卷之第十二 本紀第十二
持統天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
持統天皇
¶持統天皇は、幼名を鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)といった。天智帝の第二女である。母は遠智娘(おちのいらつめ)。
¶斉明帝(さいめいてい)の三年、天武帝の妃となった。人となりは深く沈着で度量が大きく、倹約を旨とし礼を好み、母としての徳を備えていた。
¶天智帝の四年十月、天武帝に従って吉野に入った。帝(天武帝)が兵を挙げるに及んでは、常にともに謀議を定めた。帝が即位すると、立てられて皇后となり、政事を議するたびに、多くこれを助け支えた。
¶朱鳥元年、帝の病が重くなった。天皇(皇后)および皇太子に勅して、ともに政務を決裁させた。
¶九月、帝が崩御した。天皇は朝に臨んで政(まつりごと)を称制(しょうせい、即位せずに執政すること)した。
¶冬十月二日己巳、大津皇子(おおつのみこ)の謀反が発覚した。勅して大津およびその一味三十余人を捕らえさせた。三日庚午、大津皇子に死を賜った。三十日丙申の晦日、詔して仰せられた。「皇子大津が謀反を企て、今すでに誅に伏した。その企てに巻き込まれた官吏・民は、みなことごとくこれを赦す。ただし礪杵道作(とぎのみちつくり)のみは伊豆に流す。」また詔した。「新羅の沙門(しゃもん、僧)行心(ぎょうしん)は、皇子大津とともに謀反を企てた。刑罰を加えるには忍びないので、飛驒(ひだ)の伽藍(がらん)に移す。」
¶十一月十七日癸丑、地震があった。十二月十九日乙酉、大行天皇(たいこうてんのう、天武天皇)のために、大官・飛鳥・川原・小墾田・豊浦(とゆら)・坂田の諸寺で無遮大会(むしゃだいえ、身分を問わず施しをする法会)を設けた(注:本書には天渟中原瀛真人天皇と記すが、三年五月に新羅の使者を責めた詔には大行天皇と記す。今はこれによる。以下も同様とする)。二十六日壬辰、京師の高齢者・孤独な者に布帛(ふはく)を差をつけて賜った。閏月、筑紫太宰が三韓の男女の僧尼六十二人を献上した。この年、蛇と犬が交わって死んだ。
¶元年丁亥(注:愚管抄・皇代略紀などの書によれば、天武帝の崩御後も、なお朱鳥の年号は七年間存続したという。本書は今年を元年とし、朱鳥の年号を継続していない。天皇は四年庚寅に即位しているので、今はその即位の年を元年とすべきである。しかし八年三月の語に「粤(ここ)に七年歳次癸巳を以て」云々とあり、これによれば当時すでにこの歳を紀元としていたことになる。それゆえ今はこれに従う)、春正月丙寅朔、皇太子は公卿百官を率い、殯宮(もがりのみや)に詣でて哀悼の意を表した。五日庚午、また同様に行った。十五日庚辰、京師の八十歳以上の者、および重い病や貧窮で自活できない者に、絁(あしぎぬ)・綿を差をつけて賜った。十九日甲申、直広肆田中法麻呂(たなかのりまろ)を遣わし、大弐(だいに)守刈田(かりた)らを追って新羅に赴かせ、大喪(たいそう)を告げさせた。三月十五日己卯、高麗からの投化者五十六人を常陸(ひたち)に住まわせた。二十二日丙戌、新羅からの投化者十四人を下毛野(しもつけの)に住まわせた。夏四月十日癸卯、筑紫太宰が献上した新羅からの投化者二十二人を武蔵に住まわせた。五月二十二日乙酉、皇太子は公卿百官を率い、殯宮で哀悼の意を表した。隼人(はやと)の大隅(おおすみ)・阿多(あた)の魁帥(ひとごのかみ、首長)は、それぞれその部下を率いて誄(しのびごと、弔辞)を奉った。