卷之一百八 列傳第三十五
武內宿禰、平群木菟宿禰、紀角宿禰、葛城長江襲津彥ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
武內宿禰
¶武内宿禰(たけのうちのすくね)は、孝元天皇の皇子・彦太忍信命(ひこふとおしのまことのみこと)の子孫にあたる。彦太忍信は屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を生んだ。屋主忍男武雄心は、景行天皇三年、紀伊国の神々を祀るよう命じられ、阿備(あび)の柏原に至り、そこに九年間住んだ。菟道彦(うじひこ)の娘・影媛(かげひめ)を娶り、五人の子をもうけた(注:『古事記』では「女」を「妹」に作る)。二十五年、武内は命を受けて東北諸国の情勢と民情を巡察した。二十七年、帰還して奏上した。「東の夷(えみし)の地に日高見国(ひたかみのくに)があります。男女とも入れ墨をし、髷を椎の形に結い、気性は勇猛で、これを蝦夷(えみし)と呼びます。土地は肥沃で広大ですから、討って奪うべきです。」四十年に至り、東の夷が反乱を起こした。天皇はそこで皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に討伐を命じ、これを平定させた。五十一年正月、天皇は群臣を朝廷に召し、数日にわたり宴を賜ったが、稚足彦皇子(わかたらしひこのみこ)と武内だけは宴に加わらず、ともに門の下に控えて不測の事態に備えた。天皇はこれを喜んだ。この年八月、ついに皇子を皇太子に立てた。これがのちの成務天皇である。この日、武内は国家の柱石たる臣とされた。もともと武内と成務天皇は同じ日に生まれており(注:『旧事本紀』は景行天皇と同じ日に生まれたとするが、これは誤りである)、二人は非常に親しい間柄であった。成務天皇が即位すると、武内は大臣に任じられ、格別の寵愛を受けた(注:『日本書紀』による)。大臣という官職はこの時に始まったとされる(注:『公卿補任』『神皇正統記』による)。
¶仲哀天皇が熊襲を征討し、筑紫で崩御した際、武内は皇后と謀って喪を秘して発表しなかった。皇后はひそかに天皇の棺を武内に託し、穴門(あなと)に移した。当時は軍事・国事ともに多忙で葬儀を行うことができず、豊浦宮(とゆらのみや)に仮に安置してから都に帰った。皇后は自ら三韓を親征し、帰途筑紫に至って応神天皇を出産した。辛巳の年二月、天皇(応神)を奉じて都に帰る途上、麛坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊皇子(おしくまのみこ)が兵を挙げ、播磨で待ち構えた。皇后はこれを聞き、水軍を率いて難波に向かい、武内には天皇を奉じて南海路を進ませた。武内は紀伊の水門(みなと)に至り、皇后と日高(ひだか)で合流した。三月、皇后は武内と武振熊(たけふるくま)(注:『古事記』では忍熊討伐の功を武振熊のものとし、武内の名を載せていない)に命じて忍熊を討たせた。武内は精鋭の兵を率いて山背(やましろ)から菟道(うじ)の屯河(たむろがわ)の北に出て忍熊と対峙し、全軍に髷を椎の形に結わせ、弓の弦を髻(もとどり)に隠し、帯びた刀を隠して別に木刀を配らせるという策をとった。そして皇后の命と称して忍熊を誘い、こう言わせた。「私には天下を望む気持ちはなく、ただ幼い皇子を抱いて君にお仕えしているだけです。どうか共に弦を断ち武器を捨てて、和睦いたしましょう。そうすれば、あなたは天位に登り、枕を高くして安んじ、思うままに国政を執ることができましょう。」そこで武内の兵は弦を断ち武器を解いて、ことごとく河に投げ入れた。忍熊はこれを信じ、同じく弦を断ち武器を解いた。武内はそこで命令を発し、隠しておいた刀と弦を取り出させ、河を渡って不意を襲った。忍熊は敗れて逃げ、武内はこれを逢坂(おうさか)・狭々浪(ささなみ)の栗林(くるす)で重ねて打ち破り、多くを斬り捕えた。忍熊は追い詰められ、水に身を投げて死んだ。
