卷之一百五十三 列傳第八十

平清盛下

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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平基盛

養和元年(1181年)、清盛(きよもり)は関東の軍勢が南海道を経て京へ攻め上ろうとしていると聞き、兵を派遣して沿岸の要所を守らせた(注:東鑑による)。当時、緒方惟能(おがたこれよし)や菊池隆直(きくちたかなお)らは西海道に拠り、河野通信(こうのみちのぶ)は南海道に拠って、いずれも源氏の後ろ盾となっていた。維盛(これもり)や知盛(とももり)らは東北方面へ出兵したが、あるいはためらって進まず、あるいは病のために引き返す者もあり、清盛は激しく怒った。このとき宗盛(むねもり)は院宣を受けて東国へ向かおうとしていたが、まだ出発しないうちに清盛が病に倒れた。体は火のように熱く、水を張った石の水槽に体を浸して冷やそうとしたが、病状は日に日に重くなっていった。妻の時子(ときこ)、後の二位尼(にいのあま)は、清盛がもはや起き上がれないと見て、何か言い残すことはないかと尋ねた。清盛は大きく息をついて言った。「平治の乱以来、天下を思うままに動かし、官位は太政大臣にまで至り、この身は国家の外祖父となった。もはや何を求めることがあろうか。ただ心残りなのは、頼朝(よりとも)の首を見ずに終わることだ。私が死んだ後は、堂塔を建てることも、仏を供養することも無用である。ただ頼朝の首を斬って、我が墓の上に懸けてほしい。すべて我が子孫たる者は、この心を体し、決して怠ってはならぬ。」清盛は身をよじって苦しみ、七日の後に薨じた。享年六十四であった(注:源平盛衰記・平家物語による)。遺骸は愛宕(おたぎ)で荼毘に付され(注:平家物語による。源平盛衰記では六波羅とする)、遺骨は経島(きょうのしま)に納められた(注:東鑑によれば、遺命により遺骨は播磨の山田法華堂に納めたという。いずれが正しいか未詳)。折しも盗賊が御所(蓬壺)に放火する事件が起こり、京の都では「謀反人が出た」との流言が飛び交って人々を驚かせ、当時の人々はこれを不吉な前兆とした(注:源平盛衰記・平家物語による)。清盛は病が重くなったとき、僧の円実(えんじつ)を通じて法皇に奏上させた。「私が死んだ後は、陛下は万事を宗盛とご相談ください。」法皇はためらって決めかねていたが、清盛が不機嫌になっていると聞き、ついにこれを許した(注:玉海による)。おおよそ平氏の一門は、公卿が十六人、殿上人が三十余人に及び(注:平家物語による)、諸国の受領・衛府・諸司に任じられた者も六十余人あった。所領は諸国にまたがり、天下の半ばを超えるほどであった。富は王室に匹敵し、衣服や冠は皆きわめて華麗であった。当時の人々はこれをもてはやして「六波羅様(ろくはらよう)」と呼んだ。大納言平時忠(たいらのときただ)は常々「この一門でない者は人非人である」と言っていたという。平氏の権勢の強大さはこれほどであった。清盛が安芸(あき)守であった頃、詔を受けて高野山(こうやさん)の大塔を建立した。工事が竣工すると、清盛は夢の中で老僧に「この大塔の造営はまことに見事だが、安芸の厳島(いつくしま)と越前(えちぜん)の気比(けひ)は、まさに金剛界・胎蔵界の両部にあたる。今、気比は盛んであるのに、厳島は荒れ果てている。もしこれを修理すれば、そなた自身とその子孫は必ず福禄を享受するであろう」と告げられた。清盛は朝廷にこれを奏上し、ついに厳島神社を修造して、この上なく壮麗なものとした(注:源平盛衰記・平家物語による)。清盛は厳島の内侍や巫女を篤く遇し(注:源平盛衰記による)、何事かあれば必ずここに祈願した(注:源平盛衰記・平家物語による)。また摂津(せっつ)の輪田崎(わだのさき、和田岬)は地勢が険しく、海運がひどく困難で、公私の往来でも船の転覆・沈没が相次いでいた。清盛はこれを憂い、島を築いて船着き場にしようとしたが、風波が絶えず打ち寄せるため、長らく完成しなかった(注:山槐記・長門本平家物語による)。そこで一切経を石に写させ、それを沈めて島を埋め立てさせた(注:平家物語による)。さらに朝廷に願い出て、河内(かわち)・和泉(いずみ)・摂津および山陽道・南海道の諸国にその工事の労役を割り当てさせた(注:山槐記による)。やがて工事は完成し、旅人はこの災いを免れるようになった。人々は皆これを便利とし、経島(きょうのしま)と名付けた(注:源平盛衰記・平家物語による)。

清盛の子には、重盛(しげもり)・基盛(もともり)・宗盛・知盛・重衡(しげひら)・維俊(これとし)・知度(とものり)・清房(きよふさ)・清定(きよさだ)・経光(つねみつ)・季盛(すえもり)・清邦(きよくに)・良衡(よしひら)がいた(注:経光以下は平氏系図による)。重盛には別に伝がある。維俊は春宮少進となった。知度は従五位上に叙され、参河守(みかわのかみ)に任じられた(注:平氏系図による)。寿永二年(1183年)、維盛らとともに兵を率いて源義仲(みなもとのよしなか)を討とうとし、越中(えっちゅう)の礪波山(となみやま)に至って合戦し、大敗した(注:源平盛衰記・平家物語・保暦間記による)。知度は乗っていた馬が矢に当たって倒れた。岡田親義(おかだちかよし)が迫ってきたが、知度はその兜を撃ち落とし、ついにこれを斬った。親義の子重義(しげよし)がなおも進んできて、知度の部下がこれを遮り撃ったところ、親義の従騎が重義を助けようと駆けつけ、双方奮戦してますます激しく戦い、互いに殺傷し合った。知度はもはや脱出できないと悟り、自ら刃に伏して死んだ(注:源平盛衰記による。本書の一説には、知度は篠原(しのはら)で戦死したというが、平家物語では篠原の戦いを知度の死後の出来事としているため、ここでは採らない)。清房(きよふさ)は(注:印本の平氏系図には権大納言邦綱(くにつな)の子で清盛が養って子としたとあるが、これは誤りである)、従五位下に叙され淡路守(あわじのかみ)に任じられた(注:平氏系図による)。治承四年(1180年)、兵を率いて園城寺(おんじょうじ)を焼いた(注:百錬抄による)。寿永二年、維盛らとともに源義仲を防ごうとして大敗した(注:源平盛衰記・平家物語による)。寿永三年、一ノ谷(いちのたに)で戦死した(注:平家物語による)。清定(きよさだ)は、実は大外記中原師元(なかはらのもろもと)の子で、清盛が養って子とし、式部丞(しきぶのじょう)となり従五位下に叙された(注:玉海・中原系図による)。参河守・尾張守(おわりのかみ)などに任じられた(注:中原系図による。尾張守は源平盛衰記による)。寿永三年、一ノ谷で戦死した(注:平家物語による)。清邦(きよくに)は権大納言藤原邦綱(ふじわらのくにつな)の子である。邦綱はかつて清盛と親しく交わり、その娘を重衡に嫁がせており、清盛もまた清邦を養って子とした。清邦は侍従(じじゅう)となり(注:源平盛衰記による)、丹波守(たんばのかみ)に任じられ(注:玉海による)、従四位下に叙された(注:尊卑分脈による)。経光・季盛・良衡については事績が伝わっていない。

