書の景行紀には、春二月に崩じたとあり、これと異なるが、どちらが正しいかは分からない)。御年139歳(注:本書・先代旧事本紀はいずれも140歳とする。本書によれば、帝は崇神帝の二十九年壬子にお生まれになったとあるので、庚午の年まで数えれば、実際には139歳であり、ちょうど一年の差がある。古事記には153歳とある)。菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬った(注:延喜式には伏見東陵とある。古事記には菅原御立野(すがわらのみたちの)、続日本紀には櫛見山陵(くしみやまのみささぎ)とある)。追って垂仁天皇と諡した。

景行天皇

景行天皇は、垂仁帝の第三子である。母は日葉酢媛皇后。

天皇は身の丈一丈二寸、脛の長さ四尺一寸であったという(注:身長についての記述は古事記による)。

垂仁帝の三十年、天皇は兄の五十瓊敷命とともに帝のそば近くに仕えていた。帝は、こう仰せられた。「二人の子は、それぞれ望むところを言うてみよ。」五十瓊敷命は、「弓矢を頂きとうございます」と申し上げた。天皇は、「皇位を得とうございます」と申し上げた。そこで弓矢は五十瓊敷命に賜り、天皇には、「汝は必ず朕の位を継ぐがよい」と仰せられた。

三十七年、皇太子に立てられた。

九十九年七月、垂仁帝が崩御した。十二月十日壬子、垂仁天皇を葬った。

元年辛未、秋七月十一日己卯、天皇が即位した(注:愚管抄には44歳、皇代記には64歳、皇年代略記には24歳とあるが、何によったものか分からない。今、本書に皇太子に立てられたとき21歳とある記述から推せば、この時84歳となる。しかし本書に崩年106歳とある記述とは合わないため、即位当時の年齢は記さない)。これを大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)という(注:先代旧事本紀には、皇后を尊んで皇太后としたとある。ただし本書によれば、垂仁帝の三十二年に皇后の日葉酢媛が崩じた後、皇后を立てたという記述がない。先代旧事本紀の記すところが誰を指すのか分からない。また先代旧事本紀では孝元帝以後、皇后を尊んで皇太后とした記述の下に、必ず皇太后を尊んで太皇太后とすると書いているが、太皇太后という称号は本書にはまったく見当たらない。おそらく後人が誤って書き加えたものであろうから、今は採らない)。この年、田道間守が常世国で香果(かぐのみ)を得て帰国した。

二年壬申、春三月三日戊辰(注:先代旧事本紀には二月とある)、播磨稲日太郎媛(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后に立てた。

三年癸酉、春二月、紀伊に行幸して自ら神々を祭ろうとした。占ったところ、不吉と出た。そこで屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わして祭らせた。

