卷之一百六十 列傳第八十七

源賴政、長谷部信連、源行家

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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源賴政

源頼政(みなもとのよりまさ)は、摂津守(せっつのかみ)源頼光(みなもとのよりみつ)の玄孫である。頼光の子頼国(よりくに)もまた摂津守となり、頼綱(よりつな)を生んだ。頼綱は和歌を得意とし、仲政(なかまさ)を生んだ(注:「政」は「正」とも書く)。仲政は弓術に優れ、和歌にも通じ、兵庫頭(ひょうごのかみ)となって昇殿を許され、特に内裏の守護を命じられた。仲政が頼政を生んだ(注:『尊卑分脈』による)。頼政は生まれつき聡明で武略に長け、とりわけ弓術に優れ、和歌も巧みであった(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。白河法皇(しらかわほうおう)は彼を抜擢して判官代(はんがんだい)とした。保延年間、蔵人(くろうど)に任じられ、従五位下に叙せられた。久寿二年、兵庫頭に任じられた(注:『公卿補任』による)。

保元の乱に際し、後白河天皇(ごしらかわてんのう)は鳥羽天皇(とばてんのう)の遺勅により武将十人を召集し、頼政も部下の兵を率いて朝廷のために戦った(注:『保元物語』による)。二条天皇(にじょうてんのう)の即位の日、狂人が禁中に乱入する事件があり、頼政がこれを捕らえた。その功により院への昇殿を許された(注:『公卿補任』による)。

平治元年、藤原信頼(ふじわらののぶより)が乱を起こした。源義朝(みなもとのよしとも)は信頼に頼政を味方に引き入れるよう勧めた。頼政ははじめこれを承諾したが、義朝がその父や弟を殺害したことで人望をひどく失っており、事はきっと成就しないだろうと考え、内心では疑い危ぶんでいた。天皇がひそかに平清盛(たいらのきよもり)の六波羅(ろくはら)邸へ行幸したと聞くに及び、頼政は朝廷方につく決意を固めた。義朝が六波羅を攻めた際、頼政は六条河原(ろくじょうがわら)に陣を敷いたまま進もうとしなかった。源義平(みなもとのよしひら)はその日和見を見抜き、精鋭の兵で頼政を突いた。頼政はそこで兵をまとめて六波羅へ赴き、義朝を迎え撃った。義朝は頼政に向かって叫んだ、「そなたはすでに源兵庫頭と称しながら、今になって伊勢平氏に寝返るとは、わが源氏の名を辱めるものではないか」。頼政は答えた、「我が家は代々弓矢をもって朝廷に仕え、いまだ武士としての節義を失ったことはない。そなたこそ謀反人の側につきながら己を改めようとしない。これこそ我が源氏の名を辱めるものではないか」。義朝は敗走し、ついに尾張(おわり)で命を落とした(注:『平治物語』による)。

頼政は長く宮中の警衛にありながら昇殿を許されずにいたが、あるとき和歌に思いを託して詠み、宮中の女官に示したことがあった(注:『千載和歌集』による)。天皇はこれをご覧になり、頼政を哀れに思われた(注:『源平盛衰記』による)。仁安元年、正五位下に叙せられ昇殿を許された(注:『源平盛衰記』には従四位に叙せられて昇殿を許されたとあるが、これは誤りである)。仁安三年、従四位上に進んだ(注:『公卿補任』による)。

高倉天皇(たかくらてんのう)の時代、鵼(ぬえ)という怪鳥が夜ごと御所の屋根の上で鳴き、天皇はこれを不吉なこととされた。側近の臣が頼政を推挙してこれを射させたところ、頼政は一矢でこれを射止めた。天皇をはじめ側近たちは皆感嘆し称賛した(注:『十訓抄』による。頼政が鵼を射た件について、南都本『平家物語』は二条天皇の時とし、長門本は鳥羽天皇の時とする。諸本を通覧すると鵼を射た話は二度あり、一つは近衛天皇の時、一つは二条天皇の時とされる。『源平盛衰記』もまた二条天皇の時とし、あるいは高倉天皇の時ともする。『太平記』は近衛天皇の時とし、その説もまた異なる。諸説が入り乱れているため、いずれも採用しない。ひとまず諸本の説に従えば、怪鳥が夜に鳴き、その声が鵼に似て宮中を震え驚かせ、天皇はこれによって体調を崩された。関白藤原基実(ふじわらのもとざね)が進言して頼政にこれを射させたという。事の次第がこの通りであるならば、なぜ当時の諸家の日記にまったく記載がないのか。ただし猪早太(いのはやた)が階段の下でとった振る舞いや、郭公(ほととぎす)と弦月にちなむ唱和の逸話は広く人口に膾炙している。おそらく事実の骨子はあって、それが後に潤色され大げさに語られたのであろう。ただ本書に載せる内容は事実にやや近いと思われるので、今はこれに従う)。嘉応(かおう)・承安(じょうあん)の間に、右京大夫(うきょうのだいぶ)に任じられ、正四位下に叙せられた(注:『公卿補任』『百錬抄』による)。

治承元年、延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵たちが一斉に蜂起し、日吉(ひえ)神社の神輿を奉じて禁中に押し寄せた。そこで朝廷は諸将に命じて宮城の諸門を守らせた。神輿はまっすぐ頼政の守る達智門(たっちもん)へと向かった。頼政は馬を下り、兜を脱いで拝伏し、家来の渡辺(わたなべ)某を遣わして次のように申し述べさせた。「守将頼政より大衆(だいしゅ)の方々へ申し上げる。頼政は日頃より山王権現(さんのうごんげん)を篤く信仰し、子孫の幸いを祈ってまいりました。今は勅命を受けてここに控えておりますが、神輿に向かって弓を引くことは畏れ多いことでございます。昔より源平両家は互いに力を競い合ってまいりましたが、保元の乱以来、源氏はやや衰え、頼政はわずかにその余流を受け継ぎ、間に合わせに警固の任にあたっているにすぎません。率いる兵も寡少で弱く、とても大衆の方々を迎え撃つには足りぬことは自ら承知しております。どうかご了察くださいますよう。もしお聞き入れいただけなければ、頼政は兵とともに神輿の前に屍をさらすまでのことでございます。平重盛(たいらのしげもり)殿は精鋭の兵を率いて陽明門(ようめいもん)を守っております。大衆の方々がこの寡弱な頼政を避けてそちらへ向かわれれば、京の人々の物笑いの種になりましょう」。これを聞いて僧兵たちは陽明門の方へと向きを変えた(注:『平家物語』『源平盛衰記』による。門の名は『源平盛衰記』に従った)。

