卷之第四 本紀第四

仁德天皇、履中天皇、反正天皇、允恭天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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仁德天皇

仁德天皇は、應神帝(おうじんてい)の第四子である。母は仲姬(なかつひめ)皇后。

天皇がお生まれになったとき、木兔(つく、みみずく)が産殿に飛び込んできた。同じ日、大臣・武內宿禰(たけのうちのすくね)にも子が生まれ、鷦鷯(さざき、みそさざい)が産室に入り込んだ。應神帝はこれを瑞兆として喜び、武內宿禰にこう仰せられた。「今、朕の子と大臣の子とが同じ日に生まれ、しかもともに瑞祥があった。それぞれ入り込んだ鳥の名を取り、互いに名を交換して子に名づけ、後の世までの契りとしよう。」そこで天皇には大鷦鷯(おおさざき)と名づけた。

四十年正月、應神帝は天皇と大山守皇子(おおやまもりのみこ)に「そなたたちは子を愛しく思うか」と尋ねた。二人は「たいへん愛しく思います」と答えた。帝はさらに「年長の子と年少の子と、どちらを愛しく思うか」と問うた。大山守皇子は「年長の子には及びません」と答えた。帝はもとより末子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を寵愛し、これを皇太子に立てようと考えていたため、この答えを聞いて機嫌を悪くした。天皇はその心中を察して、こう答えた。「年長の者は多くの歳月を経てすでに一人前になっており、もはや心配はいりません。年少の子はまだその成長ぶりがわからないだけに、いっそう可愛く思われるものです。」帝は大いに喜び、「まことに朕の心にかなう答えである」と言い、ついに稚郎子を皇太子に立て、天皇にこれを補佐させた。

四十一年二月、應神帝が崩御した。皇太子は天皇に位を譲ろうとし、みずからは菟道(うじ)に退いた。天皇は、名分がもとより定まっているとして、これを聞き入れなかった。ちょうどそのころ大山守皇子が謀反を企てたが、天皇はその企みを知り、密かに皇太子に告げ、兵を備えさせてこれを討ち滅ぼした。皇太子はあくまで天皇に即位してほしいと望み、互いに位を譲り合うこと三年に及び、民は誰に従えばよいのかわからなくなった。天皇の意志はますます固く、皇太子はもはや天皇の心を動かせないと悟って、ついに自害した。天皇は大いに驚き、難波から菟道へ馳せつけ、喪服を身にまとって哀悼の意を表し、はげしく泣き悲しんだ。

元年癸酉、春正月三日己卯、天皇が即位した(注:水鏡・皇年代略記はいずれもこのとき24歳とするが、本書の記述とは合わない。詳細は後述する)。これを大鷦鷯天皇という。皇后を尊んで皇太后とし、大臣は武內宿禰がそのまま留任した(注:「大臣」以下は公卿補任による)。都を難波に置き、これを高津宮(たかつのみや)という。宮殿の壁は白く塗らず、梁や柱にも飾りをつけず、もっぱら質素倹約に努め、民の農繁期を妨げなかった。

二年甲戌、春三月八日戊寅、磐之媛命(いわのひめのみこと)を皇后に立てた。

四年丙子、春二月六日甲子、群臣に詔してこう仰せられた。「朕が高台に登って遠くを望んだところ、国中にかまどの煙が立っていなかった。思うに、百姓がすでに貧しく、家に炊事をする者がいないのであろう。朕が聞くところでは、いにしえの聖王の御代には、人々は徳をたたえる声を上げ、家々には安泰を喜ぶ歌があったという。今、朕が万民に臨んでから三年になるが、そのような称賛の声は起こらず、炊煙もますますまばらになっている。これはすなわち、五穀が実らず、百姓が困窮していることの表れである。畿内でさえなお満ち足りない者がいるのだから、まして畿外の諸国はなおさらであろう。」三月二十一日己酉、さらに詔してこう仰せられた。「今より以後三年間、課役をすべて免除し、百姓の苦しみを休めよう。」こうして、天皇御自身も、刺繍の衣や履物は破れ尽くすまで新しくせず、温かい飯や汁物も酸味を帯び傷むまで取り替えなかった。心を慎み志を節し、無為(むい、何もせず自然にまかせること)に徹して政をなさった。この後、宮垣は崩れても造り直さず、茅葺きの屋根も傷んでも葺き替えなかった。やがて風雨は時にかなって順調となり、五穀は豊かに実り、三年のうちに百姓は富み栄え、歓喜の声が道に満ちた。