六月二十八日庚申、赦を行った。秋七月二日甲子、詔して仰せられた。「およそ乙酉(きのととり)の年以前の負債は、利息を取ってはならない。もしすでに身を働かせて返済に充てている者は、利息の分量にかかわらず働かせてはならない。」九日辛未、隼人の大隅・阿多の魁帥ら三百三十七人に、それぞれ差をつけて恩賞を賜った。八月五日丙申、殯宮で嘗(にいなめ)の儀を行った。この日、青飯(あおいい)を供えた。二十八日己未、大行天皇の御衣を裁って袈裟三百領を作り、直大肆藤原大島(ふじわらのおおしま)・黄書大伴(きふみのおおとも)を飛鳥寺に遣わし、三百人の僧に頒け賜った。九月九日庚午、京師の諸寺で国忌斎(こっきさい)を設けた。十日辛未、殯宮で斎(とき)を設けた。二十三日甲申、新羅王がその子である霜林(そうりん)らを遣わし、調賦(ちょうふ)を献じて国政の報告を求めた。冬十月二十二日壬子、皇太子は公卿・百官・国司・国造らを率い、大内陵(おおうちのみささぎ)を築いた。十二月三日癸巳、天智帝のために崇福寺(すうふくじ)で法会を設け、永く国忌(こっき)とした(注:「十二月」以下は江家次第(ごうけしだい)・公事根源(くじこんげん)による)。
¶二年戊子、春正月庚申朔、皇太子は公卿百官を率い、殯宮で哀悼の意を表した。八日丁卯、薬師寺で無遮大会を設けた。二月十六日乙巳、詔した。「今より後、国忌の日には斎を設けよ。」夏六月十一日戊戌、天下に詔した。「極刑(ごくけい)は罪を一等減じ、軽罪はことごとく赦す。天下の今年の調賦(ちょうふ)を半分免除する。」秋七月十日丁卯、大雨乞いを行った。二十日丙子、百済の僧道蔵(どうぞう)に命じて雨乞いをさせた。この日、大雨が降った。八月十日丙申、殯宮で嘗の儀を行い、哀悼の意を表した。十一日丁酉、浄大肆伊勢王(いせのおおきみ)に命じ、葬儀のことを宣(の)べ奉らせた。二十五日辛亥、耽羅が貢物を献じた。冬十一月十日乙丑、天武天皇を葬った。十二月十二日丙申、蝦夷(えみし)二百十三人を飛鳥寺で饗応し、位を授け物を差をつけて賜った。
¶三年己丑、春正月甲寅朔、前殿(ぜんでん)に出御して朝賀を受けた。二日乙卯、大学寮が杖(つえ)八十本を献上した。七日庚申、公卿に宴を賜り、袍袴(ほうこ、上着と袴)を賜った。九日壬戌、出雲国司に詔して、「異国の者で風波に遭った者を送り届けよ」と命じた。筑紫太宰の粟田真人(あわたのまひと)が隼人百七十四人を献上した。十六日己巳、百官を饗応した。十八日辛未、吉野宮に行幸した。二十一日甲戌、宮に還った。二月二十六日己酉、浄広肆竹田王(たけだのおおきみ)、直広肆土師根麻呂(はじのねまろ)・大宅麻呂(おおやけのまろ)・藤原史(ふじわらのふひと)、務大肆当麻桜井(たいまのさくらい)・穂積山守(ほづみのやまもり)・中臣麻呂(なかとみのまろ)・巨勢多益須(こせのたやす)・大三輪安麻呂(おおみわのやすまろ)を判事とした。三月二十四日丙子、天下に大赦を行った。ただし常の赦で免じられない罪は、赦の対象としなかった。夏四月八日庚寅、新羅からの投化者を下毛野に住まわせた。十三日乙未、皇太子草壁(くさかべ)が薨じた。二十日壬寅、新羅が使者を遣わして弔喪した。五月二十二日甲戌、土師根麻呂に勅して、新羅の非礼を責めさせ、その貢献を退けさせた。六月壬午朔、筑紫太宰に衣裳を賜った。二日癸未、施基皇子(しきのみこ)、直広肆佐味宿那麻呂(さみのすくなまろ)・羽田斉(はたのいつき)、勤広肆伊余部馬飼(いよべのうまかい)・調老人(つきのおきな)、務大参大伴手拍(おおとものたうち)・巨勢多益須らを撰善言司(せんぜんごんし、善言を選集する役)とした。