¶癸巳の年、武内は太后の詔を受け、天皇を奉じて角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひのおおかみ)に参詣した。帰途、皇后は天皇の長寿を祝う歌を詠み、武内もまた天皇に代わって答えの歌を詠んだ。天皇即位七年、武内は韓人(からひと)を監督して大倭(やまと)に池を掘らせ、これを韓人池(からひといけ)と名づけた。九年、勅命を受けて筑紫を視察した。その弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が天皇に讒言して言った。「武内は筑紫に拠って三韓を招き、よからぬことを企てております。」天皇はこれを信じ、使者を遣わして武内を殺させようとした。武内はこれを聞いて嘆いて言った。「私に二心はなく、忠義をもって主君に仕えてきた。それなのに、なぜ罪もなく死なねばならないのか。」その時、真根子(まねこ)という者が武内に説いて言った。「大臣が赤心をもって主君にお仕えになっていることは、天下の誰もが知るところです。どうかひそかに都へ上り、自ら潔白を弁明されよ。それから死んでも遅くはありません。世の人は私の顔立ちが大臣に似ていると申します。どうか身代わりにさせてください。」そして自ら剣に伏して死んだ。武内は大いに悲しみ感じ入り、その言葉に従って、ひそかに筑紫を逃れ南海路をとって都に上り、宮中に参上して自ら潔白を明らかにした。天皇は武内と甘美内を尋問し、二人に磯城川(しきがわ)の浜で探湯(くかたち)をさせ、神々に真偽を問うた。甘美内は罪に服し、武内は帯びた刀で甘美内を打ちすえて地に倒し、殺そうとした。天皇は特に詔してこれを止めさせ、甘美内を紀直(きのあたい)らの祖先に奴婢として賜った。武内は以前と変わらず政治を執った。
¶仁徳天皇五十年、河内(かわち)の茨田(まむた)の堤に雁が卵を産み雛をかえしたことがあり、天皇はこれを歌に詠んで武内に問うた。武内もまた歌で答えた(注:『日本書紀』による)。五十五年、武内は薨じた(注:『帝王編年記』は七十八年に薨じたとする)。武内は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕え、在官二百四十四年に及んだというが(注:『公卿補任』の一説、『水鏡』による)、その享年は詳らかでない(注:『公卿補任』の一説による。『公卿補任』は「薨年未詳」とし、また一説に「享年二百九十五歳」とも載せる。『水鏡』は二百八十歳とする。石清水社の社司の系譜は三百六十歳、あるいは二百五十五歳とする。その他の諸説は入り乱れている。考えるに、宋の使者による『日本伝』には「紀武内、年三百七歳」とあり、朝鮮の申叔舟(しんしゅくしゅう)の『海東諸国紀』には「武内の死んだ年は三百四十歳、六代の朝廷に歴仕した」とある。参考までに付す)。応神天皇の廟に配祀された(注:『鳩嶺宮寺縁事抄』による)。
¶武内には七人の子がいた。羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)、巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)、蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、紀角宿禰(きのつののすくね)(注:紀氏の本書では「木」に作るが、今は『日本書紀』に従う)、葛城長江襲津彦(かつらぎのながえのそつびこ)(注:『姓氏録』では「襲津彦命」に作る)、若子宿禰(わくごのすくね)である(注:『古事記』による)。巨勢小柄宿禰には三人の子があった。星川建日子(ほしかわのたけひこ)(注:『続日本紀』天平勝宝三年による。