七年己卯、夏四月辛未朔、天皇は高台に登り、かまどの煙が盛んに立ち上るのをご覧になった。皇后に「朕はすでに富んだ。もう何を憂えることがあろうか」と仰せられると、皇后は「今なお宮殿は朽ち崩れ、雨露をしのぐこともできませんのに、どうして富んだと言えましょうか」と申し上げた。天皇はこう仰せられた。「天が君主を立てるのは、もとより百姓のためである。それゆえ君主は百姓を根本とする。いにしえの聖王は、たった一人でも飢え凍える者があれば、わが身を省みて責めたという。百姓が貧しければ朕もまた貧しく、百姓が富めば朕もまた富むのだ。百姓が富んでいながら君主だけが貧しいなどということはあり得ない。」(注:水鏡・神皇正統記にはいずれも、このとき天皇は喜んでこう歌ったとある。「高屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑わいにけり」。考えるに、延喜年間の日本紀竟宴和歌において藤原時平がこの天皇を詠んだ歌がこれと近い詞であり、おそらく後人が手を加えて天皇の御製としたものであろう。しかし新古今集にもこの歌は収められており、すでに広く人口に膾炙している。ひとまずここに付記しておく。)秋八月九日丁丑、去來穗別皇子(いざほわけのみこ)のために壬生部(みぶべ)を定めた(注:本書の履中紀には、三十一年に皇太子に立てられたとき15歳、崩御のとき70歳とある。これによれば、このとき履中帝はまだ生まれていないことになり、あるいは記述に誤りがあるのかもしれない。詳細は履中紀に述べる)。皇后のためには葛城部(かつらぎべ)を定めた。九月、諸国が申し出て言った。「課役をともに免除されてから、すでに三年が経ちました。今や百姓は富み栄え、道に落ちている物を拾う者もなく、家には蓄えの余りがあります。それなのに宮殿は朽ち崩れ、府庫も満たされておりません。どうか税や調(みつぎ)を納めさせ、宮室を修理させてください。」天皇はこれを聞き入れなかった。

十年壬午、冬十月、初めて課役を科し、宮室を造営させた。そこで百姓は老人を助け幼子の手を引いて、我先にと工事に駆けつけた。材木を運び、もっこで土を運び、昼夜を分かたず作業に励んだ。ほどなくして、宮室はことごとく完成した。

十一年癸未、夏四月十七日甲午、詔してこう仰せられた。「朕が今この地を見るに、郊外の湿地は広々として、田畑は少ない。河の水は横に溢れ、下流の流れも滞っている。長雨に見舞われるたびに海の潮が逆流してきて、道を行くのに舟を用いる有様である。水路を切り開いて海へ流し、田や住居を保全すべきである。」冬十月、宮の北に水路を掘り、海に通じさせた。これを掘江(ほりえ)と名づけた。また茨田堤(まんだのつつみ)を築き、北の河を防いだ。この年、新羅(しらぎ)が朝貢してきた。

十二年甲申、秋七月三日癸酉、高麗(こうらい)が鉄の盾と鉄の的を貢いできた。八月十日己酉、高麗の使者に饗宴を賜り、群臣に命じて貢がれた盾と的を射させた。冬十月、山背(やましろ)の栗隈県(くりくまのあがた)に大きな溝を掘り、田に水を引かせた。民はその恩恵を受けた。

