卷之二百廿三 列傳第一百五十

義烈

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次14
  1. 調伊企儺
  2. 大伴部博麻
  3. 杵淵重光
  4. 藤原忠光
  5. 文三家安
  6. 源仲賴
  7. 越後能景
  8. 大河兼任
  9. 平康盛
  10. 關信兼
  11. 平田家繼
  12. 平盛時
  13. 左中太常澄
  14. 村上義光

調伊企儺

孔子は「志ある士は溝や谷底に転がる覚悟を忘れず、勇士は己の首を失う覚悟を忘れない」と言った。そもそも人の位に居り、人の禄を食む者は、国家に難があれば身を投げ出して節義に殉ずるのが当然である。死してその本分を全うできるならば、生きることよりも望むべきものがある。それゆえ忠臣義士には、生を捨てて義を取り、身を殺して仁を成す者がいる。その精悍で忠烈な気迫は天地の間に満ち満ちている。天地の軸を揺り動かし、万世を経ても消え去ることはない。皆、おのれの志を堅く保ち続けたからである。わが国の気風は剛健であり、廉恥の心を重んじる。猛々しい武士や勇将で、敵を怒らせるほどの勇気を奮い立たせ、危難に臨んでもいい加減に逃れようとせず、死を帰るべき場所のように見なす者は、いつの世にも絶えることがない。その慷慨壮烈な気性は、生まれつきの天性から出たものであって、平生から学び習い、道を授けられて身につけたものではない。とっさの危急の場面において、決然と行動し、迷うことがなかったのである。もしこうした者たちに聖賢の道を学び習わせ、暇な日々に孝悌忠信を修めさせ、大節を守り仁義を実践させることができたなら、その美徳を成し遂げて史書に光を放つことは、これしきに留まらなかったであろう。越後能景(えちごよしかげ)や大河兼任(おおかわかねとう)のような者は、たとえ犬が主人でない者に吠えるようなものであって手本とするには足りないとしても、疾風の中でも倒れない勁草のように、仕える主君に忠義を尽くした点は取り上げるべきものがある。壬申の乱の忠臣、承久の変の群臣、元弘・建武の忠烈の士については、それぞれの事跡がその本伝に記されている。下って北条高時の将士に至るまで、勇を奮い義を踏み行い、その主君に背かなかった者も、それぞれ同類として合わせて記す。ここに義烈伝を作る。

大伴部博麻

調伊企儺(つきのいきな)は難波(なにわ)の人である(注:『日本書紀』による。難波の人という記述は、本書が大葉子の歌の詞書によったものであり、また『新撰姓氏録』摂津国の条に調氏の伝がある)。応神天皇の御代、努理使主(ぬりのおみ)という人物が百済から帰化した。努理の曾孫にあたる弥和(みわ)は、顕宗天皇の御代に調首(つきのおびと)の姓を賜った(注:『新撰姓氏録』による)。伊企儺はおそらくその子孫であろう。調吉士(つきのきし)と称し、勇猛烈々たる人物であった。欽明天皇の御代、紀男麻呂(きのおまろ)の副将として新羅の罪を問う軍に加わったが、軍は敗れて捕らえられた。伊企儺は屈しなかった。新羅の兵は刀を抜いて彼に迫り、褌を脱がせて尻をあらわにし、日本の方を向かせて「日本将、我が尻を食らえ」と叫ばせようとした。しかし伊企儺は大声で「新羅王、我が尻を食らえ」と叫んだ。新羅王は激怒し、いっそう辱めを加えたが、伊企儺は言葉も顔色も変えず、ついに殺害された。その子の舅子(おじこ)は父の屍を抱いて死んだ。妻の大葉子(おおばこ)は捕虜の中にあって悲しみのあまり歌を詠んだ。「韓国の(柯羅俱爾能)、城の上に立ちて(基能陪儞陀致底)、大葉子は(於譜磨故幡)、領巾振らすも(此例甫羅須母)、日本へ向きて(邪魔等陛武岐底)。」これを聞いた者は皆、彼女を哀れんだ(注:『日本書紀』による)。

