卷之八十六 列傳第十三
皇子一
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次104
- 【神武】四子
- 手研耳命
- 神八井耳命
- 彥八井耳命
- 岐須美美命
- 【安寧】二子
- 息石耳命
- 磯城津彥命
- 【懿德】一子
- 武石彥奇友背命
- 【孝昭】一子
- 天足彥國押人命
- 【孝安】一子
- 大吉備諸進命
- 【孝靈】四子
- 日子刺肩別命
- 彥五十狄芹彥命
- 彥狹島命
- 稚武彥命
- 吉備武彥命
- 【孝元】四子
- 大彥命
- 少名日子建豬心命
- 彥太忍信命
- 武埴安彥命
- 【開化】三子
- 彥湯產隅命
- 彥坐王
- 建豐波豆羅和氣命
- 【崇神】六子
- 彥五十狹茅命
- 倭彥命
- 五十日鶴彥命
- 豐城入彥命
- 八綱田
- 彥狹島王
- 大入杵命
- 八坂入彥命
- 【垂仁】十一子
- 譽津別命
- 五十瓊敷入彥命
- 大中津日子命
- 稚城瓊入彥命
- 鐸石別命
- 池速別命
- 祖別命
- 五十日足彥命
- 膽武別命
- 磐衝別命
- 袁邪辨王
- 【景行】五十四子
- 櫛角別王
- 大碓皇子
- 日本武尊
- 五百城入彥皇子
- 稚倭根子皇子
- 大酢別皇子
- 五十狹城入彥皇子
- 吉備兄彥皇子
- 神櫛皇子
- 稻背入彥皇子
- 武國凝別皇子
- 日向襲津彥皇子
- 國乳別皇子
- 國背別皇子
- 豐戶別皇子
- 豐國別皇子
- 五十功彥命
- 真若王
- 彥人大兄王
- 大江王
- 豐門入彥命
- 稚屋彥命
- 武國皇別命
- 真稚彥命
- 天帶根命
- 大曾色別命
- 五十河彥命
- 石社別命
- 大稻背別命
- 武押別命
- 不知來入彥命
- 曾能目別命
- 十市入彥命
- 襲小橋別命
- 色已焦別命
- 熊津彥命
- 息前彥人大兄水城命
- 熊忍津彥命
- 櫛見皇命
- 武弟別命
- 草木命
- 稚根子皇子命
- 兄彥命
- 手事別命
- 大我門別命
- 豐日別命
- 三川宿彌命
- 豐手別命
- 倭宿禰命
- 豐津彥命
- 五百木根命
- 弟別命
- 大焦別命
【神武】四子
¶皇族の制度では、天皇の子は親王、天皇の孫は二世王とされ、三世・四世・五世に至るまで、みな諸王と称され、それぞれに位階が定められた。これはおそらく大宝令によって定められたものであろう。上古の世は風俗が素朴で、称号もまだ十分に整っていなかった。しかし将帥の任や国・県の統治には、多く帝の子や王の孫が選ばれてこれに当たった。皇室を守り、天下を鎮撫したその働きは、まことに盛んなものであったといえよう。時代が下って中葉以降になると、摂関の権勢が日々重くなり、親王・諸王はもはや政務に関わらなくなった。あるいは姓を賜って臣籍に降る者もあり、あるいは出家して仏門に入る者もあった。親王が諸国の太守を領することがあっても、それはみな遙任の官にすぎず、実務はすべて上佐(次官)に委ねてこれを主らせた。他の官職を帯びていても、それもまた名ばかりのものであった。後醍醐天皇の朝に至って、軍事・国政に事多く、反乱が盛んに起こると、皇子たちはみな元帥・上将の任を受け、勤めを尽くして回復・招討の策を行った。皇族の貴い身をもって特別の勲功を立てたことは、日本武尊(やまとたけるのみこと)以来かつてなかったことであり、これもまた世の変化を見るべき事例であろう。春日(かすが)・岡宮(おかのみや)・崇道盡敬(すどうじんきょう)・崇道天皇(すどうてんのう)のような方々は、いずれも追尊の尊号によるものであり、これをもって特に書き記す崇重の意を示す。ここに皇子伝を作る。
手研耳命
¶神武天皇には五人の皇子があった。皇后の媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)は、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)(注:『古事記』による。本書には「日子八井」とあるが、今は『姓氏録』に従う。『旧事紀』を見ると第四子とされ、母の名は記されていない。『姓氏録』はこれを神八井耳命の子とするが、何に拠ったものか未詳である)、神八井耳命(かんやいみみのみこと)、綏靖(すいぜい)天皇を生んだ。妃の吾平津媛(あひらつひめ)は、手研耳命(たぎしみみのみこと)(注:『日本紀』『古事記』による)、岐須美美命(きすみみのみこと)(注:『古事記』による)を生んだ。
神八井耳命
¶手研耳命は日向(ひゅうが)で生まれ、帝(神武天皇)の東征に従った。紀伊(きい)の熊野邑(くまののむら)に至ったとき、海上で暴風に遭い、多くの人や船が漂流し沈んだ。帝と手研耳命だけは無事であった。(神武天皇)七十六年の春、帝が崩じ、太子は諒闇(りょうあん、喪に服する期間)にあったので、手研耳が年長で長く朝政に携わっていたことから、政務全般を彼に委ねた。手研耳はもとより性質がひねくれており、この時に至って権勢を思うままにするようになり、ついに邪心を抱いて太子と神八井耳命を害しようと謀った。太子はこれを知り、密かに備えをした(注:『古事記』によれば、当芸志美美命(たぎしみみのみこと)が三人の弟を殺そうと謀ったとき、伊須気余理比売(いすけよりひめ)がその計略を知り、歌によって子らを悟らせて言った、「狭井河(さいがわ)よ、雲立ち渡り、畝傍山(うねびやま)、木の葉騒ぎぬ、風吹かむとす」。また、「畝傍山、昼は雲とゐ、夕されば、風吹かむとぞ、木の葉騒げる」と。子らはこれを聞いて驚き、ついに当芸志美美を殺した、という)。ちょうど手研耳が片丘(かたおか)の地室(むろ)にいたとき、太子はひとり神八井耳命と謀りを合わせ、戸を押し開けて突入した。このとき手研耳はひとり大牀(おおとこ)に臥していた。太子は矢を射てこれを殺した。実に太歳(たいさい)己卯(つちのとう)の年の冬十一月のことである。帝の崩御からこの時まで、凡そ四年が経っていた。翌年庚辰(かのえたつ)、太子は即位した。これが綏靖天皇である(注:『日本紀』による)。
彥八井耳命
¶神八井耳命は、手研耳命の謀反にあたり、太子とともにこれを射殺そうとした。手研耳がひとり地室に臥していたとき、太子は神八井耳命に「今日のことは、ただ我と汝の二人で行おう。我が先に戸を開けるゆえ、汝はこれを射よ」と言った。そこで二人は連れ立って進んだ。太子が戸を開けると、神八井耳命は手足が震え、矢を放つことができなかった。太子はその弓矢を奪い取り、一発で胸に、再発で背に命中させ、ついにこれを殺した。ここにおいて神八井耳命は恥じ入って服し、太子に「わが兄(自分)は臆病で事を成し遂げることができなかった。汝はよく雄々しい武勇を奮い、自ら元凶を誅した。まさに天位に登り、祖業を継ぐべきである。我は汝を輔けて神祇(じんぎ)を奉り司ろう」(注:『古事記』は「我汝を輔けて忌人(いみびと)となろう」と言ったとする)と言った。綏靖天皇四年四月に薨じた(注:『日本紀』による)。孫を建五百建命(たけいおたけのみこと)といい、崇神(すじん)天皇の時、科野国造(しなののくにのみやつこ)となった。速瓶玉命(はやみかたまのみこと)といい、阿蘇国造(あそのくにのみやつこ)となった(注:『旧事紀』による)。
岐須美美命
¶彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)。
【安寧】二子
¶岐須美美命(きすみみのみこと)。
息石耳命
¶安寧(あんねい)天皇には三人の皇子があった。渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)皇后は、息石耳命(おきそみみのみこと)、懿徳(いとく)天皇、磯城津彦命(しきつひこのみこと)を生んだ(注:『日本紀』による。磯城津彦命は本書の註による)。
磯城津彥命
¶息石耳命(注:本書の註および『古事記』には息石耳命は記されておらず、常津彦某(つねつひこなにがし)という兄があると記す。『旧事紀』は、息石耳命は一名常津彦といい、後嗣がなかったとする。参考として付記する)には、天豊津媛(あまとよつひめ)という娘があり、懿徳天皇の皇后となった(注:『日本紀』による)。
【懿德】一子
¶磯城津彦命には二人の子があった。一人は名を欠き、一人を和知都美命(わちつみのみこと)という。和知都美は淡路(あわじ)の御井宮(みいのみや)に住み、二人の娘を生んだ(注:『古事記』による)。倭国香媛(やまとくにかひめ)、絙某弟(はえいろど)といい、ともに孝霊(こうれい)天皇の妃となった(注:『日本紀』『古事記』による)。
武石彥奇友背命
¶懿徳天皇には二人の皇子があった。天豊津媛皇后は、孝昭(こうしょう)天皇、武石彦奇友背命(たけしうちわけのみこと)を生んだ(注:『日本紀』による。『旧事紀』は武石彦奇友背命を安寧天皇の末子とする)。
【孝昭】一子
¶武石彦奇友背命(たけしうちわけのみこと)。
天足彥國押人命
¶孝昭天皇には二人の皇子があった。世襲足媛(よそたらしひめ)皇后は、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)、孝安(こうあん)天皇を生んだ。
【孝安】一子