十三年乙酉、秋九月、初めて茨田屯倉(まんだのみやけ)を置き、あわせて春米部(つきしねべ)を定めた。冬十月、和珥池(わにいけ)を作り、横野堤(よこののつつみ)を築いた(注:古事記には、あわせて依網池(よさみいけ)を作り、小椅江(おばしえ)を掘り、墨江(すみのえ)の津を定めた、とある。考えるに、依網池を作ったのは崇神帝の御代のことであり、古事記の記述はこれと重複しているものであろう)。

十四年丙戌、冬十一月、猪甘津(いかいのつ)に橋を架けた。この年、京の中に大路を開き、南門から丹比邑(たじひのむら)まで真っ直ぐに通した。また感玖(こむく)に大きな溝を掘り、石河(いしかわ)の水を引いて上鈴鹿(かみつすずか)・下鈴鹿(しもつすずか)・上豐浦(かみつとゆら)・下豐浦(しもつとゆら)の郊外の原野を潤し、四万余頃(けい)の田を開墾した。

十七年己丑、新羅が朝貢してこなかった。秋九月、砥田宿禰(とだのすくね)・賢遺臣(さかたのおみ)を遣わして、これを問い質させた。新羅は恐れ入り、絹その他の品を八十艘の船に積んで貢いできた。

三十年壬寅、秋九月十一日乙丑、皇后が紀伊国(きのくに)に行幸した。この日、天皇は八田皇女(やたのひめみこ)を妃として迎えた。皇后は都へ戻る途中、山背(やましろ)に至って筒城宮(つつきのみや)を作り、そこに住んだ。冬十月七日庚申、天皇は山背に行幸し、筒城宮に至った。

三十一年癸卯、春正月十五日丁卯、去來穗別尊(いざほわけのみこと)を皇太子に立てた。

三十五年丁未、夏六月、皇后磐之媛(いわのひめ)が筒城宮で崩じた。

三十七年己酉、冬十一月十二日乙酉、皇后を葬った。

三十八年庚戌、春正月六日戊寅、妃の八田皇女を皇后に立てた。

四十年壬子、春三月、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)と雌鳥皇女(めとりのひめみこ)に罪があり、ともに死を賜った。

四十一年癸丑、春三月、紀角(きのつの)を百濟(くだら)に遣わし、初めて国郡の境界を分け定めさせ、産物をつぶさに記録させた。

四十三年乙卯、秋九月庚子朔、依網阿弭古(よさみのあびこ)が鷹を捕らえて献上したので、百濟の酒君(さけのきみ)に命じてこれを調教させた。百舌鳥野(もずの)に行幸して狩りを楽しみ、雉数十羽を獲た。初めて鷹甘部(たかかいべ)を定めた。

五十年壬戌、春三月五日丙申、河内の人が「茨田堤で雁が子を産んだ」と奏上した(注:古事記には、天皇が豊楽(とよのあかり、宴)を催そうとして日女島(ひめしま)に行幸したところ、その島で雁が卵を産んだ、とある)。

五十三年乙丑、新羅が朝貢してこなかった。夏五月、竹葉瀨(たかはせ)を遣わしてこれを責めさせた。竹葉瀨は道中で白鹿を得て、都に戻ってこれを献上した。天皇は詔して、重ねてその弟の田道(たじ)を遣わした。新羅が背いたので、田道はこれを撃ち破り、四つの邑の民を捕虜として連れ帰った。

五十五年丁卯、蝦夷(えみし)が背いた。田道を遣わしてこれを討たせたが、田道は敗れて死んだ。この年、大臣・武內宿禰が薨じた(注:「この年」以下は水鏡・公卿補任・皇年代略記による。帝王編年記には、七十八年に薨じた、とある)。

五十八年庚午、夏五月、荒陵(あらはか)の松林の南の道に、突如として歴木(くぬぎ)が二株生え、道を挟んでその梢が合わさった。冬十月、呉(くれ)と高麗がともに朝貢してきた。