十九日庚子、唐人の続守言(しょくしゅげん)・薩弘恪(さつこうかく)らに稲を差をつけて賜った。二十九日庚戌、令(りょう)二十二巻を諸司に頒布した。秋七月十五日丙寅、左右京職(さきょうしき・うきょうしき)および諸国司に、射場(いば)を築くよう詔した。二十日辛未、河内の人、柏原広山(かしわばらのひろやま)が、偽って兵衛(ひょうえ)と称した。兵衛の生部虎(いくべのとら)がこれを捕らえた。そこで広山を土左に流し、虎には位を授け追広参(ついこうさん)とした。八月二日壬午、百官が神祇官に集まり、天神地祇の事を宣(の)べ承った。四日甲申、吉野宮に行幸した。十六日丙申、摂津の武庫(むこ)の海一千歩、紀伊の阿提郡(あてのこおり)那耆野(なぎの)、伊賀の伊賀郡身野(みの)、それぞれ二万頃(けい)に役人を置いて漁猟を禁じ、河内の大鳥郡(おおとりのこおり)高脚海(たかしのうみ)の例に準じた。十七日丁酉、公卿に恩賞を差をつけて賜った。二十一日辛丑、伊予総領(いよのそうりょう)田中法麻呂に詔して、讃吉(さぬき)が献上した白い燕(つばめ)を放たせた。二十三日癸卯、弓射を観覧した。閏月十日庚申、諸国司に詔した。「今年の冬、戸籍を造り、それにより浮浪者を糺(ただ)し捕らえよ。九月までを期限とし、国ごとにその民の四分の一を点検して、武事を講習させよ。」九月十日己丑、直広参石上麻呂(いそのかみのまろ)・直広肆石川虫名(いしかわのむしな)らを筑紫に遣わし、位記(いき)を持たせ、また新城(にいき)を監督させた。冬十月十一日庚申、高安城に行幸した。十一月八日丙戌(注:本書には十一月己丑朔とあるが、甲子から推算すると、この月に丙戌はない。十月庚戌朔によれば、己丑はおそらく己卯の誤りであろう。丙戌は八日にあたる)、追広弐高田石成(たかたのいわなり)を、三度の武事に励んだことを褒めて物を賜った。十二月八日丙辰、双六(すごろく)を禁じた。
¶四年庚寅、春正月戊寅朔、天皇が即位した。これを高天原広野姫天皇(たかまがはらひろのひめのすめらみこと)という。物部麻呂(もののべのまろ)が大盾(おおたて)を立て、神祇伯(じんぎはく)中臣大島(なかとみのおおしま)が天神寿詞(あまつかみのよごと)を読み、忌部邑夫(いんべのむらお)が神璽(しんじ)の剣・鏡を奉り、百官が列をなして拝礼した。二日己卯、公卿百官が朝賀に参列し、元会(がんえ、正月の儀式)の儀に準じた。三日庚辰、公卿に宴を賜った。十七日甲午、大赦を行った。ただし常の赦で免じられない罪は、赦の対象としなかった。位ある人には爵位一級を賜り、鰥寡孤独(かんかこどく)・重い病や貧窮で自活できない者には稲を賜り、調役を免除した。二十日丁酉、解部(ときべ、裁判の実務官)百人を刑部省(ぎょうぶしょう)に併合した。二十三日庚子、畿内の神祇に幣帛を頒ち、神戸(かんべ)の田地を増やした。二月五日壬子、腋上(わきがみ)の陂(つつみ)に行幸し、公卿大夫の馬を観覧した。十一日戊午、新羅人五十人が投化した。十七日甲子、吉野宮に行幸した。十九日丙寅、宮中で斎を設けた。二十五日壬申、新羅からの投化者十二人を武蔵に住まわせた。三月二十日丙申、京畿の八十歳以上の者に稲を、人ごとに二十束(そく)賜った。位ある者には布二端(たん)を加えて賜った。夏四月七日癸丑、京畿の老人男女五千余人に稲を、人ごとに二十束賜った。十四日庚申、百官および畿内の人に詔した。「位ある者は六年、位ない者は七年を限りとして、その出勤日数を調べ、定めて九等とする。