平宗盛

基盛(もともり)は、その出自が詳らかでないが、清盛が養って子とした(注:平氏系図による)。保元元年(1156年)、十七歳で検非違使(けびいし)として、兵を率いて宇治(うじ)を守った。その途中、宇野親治(うののちかはる)に出くわし、基盛は「勅命により、兵士が甲冑を着けて入京することを禁じている。そなたがもし朝廷に従う意があるならば、我らとともに行くがよい。さもなくば通すことはできぬ」と呼びかけた。親治は「上皇のお召しに応じるところだ」と答えた。基盛がこれを包囲して攻めようとすると、親治は弓を引いてこれを射かけ、基盛の兵はひるんで乱れた。やがて援軍が四方から集まり、基盛は浮き足立つ兵士たちに「敵にはもはや後詰めがない。すべて生け捕りにせよ」と命じた。ついに親治以下十六人を捕虜とし、御所に連行した。基盛は全身に矢を受け、血を流していた。帝はその勇猛さを称え、その日のうちに正五位下を授けた(注:保元物語による。正五位下は京都本・鎌倉本の二本による)。後に正四位下に叙された(注:平氏系図による)。大和守(やまとのかみ)として都を出て、京へ向かおうとする途中、宇治川(うじがわ)を渡ろうとして溺死した(注:源平盛衰記による。本書には基盛の事績について、あるいは遠江守(とおとうみのかみ)、あるいは左衛門佐(さえもんのすけ)と記すものがあるが、それぞれの任官の前後が何年のことか分からないため、ここには記さない)。

基盛には行盛(ゆきもり)という子があり、正四位下左馬頭(さまのかみ)となった(注:平氏系図による)。寿永三年(1184年)、備前(びぜん)の児島(こじま)に砦を築き、五百余騎を率いて守りについたが、頼朝の将である佐々木盛綱(ささきもりつな)に敗れた(注:東鑑・源平盛衰記を参照した。平家物語には資盛(すけもり)・有盛(ありもり)とあるが誤りである)。帝が崩じた際には、左近衛少将有盛とともに矢を放って敵数人を射殺した。敵が船に乗り込んでくると、刀を取って奮戦し、そのまま討ち死にした(注:平家物語には、有盛とともに海に入って死んだとある)。かつて父基盛が亡くなったとき、行盛はまだ幼かった。成長してからは、母が見た夢のことがあって、毎日提婆品(だいばぼん)を誦して父の冥福を祈り、どれほど困難な境遇にあってもこれを怠ることはなかった。このときも同じようにこれを誦したので、聞く者は皆哀れに思った(注:源平盛衰記による)。行盛は権中納言藤原定家(ふじわらのさだいえ)について和歌を学んだ。西海へ下る際、平生詠みためた歌稿一巻を残し、和歌を詠んで別れを告げた(注:源平盛衰記・新勅撰集による)。定家はこれを読んで感涙し、「いつか勅命により和歌集を撰する日が来れば、必ずこの歌を載せよう」と語った。定家の父俊成(としなり)は千載集(せんざいしゅう)を撰したとき、薩摩守忠度(たださど、ただのり)の歌を載せながらその姓名を伏せたため、定家はこれを残念に思っていた(注:源平盛衰記による)。その後、数代を経て新勅撰集を撰した際、行盛の歌を載せてその姓名を明記した(注:源平盛衰記・新勅撰集による)。

平知盛

平宗盛(たいらのむねもり)。宗盛は、二条天皇の御代に、遠江守(とおとうみのかみ)・淡路守(あわじのかみ)・美作守(みまさかのかみ)などを歴任し、左兵衛佐(さひょうえのすけ)・左馬頭(さまのかみ)となった。仁安二年(1167年)、右近衛中将に任じられ、まもなく参議となった。翌年、正三位に進み権中納言(ごんちゅうなごん)に任じられ、左衛門督(さえもんのかみ)を兼ねた。治承元年(1177年)、右近衛大将を兼ねた。翌年、正二位に進み権大納言に任じられ、春宮大夫(とうぐうのだいぶ)を兼ねた。治承三年、これらの官職を辞した(注:公卿補任による)。重盛が薨じると、清盛はますます専横になった。法皇は以前から平氏が権力を独占することを快く思っておらず、藤原成親(ふじわらのなりちか)の事件以来、清盛もまた常に怒りを募らせ、法皇を幽閉しようと考えていた。宗盛は兵を率いて法住寺殿(ほうじゅうじどの)を包囲した。法皇は涙を拭いながら「私を遠い辺地に遷そうというのか」と言った。宗盛は「そのようなことは決してございません。しばらく鳥羽(とば)の北殿にお移りください」と奏上し、ついに鳥羽殿に遷した(注:源平盛衰記・平家物語による)。法皇は嘆いて「かつて成親の事件のときも、ほとんどこのような目に遭いかけたが、重盛の力によって救われ、事なきを得た。その重盛も世を去った今、ついにこの極みに至った。宗盛は兄には遠く及ばない」と語った(注:平家物語による)。翌年、高倉上皇(たかくらじょうこう)が厳島に行幸しようとする前に、まず清盛の西八条第(にしはちじょうてい)に行幸し、宗盛を召してひそかに「私は明日出発するが、途中で鳥羽に立ち寄りたいと思う。しかし相国(清盛)に断らずに行くわけにはいかない。どうすればよいか」と語った。言い終わらぬうちに、涙を流した。宗盛は「私がお供いたしますので、どうかご心配には及びません」と答えた。上皇はそこで鳥羽殿に行幸し、法皇と上皇の両宮は喜びと悲しみを分かち合い、互いに向き合って涙した(注:源平盛衰記・平家物語による)。まもなく、宗盛は清盛を諫めて、法皇を八条烏丸第(はちじょうからすまてい)に移した。この年、安徳天皇(あんとくてんのう)が即位し、宗盛は外戚としての重みを頼みとして、ますます権勢を振るうようになった(注:源平盛衰記・平家物語による)。

養和元年(1181年)正月、宗盛は畿内および伊賀(いが)・伊勢(いせ)・近江(おうみ)・丹波(たんば)などの総管となった(注:百錬抄による)。このころ源義仲(みなもとのよしなか)が信濃(しなの)で挙兵し、源頼朝に呼応する者が次第に増えていった。この月、源行家(みなもとのゆきいえ)が数千騎を率いて尾張(おわり)に迫り、目代(もくだい)が早馬で六波羅にこれを告げた。京の都は騒然となり、兵士たちはその混乱に乗じて財貨を略奪した(注:源平盛衰記・長門本平家物語による)。これより先、知盛は兵を率いて東国へ向かったが、洲股(すのまた)に至って病となり引き返していた。頼朝・義仲の勢いは日に日に増し、宗盛は大軍を率いて討伐に向かおうとした。法皇は勅を下し「武官の身にある者、また弓馬に長じた者は、皆従軍せよ」と命じた。しかし諸国はいずれも、朝廷の命令や院宣が平氏から出ていることを知っており、相次いで源氏に帰順していた。宗盛が出発しようとしたところ、折しも清盛が薨じたため、これを中止した(注:源平盛衰記・平家物語による)。そこで宗盛は法皇に申し上げた。「亡き父の行いには、私自身も納得できないところがございました。しかし不肖の身ゆえ、これを諫め止めることができませんでした。今より後は、万事を陛下の御意向のままに従います。聞くところによれば、東国征討の兵士たちは兵糧が尽きかけているとのことです。亡き父は西海道・北陸道の二道から軍糧を運ばせようとしましたが、それを実行しないうちに世を去りました。どうか陛下のご裁断を仰ぎたく存じます。陛下は賊を赦されるおつもりか、それとも討伐を進めるおつもりか。どうか朝議によって一度お決めいただき、その後に事を進めたく存じます。」法皇は公卿を集めてこれを議論させた。法皇は頼朝らを赦そうとしたが、宗盛はこれに従わず、重衡(しげひら)に兵を率いて東国へ向かわせた(注:玉海による)。三月、重衡らは洲股で行家を大いに打ち破って引き返した(注:源平盛衰記による)。これより先、頼朝はひそかに法皇に「私は謀反を企てているのではなく、ただ賊を除こうとしているだけです。もし朝廷が今なお平氏に心を寄せられるならば、源氏・平氏の両氏が並び立ち、これまで通りに朝廷にお仕えいたしましょう。どうか私の忠誠のほどをお試しください」と奏上していた。法皇はその書状を宗盛に示した。宗盛は「和睦することは、まことに結構なことでございます。しかし亡き父の遺言に『我が子孫は必ず頼朝の前にその屍をさらすことになろう』とありました。すでにこの言葉を受けた以上、道義として討たないわけにはまいりません」と奏上した(注:玉海による)。