¶天足彦国押人命(注:『古事記』は「天押帯日子(あめおしたらしひこ)」とする)には、男子として彦姥津命(ひこおけつのみこと)があった(注:『姓氏録』による)。女子の押媛(おしひめ)は孝安天皇の皇后となり、姥津媛(おけつひめ)は開化(かいか)天皇の妃となった(注:『日本紀』による)。彦姥津には子があり、伊富都久命(いふつくのみこと)といった。天足彦国押人の三世の孫を彦国葺(ひこくにぶく)といい(注:『姓氏録』による)、別に伝がある。
大吉備諸進命
¶孝安天皇には二人の皇子があった。押媛皇后は大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)(注:『古事記』による)、孝霊天皇(注:『日本紀』による)を生んだ。
【孝靈】四子
日子刺肩別命
¶孝霊天皇には五人の皇子があった。細媛(くわしひめ)皇后は孝元(こうげん)天皇を生んだ(注:『日本紀』による)。妃の倭国香媛(やまとくにかひめ)は日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)(注:『古事記』による)、彦五十狭命(ひこいさのみこと)を生んだ。絙某弟(はえいろど)は彦狭島命(ひこさしまのみこと)(注:『古事記』は「日子寤間(ひこさめま)」とする)、稚武彦命(わかたけひこのみこと)を生んだ(注:『日本紀』『古事記』による。『旧事紀』を按ずるに弟稚武彦命があるとするが、これは誤りである)。
彥五十狄芹彥命
彥狹島命
¶彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)は、一名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)という(注:『古事記』は「大吉備津日子命」とする。『姓氏録』はあるいは「吉備津彦五十狭芹命」とする)。崇神(すじん)天皇十年九月、将軍に任じられて西道(にしのみち)へ赴いた。ちょうど武埴安彦(たけはにやすひこ)が反乱を起こし、妻の吾田媛(あたひめ)と道を分けて都へ攻め入ろうとしたため、五十狭芹彦は留め置かれてこれを討つこととなった。五十狭芹彦は大坂(おおさか)で吾田媛を迎え撃ち、これを斬って残党を殲滅した。その後、西道に赴いて夷俗(いぞく)を懐柔した。(崇神天皇)六十年七月、これより先、武日照命(たけひなてるのみこと)の神宝は出雲大神宮(いずものおおかみのみや)に蔵められ、出雲振根(いずものふるね)がこれを掌っていた。この時に至り、天皇はこれを見たいと望み、武諸隅(たけもろすみ)を遣わして求めさせた。振根はちょうど筑紫(つくし)に赴いていたので、その弟の飯入根(いいいりね)が命を受け、弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と子の鸕濡渟(うかづくぬ)に神宝を献じさせた。振根は帰って飯入根を責めて、「数日待つべきであったのに、何を恐れて安易にこれを許したのか」と言った。長く忿恨が解けず、ついにこれを殺そうと考えた。そこで飯入根を誘って止屋淵(やむやのふち)に至り、菨(も、水草)を観るふりをして、淵に臨んで飯入根に「淵の水は清らかで冷たい、共に泳ごうではないか」と言った。そこで共に佩刀(はいとう)を解いて水に入った。振根はあらかじめ木刀を作って自ら佩いており、先に陸に上がって飯入根の刀を抜いてこれに迫った。飯入根は驚いて振根の刀を執ったが、それは木刀であった。ついに殺されてしまった。韓日狭と鸕濡渟は朝廷に参じて事の次第を奏上し、天皇はそこで五十狭芹彦と武渟川別(たけぬなかわわけ)を遣わして振根を討たせた。振根は誅に伏した。出雲臣(いずものおみ)らは恐れ畏まり、大神を祭ることをしなくなった。丹波(たんば)の人、氷香戸辺(ひかとべ)が神託を得て皇太子に申し上げた。皇太子がこれを奏上すると、勅によって再び祭るようになった(注:『日本紀』による。按ずるに、孝霊天皇の崩御から崇神天皇六十年までは凡そ百七十八年であるが、五十狭芹彦が何時薨じたかは分からない)。かつて五十狭芹彦は弟の稚武彦(わかたけひこ)とともに吉備国(きびのくに)を鎮め治めた(注:『古事記』による)。後世、備中(びっちゅう)に吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)を建ててこれを祀った(注:『続日本後紀』『延喜式』による)。五十狭芹彦には子があり、三井根子命(みいねこのみこと)といった。景行(けいこう)天皇の時、葦分国造(あしきたのくにのみやつこ)となった(注:『旧事紀』による)。
稚武彥命
¶彦狭島命(ひこさしまのみこと)。
吉備武彥命
¶稚武彦命(わかたけひこのみこと)(注:『古事記』は「若建吉備津日子命」、あるいは「若日子建吉備津日子命」とする)には二人の娘があり、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)、播磨稲日稚郎姫(はりまのいなびのわきいらつめ)といい、ともに景行天皇の後宮に入った(注:『古事記』による。按ずるにこの二姫は稚武彦の娘ではない疑いがある。詳しくは后妃伝に見える)。孫を吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)という(注:『日本紀』による)。
【孝元】四子
¶吉備武彦命(注:父の名は欠けている。『古事記』は「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」とする)。景行天皇四十年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷(えみし)を東征した際、天皇は吉備武彦と大伴武日(おおとものたけひ)を副将に命じた(注:按ずるに、孝霊天皇の崩御から景行天皇四十年までは凡そ三百二十五年であるから、吉備武彦は稚武彦の数世の孫にあたる)。蝦夷を平定し終えて碓日坂(うすいざか)まで帰り着いた。日本武尊が信濃(しなの)へ出ようとした際、別に吉備武彦を越国(こしのくに)へ遣わし、地形と人民の様子を鑑察させ、美濃(みの)へ回り出て日本武尊と落ち合い、そのまま伊勢(いせ)まで従った。日本武尊が病に倒れ薨じようとしたとき、吉備武彦を都へ遣わして事の次第を奏上させた(注:『日本紀』による)。 吉備武彦の子は意加部彦命(おかべひこのみこと)といい(注:『旧事紀』による)、御友別命(みともわけのみこと)、鴨別命(かもわけのみこと)がいた(注:『三代実録』『姓氏録』による)。娘は兄媛(えひめ)といい、応神(おうじん)天皇の妃となった(注:『日本紀』による。按ずるに本書には父の名が記されていないが、御友別の妹であると記されているため、ここに列ねる)。意加部彦は成務(せいむ)天皇の時、廬原国造(いおはらのくにのみやつこ)となった(注:『旧事紀』による。『姓氏録』は、景行天皇の時、吉備建彦(きびのたけひこ)を東方に遣わして毛人(えみし)を討伐させ、阿倍盧原国(あべのいおはらのくに)に至った、復命の日にその盧原国を賜った、とする)。御友別は、応神天皇二十二年、兄媛のゆかりによって吉備国へ行幸したとき、葦守宮(あしもりのみや)に至った。このとき御友別はその子弟を率いて食事を献上し、給仕がたいへん丁重であった。天皇はこれを嘉(よみ)して、吉備国の県(あがた)を割いて、その三人の子と弟の鴨別らに分封した。鴨別は、仲哀天皇が自ら熊襲(くまそ)を親征して勝てぬまま崩じたのち、神功(じんぐう)皇后が鴨別に命じてこれを討ち平らげさせた(注:『日本紀』による)。応神天皇が吉備国に行幸して加佐米山(かさめやま)に登った際、風が御笠(みかさ)を吹き飛ばし、天皇はこれを怪しんだ。鴨別は「これは神祇が天皇に奉る徴(しるし)であります」と奏上した。そこでその山で狩りをすると、はたして獲物が多かった。天皇は大いに喜び、賀佐(かさ)の名を賜った(注:『姓氏録』による)。これが笠臣(かさのおみ)の始祖である(注:『日本紀』『姓氏録』による)。 その子孫に県守(あがたもり)という者があった(注:按ずるに、本書は笠臣の祖を県守と記すが父の名を載せていない。鴨別の子かと思われるため、ここに付す)。県守は人となり勇猛で力強かった。仁徳(にんとく)天皇の末年、吉備中国(きびのなかつくに)の川島河(かわしまがわ)に大蛇(みずち)がおり、行き交う人が毒を受けて多く死んだ。県守は淵に臨んで三つの瓠(ひさご)を投げ入れ、「汝は毒を吐いて人を害している。我は汝を殺そうと思う。汝がこの瓠を沈めることができれば、我は汝を避けよう。できなければ汝を斬るであろう」と言った。すると蛇は鹿に化けて瓠を引き沈めようとしたが、瓠は沈まなかった。県守は水に入り、剣を振るって蛇を斬り、その仲間をことごとく断ち切ったので、河の水は赤く染まった。そのためこの水を県守淵(あがたもりのふち)と名付けたという(注:『日本紀』による)。
大彥命
¶孝元天皇には五人の皇子があった。鬱色謎(うつしこめ)皇后は、大彦命(おおひこのみこと)、少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)(注:『古事記』による。本書では開化天皇の同母兄とする)、開化天皇を生んだ。妃の伊香色謎(いかがしこめ)は彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生み、埴安媛(はにやすひめ)は武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)を生んだ(注:『日本紀』による)。