六十二年甲戌、夏五月、遠江国司(とおとうみのくにのつかさ)が「二股に分かれた大木があり、太さ十囲(かかえ)ほどで、大井河(おおいがわ)に漂っています」と奏上した。倭吾子籠(やまとのあごこ)を遣わし、これを用いて御船を造らせた。この年、初めて氷室(ひむろ)を設けた。

六十五年丁丑、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を遣わして、飛驒(ひだ)の賊・宿儺(すくな)を誅した。

六十七年己卯、冬十月五日甲申、河内の石津原(いしづのはら)に行幸し、寿陵(じゅりょう、生前に築く陵墓)を築かせた。

八十七年己亥、春正月十六日癸卯、天皇が崩御した(注:本書には享年の記載がない。水鏡・皇代記・皇年代略記・神皇正統記はいずれも110歳とする。これに従って推算すれば、帝は應神帝の21年にお生まれになったことになる。しかし本書には、帝は平群木菟(へぐりのつく)と同じ日に生まれたとあり、その木菟が百濟に使いしたことは應神帝三年紀に見え、帝が髪長媛(かみながひめ)を寵愛したことは應神帝十三年紀に見える。これらの記述を照らし合わせれば、諸書の説に誤りがあることは明らかである。それゆえこれらの説は採らない。古事記には、83年丁卯、8月15日に崩じた、とある)。百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬った(注:延喜式には百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)とある)。

天皇は幼いころから聡明で、容貌も美しかった。壮年に及んでは、寛大で仁愛深く、朝早くから夜遅くまで政務に専念した。溝や水路を通し、堤防を築き、郊外の原野を開墾した。これにより百姓は生業を楽しみ、国内は富み栄え、人々は天皇を聖帝と称えた。かつて八田皇后とともに高台で暑さを避けていたとき、菟餓野(とがの)の鹿の鳴き声を聞いてこれを愛でておられた。ところがある夕べ、鹿は鳴かなかった。翌日、猪名県(いなのあがた)の佐伯部(さえきべ)が鹿を獲って膳に供えた。天皇がどこで獲ったのかと尋ねると、「菟餓野で獲りました」と答えた。天皇は皇后にこう仰せられた。「獲った日と獲った場所を考えると、おそらく朕が愛でていたあの鹿であろう。獲った者に悪意はなかったとはいえ、朕は忍びなく思う。あの佐伯部を皇居の近くに置きたくない。」そこで佐伯部を安藝(あき)の渟田(ぬた)に移すよう命じた。天皇の晩年になると、吉備中国(きびのなかつくに)に大蛇がいて民の害となり、この頃には不穏な兆しがやや広がって、背く者も現れた。しかし天皇は税を軽くし取り立てを薄くし、徳を広め恵みを施したので、これによって善政による感化が大いに行き渡り、二十余年にわたって天下はふたたび無事であった。追って仁德天皇と諡した。

