卷之七十四 列傳第一
后妃一
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次59
媛蹈鞴五十鈴媛皇后
¶後宮の制度において、皇后に次ぐ地位にあるのは妃(ひ)・夫人(ぶにん)・嬪(ひん)であり、これらはいずれも令(りょう)に定められたものである。女御(にょうご)・更衣(こうい)・御匣殿(みくしげどの)は、いずれも後世になって設けられた地位である。女御が最も貴ばれ、天皇の寵愛が集まる女御が皇后に立てられるようになった。皇后と中宮とがともに並び立ち、両者に特段の区別がなくなったのは、そもそも古い制度ではない。北畠親房(きたばたけちかふさ)はすでにこの点を論じ、その実態を詳しく検討している。中宮という称号は、古くは大皇太后・皇太后・皇后の三宮を通じて呼ぶ称であったが、中頃以降は皇后だけを指す別称となった。一条(いちじょう)天皇が中宮を立てるに際し、大皇太后・皇太后の二宮がすでに並び存在していたため、円融(えんゆう)天皇の中宮であった者の呼称を皇后に改めた。しかしこれは一時の便宜的な措置にすぎず、尊称を区別するための方便であった。そのため皇后という称号は、名と実とが食い違うことになった。まもなく改めて女御彰子(しょうし)を中宮に冊立し、それまで中宮であった者の呼称を皇后に改めた。中宮への礼遇は皇后と全く同等となり、この時から両者に違いはなくなった。位号の尊さこそ皇后にあったが、実際の寵愛の厚さは中宮に集まった。以後この慣例が受け継がれ、ついに定例となった。皇后・中宮が院号を賜るようになったのも、この頃に始まる。そのほか、大皇太后・皇太后・皇后の三宮でないのに院号を授けられたり、三宮に准じる待遇を受けたりする例があるのは、後世、皇后に立てられる者が必ず藤原氏の家門から出るようになり、他の姓の者はこれに与れなくなったためである。藤原氏は幼い天皇を輔佐して政務の実権を握り、外戚としての権勢は日ごとに重みを増し、後宮における寵愛もますます盛んになった。額田部皇后(ぬかたべのこうごう、推古天皇)、宝皇后(たからのこうごう、皇極天皇)、鸕野皇后(うののこうごう、持統天皇)のような方々は、いずれも皇族の血筋でありながら自ら政務を執り、褘翟(いてき、后妃の礼服)を脱いで袞冕(こんべん、天子の礼服)を身にまとった。その事跡は本紀に詳しく記されており、互いに参照すれば知ることができる。よってここに后妃伝を作る。
吾平津媛
¶神武天皇の后である媛蹈鞴五十鈴媛皇后(ひめたたらいすずひめのこうごう)は、事代主命(ことしろぬしのみこと)の長女である。母は玉櫛姫(たまくしひめ)という。庚申(かのえさる)の年八月、天皇は正妃を立てようとして、広く名家の娘を求めた。ある者が「あの姫は国中に並ぶ者のない美しさです」と奏上したので、天皇は喜んだ。九月、召し入れて正妃とした。(注:『古事記』によれば、天皇が立后すべき者を求めたとき、大来目命(おおくめのみこと)がこの后を推薦した。后はたまたま高佐士野(たかさじの)で他の女たちと遊んでいたところ、大来目は歌によって天皇自らが選ぶよう仄めかした。后は女たちの先頭に立った。天皇はこれに応える歌を詠み、后を気に入った心を託した。大来目がこの意を后に伝えると、后は承諾した。当時、后は狭井河(さいがわ)のほとりに住んでおり、天皇は自らその家に赴き、一夜を過ごして帰った。その後、后が宮中に入ったとき、天皇は歌を作って言った。「葦原の(あしはらの)、穢しき小屋に(しけしきをやに)、菅畳(すがたたみ)、いや清敷きて(いやさやしきて)、我が二人寝し(わがふたりねし)。」)天皇は即位元年正月、后を皇后に立てた。彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)・神八井耳命(かむやいみみのみこと)・綏靖天皇(すいぜいてんのう)を生んだ。(注:彦八井耳命は『古事記』による。)綏靖天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)
五十鈴依媛皇后
¶妃である吾平津媛(あひらつひめ)は、日向(ひゅうが)の吾田(あた)の小椅君(おばしのきみ)の妹である。(注:小椅君は『古事記』による。)天皇がまだ皇太子であったころ、召し入れて妃とした。手研耳命(たぎしみみのみこと)・岐須美美命(きすみみのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。岐須美美命は『古事記』による。)
¶【綏靖天皇】
渟名底仲媛皇后
¶綏靖天皇の后である五十鈴依媛皇后(いすずよりひめのこうごう)は、事代主命の次女である。皇太后媛蹈鞴五十鈴媛の妹にあたる。天皇二年正月、皇后に立てられた。(注:本書の注に載る一説では、磯城県主(しきのあがたぬし)の娘である川派媛(かわまたひめ)を皇后としたという。あるいは、春日県主(かすがのあがたぬし)大日諸(おおひもろ)の娘である糸織媛(いとおりひめ)ともいう。『古事記』にもまた、河股比売(かわまたひめ)を娶り安寧天皇を生んだとある。)安寧天皇を生んだ。安寧天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)
¶【安寧天皇】
天豐津媛皇后
¶安寧天皇の后である渟名底仲媛皇后(ぬなそこなかつひめのこうごう)は、またの名を渟名襲媛(ぬなそひめ)という。事代主命の孫であり、鴨王(かものきみ)の娘である。(注:鴨王は、『先代旧事本紀』・『皇胤紹運録』にはいずれも鴨玉(かもたま)とある。)息石耳命(おきそみみのみこと)・懿徳天皇(いとくてんのう)・磯城津彦命(しきつひこのみこと)を生んだ。天皇三年正月、皇后に立てられた。(注:本書の注に載る一説では、磯城県主葉江(はえ)の娘である川津媛(かわつひめ)を皇后としたという。あるいは、大間宿禰(おおまのすくね)の娘である糸井媛(いといひめ)ともいう。『古事記』には、河股比売の兄である県主(あがたぬし)波延(はえ)の娘、阿久斗比売(あくとひめ)とある。)懿徳天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)
世襲足媛皇后