杵淵重光

その後、大伴部博麻(おおともべのはかま)という人物がいた。筑紫(つくし)上陽咩郡(かみつやめのこおり)の軍丁であった。斉明天皇七年、百済救援の戦役で唐の兵に捕らえられた。天智天皇の甲子(きのえね)の年、土師富杼(はじのほど)・氷老筑紫(ひおゆのつくし)・薩夜麻(さつやま)・弓削元宝児(ゆげのもとほのこ)らの四人が、唐人の謀略を朝廷に奏上しようとしたが、旅の衣食がなく、日本にたどり着けないことを憂えていた。博麻は土師富杼に「私はあなたと共に本朝へ帰りたいが、衣食の蓄えがなく出発できない。どうか私の身を売って、その代金を衣食にあててほしい」と言った。富杼らは博麻の計略に従い、ついに帰国して奏上することができた。博麻はひとり唐に留まること、およそ三十年に及んだ。持統天皇四年、新羅の使者である大奈末(だいなまつ)金高訓(きんこうくん)らに従って筑紫まで帰り着いた。朝廷は詔を下し、彼が朝廷を尊び国家を憂え、我が身を売ってまで忠誠を尽くしたことを称え、務大肆(むだいし)の位を授け、絁(あしぎぬ)五匹、真綿十屯(とん)、布三十端、稲千束、水田四町を賜り、三族の課役を免じて、その功績を顕彰した(注:『日本書紀』による)。

藤原忠光

杵淵重光(きねぶちしげみつ)は信濃(しなの)の人である。小源太(こげんた)と称した。胆力が人並み外れて優れており、富部家俊(とんべいえとし)に仕えていた。養和元年、城長茂(じょうのながもち)が源義仲(みなもとのよしなか)を攻めた際、家俊はこれに従軍し、横田河原(よこたがわら)で戦って西七郎広助(にししちろうひろすけ)に斬られた。広助は家俊の首を馬の鞍に結びつけて立ち去った。これより先、重光は讒言によって退けられ、従軍することができずにいた。重光は憤慨して「私は追放された身であるとはいえ、のんびりと安穏に過ごしているわけにはいかない」と考え、まっすぐに戦場へ向かい、家俊の生死を確かめようとしたが、家俊の旗印が見当たらなかった。疑い惑いながらあちこち尋ね歩き、ようやく家俊が戦死したことを知った。そこで重光は陣中に馬を馳せ入れ、広助の姿を見つけると、「そなたは西七郎ではないか。私は富部殿の従兵、杵淵重光である。先ほどまで使いに出ていて、思いがけずこの災難に遭遇した。どうか主君の首を一目見せてもらい、使命を果たさせてほしい」と呼びかけた。そして鞭を上げて進み出た。広助は太刀打ちできないと悟り、馬に鞭打って逃げた。重光は声を荒げて「逃げれば逃れられるとでも思うか。おまえは我が主君の仇である。私は決しておまえを許さぬ」と言い、急いで追いつくと、組み合って馬から引きずり落とし、たちまちその首を斬って、家俊の首の側に置いた。そして涙を拭いながら「私は罪もないのに家に追いやられ蟄居していたが、いざ戦場に臨んで功を立てれば、いくらかは我が真心を示すことができると思っていた。ところがここに来てみれば、主君はすでに命を落としており、もはやどうすることもできない。今、仇敵を討ち果たすことができたのは、せめて主君の霊を慰めるためである」と言った。言い終えると馬に乗り、左手に二つの首を提げ、右手に刀を振りかざして「富部殿は西七郎のために命を落とされた。杵淵重光がただちにその仇を討った。者ども、いざ来て勝負せよ」と大声で叫んだ。敵兵三十七騎が蜂の巣をつついたように我先にと攻めかかってきたが、重光はまっすぐに突っ込み、縦横に奮戦して千人余りを討ち取った。しかし全身に幾つもの傷を負い、もはや戦えなくなった。広助の首を投げ捨て、家俊の首だけを持ち、馬上で刀を口にくわえたまま死んだ。全軍がこれを惜しんだ(注:『源平盛衰記』『長門本平家物語』による)。