履中天皇

履中天皇は、仁德帝の長子である。母は磐之媛皇后。

仁德帝の三十一年、皇太子に立てられた。

八十七年正月、仁德帝が崩御した。皇太子は難波宮に留まっていた。すでに喪は明けていたが、まだ即位していなかった。住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が反乱を起こし、兵を挙げて宮を包囲した。皇太子はちょうど酒に酔って臥せっていたが、そのとき平群木兔(へぐりのつく)・物部大前(もののべのおおまえ)・阿知使主(あちのおみ)らが入って事態を告げた。皇太子は信じなかったが、木兔らは皇太子を助け起こし、馬に乗せて逃がした(注:本書の一説には、大前宿禰が皇太子を抱えて馬に乗せた、とある。古事記には、阿知直(あちのあたい)が密かに太子を奉じ、馬に乗せて逃がした、とある)。仲皇子はついに宮に火を放った。皇太子は河内の埴生坂(はにゅうざか)に至って酔いから覚めた(注:埴生坂は、古事記では多遲比野(たじひの)とする)。振り返って煙と炎を見て、大いに驚いた。大坂から馬を馳せ、倭(やまと)に入ろうとした。飛鳥山のふもとに至り、一人の少女に出会った。「山に人がいるか」と尋ねると、「武器を持った者たちが山中に満ちています。當摩路(たぎまじ)をお通りになるのがよいでしょう」と答えた。皇太子はそこで當摩の県(あがた)の兵を発し、龍田山(たつたやま)を越えたところ、武器を持った者数十人を見た。皇太子はこれを賊ではないかと疑い、山中に伏兵を置いて人を遣わし問わせた。彼らは「淡路の野島の海人(あま)です。阿曇連濱子(あずみのむらじはまこ)の命により太子を追っております」と答えた。皇太子は伏兵を放ち、彼らをことごとく捕らえた。倭吾子籠(やまとのあごこ)は兵を集めて皇太子を待ち伏せようとしたが、その兵の多さを見て恐れ、降伏した。皇太子は石上(いそのかみ)の振神宮(ふるのかみのみや)に留まり、瑞齒別皇子(みずはわけのみこ)が仲皇子を誅した。この日、阿曇濱子を捕らえた。十月七日己丑、仁德天皇を葬った。

元年庚子、春二月壬午朔、天皇が即位した(注:水鏡・皇代記・皇年代略記はいずれもこのとき62歳とし、歴代皇紀は64歳、帝王編年記は65歳とする。諸説が入り乱れており、今はいずれも採らない。詳細は後述する。先代旧事本紀には、皇后を尊んで皇太后とした、とあるが、太皇太后の記述と併記されているため、ここには記さない。詳細は景行紀に述べる)。これを去來穗別天皇(いざほわけのすめらみこと)という。夏四月十七日丁酉、阿曇濱子を召し、死罪を減じて入れ墨の刑に処した。野島の海人の罪は赦し、倭(やまと)の蔣代屯倉(こもしろのみやけ)で使役させた。秋七月四日壬子、黑媛(くろひめ)を妃として迎えた。

二年辛丑、春正月四日己酉、皇弟の瑞齒別皇子を皇太子に立てた。冬十月、都を磐余(いわれ)に遷し、平群木兔・蘇我滿智(そがのまち)・物部伊莒弗(もののべのいこふつ)・葛城圓(かつらぎのつぶら)がともに政務を執った。十一月、磐余池(いわれいけ)を作った。

三年壬寅、冬十一月六日辛未、天皇は皇妃とともに舟を浮かべ、磐余の市磯池(いちしのいけ)で宴を催した。桜の花が天皇の盃に散り落ち、天皇はこれを瑞兆とされた。そこで宮の名を磐余稚櫻宮(いわれのわかざくらのみや)と名づけた(注:本書の元年の条にすでにこの宮の名が見えるのは、おそらく後から遡って書き加えたものであろう)。