寿永元年(1182年)、宗盛は再び権大納言となり、まもなく内大臣を拝命し、左右近衛の番長(ばんちょう)各一人、近衛各四人を賜って随身兵仗(ずいじんひょうじょう)とした(注:公卿補任による)。拝賀の日には、供の行列がまことに盛大であった。ちょうどそのころ、東北の源氏方の諸将が京へ迫ろうとしていたが、宗盛は軍事に意を用いず、ひたすら華美を誇っていたので、当時の人々はこれを謗った(注:源平盛衰記・平家物語による)。寿永二年(1183年)、従一位に叙され、内大臣を辞した(注:公卿補任による)。これより先、朝議は諸国から兵を徴発することを決め、畿内および紀伊(きい)・伊賀・伊勢・尾張・参河(みかわ)・播磨(はりま)・美作・備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)・筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)・大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)などの兵が集まった(注:源平盛衰記による)。四月、維盛(これもり)・通盛(みちもり)・忠度(ただのり)・行盛・経正(つねまさ)・清房・知度らを追討使とし、十万余騎を率いさせ、まず義仲を討たせた。この軍勢は道中で貢賦を奪い、民の財を略奪した。進んで越前(えちぜん)に至り、義仲方の将仁科守弘(にしなもりひろ)らが守る燧城(ひうちじょう)を攻め落とした(注:仁科守弘については源平盛衰記による)。さらに越前・加賀(かが)を経てついに越中(えっちゅう)に至り、礪波山(となみやま)で義仲と戦って大敗を喫した。七月、義仲は近江(おうみ)に迫った。宗盛は延暦寺(えんりゃくじ)に書状を送って援軍を請い、本寺(延暦寺)を平氏の氏寺と、日吉社(ひえしゃ)を氏社とすることを条件に提示したが、僧徒はこれを聞き入れなかった(注:源平盛衰記・平家物語による)。宗盛は資盛(すけもり)を宇治から、知盛・重衡を勢多(せた)から出させ、道を分けて近江へ向かわせた。義仲は延暦寺に進んで陣を構えたため、資盛らは兵を引いて引き返した。このとき源行家は大和(やまと)に入り、源行綱(みなもとのゆきつな)は摂津(せっつ)・河内(かわち)に拠って頼朝に呼応し、足利義清(あしかがよしきよ)は丹波(たんば)に迫っており、いずれも京の都に攻め入ろうとしていた。そこで諸将を呼び戻し(注:源平盛衰記による。平家物語・吉記・玉海を参照した)、鎮西(ちんぜい、九州)へ逃れようとした。知盛らはこれを不可としたが、宗盛は聞き入れず、鎮西への都落ちを決めた。これより先、宗盛はひそかに法皇を伴って都を離れようと図っていたが、これを察知した者がひそかに法皇に告げたため、法皇は密かに御所を抜け出した。宗盛は狼狽し、なすすべもなく、自ら邸宅に火を放ち、剣璽(けんじ、三種の神器)を携えて、帝と建礼門院(けんれいもんいん)、皇弟守貞(もりさだ)を奉じて西へ向かい、一族はことごとくこれに従った。宗盛は福原(ふくはら)に至ると、臣下や兵士たちを励まして「天下は乱れ、天子は都を追われることとなった。そなたたちは死力を尽くして神器をお守りできるか」と言った。皆は「禽獣でさえ恩に報いることを知る。まして人間においてをや。君臣の分は、盛衰によって変わるものではない。ただ仰せに従うのみです」と答えた。宗盛はこれを喜んだ(注:源平盛衰記・平家物語による)。そこで清盛の墓に詣で、一晩中音楽を奏し経を誦した(注:源平盛衰記による)。翌日、旧都の宮殿や公卿の邸宅を焼き払い、船で海を渡って太宰府(だざいふ)へ向かった(注:源平盛衰記・平家物語による)。まもなく法皇は詔を下し、平氏二百余人の官位を剥奪した(注:玉海による。一代要記には百八十九人、源平盛衰記には百八十人、平家物語には百六十人とある)。高倉帝の第四皇子が即位し、これが後の後鳥羽帝(ごとばてい)である。宗盛らはこれを聞いて「三宮・四宮を一緒に連れて来なかったのが悔やまれる」と言った。三宮とは惟明親王(これあきしんのう)、四宮とは後鳥羽帝のことである。当時、刑部卿藤原頼輔(ふじわらのよりすけ)が豊後(ぶんご)国司であったが、子の頼経(よりつね)を遣わして国務を執らせていた。平氏が太宰府に入ると、遠く頼経に命じてこれを防がせた。頼経は緒方惟能(おがたこれよし)と謀り、院宣によって九国二島(きゅうこくにとう、九州と壱岐・対馬)の兵士を動員して平氏を攻めさせた(注:源平盛衰記・平家物語による)。宗盛は資盛らを遣わして惟能を説得させたが、惟能は従わず(注:平家物語による)、博多(はかた)から兵を発して攻めてきた。そこで肥後守平貞能(たいらのさだよし)、および菊池隆直(きくちたかなお)・原田種直(はらだたねなお)を遣わして防がせたが、支えきれなかった。宗盛らは帝を奉じて箱崎(はこざき)へ逃れ、やがて藤原秀遠(ふじわらのひでとお)の山鹿城(やまがじょう)に移った。惟能が十万の兵を率いて来ると聞き、船で海を渡ってこれを避けた。柳浦(やなぎのうら)に至り、宇佐(うさ)の神官に回復を祈らせた。知盛の管国である長門(ながと)の目代(もくだい)紀光季(きのみつすえ)が船百三十余艘を献上したので、ついに讃岐(さぬき)に至り、屋島(やしま)に行宮(あんぐう)を築いた。田口成良(たぐちしげよし)が阿波(あわ)から帰属し、四国の将士も皆これに応じた(注:源平盛衰記による。平家物語を参照した)。これより先、宗盛は法皇に上書して「行幸を西に遷したのは、ひとまず一時の禍乱を避けるためにすぎません。私どもは初めから陛下に背く意図はございませんでした。今より後は、万事をことごとく陛下の御裁断に従います」と述べたが、法皇はためらって返事をしなかった(注:玉海による)。やがて宗盛の勢いは再び盛り返し、次第に山陽道(さんようどう)を平定していった(注:源平盛衰記による)。閏(うるう)十月、重衡・通盛・教経(のりつね)らを遣わし、義仲の将である足利義清・高梨高信(たかなしたかのぶ)・海野幸広(うんのゆきひろ)と備中(びっちゅう)の水島(みずしま)で戦わせ、これを大いに打ち破った。三将を斬り、首級千二百を得た(注:源平盛衰記による。平家物語の諸本では武将の名前に異同があるが、ここでは本書に従う)。