少名日子建豬心命
¶大彦命は、崇神天皇十年九月、印綬を受けて将軍となり、その子の武渟川別(たけぬなかわわけ)、および彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ)、丹波道主(たにわのみちぬし)とともに四方を鎮め懐柔したので、四道将軍(しどうしょうぐん)と称された。大彦は北陸(ほくりく)へ赴く途中、和珥坂(わにさか)(注:本書の註には一説として山背(やましろ)の平坂(ならさか)とある)を通り過ぎた。そこに少女が歌を歌い、歌い終わるとたちまち姿を消した。大彦はこれを不思議に思い、帰ってその様子を報告した。倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が天皇に「これは武埴安彦(たけはにやすひこ)が反乱を起こす徴(しるし)です」と申し上げた。そこで諸将軍を留めて協議させた。武埴安彦ははたして反乱を起こし、妻の吾田媛(あたひめ)と軍を分けて両道から進んだ。天皇は大彦と彦国葺(ひこくにぶく)に命じてこれを討たせた。大彦らは山背(やましろ)で武埴安彦を迎え撃ち、このとき忌瓮(いわいべ)を和珥(わに)の武鐰坂(たけすきざか)に鎮め据えて、精兵を率いて那羅山(ならやま)に陣を敷き、進んで武埴安彦と輪韓河(わからがわ)を挟んで戦を挑んだ。武埴安彦が河に臨んで矢を放ったとき、彦国葺が武埴安彦を射殺し、軍勢は潰走した。これを河の北で追い破り、残った軍勢はことごとく降伏した。十月、大彦らは詔を奉じてそれぞれ四道へ赴き、戎夷(じゅうい)を平定した(注:『日本紀』による)。 大彦には子があり、武渟川別、彦背立大稲腰命(ひこせたておおいなこりのみこと)、波多武彦命(はたたけひこのみこと)(注:本書ではあるいは大彦の孫とする)、紐結命(ひもゆいのみこと)といった(注:『姓氏録』による)。娘は御間城姫(みまきひめ)といい、崇神天皇の皇后となった。武渟川別は、崇神天皇十年九月に将軍となって東海(とうかい)へ赴き(注:『日本紀』による)、父の大彦と相津(あいづ)で落ち合った(注:『古事記』による)。六十年には彦五十狭芹彦とともに命を奉じて出雲振根(いずものふるね)を誅した。垂仁(すいにん)朝では大夫(まえつぎみ)となった(注:『日本紀』による)。彦背立大稲腰の子を彦屋主田心命(ひこやぬしたごころのみこと)という。かつて大彦が北征したとき、兔田炭坂(うさぎだのすみさか)に至って、たまたま幼子の泣き声を聞き、探してこれを見つけ、大いに喜んで兔田弟媛(うさぎだのおとひめ)に乳をやらせた。成長すると自分の子として引き取り、名を得彦宿禰(えひこのすくね)といった。大彦の孫を磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)という(注:『姓氏録』による。父の名は欠けている)。景行天皇が東国を巡幸し、上総(かずさ)から淡水門(あわのみなと)に至ったとき、覚賀鳥(かくかのとり)の声を聞き、その姿を見ようとして海辺に出て求めたところ、たまたま白い蛤(はまぐり)を得た。六雁は蒲(がま)を手繦(たすき)にして蛤膾(はまぐりのなます)を作って進上した。天皇は悦び、膳大伴部(かしわでのおおともべ)の姓を賜った(注:『日本紀』による)。
彥太忍信命
¶少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)。
武埴安彥命
¶彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)。屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を生んだ(注:「雄」は一本に「猪」に作る。按ずるに『皇胤紹運録』および石清水(いわしみず)の祠官紀氏(きし)の家譜は、屋主・忍男と五雄心を二人の別人とするが、これは誤りである)。武雄心は二人の子を生んだ。武内宿禰(たけうちのすくね)、甘美内宿禰(うましうちのすくね)という(注:『日本紀』による。按ずるに『古事記』は「甘美」を「味師(うまし)」に作り、武内・甘美をともに彦太忍信命の子とし、また甘美を武内の異母兄とするなど、いずれも本書と異なる)。武内宿禰には別に伝がある。
【開化】三子
¶武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)は、崇神天皇の時、山代(やましろ)に居た(注:『古事記』による。按ずるに本書は武埴安彦を孝元天皇の子とし、また崇神天皇の言葉として「わが庶兄(ままあに)」とあるのを載せており、両書の記述が食い違っていて、今は考証のしようがない)。(崇神天皇)十年、その妻の吾田媛(あたひめ)とひそかに不軌を図り、兵を挙げて道を分けて都へ攻め入ろうとした。天皇は彦五十狭芹彦を遣わして吾田媛を遮り撃たせ、これを殺した。武埴安彦は大彦・彦国葺らと輪韓河(わからがわ)を挟んで対陣したが、彦国葺に射殺された(注:『日本紀』による)。
彥湯產隅命
¶開化天皇には四人の皇子があった。伊香色謎(いかがしこめ)皇后は崇神天皇を生んだ。妃の竹野媛(たかのひめ)は彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生み、姥津媛(おけつひめ)は彦坐王(ひこいますのみこ)を生んだ(注:『日本紀』による)。宮人の葛城鸇媛(かづらきのわしひめ)は建豊波豆羅和気命(たけとよはづらわけのみこと)を生んだ(注:『古事記』による。『姓氏録』は「武豊葉頬別命」に作る)。
彥坐王
¶彦湯産隅命は、一名を彦蒋簀(ひこますす)という(注:『日本紀』による)。二人の子があり、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)、讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)といった。大筒木垂根王には娘があり、迦具夜比売(かぐやひめ)といい、垂仁天皇の後宮に入った(注:『古事記』による)。
建豐波豆羅和氣命
¶彦坐王(ひこいますのみこ)には十二人の男子と三人の女子があった。大股王(おおまたのみこ)、小股王(おまたのみこ)、志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ)、狭穂彦王(さほひこのみこ)(注:本書は「沙本毗古王」に作るが、今は『日本紀』に従う)、袁邪本王(おざほのみこ)、室毘古王(むろびこのみこ)、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)(注:本書は「丹波比古多多須美知能宇斯王」に作るが、今は『日本紀』に従う。『日本紀』の註には、あるいは彦湯産隅命の子とするが、今は採らない)、水穂真若王(みずほのまわかのみこ)、神大根王(かんおおねのみこ)、山代大筒木真若王(やましろのおおつつきのまわかのみこ)、比古意須王(ひこおすのみこ)、伊理泥王(いりねのみこ)といった。女子は狭穂姫(さほひめ)(注:本書は「沙本毗売」に作るが、今は『日本紀』に従う)、水穂五百依比売(みずほのいおよりひめ)、御井津比売(みいつひめ)といった(注:『古事記』による)。狭穂姫は垂仁天皇の皇后となった(注:『日本紀』による)。大股王には二人の子があり、長男を曙立王(あけたつのみこ)、次男を菟上王(うなかみのみこ)という(注:『古事記』による。本書には、御津別命(みつわけのみこと)が成人しても物を言わなかったため、出雲大社(いずものおおやしろ)に禱(いの)りに行こうとして曙立王を副えとして占い定めた、するとしばしば奇瑞が現れたので、勅して曙立王を「倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとはしきとみとよあさくらのあけたつのみこ)」と称した、そこで曙立王と菟上王に譽津別命(ほむつわけのみこと)を従わせて出雲大神(いずものおおかみ)に参らせた、やがて譽津別命は言葉を話せるようになり、天皇は大いに喜んで、また菟上王を遣わしてその神宮を造らせた、とあるが、『日本紀』と異なるため採らない)。狭穂彦王は垂仁天皇五年に反乱を起こし、誅に伏した。この事は狭穂姫皇后伝にある。丹波道主命は、崇神天皇十年に将軍となって丹波に赴き、一男五女があった。男子は朝廷別王(みかどわけのみこ)といい、五人の女子はみな垂仁天皇の後宮に入った(注:『日本紀』による。朝廷別王は『古事記』による)。神大根王は、一名を八爪入日子王(やつめいりひこのみこ)といい、三野(みの)の本巣国造(もとすのくにのみやつこ)となった(注:『旧事紀』の国造紀には「三野前国造」とある。按ずるに『日本紀』景行紀に美濃国造神骨(みののくにのみやつこかむほね)とあるのは、おそらくこの人物であろう。「大根」と「骨」は訓読が近い)。山代大筒木真若王は迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)を生み、迦邇米雷王は気長宿禰王(おきながすくねのみこ)を生んだ(注:本書は「気」を「息」に作るが、今は『日本紀』に従う。『日本紀』『旧事紀』はともに気長宿禰を開化天皇の曾孫とし、これとは異なる)。気長宿禰王は二男二女を生んだ。男子は気長日子王(おきながひこのみこ)、大多牟坂王(おおたむさかのみこ)といった(注:『古事記』による)。長女は気長足姫(おきながたらしひめ)といい、仲哀天皇の皇后となった(注:『日本紀』『古事記』による)。