四年癸卯、秋八月八日戊戌、初めて諸国に史(ふひと、記録官)を置き、言葉や出来事を記録させ、四方の実情を伝えさせた。冬十月、石上(いそのかみ)に溝を掘った。

五年甲辰、秋九月十八日壬寅、天皇は淡路島で狩りを行い、そこに留まって入れ墨をした者たちを飼部(かいべ)とした。二十二日丙午、淡路より都へお戻りになった。

六年乙巳、春正月六日戊子、草香幡梭皇女(くさかのはたひのひめみこ)を皇后に立てた。九日辛卯、初めて藏職(くらのつかさ)を置き、あわせて藏部(くらべ)を定めた(注:古事記には、仲皇子の乱が平定された後、阿知直が初めて蔵官(くらのつかさ)に任じられた、とある。おそらくこの時のことであろう)。二月癸丑朔、大姬郎姬(おおひめのいらつめ)・高鶴郎姬(たかつるのいらつめ)を嬪(みめ)として迎えた。三月、天皇が病に伏した。十五日丙申、稚櫻宮で崩御した(注:本書には、皇太子に立てられたとき15歳、崩御のとき70歳とあり、先代旧事本紀も同様である。考えるに、天皇が15歳で皇太子に立てられたとすれば、仁德帝の17年にお生まれになったことになり、崩年は77歳となる。すると別の記述と食い違いが生じる。仁德帝七年に壬生部を定めたとする記述に照らせば、この年齢に誤りがあることがわかる。水鏡は、皇太子に立てられたとき15歳、即位のとき62歳、崩年67歳とする。古事記は崩年64歳、壬申の年正月三日に崩じたとする。神皇正統記は67歳とする。歴代皇紀は即位のとき64歳、崩年70歳とする。諸説が一致せず、確かなことは考証しがたい)。百舌鳥耳原陵(もずのみみはらのみささぎ)に葬った(注:延喜式には、「陵」の上に「南」の字がある)。追って履中天皇と諡した。

反正天皇

反正天皇は、履中帝の同母弟である。

淡路宮でお生まれになったが、生まれつき歯が一本の骨のように連なっていた(注:古事記には、歯の長さ一寸、幅二分で、上下そろって糸を貫いた玉のようであった、とある)。産湯を汲むための井戸の水を汲んでいたところ、多遲花(たじばな)が井戸の中に散り落ちた(注:新撰姓氏録には、花が湯を張った盥(たらい)の中に飛び込んだ、とある)。これにより天皇には多遲比瑞齒別皇子(たじひのみずはわけのみこ)と名づけた(注:古事記では蝮之水齒別命(たじひのみずはわけのみこと)とする)。仁德帝はそこで諸国に多治部(たじひべ)を置き、湯沐邑(ゆのむら、皇子の養育料にあてる領地)とした(注:「多治部を置き」以下は新撰姓氏録による。古事記には、水齒別命の御名代として蝮部(たじひべ)を定めた、とある)。多遲(たじ)とは今の虎杖(いたどり)のことである。成長するにつれ容姿が美しくなり、身長は九尺二寸五分あった(注:「身長」以下は古事記による)。

かつて履中帝が皇太子であったとき、住吉仲皇子の乱を避けて石上の振神宮に留まっていた。天皇はこれを聞き、その跡を追ってそこへ赴いた。履中帝は疑いを抱いて会おうとしなかったので、天皇は人を遣わしてこう奏上させた。「私に邪心はありません。ただ太子のご無事を案じ、それでこうして駆けつけただけです。」履中帝は使いを遣わしてこう告げさせた。「私は仲皇子の難を避けてここまで来た。どうしてそなたを疑わずにいられようか。もし本当に邪心がないというなら、難波に戻って仲皇子を殺してみせよ。」天皇は申し上げた。「太子は何を憂えることがありましょうか。今、仲皇子は非道であり、群臣も百姓もみな彼を怨み憎んでおります。側近たちもみな離反する心を抱いておりますが、誰も事を謀ろうとする者がおりません。臣はその謀反を知ってはおりますが、まだ太子のご命令をいただいていないため、ただ一人憤慨しているだけでございます。今すでにご命令をいただいたからには、これを誅するのに何の難しいことがありましょうか。ただ、事が平定された後になってもなお疑われることを恐れます。どうか忠実な者を一人お与えいただき、ともに事に当たらせてください。」履中帝は平群木兔を遣わした。天皇は嘆いて言った。「今、太子も仲皇子も、いずれも我が兄である。どちらに従いどちらに背けばよいのか。しかし非道を除いて有道につくのであれば、それが我が道でなくて何であろうか。」そこで難波に至り、仲皇子の側近である刺領巾(さしひれ)を誘ってこう言った。「私のために皇子を殺してくれれば、必ず厚く報いよう。」そして錦の衣と褌(はかま)を脱いでこれに与えた。刺領巾はついに仲皇子を刺し殺した。天皇は木兔の進言を用いて、刺領巾を誅した(注:古事記には、瑞齒別命(みずはわけのみこと)が墨江中王(すみのえのなかつみこ)の隼人(はやと)である曾婆加理(そばかり)を誘い、中王を殺させ、事が成れば大臣の位を授けると約束したとある。曾婆加理は承諾し、密かに中王が厠(かわや)にいるところをうかがって刺し殺した。瑞齒別皇子は、「彼には自分に対して功があるとはいえ、すでにその主君を殺したのは不義である。しかし、その功に報いなければ信義に反する」と考え、そこで大臣の位を授け、群臣に拝礼させ、特に宴を賜って寵愛した。曾婆加理は大いに喜び得意になったが、酒宴の間にすきを見て、これを手ずから斬り殺した、とある)。その日のうちに倭へ赴き、夜半に石上に至って復命した。履中帝はこれを召し見て褒め称え、村合屯倉(むらあいのみやけ)を賜った。履中帝が即位すると、翌年、皇太子に立てられた。六年三月、履中帝が崩御した。十月四日壬子、履中天皇を葬った。