¶懿徳天皇の后である天豊津媛皇后(あまとよつひめのこうごう)は、息石耳命の娘である。天皇二年二月、皇后に立てられた。(注:本書の注に載る一説では、磯城県主葉江の弟猪手(いて)の娘である泉媛(いずみひめ)を皇后としたという。あるいは、磯城県主太真稚彦(ふとまわかひこ)の娘である飯日媛(いいひひめ)ともいう。)孝昭天皇(こうしょうてんのう)・武石彦奇友背命(たけしひこきうねのみこと)を生んだ。孝昭天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)
¶【孝昭天皇】
押媛皇后
¶孝昭天皇の后である世襲足媛皇后(よそたらしひめのこうごう)は、またの名を日置姫(ひおきひめ)という。天忍男命(あめのおしおのみこと)の娘であり、(注:またの名以下は『先代旧事本紀』による。)瀛津世襲(おきつよそ)の妹である。天皇二十九年正月、皇后に立てられた。(注:本書の注に載る一説では、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛(ぬなきつひめ)を皇后としたという。あるいは、倭国豊秋狭太媛(やまとのくにとよあきさたひめ)の娘である大井媛(おおいひめ)ともいう。)天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)・孝安天皇(こうあんてんのう)を生んだ。孝安天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)
¶【孝安天皇】
細媛皇后
¶孝安天皇の后である押媛皇后(おしひめのこうごう)は、(注:『古事記』には忍鹿比売(おしかひめ)とある。)天足彦国押人命の娘である。天皇二十六年二月、皇后に立てられた。(注:本書の注に載る一説では、磯城県主葉江の娘である長媛(ながひめ)を皇后としたという。あるいは、十市県主(とおちのあがたぬし)五十坂彦(いさかひこ)の娘である五十坂媛(いさかひめ)ともいう。)大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)・孝霊天皇(こうれいてんのう)を生んだ。(注:大吉備諸進命は『古事記』による。)孝霊天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。注:『先代旧事本紀』の孝元紀八年二月の条によれば、太皇太后の号を追贈したとある。これ以降、いずれの帝紀にも必ず太皇太后号の記載があるが、『日本書紀』にはこれが見えないため、今はこれを採らない。)
倭國香媛
¶孝霊天皇の后である細媛皇后(くわしひめのこうごう)は、磯城県主大目(おおめ)の娘である。(注:磯城は、『古事記』には十市とある。)天皇二年二月、皇后に立てられた。(注:本書の注に載る一説では、春日千乳早山香媛(かすがのちちはやまかひめ)を皇后としたという。あるいは、十市県主らの祖の娘である真舌媛(ましたひめ)ともいう。)孝元天皇(こうげんてんのう)を生んだ。孝元天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。
絙某弟
¶妃である倭国香媛(やまとのくにかひめ)は、またの名を絙某姉(はえいろね)という。(『日本書紀』による。注:『古事記』には意富夜麻登玖邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめ)とある。)和知都美命(わちつみのみこと)の娘である。(『古事記』による。)倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)・彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)・彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)・倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。彦刺肩別命は『古事記』による。)
春日千千速真若媛
¶妃である絙某弟(はえいろど)は、倭国香媛の妹である。彦狭島命(ひこさしまのみこと)・稚武彦命(わかたけひこのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。倭国香媛の妹であることは『古事記』による。)
鬱色謎皇后
¶春日千千速真若媛(かすがのちちはやまわかひめ)は、千千速媛(ちちはやひめ)を生んだ。(『古事記』による。)
¶【孝元天皇】
埴安媛媛
¶孝元天皇の后である鬱色謎皇后(うつしこめのこうごう)は、鬱色雄命(うつしこおのみこと)の妹である。天皇七年二月、皇后に立てられた。大彦命(おおひこのみこと)・少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)・開化天皇(かいかてんのう)・倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を生んだ。(注:少名日子建猪心命は『古事記』による。)開化天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)
伊香色謎皇后
¶妃である埴安媛(はにやすひめ)は、河内(かわち)の青玉繋(あおたまかけ)の娘である。武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。)
¶【開化天皇】
丹波竹野媛
¶開化天皇の后である伊香色謎皇后(いかがしこめのこうごう)は、大綜麻杵(おおへそき)の娘である。(注:『古事記』では内色許男命(うつしこおのみこと)の娘とする。)后ははじめ孝元天皇の妃となり、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んだ。のちに開化天皇がこの妃を娶り(先帝の妃を娶るという古い慣わしによる)、崇神天皇(すじんてんのう)・御真津比売(みまつひめ)を生んだ。開化天皇六年正月、皇后に立てられた。崇神天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。御真津比売は『古事記』による。)
姥津媛