【崇神】六子
¶建豊波豆羅和気命(たけとよはづらわけのみこと)。
彥五十狹茅命
¶崇神天皇には七人の皇子があった。御間城姫(みまきひめ)皇后は垂仁天皇、彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)、倭彦命(やまとひこのみこと)、五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)を生んだ。妃の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を生み、尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)は大入杵命(おおいりきのみこと)、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)を生んだ(注:『日本紀』による。大入杵命は『古事記』による。按ずるに『古事記』には伊邪能真若命(いざのまわかのみこと)があり、彦五十狭茅命・五十日鶴彦命は記されていない。『皇胤紹運録』はこれらを併せ載せて八子とする)。
倭彥命
¶彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)。
五十日鶴彥命
¶倭彦命(やまとひこのみこと)。垂仁天皇二十八年十月に薨じた。十一月、身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)に葬られたが、その近習(きんじゅう)を生きたまま兆域(墓域)に埋め立てたため、彼らは昼夜号泣し、数日にして絶命し、死骸が腐って禽獣が群がり食らった。天皇はその泣き声を聞いて哀れみ悲しみ、詔して永く殉死を禁じた(注:『日本紀』による。『古事記』は、この時初めて陵域に人垣を立てることを止めた、とする)。
豐城入彥命
¶五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)。
八綱田
¶豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。垂仁天皇がまだ皇子であったころ、豊城入彦は垂仁天皇とともに帝(崇神天皇)に寵愛され、いずれを立てるか未だ定まっていなかった。(崇神天皇)四十八年、天皇は夢の兆しによってこれを占おうとした。二人の皇子はそれぞれの見た夢を奏上した。翌日、豊城入彦は「私は御諸山(みもろやま)に登り、東に向かって刀や槍を各八回振るう夢を見ました」と奏上した。そこで東国の統治に出ることとなった(注:『日本紀』による)。子を八綱田(やつなだ)という(注:『姓氏録』による)。
彥狹島王
¶八綱田。垂仁天皇五年十月、狭穂彦(さほひこ)が反乱を起こしたとき、天皇は八綱田を将軍としてこれを討たせた。狭穂彦は稲城(いなき)を構えて月を越えても降伏しなかった。天皇は兵を増やすよう命じた。八綱田は火を放って城を焼き、狭穂彦は誅に伏した。天皇はその功を嘉し、倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)と号した。豊城入彦の孫を彦狭島王(ひこさしまのみこ)という(注:『日本紀』による。按ずるに本書はその父を記していないが、八綱田の子ではないかと思われる)。
大入杵命
¶彦狭島王は、景行天皇五十五年二月、東山道(とうさんどう)十五国の都督(ととく)を拝命した。春日(かすが)の穴咋邑(あなくいのむら)に至って病に臥し、薨じた。東国の百姓はこの王が任地に至れなかったことを悲しみ、ひそかにその亡骸を盗んで上野国(こうずけのくに)に葬った。彦狭島の子を御諸別王(みもろわけのみこ)という(注:『姓氏録』はあるいは「大御諸別命」に作る)。翌年八月、御諸別に詔して、「汝の父彦狭島王は、任地に赴くことができぬまま早くに薨じた。汝はもっぱら東国を領すべきである」と仰せられた。御諸別は命を奉じ、また父の事業を成し遂げようと思い、任地に赴くとすぐに善政を敷いた。このとき蝦夷が騒動を起こしたので、すぐに兵を挙げてこれを撃った。蝦夷の酋帥である足振辺(あしふりべ)、大羽振辺(おおはふりべ)、遠津闇男辺(とおつくらおべ)らは頭を叩いて罪を請い、その土地をことごとく献上した。そこで降伏した者を免じ、服さぬ者を誅した。これによって東方は事なきを得た(注:『日本紀』による)。これが上毛野君(かみつけののきみ)、下毛野君(しもつけののきみ)の祖である(注:『日本紀』『古事記』による)。子孫はそれぞれ居地にちなんで姓氏を賜ったという(注:『続日本紀』延暦十年による)。豊城入彦の四世の孫を荒田別命(あらたわけのみこと)という(注:『姓氏録』による)。別に伝がある。
八坂入彥命
¶大入杵命(おおいりきのみこと)。
【垂仁】十一子
¶八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)は美濃(みの)に居た。二人の娘があり、八坂入媛(やさかいりひめ)、弟媛(おとひめ)といった。八坂入媛は景行天皇の皇后となった(注:『日本紀』による)。
譽津別命
¶垂仁天皇には十二人の皇子があった。狭穂姫(さほひめ)皇后は誉津別命(ほむつわけのみこと)を生んだ。日葉酢姫(ひばすひめ)皇后は五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、景行天皇(注:『日本紀』による)、大中津日子命(おおなかつひこのみこと)(注:『古事記』による)、稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)を生んだ。妃の渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)は鐸石別命(ぬてしわけのみこと)を生んだ(注:按ずるに『古事記』には伊賀帯日子命(いがたらしひこのみこと)とあるが、これはおそらく膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)の誤りであろうから採らない)。薊瓊入媛(あざみにいりひめ)は池速別命(いけはやわけのみこと)を生んだ(注:『日本紀』による)。宮人の迦具夜媛(かぐやひめ)は袁邪弁王(おざべのみこ)を生んだ(注:『古事記』による)。苅幡戸辺(かりはたとべ)は祖別命(みおやわけのみこと)、五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)、膽武別命(いたけるわけのみこと)を生んだ。弟苅幡戸辺(おといわとべ)は磐衝別命(いわつくわけのみこと)を生んだ(注:『日本紀』による。按ずるに本書は「弟苅幡戸辺」を「綺戸辺(かんはたとべ)」に作るが、今は『古事記』に従う。詳しくは后妃伝に見える)。
五十瓊敷入彥命
¶誉津別命(ほむつわけのみこと)(注:『古事記』は「本牟智和気(ほむちわけ)」に作る。「智」はあるいは「都」に作る)。天皇はこれを愛して常に左右に置いた。(垂仁天皇)五年、皇后の兄の狭穂彦が反乱を起こし、皇后は誉津別を抱いて城に入った。天皇は城中に呼びかけて皇后と皇子を出すよう諭したが、聞き入れられなかった。官兵が火を放って城を焼こうとするに及んで、皇后はようやく皇子を出した(注:『古事記』は、城が焼かれようとしたとき、皇子の名を呼び、その火の中で生まれたことから本牟智和気と名付けた、とする。按ずるに「本(ほ)」と「火(ほ)」は音訓が相通じる)。誉津別は歳すでに三十で、鬚髯(ひげ)が八掬(やつか)にも及んでいたが、言葉を話すことができず、なお赤子のように泣いてばかりいたので、天皇は常にこれを憂いた。たまたま御殿の前に立ち、誉津別が側に侍していたとき、鵠(くぐい、白鳥)が飛び鳴いた。誉津別はこれを仰ぎ見て、初めて「これは何物か」と言葉を発した。天皇は大いに喜び、左右を顧みて「誰かこの鳥を捕えられる者はいないか」と言った。天湯河板挙(あめのゆかわたな)(注:『古事記』は「大山辺大鶙(おおやまべのおおたか)」に作る)が「私が捕えて参りましょう」と申し出た。天皇は「もしこの鳥を得たなら、必ず厚く賞しよう」と言った。板挙は鵠を追い求めて出雲(いずも)まで至り、これを捕えて献上した。誉津別はこれを弄ぶうちに、ついに言葉を話せるようになった。そこで板挙を賞して鳥取造(ととりのみやつこ)の姓を賜った(注:按ずるに『旧事紀』の一説は誉津別を鳥取造らの祖とするが、これは誤りである)。また鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた(注:『日本紀』による。『古事記』は、本牟智和気命が鵠を得た後もなお言葉を話せず、天皇がこれを憂えていたところ、たまたま夢に神が「わが宮を皇居のように修めれば、皇子は言葉を話せるようになるだろう」と告げた、覚めてこれを占うと「出雲大神の祟りである」と出た、そこで本牟智和気命を出雲の宮に参らせ、曙立王・菟上王を副えとし、留まるところごとに本牟智郡(ほむちのこおり)を定めた、帰ろうとして肥河(ひのかわ)に宿ったとき、出雲国造の祖の岐比佐都美(きひさつみ)がこれを饗応し、下流に仮山を作った、本牟智和気命はこれを望み見て言葉を発し、これより言葉を話せるようになった、菟上王らは都へ帰ってつぶさにその様子を奏上した、天皇は大いに喜んで神宮を造らせ、鳥取部、鳥甘部(とりかいべ)、品遅部(ほむじべ)、大湯坐(おおゆえ)、若湯坐(わかゆえ)を定めた、とする。按ずるに「品遅」と「本牟智」は音読が相通じる)。