『姓氏録』では「星河建彦宿禰」に作る)は、応神天皇の御代、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、のちの仁徳天皇)に代わって木綿(ゆう)の襷(たすき)をかけ、御膳(みけ)を監督する役を務め、そのため大雀臣(おおさざきのおみ)の姓を賜った(注:『姓氏録』による)。伊刀宿禰(いとのすくね)、乎利宿禰(おりのすくね)がいた(注:『続日本紀』天平勝宝三年による)。蘇我石川宿禰(注:『三代実録』によれば、河内国石川で生まれたためこれを名とし、宗我(そが)の大家(おおやけ)を賜って住んだことから宗我宿禰の姓を賜ったというが、それがいつのことかは記されていない)には満智宿禰(まちのすくね)という子があった(注:『姓氏録』によれば「宗我石川宿禰の四世の孫が稲目である」とし、『公卿補任』は「稲目は満智宿禰の曾孫である」とする。これらから考えると、満智が石川の子であることは明らかであり、今はこれに従う)。履中天皇二年、平群木菟らとともに政治を執った(注:『日本書紀』による)。満智の子を韓子(からこ)という(注:『公卿補任』による)。雄略天皇の時、紀小弓(きのおゆみ)らとともに新羅征討を命じられ、陣中で紀大磐(きのおおいわ)に殺された(注:『日本書紀』による)。この話は「小弓伝」に載せる。
平群木菟宿禰
¶平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)は、仁徳天皇と同じ日に生まれた。生まれたとき、鷦鷯(みそさざい)が仁徳天皇の産室に入り、木菟(みみずく)が平群の産室に入った。応神天皇はこれを吉兆として、武内に命じて互いの名を取り替えさせ、そのため「木菟」と名づけられた。応神天皇十六年、的戸田(いくはのとだ)とともに兵を率いて新羅を討った。これより先、天皇は葛城長江襲津彦を加羅(から)に遣わし、弓月(ゆづき)の民を召し寄せようとしたが、新羅がこれを引き止め、三年たっても帰らせなかった。そこで木菟らに詔して兵を発し、新羅の罪を問わせた。木菟らの兵がその国境に迫ると、新羅は恐れ入って謝罪し、ついに襲津彦とともに弓月の民を率いて帰った。住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が謀反を起こしたとき、木菟らは履中天皇を助けて逃がし、反正天皇(はんぜいてんのう)に従って難波に至り、刺領巾(さしひれ)を誘い出させて仲皇子を殺させた。木菟は反正天皇に奏上して言った。「刺領巾は我らに功がありましたが、自らその主君を手にかけました。その罪は許されるものではございません。」天皇はこれに従い、刺領巾を誅殺した。履中天皇二年、蘇賀満智(そがのまち)、物部伊莒弗(もののべのいこふつ)、葛城円(かつらぎのつぶら)とともに政治を執った(注:『日本書紀』による)。薨じたのは百二十八歳のときであった(注:『紀氏系譜』による)。子の真鳥(まとり)には別に伝がある。
紀角宿禰
¶紀角宿禰(きのつののすくね)は、応神天皇三年、羽田矢代(はたのやしろ)、蘇我石川(そがのいしかわ)、平群木菟(へぐりのつく)とともに百済に赴き、その王・辰斯(しんし)の無礼をとがめた。百済の国人は辰斯を殺し、そこで阿花(あか)を王に立てて帰国した。仁徳天皇四十一年、勅命を受けて再び百済に赴き、初めて国郡の境界を定め、物産を調査記録した(注:『日本書紀』による)。子の田鳥(たとり)は、仁徳天皇の時代に都怒(つの)の国造(くにのみやつこ)となった(注:『旧事紀』による)。
葛城長江襲津彥