¶妃である丹波竹野媛(たんばのたかのひめ)は、丹波大県主由碁理(たんばのおおあがたぬしゆごり)の娘である。彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。父の名は『古事記』による。)
鸇媛
¶妃である姥津媛(ははつひめ)は、天足彦国押人命の娘であり、姥津命(ははつのみこと)の妹である。彦坐王(ひこいますのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。父の名は『新撰姓氏録』による。)
御間城姬皇后
¶鸇媛(はしたかひめ)は、葛城垂見宿禰(かつらぎのたるみのすくね)の娘である。建豊波豆羅和気命(たけとよはずらわけのみこと)を生んだ。(『古事記』による。)
¶【崇神天皇】
遠津年魚眼眼妙媛
¶崇神天皇の后である御間城姫皇后(みまきひめのこうごう)は、大彦命の娘である。天皇がまだ即位していなかった頃に召し入れ、垂仁天皇(すいにんてんのう)・彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)・国方姫命(くにかたひめのみこと)・千千衝倭姫命(ちぢつくやまとひめのみこと)・倭彦命(やまとひこのみこと)・五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)を生んだ。(注:『古事記』には五十日鶴彦命はなく、伊都鶴媛(いつつるひめ)がある。)天皇元年二月、皇后に立てられた。垂仁天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)
尾張大海媛
¶妃である遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)は、紀伊(きい)の人、荒河戸畔(あらかわとべ)の娘である。(注:紀伊の人は、『古事記』には木国造(きのくにのみやつこ)とある。本書の注に載る一説では、大海宿禰(おおあまのすくね)の娘、八坂振天某辺(やさかふるあまのいずへ)ともいう。)豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。)
狹穗姬皇后
¶妃である尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)は、(注:『先代旧事本紀』には海を倭に作るが、誤りである。)またの名を葛城高名姫(かつらぎのたかなひめ)といい、健諸隅(たけもろずみ)の妹である。(注:またの名以下は『先代旧事本紀』による。)大入杵命(おおいりきのみこと)・八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)・渟名城入姫(ぬなきいりひめ)・十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。大入杵命は『古事記』による。)
¶【垂仁天皇】
日葉酢媛皇后
¶垂仁天皇の后である狭穂姫皇后(さほひめのこうごう)は、またの名を佐波遅媛(さわじひめ)という。彦坐王の娘である。(注:またの名以下は『古事記』による。)天皇二年二月、皇后に立てられ、誉津別命(ほむつわけのみこと)を生んだ。四年、后の兄である狭穂彦(さほひこ)が謀反を企て、隙をうかがって后に「兄と夫と、どちらが愛しいか」と尋ねた。后はその意図を測りかね、思わず「兄が愛しい」と答えた。狭穂彦は后を誘って言った。「色香で人に仕える者は、色が衰えれば寵愛も薄れる。今、天下には美しい女が多く、次々と進み出て寵を求めるだろう。お前がいつまでも寵愛を保てると思うか。もし私の望みを叶えてくれれば、お前と共に天下に臨もうではないか、それも楽しいことだ。」そして匕首(あいくち)を取って后に授け、(注:匕首は、『古事記』には八塩折之紐小刀(やしおおりのひものかたな)とある。)天皇が眠っている隙をうかがって刺すよう命じた。后は大いに驚き恐れたが、とても実行できることではないと考え、かといって諫めることもできず、ひとまずこれを受け取って衣の中に隠した。五年、天皇は来目高宮(くめのたかみや)におり、后の膝を枕にして昼寝をした。后は狭穗彦の言葉を思い、悲しみに耐えられず涙を流し、それが天皇の顔に落ちた。(注:『古事記』によれば、后は天皇を刺そうとして刀を三度振り上げたが、忍びず、涙が天皇の顔に落ちたという。本書とはやや異なる。)天皇は目を覚まし、后に告げた。「朕は夢で錦色の小蛇が首に巻きつき、狭穂の方角から大雨が起こって朕の顔を打つのを見た。これは何の前兆であろうか。」后は恐れ入って地に伏し、狭穂彦の謀反の企てを申し上げ、泣きながら言った。「申し上げれば兄を滅ぼすことになり、申し上げなければ国家を傾けることになります。恐れと悲しみとで、日夜咽び泣いておりました。今、陛下が妾の膝を枕にお休みになり、まさに兄の望みを果たせる時でございました。妾は兄に背くこともできず、また陛下の御恩に背くこともできません。それゆえ悲しんで泣いていたのです。蛇は匕首のこと、雨は涙のことでございます。」天皇は「これはお前の罪ではない」と言った。そして八綱田(やつなだ)に命じ、急ぎ兵を発して狭穂彦を討たせた。狭穂彦も兵を挙げてこれに抗い、たちまち稲を積んで城を築いた。堅固で破ることができず、当時これを稲城(いなき)と呼んだ。攻めること一月を越えても降らなかった。后は泣いて言った。「私は皇后とはいえ、もし兄君を滅ぼすならば、どんな顔をしてこの後生きていけましょうか。」そして誉津別を抱いて稲城に駆け込んだ。天皇はさらに兵を増やして城を包囲し、城中に告げて皇后と皇子を出すよう諭したが、従わなかった。八綱田は火を放って城を焼いた。后は人に皇子を抱かせて城外に出させ、そして申し上げた。「妾が先ほど城に入ったのは、わが身と皇子とを引き換えに兄の罪を免れさせたいと望んだためです。今それが叶わぬ以上、妾にも罪があると知りました。捕らえられて縛につくよりは、いっそ自ら命を絶つほうがましでございます。妾は死んでも御恩は決して忘れません。丹波道主王(たんばのみちぬしのみこ)の五人の娘は、いずれも貞淑でございますので、どうぞ後宮に召し入れてくださいませ。」こうして后は狭穂彦とともに城中で亡くなった。(注:『古事記』によれば、軍勢が狭穂彦の城を囲んだとき、后はその城に駆け込んだ。后はこのとき身重であり、天皇は后に迫ることを忍びず、軍に命じて攻撃を緩めさせた。やがて后は男子を生み、これを城外に示して「皇子が今生まれました。どうぞ天皇に申し上げてお迎えください」と言った。天皇は力が強く身の軽い者を選んで皇子を迎えさせ、「必ずその母も一緒に連れてまいれ」と命じた。后もまた天皇の意を察し、捕らえられることを恐れて髪を剃り、それを結って頭に戴いた。衣服には朽ちた紐や玉の緒をまとい、酒に浸してあらかじめ腐らせておいた。やがて后は自ら皇子を抱いて城外に出た。軍士たちは我先にと皇子を取ろうと争った。后を捕らえようとする段になると、髪を握れば髪が切れ、衣を引けば衣が破れ、紐や玉の緒もみな手に従って切れてしまい、ついに后を捕らえることができなかったという。)後に天皇は后の遺言を思い、丹波道主王の五人の娘を召し入れた。(『日本書紀』による。)