大中津日子命
¶五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)は、かつて景行天皇とともに帝(垂仁天皇)の御前にあり、それぞれ望むものを申し上げたことがあった。五十瓊敷は弓矢を得たいと願い出て、そこで弓矢を賜った。これによって儲位(皇太子の位)が定まった。詳しいことは景行紀に語られている。(垂仁天皇)三十五年、詔を奉じて河内(かわち)に赴き、高石池(たかしのいけ)、茅渟池(ちぬのいけ)を作った(注:『古事記』は、血沼(ちぬ)の狭山池(さやまのいけ)、日下(くさか)の高津池(たかつのいけ)を作った、とする)。三十九年、茅渟の菟砥川上宮(うどのかわかみのみや)に居て(注:『古事記』は「菟砥」を「鳥取」に作る)、剣千口を作り、そこで剣を川上部(かわかみべ)と名付け、また裸伴(はだかとも)とも名付けて、石上神宮(いそのかみじんぐう)に蔵めた。後に天皇は五十瓊敷に命じて石上の神宝を掌らせた(注:本書の一説には、五十瓊敷命が鍛冶工の河上(かわかみ)という者を召して菟砥河上で刀千口を作らせた、天皇は楯部(たてぬいべ)、倭文部(しとりべ)、神弓削部(かむゆげべ)、神矢作部(かむやはぎべ)、大穴磯部(おおあなしべ)、泊橿部(はつかしべ)、玉作部(たまつくりべ)、神刑部(かむおさかべ)、日置部(ひおきべ)、太刀佩部(たちはきべ)の凡そ十の品部(しなべ)をこれに隷属させ、その刀はことごとく忍坂邑(おさかのむら)に蔵め、後に石上神宮に移し蔵めた、とある)。八十七年、五十瓊敷は老いて職に堪えなくなったので、妹の大中姫(おおなかつひめ)に神宝を代わりに掌らせた(注:『日本紀』による)。
稚城瓊入彥命
¶大中津日子命(おおなかつひこのみこと)。
鐸石別命
¶稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)。
池速別命
¶鐸石別命(ぬてしわけのみこと)(注:『古事記』は「沼帯別命」に作るが、今は『日本紀』に従う)には子があり、稚鐸石別命(わかぬてしわけのみこと)といった。稚鐸石別の子を田守別王(たもりわけのみこ)といい、一名を健真別(たけまわけ)という。その子を弟彦王(おとひこのみこ)という(注:「弟」はあるいは「茅」に作る)。一名を健結別(たけゆいわけ)という(注:『和気系図』による)。神功皇后が新羅(しらぎ)から帰還したとき、忍熊皇子(おしくまのみこ)らが兵を構えて明石(あかし)で待ち伏せした。皇后は弟彦に針間(はりま)と吉備(きび)の境に関を設けてこれを防がせた。これが和気関(わけのせき)である。功を録して吉備の磐梨県(いわなしのあがた)を賜り、そこに居を構えた(注:『姓氏録』による)。
祖別命
¶池速別命(いけはやわけのみこと)は、幼少のとき、天皇のために伊賀(いが)の阿保(あお)に宮室を築き、これを封ぜられて、子孫はついにそこに居を構えた。允恭(いんぎょう)天皇の時、これによって阿保君(あおのきみ)の姓を賜った(注:『姓氏録』による。『二荒山記』は、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと、垂仁天皇)の第九子である池速別命は、勅を奉じて伊勢大神(いせのおおかみ)を鈴鹿川上(すずかのかわかみ)に祀り、その事によって東国に赴いた、病んで片目を失い、ついに都へ帰らなかった、下毛野(しもつけの)の室八島(むろやしま)に住み、子孫が長く続いた、とするが、今は採らない)。
五十日足彥命
¶祖別命(みおやわけのみこと)。
膽武別命
¶五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)。
磐衝別命
¶膽武別命(いたけるわけのみこと)(注:本書は「伊登志別王」に作るが、今は『日本紀』に従う)。子がなかったため、伊都部(いつべ)を定めた(注:『古事記』による)。
袁邪辨王
¶磐衝別命(いわつくわけのみこと)。
【景行】五十四子
¶袁邪弁王(おざべのみこ)。
櫛角別王
¶景行天皇には五十五人の皇子があった。播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)皇后は、櫛角別王(くしつのわけのみこ)(注:櫛角別王は『古事記』による)、大碓皇子(おおうすのみこ)、日本武尊(やまとたけるのみこと)を生んだ。八坂入媛(やさかいりひめ)皇后は、成務(せいむ)天皇、五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)、忍之別皇子(おしのわけのみこ)、稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)(注:本書の一説および『古事記』は、大郎姫皇后の子とする)、大酢別皇子(おおすわけのみこ)、五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)(注:この二皇子は『古事記』には記されていない)、吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)を生んだ(注:『古事記』には若木入日子(わかきいりひこ)があり、吉備兄彦とともに宮人の子とする)。妃の五十河媛(いかわひめ)は神櫛皇子(かみくしのみこ)(注:『古事記』は大郎姫皇后の子とする。按ずるに『姓氏録』には、讃岐公(さぬきのきみ)は景行天皇の皇子五十香足彦命(いかたらしひこのみこと)の後裔であり、酒部公(さかべのきみ)と讃岐公は同祖で神櫛別命(かみくしわけのみこと)の後裔である、とある。これによれば神櫛別は一名を五十香足彦というのであろう。神櫛別と神櫛はもとより同一人であり、その母は五十河媛というから、五十香足彦の名を持つこともあながち根拠がないわけではない。以下に載せる五十河彦もおそらく同一人であり、『旧事紀』が重複して記したものであろう。しかし『日本紀』には神櫛に別名があるとは記されておらず、疑わしい。ひとまずここに付す)、稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生んだ。高田媛(たかだひめ)は武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)を生んだ。日向髪長大田根(ひゅうがのかみながおおたね)は日向襲津彦皇子(ひゅうがのそつひこのみこ)を生んだ。襲武媛(そのたけひめ)は国乳別皇子(くにちわけのみこ)(注:『旧事紀』には国凝別皇子(くにこりわけのみこ)があるが、これは重複して出たものであろう)、国背別皇子(くにせわけのみこ)(注:本書の註の一説は「宮道別皇子(みやじわけのみこ)」に作る)、豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生んだ。御刀媛(みはかしひめ)は豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生んだ(注:『日本紀』による)。五十琴姫命(いことひめのみこと)は五十功彦命(いさおひこのみこと)を生んだ(注:『旧事紀』による)。宮人の播磨稲日稚郎姫(はりまのいなびのわきいらつめ)は真若王(まわかのみこ)、彦人大兄王(ひこひとのおおえのみこ)を生み、迦具漏比売(かぐろひめ)は大江王(おおえのみこ)を生んだ(注:『古事記』による)。その他、豊門入彦命(とよといりひこのみこと)、稚屋彦命(わかやひこのみこと)、武国皇別命(たけくにこわけのみこと)、真稚彦命(まわかひこのみこと)、天帯根命(あまたらしねのみこと)、大曾色別命(おおそしこわけのみこと)、五十河彦命(いかわひこのみこと)、石社別命(いわこそわけのみこと)、大稲背別命(おおいなせわけのみこと)、武押別命(たけおしわけのみこと)、不知来入彦命(しらぬいりひこのみこと)、曾能目別命(そのめわけのみこと)、十市入彦命(とおちいりひこのみこと)、襲小橋別命(そのおばせわけのみこと)、色己焦別命(しこそわけのみこと)、熊津彦命(くまつひこのみこと)、息前彦人大兄水城命(おきさきひこひとのおおえみずきのみこと)、熊忍津彦命(くまおしつひこのみこと)、櫛見皇命(くしみのみこのみこと)、武弟別命(たけおとわけのみこと)、草木命(くさきのみこと)、稚根子皇子命(わかねこのみこのみこと)、兄彦命(えひこのみこと)、手事別命(たごとわけのみこと)、大我門別命(おおがとわけのみこと)、豊日別命(とよひわけのみこと)、三川宿禰命(みかわのすくねのみこと)、豊手別命(とよてわけのみこと)、倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)、豊津彦命(とよつひこのみこと)、五百木根命(いおきねのみこと)、弟別命(おとわけのみこと)、大焦別命(おおこそわけのみこと)がいた(注:『旧事紀』による)。この三十三人はみな母の名が伝わっていない。天皇には男女合わせて八十人の子があり、それぞれ国郡に封じて国造(くにのみやつこ)や別(わけ)とし、あるいは稲置(いなぎ)・県主(あがたぬし)とした者が七十余人あった(注:国造・別・稲置県主は『古事記』による。「和気」と「別」は音訓が相通じる)。いわゆる諸国の「別」というのは、みなこの別王たちの子孫である(注:『日本紀』による)。旧史にその名を載せる者は五十五人である。