治承二年、平清盛は頼政が年老いてなお昇進が滞っていることを哀れみ、朝廷に奏上して言った、「これまで多くの源氏の者が謀反人の側に身を落としましたが、頼政ただ一人は生まれつき正直で、その勇名は世に知られております。歳はすでに七十を越えながら、いまだ三位に昇っておりません。どうか黄泉へ旅立つ前に、特別に三位の恩栄をお与えくださいますよう」。これにより頼政は従三位に叙せられ、当時の人々はこれを異例のことと驚いた(注:『玉海』による。『源平盛衰記』には、頼政が「登るべき頼り無ければ木本に椎を拾ひて世を渡る哉」という和歌を詠んだことがきっかけで三位に叙せられたとあるが、これはおそらく誤りである)。治承三年、頼政は剃髪して名を真蓮(しんれん)と改めた(注:一説には頼円(らいえん)ともいう)。世間では源三位入道(げんざんみにゅうどう)と呼ばれた(注:『尊卑分脈』による)。

頼政の子仲綱(なかつな)は星鹿毛(ほしかげ)、またの名を木下(このした)という駿馬を持ち、たいそう愛していた。右近衛大将(うこんえのだいしょう)平宗盛(たいらのむねもり)がこれを見たいと求めたが、仲綱は和歌に託って断った、「戀しくは來ても見よかし身に添へる陰をば如何放ちやるべき」。それでも宗盛はしつこく求め続けた。頼政はこれを聞いて仲綱に言った、「時勢に従うならば、相手が求めずとも譲るべきものだ。まして今のようにこれほど懇請されているのだから、お前は早く送るがよい」。仲綱はやむなくこれを貸し与えたが、宗盛はそのまま返そうとせず(注:『源平盛衰記』による)、貸すのを渋ったことに腹を立て、馬の体に「仲綱」の二字を焼き印して厩に飼っておいた。ある日、客が見たいと言うと、宗盛は馬丁を呼んで「仲綱を引いて来い」と命じた。仲綱はこれを聞いて恥じ怒り、宗盛を刺し殺して自分も死のうとまで思い詰めた。頼政もまたこれを不満に思い、常に隙をうかがって平氏を滅ぼす計略をめぐらしていた。

その頃、清盛の横暴ぶりは日ごとにひどくなり、法皇を幽閉し、廷臣四十人の官職と爵位を奪ったため、天下の人々は皆これを怨み謗った(注:『平家物語』『源平盛衰記』を参照して取った。四十人という数は『山槐記』による)。以仁王(もちひとおう)は高倉天皇(たかくらてんのう)の兄にあたり、もとより英明の誉れが高かった。しかし母の身分が低く寵愛も薄かったため、年長になっても親王に冊立されずにいた。頼政はこの王こそ大義の主とするにふさわしいと考え、夜ひそかに王の邸を訪れて説いた。「大王は法皇の実の御子であられます。たとえ帝位に登られようとも、何の不都合がございましょうか。すでに英明な御年三十になられながら、いまだ親王にもなられていないことを、臣はひそかに王のために残念に思っております。今、清盛は勝手放題にふるまい、至尊(しそん)を侵し侮り、朝廷の貴顕を圧迫し、愛憎は思うがまま、賞罰も己の意のままにしております。神は怒り人は怨み、その滅亡は遠くありますまい。大王が上は天の心に従い、下は人々の望みに応え、義兵を挙げて逆賊を誅し、法皇の御憤りを晴らされるならば、これぞまさに千載一遇の好機、決して逃してはなりません。臣は歳すでに七十を越え、体力は衰えたとはいえ、一族は広く、なお一方を守り抜くには十分でございます。かつて源平両家は功勲と爵賞を競い合い優劣つけがたい間柄でございましたが、今では雲泥の差がつき、まるで君臣のような有様となっております。源氏の一族は多くが世に埋もれ、諸国に流浪しております。大王がひとたび令旨をお下しになれば、彼らは皆こぞって馳せ参じ、平氏を滅ぼすことなど手のひらを返すほどたやすいことでございましょう。大王、どうかよくお考えくださいませ」(注:『源平盛衰記』による)。

以仁王は長く不遇な境遇にあって志を得ずにいたが、頼政の言葉を聞いて大いに喜び、ついにこれを許した。治承四年四月、蔵人源行家(みなもとのゆきいえ)を諸国に遣わし、令旨を頒布して清盛の罪を声高に訴えさせた(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。別に令旨一通を前右兵衛佐(さきのうひょうえのすけ)源頼朝(みなもとのよりとも)にも賜った。行家はかつて熊野(くまの)に住み、新宮(しんぐう)の僧兵たちと親しく交わっていた。この時に至って挙兵を約したが、僧兵たちがひそかに語り合ったため、事はついに漏れてしまった(注:『源平盛衰記』による)。本宮(ほんぐう)の別当(べっとう)湛増(たんぞう)は(注:『源平盛衰記』では大江法眼(おおえのほうげん)とする)、平氏と縁故があったため、兵三千を率いて新宮を攻めたが、かえって撃退された。この事が使者によって清盛に報告されたが、清盛は頼政が首謀者であるとは気づかず、頼政の子兼綱(かねつな)らに命じて高倉宮(たかくらのみや、以仁王)の邸を包囲させた(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。兼綱はこれを頼政に密告し(注:『源平盛衰記』による)、頼政はそこで王に園城寺(おんじょうじ)へ逃れるよう勧め、仲綱・兼綱および渡辺党(わたなべとう)五十余騎を率いて(注:騎数は『山槐記』による)、自邸に火を放って出発し、王に従って園城寺に入った。そして僧兵たちに延暦寺・興福寺(こうふくじ)の二寺へ書状を送らせて援軍を求めさせたところ、両寺ともこれに応じた(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。