渟葉田瓊入媛
¶日葉酢媛皇后(ひばすひめのこうごう)は、(注:あるいは日葉酢根(ひばすね)とも作る。)丹波道主王の長女である。狭穂姫皇后の遺言により、垂仁天皇十五年二月、后とその妹である渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)・真砥野媛(まとのひめ)・葪瓊入媛(あざみにいりひめ)、(注:本書では葪の字を誤って筋に作る。『先代旧事本紀』には蓟に作る。蓟は葪と同じで、いずれもアザミと訓む。今は『古事記』の音読みによって訂正した。)竹野媛(たかのひめ)の四人の妹を宮中に召し入れた。(注:『古事記』には、皇后の三人の妹として弟比売(おとひめ)、次に歌凝比売(うたごりひめ)、次に円野比売(まとのひめ)とある。また皇后の妹として沼羽田之入日売命(ぬばたのいりひめのみこと)、次に阿邪美能伊理毘売命(あざみのいりひめのみこと)とある。)八月、日葉酢媛が皇后に立てられ、三人の妹はいずれも妃となった。ただ竹野媛だけは容貌が醜かったため、実家に帰された。竹野媛はこれをひどく恥じ、帰る途中の葛野(かどの)で、自ら輿から落ちて死んだ。それゆえこの地を堕国(おちくに)と名づけた。(注:『古事記』によれば、歌凝比売・円野比売は容貌が醜いという理由で実家に帰された。円野比売はこれをひどく恥じ、山代国(やましろのくに)相楽(さがらか)に至って木に懸かって自害しようとした。さらに弟国(おとくに)まで至り、ついに淵に身を投げて死んだ。それゆえこの地を堕国と名づけたという。)三十二年七月、皇后は亡くなった。これより先、天皇は人を殉死させることを禁じ、このとき初めて土物(はにわ)を作って殉死の代わりとした。(『日本書紀』による。)このとき建真利根命(たけまりねのみこと)が石棺を献上し、(『新撰姓氏録』による。)狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)に葬られた。(『古事記』による。)皇后は五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)・景行天皇(けいこうてんのう)・大中姫命(おおなかつひめのみこと)・大中津日子命(おおなかつひこのみこと)・倭姫命(やまとひめのみこと)・稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。大中津日子命は『古事記』による。)
真砥野媛
¶妃である渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)は、鐸石別命(ぬでしわけのみこと)・胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。)
葪瓊入媛
¶妃である真砥野媛(まとのひめ)である。(『日本書紀』による。注:『先代旧事本紀』には磐撞別命(いわつくわけのみこと)を生んだとあるが、今はこれを採らない。)
迦具夜媛
¶妃である葪瓊入媛(あざみにいりひめ)は、池速別命(いけはやわけのみこと)・稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。注:『先代旧事本紀』によれば、稚浅津姫命はなく、五十速石別命(いはやいしわけのみこと)・五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)が載る。)
苅幡戶邊
¶迦具夜比売(かぐやひめ)は、大筒木垂根王(おおつつきのたりねのみこ)の娘である。袁邪弁王(おざべのみこ)を生んだ。(『古事記』による。)
弟苅幡戶邊
¶苅幡戸辺(かりはたとべ)は、(注:本書には刈羽田刀弁(かりはたとべ)と作るが、今は『日本書紀』に従う。)山代大国淵(やましろのおおくにぶち)の娘である。(『古事記』による。)祖別命(みおやわけのみこと)・五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)・胆武別命(いたけるわけのみこと)を生んだ。(『日本書紀』による。)
播磨稻日太郎姬皇后
¶弟苅幡戸辺(おとかりはたとべ)は、苅幡戸辺の妹である。磐衝別命(いわつくわけのみこと)・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)を生んだ。(『古事記』による。注:『日本書紀』によれば、綺戸辺(かにはたとべ)は山背(やましろ)の大国不遅(おおくにのふち)の娘であるという。天皇三十四年三月、山背に行幸したとき、側近が「国に美しい人がおります。名を綺戸辺といい、姿かたちが並外れて美しゅうございます」と奏上した。天皇はこれを得ようと思い、狩りの祝詞を唱えて「朕がもし佳人を得られるならば、道すがらその兆しが現れるであろう」と言った。行宮に着くと大亀が水に浮かび、天皇が矛でこれを突くと白石に化した。天皇は喜んで「これはきっと感応があるに違いない」と約束し、ついに綺戸辺を得て宮中に召し入れ、磐衝別命を生んだ。これより先、山背の苅幡戸辺を召し入れて三人の男子を生ませていた。これによって見れば、苅幡戸辺と綺戸辺とは、どうやら別の一族のようである。今考えるに、苅幡と綺とは訓読みが似通っており、淵は「ふち」と訓むから、『日本書紀』が「ち」を誤って「へ」としたために、別族とされてしまったのではないか。また「綺」の上に「弟」の一字が脱けているのであろう。今は『古事記』に従う。)