文三家安

藤原忠光(ふじわらのただみつ)は、忠清(ただきよ)の次男である。上総五郎兵衛尉(かずさのごろうひょうえのじょう)と称し、平宗盛(たいらのむねもり)に仕えた。平重衡(たいらのしげひら)らに従って、源行家(みなもとのゆきいえ)と洲股川(すのまたがわ)・室山(むろやま)などで戦った(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。宗盛が滅びると、忠光はひそかに逃げ延び、長く人目を避けて身を隠していた(注:『平家物語』による)。建久三年、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に永福寺(ようふくじ)を建立した。忠光は左目に魚の鱗をはめ込んで片目が見えないふりをし、懐に匕首を隠し持って人夫たちに紛れ込み、土石を運びながら頼朝を刺そうと機会をうかがっていた。頼朝がたまたま作業場に来た際、その姿を見て人相を怪しみ、左右の者に命じて捕らえさせた。懐を探ると匕首が見つかった。そこでその素性を問いただすと、忠光は「上総五郎兵衛尉である。旧主の仇を報いようとしただけだ」と答えた。そこで和田義盛(わだよしもり)の屋敷に幽閉し、共謀者を尋問した。忠光は「共謀した者はただ平盛嗣(たいらのもりつぐ)だけである。以前は丹波に隠れていると聞いたが、今どこにいるかは知らない」と述べた。捕らえられた日から一月あまり飲食を断ち、それ以上は何も語らなかった。頼朝は彼を斬るよう命じ、その首を六浦(むつら)にさらした(注:『吾妻鏡』による)。

源仲賴

文三家安(ぶんぞういえやす)は(注:文三について、『吾妻鏡』は豊三とする。どちらが正しいかは分からない。豊であれば豊原氏、文であれば文室氏であろうが、いずれも略称と思われる。三はその輩行、すなわち兄弟の順を示す。本姓は今も詳しく考証できないため、ひとまず旧来の表記に従う)、佐那田義忠(さなだよしただ)の兵であった。石橋山(いしばしやま)の戦いで、義忠は先鋒を命じられたが、退いて家安を呼び「将軍が私を大勢の中から選び、特に直々に命じられた。武士としてこれ以上の栄誉はない。私はこの戦いで死ぬつもりだ。おまえは国に帰って母と妻に伝えてくれ」と告げ、丁寧に遺言し、三人の子を託した。家安は「あなたは年若く前途もあるのに、なお将軍のために死のうとされている。それに比べて、六十歳になる私が主君に従って死んだとしても、何を惜しむことがあろうか。もし私が死なずにいれば、世の人は『義忠が死んだ時、誰一人として義に殉じる者がいなかった』と言うであろう。あなたほどの御恩顧を受けた家安が、それでも義を捨てて生を選ぶとすれば、この上ない恥である。私は決してその命令には従いません」と断り、ついにその場を離れなかった。義忠が敵中に陥ると、家安はその生死が分からず、敵陣を突き抜けては出入りし、ひたすら主君を捜し続けた。稲毛重成(いなげしげなり)が「おまえの主君はすでに戦死した。おまえは今さら誰のために戦おうというのか。無駄死にしても仕方あるまい、早く逃げよ。私はおまえを追い詰めはしない」と呼びかけた。家安は怒って「勇士たるもの、戦場に臨んでは進んで死ぬことのみを知り、退いて生き延びることなど聞いたことがない。主君の死を目の当たりにしながら、あわてて逃げ出すようでは、家臣など何の役に立とうか。我が主君がすでに亡くなった以上、今こそ私が命を捨てる時である」と言い放ち、勇を奮って敵と組み合い、みずからの手で八人を斬って死んだ。人々は皆、彼の死を惜しんだ(注:『源平盛衰記』による)。

越後能景

源仲頼(みなもとのなかより)は信濃二郎(しなののじろう)と称した(注:諸本の『平家物語』では仲頼は頼直あるいは頼綱に作るが、ここでは現行本に従う)。敦実親王(あつみしんのう)の子孫であり、信濃守仲重(なかしげ)の子である。蔵人(くろうど)源仲兼(みなもとのなかかね)に仕えていた。寿永年間、源義仲(みなもとのよしなか)が法住寺殿(ほうじゅうじどの)を攻めた際、仲兼らはこれを防いだが、戦いに敗れて敗走した。仲兼の従者に加賀房(かがぼう)という者がおり、その馬が気性荒く制御できなかったため、仲兼の馬と乗り換えて騎乗した。河原坂(かわらざか)にたどり着いたところで、ついに敵兵に討たれ、仲兼はかろうじて逃れることができた。その後、仲頼は敵に行く手を阻まれ、主君に従って行くことができなかった。ふと見ると、一頭の馬が血まみれになって道端で悲しげにいなないていた。それは仲兼が乗っていた馬であった。仲頼は仲兼がすでに戦死したものと思い込み、悲しみに堪えず、馬の轡を取る者を呼び止めて「その馬はどこから来たのか」と尋ねた。「河原坂からです」と答えると、仲頼は「そこは主人の仇のいる場所だ。私はそこへ行って戦い死のう」と言い、手綱を返して「主君はすでに戦死された。私が今さら生きていて何になろうか」と大声で叫び、矢で三人を射殺し、刀で二人を斬り殺し、さらに一人と組み合って刃を交えたまま死んだ(注:『源平盛衰記』、諸本の『平家物語』による)。