十一月、教盛(のりもり)・教経・重衡を遣わし(注:平家物語には知盛・重衡とあるが、ここでは盛衰記に従う)、兵一万を率いさせ(注:平家物語の諸本には二万または三万とあるが、ここでは盛衰記に従う)、源行家と播磨(はりま)の室山(むろやま)で戦い、また大いにこれを打ち破った(注:源平盛衰記・平家物語による)。山陽道・南海道の十四か国の将士は、次第に平氏の手足として使われるようになった(注:玉海・源平盛衰記による)。これより先、頼朝と義仲との間には次第に確執が生じていた。義仲は水島・室山の戦いで相次いで敗れたため、平氏の勢いがますます盛んになったのを見て、これと連携して共に頼朝を討とうと考え、ひそかに書状を屋島に送ってその意向を伝えた。宗盛はこれを喜んで許そうとしたが、知盛が強く反対してこれをとどめた(注:源平盛衰記による)。翌年正月、摂津(せっつ)の一ノ谷(いちのたに)に城を築いた。広さは三里に及び、福原の旧都を包み込み、北は山を限り、南は海に至り、一ノ谷を西の門、生田(いくた)の森を東の門とした。兵士十万余人が(注:東鑑・玉海には数万、歴代皇紀には六万とある)、その中に満ちた。さらに船数万艘を用意して、水上戦に備えた(注:源平盛衰記・平家物語による。広さ三里および船の数は盛衰記による)。使者を送って義仲と連携し(注:玉海による)、ついに福原の行宮(あんぐう)に留まった(注:玉海・源平盛衰記・平家物語による)。このとき讃岐(さぬき)にいた官衙の兵二千余人が謀反を起こして京へ向かおうとした(注:平家物語には阿波・讃岐とある)。その途上、教盛の備中下道(しもつみち)の陣営を襲った(注:平家物語には下津井〈しもつい〉とある)。教盛・通盛・教経がこれを撃破すると、反乱兵は淡路(あわじ)に逃げて源義嗣(みなもとのよしつぐ)・義久(よしひさ)に属した。通盛・教経はこれを攻めて殲滅し、さらに伊予(いよ)に至って河野通信(こうのみちのぶ)を攻めようとした。通信は恐れて安芸(あき)に逃げ、沼田次郎(ぬまたじろう)と合流した。教経はこれを攻めて打ち破り、沼田次郎を捕らえた。通信はさらに逃走し、また安摩宗益(あまむねます)・園部重茂(そのべしげもち)を吹井浦(ふくいのうら)で破った。通信は緒方惟能・海田宗親(かいたむねちか)・臼杵維高(うすきこれたか)らとともに今木城(いまきじょう)に拠っていたが(注:長門本平家物語では宗親は宗通とする)、これも攻め破った。この月、頼朝はその弟の範頼(のりより)・義経(よしつね)に命じて一ノ谷を攻めさせ、大軍を摂津に発した。資盛らは三草山(みくさやま)の西に陣を構えていたが、義経が夜襲をかけたため、陣中は動揺し、味方同士で入り乱れて混乱した。資盛は屋島へ逃れた。範頼は五万余騎を率いて東の門を攻め、義経は田代信綱(たしろのぶつな)・土肥実平(どいさねひら)らに七千余騎を率いさせて西の門を攻めさせた。義経自身は精鋭三千を率いて鵯越(ひよどりごえ)を一気に駆け下り、陣営に火を放って、内外から一斉に攻め立てた。城中は人馬が入り乱れ、宗盛は慌てふためいて帝を奉じ、船で屋島へ逃れた。兵士たちは我先にと船に乗り込もうと争い、船の中では刀でその腕や脚を斬り落とす者もあり、叫び声が入り乱れた。大船三艘が転覆して沈み、溺死する者が多かった(注:源平盛衰記・平家物語による)。通盛・忠度・経正・敦盛(あつもり)・知章(ともあきら)・経俊(つねとし)・業盛(なりもり)・盛俊(もりとし)らが戦死し、重衡は捕らえられた(注:東鑑・源平盛衰記・平家物語による)。法皇は三種の神器が都の外にあることを憂え、重衡が捕らえられたのを機に、書状を宗盛に送って神器を奉還させ、その代わりに重衡の命を助けると約束させた。宗盛は院宣と重衡の書状を受け取り、次のように奏答した。「先だっては都の守りを失い、私どもは謹んで幼き主上を奉じて西海へ避難いたしました。当時、院宣を賜り『帰京せよ』とのことでしたので、都がやや落ち着いたと聞いて帰ろうとしたところ、義仲が院宣を奉じたと称して水島で防ぎ戦いを挑んでまいりました。官軍がこれに勝利し、ついに摂津まで戻ることができました。近頃、院からの使者が和議を議するために来られるとのことでしたが、にわかに源氏が攻め寄せ、陛下の御意向がどこにあるのか分からず、うろたえて対処を誤り、そのため未だ帰京できず、今日まで遅れておりました。和議は公私ともに望むところではございますが、御旨がまだ明らかでないため、謹んで御指示をお待ちしております。私は久しく朝廷の恩を受けており、どうして義に背くことがございましょうか。義朝(よしとも)の誅罰は、信頼(のぶより)の事件によるもので、我が家と私怨があったわけではございません。どうか武士に戦闘を止めるよう詔してください。それは帰京の妨げにはなりません」(注:東鑑による。源平盛衰記では、宗盛の奏答を次のように記す。「先ごろ賊徒が乱を起こし、都の守りを失い、私どもは外戚の身として幼き主上と母后を奉じ、兵を避けて西海へ参りました。三種の神器、伝国の大宝は、一日たりとも御身から離すことはできません。願わくは陛下、しばらくここにお留まりいただき、乱が平定されるのを待って、これを奉じて都へお戻りください。さもなくば、相率いて高麗(こうらい)・百済(くだら)へ赴くことになりましょう。神器がついに異国のものとなることを惜しみます。」今、『神器を都へ返せば、重衡の死罪を赦す』との仰せを承ったが、親族の多くが一ノ谷で命を落とした今、重衡一人が生を惜しんで神器を惜しむはずがない、として、ついに詔に従わなかったという。玉海の二月二十一日の条には、成人(なりひと)の説として、宗盛の奏答は「三種の神器と帝、母后をお返しすることは、謹んで仰せの通りにいたします。ただ私自身は入京を望まず、讃岐に留まることをお許しいただきたく存じます」とあり、男子の清宗(きよむね)を輿に従わせたという。しかし三月一日の条には、定長(さだなが)の説として「宗盛が勅使への返答で、おおむね和睦を望んでいたとある点は、東鑑の記述と一致する」とある。東鑑によれば、定常(さだつね)という者が勅使を務めたとあり、その説がおそらく事実に近いのであろう)。やがて宗盛は再び山陽道を平定していった(注:源平盛衰記による)。十二月、行盛は備前(びぜん)の児島(こじま)を守っていたが、頼朝の将佐々木盛綱(ささきもりつな)に敗られた(注:東鑑による)。