¶【景行天皇】
八坂入媛皇后
¶景行天皇の后である播磨稲日大郎姫皇后(はりまのいなびのおおいらつめのこうごう)は、稚武彦(わかたけひこ)の娘である。(『古事記』による。注:稚武彦は孝霊天皇の子である。孝霊天皇の崩御から景行天皇二年まで数えると二百八十六年になり、年代が非常に隔たっており、疑いなしとしない。今は考証のしようがない。)天皇二年三月、皇后に立てられた。(注:本書の注に載る一説では、稲日稚郎姫(いなびのわかいらつめ)を皇后としたという。)櫛角別王(くしつのわけのみこ)・大碓皇子(おおうすのみこ)・小碓尊(おうすのみこと、日本武尊)を生んだ。(注:本書の注に載る一説では倭根子命(やまとねこのみこと)を三番目の子として載せる。『古事記』にもまた稚倭根子命(わかやまとねこのみこと)、および神櫛王(かむくしのみこ)を合わせ五人の子として載せるが、今はいずれも採らない。)五十二年五月、亡くなった。(『日本書紀』による。櫛角別王は『古事記』による。)
水齒郎媛
¶八坂入媛皇后(やさかいりひめのこうごう)は、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)の長女である。妹を弟媛(おとひめ)という。天皇は美濃(みの)に行幸した際、弟媛が美しいと聞いてこれを得ようとし、その家に行幸した。弟媛はこれを聞いて身を隠し、姿を現さなかった。天皇は弟媛を出て来させようと、泳宮(くくりのみや)に滞在し、池に鯉を放って朝夕これを眺めて遊んだ。弟媛はひそかにこれを覗きに来たので、天皇はそのまま引き留めて契りを結んだ。弟媛は心楽しまず、天皇に申し上げた。「妾は生まれつき殿方とお付き合いすることを好まず、また姿かたちも見苦しく、後宮に加わるにはふさわしくございません。妾には姉がおり、名を八坂入媛と申します。姿かたちが美しく麗しいうえ、志も貞淑でございますので、どうぞ後宮にお召しくださいませ。」天皇はそこで八坂入媛を召して妃とし、成務天皇(せいむてんのう)、五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)、忍之別皇子(おしのわけのみこ)、稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)、大酢別皇子(おおすわけのみこ)、渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ)、渟名城皇女(ぬなきのひめみこ)、五百城入姫皇女(いおきいりひめのひめみこ)、麛依姫皇女(かごよりひめのひめみこ)、五十狭城彦皇子(いさきひこのみこ)、吉備兇彦皇子(きびのませひこのみこ)、高城入姫皇女(たかきいりひめのひめみこ)、弟姫皇女(おとひめのひめみこ)を生んだ。稲日大郎姫皇后が亡くなると、皇后に立てられた。成務天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)
五十河媛
¶妃である水歯郎媛(みずはのいらつめ)は、三尾氏(みおうじ)、磐城別(いわきわけ)の妹である。五百野皇女(いおののひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
高田媛
¶妃である五十河媛(いかわひめ)は、神櫛皇子(かむくしのみこ)・稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
日向髮長大田根
¶妃である高田媛(たかたひめ)は、阿倍氏(あべうじ)、木事(こごと)の娘である。武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
襲武媛
¶妃である日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)は、日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
御刀媛
¶妃である襲武媛(そのたけひめ)は、国乳別皇子(くにちわけのみこ)・国背別皇子(くにそわけのみこ)・豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
五十琴姬
¶妃である御刀媛(みはかしひめ)は、日向(ひゅうが)に住んでいた。天皇十三年、熊襲(くまそ)を平定してからの帰路、高屋宮(たかやのみや)に滞在した際にその美しさを聞き、召し入れて妃とした。豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
稻日稚郎姬
¶妃である五十琴姫(いことひめ)は、物部胆咋(もののべのいくい)の娘である。天皇三十六年、召し入れて妃とした。五十功彦命(いこひこのみこと)を生んだ。(『先代旧事本紀』による。)
迦具漏比賣
¶稲日稚郎姫(いなびのわかいらつめ)は、大郎姫皇后の妹である。真若王(まわかのみこ)・彦人大兄王(ひこひとのおおえのみこ)を生んだ。(『古事記』による。)
神功皇后
¶迦具漏比売(かぐろひめ)は、(注:本書によれば、日本武尊の曾孫である須売伊呂大中日子王(すめいろのおおなかつひこのみこ)の娘とするが、年代が食い違うため採らない。応神天皇の妃に迦具漏媛(かぐろひめ)がおり、これはおそらく日本武尊の曾孫であろう。)大江王(おおえのみこ)を生んだ。(『古事記』による。)
大中姬