その四等以上の者は、考仕令(こうしりょう)に依り、その功績の優劣・氏姓の大小を量って、冠位を授ける。服の色を八等に定める。」二十二日戊辰、雨乞いを行った。五月三日戊寅、吉野宮に行幸した。十日乙酉、百済の男女二十一人が投化した。十五日庚寅、初めて内裏(だいり)で安居(あんご)の講説を行った。六月六日辛亥、泊瀬に行幸した。二十五日庚午、位ある者を召し、その位の順序と年齢を申告させた。秋七月丙子朔、公卿百官が初めて新しい制度の朝服を着用した。三日戊寅、神祇に幣帛を頒った。五日庚辰、高市皇子(たけちのみこ)を太政大臣(だいじょうだいじん)とし、多治比島(たじひのしま)を右大臣とした。十四日己丑、七つの寺で安居する僧三千余人に、糸・綿・布を賜った。八月四日戊申、吉野宮に行幸した。十一日乙卯、新羅からの投化者を下毛野に住まわせた。九月乙亥朔、諸国司に詔した。「およそ戸籍を造るには、ひとえに戸令(こりょう)によれ。」十一日乙酉、紀伊を巡狩(じゅんしゅ)しようとして、詔を下した。「京師の今年の租賦を収めなくてよい。」十三日丁亥、紀伊に行幸した。二十三日丁酉、新羅が使者を遣わし、遣唐学問僧(けんとうがくもんそう)および軍丁(ぐんちょう)である筑紫の人、大伴部博麻(おおともべのはかま、注:類聚国史には博麻呂に作る)を護送して筑紫に至った。二十四日戊戌、御車が宮に還った。冬十月五日戊申、吉野宮に行幸した。二十二日乙丑、大伴部博麻の節義を顕彰し、位務大肆を授けた。二十九日壬申、太政大臣高市皇子に、百官を率いて藤原(ふじわら)の宮地を視察させた。十一月十一日甲寅、吉野宮に行幸した。十四日丙辰、宮に還った。十九日辛酉、藤原の宮地を視察するため行幸した。公卿百官がみな従った。二十三日乙丑、公卿以下に恩賞を差をつけて賜った。
¶五年辛卯、春正月癸酉朔、親王・諸臣・内親王・女王・内命婦(ないみょうぶ)らに位を授けた(注:公事根源に、女性への叙位はおそらくこれに始まる、とある。帝王編年記によれば、天武帝の十三年乙酉に、初めて婦女に位階を授けたとあるが、本書には記載がなく、何によったものかわからない)。十四日丙戌、直広肆筑紫史益(つくしのふひとます)が、二十九年間勤めを慎み励んだことにより、その功労を褒める詔を下し、食封(じきふ)五十戸を授け、綿布・稲を賜った。十六日戊子、吉野宮に行幸した。二十三日乙未、宮に還った。二月壬寅朔、宮人(みやひと)に位記(いき)を授けた。三月五日丙子、御苑(みその)で馬を観覧した。夏四月辛丑朔、詔して仰せられた。「およそ祖先が解放した奴婢で、すでに戸籍から除かれた者について、その親族らは重ねて訴えて奴婢とすることはできない。」十六日丙辰、吉野宮に行幸した。二十二日壬戌、宮に還った。六月十九日戊子(注:今、甲子から推算すると、この月は庚子朔で、戊子の日はない。おそらく戊午の誤りであろう。戊午は十九日にあたる)、詔して仰せられた。「今年の夏は長雨が季節を過ぎても続き、必ず作物を傷めることを恐れる。この過ちを思うと、夕べから朝に至るまで心が安まらない。公卿百官に、酒肉を断つことを禁じ、心を慎んで罪を悔い改めさせよ。京畿の諸寺の僧には、五日間経を読ませ、これに応じることがあるように。」二十日己未、天下に大赦を行った。ただし盗賊は赦の対象としなかった。四月から雨が降り続き、この月に至るまでやまなかった。京師および郡国四十か所で大水害があった。秋七月三日壬申、吉野宮に行幸した。この日、伊予国司田中法麻呂が、宇和郡(うわのこおり)から産出する白金(しろかね)および鉛(なまり)を献上した。