大碓皇子
日本武尊
¶大碓皇子(おおうすのみこ)は、日本武尊と双子であった。天皇はこれを不思議に思い、碓(うす)に誥(つ)げたことから、大碓・小碓(おうす)と名付けた。(景行天皇)四年、天皇は美濃国造神骨(みののくにのみやつこかむほね)の娘、兄遠子(えとおこ)・弟遠子(おととおこ)がともに国色(たぐいまれな美貌)であると聞き、大碓にその容姿を確かめさせた。大碓はそのまま二人の娘と通じてしまった(注:『古事記』は、自ら二人の娘と通じ、別の女を偽ってこれに代えて献上した、とする)。天皇はこれを憎んだ。四十年、東の夷(えみし)が多く叛いたので、天皇は群臣に「誰がこの乱を平定できるか」と問うた。日本武尊は「私はすでに西を征しました。この役目は必ず大碓に(まかせるべき)でしょう」と奏上した。大碓は恐れおののいて逃げ隠れた。天皇は召してこれを責め、「汝が行きたくないなら、朕はどうして強いようか。まだ賊も見ぬうちから、何をそれほど恐れるのか」と言った。そこで美濃に出して封じた(注:『日本紀』による)。二人の子があり、長男を押黒兄彦王(おしくろえひこのみこ)といい兄遠子の生んだ子、次男を押黒弟彦王(おしくろおとひこのみこ)といい弟遠子の生んだ子である(注:『古事記』による)。
¶日本武尊は、名を小碓尊(おうすのみこと)といい、一名を日本童男(やまとおぐな)という(注:按ずるに「日本武」の号は川上梟帥(かわかみのたける)が奉ったものであり、勅命によって賜られたものではない。そのため本書は景行天皇の詔の言葉を載せる際には「小碓王」と称し、後の事を叙する段になって特に「日本武尊」と書いている。思うに小碓王はすでに諸々の梟帥を平らげ、名を世に轟かせたので、朝野がこれを敬い特別視するようになり、「日本武尊」の称がついに世に行われるようになったのであろう。また、仲哀天皇の父であることから、旧史はその号を用いることで、崇め重んじ特別に表す意を寓したのである)。幼い頃から雄々しく秀でた気性があった。壮年に及ぶと、容貌は魁偉で、身の丈は一丈(いちじょう)、力は鼎(かなえ)を持ち上げるほどであった。(景行天皇)二十七年八月、熊襲(くまそ)が反乱を起こした。十月(注:『旧事紀』は二十年十月とする)、日本武尊にこれを討たせた。時に年十六であった。出発するにあたり、「私は弓の巧みな者を得て、ともに行きたい」と言った。ある者が「美濃(みの)に弟彦公(おとひこのきみ)という者がおり、弓が巧みです」と言った。日本武尊は葛城(かづらき)の人、宮戸彦(みやとひこ)を遣わしてこれを召した。弟彦は石占横立(いしうらのよこたち)、および尾張(おわり)の田子稲置(たごのいなき)、乳近稲置(ちぢかのいなき)を率いてともに来た。十二月、日本武尊は熊襲国に至り、その地形と情勢を視察した。賊の首魁である取石鹿文(とりしかや)、また名を川上梟帥(かわかみのたける)という者が、ちょうどその親族を集めて宴を開いていた。日本武尊は髪を解き放ち、飾って少女の姿となり(注:『古事記』は、倭建命(やまとたけるのみこと)が出発するにあたり、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に衣裳を乞うて着て行き、これを服して少女の姿になった、とする)、剣を袖の中に隠して、ひそかに入り込んでその婦女たちに混じった。梟帥はひと目見て気に入り、手を取って同席させ、杯を交わして戯れ親しんだ。夜が更けて人々が散じたとき、梟帥は酒に酔っていた。日本武尊は剣を抜いてその胸を刺した。まだ息が絶えぬうちに、梟帥は「しばし待て、私には言いたいことがある。お前は何者だ」と言った。日本武尊は「私は大足彦天皇(おおたらしひこのすめらみこと、景行天皇)の子、名は日本童男である」と答えた。梟帥は「私はこの国で最も力の強い者で、人々で私に畏れ服さぬ者はいない。私はこれまで多くの勇者に会ってきたが、皇子のような方はいまだかつていなかった。私は卑しい身ではあるが、尊号を奉りたい。よろしいか」と言った。皇子はこれを許した。梟帥は「今より後は、日本武皇子(やまとたけるのみこ)とお称えすべきです」と言い終えると、刺し殺された。これによって世に日本武尊と称するようになった(注:『古事記』は、熊曾建(くまそたける)兄弟二人があり、小碓命はまず熊曾の胸を刺して斃し、弟建(おとたける)は畏れて逃げた、小碓命は追ってその背の皮を掴み、尻から刺した、弟建が何事かを申し上げて、ついに倭建命と称した、とする)。それから弟彦らを分け遣わして醜類(賊の一党)を誅殺し、熊襲はことごとく平定された。海を渡って帰る際、吉備(きび)の穴海(あなうみ)の悪神、難波(なにわ)の柏済(かしわのわたり)の悪神を殺した(注:『古事記』はまた出雲建(いずもたける)を殺した事を載せているが、本書の出雲振根が弟の飯入根を殺した事と類似しているため、今は採らない)。翌年二月、都へ帰り、「私は天皇の御霊のおかげで、一挙に熊襲の首魁を討ち滅ぼし、西国はすでに静まりました。穴済・柏済の神は久しく妖しい祟りをなし、道行く人を毒しておりましたので、これをことごとく殺し、水陸の道を開きました」と奏上した。天皇はその功を称え、格別に寵愛した。四十年六月、東の夷が多く叛いて、辺境が騒がしくなった。七月、天皇は群臣に詔して、「東国は不安であり、暴神が多く起こり、蝦夷がことごとく叛いている。誰かこの乱を平定できる者はいないか」と仰せられた。 群臣は誰も答えることができなかった。日本武尊は「私は先に西征の労をとりました。この役目は必ず大碓が(果たすべきでしょう)」と奏上した。大碓はこれを聞いて恐れ逃げた。日本武尊は奮然として、「熊襲はすでに平定したのに、いくばくの年も経たぬうちに、東の夷がまた叛いた。いつになれば太平の世を見られるか分からない。私はあえて労を厭うとは申しません。どうか自ら行かせてください」と言った。天皇は斧鉞(ふえつ)を持たせてこれを授け(注:『古事記』は、天皇は比比羅木八尋矛(ひいらぎのやひろほこ)を賜った、とする)、次のように仰せられた。「朕が聞くところでは、東の夷は性質が強暴で、凌辱・侵犯を事とし、村々に首長がなく、それぞれが領地を貪って互いに盗み奪い合っている。邪神や姦鬼が人民に害をまき散らしている。東夷の種族のうち、蝦夷が最も強い。冬は穴に、夏は巣に住み、毛皮を衣とし血をすすり、山に登れば鳥のごとく、草原を行けば獣のごとくである。恩を受ければたちまち忘れ、仇を見れば必ず報いる。矢を髪の中に挿し、刀を衣の中に隠し持ち、党類を集めて辺境を侵し、農耕や養蚕の隙をうかがって人民を略奪する。撃てば草に隠れ、追えば山に入る。昔からこのかた、いまだ王化が行き渡っていない。今、汝は身体が長大で、雷電のごとく猛々しく、向かうところ敵なく、攻めれば必ず勝つ。血筋は朕の子であるが、実は神人である。思うに天は朕の不徳を憐れみ、汝に天業を治めさせようとしているのだ。天下はすなわち汝の天下であり、位はすなわち汝の位である。汝は深謀遠慮をもって、威をもってこれを見せ、徳をもってこれを懐柔し、兵を煩わせることなく、自ずから臣従させるがよい。」日本武尊は斧鉞を受け、再拝して、「私は昔西征したとき、幸いに皇威によって三尺の剣を提げて熊襲国を討ち、十二日と経たぬうちに賊の首領は誅に伏しました。今もまた神祇の霊と天皇の威を頼って、賊の地へ赴きます。徳をもって教え諭し、それでもなお服さぬ者があれば、すぐに兵を挙げてこれを撃ちましょう」と奏上した。言い終えると、また再拝した。天皇は吉備武彦、大伴武日(おおとものたけひ)を従わせ(注:『古事記』は「吉備臣の祖、御鉏友耳建日子」に作る。『熱田社縁起』は吉備武彦および建稲種公(たけいなだねのきみ)とし、大伴武日は載せていない)、また七掬脛(ななつかはぎ)を膳夫(かしわで)とした。十月、都を発ち、道を曲げて伊勢神宮を拝み、倭姫(やまとひめ)に「今、勅を奉じて東征し、諸々の叛者を誅します。それゆえここに参ってお別れを申し上げます」と告げた(注:『古事記』は、倭建命が伊勢を通り、大神宮を拝んで、泣いて叔母の倭比売に、「天皇はどうして私に死ねと仰るのか。先ごろすでに西方の賊を討ち、帰って間もないのに、また東方十二道の諸々の賊を平定せよと遣わされ、軍勢もお与えにならない。これから後は、私はただ死ぬばかりだ」と告げた、とあり、本書と大きく異なるため、今は採らない)。倭姫は神剣を取ってこれを授け、「慎んで、怠るなかれ」と言った。日本武尊は進んで駿河(するが)に至り(注:『古事記』は「相模(さがみ)」に作る。