大河兼任

越後能景(えちごよしかげ)は中太(ちゅうた)と称した(注:能景の姓は中原氏であるともいう)。源義仲(みなもとのよしなか)の家臣である。養和年間、天皇が西海(さいかい)に逃れ、義仲は都に入って乱を起こしたため、源頼朝が兵を発してこれを討とうとした。当初、義仲は摂政藤原基房(ふじわらのもとふさ)の娘と強引に通じており、軍が敗れるに至っても、その娘の部屋に入って別れを惜しみ、未練を断ち切れずにいた。能景は「敵はすでに迫っております。どうして一人の女に未練を残しておられるのですか。私は将軍が恥辱を受けるさまを見るに忍びません」と言い、みずから腹を切って死んだ。津波田三郎(つばたさぶろう)もまた諫めて死んだ。義仲は「これは私の過ちであった」と言い、ついに兵を率いて出立した(注:『源平盛衰記』による)。

平康盛

大河兼任(おおかわかねとう)は次郎(じろう)と称し、陸奥押領使(むつのおうりょうし)藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の将であった。泰衡が滅びた後、残兵をかき集め、次第に勢力を張った。源義経(みなもとのよしつね)を騙って名乗り、出羽(でわ)の海辺の荘を攻め略した。あるいは源義仲(みなもとのよしなか)の子、朝日冠者(あさひのかじゃ)と称し、山北郡(やまきたのこおり)に拠って七千余りの兵を擁し、河北を経て秋田を通り、大関山(おおぜきやま)を越え、多賀国府(たがのこくふ)を過ぎた。志加渡(しかのわたり)を渡ろうとしたところ、にわかに氷が解けて、五千余人が溺死した。もともと泰衡が敗れた際、その将であった由利中八維平(ゆりのちゅうはちこれひら)は捕虜となったが、頼朝はこれを釈放して親兵とした。兼任は書状を送って「昔から今に至るまで、肉親の仇を報いた例はあるが、主君の仇を復讐した者があるとはまだ聞いたことがない。今、私がこの挙兵を始めるのは、君臣の大義を天下に示すためである」と述べた。当時、維平と橘次公成(きつじきみなり)が小鹿島(おがしま)を守っていた。兼任はこれを攻め、公成は城を捨てて逃げ、維平は戦死した。兼任はそこから千福山本(せんぷくやまもと)を経て転じて津軽(つがる)に至り、宇佐美実政(うさみさねまさ)らを斬った。兵はしだいに一万にまで増えたので、頼朝は上総介足利義兼(かずさのすけあしかがよしかね)と千葉新介平常胤(ちばのしんすけたいらのつねたね)を遣わし、兵を率いてこれを討たせ、栗原一迫(くりはらのいちはさま)で戦った。兼任は敗走し、散り散りになった兵五百余りを集めて衣川(ころもがわ)を防塁として陣を敷いたが、諸将が進んで戦い、これも打ち破った。兼任は退却し、外浜(そとがはま)・糠部(ぬかのぶ)の間まで逃れ、山にこもって自らを固めた。義兼がこれに迫ると、兼任は連戦連敗し、単身で栗原寺(くりはらじ)へ逃げ込んだ。村人はその衣服が華美であることを不審に思い、取り囲んで打ち殺した(注:『吾妻鏡』による)。

關信兼

平康盛(たいらのやすもり)は、右衛門尉源有綱(うえもんのじょうみなもとのありつな)の家来であった。有綱は源義経(みなもとのよしつね)の娘婿である。義経が敗れると、頼朝は北条時定(ほうじょうときさだ)を遣わして有綱を殺させた。建久二年、康盛はひそかに鎌倉に赴き、その仇を報いようと図った。梶原景時(かじわらかげとき)が由比浜(ゆいがはま)で彼に出くわし、その様子を怪しんで捕らえた。康盛は自ら謀反人であると名乗った。姓名を尋ねられても答えず、「私は将軍に直接お目にかかって申し上げたい」とだけ言った。頼朝は彼を御所の庭に引き出し、簾越しに真意を尋ねた。康盛は「私は亡き伊豆右衛門尉(いずのうえもんのじょう)の家人であった、前右兵衛尉平康盛である。北条平六(ほうじょうへいろく)を討とうと図ったが、志を遂げることができず、このような有様になった」と答えた。頼朝は和田義盛(わだよしもり)に命じて腰越(こしごえ)で彼を斬らせ、その首をさらした(注:『吾妻鏡』による)。