七日丙子、公卿に宴を賜り、朝服を賜った。十二日辛巳、御車が宮に還った。八月二十三日辛酉、使者を遣わし、竜田の風神、信濃の須波(すわ)・水内(みのち)などの神を祭らせた。九月九日丁丑、浄大参川島皇子(かわしまのみこ)が薨じた。冬十月戊戌朔、日食があった。八日乙巳、詔して仰せられた。「およそ山陵には五戸以上を置き、功のあった諸王には塚守り三戸を置け。もし陵戸(りょうこ)が不足すれば、百姓を充て、その徭役を免除し、三年で交代させよ。」十三日庚戌、長生地(ちょうせいち、殺生を禁じる地)を畿内および諸国に置いた。この日、吉野宮に行幸した。二十日丁巳、宮に還った。二十七日甲子、使者を遣わして新益京(しんやくのみやこ、藤原京)を鎮め祭らせた(注:釈日本紀に、新益京とは藤原宮の地をいう、とある)。十一月戊辰朔、大嘗(だいじょう)の儀を行った。二十五日壬辰、公卿に衾(ふすま)を賜った。二十八日乙未、公卿以下主典(さかん)に至るまで、宴を賜り絹を差をつけて賜った。三十日丁酉の晦日、神祇官の諸司、および播磨・因幡の郡司以下百姓の男女に至るまで、大嘗の儀に奉仕した者に、食物を賜り絹を差をつけて賜った。
¶六年壬辰、春正月十二日戊寅、天皇は新益京の道を観察した。十六日壬午、百官を饗応した。二十七日癸巳、高宮(たかみや)に行幸した。二十八日甲午、宮に還った。二月十一日丁未、伊勢に行幸しようとして、諸司に衣服・物品を整え備えるよう詔した。十九日乙卯、軽い罪の囚人を赦した。中納言直大弐三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)が上表(じょうひょう)し、まさに農繁期であるのに遠出の行幸をすることをいさめた。三月三日戊辰、浄広肆広瀬王(ひろせのおおきみ)、直広参当麻智徳(たいまのちとこ)、直広肆紀弓張(きのゆみはり)らを留守(るす)とした。高市麻呂は宮門に赴き、冠を脱いで強くいさめたが、聞き入れられなかった。六日辛未、伊勢に行幸した。十七日壬午、御車の通過する神郡(しんぐん)、および伊賀・伊勢・志摩の今年の調役を免除し、その国造らに冠位を授けた。従駕(じゅうが)の騎士、諸司の荷丁(かちょう)、および行宮を造る役夫にも、今年の調役を免除した。天下に大赦を行った。ただし盗賊は赦の対象としなかった。十九日甲申、通過した志摩の百姓の男女で八十歳以上の者に、稲を人ごとに五十束賜った。二十日乙卯、御車が宮に還った。通過した郡県では官吏・民を集め、ねぎらって音楽を奏させた。二十九日甲午、詔した。「近江・美濃・尾張・参河(みかわ)・遠江(とおとうみ)などの従駕騎士の戸、および諸国の荷丁・行宮を造る役夫の今年の調役を免除する。天下の百姓の男女で困窮する者に稲を賜る。」夏四月五日庚子、四畿内の民で荷丁となった者の今年の調役を免除した。二十五日庚申、囚人を赦すよう詔した。五月七日辛未、相模国が赤い烏(からす)の雛(ひな)を献上した。十二日丙子、吉野宮に行幸した。十六日庚辰、宮に還った。十七日辛巳、大夫謁者(たいふえっしゃ)を遣わし、名だたる山岳・河川を祭って雨乞いをさせた。二十三日丁亥、浄広肆難波王(なにわのおおきみ)らを遣わし、藤原の宮地を鎮め祭らせた。二十六日庚寅、使者を遣わし、伊勢・大倭(おおやまと)・住吉・紀伊の大神に幣帛を奉り、新宮を造ることを告げさせた。閏月三日丁酉、大水害があった。使者を遣わして郡国を巡行させ、災害に遭って自活できない者に物を貸し与え、山林・池沢の禁を緩め、京畿に金光明経を講じるよう詔した。