『古語拾遺』もまた、相模に至って野火の難に遭った、とする)、土地の賊が偽って「野には麋鹿(おおしか)が多く、狩りをすれば大いに獲物があるでしょう」と言った。日本武尊はその言葉を信じて、野で狩りをした。賊は風に乗じて火を放った。日本武尊は欺かれたと知り、すぐに燧(ひうち)を鑽(き)って火を取り、逆に燃やして難を逃れた(注:本書の一説には、王が帯びていた叢雲剣(むらくものつるぎ)がひとりでに鞘を抜け出て、傍らの野草を薙ぎ払ったので、これによって免れることができた、そのため剣を草薙(くさなぎ)と名付けた、とある。『古事記』は、はじめ伊勢の大神宮に詣でたとき、倭比売命が剣と一つの嚢(ふくろ)を授けて、「事が急ならば、この嚢を開けよ」と言った、賊が火を放つに及んで嚢を開けると燧であった、そこで剣を抜いて草を薙ぎ、燧で火を取り、逆に燃やして脱出した、とする)。賊の一党を撃って殲滅した。そのためその地を焼津(やいづ)と名付けた。進んで相模を経て、上総(かずさ)へ向かおうとし、海を望んで、「これはただの小さな海だ、跳んで越えられよう」と大言した。ところが沖合いで暴風がにわかに起こり、船が漂って危険に陥った。このとき妃の穂積忍山(ほづみのおしやま)の娘、弟橘媛(おとたちばなひめ)が従っており、「これは必ず海神の祟りです。私が身をもってこれを贖いましょう」と申し出た。言い終えるとみずから海に身を投げた(注:『古事記』は、弟橘比売が海に沈んで後、七日して、その櫛が海に浮かび上がった、そこでこれを取って葬り、墳墓を造った、とする)。すると風はやんで岸に着くことができた。上総から転じて陸奥(むつ)に入り、大鏡を船に掛け飾って海に浮かべ、葦浦(あしのうら)を出て、玉浦(たまのうら)を横切り渡って、蝦夷の境に至った。夷の酋長である島津神(しまつかみ)、国津神(くにつかみ)らは兵を竹水門(たかのみなと)に屯(たむろ)させてこれを拒もうとしたが、遠くに日本武尊の船を望み見て驚き怖れ、みな弓矢を投げ捨てて出迎え拝んで、「お姿を仰ぎ見るに、人間離れして秀でておられます、神人でいらっしゃるのではありませんか。お名前をお聞かせください」と言った。日本武尊は「私は現人神(あらひとがみ)の子である」と答えた。蝦夷は震え慄き、水に入って船を引いて岸に着け、後ろ手に縛られて罪を請うた。そこでその酋長を捕虜として従わせ、蝦夷はついに平定された。日高見国(ひたかみのくに)から帰り、西南に常陸(ひたち)を経て、甲斐(かい)に至り、酒折宮(さかおりのみや)に居た。夜、食事の折に歌を作り、侍者に「新治(にいばり)、筑波(つくば)を過ぎて、幾夜か寝つる」と問うたが、侍者たちは誰も答えることができなかった。そのとき、燭(ともしび)を執る者があり、歌を続けて「日日並べて、夜には九夜、日には十日を」と答えた。日本武尊はその機敏さを称え、厚く賞した。こうして、日本武尊は蝦夷がすでに罪に服したものの、信濃(しなの)・越国(こしのくに)はなお従っていなかったので、甲斐から北へ武蔵(むさし)・上野(こうずけ)を経て、西へ碓日坂(うすいざか)に至った。日本武尊は弟橘媛を思い、碓日嶺(うすいのみね)に登って東南を望み、三度嘆いて「吾嬬(あづま)はや」と言った。そのため山の東の諸国を吾嬬国(あづまのくに)と称するようになった。吉備武彦を分け遣わして越国へ赴かせ、地形の険しさ・平易さ、人情の逆順を視察させた。日本武尊はついに信濃に入り、険しい峰と深い谷を越え、飢えて山頂で休んで食事をとった。白い鹿が道に立ちはだかったので、日本武尊はこれを怪しみ、蒜(ひる)を弾いて当てると、目に命中して鹿は斃れた(注:『古事記』は、足柄坂(あしがらざか)の坂本で食事をとり、蒜を弾いて鹿を殺した、坂に登って三度嘆いて「吾妻(あづま)はや」と言った、そのためその国を東(あづま)と名付け、そのまま甲斐に入った、とする)。これより先、信濃坂を過ぎる者は、多く妖しい気にあてられて病んだが、これより後、蒜を噛んで身や牛馬に塗った者は、その患いを免れたという。日本武尊は道に迷って方角が分からなくなった。そのとき白い犬が前を行ったので、これに従って美濃へ出ることができた。このとき吉備武彦が越国から帰ってきて合流した。日本武尊は尾張(おわり)に至り、尾張氏の娘の宮簀媛(みやずひめ)の家に宿った(注:『古事記』は、倭建命が伊勢から尾張に至り、尾張国造の祖の美夜受比売(みやずひめ)の家に宿ってこれを気に入り、再び戻って来た時にと言った、帰りに再びその家に入って寵愛した、とする。『熱田社縁起』は、はじめ日本武尊が東へ向かった際、尾張の愛智郡(あいちのこおり)に至った、そのとき稲種(いなだね)が「この郡の冰上邑(ひかみのむら)には桑や梓(あずさ)の生える地があります、どうか大王はここで御車を止めてお休みください」と申し上げた、日本武尊はその家に至り、その妹の宮酢姫(みやずひめ)を見て気に入り、数日逗留した、そのまま出発して自ら海路を進み、稲種には別に山路を通らせて坂東(ばんどう)で落ち合うことにした、賊を平定して帰る途中、尾張に至ると、ちょうど稲種が海路から帰る途中、駿河の海で船が覆り亡くなったことを知った、日本武尊は訃報を聞いて悲しみ、急いで宮酢姫の家に入った、とある。『神皇正統記』もまた、宮簀媛は尾張の稲種宿禰の妹である、とする)。数か月逗留した後、近江(おうみ)の胆吹山(いぶきやま)に暴神がいると聞き、また赴いた(注:『日本紀』による)。すぐに神剣を解いて宮簀媛に授け、「私は都へ帰ったら、必ず汝を迎えに来よう。謹んでこの剣を持ち、汝の寝所を護るように」と言った。大伴武日は諫めて、「今まさに暴神を誅そうとされるのですから、この剣を頼りにされるべきです」と言った。日本武尊は「私は素手でこれと格闘し、足を挙げて蹴り殺そう」と言った(注:『熱田社縁起』による)。そこで徒歩でその山へ向かった。大蛇が道に横たわっていたが(注:『古事記』は、山の神が白い猪に化けていた、とする)、日本武尊は「これは暴神の使いである。今まさにその神を殺そうとしているのだから、使いなど問うに足りない」と言い、蛇を跨いで進んだ。にわかに雲霧が立ちこめて暗くなり、雨や雹(ひょう)が激しく降り、目の前も見分けられなくなったが、それを冒して前進した(注:『日本紀』による)。玉倉部(たまくらべ)に至ると、酒に酔ったように意識が朦朧としたので、山のふもとで休み、泉の水を飲んで醒めた。そのためこの泉を居醒泉(いさめがい)と名付けた。これより身体に痛みを感じるようになった(注:『日本紀』による。『古事記』も参照した)。そこで「私の心はいつも天をも翔けることができると思っていたのに、今は歩くこともできない」と嘆いた。そこで杖にすがってようやく進んだ(注:『古事記』による)。尾張へ帰ったが、もう宮簀媛の家には入らず、そのまま伊勢に移って尾津(おつ)に至った。かつて東へ向かう途中、尾津の浜で食事をとった際、一振りの剣を松の下に置き忘れたが、この時になってもまだそこにあったので、歌を作って松を賞でた。能褒野(のぼの)に至ると病が重くなり、そこで捕虜とした蝦夷を大神宮に献上し、吉備武彦を遣わして朝廷に、「私は天朝より命を受けて、遠く東夷を征しました。幸いに神の恩を被り、皇威を頼って、叛逆の者どもは誅に伏しました。甲を巻き戈を収めて、凱歌を奏して勝利を報告したいと願っておりましたのに、天命がにわかに至り、独り曠野に臥しております。私は自らを惜しむわけではありませんが、ただ一度お目にかかることができないのが心残りです」と奏上させた(注:『日本紀』による)。病が篤くなると、歌を作って、「乙女の、床の辺に、我が置きし、剣大刀、その大刀はや」と詠んだ(注:『古事記』による)。ついに能褒野で薨じた(注:『旧事紀』は尾張で薨じた、とする。『延喜式』は、能褒野墓は伊勢の鈴鹿郡にある、とする)。享年三十。景行天皇四十三年のことである(注:按ずるに景行天皇二十七年、日本武尊は年十六であった。そうであれば四十三年に至れば三十二歳になるはずである。三十とあるのは、おそらく「二」の字が脱落したものであろう)。
¶天皇は訃報を聞き、昼夜悲しみ泣き、寝食も定まらぬほどで、「わが子小碓王(おうすのみこ)は、熊襲が叛いた日には、軍を率いて征討した。それからは常に朕の左右にあって、朕の至らぬところを助けてくれた。東の夷が騒動を起こしたときも、討伐できる者がなく、愛する子ながらも再び遣わし、片時も心にかけぬ日はなかった。それなのに、どうしてこのような禍でにわかにわが子を失うことになったのか。今より後、誰とともにこの大業を治めていけばよいのか」と仰せられた。すぐに群卿百寮に詔して、能褒野(のぼの)にこれを葬らせた。すると兆域(墓域)から白鳥が現れて飛び去り、棺を開いて見ると、ただ明衣(装束)だけが残っていた。そこで使者を遣わして追い求めさせると、その鳥は倭(やまと)の琴弾原(ことひきのはら)に集まったので、その地に陵を造った。白鳥はまた飛んで河内(かわち)に至り、旧市邑(ふるいちのむら)に留まった(注:『古事記』は「志幾(しき)」に作る)。そこでまた旧市に陵を造ったが、白鳥はまた飛び去って行方が分からなくなった。当時の人はこの三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼んだ(注:『古事記』は、倭建命の妃と子らが、訃報を聞いてともに伊勢に赴き、陵をめぐって哀しみの歌を歌った、その御霊は八尋白智鳥(やひろしろちどり)と化して飛び去った、妃と子らは痛哭して四首の歌を作った、後世これを天皇の挽歌として用いる、とする)。朝廷はその功を録して、武部(たけるべ)を定めた。(景行天皇)五十三年、群臣に詔して、「朕は小碓王を思い、今その平定した国々を巡狩しよう」と仰せられた。そこで伊勢に行幸し、そのまま東海の諸国を経巡って還った。仁徳(にんとく)天皇六十年十月、白鳥陵が本来の埋葬の地ではないという理由で、その陵守を廃止しようと詔し、初めて役丁(えきてい、労役の人夫)を差し向けた。天皇が作業の場に臨むと、陵守の目杵(めき)がたちまち白い鹿と化して走り去った。天皇はこれを見て驚き畏れ、詔して陵守を元のとおりに置くこととした。そして土師連(はじのむらじ)らにこれを授けた(注:『日本紀』による)。