平田家繼

関信兼(せきのぶかね)・平田家継(ひらたいえつぐ)。関信兼は平貞盛(たいらのさだもり)の六代目の子孫である。平田家継は平家貞(たいらのいえさだ)の長男である(注:『源平盛衰記』および長門本『平家物語』では家継を貞継に作る。また『源平盛衰記』では家継を筑後守貞能(さだよし)の弟とし、『平家物語』では貞能の伯父とする。今、系図および『玉葉』『山槐記』『百錬抄』、長門本『平家物語』など諸書によって、貞能の子と定める)。信兼は検非違使(けびいし)を歴任し、河内(かわち)・和泉(いずみ)・出羽(でわ)などの国守を務め、正五位下に叙せられた(注:『平氏系図』による)。養和元年の春、熊野の僧徒が源頼朝の挙兵を聞いて、これも兵を挙げて志摩(しま)に入り、伊豆江四郎(いずえのしろう)(注:姓は欠けて分からない)を敗走させ、転じて伊勢(いせ)に入り、沿岸の地を掠奪した。平氏が配置していた役人たちは風聞を聞いただけで潰走し、僧徒は勝ちに乗じて二見(ふたみ)の民家を焼き払った。固瀬川(かたせがわ)まで進んだところ、信兼は蛭伊藤次(ひるいとうじ)ら(注:名は欠けて分からない)を率いてこれを防いだ。舟江(ふなえ)で遭遇し、信兼はその頭目である戒光(かいこう)という者を射殺した。僧徒はついに逃げ去った(注:『吾妻鏡』による)。家継は太郎(たろう)と称し、伊賀(いが)山田郡に住み、髪を剃って平田入道(ひらたにゅうどう)と号した(注:『源平盛衰記』による)。治承四年、近江(おうみ)で手島冠者(てしまのかじゃ)を攻め、十六人を斬り、二人を捕虜にした(注:『玉葉』による)。寿永三年秋、家継は平氏が西海に敗走したと聞き、いても立ってもいられず、代々受けた恩に報いようと憤慨した。そこで信兼と同志を語らい、平田城に拠って兵を挙げ(注:『源平盛衰記』による。信兼については『吾妻鏡』による)、伊賀守護の大内惟義(おおうちこれよし)を襲ってこれを破った(注:『吾妻鏡』による)。やがて佐々木秀義(ささきひでよし)が攻めてきて、大原荘(おおはらのしょう)に陣を敷いた。家継らはこれを聞き、戦うか守るかの策を議論した。壬生野新源次能盛(みぶののしんげんじよしもり)は「伊賀は狭く小さい。敵が大軍で存分に掠奪してくれば、上下ともに必ず苦しむことになる。それよりも先に近江に入り、鈴鹿山(すずかやま)に拠って戦うべきである」と言った。これに従い、家継は能盛らとともに、三百余りの兵を率いて甲賀郡(こうかぐん)に入り、田堵野(たどの)で秀義と戦った。能盛は秀義を射殺したが、能盛もまた矢に当たって死んだ(注:『源平盛衰記』による)。まもなく大内惟義に敗れ、家継はこの戦いで死んだ。富田進士家助(とみたのしんじいえすけ)、前兵衛尉家能(ぜんひょうえのじょういえよし)(注:姓は欠けて分からない)、平家清(たいらのいえきよ)ら、死者は九十余人に及んだ。信兼および藤原忠清(ふじわらのただきよ)らは山中に逃げ隠れた(注:『吾妻鏡』による)。その勃興から滅亡までがあまりに短かったため、世間はこれを「三日平氏(みっかへいし)」と呼んだ(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。信兼はさらに兵を集めて伊勢の滝野(たきの)に拠ったが、源義経が兵を遣わして攻めてきた。信兼は兵たちに甲冑を脱がせて矢を射させ、敵を多数討ち取った。しかしやがて矢が尽き、信兼は自ら城に火を放ち、腹を切って死んだ(注:『源平盛衰記』による)。信兼には兼衡(かねひら)・信衡(のぶひら)・兼時(かねとき)・兼隆(かねたか)の四人の子がいた。兼衡は左衛門前帯刀長(さえもんのさきのたてわきのおさ)であった(注:『平氏系図』による)。信兼が再び兵を挙げるに及び、兼衡は信衡・兼時とともに都に身を隠していたが、そろって義経に誘い出されて殺された(注:『吾妻鏡』『山槐記』による)。兼隆は検非違使となり、和泉判官(いずみのほうがん)と号した。事件に連座して伊豆に流され、山木(やまき)に住んだ。しばらくして目代(もくだい)となったが、清盛(きよもり)と同族であることを頼みに勢威を振るい横暴であったため、頼朝に襲われて殺された(注:『吾妻鏡』による。あわせて『平家物語』も参照した)。後に平基度(たいらのもとのり)という伊勢の人がおり、進士三郎(しんじさぶろう)と称した(注:本書によれば、基度は中宮長司(ちゅうぐうちょうじ)度光(のりみつ)の子であるという。家助が富田進士と称し、基度もまた進士三郎と称して富田に拠っていたとみられることから、家助の一族ではないかと疑われるが、今のところ考証する手立てがない)。