宗盛はかねてより頼政の家臣渡辺競(わたなべのきそう)の勇名を聞いており、頼政が京を去るとすぐに人を遣わしてその動静をうかがわせた。使者は戻って「競は家におります」と報告した。宗盛は信じず、再び人を遣わして確かめさせたが、なお在宅していた。そこで宗盛は競を召し出して尋ねた、「そなたは頼政の死士ではないか。なぜ供をしなかったのか」。競は答えた、「先ごろ寵愛していた入道を亡くしましたため、お供することができませんでした」。宗盛はこれを聞いてたいそう喜んだ(注:『源平盛衰記』による)。競は宗盛に願い出た、「私は良馬を持っておりましたが、人に盗まれてしまいました。どうか厩の馬を一匹お恵みくださいませ」。宗盛はそこで名馬南鐐(なんりょう)を競に与えた(注:『平家物語』による)。はじめ頼政が京を去るとき、従者たちは競にも知らせるよう求めた。頼政は言った、「彼の家は平氏の邸に近い。急いで人を遣わせば、かえって平氏に気づかれてしまうだろう。彼は勇略があって私に忠実な男だから、私の居場所を聞けば知らせずとも自ら駆けつけてくるはずだ」。頼政は園城寺に入った(注:長門本『平家物語』『源平盛衰記』による)。果たして競は馳せ参じて言った、「私は伊豆守(いずのかみ、仲綱)殿のために、六波羅の名馬南鐐を奪って参りました」。仲綱は大いに喜び、その馬の尾とたてがみを切り、「平宗盛入道」の五字を焼き印して、宗盛の門の外に放ち、これを辱めた(注:『平家物語』による)。

やがて延暦寺は約束を違え、奈良の大衆(だいしゅ、興福寺の僧兵)もまだ到着しなかった。頼政は評議して言った、「寡兵で多勢に当たるには、夜討ちに勝るものはない。今夜まず弱兵一、二千を如意ヶ峰(にょいがみね)に布陣させ、歩兵に法勝寺(ほっしょうじ)や三条河原(さんじょうがわら)に火を放たせれば、平氏は必ず出て防ぐであろう。そこで我が軍は敵を誘い出して岩坂(いわさか)の楼本(ろうもと)まで退かせ、その隙に精鋭四、五百を差し向けて六波羅を襲い、風上から火を放って勢いに乗じて奮戦すれば、勝てないはずがない」。僧兵たちは皆この策に賛成した(注:『源平盛衰記』による)。真海(しんかい)という僧は清盛に与していたため、異論を唱えて時を移した(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。頼政はそこで僧兵千余人を如意ヶ峰へ向かわせた。仲綱は七百余騎を率いて山科(やましな)に至ったが、すでに夜が明けてしまい、計略は成らず、軍勢は皆引き返した。人々は怒って真海を殺そうとしたが、真海は六波羅へ逃げ去った(注:『源平盛衰記』による)。

頼政は園城寺には長く頼れないこと、また兵が少なく持ちこたえるのが難しいことを考え、ついに王を奉じて奈良へ向かった。王は道中疲れて眠り、六度も馬から落ちたので、軍を宇治(うじ)の平等院(びょうどういん)にとどめて休息をとらせた。清盛は左兵衛督(さひょうえのかみ)平知盛(たいらのとももり)、蔵人頭(くろうどのとう)平重衡(たいらのしげひら)らを遣わし、二万余の兵を率いて追わせた。頼政は宇治橋(うじばし)の橋板を外して待ち構え、やがて平氏の軍が到着した(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。明け方は深い霧で、目の前もはっきり見分けられないほどであった。橋にさしかかって落下し死んだ者が二百余人にのぼった。頼政の部下の僧兵筒井明秀(つついのみょうしゅう、注:「秀」は「春」とも書く)は矢を放って多数を殺傷した。矢が尽きると眉尖刀(なぎなた)を執って橋桁(はしげた)の上を身軽に走り、さらに十余人を斬った。一来法師(いちらいほうし)という僧が明秀の頭上を飛び越え、刀を振るって力戦した。二人で討ち取った者はおよそ八十人にのぼった。頼政は渡辺党に交代して戦わせた。渡辺省(はぶく)・連(つらぬ)・至(いたる)・覚(さとる)・授(さずく)・与(あとう)・競(きそう)・唱(となう)・列(つらなる)・配(くばる)・早(はやし)・清(きよし)・勧(すすむ)ら三十余人が次々と進み出て(注:「勧」は本書では「進」とあるが、今は『平家物語』『尊卑分脈』により訂正した)、藤原忠清(ふじわらのただきよ)の軍を撃退した。知盛らは兵を励まして雨のように矢を射させたため、頼政の軍は前へ進むことができなかった。後に中院但馬(なかのいんのたじま、注:『平家物語』では五智院(ごちいん)とする)が左右に得物を構えて飛んでくる矢を斬り落とし、さらに数人を討ち取った。世の人はこれを「矢切りの但馬」と呼んだ。平氏の軍は進むことができず、頼政方の兵は舞い踊って嘲笑った。やがて足利忠綱(あしかがのただつな)ら三百騎が川の流れを乱して渡った。大軍が続いて到着し、平等院の前で合戦となった。頼政は二人の子とともに敵軍に矢を射かけ、その間に以仁王は南へ逃れることができた。頼政もこれに従おうとしたが、折しも飛んできた矢が頼政の膝に当たり、兼綱もまた飢え疲れて死んだ。