元暦元年(寿永四年、1185年)正月、知盛は長門(ながと)の彦島(ひこじま)に兵を駐屯させ、門司関(もじのせき)を守って東国の兵に備えた(注:東鑑・源平盛衰記による)。この月、義経は渡辺(わたなべ)に至った。大雨と暴風の中、義経は精兵を率い、風波を突いて急襲した。宗盛は田口成良の策により帝を奉じて海に船を出し、将士を残して城を守らせた。二月十九日、義経は屋島の民家に火を放ち、その火は行宮にまで及んで、営舎はことごとく灰燼に帰した。煙が海を覆い、平氏の軍は支えきれず、海に逃れた。そこで海上と陸上から矢を射合った。宗盛は教経に「聞くところでは義経に向かって戦ったのはわずか七騎であったという。我が軍はその後に続く騎馬がさらに来るのではないかと危惧し、ためらってこれを取り逃がした。そなたは義経の鎧を見分けて、船を下りて狙撃せよ」と言った。教経はそこで精兵三十余人を率いて船を進め岸に上がり、自ら陣頭に立って戦い、多くを殺傷した。義経は牟礼(むれ)・高松(たかまつ)に陣を退き、教経は屋島に陣を敷いた。翌日、義経がまた攻めてきたが、教経はこれを海上に避けた。義経の軍勢はますます勢いを増した。宗盛は帝を奉じて志度(しど)へ逃れた。義経が攻めてきたが、これも防ぎきれなかった。船で彦島(ひこじま)を経て箱崎(はこざき)へ向かった(注:源平盛衰記による)。このとき範頼(のりより)は大軍を率いて豊後(ぶんご)にあり(注:東鑑による)、そのため平氏は前進できず、船を引き返して壇ノ浦(だんのうら)に漂着した。義経の水軍七百余艘が攻め寄せ(注:平家物語には三千余艘とある)、宗盛らの戦艦五百余艘がこれを迎え撃った(注:平家物語には千余艘とある)。帝を戦艦に移し、兵士には唐船(からふね)を操らせ、源氏が必ず唐船を狙うと見越して、前後から挟み撃ちにしようとした。このとき田口成良は平氏の民心が日に日に衰えていくのを見て、次第に離反する気持ちを抱くようになり、ひそかにこれを義経に告げた。義経はその謀略を知って急襲し、成良もこれに呼応した。平氏は大敗した。知盛は帝の御座船に来て「事ここに至っては、もはや申し上げることもございません」と言った(注:源平盛衰記・平家物語による)。侍女たちは皆悲しみ泣き、二位尼(にいのあま)は嘆いて「宗盛は実は相国(清盛)の子ではなく、また私の生んだ子でもない。その心根が小松内府(重盛)に似ていないのも当然のこと。あの子はきっと死ぬことができず、捕虜となって辱めを受けるであろう」と言った。実は、二位尼は重盛を生んだ後、二度と男子を産むことがなく、清盛はこれを憂えていた。その後懐妊し、男子であることを願って神仏に祈願したが、生まれたのは女子であった。これを秘して誰にも告げず、清水寺(きよみずでら)の北の坂に住む傘職人の家の子を探し出し、ひそかに取り替えた。清盛の存命中はついにこれを語ることはなかったが、この時に至って二位尼は悲憤のあまり、初めてこのことを語ったという(注:源平盛衰記による)。二位尼は按察局(あぜちのつぼね)とともに帝を抱き、剣璽(けんじ)を挟んで海に身を投げて死んだ(注:東鑑には、二位禅尼(にいのぜんに)は宝剣を持ち、按察局は先帝を抱いて共に海に沈んだとある。また義経の注進状には「按察局は先帝を抱いて入水したが、なお死ななかった」とある。源平盛衰記では二位尼が海に赴いたとし、その後の文でまた「八条殿(はちじょうどの)もまた相次いで海に身を投げた」とあるが、八条殿とは二位尼のことであり、これを二人の別人としているのは誤りである。今、愚管抄・百錬抄・平家物語の諸本によって、盛衰記の前段の記述を採る)。教盛・知盛・経盛(つねもり)・資盛・有盛・行盛らも相次いで命を落とした(注:東鑑・平家物語による)。宗盛・清宗は自ら命を絶つことができず、船の中をさまよっていたので、兵士たちはこれを恥ずかしく思い、わざと手を滑らせたふりをして二人を海に突き落とした。父子はもともと泳ぎが達者であったので、縦横に泳ぎ続けた。東国の兵は熊手で二人を引っかけて捕らえ、京へ送った。父子は同じ八葉車(はちようぐるま)に乗せられ、前後の簾を上げられたまま、義経の堀川第(ほりかわてい)に拘留された。五月、鎌倉へ送られた。道中、二人は死を赦されるよう祈った。義経は「必ず私の軍功によってその罪を贖おう」と慰めた。宗盛は喜んで「もし余命を保つことができるなら、たとえ遠い辺境に流されようとも、それだけで満足でございます」と言った(注:源平盛衰記・平家物語による)。

六月、鎌倉に入ると、頼朝は簾を垂れた別室に二人を引き入れ、庭を隔てて対面した。比企能員(ひきよしかず)が言葉を伝えて労をねぎらった(注:東鑑・源平盛衰記による)。宗盛はおびえ震えながら「もし一命を赦していただけるなら、出家して仏に仕えたく存じます」と言った。清宗は進み出て「我が家は代々朝廷をお護りし、功はあっても過ちはなかったことは世の人の知るところです。しかし事既にここに至っては、もはや何も申し上げることはございません。ただ速やかに死を賜ることを願うのみです」と言った。頼朝は忍びず、宗盛自身に自決させようとし、俎板(まないた)の上に魚を置き、その傍らに刃物を示した。しかし宗盛はその意図に気づかなかった(注:源平盛衰記・長門本平家物語による)。清宗はその意図を悟ったが、父より先に死ぬことは忍びないとして、これをやめた(注:源平盛衰記による)。頼朝は宗盛を讃岐権守(さぬきごんのかみ)と呼び、名を末国(すえくに)と改めさせた(注:源平盛衰記・長門本平家物語による。末国は長門本による)。そして二人を再び京へ送り返し、近江の篠原(しのはら)まで至った。義経は宗盛父子をそれぞれ別の場所に留め置いた(注:源平盛衰記・平家物語による)。宗盛はその意図を悟り、僧を呼んで戒を受けてから死にたいと願い出た。義経はこれを許し、ついに篠原で斬らせた(注:源平盛衰記による)。時に年三十九であった(注:公卿補任による。源平盛衰記には、宗盛が捕らえられたとき、都の人々が群がり見物し、その中の二、三人の癩病を患う者が「積悪の報いがついにここに至ったか。聞くところによれば、この人はかつて建礼門院と密通し、先帝はその間に生まれた子であるという」と語ったとある。建礼門院が後白河法皇に対して昔のことを懺悔した際にも、西海の船中で宗盛と密通していたと誣告された話があるという。おおよそ当時のこうした誹謗の言葉は、必ずしも事実とは限らないため、ここに付記するにとどめる)。宗盛の首は都へ運ばれ、獄門の樗(おうち)の木にさらされた(注:吉記・百錬抄・東鑑・源平盛衰記・平家物語による)。

宗盛には二人の子があり、清宗(きよむね)と能宗(よしむね)といった(注:平氏系図・源平盛衰記による)。清宗は従五位下に叙され、法皇の御所で元服の儀を加えられ、昇殿と禁色雑袍(きんじきぞうほう)を許され、まもなく侍従に任じられ備前介(びぜんのすけ)を兼ね、次第に昇進して正三位に叙され、右衛門督(うえもんのかみ)に任じられた(注:公卿補任による)。父が死ぬと、清宗は野路(のじ)で斬られた(注:東鑑による)。時に年十七であった(注:源平盛衰記・平家物語による。公卿補任には年十五とある)。能宗は幼くして母を亡くし、母は臨終に際してこの子のことを深く案じていた。宗盛はこれを哀れんで、格別に慈しんだ。常々「清宗は我が家の嫡子であるから、大将軍として東国のことを取り仕切るべきである。この子は副将軍として西国のことを取り仕切らせよう」と言っていたので、人々はこれを「副将(ふくしょう)」と呼んだ。宗盛が捕らえられると、義経は能宗を六条河原(ろくじょうがわら)で斬った(注:源平盛衰記による)。時に年六歳であった(注:東鑑による。源平盛衰記には八歳とある)。