平盛時

平盛時(たいらのもりとき)は伊賀(いが)の人で、三浦氏(みうらし)と称した。元久元年、一族ともに兵を挙げ、守護の首藤経俊(すどうつねとし)を襲ってこれを敗走させ、伊賀・伊勢の郡邑を攻略した。基度(もとのり)は朝明郡(あさけぐん)富田岡(とみたのおか)に拠り、貞重(さだしげ)らは安濃(あの)・多芸(たげ)に拠って、平賀朝雅(ひらがともまさ)と戦ったが敗れた。基度は弟の盛光(もりみつ)らとともにこの戦いで死んだ。盛時は伊賀の六箇山(ろっかさん)に砦を築き、子や甥を率いてこれに拠ったが、数日戦った末に朝雅に敗れた。若菜五郎(わかなごろう)は兵を分けて、伊勢の日永(ひなが)・若松(わかまつ)・南村(みなみむら)・高角(たかつの)・関(せき)・小野(おの)などの場所に拠ったが、兵は敗れて彼も死んだ。建保年間、掃部権助正重(かもんのごんのすけまさしげ)という者がいた。これもまた伊勢平氏の生き残りの一族である。ひそかに白河(しらかわ)に居を構えて挙兵を企てた。後藤基清(ごとうもときよ)が都から襲来した。正重はこれを迎え撃ち、多くの死傷者を出させたが、ついに討ち死にした(注:『吾妻鏡』による)。

左中太常澄

左中太常澄(さちゅうたつねずみ)は、長狭六郎常伴(ながさのろくろうつねとも)の兵士であった。源頼朝が挙兵するに及び、常伴は平氏のために頼朝を襲おうと謀ったが、一族ともども頼朝に滅ぼされた。翌年、頼朝が鶴岡(つるがおか)に参詣した際、身の丈七尺余りの男が一人、供の列に紛れ込み、頼朝に迫った。下河辺行平(しもこうべのゆきひら)が進み出てこれを取り押さえた。髻(もとどり)に木札を結び付けており、そこには「安房国(あわのくに)長狭六郎の郎党、左中太常澄」と書かれていた。行平がこれを詰問すると、「復讐の思いは寝ても覚めても止むことがなく、ついにこのような挙に及んだ。事が成らずに骸を野にさらすことになれば、誰であるか分からなくなることを恐れ、それで姓名を書き記しておいたのだ。ただ一刻も早く死ぬことを本望とする」と答えた。頼朝は梶原景時(かじわらかげとき)に彼を殺させようとしたが、当時景時は鶴岡の造営工事を監督しており、刑事に関わることができなかった。頼朝は急遽、天野光家(あまのみついえ)に代わって行わせた。常澄は頼朝をあざ笑って「なぜ前もって決めておかず、こうも急に事を進めるのか」と言った。そしてついに稲瀬川(いなせがわ)で斬られた(注:『吾妻鏡』による)。