頼政はそこで王に告げた、「事すでにここに至りました。大王は速やかに奈良へお赴きになり、大衆の力を頼んで大事を成し遂げられますよう。臣はこれより永の別れでございます」。王は嗚咽しながら去っていった。頼政は馬首を巡らして敵を射て退け、矢が尽きると平等院の釣殿(つりどの)に入り、甲冑を脱いで端座し、左右の者に言った、「この身は六代の朝廷に仕え、齢はもう八十に近く、官位はすでに祖先を超え、武略も人に恥じるものではない。今、天下のために大義を唱え、命を捨てて名を後世に残すことは、武士たる者の本望である。お前たちはよく防ぎ戦ってくれた。私はこれより従容として死につくつもりだ」(注:『源平盛衰記』による)。そして和歌を詠んだ、「埋れ木の花咲く事も無かりしに身の成る果てぞ哀れなりける」。詠み終えると刃に伏して自害した(注:『平家物語』『源平盛衰記』による)。享年七十七(注:『古今著聞集』による。『尊卑分脈』には七十六とある。本書の承安二年藤原清輔(ふじわらのきよすけ)の尚歯会記(しょうしかいき)によれば、頼政はその時六十九歳であったとされ、これから数えるとこの年は七十七歳にあたるので、今はこれに従う)。その首は京師(みやこ)に送られ、獄門にさらされた(注:『公卿補任』『東鑑』による。『源平盛衰記』には、下河辺清恒(しもこうべのきよつね)が頼政の首を平等院の床下に隠し、平氏の軍は誰もこれに気づかなかったとある。『永享記』には、清恒がその首を笈(おい)に納め、修験者を装って下総(しもうさ)に帰り、古河城(こがじょう)の東南の龍崎(たつがさき)に埋めたとある。『尊卑分脈』には、美濃(みの)の山県郡(やまがたぐん)に頼政の墓があるとある。頼政の叔父国直(くになお)が山県に住んでいたことから、おそらく彼が遺骸を収めて葬ったのであろう。しかし今となっては確かめるすべがない)。

頼政には五人の子があり、仲綱・頼兼(よりかね)・広綱(ひろつな)・国政(くにまさ)・兼綱という。娘は二条院(にじょういん)に仕え、讃岐(さぬき)と称して和歌に優れ(注:『尊卑分脈』による)、かつて沖の石(おきのいし)の歌を詠んで世に絶唱とうたわれた。これより彼女は沖の石の讃岐と呼ばれた(注:『千載和歌集』『尊卑分脈』による)。仲綱は伊豆守(いずのかみ)に任じられ、正五位下に叙せられた。宇治橋の戦いに敗れ、父とともに平等院で自害した。その子に長男宗綱(むねつな)があり、左衛門尉(さえもんのじょう)・肥後守(ひごのかみ)に任じられ、従五位下に叙せられたが、父とともに死んだ。次男有綱(ありつな)は伊豆冠者(いずのかじゃ)と称し、右衛門尉(うえもんのじょう)に任じられ、従五位下に叙せられた(注:『尊卑分脈』による。伊豆冠者の称は『東鑑』による)。寿永元年、源頼朝の命を受けて土佐(とさ)で蓮池家綱(はすいけのいえつな)・平田俊遠(ひらたのとしとお)を討った。源義経(みなもとのよしつね)の娘婿となってからは、ほしいままに略奪を行ったため、頼朝はこれを取り締まるよう奏請した。頼朝と義経の間に不和が生じると、有綱は義経に従って西海(さいかい)へ向かったが、途中大風に阻まれ、大和(やまと)の宇陀(うだ)に身を隠した。頼朝は平時定(たいらのときさだ)に命じてこれを討たせた。有綱は勢い尽きて山中に入り自害し、その首は京師に送られた(注:『東鑑』による)。次男頼成(よりなり)は和泉守(いずみのかみ)。次男成綱(なりつな)は左衛門尉。次男頼季(よりすえ)は七条院(しちじょういん)の蔵人であった。頼兼は蔵人となり、従五位下に叙せられ、大内守護(おおうちのしゅご)を務めた。その子頼茂(よりもち)は安房守(あわのかみ)・近江守(おうみのかみ)・右馬権頭(うまのごんのかみ)を歴任し、兵庫頭に至って正五位下に叙せられ、大内守護を務めた(注:『尊卑分脈』による)。

承久元年、将軍源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺されると、頼茂は将軍職を望み、ひそかに挙兵を謀った。事が発覚し、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)はこれを誅殺しようとした(注:『愚管抄』『尊卑分脈』による。『東鑑』には、頼氏(よりうじ)が法皇の意を受けて頼茂もあわせて討ったとある)。頼茂は大内守護として昭陽舎(しょうようしゃ)に居を構えていたが、召し出されても出頭せず、朝廷は兵を遣わしてこれを討たせた。頼茂は子の下野守(しもつけのかみ)頼氏、右近衛将監(うこんえのしょうげん)藤原近仲(ふじわらのちかなか)、右兵衛尉(うひょうえのじょう)源宗真(みなもとのむねざね)、前刑部丞(さきのぎょうぶのじょう)平頼国(たいらのよりくに)らとともに仁寿殿(じじゅうでん)に立てこもり、火を放って自害した。御殿の宝物の多くが灰燼に帰した(注:『東鑑』による。召し出されても出頭しなかったことは『愚管抄』『尊卑分脈』による)。広綱は兄仲綱の養子となった(注:『尊卑分脈』による)。頼朝の推挙により駿河守(するがのかみ)に任じられたが、国務にあずかることは許されなかった。広綱は願い出たが許されなかった。頼朝が右近衛大将に任じられた際にも、その儀仗の列に加わることを許されなかった。これを恨みに思い、出家して逐電し、上醍醐(かみだいご)に身を隠し、生涯世に出ることはなかった(注:『東鑑』による)。子孫は丹波(たんば)に住み(注:『多田系図』による)、太田氏(おおたし)と称した(注:『尊卑分脈』『多田系図』による)。国政は実は斎院次官(さいいんのじすけ)国平(くにひら)の子であったが、頼政の養子となり、山県三郎(やまがたのさぶろう)と称した。兼綱は実は頼政の弟頼行(よりゆき)の子であったが、頼政の養子となり、従五位下に叙せられ、左衛門尉に任じられて検非違使(けびいし)を務めた(注:『尊卑分脈』による)。宇治の戦いで頼政が敗走したとき、兼綱ただ一人がとどまって防ぎ戦い、放つ矢は一本も外れなかった。敵はこれに気圧されて誰も正面から向き合おうとしなかった。藤原忠綱がこれと組み打とうとしたが、逆に忠綱に射られ、額を射抜かれて死んだ(注:『源平盛衰記』による。『平家物語』も参照して取った。矢が一本も外れなかったことは『玉海』による)。