¶葛城長江襲津彦(かつらぎのながえのそつびこ)は、応神天皇乙酉(きのととり)の年、新羅が汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)を遣わして貢物を献じ、以前人質としていた微叱許智(みしこち)を帰国させたいと偽りの奏請をした。太后はそれと気づかず許可し、襲津彦に護送を命じた。一行は対馬の鉏海(さひのうみ)の水門(みなと)に宿った。毛麻利叱智らは相談し、微叱許智を先に新羅へ逃がし、藁で人形を作って微叱許智の寝床に置き、襲津彦を欺いて言った。「微叱許智は急病でまもなく死にそうです。」襲津彦が人を遣わして見させると、初めて欺かれたことを知り、大いに怒って毛麻利叱智ら三人を捕らえ、檻に閉じ込めて焼き殺した。そのまま新羅に向かい、蹈鞴津(たたらのつ)に至って草羅城(さわらのさし)を攻め落とし、その民を捕虜として連れ帰った。壬午(みずのえうま)の年、新羅が貢物を納めなかったため、襲津彦は軍を率いてこれを討った。十四年、加羅(から)に遣わされ、弓月(ゆづき)の民を召し寄せようとしたが新羅に引き止められ、三年たって帰った(注:『日本書紀』による。同書の神功紀の注に引く『百済記』にはこうある。「壬午の年、新羅は貴国(日本)に朝貢しなかった。貴国は沙至比跪(さちひこ)を遣わしてこれを討たせた。新羅の人々は美しく装った二人の女を港に出迎えとして送った。沙至比跪はこれを受け入れ、逆に加羅を討った。加羅の王は一族・人民を挙げて百済に逃れた。百済王は厚くこれを遇した。加羅王の妹は大倭(やまと)に至って訴えて言った。『天皇は沙至比跪を遣わして新羅を討たせましたが、彼は新羅の美女を受け入れて討伐をやめ、逆に我が国を滅ぼしました。兄弟や人民は皆離散してしまいました。それゆえ参りまして訴え申し上げます。』天皇は大いに怒り、木羅斤資(もくらこんし)に兵を率いさせて加羅を回復させた。また一説には、沙至比跪は帰国すれば罰せられることを恐れた。彼の妹は天皇の後宮に仕えていた。沙至比跪はひそかに使いをやって天皇の怒りが解けたかどうかを尋ねさせた。妹は偽って『今夜、沙至比跪の夢を見ました』と奏上した。天皇は怒って『比跪がどうしてやって来られようか』と言った。妹がそれを兄に伝えると、比跪は許されないことを悟り、石窟に入って死んだという。思うに、沙至比跪とは襲津彦のことであろう。しかし仁徳紀四十一年の条にはまた、百済王が襲津彦に酒君(さけのきみ)を託して献上したとあり、これによれば襲津彦は当時まだ百済で死んではいないことになり、『百済記』の記述はおそらく誤りであろう」)。
¶子は葦田宿禰(あしだのすくね)(注:『古事記』による)、腰裾宿禰(こしものすくね)(注:『姓氏録』による)、熊道足禰(くまじのすくね)(注:『続日本紀』延暦十年による。同書は雄道(おみち)を襲津彦の第六子とするので、襲津彦の子女はこれだけにとどまらないはずだが、今は考証する術がない)。娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となった。葦田の孫娘・荑媛(はえひめ)は市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)に嫁ぎ、顕宗(けんぞう)・仁賢(にんけん)の二天皇を生んだ(注:葦田以下は、本書の顕宗紀の注による)。襲津彦の孫を玉田宿禰(たまだのすくね)という(注:本書には父の名が記されていない)。允恭天皇五年、反正天皇の殯宮(もがりのみや)の儀を掌ったが、そのとき地震が起こった。天皇は尾張吾襲(おわりのあそ)を遣わして殯宮の様子を視察させたところ、玉田はその場におらず、吾襲はその状況を奏上した。天皇は吾襲を葛城に遣わして様子を見させたところ、玉田はちょうど男女を集めて酒宴を開いていた。吾襲が天皇の意向を伝えると、玉田は恐れをなし、馬一匹を吾襲に贈って、途中でひそかに殺害し、その死体を武内の墓所に隠した。天皇が玉田を召したところ、玉田は鎧を着込んで参上したが、その鎧の端が見えてしまった。