元年丙午、春正月二日戊寅、天皇が即位した(注:水鏡・帝王編年記・歴代皇紀・皇年代略記はいずれもこのとき55歳とするが、本書には天皇の享年の記載がないため、ここでは採らない)。これを瑞齒別天皇という。秋八月六日己酉、津野媛(つのひめ)を皇夫人(きさき)に立てた。冬十月、都を河内の丹比(たじひ)に遷した。これを柴籬宮(しばがきのみや)という。

五年庚戌、春正月二十三日丙午(注:本書には六年正月甲申朔丙午とあり、允恭紀の冒頭にも六年正月に崩じたとある。しかし干支を推算すると、六年正月は戊申朔で丙午の日はない。類聚国史には五年正月丙午とあり、先代旧事本紀には五年正月甲申朔丙午とある。考えるに、五年は歳次庚戌にあたり、允恭帝の元年は壬子であって、崩御が五年であるとすれば、辛亥の年は空位となる。この二書の記述は、允恭紀に位が空いたまま年月を経たとする文と互いに証し合うものであるから、ここでは五年と定める)、天皇が正寝(せいしん、宮殿の正殿)で崩御した(注:本書には享年の記載がない。古事記・先代旧事本紀・水鏡・神皇正統記などの諸書はいずれも60歳とする。これによれば仁德帝の40年にお生まれになったことになるが、母の磐之姬は仁德帝の35年に崩じているため、これらの説は信じるに足りない。今は考証のしようがない。古事記には、丁丑の年七月に崩じた、とある)。百舌鳥耳原陵(もずのみみはらのみささぎ)に葬った(注:延喜式には、「陵」の上に「北」の字がある)。在位の間、風雨は時にかなって順調で、五穀は実り、人民は富み栄え、国内は無事であった。追って反正天皇と諡した。

允恭天皇

允恭天皇は、反正帝の同母弟である。幼いころから仁愛深く謙虚であった。

五年正月、反正帝が崩御した。群臣は協議してこう言った。「今、大鷦鷯天皇(仁德天皇)の子として現存しておられるのは、雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさづまわくごのすくねのみこ)と大草香皇子(おおくさかのみこ)のみである。しかし雄朝津間稚子宿禰皇子は年長であり、かつ仁愛と孝心に厚くあられる。」そこで吉日を選び、天皇の璽(しるし)を奉った。天皇は辞退してこう仰せられた。「予は不幸にも長らく重い病を患い、歩くこともままならない。かつて病を治そうとして皮膚を裂いて療治したこともあったが、いまだに癒えていない。先の帝(反正帝)からも『そなたは身体を損なっている。これほどの不孝はない。たとえ長生きしたとしても、皇業を継ぐことはできまい』と責められたことがある。予の二人の兄君(履中帝・反正帝)もまた、予をふさわしくないと仰せられていたことは、そなたたちも共に知るところであろう。そもそも天下とは大いなる器であり、帝位とは大いなる事業である。民の父母たる者を、どうして凡愚の者に任せられようか。予は決して引き受けられぬ。どうか改めて賢き者を選んで立ててほしい。」群臣は再拝してこう申し上げた。「帝位を長く空けておくことはできません。天命に対して謙って拒むこともできません。今、位号を正さなければ、百姓の望みが絶えてしまうことを恐れます。どうか大王には天皇の位にお即きください。」天皇は再度これを辞退し、聞き入れなかった。