長谷部信連

長谷部信連(はせべののぶつら)は、右馬允(うまのじょう)為連(ためつら)の子である(注:『東鑑』による。右馬允の官職は長門本『平家物語』による)。人となりは胆力と勇気にあふれていた。わずか十六歳で(注:十六歳という年齢は八坂本『平家物語』による)滝口(たきぐち)の武者として宮中の警固にあたった。同僚の中に激しく人を殴りつける者があり、その者は屈強で誰も抑えることができなかったが、信連はたやすくこれを引き倒して外に連れ出したため、人々はその力の強さを称賛した。また、ある時強盗が常盤殿(ときわどの)に押し入って人を殺し財物を奪う事件があったが、宿直の警固の者たちは恐れて、すぐには追捕しようとしなかった。信連は自ら身を挺してこれを追い、立ちどころに四人を斬った。強盗の一人が反撃して信連の頬を傷つけたが、信連はついにこれを捕らえた(注:『源平盛衰記』による)。この功により左兵衛尉(さひょうえのじょう)に任じられた(注:『平家物語』による)。

後に以仁王に仕えた。治承四年、王が源頼政と謀って平氏を滅ぼそうとしたことが露見し、平清盛は検非違使源光長(みなもとのみつなが)らを遣わし、兵を率いて王の邸を包囲させた。頼政の子兼綱はこの包囲の兵の中におり、これを頼政に知らせた。頼政は急ぎ王に危難を告げ、園城寺へ逃れるよう勧めた。事があまりに急であったため、王は大いに驚き、信連を召して事の真相を告げ、対策を問うた。信連は言った、「これは容易に対処できることでございます。王はどうかご心配なさいませぬよう」。そこで奥の間に入って婦人の衣装と笠を取り、王にこれを着せて侍女に見せかけ、夜に紛れて宮を脱出させた(注:『源平盛衰記』による)。藤原宗信(ふじわらのむねのぶ)が傘を担ぎ、侍童の鶴丸(つるまる)が荷物を背負って随行した。信連はそこで女房たちを隠し、器物を取り片づけた(注:『平家物語』による)。王は蟬折(せみおれ)・小枝(こえだ)と名づけた二枚の宝笛を常に肌身離さず持っていたが、宮を出る際にこれを忘れてしまい、王はたいそう恋しく惜しんだ。信連は後からこれを探し出し、追いついて王に献じた。王は喜び、信連にも同行するよう命じた(注:八坂本『平家物語』による)。

信連は言った、「検非違使らがまさに宮を包囲しようとしているのに、警固の者が一人もおらず、下賎の者どもに王宮を踏みにじらせることになれば、臣は深くこれを恥じます。臣が王府に仕えていることは世の人々の知るところ、もし私が逃げれば、命を惜しんで逃亡したと言われましょう。どうか急ぎ宮に戻って警固いたします」。王は涙を拭って別れた。信連は宮に戻り、門を開いて敵を待ち構えた。夜明け、検非違使が王の邸を包囲した。兼綱は門の外にとどまり、光長は馬で門内に駆け入り、大声で叫んだ、「王の謀反が発覚した。検非違使が宣旨を奉じて迎えに参った。王よ、速やかに出てこられよ」。信連は声に応じて言った、「お前たちこそ無礼者だ。王はちょうど忍びで他所へお出かけになっている」。検非違使はそこで役人たちに宮の中を捜索させようとした。信連は怒って叱りつけた、「お前たちこそ無礼な奴らだ。馬に乗ったまま王の門に入り、その上、下賎の者どもを宮中に乱入させるとは、なんと不敬なことか。長(ちょう)兵衛尉信連はここにいるぞ、来て共に決着をつけようではないか」。刀を抜いて待ち構えると、役人・兵卒五十余人が騒ぎ立てながら宮に押し入ってきた。信連は縦横に奮戦し、誰一人としてこれに敵う者はいなかった(注:『源平盛衰記』による。異本の『平家物語』も参照して取った)。

光長の兵の中に七郎安清(しちろうやすきよ)という、十人力を兼ね備えた者がいて、進み出て信連に立ち向かった。信連は詰め寄って組み打ちとなり、安清を脇に抱えて光長に向かって叫んだ、「お前が養っていた壮士を捕らえたぞ。生かしておきたければ、来て助けるがよい」。光長は恐れて進むことができなかった。信連は安清を引き倒して地に投げつけたところ、安清は気を失い、やがて息を吹き返した(注:長門本『平家物語』による)。その他にも死傷者は十余人にのぼった。信連は刀を折られ、素手で敵に立ち向かおうとした。役人・兵卒たちはその勇猛さを恐れて近寄ろうとせず、矢を放って射たところ、左の腿に命中した。一人の者が眉尖刀を構えて進み出たので、信連はこれを奪おうとしたが、右の腿を突かれて傷を負った。そこで役人・兵卒たちは寄り集まって信連を捕らえた。信連は縛られながら大声で罵った、「お前たち田舎者は、まるで物事の道理をわきまえておらぬ。この身は靭負尉(ゆげいのじょう)であるぞ、なぜ縄目にかける必要があるのか。私が逃げ隠れするような者だと思うのか」。こうして信連は六波羅へ送られた。