天皇は真相を確かめようと、小墾田采女(おはりだのうねめ)に命じて酒を賜わせた。采女はことの次第をつぶさに報告した。天皇は怒り、玉田を殺そうとしたが、玉田は自宅に逃げ隠れた。天皇は詔して兵を発し家を包囲させ、捕らえて誅殺した(注:『日本書紀』による。同書の雄略天皇の条の注に、「田狭臣(たさのおみ)の妻・毛媛(けひめ)は、葛城襲津彦の子・玉田宿禰の娘である」とある。これによれば毛媛は襲津彦の子ということになるが、いずれが正しいか分からない。しかし毛媛が田狭の妻であるという話は雄略紀本文の記述と食い違うため、今はこれを採らない。詳しくは雄略天皇の后妃の伝の注に記す)。玉田の子・円(つぶら)には別に伝がある。
千熊長彥
¶的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)(注:本書では「戸」を「砥」に作ることもある)は、初めは盾人宿禰(たてひとのすくね)と名のっていた(注:本書には的臣(いくはのおみ)の祖を盾人宿禰とするが、父の名は記されていない。『姓氏録』によれば的臣は葛城襲津彦命の後裔であるという。今、その時期を推し量ると、おそらく襲津彦の子であろう。そのためここに付す)。応神天皇十六年、平群木菟とともに兵を率いて新羅を討った。仁徳天皇十二年、高麗(こま)が鉄の盾と鉄の的(まと)を献上した。天皇は高麗人を朝廷でもてなし、群臣を集めて盾の的を射させたが、誰も射通すことができなかった。戸田は射てこれを貫いた。高麗人は大いに驚き、こぞって立って拝礼した。天皇はこれを褒め、翌日、今の名を改めて賜った(注:本書の応神紀に「的戸田宿禰」と称するのは、後から遡って呼んだものであろう)。十七年、賢遺臣(かたのおみ)とともに新羅に使いし、貢物を欠いたことを責めた。新羅は恐れ入って命に従った。賢遺臣は、初め宿禰巨(すくねこ)と名のっていたが、戸田と同じ日に今の名を賜った(注:『日本書紀』による)。
荒田別命
¶千熊長彦(ちくまのながひこ)は、どこの出身の人かは分からない。ある説では武蔵(むさし)の人だという(注:本書の注による。同書の注はまた『百済記』を引いて「職麻那那加比跪(しきまなかひこ)という者がいる。おそらくこの人物であろう」とする)。応神天皇丁卯(ひのとう)の年、百済と新羅がそろって朝貢した。新羅は途中で百済の使者を襲い、その貢物を奪い、粗悪な品にすり替えて献上した。朝廷は百済の使者を問いただし、百済の使者・久氐(くて)らはありのままに答えた。そこで新羅の使者を厳しく責め、さらに使者を遣わして事情を調べさせようとした。天神に祈ってふさわしい使者を選ばせたところ、天神は「武内に議を定めさせ、千熊長彦を使者とするのがよい」と告げた。そこで長彦を新羅に遣わしてこれを責めさせた。己巳(つちのとみ)の年、荒田別(あらたわけ)、鹿我別(かがわけ)を遣わし、兵を率いて新羅を討ちこれを破らせ、諸軍はみな帰還した。長彦だけは百済に至り、その王・肖古(しょうこ)と辟支山(へきさん)で盟約を結び、さらに古沙山(こさやま)に登って、ともに磐座(いわくら)の上に座した。肖古は誓って言った。「今より後、永くわが国を西の藩屏(はんぺい)と称し、春秋ごとに朝貢いたします。」そして長彦とともに百済の都に帰り、いっそう手厚くもてなした。久氐(くて)を遣わして長彦を護送し、日本に帰らせた。辛未(かのとひつじ)の年、久氐は用務を終えて帰国した。天皇はまた長彦に命じ、久氐とともに百済に至って詔命を伝えさせた。翌年、長彦は帰国した。百済王はふたたび久氐を遣わして朝貢し、これより毎年貢物を欠かすことがなくなったのは、長彦の尽力によるものである(注:『日本書紀』による)。
田道