四年甲戌、春二月十一日甲子、美濃に行幸した。冬十一月庚辰朔、御車は美濃から都へ帰った。纏向に都し、これを日代宮(ひしろのみや)という。

十二年壬午、秋七月、熊襲(くまそ)が背いた。八月十五日己酉、御車は自ら親征した。九月五日戊辰、周芳(すおう)の娑磨(さば)に宿営した。天皇は南を望み、群卿にこう仰せられた。「煙が盛んに立ち上っている。賊は必ずここにいるであろう。」まず武諸木(たけもろき)・菟名手(うなで)・夏花(なつはな)を遣わして様子を窺わせた。神夏磯媛(かむなつそひめ)という女がおり、従う者が最も多かったが、使者が来たと聞くと、八尺瓊(やさかに)・八握剣(やつかのつるぎ)・八咫鏡(やたのかがみ)を捧げて出迎え降伏した。そして、こう告げた。「わが一族は今すでに御恩に帰服いたしました。どうか兵をお下しになりませぬよう。ほかに四人の賊がおります。菟狭川(うさがわ)の上流に住むのは鼻垂(はなたり)、御木川(みけがわ)の上流に住むのは耳垂(みみたり)、高羽川(たかはがわ)の上流に住むのは麻剝(あさはぎ)、緑野川(みどりのがわ)の上流に住むのは土折猪折(つちおりいおり)と申します。それぞれ要害に拠って守りを固め、皇命を拒んでおります。どうか急ぎこれをお討ちください。」そこで武諸木らは麻剝を誘って降伏させ、赤い衣袴やさまざまな品物を与えて褒美とし、残る三人の賊を招き降らせようとしたが、応じないまま至った者はことごとく誅殺した。天皇は豊前の長峡県(ながおのあがた)まで進み、行宮を造ってそこに滞在した。冬十月、天皇は碩田国(おおきたのくに)に至った。速見邑(はやみのむら)に速津媛(はやつひめ)という女がおり、邑の長であった。参上してこう告げた。「鼠石窟(ねずみのいわや)には青(あお)・白(しろ)という二人の土蜘蛛がおります。直入県(なおりのあがた)の禰疑野(ねぎの)には打猿(うちさる)・八田(やた)・国摩侶(くにまろ)という三人の土蜘蛛がおります。いずれも力強く、従う者も多うございます。皆『皇命には従わぬ』と申しております。もし強いて召し出せば、兵を興して抵抗するでしょう。」天皇はこれを憎み、来田見邑(くたみのむら)に軍を駐めて、仮に宮室を興してそこに滞在した。群臣と、こう議った。「今、大軍をもって彼らに臨めば、山野に逃げ隠れて、必ず後々の禍いとなるであろう。」そこで海石榴(つばき)の木で椎(つち)を作らせ、精鋭の兵を選んでこれを授けた。山を切り開き草むらを押し分けて、まっすぐに石窟を襲い、稲葉川の上流でこれを破り、青・白の二賊をことごとく殺した。さらに進んで禰疑山(ねぎやま)に至り、打猿を討った。賊は山に拠って雨のように矢を射かけた。天皇は城原(きのはる)に引き返し、水のほとりで占わせ、兵を率いてまず八田を禰疑野で撃ち、これを破った。打猿らは恐れおののいて降伏を願い出た。これを聞き入れず、皆は崖や谷に身を投げて死んだ。はじめ天皇が柏峡(かしわお)の大野に宿営したとき、長さ六尺の巨石があった。天皇は、こう祝(ちか)いを立てた。「私が土蜘蛛を滅ぼすことができるならば、この石を柏の葉のように蹴り上げよ。」そして蹴ってみると、果たしてその言葉の通りになった。それゆえ、その石を蹈石(ほみし)と名づけた。十一月、日向に行幸し、行宮を建てた。これを高屋宮(たかやのみや)という。

十二月五日丁酉、熊襲討伐について議した。群卿に詔してこう仰せられた。「朕が聞くところでは、襲国(そのくに)には厚鹿文(あつかや)・迮鹿文(さかや)という賊の頭領がおり、醜い一党が甚だ多く、これを熊襲の八十梟帥(やそたける)と呼び、その勢いは防ぎがたいという。兵が少なければ賊を滅ぼすには足りず、多ければ百姓が害を被る。どうにかして刃を借りずに、座したままその国を平定することはできぬものか。」その時、一人の臣が進み出てこう申し上げた。「熊襲の梟帥には二人の娘がおり、市乾鹿文(いちふかや)・市鹿文(いちかや)と申します。勇ましく、また美しゅうございます。手厚い贈り物で誘い、召し入れて、彼女らに計略を図らせるのがよろしいでしょう。」天皇はこれに従い、二人の娘を招き入れ、表向きは市乾鹿文を寵愛した。やがて市乾鹿文はこう奏上した。「熊襲が従わぬことをご心配なさいませぬよう。妾に良い計略がございます。」そして一、二人の兵を連れて実家に帰り、父に醇酒(うまざけ)を飲ませ、酔って寝入ったのを見計らって、密かに弓の弦を断ち切った。従っていた者が進んでこれを殺した。天皇はその親不孝を憎み、市乾鹿文を誅殺し、妹の市鹿文を火国造(ひのくにのみやつこ)に与えた。

十三年癸未、夏五月、襲国(そのくに)はことごとく平定された(注:皇代記・皇年代略記・歴代皇紀・濫觴抄はいずれも、この月に諸国の民に姓を賜ったとする。付記して参考に備える)。

十七年丁亥、春三月十二日己酉、子湯県(こゆのあがた)の丹裳小野(にものおの)に行幸し、東を望んで都を懐かしく思い、歌をお詠みになった。これを思邦歌(くにしのびうた)という。

十八年戊子、春三月、天皇は都へ向かおうとして、筑紫国を巡狩した。夷守(ひなもり)に至ると、諸県君(もろかたのきみ)の泉媛(いずみひめ)が食事を献上した。夏四月三日甲子、熊県(くまのあがた)に至り、熊津彦(くまつひこ)の兄弟を召した。兄の熊は命に応じたが、弟の熊は参上しなかった。兵を遣わしてこれを誅した。十一日壬申、海を渡って葦北(あしきた)の小島に泊まり食事をとろうとし、小左(おひだり)に水を汲ませようとした。島には元来水がなかったが、小左が神々に祈ると、冷たい泉がたちまち湧き出したので、これを汲んで献上した。そこでこれを水島(みずしま)と名づけた。五月壬辰朔、火国(ひのくに)に至った。六月三日癸亥、玉杵名邑(たまきなのむら)に至り、土蜘蛛の津頰(つつら)を誅した。十六日丙子、阿蘇国(あそのくに)に至った。秋七月四日甲午、御木国(みけのくに)に至り、高田(たかた)の行宮に滞在した。七日丁酉、八女県(やめのあがた)に至った。八月、浮羽邑(うきはのむら)に至った。