元年壬子、冬十二月、群臣はふたたび再拝して天皇の璽を奉り、なおも強く即位を請うた。天皇は「群卿が天下のために請うのであれば、予はどうしていつまでも辞退していられようか」と仰せられ、こうして即位した(注:水鏡・帝王編年記・皇年代略記はいずれもこのとき39歳とし、歴代皇紀は38歳とする。今はいずれも採らない。詳細は後述する)。都を遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)に置いた(注:「都」以下は古事記による)。これを雄朝津間稚子宿禰天皇という。

二年癸丑、春二月十四日己酉、忍坂大中姬(おしさかのおおなかつひめ)を皇后に立てた。これにちなんで刑部(おさかべ)を定めた。

三年甲寅、春正月辛酉朔、新羅に使者を遣わして医師を求めた。秋八月、医師が到着し、天皇の病を治療した。病は癒え、天皇は厚く褒賞を与えてこれを帰した(注:古事記には、新羅の使者・金波鎮漢紀武(こんはちんかんきむ)は医術に優れており、それゆえ帝の病を治した、とある)。

四年乙卯、秋九月、詔して「氏族の詐り偽りを正せ」と命じた。諸氏の人々を味橿丘(あまかしのおか)に集め、神に誓わせて探湯(くかたち、熱湯に手を入れて真偽を判じる神判)を行わせた。

五年丙辰、秋七月十四日己丑、地震があった。葛城玉田(かつらぎのたまだ)に罪があり、誅に服した。冬十一月十一日甲申、反正天皇を葬った。

八年己未、春二月、藤原(ふじわら)に行幸した。皇后の妹である衣通姬(そとおりひめ)のために藤原部(ふじわらべ)を定め、河内に茅渟宮(ちぬのみや)を造らせた。これより後、天皇はたびたび日根野(ひねの)で狩りをした。

九年庚申、春二月、茅渟宮に行幸した。秋八月、冬十月にも、また行幸した。

十年辛酉、春正月、茅渟宮に行幸した。

十一年壬戌、春三月四日丙午、茅渟宮に行幸した。

十四年乙丑、秋九月十二日甲子、淡路島で狩りを行った。

二十三年甲戌、春三月七日庚子、木梨輕皇子(きなしのかるのみこ)を皇太子に立て、これにちなんで輕部(かるべ)を定めた(注:輕部を定めたことは古事記による。先代旧事本紀には、この日、物部麥人宿禰(もののべのむぎひとのすくね)・物部大前宿禰をともに大連(おおむらじ)とした、とある)。

二十四年乙亥、夏六月、御膳の羹(あつもの、汁物)が凍った。占ったところ「輕大娘(かるのおおいらつめ)に罪がある」と出たので、伊豫(いよ)に流した。

四十二年癸巳、春正月十四日戊子、天皇が崩御した(注:本書には享年の記載がない。先代旧事本紀には78歳とある。古事記には78歳、甲午の年正月十五日に崩じた、とある。水鏡・愚管抄・神皇正統記などの諸書はいずれも80歳とする。今考えるに、天皇は反正帝の同母弟であり、母后が崩じてから今年まで98年になるので、これらの諸説はいずれも誤りであり、採らない)。河内の長野原陵(ながののはらのみささぎ)に葬った(注:古事記には惠賀長枝(えがのながえ)とある。延喜式には惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)とある)。追って允恭天皇と諡した。