平重衡

平知盛(たいらのとももり)。知盛は、平治元年(1159年)、従五位下に叙され、次第に昇進して左近衛中将に任じられた。治承(じしょう)年間に、従三位に叙され左兵衛督(さひょうえのかみ)に任じられ、院の厩(うまや)の別当となった(注:公卿補任による)。以仁王(もちひとおう)の挙兵に際し、知盛は重衡らとともにこれを宇治(うじ)に迎え撃つよう命じられた。敵が橋を落として防戦したため、味方は進むことをためらった。知盛は「両軍が橋の上で相対しても、こちらの兵が多くとも力を発揮できない。かえって少数の敵に翻弄されるだけだ」と言い、兵に川の流れを乱して直接渡らせ、ついに敵を大いに打ち破った(注:源平盛衰記による)。山本義経(やまもとよしつね、源氏の武将)が近江(おうみ)で挙兵すると、甥の資盛(すけもり)らとともに数千の兵を率いてこれを打ち破った(注:東鑑・源平盛衰記・長門本平家物語を参照した。資盛については玉海・長門本平家物語による。盛衰記には知盛を征東大将軍とし、平家物語には征夷大将軍とあるが、玉海には東国追討使とある。大将軍というのは一時の呼称であって、正式に征夷・征東などの将軍に任じられたわけではないため、ここでは採らない)。首二百余級を斬り、四十余人を生け捕りにした(注:玉海による)。

養和元年(1181年)二月、兵を動かして美濃(みの)の板倉(いたくら)に源行家を襲い、火を放って陣営を焼いたため、行家は敗走した(注:源平盛衰記による)。このころ平氏の軍はたびたびの戦いに疲弊しており、知盛もまた病にかかったため、都へ引き返した(注:玉海による。東鑑・源平盛衰記を参照した。平家物語の諸本には知盛の病による帰還を三月のこととするが、これは誤りである)。まもなく参議に任じられた。寿永元年(1182年)、権中納言を拝命した(注:公卿補任による)。このころ東北の源氏方の勢力は日に日に強大になっていった。寿永二年、源義仲が近江に迫ると、知盛は兵を率いてこれを防いだ。義仲は延暦寺に陣を進めた。知盛は粟津(あわづ)まで引き返し、太田兼定(おおたかねさだ)らと戦ったが勝てず、兵を引いて都へ戻った。宗盛は大いに恐れ、ついに西へ都落ちすることを決めた。都を出たものの、叔父の頼盛(よりもり)は留まって従わなかったため、兵たちの離反も少なくなかった(注:源平盛衰記・平家物語による)。宗盛はこれを悔いた。知盛は怒って「行く先の頼みとするところは必ずしも確かではないと、以前から都を固く守るよう勧めていたのに、あなたは私の言葉を用いなかった。今こうなってしまっては、もはやどうしようもない」と言った。やがて屋島に至った。源頼朝と義仲との間に確執が生じると、義仲は宗盛に書状を送って和睦を求めてきた。宗盛はこれを喜んで受け入れようとしたが、知盛は諫めて「かつて彼(義仲)に追い詰められて、ここまで来ることになった。今さらまた彼と和睦すれば、頼朝は我らを何と思うだろうか。しかも帝はここにおられる。もし彼が武器を捨て、兵を収めて軍門に降伏を乞うのであれば、それを許すのはよい。それを和議などと呼べようか。あなたはこの意を彼に答えるべきだ」と言った。宗盛はこれに従った。義仲はついに来なかった(注:源平盛衰記・平家物語による)。

寿永三年(1184年)、源義経が一ノ谷城を陥落させた。知盛は城の東門を守っていたが、敗れて逃げた。追手が迫ったとき、子の知章(ともあきら)が力戦してこれを防ぎ、討ち死にした。知盛は良馬に乗って難を逃れ、水を渡って船に乗ろうとしたが、船が狭く馬を乗せられなかったので、鞭を打って馬を陸に帰した。田口成良は「名馬を惜しみます。敵の手に渡してはなりません」と言い、射殺すよう請うた。知盛は「この馬は私をこの危難から救ってくれたのだ。たとえ敵の手に渡ろうとも、どうしてこれを殺すことに忍びよう」と答えた(注:源平盛衰記・平家物語による)。宗盛に会うと、知盛は涙を流して「子が父を救って死に、父はそれを忍んで逃げのびた。他人がこれを見れば、私も顔に唾を吐かれよう。まして自ら行ったことである、人は私を何と言うだろうか」と言った。宗盛は知章の武勇をたたえ、深くこれを惜しみ悼んだ(注:平家物語による)。重衡が捕虜となると、法皇は使者を送って詔を伝えさせた。「そなたが宗盛に書状を送り、三種の神器を差し出させれば、そなたを放免しよう。」重衡はそこで宗盛に書状を送った(注:源平盛衰記による)。二位尼は涙ながらに宗盛に「神器を差し出して、重衡の命を助けてほしい」と願った。左右の者は皆悲しみ、顔を上げることもできなかった。知盛は「たとえ神器を差し出しても、重衡が生きて戻れる道理は決してない。根拠のない言葉に心を動かされてはならない」と言い、皆もこれをもっともだと思った(注:平家物語による)。子弟たちは屋島に集まり、鬱々として楽しまぬ日々を送っていた。宗盛は「亡き父が福原へ都を移したとき、私は新たに家の実権を担ったばかりで、高倉宮(以仁王)を取り逃がしてしまい、深く悔やんだ。今また都を離れてすでに三年、この零落の悲しみは、まことに胸に迫るものがある。それを思えば、あの当時のことも、それほど大きな痛手ではなかったと言えよう」と語った。知盛は色をなして「東北の反逆者どもは、かつて我らの恩を受けながら、たちまち旧恩を忘れて皆頼朝に帰服した。鎮西(九州)でさえも同様である。私はかねてより都で敵を迎え撃ち、死力を尽くして戦い、刀が折れ矢が尽きるまで戦うことを願っていた。しかし私一人だけ留まるわけにもいかず、皆に従ってここまで来てしまった。これがどうして慚愧の極みでないと言えようか」と言った(注:源平盛衰記による)。そこで管国である長門(ながと)の彦島(ひこじま)に砦を築き、門司関(もじのせき)を塞いで諸国の源氏方に備えた(注:東鑑による。管国の二字は平家物語・源平盛衰記による)。

元暦二年(1185年)二月、屋島が陥落した。一族は皆船で海に逃れ、長門の壇ノ浦(だんのうら)に漂着した。義経が追ってきて、海上で大いに戦い、両軍の水軍が入り乱れた。知盛は一人船の舳先に立ち、将士を励まして「退いてはならぬ。戦うのはただ今日一日のみである。昔から名だたる勇将猛士でも、捕虜となる者は、必ず死を避けて生を貪ろうとしたものである。そなたたちはこの一戦で命を落としても、その名を後世に残し、決して東国の賊に笑われることのないようにせよ。皆が心を一つにして、義経を捕らえて海に投げ入れることだけを望む」と言った。藤原景清(ふじわらのかげきよ)・平盛綱(たいらのもりつな)らは皆奮い立ち、必ず義経を捕らえようとした(注:源平盛衰記による)。知盛は宗盛に会って「今日の合戦では、士気はいずれも高まっておりますが、田口成良だけはそうではありません。私が見るところ、彼には異心があるようです。どうか斬って軍の見せしめとしてください」と言った。宗盛はこれを聞き入れなかった。知盛は再三これを強く求めたが、宗盛はやむを得ず成良を呼んで「そなたの様子は以前と違うようだが、気持ちが挫けているのではないか。四国の軍勢に号令をかけ、力を尽くして戦い勝利を得よ」と言った。知盛は傍らで刀に手をかけ成良を斬ろうとしたが、宗盛はついにこれを許さなかった。果たして成良は裏切り、東国の兵の攻勢が急を告げた。知盛は建礼門院と二位尼の御座船に赴いた。宮女たちは泣きながら状況を尋ねた。知盛は笑って「事はもとよりこうなるべきものであった。今さら何を言うことがあろうか。ただ、宮中の女房たちは初めて東国の男を目にすることになろう」と言い、自ら船の中を掃除させ、雑多な物をすべて棄てさせた。やがて帝は海に崩じ、宗盛は捕らえられた(注:源平盛衰記・平家物語による)。知盛はこれを聞いて涙を流し、深く恥じた。ついに叔父の教盛(のりもり)と並んで座り、自ら刃に伏して死んだ(注:源平盛衰記による。本書の一説、東鑑、平家物語には海に身を投げたとあるが、ここでは醍醐雑事記に基づき、本書本文の記述に従う)。時に年三十四であった(注:公卿補任による)。