¶荒田別命(あらたわけのみこと)は、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の四世の孫である(注:『姓氏録』による。本書では「大荒田別命」とも書く)。応神天皇己巳(つちのとみ)の年、鹿我別(かがわけ)とともに将軍となり、新羅を討った。百済の久氐(くて)らとともに兵を率いて淖淳(たくじゅん)に至り、新羅を襲おうとした。ある者が「兵の数が少ないので、勝てるとしても、沙白(さはく)・蓋慮(がいりょ)を遣わして援軍を求めるべきだ」と言った。そこで木羅斤資(もくらこんし)、沙沙奴跪(ささなこ)らが精鋭を率いて合流し、ともに新羅を攻めてこれを破り、比自鉢(ひじほつ)、南加羅(ありひしのから)、彔(とく)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七か国を平定した。さらに兵を西に進めて古奚津(こけいのつ)に至り、南蛮の忱彌多禮(とむたれ)を討ち滅ぼし、その地を百済に与えた。百済王・肖古(しょうこ)はその子・貴須(くいす)とともに軍を率いて来た。比利(ひり)、辟中(へきちゅう)、布彌支(ほむき)、半古(はんこ)の四邑は、その勢いを見て降伏した。荒田別らは意流村(おるのむら)で肖古と会見した。肖古は大いに喜び、手厚く礼をつくして送り返した。翌年二月、荒田別は都に帰った。天皇即位十五年、百済に使いし、学識のある人物を求めて王仁(わに)・辰孫王(しんそんおう)を得て帰った(注:『日本書紀』による。辰孫王については『続日本紀』による。詳しくは「船辰爾伝」に記す)。子は竹葉瀬(たかはせ)、田道(たじ)である(注:『日本書紀』には父の名が記されていないので、今は『姓氏録』による。竹葉瀬は『姓氏録』では「多奇波世(たかはせ)」に作る。多奇波世と竹葉瀬とは音訓が通じる)。竹葉瀬の三世の孫・久比(くひ)は、崇峻天皇の時代に呉(くれ)の国に使いし、帰国してさまざまな品を献上した。その中に呉の秤(はかり)があった。天皇がこれについて尋ねると、久比は「呉の国では品物の軽重を定めて交易を行います。これを『波加理(はかり)』と申します」と答えた。久比の子・宗麻呂(むねまろ)は、舒明天皇の時代に商長首(あきのおさのおびと)の姓を賜った(注:『姓氏録』による)。
¶田道(たじ)は、仁徳天皇五十三年、新羅が貢物を欠いたため、兄の竹葉瀬(たかはせ)を遣わしてこれを責めさせたところ、途中で白鹿を得て帰り、これを献上した。そこであらためて田道を遣わすこととし、精鋭の兵を授けて詔した。「もし新羅が命に逆らうならば、直ちに討つがよい。」新羅は案の定これを拒み、しばしば戦いを挑んできた。田道は砦を固めて出撃せず、新羅の兵を捕らえて敵軍の実情を尋ねた。捕虜は「百衝(ひゃくしょう)という者がおり、たいへん勇猛で、常に右軍のために先鋒を務めています。もし左軍を攻めれば、必ず破れるでしょう」と答えた。田道はそこで精鋭の騎兵を選び、その左軍を攻めた。新羅軍は大いに崩れ、田道はその勝ちに乗じて追撃し、数百人を殺傷して、四つの邑の民を捕虜として連れ帰った。五十五年、蝦夷(えみし)が反乱を起こしたので、田道に命じてこれを討たせた。田道は伊寺(いじ)の水門(みなと)で戦い、敗れて戦死した。その後、蝦夷はたびたび侵略を繰り返し、ついに田道の墓をあばいた。すると墓の中から大蛇が現れ、目をいからせて蝦夷の賊を噛み、彼らはみなその毒にあたって多くが死んだ。当時の人々は「田道は死んでもなお恨みを晴らすことができた。死者に知覚がないなどと、誰が言えようか」と語り合った(注:『日本書紀』による)。もともと田道は百済に使いした際、止美邑(とみのむら)の呉の女を娶り、持君(もちのきみ)をもうけた。持君は百済にとどまり住み、その三世の孫を熊次(くまなみ)、新羅(しらぎ)という。欽明天皇の時代、百済から日本に渡ってきた。新羅の子・吉雄(よしお)は止美連(とみのむらじ)の姓を賜った(注:『姓氏録』による)。