十五日己酉、筑紫太宰に詔し、河内王(かわちのおおきみ)らを率いて、唐使の郭務悰(かくむそう)が天智帝のために造った阿弥陀像を送り届けさせた。六月九日壬申、郡国の長吏(ちょうり)に、名だたる山や川に祈らせるよう勅した。十一日甲戌、大夫謁者を四畿内に遣わして雨乞いをさせた。二十九日癸巳の晦日、天皇は藤原の宮地を観察した。秋七月二日乙未、天下に大赦を行った。ただし十悪(じゅうあく)・盗賊は赦の対象としなかった。相模国司布勢色布智(ふせのしこぶち)、御浦郡(みうらのこおり)の少領(しょうりょう、注:姓名は欠けている)、および赤い烏を獲た鹿島櫲樟(かしまのくす)は、ともに位を授けられ物を賜り、本郡の調役を三年間免除された。七日庚子、公卿に宴を賜った。九日壬寅、吉野宮に行幸した。二十八日辛酉、宮に還った。この夜、熒惑(火星)と歳星(木星)が近づき合った。八月三日乙丑、赦を行った。十七日己卯、飛鳥皇女(あすかのひめみこ)の田荘(たどころ)に行幸し、その日のうちに宮に還った。九月九日辛丑、班田大夫(はんでんたいふ)を四畿内に遣わした。十四日丙午、神祇官が神宝の書四巻・鑰(かぎ)九個・木印一個を献上した。二十一日癸丑、伊勢国司が嘉禾(かか)を献上し、越前国司が白い蛾(が)を献上した。冬十月十二日癸酉、吉野宮に行幸した。十九日庚辰、宮に還った。十一月八日戊戌、新羅が調を貢いだ。十二月二十四日甲申、使者を遣わし、新羅の調を伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足(うなたり)の五社に奉らせた。
¶七年癸巳、春正月二日壬辰、天下の百姓に黄色の衣を、奴婢には黒い衣を着るよう詔した。十三日癸卯、京畿の八十歳以上で位ある者に、衾(ふすま)・絁・綿・布を賜った。十六日丙午、京師の男女で八十歳以上の者、および困窮する者に、布を差をつけて賜った。この日、漢人(あやひと)が踏歌(とうか)を奏した。二月三日壬戌、新羅が使者を遣わして喪に赴かせた。十日己巳、造京司(ぞうきょうし)の衣縫王(きぬぬいのおおきみ)らに、発掘した遺骸(いがい)を埋葬するよう詔した。三月庚寅朔、日食があった。五日甲午、大学博士上百済(かみくだら)に食封三十戸を賜り、儒学の道を厚遇した。六日乙未、吉野宮に行幸した。十三日壬寅、宮に還った。十六日乙巳、新羅王に賻物(ふもつ、弔いの品)を賜った。十七日丙午、天下に桑(くわ)・紵(からむし)・梨・栗・蕪菁(かぶら)を植えることを勧めるよう詔した。夏四月十七日丙子、大夫謁者を遣わし、諸社で雨乞いをさせた。五月己丑朔、吉野宮に行幸した。七日乙未、宮に還った。十五日癸卯、内裏で無遮大会を設けた。秋七月七日甲午、吉野宮に行幸した。十四日辛丑、大夫謁者を遣わし、諸社で雨乞いをさせた。十六日癸卯、また同様に行った。この日、御車が宮に還った。八月戊午朔、御車が藤原の宮地を巡行した。十七日甲戌、吉野宮に行幸した。二十一日戊寅、宮に還った。九月丁亥朔、日食があった。五日辛卯、多武峯(とうのみね)に行幸した(注:多武峯略記に引く古記に、七年九月、天皇は定慧和尚(じょうえかしょう)に勅して、先帝のために妙経(みょうきょう)を五日間講じさせ、それにより多武峯に行幸してその法会に臨んだ、とある)。六日壬辰、宮に還った。十日丙申、天武帝のために内裏で無遮大会を設け、囚人をことごとく赦した。冬十月二十三日己卯、初めて仁王経を諸国で四日間講じさせた(注:元亨釈書・濫觴抄(らんしょうしょう)にはいずれも、今年冬十月、宮中で仁王経・最勝経(さいしょうきょう)の二経を講じ、これを恒例として定めた、とある)。十一月五日庚寅、吉野宮に行幸した。十日乙未、宮に還った。十二月二十一日丙子、陣法博士(じんぽうはかせ)らを遣わし、諸国で武術を講じさせた。この年、近江の益須郡(やすのこおり)で醴泉(れいせん、甘い霊泉)が湧いた。