十九年己丑、秋九月二十日癸卯、天皇は日向から都にお帰りになった。

二十年庚寅、春二月四日甲申、五百野皇女(いおのひめみこ)を遣わして天照大神を祭らせた。

二十五年乙未、秋七月三日壬午、武内宿禰(たけのうちのすくね)を北陸および東方諸国に遣わし、地形や民の風俗を視察させた。

二十七年丁酉、春二月十二日壬子、武内宿禰が東国から帰った。秋八月、熊襲が再び背いた。冬十月十三日己酉、皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に熊襲を討たせた(注:先代旧事本紀は二十年のこととするが、おそらく誤りである)。十二月、日本武尊は川上梟帥(かわかみのたける)を誅殺し、残党もことごとく平定された。

二十八年庚戌、春二月乙丑朔、日本武尊が帰り、賊を平定した様子を奏上した。

四十年庚戌、夏六月、東夷(あずまえびす)が背いた。秋七月十六日戊戌、天皇は自ら斧鉞(ふえつ)を日本武尊に授けてこれを征伐させた。吉備武彦(きびのたけひこ)・大伴武日(おおとものたけひ)がこれに従った。皇子の大碓命(おおうすのみこと)を美濃に封じた。冬十月、日本武尊は都を出発した。

四十三年癸丑、東夷はことごとく平定された。日本武尊は帰路、伊勢の能褒野(のぼの)に至って病にかかり、捕虜を神宮に献じた。吉備武彦に命じて都に勝利を奏上させたが、間もなく薨じた。天皇はこれを悼み惜しみ、その功名を記録にとどめさせ、武部(たけるべ)を定めた。

五十一年辛酉、春正月七日戊子、群卿を召して数日にわたり宴を催した。秋八月四日壬子、稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)を皇太子に立て、武内宿禰を棟梁(とうりょう)の臣とした。日本武尊が献上した蝦夷(えみし)は、騒がしく無礼であったため神宮に近づけることができず、御諸山(みもろやま)のほとりに移すよう命じた。ところが夷(えびす)の虜どもは木を伐り倒して民を脅かした。そこで詔してこう仰せられた。「蝦夷はもとより獣のような心を持ち、中国(なかつくに)に住まわせがたい。その習性に従って、畿外に分けて住まわせるがよい。」そこで播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波に分けて放った(注:「伊予」は諸本に「伊勢」とあるが、今は兼永本によって訂正した)。

五十二年壬戌、夏五月四日丁未、皇后の播磨稲日太郎姫が崩じた。秋七月七日己酉、八坂入媛(やさかいりひめ)を皇后に立てた。

五十三年癸亥、秋八月、天皇は伊勢に行幸し、転じて東海に入った。冬十月、上総(かずさ)に至り、海路から淡水門(あわのみなと)に着いた。十二月、伊勢に帰り、綺宮(かにはたのみや)に滞在した。

五十四年甲子、秋九月十九日己酉、伊勢から帰り、纏向宮に滞在した。

五十五年乙丑、春二月五日壬辰、彦狭島王(ひこさしまのみこ)を東山道十五国の都督(ととく)に任じた。彦狭島王は道中で薨じた。

五十六年丙寅、秋八月、御諸別王(みもろわけのみこ)に父の彦狭島王の職を継がせた。当時、蝦夷が騒乱を起こしていたが、御諸別王がこれを討ち平定した。

五十七年丁卯、秋九月、坂手池(さかてのいけ)を造った。冬十月、諸国に命じて田部(たべ)や屯倉を置かせた。

五十八年戊辰、春二月十一日辛亥、近江に行幸した。志賀(しが)に滞在し、これを高穴穂宮(たかあなほのみや)という(注:熊野略記が引く古今皇代図には、この年熊野新宮を造ったとある。帝王編年記はこれを二十年のこととし、水鏡は年を記していない。付記して参考に備える)。

六十年庚午、冬十一月七日辛卯、天皇は高穴穂宮で崩御した(注:水鏡には143歳とあるが、これはおそらく本書に皇太子に立てられたとき21歳とある記述から推算したものであろう。しかし本書・先代旧事本紀はいずれも106歳とする。本書の記述は前後で矛盾するため、享年を記さない。古事記には137歳とある)。倭山辺道上陵(やまとのやまのべのみちのえのみささぎ)に葬った。追って景行天皇と諡した。