平宗盛は長押(なげし)に腰かけ、信連を責めて言った、「役人が宣旨を奉じて王を捕らえようとしたのに、お前はなぜこれを殺傷したのか。拷問にかけて、王の密謀の次第を厳しく問いただし、事の実情を明らかにした上で、速やかに斬首とすべきである」。信連は答えた、「私はもとより王の行方を存じません。たとえ知っていたとしても申し上げるべきではございませんのに、まして知らぬのですから申しようがございません。近頃諸国の凶悪な盗賊がひそかに京に入り込み、公家や武家の邸を狙って、宣旨と偽って強盗をはたらいていると聞いております。私は常に宮中を巡回して警固しております。今朝、検非違使らが甲冑をまとい武器を手にして王の邸を襲って参りました。私はこれを、姦人が命を偽って強盗をはたらいているものと思い、それゆえ力を尽くして防ぎ戦ったまでのことでございます。もし仮に凶賊が宣旨を偽って公家の邸に押し入り、幕下の武士たちがその宣旨と称する言葉を恐れて、恣にその略奪を許すようなことがあれば、あなた様はこれをどうお考えになりましょうか」。その言葉と気迫は壮烈で、少しもひるむ様子がなかった。傍らに控えていた諸将佐は皆感嘆し、その気概を異とした(注:『源平盛衰記』による。『平家物語』も参照して取った)。

清盛はその勇猛さを立派なものと認め、死罪を免じて伯耆(ほうき)の日野(ひの)へ流した(注:『平家物語』による)。平氏が滅んだ後、信連は鎌倉に赴き、源頼朝はその功を認めて家臣として召し抱え、安芸(あき)検非違使所に任じ、能登(のと)の大屋荘(おおやのしょう)を与えた。建保六年、大屋荘の河原田(かわらだ)で世を去った(注:『東鑑』による。『源平盛衰記』には、宗盛が信連を左獄(さごく)に下したとある。平氏が滅んだ後、伯耆に至り金持(かもち)に住んだという。文治二年、頼朝が関東へ召し、勇士の血筋を後世に残そうとして、由利小藤太(ゆりのことうだ)の寡婦を娶らせたともある。これは本文の内容と異なるので、参考として付け加えておく)。子孫は代々能登に住み、長(ちょう)を氏とした。

源行家

源行家(みなもとのゆきいえ)は、初め義盛(よしもり)と名乗った(注:『東鑑』『源平盛衰記』『尊卑分脈』による。『玉海』では義盛を義俊(よしとし)とする)。左衛門大尉(さえもんのだいじょう)為義(ためよし)の第十子である(注:『尊卑分脈』による)。保元・平治の乱で父や兄をはじめ一族の多くが平氏に滅ぼされたため、行家は熊野(くまの)にひそかに身を隠し、新宮(しんぐう)に寄寓し、そのため新宮十郎(しんぐうじゅうろう)と称された。

治承四年、以仁王が諸国に令旨を頒布し、平氏の罪を声高に訴えてこれを討とうとし、その使者にふさわしい者を探していた。ちょうど行家が京に来ていたので、源頼政がこれを推薦した。王はすぐに行家を召してその趣旨を伝えた。行家は王に申し上げた、「臣は幼くして家の災難に遭い、熊野に身を潜めておりました。日夜歯がみをして、仇を討ち恥をすすぎたいと願っておりました。今、この使命を賜ること、これほどの光栄はございません。臣は一族や旧知の者たちを召集し、それぞれの地で義兵を挙げさせ、大王の積年の御憤りを晴らしたいと存じます」。王は喜び、行家に令旨を授けた。頼政は言った、「義盛はすでに令旨の使者となりましたが、どうか一官をお与えになり、その重みを四方に示していただきたい」。王はすぐに行家を蔵人に任じ、今の名(行家)に改めさせた。行家は修験者を装い、近江(おうみ)・美濃(みの)・尾張(おわり)・信濃(しなの)・甲斐(かい)・常陸(ひたち)・伊豆(いず)などの国々を巡って説いて回った。諸国の源氏はみな奮い立ち、これに応じない者はなかった。

はじめ行家が東国へ赴くにあたり、新宮の僧兵たちに書を送って告げた、「清盛は道に悖り逆らい、法皇を幽閉し、その罪悪は天を衝くほどである。高倉宮(たかくらのみや)は憤懣に堪えず、諸国に兵を徴発して、大義に基づいて逆賊を討とうとしておられる。行家は関東を巡り、一族や旧知の者たちを説き勧めている。近く挙兵する運びであるから、どうか諸君は私が戻るのを待って、ともに大義を助けてほしい」。僧兵たちがひそかに相談し合ったため、事はついに漏れてしまい、本宮の僧兵たちにも気づかれてしまった(注:『源平盛衰記』による)。五月、王と頼政は宇治で敗死した。八月、前右兵衛佐源頼朝は令旨に応じて伊豆で挙兵し、関東の諸国はその勢いを見て次々と帰服した。京師は震え動揺し、平氏は大挙して兵を発しこれを討とうとした(注:『玉海』『東鑑』『源平盛衰記』『平家物語』による)。