¶八年甲午、春正月十六日庚子、百官を饗応した。二十一日乙巳、藤原宮に行幸した。その日のうちに宮に還った。二十四日戊申、吉野宮に行幸した(注:本書には還宮の日が記されていない)。三月甲申朔、日食があった。二日乙酉、直広肆大宅麻呂、勤大弐台八島(うてなのやしま)、黄書本実(きふみのもとざね)を鋳銭司(じゅせんし)とした。十六日己亥、詔して仰せられた。「ここに七年歳次癸巳を以て、醴泉が近江の益須郡都賀山(つがやま)に湧き出た。病を患う者たちが益須寺(やすでら)に宿り、これを飲んで多くが快癒した。そこで水田四町、布六十端を給する。益須郡の今年の調役・雑徭(ぞうよう)を免除する。国司の頭(かみ)以下目(さかん)に至るまで、位一階を進める。その醴泉を最初に見つけた葛野羽衝(かどののはつき)、百済の土羅々女(とららめ)には、絁二匹・布十端・鍬十口を賜る。」二十二日乙巳、諸社に幣帛を奉った。二十三日丙午、神祇官の頭から祝部(はふりべ)に至るまでの百六十四人に、絁・布を差をつけて賜った。夏四月七日庚申、吉野宮に行幸した。十四日丁卯(注:本書の一本には丁未に作るが、今、甲子から推算すると、この月に丁亥・丁未はなく、おそらく丁卯の誤りであろう。丁卯は十四日にあたる)、宮に還った。五月六日戊子、公卿大夫に宴を賜った。十一日癸巳、金光明経百部を諸国に分け置き、毎年正月上旬にこれを読ませ、その国の官物を布施にあてた。六月八日庚申、河内の更荒郡(さらあらのこおり)の人、刑部韓国(おさかべのからくに)が白い山鶏(やまどり)を獲て献上した。それにより進広弐(しんこうに)を授け物を賜り、あわせて本郡の大領(だいりょう)・少領(しょうりょう)にそれぞれ位一級を授けた。秋七月四日丙戌、巡察使(じゅんさつし)を諸国に遣わした。九月壬午朔、日食があった。四日乙酉、吉野宮に行幸した。冬十月二十日庚午、飛驒の荒城郡(あらきのこおり)で白い蝙蝠(こうもり)を獲た弟国部弟日(おとくにべのおとひ)に進大肆(しんだいし)を授け、絁・綿・布を賜り、終身戸役(こやく)を免除した。十一月二十六日丙午、殊死(しゅし、死刑)以下の罪を赦した。十二月六日乙卯、藤原宮に遷り住んだ。九日戊午、百官が朝賀に参列した。十日己未、親王以下郡司に至るまで、絁・綿・布を差をつけて賜った。十二日辛酉、公卿大夫に宴を催した。
¶九年乙未、春閏二月八日丙戌、吉野宮に行幸した。十五日癸巳、宮に還った。三月二日己酉、新羅王がその子である良琳(りょうりん)を遣わして貢物を献じ、国政の報告を求めた。十二日己未、吉野宮に行幸した。十五日壬戌、宮に還った。二十三日庚午、務広弐文博勢(ふみのはかせ)、進広参下諸田(しものもろた)を多禰(たね)に遣わし、蛮族の居所を探らせた。夏五月二十一日丁卯、大隅隼人の相撲を観覧した。六月三日己卯、大夫謁者を遣わし、京畿の諸社で雨乞いをさせた。十六日壬辰、諸臣で八十歳以上の者、および持病のある者に、それぞれ差をつけて物を賜った。十八日甲午、吉野宮に行幸した。二十六日壬寅、宮に還った。秋八月二十四日己亥、吉野に行幸した。九月乙巳朔、宮に還った。四日戊申、囚人を赦して放免した。六日庚戌、直広肆小野毛野(おののけぬ)、務大弐伊吉博徳(いきのはかとこ)を新羅に遣わした。冬十月十日乙酉、菟田(うだ)の吉隠(よなばり)に行幸した。十二日丙戌、宮に還った。十二月五日戊寅、吉野宮に行幸した。十三日丙戌、宮に還った。