子の知章(ともあきら)は武蔵守(むさしのかみ)であった。一ノ谷城が陥落すると、知盛に従って逃げた。児玉党(こだまとう)の武者数人がこれを追いかけ、監物太郎頼賢(けんもつたろうよりかた)が矢を放って一人を射殺した。さらに二人が知盛に迫ると、知章が進んで組み討ちし、その首を取った。知盛はその隙に逃げ延びることができた。知章はついに戦死した。時に年十六であった(注:源平盛衰記・平家物語による。盛衰記には十七とするものもあるが誤りである)。頼賢は知章の首を持ち帰ろうとしたが、重傷を負い、そのまま死んだ(注:源平盛衰記による)。知章の弟の知忠(ともただ)は、平氏が鎮西へ向かった当時、まだ三歳であった。乳母の子である紀二郎大夫友方(きにろうだいふともかた、注:八坂本平家物語では友方を為方とし、長門本では紀二郎兵衛為範とする)が、知忠を連れて備中(びっちゅう)の宮内(みやうち)へ赴き、そこで数年を過ごした。その後、伊賀(いが)に移り山中の僧坊に身を寄せた。後にひそかに都へ戻り、法性寺(ほっしょうじ)のそばに身を潜めた。平盛嗣(たいらのもりつぐ)・藤原忠光(ふじわらのただみつ)・藤原景清らがひそかに参集し、都は騒然となった(注:如白本平家物語による)。建久七年(1196年)六月、頼朝の妹婿である藤原能保(ふじわらのよしやす)の邸を襲おうとした(注:明月記による)。後藤基清(ごとうもときよ)が都におり、能保は基清に命じてこれを包囲攻撃させた。しばらく矢戦が続き、従う者二十余人が死んだ。知忠は逃れられないと悟り、自ら刃に伏して死んだ。時に年十六であった。友方もまた自害し、盛嗣・景清は逃れて復讐を図ったが、果たせずに死んだ(注:平家物語の諸異本による)。

平重衡(たいらのしげひら)。重衡は、応保二年(1162年)、従五位下に叙され、まもなく尾張守(おわりのかみ)に任じられ、左馬頭(さまのかみ)に任じられた。嘉応(かおう)・承安(じょうあん)年間に、次第に昇進して正四位下に叙された。治承三年(1179年)、左近衛権中将に任じられたが、まもなくこれを辞した。治承四年、蔵人頭(くろうどのとう)に補された(注:公卿補任による)。この年五月、以仁王(もちひとおう)の挙兵により、維盛らとともに兵二万余を率いて、宇治川で源頼政(みなもとのよりまさ)を討ち(注:玉海・山槐記・長門本平家物語による)、軍を整えて都へ戻った。帝の勅により戎服(じゅうふく)のまま参内し、直接戦況を尋ねられた。十二月、数千騎を率いて奈良(なら)へ赴き(注:山槐記・東鑑による)、東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうふくじ)両寺の僧徒を攻めた。僧徒は奈良坂(ならざか)の般若寺路(はんにゃじろ)に拠り、落とし穴を掘り、蒺蔾(しつり、とげのある障害物)を敷き、木を倒して攻め口を塞いだ。重衡は進んで攻撃し、民家に火を放った。折しも風が激しく吹き荒れ、火は東大寺・興福寺の両寺にまで及び、百余棟を焼き、大仏も灰と化した。僧徒は大敗した(注:山槐記による。源平盛衰記・平家物語を参照した)。二百余人を斬り(注:百錬抄による。源平盛衰記には七百余人、平家物語には千余人とある)、梟首(きょうしゅ)三十余級(注:玉海による。盛衰記には四百余級とある)、焼死者は百余人であった(注:東鑑による。平家物語には三千五百人、盛衰記には二千四百余人、長門本平家物語には一万二千三百余人とある)。

養和元年三月、維盛らは七千余騎を率いて、尾張の洲股(すのまた)で源行家を攻め、川を隔てて対陣した(注:源平盛衰記・長門本平家物語による)。行家は夜襲をかけようとしていたが、重衡の兵が渚で馬を洗っていたときにこれを察知し、走り戻って報告した(注:玉海・東鑑による)。そこで先手を打って行家軍を撃破し、その将卿公義円(きょうのきみぎえん)を斬った(注:東鑑・源平盛衰記による)。泉重満(いずみしげみつ)がひそかに筏で川を渡ろうとしたので、重衡らはこれに気づき、わざと兵を引いて水際から離れて陣を構え、渡り終えるのを待って攻撃した。重満を斬り、多くを殺傷・捕獲した。行家は小熊(おぐま)へ退いたが、重衡は維盛らとともにこれを追撃した。軍を五手に分け、藤原景家(ふじわらのかげいえ)・藤原忠清(ふじわらのただきよ)・平盛俊(たいらのもりとし)・高橋長綱(たかはしながつな)が代わる代わる進撃したが、いずれも勝てずに退いた。重衡・維盛は自ら二千余騎を率いてこれに当たった。景家ら四千余騎もまた合流し、さらに交代しながら戦った。行家はついに敗走した。重衡らは勝ちに乗じて追撃し、折戸(おりと)・熱田(あつた)で連戦して打ち破った(注:長門本平家物語には折戸を折津とする)。行家は参河(みかわ)へ逃げ、散った兵を集めて矢矧(やはぎ)の東岸に立てこもり、人を遣って東国の大軍が来ると偽って触れ回らせた。重衡らは多勢に無勢と判断し、兵を引いて引き返した(注:源平盛衰記による)。重衡は再び左近衛権中将に任じられ、従三位に叙された(注:公卿補任による)。

寿永二年九月、平氏は帝を奉じて屋島に至り、諸将を遣わして山陽道・南海道の二道を平定させた(注:南海道は平家物語による)。閏十月、源義仲がその将高梨高信(たかなしたかのぶ)・足利義清(あしかがよしきよ)・海野幸広(うんのゆきひろ)・仁科盛家(にしなもりいえ)を遣わして攻めてきた。重衡は通盛(みちもり)・教盛(のりもり)とともに二百艘の水軍を率い、備中の水島でこれを防いだ。高信・義清・幸広を斬り、首級千二百を得た(注:源平盛衰記による)。十一月、備前の東川(ひがしがわ)で惟資(これすけ、注:姓は不詳)を破り(注:吉記による)、播磨の室山(むろやま)で源行家を破った(注:源平盛衰記・平家物語による)。