¶仲哀天皇の后である神功皇后(じんぐうこうごう)は、気長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の娘である。母は葛城高顙媛(かつらぎのたかぬかひめ)という。幼い頃から聡明で、容貌も壮麗であったため、宿禰王はこれを非凡な子だと思った。天皇二年正月、皇后に立てられた。天皇が崩御すると、后は自ら後事を取り仕切り、軍を督励して三韓(さんかん)を征討した。これにより外国も帰服し、その威風は大いに行き渡った。応神天皇(おうじんてんのう)を生むと、后は自ら朝政に臨んで政治を執り、群臣は皇太后と尊称した。摂政となること凡そ七十年、その事跡は帝紀に詳しい。(注:仲哀天皇の崩御にあたり天下に主がなく、皇后は遺腹の御子を奉じて四海に号令し、「胎中の帝」と称された。しかし応神がすでに生まれた以上、本来ならば天子に立てて然るべきところを、皇太子として立てたのは、名と実とが正しく一致していない。皇后は自らが天子そのものになることをためらったのであろう。後世の人々はただその形跡だけを見て、皇統の世次にこれを列してしまい、旧史の趣旨を大きく損なっている。『古事記』は歴代の帝王が天下を治めた次第を記すにあたり、応神をもって仲哀の後に直接接続させ、皇后を数に入れていない。一方『日本書紀』では、特に「摂政元年」と書き分けており、その筆法もまた厳格である。また女帝が真に即位した例としては推古(すいこ)・持統(じとう)のような方々がいずれも天皇と称されているのに対し、皇后(神功皇后)はそう称されていない。その後、追諡が定められた際にも神功皇后と呼ばれ、天皇の号を奉られてはいない。これらのことから見れば、皇后を帝紀に列するのは適当でないことは明らかである。とはいえ、仲哀・応神の間、皇后が摂政として実質的に天子の政務を行ったことは事実であるから、今その事実を没することなく、后の事績は仲哀・応神二代の本紀に備え記すこととし、別に皇后紀は作らない。)己丑(つちのとうし)の年、稚桜宮(わかさくらのみや)で亡くなった。享年百歳、狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)に葬られた。(注:「池上」の二字は『延喜式』による。)応神天皇は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と追尊し、後世には神功皇后と諡した。(『日本書紀』による。)
弟媛
¶妃である大中姫(おおなかつひめ)は、彦人大兄王の娘である。麛坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊皇子(おしくまのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
仲姬皇后
¶妃である弟媛(おとひめ)は、大酒主(おおさかぬし)の娘である。誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
高城入媛
¶応神天皇の后である仲姫皇后(なかつひめのこうごう)は、五百城入彦皇子の孫であり、品陀真若王(ほむだのまわかのみこ)の娘である。(注:父の名は『古事記』による。)天皇二年三月、皇后に立てられた。荒田皇女(あらたのひめみこ)・仁徳天皇(にんとくてんのう)・根鳥皇子(ねとりのみこ)を生んだ。仁徳天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『日本書紀』による。)
弟姬
¶妃である高城入媛(たかきのいりひめ)は、皇后の姉である。額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)・大山守皇子(おおやまもりのみこ)・去来真稚皇子(いざのまわかのみこ)・大原皇女(おおはらのひめみこ)・澇来田皇女(こむくたのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
宮主宅媛
¶妃である弟姫(おとひめ)は、皇后の妹である。阿倍皇女(あべのひめみこ)・淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ)・紀菟野皇女(きのうのひめみこ)・三野郎女(みののいらつめ)を生んだ。(『日本書紀』による。三野郎女は『古事記』による。)
小甂媛
¶妃である宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は、(注:『古事記』には宮主矢河枝比売(みやぬしやかわえひめ)とある。『先代旧事本紀』には物部多遅麻(もののべのたぢま)の娘、香室媛(かむろひめ)とし、あるいは山無媛(やまなしひめ)ともする。)和邇日触使主(わににのひふれのおみ)の娘である。(『日本書紀』・『古事記』による。)天皇が近江(おうみ)に行幸し、木幡村(こはたのむら)に至った道すがら、この媛を見かけて心惹かれた。天皇が「そなたは誰の娘か」と問うと、媛は父の名を答えた。天皇は「明日、朕はそなたの家を訪ねよう」と言った。媛は帰ってこれを父に語り、日触は屋敷を清めて待った。翌日、天皇が行幸すると、日触は酒宴を設けてもてなし、媛は杯を捧げて差し出した。天皇は喜んで歌を詠んだ。(『古事記』による。)こうしてついに召し入れて妃とし、皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、八田皇女(やたのひめみこ)、雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
弟姬
¶妃である小甂媛(こなべひめ)は、宅媛の妹である。菟道稚郎姫皇女(うじのわかいらつめのひめみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
絲媛
¶妃である弟姫(おとひめ)は、河派仲彦(かわまたのなかつひこ)の娘である。(注:『古事記』には咋俣長日子王(くいまたながひこのみこ)の娘、息長真若中比売(おきながのまわかなかつひめ)とある。)稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
日向泉長媛
¶妃である糸媛(いとひめ)は、(注:『古事記』には糸井比売(いといひめ)とある。)桜井田部連男鉏(さくらいのたべのむらじおすき)の妹である。(注:『古事記』では嶋垂根(しまたりね)の娘とする。)隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)を生んだ。(『日本書紀』による。)
兄媛
¶妃である日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)は、大葉枝皇子(おおばえのみこ)・小葉枝皇子(おばえのみこ)・幡日若郎女(はたひのわかいらつめ)を生んだ。(『日本書紀』による。幡日若郎女は『古事記』による。)
迦具漏媛