養和元年正月、行家は数千騎を率いて尾張に入り、美濃・近江を平定しようとした。二月、美濃の板倉(いたくら)に進出して拠ったが、平氏と戦って敗れ、退いて中原(なかはら)を守った。頼朝は弟の僧義円(ぎえん)を遣わして兵を率いてこれを援護させたので、軍勢はやや盛り返した(注:『源平盛衰記』による)。三月、平重衡(たいらのしげひら)・維盛(これもり)らと洲股川(すのまたがわ)を挟んで対陣した(注:『東鑑』『源平盛衰記』による)。兵はわずか千余りで、日を定めて会戦することとなった。その夜、義円は自ら先陣を切って進もうとし、行家もまた義円が功を貪って自分より先んじるのではないかと考え、人を遣わして様子をうかがわせたところ、案の定その姿はなかった。そこで行家は精鋭の騎兵二百を選び、夜に乗じて川を渡った(注:『源平盛衰記』による)。

平氏の軍はあらかじめこれに備えており、兵を放って迎え撃った(注:『東鑑』による)。行家は陣を冒して身を挺して戦ったが、その子行頼(ゆきより)は捕らえられ、義円は戦死した。行家はかろうじて一人で脱出した(注:行頼が捕らえられたことは『東鑑』による。『源平盛衰記』には、行家の子悪禅師(あくぜんじ)という者が、尾張源氏の泉太郎重満(いずみのたろうしげみつ)ら七百余人とともに筏を組み、夜に上流から川を渡ったが、平氏はこれを察知して包囲攻撃し、斬られ捕らわれ溺死した者がほとんどで、悪禅師と重満はともに捕虜となったとある。八坂本『平家物語』では悪禅師の下に「円清(えんせい)」の二字が付されている。伊藤本では「円西(えんせい)」とする。『吉記』を調べると、同じく洲股の勝報を載せているが、悪禅師という者は蔵人の弟とあるだけで名は記されていない。系図にはこれが見当たらず、考証のしようがないため採用しない。また、頼朝の弟に悪禅師全成(ぜんじょう)という者がいるが、これと同一人物ではないかとも思われる。諸説はおそらく伝聞の誤りであろう)。行家は残りの軍勢をまとめ、退いて小熊(おぐま)に屯した。平氏は七千の軍を五手に分け、代わる代わる進んで攻めてきた。行家はそのうち四隊を射て退けたが、重衡・維盛が交代で進撃してきた。四部隊がまた合流すると、行家は多勢に無勢で、戦いながら退却した。三河(みかわ)の保矢矯川(やはぎがわ)まで至ると、額田(ぬかた)の兵士たちが郡を挙げて味方に加わったため、軍勢はまた盛り返した。

敵軍が追いついてくると、行家は老兵三人に、京へ上る人夫を装わせ、食糧を担ぎ飼葉桶を背負って平氏の陣営の下を通らせた。敵の兵が問うた、「お前たちは敗走する兵を見たか」。老兵は答えた、「四、五百ほどの兵が東へ逃げていくのを見ました」。また問うた、「東国の兵も来るのか」。答えて言った、「前軍はすでに菊川(きくがわ)に至り、後軍は橋本(はしもと)・見付(みつけ)を埋め尽くしております。野を覆い山を覆い、その数は幾千万とも知れません」。平氏はこれを聞いて恐れおののき、兵を引いて京師へ戻った。行家は使者を馳せさせて美濃・尾張に告げさせた、「平氏は自ら崩れて逃走した。道すがら一矢も放たぬ者があれば、源氏の仇敵とみなす」。国々の郡はこの後の禍を恐れ、争って平氏を追撃し矢を射かけた。平氏の軍は狼狽して逃げ帰った(注:『源平盛衰記』による。『平家物語』には、美濃の目代(もくだい)からの早馬の報告に「東国の兵はすでに尾張に至り、道路が塞がれております。急ぎ兵を発してこれを討つべきです」とあり、そこで知盛・清経(きよつね)らが騎兵三万を率いてこれを討った。行家・義円は六千余騎を率いて尾張川(おわりがわ)に陣し、平氏と対峙して、夜に乗じて川を渡って襲いかかった。平氏はこれを包囲して撃退した。義円は戦死し、行家は大敗して三河へ逃げた。平氏はこれを追撃した。折しも知盛が病にかかったため、諸軍はひそかに京師へ引き返した、とある。『玉海』『東鑑』を調べると、前年十二月に知盛は近江源氏を討ち、この年二月に発病して帰京したとある。これによれば、諸本が行家と尾張川で対峙したというのは誤りであるから、採用しない)。

行家は京師へ進撃しようとし、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に告文を奉って平氏の滅亡を祈った(注:『東鑑』『源平盛衰記』による)。しかし神官たちはこれを拒んで受け取らなかった。また延暦寺に書状を送って援軍を求めたが、返答はなかった(注:『東鑑』による)。そこで行家は鎌倉に赴き、松田館(まつだやかた)に滞在して頼朝に願い出た、「私は平氏と大小八度の戦いを交え、多くの兵を失った。どうか小国一つを賜り、戦死者たちを弔いたい」。頼朝は答えた、「兵を挙げて以来、幸い義兵に集う者たちのおかげで、ついに十か国を領するに至った。あの義仲(よしなか)もまた自ら五か国を領している。公も自ら威武を奮って、国を治める算段をなさるべきである。この頼朝がどうして私に国邑(こくゆう)を与えることができようか」(注:『源平盛衰記』長門本『平家物語』による。国の数は『源平盛衰記』による)。行家は失望し、ついに頼朝との間に不和が生じ、信濃(しなの)へ赴いて義仲を頼った。頼朝は行家が義仲とともに自分を討とうと謀っていると伝え聞き、兵を率いてこれを討とうとした。義仲は兵を交えるべきではないと考え、越後(えちご)に退いてこれを避けた。頼朝は武蔵(むさし)に退いて屯し、使者を遣わして義仲を責め、行家の引き渡しを求めた。義仲は行家を引き渡すに忍びず、その子義高(よしたか)を人質として差し出して和議を結んだ。