村上義光

村上義光(むらかみよしてる)・村上義隆(むらかみよしたか)。村上義光は(注:本書は義日に作るが、今『太平記』に従う)彦四郎(ひこしろう)と称し、信濃(しなの)の人である。陸奥守源頼清(むつのかみみなもとのよりきよ)の子孫で、弥四郎信泰(いやしろうのぶやす)の子である(注:『尊卑分脈』による)。左馬権頭(さまのごんのかみ)であった。子の義隆は(注:『尊卑分脈』は朝日に作る)彦五郎(ひこごろう)と称し、兵衛佐蔵人(ひょうえのすけくろうど)であった(注:『尊卑分脈』『太平記』による)。元弘の乱に際して、父子は赤松則祐(あかまつそくゆう)・平賀三郎(ひらがさぶろう)(注:名は欠けて分からない)らとともに、護良親王(もりよししんのう)に従って十津川(とつかわ)へ逃れた。熊野別当定遍(くまのべっとうじょうへん)が厳しくこれを捜索した。護良は逃れて吉野山(よしのやま)へ向かおうとした。土地の者である芋瀬荘司(いもぜのしょうじ)(注:名は欠けて分からない)が兵を出して道を塞いだ。護良はどうすることもできず、従者を遣わして身を寄せたい旨を伝えさせた。荘司は「定遍は官軍に加担する者を執拗に探し出しては、その名を記録して鎌倉に報告しています。私も今、大王をお迎えしたいのですが、それができません。とはいえ、行く手を阻むことも敢えていたしません。どうか錦の御旗か、近臣お一人かお二人を留め置いていただければ、それを申し開きの証といたします」と答えた。護良が黙って答えずにいると、則祐が進み出て「危難を見て命を投げ出すのは武士の務めです。私が留まって死にましょう」と申し出た。平賀三郎は「お供の者は皆、大王の股肱の臣であり、失うわけにはいきません。旗をお渡しになるのがよいでしょう」と言った。護良はこれに従い、無事に通過することができた。義光はたまたま一行に遅れていた。荘司は錦の御旗を担いで引き揚げようとしていたところ、義光がまっすぐに進み出てその旗を奪い取った。荘司は驚き慌て、振り返りもせずに立ち去った。護良はかつて喜んで「私はこの三人を得たことで、天下を平定する見込みが立った」と語ったという。吉野に至ると城を築いてこれを守ったが、敵は大軍で攻め寄せ、外城はすでに陥落した。護良は自ら出て数度戦い、退いて左右の者と酒を酌み交わしながら悲憤の歌を詠んだ。義光は鎧に矢を無数に浴び、針鼠のような有様でひざまずいて「私は中城で数刻の間、敵を防いでおりましたが、たまたま歌声を耳にし、参上いたしました。賊の勢いは非常に強く、この城はもはや持ちこたえられません。どうか私に大王の鎧をお貸しください。大王になりすまして死んだふりをし、その隙に大王には逃れていただきたいのです」と申し出た。護良は「死ぬのであれば共に死のう。どうしておまえを見捨てることができようか」と言った。義光は声を励まして「大事を図ろうとする者が、そのようなことを口にしてはなりません」と言い、自ら護良の鎧を脱がせにかかった。護良は振り返って「そなたの忠義、生まれ変わっても忘れはしない。もし私が逃れることができたなら、手厚く冥福を祈ろう。逃れられなければ、黄泉路まで付き従うつもりだ」と言い、そのまま立ち去った。義光はそこで鎧を身にまとい、櫓に登った。義隆がやって来て共に死のうとした。義光は「おまえは急いで立ち去り、大王の後方を守れ。無駄死にするな」と言った。義隆は涙ながらに別れを告げた。義光は護良が遠く立ち去るのを見届けると、敵軍に向かって大声で「今上第三皇子、護良親王はここに自害される。おまえたちはやがて天罰を受けるであろう。我が自刃する様をとくと見て、手本とするがよい」と叫び、腹をかき切って腸を引き出し、それを壁に投げつけて息絶えた。賊が四方から群がり集まり、その首を斬って引き揚げていった。まもなく、吉野の執行(しゅぎょう)であった岩菊丸(いわぎくまる)が数百の兵を率いて護良を追いついたが、義隆はただ一人で戦い数人を斬ったものの、二十余りの傷を身に受け、腹をかき切って死んだ。護良はついに難を逃れることができた。義隆は当時十八歳であった(注:『太平記』による。十八歳という記述は南都本による)。