¶妃である兄媛(えひめ)は、吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)の娘である。(注:本書には父の名を載せないが、その説は皇子伝に見える。)天皇二十二年三月、難波(なにわ)に行幸して大隅宮(おおすみのみや)に滞在し、たまたま高台に登った。兄媛が側に侍し、西の方を望んで長く嘆息した。天皇が「そなたは何を嘆くのか」と問うと、「妾は近ごろ父母のことを思い、それで嘆息しておりました。しばらく里帰りしとうございます」と答えた。天皇はその志に感じ入ってこれを許した。そこで淡路(あわじ)の御原(みはら)の海人八十人に舟の用意をさせて送らせた。四月、大津(おおつ)を発って吉備(きび)へ帰った。天皇は高台に登ってその舟を遥かに見送り、歌を詠んで言った。「淡路島(あはぢしま)、いや二並び(いやふたならび)、小豆島(あづきしま)、いや二並び(いやふたならび)、寄ろしき島々(よろしきしまじま)、誰か方去れ放ちし(たがかたさればなちし)、吉備なる妹を(きびなるいもを)、相見つるもの(あひみつるもの)。」九月、天皇は淡路島に遊猟し、そのまま吉備に行幸した。葦守宮(あしもりのみや)に至ったとき、妃の兄である御友別(みともわけ)が食事を献上し、その兄弟や子孫は皆膳夫(かしわで)として仕えた。天皇はこれをたいそう褒め称え、そこで吉備国を分割して、その子である稲速別(いなはやわけ)を川島県(かわしまのあがた)に、仲彦(なかつひこ)を上道県(かみつみちのあがた)に、弟彦(おとひこ)を三野県(みののあがた)に、その兄の浦凝別(うらこりわけ)を苑県(そののあがた)に、その弟の鴨別(かもわけ)を波区芸県(はくぎのあがた)にそれぞれ封じ、特に兄媛には織部県(おりべのあがた)を与えた。(『日本書紀』による。)
磐之媛皇后
¶迦具漏媛(かぐろひめ)は、(注:景行天皇の妃にも迦具漏媛がいることは、上に説を見た通りである。)川原田郎女(かわらだのいらつめ)・玉郎女(たまのいらつめ)・忍坂大中比売(おしさかのおおなかつひめ)・登富志郎女(とほしのいらつめ)・堅石王(かたしはのみこ)を生んだ。(『古事記』による。)
八田皇后
¶仁徳天皇の后である磐之媛皇后(いわのひめのこうごう)は、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘である。天皇二年三月、皇后に立てられた。七年、天皇は葛城部(かつらぎべ)を定めた。二十二年、天皇は八田皇女(やたのひめみこ)を妃に迎えようとし、歌を詠んで皇后にその意を伝えた。皇后は歌を返してこれを拒んだ。三十年九月、后は新嘗の祝宴を催そうとして、(注:「豊楽を催そうとした」の部分は『古事記』による。)紀伊国(きいのくに)熊野岬(くまののみさき)に行幸し、御綱葉(みつなかしわ)を採った。天皇はその留守を狙って八田皇女を召し入れ、宮中に入れた。后は難波(なにわ)に帰る途中でこれを聞くと大いに怒り、御綱葉を海に投げ捨てて船から降りようとしなかった。それゆえその場所を葉済(かしわのわたり)と名づけた。(注:『古事記』には御津前(みつのさき)とある。)天皇はその事情をまだ知らず、大津に行幸して后を迎えようとした。しかし后はそのまま川を遡り、山背(やましろ)を経て大和(やまと)へ赴いた。(注:『古事記』によれば、太后がまだ紀国から帰らないうちに、水を汲む役の仕丁が難波の大渡(おおわたり)に着き、倉の女官に出会って「天皇は八田若郎女(やたのわきいらつめ)を娶られました。太后はまだご存じないのでしょうか」と語った。倉の女官がこれを太后に告げると、太后は激しく怒り恨み、宮に帰ろうとせず、堀江を遡って山代に行幸したという。『古事記』では皇后を「太后」と称しているが、これは上代において皇后・太后の呼称がまだ定まっていなかったためであろう。それゆえ『古事記』に記す例では、天子の正嫡を尊んで呼ぶ場合、おおむね「太后」と称しているのである。)天皇は舎人(とねり)の鳥山(とりやま)を遣わして后に宮へ帰るよう諭させたが、后は応じなかった。そこで山背の筒城岡(つつきのおか)の南に宮を営んで住んだ。天皇は口持臣(くちもちのおみ)を遣わして諭させたが、后は黙って答えなかった。口持臣は昼も夜も御殿の前に伏し、雨が降っても雪が降っても立ち去らなかった。后に仕えるその妹の国依媛(くによりひめ)が、その様子を見て泣いた。后がわけを尋ねると、「今、庭に伏してご命令を待っておりますのは、妾の兄でございます。雨や雪にも構わずおりますので、それで泣いているのです」と答えた。后は「お前の兄に、早く帰るよう伝えなさい。私の心はもう決まっている」と言った。十一月、天皇は后に会おうとして山背に行幸し、筒城宮(つつきのみや)に至って后を呼んだが、后は出て来なかった。天皇は歌を詠んで諭した。后は人を遣わして「陛下は八田皇女を妃としてお迎えになりました。妾はその妃と一緒にお仕えすることを望みませんので、あえてお目にかかりません」と申し上げさせた。天皇は悵然として帰った。三十五年六月、后は筒城宮で亡くなった。三十七年十一月、那羅山(ならやま)に葬られた。后は履中天皇(りちゅうてんのう)・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)・反正天皇(はんぜいてんのう)・允恭天皇(いんぎょうてんのう)を生んだ。天皇ははじめ宮人の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入っていたが、后の嫉妬を憚って召すことができなかった。侍臣の速待(はやまち)に媛を賜ろうとしたところ、玖賀媛は速待を拒んで「妾は独り身のまま生涯を終えます。どうしてあなたの妻になりましょうか」と言った。天皇は媛と速待を桑田へ帰らせたが、媛は病を発して道中で亡くなった。(『日本書紀』による。)
日向髮長媛