¶日本武尊には七男一女があった。長男を稲依別王(いなよりわけのみこ)、次を仲哀天皇、次を稚武王(わかたけのみこ)、武鼓王(たけつづみのみこ)(注:本書はあるいは「武卵王」に作る。『古事記』は「建見児王(たけみこのみこ)」に、『旧事紀』は「武養蚕命(たけこがいのみこと)」に作る)、十城別王(とおきわけのみこ)、稚武彦王(わかたけひこのみこ)、蘆髪蒲見別王(あしかみかまみわけのみこ)、布忍入姫命(ぬのしいりひめのみこと)といった(注:『古事記』は「蘆髪蒲見別」を「足鏡別(あしかがみわけ)」に、『旧事紀』は「葦敢竈見別(あしかまかまみわけ)」に作るが、音読が相通じる。按ずるに『古事記』には息長田別王(おきながたわけのみこ)があり、『旧事紀』には稲入別命(いないりわけのみこと)、息長田別命、五十目彦王命(いのめひこのみこのみこと)、伊賀彦王(いがひこのみこ)、武田王(たけたのみこ)、佐伯命(さえきのみこと)を載せ、武卵王と武養蚕命を別々の二人としているが、これはおそらく誤りであろう)。稲依別王の子を倉見別(くらみわけ)という。麛坂(かごさか)・忍熊(おしくま)の二王が兵を挙げた際、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)とともに隷属し、ともに将軍となって東国の兵を発したが、敗れるに及んで行方が分からなくなった(注:『日本紀』による。本書の景行紀には、稲依別王は犬上君(いぬかみのきみ)の祖である、とあり、神功紀には、犬上君の祖は倉見別である、とある。今、年紀を推せば、この二人が父子であることは明らかである)。稚武王は須売伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこのみこ)を生み、大中日子王は迦具漏比売(かぐろひめ)を生んだ(注:『古事記』による。按ずるに本書には景行・応神二天皇の妃としてともに迦具漏比売があるが、詳しくは后妃伝に見える)。蘆髪蒲見別王は、仲哀天皇元年十一月、「朕はまだ弱冠にも及ばぬうちに、父王がすでに崩じられ、その御霊は白鳥と化された。仰ぎ望む思いは一日も止むことがない。願わくは白鳥を得て、陵域の池に放ち、時々これを見て、朕の心を慰めたい」と詔した。そこで諸国に白鳥を貢がせた。閏月、越国(こしのくに)が白鳥を献上し、使者に菟道(うじ)の川辺に宿らせた。蒲見別はこれを問うて、「どこへ持って行くのか」と尋ねた。使者は皇命によるものだと答えた。蒲見別は、「白鳥も灸れば黒鳥になるものだ」と言って、これを強奪した。使者がこのことを報告すると、天皇はその無礼を憎み、兵を遣わしてこれを誅した(注:『日本紀』による)。和泉(いずみ)の大鳥郡(おおとりのこおり)の大鳥神社(おおとりじんじゃ)、常陸(ひたち)の那賀郡(なかのこおり)の吉田神社(よしだじんじゃ)は、いずれも日本武尊を祀り、後世これを祀典に列した。
五百城入彥皇子
¶五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)は、景行天皇がまだ太子を立てていなかったころ、諸皇子はみな国県(くにこおり)に封じられたが、五百城入彦は成務天皇・日本武尊とともに朝廷に留まり、儲位(皇太子の位)の候補とされた。子があり、品陀真若王(ほむだのまわかのみこ)といった。品陀真若王は三人の娘を生み(注:『古事記』による)、ともに応神天皇の後宮に入った(注:『日本書紀』『古事記』による)。
稚倭根子皇子
¶忍之別皇子(おしのわけのみこ)。
大酢別皇子
¶稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)。
五十狹城入彥皇子
¶大酢別皇子(おおすわけのみこ)。
吉備兄彥皇子
¶五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)。
神櫛皇子
¶吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)。
稻背入彥皇子
¶神櫛皇子(かみくしのみこ)。
武國凝別皇子
¶稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)。子があり、御諸別(みもろわけ)といった。成務天皇の時、針間国(はりまのくに)を中分してこれを賜ったので、針間別(はりまわけ)と号した。御諸別の子を柯良都命(からつのみこと)といい、一名を伊許白別(いこじろわけ)という。応神天皇が国境を定めようとして、車駕を針間国に巡幸させ、神崎郡(かんざきのこおり)の瓦村(かわらむら)の東の丘の上に至った。そのとき青菜が丘のほとりの水の流れに浮かんでいたので、天皇は「上流には必ず人がいるはずだ」と仰せられた。そこで伊許白別を遣わしてこれを調べさせたところ、はたして住民がいて、「日本武尊が東征の折に捕虜とした蝦夷を、針間・阿蘇(あそ)・阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)などの国々に分散させて遣わされました。私どもはその子孫であり、そのままここに住んでおります。後に佐伯(さえき)を氏としました」と言った。伊許白別が帰ってその様子を奏上すると、天皇は伊許白別に、「汝はよろしく君(きみ)としてこれを治めよ」と詔した。そこで針間別佐伯直(はりまわけさえきのあたい)の姓を賜った。古くは「君」を「直(あたい)」と言ったので、この姓を賜ったのである(注:『姓氏録』による)。
日向襲津彥皇子
¶武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)。
國乳別皇子
¶日向襲津彦皇子(ひゅうがのそつひこのみこ)。
國背別皇子
¶国乳別皇子(くにちわけのみこ)。
豐戶別皇子
¶国背別皇子(くにせわけのみこ)。
豐國別皇子
¶豊戸別皇子(とよとわけのみこ)。
五十功彥命
¶豊国別皇子(とよくにわけのみこ)。
真若王
¶五十功彦命(いさおひこのみこと)。
彥人大兄王
¶真若王(まわかのみこ)。
大江王
¶彦人大兄王(ひこひとのおおえのみこ)。娘を大中姫(おおなかつひめ)といい(注:『古事記』は大江王(おおえのみこ)の娘とする)、仲哀天皇の後宮に入った(注:『日本紀』による)。
豐門入彥命
¶大江王(おおえのみこ)。子があり、大名方王(おおなかたのみこ)といった(注:『古事記』による)。
稚屋彥命
¶豊門入彦命(とよといりひこのみこと)。
武國皇別命
¶稚屋彦命(わかやひこのみこと)。
真稚彥命
¶武国皇別命(たけくにこわけのみこと)。
天帶根命
¶真稚彦命(まわかひこのみこと)。
大曾色別命
¶天帯根命(あまたらしねのみこと)。
五十河彥命
¶大曾色別命(おおそしこわけのみこと)。
石社別命
¶五十河彦命(いかわひこのみこと)。
大稻背別命
¶石社別命(いわこそわけのみこと)。
武押別命
¶大稲背別命(おおいなせわけのみこと)。
不知來入彥命
¶武押別命(たけおしわけのみこと)。
曾能目別命
¶不知来入彦命(しらぬいりひこのみこと)。
十市入彥命
¶曾能目別命(そのめわけのみこと)。
襲小橋別命
¶十市入彦命(とおちいりひこのみこと)。
色已焦別命
¶襲小橋別命(そのおばせわけのみこと)。
熊津彥命
息前彥人大兄水城命
¶熊津彦命(くまつひこのみこと)。
熊忍津彥命
¶息前彦人大兄水城命(おきさきひこひとのおおえみずきのみこと)。
櫛見皇命
¶熊忍津彦命(くまおしつひこのみこと)。
武弟別命
¶櫛見皇命(くしみのみこのみこと)(注:「皇」の下に「子」の字が脱落している疑いがある)。
草木命
¶武弟別命(たけおとわけのみこと)。
稚根子皇子命
¶草木命(くさきのみこと)。
兄彥命
¶稚根子皇子命(わかねこのみこのみこと)。
手事別命
¶兄彦命(えひこのみこと)。
大我門別命
¶手事別命(たごとわけのみこと)。
豐日別命
¶大我門別命(おおがとわけのみこと)。
三川宿彌命
¶豊日別命(とよひわけのみこと)。
豐手別命
¶三川宿禰命(みかわのすくねのみこと)。
倭宿禰命
¶豊手別命(とよてわけのみこと)。
豐津彥命
¶倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)。
五百木根命
¶豊津彦命(とよつひこのみこと)。
弟別命
¶五百木根命(いおきねのみこと)。
大焦別命
¶弟別命(おとわけのみこと)。
¶大焦別命(おおこそわけのみこと)。