¶十年丙申、春二月三日乙亥、吉野に行幸した。十三日乙酉、宮に還った。三月三日乙巳、二槻宮(ふたつきのみや)に行幸した。夏四月二十七日戊戌、伊予の風速郡(かぜはやのこおり)の物部薬(もののべのくすり)、肥後の皮石郡(かわしのこおり)の壬生諸石(みぶのもろいし)が、久しく唐の地で苦労したことにより、ともに位を授けて追大弐(ついだいに)とし、調役を免除した。水田四町、稲一千束、絁・糸・布・鍬を賜った。二十八日己亥、吉野に行幸した。五月四日乙巳、宮に還った。六月十八日戊子、吉野に行幸した。二十六日丙申、宮に還った。秋七月辛丑朔、日食があった。二日壬寅、赦を行った。十日庚戌、太政大臣高市皇子が薨じた(注:本書には後皇子尊(のちのみこのみこと)と記すが、今は公卿補任(くぎょうぶにん)・釈日本紀による)。
¶十一年丁酉、春正月十一日戊申、天下の鰥寡孤独・重い病の者・貧しく自活できない者に稲を、それぞれ差をつけて賜った。二月十六日壬午、皇孫の珂瑠(かる)を皇太子に立てた(注:文武帝が皇太子となったことについて、続日本紀はこの年のこととするが、月日は記していない。今は釈日本紀に引く王子枝別記(おうじえだわかれのき)による)。二十八日甲午、直広壱当麻国見(たいまのくにみ)を東宮太傅(とうぐうたいふ)、直広参路跡見(みちのとみ)を大夫、直大肆巨勢粟持(こせのあわもち)を亮(すけ)とした。三月八日甲辰、東宮で無遮大会を設けた。夏四月四日己巳、満選(まんせん、選考期間を満了した者)の者に、浄位(じょうい)から直位(じきい)に至るまで、差をつけて授けた。七日壬申、吉野宮に行幸した。十四日己卯、宮に還った。五月八日癸卯、大夫謁者を遣わし、諸社で雨乞いをさせた。六月、天皇が病に伏した。二日丁卯、赦を行った。六日辛未、京畿の諸寺で経を読ませるよう詔した。十九日甲申、神祇に幣帛を頒った。秋七月七日辛丑、常𨰃(じょうとう、意味不詳)の盗賊百九人を赦し(注:「常𨰃盜賊」の語は解釈しがたい。釈日本紀にも「常𨰃は考証しがたい」とあるので、今は旧文のままとする)、それにより布を人ごとに四常(し)賜り、ただし畿外の者には稲を人ごとに二十束賜った。八月乙丑朔(注:続日本紀は甲子朔に作り、本書と異なる。今、暦法によって考えると、実際には甲子である。今はひとまず旧文に従う。水鏡・一代要記はこれを十年のこととするが、いずれも誤りである)、皇太子に位を譲り、太上天皇(だいじょうてんのう)と称した(注:「太上天皇」の号は続日本紀・万葉集・水鏡による)。太上天皇の号は、これに始まる(注:濫觴抄・一代要記・歴代皇紀による)。
¶大宝二年十二月二十二日甲寅、崩御した(注:水鏡・皇代略紀は十日とする。○本書には享年の記載がない。皇胤紹運録・神皇正統記・一代要記にはいずれも、御年五十八歳とある)。遺詔(ゆいしょう)して仰せられた。「素服(そふく、喪服)を着て哀悼の意を表することをやめよ。文武百官は、常のとおりに政務を執れ。葬送の儀は、努めて倹約に従え。」
¶三年、飛鳥岡(あすかのおか)で火葬し、大内山陵(おおうちのやまのみささぎ)に合葬した。諡(おくりな)して大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)といった(注:続日本紀による)。追って持統天皇と諡した。