成務天皇

成務天皇は、景行帝の第四子である。母は八坂入媛皇后(注:水鏡には、天皇は容貌が立派で大きく、身の丈一丈あったとある)。

景行帝の五十一年正月、群臣を集めて宴を催した。天皇と武内宿禰は参内しなかった。理由を問われると、こう答えた。「宴遊の日には、百官が遊び怠けて、心はきっと警備に向かないものです。よからぬ者がその隙を窺うことを恐れましたゆえ、門の下に控え、不測の事態に備えておりました。」帝はこれを褒めた。八月、皇太子に立てられた(注:本書には四十六年に皇太子に立てられたとあるが、景行紀の五十一年正月の条には皇子と記され、八月壬子の条に皇太子に立てたと記されている。その記述は明確であり、他に確かな考証はないものの、事実を動かすことはできない。今は景行紀の記述に従う)。

六十年十一月、景行帝が崩御した。

元年辛未、春正月五日戊子、天皇は高穴穂宮で即位した(注:高穴穂宮とすることは古事記・先代旧事本紀による。水鏡・愚管抄・皇年代略記はいずれも、時に49歳とする。皇代記は48歳とする。どちらが正しいかは分からない)。これを稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)という。

二年壬申、冬十一月十日壬午、景行天皇を葬った。皇后を尊んで皇太后とした(注:皇后を尊んだことを、先代旧事本紀は元年のこととする)。

三年癸酉、春正月七日己卯、武内宿禰を大臣(おおおみ)とした。大臣という官がここに始まる(注:大臣がここに始まることは公卿補任・神皇正統記による。先代旧事本紀には、懿徳朝以来、出雲色命を大臣としたことをはじめ、大臣に任じた記述が多く見えるが、本書には載っていないので、今は採らない)。

四年甲戌、春二月丙寅朔、詔してこう仰せられた。「わが先の天皇は聡明にして神のごとき武徳をもち、天命を受けて図籙(とろく)を膺(う)け、天に従って人を治め、乱れを正して世を治め、その徳は天地を覆う恩沢に等しく、道は造化の理にかなっていた。それゆえ、天下のあらゆる土地に王臣とならぬ者はなく、気を稟(う)け霊を懐く者はみな、それぞれふさわしい所を得ていた。朕は宝祚(ほうそ)を継いでからというもの、朝な夕なに慎み恐れているが、それでも民は愚かしく騒がしく、荒々しい心を改めようとしない。これは国や郡に君長がなく、県や邑に首渠(しゅうきょ、かしら)がいないためである。今より以後、国や郡には長を立て、県や邑には首(おびと)を置き、その国に才幹のある者を選んで任じ、中つ国(なかつくに)を守る藩屏(はんぺい)とせよ。」

五年乙亥、秋九月、国や郡には造長(みやつこのかみ)を立て、県や邑には稲置(いなぎ)を置かせ、あわせて楯や矛を賜って印(しるし)とした。山や河を境として国や県を分け、田のあぜ道に従って邑や里を定めた。東西を日縦(ひたて)、南北を日横(ひよこ)とし、山の南側を影面(かげとも)、山の北側を背面(そとも)と呼んだ。これにより百姓は安らかに暮らし、天下は無事となった。

四十八年戊午、春三月庚辰朔、甥にあたる足仲彦(たらしなかつひこ)を皇太子に立てた(注:古事記には、帝は建忍山垂根(たけおしやまたりね)の娘の弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶り、和訶奴気王(わかぬけのみこ)を生んだとある。しかし本書・先代旧事本紀・仲哀紀、および水鏡・皇年代略記などの諸書はいずれも、帝には男子がなく、また后妃を娶ったという記述もないとする。古事記の記すところは事実として確かめる術がないので、今は採らない)。

六十年庚午、夏六月十一日己卯、天皇が崩御した(注:本書には107歳とある。古事記には95歳とあり、その注には乙卯の年三月十五日に崩じたとある。水鏡には109歳とある。本書の紀の冒頭には、景行帝の四十六年に皇太子に立てられたとき24歳であったと書かれており、ひとまずこの記述から推せば98歳となる。しかしその記述は根拠として頼りがたいことは上に述べた通りである。今、景行紀の五十一年に皇太子に立てられたとき24歳とする記述で計算すれば、93歳となる。いずれも107歳という記述とは合わない。今はどちらとも決めがたいため、享年を記さない)。倭狭城盾列陵(やまとのさきのたたなみのみささぎ)に葬った(注:延喜式には狭城盾列池後山陵とある)。追って成務天皇と諡した。