寿永三年二月、源範頼・義経が兵を率いて一ノ谷を攻めてきた。重衡は生田(いくた)の森を守っていたが、城が陥落して逃げた。庄家長(しょうのいえなが)父子が急いでこれに迫った(注:東鑑の二月七日の記事には「重衡は明石浦(あかしのうら)で梶原景時(かじわらのかげとき)の子家国(いえくに)に捕らえられた」とある。また五日の記事には、範頼・義経の部下で降伏を勧めた者として梶原平三(へいざ)・景時の子源太(げんた)景季(かげすえ)、次男平次(へいじ)景高(かげたか)、および庄太郎家長(しょうたろういえなが)の名が挙げられているが、家国という名はない。家国と家長は、どちらか一方が誤りであろう。平家物語には、庄四郎高家(たかいえ)と梶原源太景季が追いついたが及ばなかったとあり、景季が馬を射て重衡が逃げられなくなったところを高家が捕らえたとある。南都本には梶原父子三人とあり、長門本には単に景時とあり、伊藤本・八坂本には庄四郎高家とある。いずれが正しいか未詳であるが、今は盛衰記の説に従う)。重衡は須磨浦(すまのうら)まで馬を走らせたが、家長は追いつけず、矢を放って馬を射た。重衡には替え馬があり、近臣の後藤守長(ごとうもりなが)に乗せて、大声で助けを求めさせたが、守長は振り向きもせず逃げ去った。重衡は自害しようとしたが、家長が急いで馬を寄せて近づき、自分の馬を差し出して、しっかりと鞍に縛りつけて連れて行った(注:源平盛衰記による)。やがて義経は重衡を都へ送り、土肥実平(どいさねひら)の邸に拘留させた(注:玉海による)。法皇は重衡を藤原家成(ふじわらのいえなり)の堀川の旧邸に召し、右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)藤原定長(ふじわらのさだなが)を遣わして詔を伝えさせた。「そなたが宗盛を説き、三種の神器を差し出させれば、頼朝に命じて死罪を免じさせ、屋島へ帰そう」(注:源平盛衰記による。東鑑・平家物語を参照した)。重衡は答えて「遠き祖先の貞盛(さだもり)以来、代々朝廷の爪牙として仕え、王事に勤めてまいりました。しかし子孫の代になって罪を得て、西海を流浪する身となりました。先には通盛以下の一族が、すでに梟首の憂き目にあっております。私がたとえ生きて戻れたとしても、勝敗の行方は私一人の去就で決まるものではございません。私はどのような顔で再び一族に会えましょうか。三種の神器は、天子の御身とともにあるべきもので、それだけを都へ返す道理は決してございません。しかしながら詔の意向が重いものであることは承知しておりますので、私の考えとして宗盛に伝えましょう」と言った(注:源平盛衰記による)。そして書状を屋島へ送った。上皇もまた召次花方(めしつぎのはなかた)という者を遣わし、斎院(さいいん)を通じて時忠(ときただ)らに諭させた(注:源平盛衰記・平家物語を参照した)。宗盛は内心和睦を望んでいたが、やがて戦いに敗れ、神器は海に沈んだ(注:玉海・東鑑による。平家物語には、二位尼が重衡の書状を受け取り、悲しみ泣きながら宗盛に「中将(重衡)が今このような有様です。どうか私のためにもう一度お考えください」と言うと、宗盛は「兄弟の情として、忍びないことは私も同じです。しかし神器は国家の大宝です。神器と重衡一人の命とを引き換えにすれば、必ず頼朝の嘲りを受けましょう。そもそも帝が帝であるのは神器があってこそです。母上お一人が重衡を愛するあまり、他の子らへの配慮を欠いてよいものでしょうか」と答え、ついに詔に従わなかったとあり、本書の記述とは異なる)。重衡は僧衣を着ることを願い出て、義経がこれを奏上したが、法皇は「まず頼朝に知らせ、その上で議するように」と言って許さなかった。そこで僧の源空(げんくう、法然)を招いて仏法を学び懺悔した。源空は仮に剃髪させ戒を授けた(注:源平盛衰記・平家物語による)。

三月、頼朝は梶原景時を遣わして重衡を鎌倉へ護送させた(注:東鑑・源平盛衰記・平家物語による)。伊豆に至ると、ちょうど頼朝が北条(ほうじょう)で狩りをしていたのに出会い、引見して「私は上は法皇の御憤りに応え、下は亡き父の恥をすすごうとして、石橋山(いしばしやま)で義兵を挙げ、ついにあなたをこのような目に遭わせることとなった。屋島の内府(宗盛)にも、遠からずお目にかかることになろう」と言った。重衡は答えて「古来、源平両氏はともに朝廷をお護りしてまいりました。しかしこの二十年、我が家だけが国家の権を独占し、一門で朝廷に列する者は八十余人にも及びました。その権勢の盛んなことは、天下に並ぶものがございませんでした。今、私の運命は尽き、ついに捕虜となりました。これもまた武家の常のことでございます。何の恥じることがございましょう。ただ速やかに首を刎ねていただきたい」と言った。その顔色は少しも動じず、少しも屈することがなかった。見る者は皆その姿に感嘆した。頼朝はそこで工藤宗茂(くどうむねしげ)に命じて厚く待遇させた(注:東鑑による。平家物語を参照した。源平盛衰記には、頼朝が引見した際、景時に言葉を伝えさせて「昔、私は亡き相国(清盛)の大恩を受け、今日あるを得た。その恩は山より高く海より深く、本来なら旧怨を忘れないわけにはいかない。しかし院宣の重さゆえに、私情を顧みることができず、ついにあなたをこのような目に遭わせることとなった。これは決して本意ではない。しかし事既にここに至った以上、屋島の大臣(宗盛)に相見えることも、遠からずのことであろう」と言わせたところ、景時が跪いてこれを伝えようとすると、重衡は人を介して言葉を伝えられることに怒り、遠く頼朝に向かって声を励まし「運命の窮まりが今ここに至った。もし亡き相国の恩を忘れていないのであれば、速やかに首を刎ねられよ」と言ったとある)。鎌倉に着くと、宗茂が湯浴みの世話をした。重衡は死期が迫っていると思っていた。頼朝はあらかじめ侍女の千手(せんじゅ)を遣わして重衡の側に仕えさせ、望みを尋ねさせた。重衡は「他に望みはない。ただ剃髪して僧になりたいだけだ」と答えた。千手がこれを報告したが、頼朝は許さなかった(注:源平盛衰記・平家物語を参照した)。さらに千手と藤原邦通(ふじわらのくにみち)・工藤祐経(くどうすけつね)を遣わし、酒肴を贈って重衡を慰めた。祐経は鼓を打って今様(いまよう)を歌い、千手は琵琶を弾き、重衡は興に乗じて笛を吹いた。まず五常楽(ごじょうらく)を吹き、自ら「これは後生楽(ごしょうらく)である」と言った。次に皇麞急(おうじょうのきゅう)を吹き、「これは往生急(おうじょうのきゅう)である」と言った。夜が更けて宴が終わると、重衡は千手を留めて酒を勧め、「燭暗数行虞氏の涙、夜深四面楚歌の声」という一句を朗詠した。邦通らは戻って、重衡の言葉や芸能をしきりに褒め称えた。頼朝は「私はまわりの評判をはばかって、その席に臨むことができなかった。まことに残念なことであった」と言った(注:東鑑による。源平盛衰記・平家物語にもこの話が載っているが、多少の異同があるため、ここでは詳しく注記しない)。

翌年六月、頼朝は重衡を奈良へ送った。これより先、東大寺・興福寺両寺の僧徒は重衡を恨み、その身柄を得て思いを遂げたいと願い出ていた。ここに至って重衡を送ると、僧徒は境内で殺すことを望まず、ただその首だけを求めた。そのため木津川(きづがわ)のほとりで斬った(注:源平盛衰記・平家物語による。盛衰記の一説には奈良坂で斬ったとある)。時に年二十九であった(注:公卿補任による)。僧徒はその首を得て、奈良坂にさらした(注:玉海・源平盛衰記・平家物語を参照した)。