¶八田皇后(やたのこうごう)は、(注:『古事記』には八田若郎女(やたのわきいらつめ)とある。)母は宮主宅媛である。はじめ后の母方の兄である皇太子菟道稚郎子は、亡くなる際に后を天皇の宮中に納めるよう遺言した。天皇二十二年、天皇はこれを召し入れて太子の志を遂げようとし、磐之媛皇后に相談したが、皇后は不快に思った。皇后が紀伊国に行幸した隙に、天皇はこれを召し入れて妃とした。三十五年、磐之媛皇后が亡くなった。三十八年正月、皇后に立てられた。(『日本書紀』による。)天皇は八田部(やたべ)を定めた。(『古事記』による。)后に子がなかったので、侍臣の物部大別連公(もののべのおおわけのむらじきみ)に詔して皇子の代わりとなる部民を定めさせ、后の号を氏として賜り、氏造(うじのみやつこ)とし、姓を矢田部連公(やたべのむらじきみ)に改めさせた。履中天皇の即位に際し、皇太后と尊称された。(『先代旧事本紀』による。注:『古事記』には、天皇は八田若郎女を娶り、また宇遅能若郎女(うじのわきいらつめ)を娶ったが、共に子がなかったとある。しかし他の書にはこの記載がないため、今は採らない。)
草香幡梭皇后
¶妃である日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)は、諸県君牛諸井(もろあがたのきみうしもろい)の娘である。はじめ応神天皇の時代、ある人が「日向国に女がおり、名を髪長媛と申します。国中に並ぶ者のない美しさです」と奏上した。応神天皇は使者を遣わして召し寄せ、桑津邑(くわつのむら)に住まわせた。天皇(仁徳天皇)はこのとき皇子であったが、その美しさを見て心惹かれた。応神天皇はその心を知り、これを与えようと思った。ある日、後宮で宴を催し、髪長媛を席に呼んで皇子に示し、歌によってその意を伝えた。皇子は大いに喜んで歌を返した。こうして髪長媛を得て、寵愛はことのほか厚かった。大草香皇子(おおくさかのみこ)、幡梭皇后(はたびのこうごう)を生んだ。(『日本書紀』による。注:本書の応神紀の一説によれば、日向の諸県君牛(うし)が官を辞して故郷に帰る際、その娘の髪長媛を天皇に献上しようとした。播磨(はりま)に着いたころ、誉田天皇(ほむだのすめらみこと、応神天皇)がたまたま淡路島で狩りをしていたところ、麋鹿(おおしか)数十頭が海を渡って来た。天皇が不思議に思い、人を遣わして見させると、いずれも人であり、鹿の皮をみな脱いだ。事情を尋ねると、「髪長比売が日向より参り、難波津に着きました」と答えた。大雀命(おおさざきのみこと、仁徳天皇)はその美しさを聞き、建内宿禰(たけうちのすくね)に「私は髪長比売を得たいと思う。天皇に申し上げてくれ」と頼んだ。建内宿禰がこれを奏上した。豊明(とよのあかり)の宴の日、天皇は髪長比売に大御酒(おおみき)の柏(かしわ)を捧げさせた。そして歌を詠み、これを大雀命に賜ったという。)
¶【履中天皇】
黑媛
¶履中天皇の后である草香幡梭皇后(くさかのはたびのこうごう)は、またの名を橘姫(たちばなひめ)という。(『日本書紀』による。)またの名を長日売命(ながひめのみこと)、また若日下部命(わかくさかべのみこと)ともいう。仁徳天皇は若日下部(わかくさかべ)を定めた。(『日本書紀』による。)天皇は召し入れて妃とし、中蒂皇后(なかしのこうごう)を生んだ。天皇六年正月、皇后に立てられた。天皇の崩御後、再び雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の皇后となった。(『日本書紀』による。)
大姬郎姬
¶妃である黒媛(くろひめ)は、葦田宿禰(あしだのすくね)の娘である。天皇元年七月、皇妃となった。市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)・御馬皇子(みまのみこ)・青海皇女(あおみのひめみこ)を生んだ。五年九月、亡くなった。このとき天皇はちょうど淡路島で狩りをしていたが、空中から「剣刀(つるぎたち)、太子の王なるぞ」という声がし、また「鳥往き来ふ、羽田のわが妹よ、羽狭(はさ)に葬り立ち去りね」とも、また「狭名来田蔣津(さなきたこもつ)の命(みこと)よ、羽狭に葬り立ち去りね」とも聞こえた。ほどなくして訃報が届き、天皇は大いに驚いて即日車を返した。十月、これを葬った。(注:本書によれば、天皇は喪が明けたもののまだ即位せず、羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘である黒媛を妃に迎えようとし、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を使者とした。仲皇子はこの黒媛を犯した。事が発覚し、仲皇子は誅殺された。元年、葦田宿禰の娘である黒媛を皇妃に立てた。この二人の黒媛はたまたま名が同じであるにすぎない。しかし空中の声にいう「羽田のわが妹」とは、羽田矢代の縁に近い言い方のように思われる。矢代宿禰は武内宿禰の子である。葦田宿禰は葛城襲津彦の子で、武内宿禰の孫にあたる。両者の出自はさほど遠くない。また『水鏡』では仲皇子が犯した黒媛を葦田宿禰の娘とし、両者は同一人物ではないかとも疑われる。)天皇は皇妃の死を神の祟りであると考え、その原因を調べさせた。ある者が「車持君(くるまもちのきみ)が筑紫にいて、車持部(くるまもちべ)をことごとく検校し、神戸(かんべ)に属する隷民を奪っております」と告げた。取り調べたところ事実であったため、その罪を責めて職を解いた。(『日本書紀』による。)
高鶴郎姬
¶嬪(ひん)である大姫郎姫(おおいらつめ)・高鶴郎姫(たかつるのいらつめ)は、共に鰭魚磯別王(はたのいそわけのみこ)の娘である。天皇六年二月、二人とも嬪として召し入れられた。二人の嬪はともに宮中に入って以来、いつも悲しみ嘆いていた。天皇がこれを聞いて「そなたたちは何を嘆くのか」と問うと、「妾たちの兄である鷲住王(わしすみのみこ)は、たいそう力強く身が軽く、八尋(やひろ)もある屋根を飛び越えるほどでございます。それなのに何日も出歩いていて、顔を合わせることができません。それで嘆いているのです」と答えた。天皇はその強力ぶりを気に入り、使いを遣わして二度呼び寄せようとしたが、鷲住王は応じようとせず、いつも住吉邑(すみのえのむら)に住んでいた。この者が讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)、および阿波脚咋別(あわのあしくいわけ)の二族の始祖であるという。(『日本書紀』による。注:本書の景行紀によれば、神櫛皇子は讃岐国造の始祖であるという。『新撰姓氏録』もこれと合致する。そうであれば、鰭魚磯別王はおそらく神櫛皇子の子孫であろう。しかしその世次については考証のしようがなく、ひとまずここに付す。)