寿永二年四月、平氏は大挙して義仲を攻めた。義仲は将士を遣わして迎え撃たせたが、たびたび敗れた。五月、平氏は軍を二手に分け、礪波山(となみやま)・志雄山(しおやま)の二つの山に進んで陣を構えた。義仲は行家に別に一万余騎を率いさせて志雄へ向かわせたが、平盛俊(たいらのもりとし)と戦って不利であった。義仲がこれを救援に赴くと、盛俊は敗れた(注:『源平盛衰記』による)。これ以後、義仲はたびたび勝利を収めた。七月、進んで延暦寺に拠った。義仲は勢多(せた)から、行家は宇治から、道を分かれて京師に入った。平氏は西海(さいかい)へ逃れ、行家は義仲とともに戎装(じゅうそう)のまま法皇に蓮華王院(れんげおういん)で拝謁した(注:『源平盛衰記』による。『玉海』『吉記』『平家物語』も参照して取った)。法皇は行家に法住寺(ほうじゅうじ)の南殿を邸として賜った(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。ほどなく朝廷は諸将に命じて京の各所を分担して守らせ、七条(しちじょう)の南の河原から東は大和(やまと)の境に至るまでを行家が守った(注:『吉記』による)。功により従五位下に叙せられ(注:『玉海』『一代要記』による)、備後守(びんごのかみ)に任じられたが、これは自分の望みではないとして拝命を承知しなかった(注:『玉海』『源平盛衰記』『平家物語』による)。そこで備前守(びぜんのかみ)に改められ(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)、院への昇殿を許された(注:『源平盛衰記』による)。

しだいに寵遇されるようになり、宮中に入って博打の遊びのお相手をするまでになった。当時、京師には強盗や略奪が横行しており、法皇は北国の兵が新たに入京し、まだ十分な兵糧が与えられていないためであろうと考え、公卿たちの議に基づいて(注:『玉海』による)、没収した平氏の所領を義仲・行家に頒け与えた。しかしそれでもなお略奪はやまなかった(注:『玉海』『源平盛衰記』による)。法皇は頼朝を召したが、頼朝は都合により参上できない旨を奏上し、代わりに弟の範頼(のりより)・義経に貢賦の監督をさせて京師へ赴かせた。義仲は疑い恐れ、これを迎え撃とうとし、また行家らと謀って法皇を陣中に奉じようとした。行家はこの謀議に加わらず、これを法皇に申し上げた。法皇は人を遣わして義仲を諌めさせた。義仲はこれを行家が漏らしたのだと思い、これより両者の間に確執が生じた(注:『玉海』による。範頼のことは『源平盛衰記』による)。九月、行家は奏上して言った、「平氏はしきりに沿海を侵し、貢物を略奪し、備前(びぜん)に攻め入っております。配下の兵は少なく弱く、これを防ぐ力がございません。臣がそちらへ赴いて討ちたく存じます」。法皇はこれを許した。しかし義仲がこれを妨げて中止させた(注:『源平盛衰記』による)。

やがて平氏は山陽道(さんようどう)を下って進み、その兵勢はますます盛んになった(注:『玉海』『源平盛衰記』による)。義仲の兵は平氏と幾度も交戦したが勝てず、義仲は自ら出向いてこれを討とうとした(注:『源平盛衰記』による)。しかし範頼・義経が入京すると聞き、途中で引き返してこれに備えた(注:『玉海』『源平盛衰記』による)。十一月、行家は騎兵三千を率いて(注:『吉記』長門本『平家物語』による。『玉海』では二百七十余、『源平盛衰記』では一千とする。本書には三百騎を率いて出発したとあるが、『玉海』の記述もまた事実に近いのであろう)、丹波(たんば)を経て播磨(はりま)へ赴いた。平教盛(たいらののりもり)らは室山(むろやま)に兵を集めてこれを迎え撃った。行家は大敗し、和泉(いずみ)へ逃げた。この頃、義仲の横暴はますますひどくなり、人々は皆これに苦しみ嫌気がさしていた。

寿永三年、行家はついに河内(かわち)へ赴き、石川城(いしかわじょう、注:八坂本・伊藤本『平家物語』はいずれも長野城とするが、今は『源平盛衰記』および南都本『平家物語』に従う)に拠って義仲に背いた。義仲は将の樋口兼光(ひぐちのかねみつ)を遣わしてこれを討たせた。行家は城を捨て、紀伊(きい)の名草(なぐさ、注:『源平盛衰記』では名草を高野(こうや)とする)へ逃げた。兼光がこれを追ったが、折しも義仲敗死の報を聞き、引き返した(注:『源平盛衰記』『平家物語』による)。

行家は西海と京師の間を往来し、頼朝の威光を借りては、行く先々で略奪を行った。これより先、行家は出兵のたびにたびたび軍規を乱していたため、頼朝から推挙されることはなかった。西海がすでに平定されるに及んで、兵権はもっぱら頼朝に帰し、行家はついに頼朝と交わりを結ぶことはなかった。頼朝はますますこれを憎んだ。義経もまた頼朝に忌まれ、鬱々として志を得ずにいた。行家は義経を頼り、ひそかに京師に身を寄せた。文治五年九月、頼朝は梶原景季(かじわらのかげすえ)を京師に遣わし、義経に行家を討つよう命じて、その動静をうかがわせた(注:『東鑑』による)。景季父子はもとより義経と不仲であったため、義経が謀反を企てるに及んで、これに乗じて讒言を構えた。頼朝は土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)に命じて義経を討たせようとしたが、行家がこれを救った。義経は昌俊を捕らえて斬った。行家は関東に伺候する者を捕らえ、東洞院亭(ひがしのとういんてい)を奪ってそこに移り住んだ。まもなく義経の子とともに頼朝討伐の宣旨を求めた。法皇はやむを得ずこれを許し、義経を九国(きゅうこく、九州)の地頭、行家を四国の地頭とした。頼朝はこれに怒り、自ら兵を率いて討とうとし、黄瀬川(きせがわ)まで進んだ(注:『東鑑』による。『玉海』『源平盛衰記』『平家物語』も参照して取った)。

義経・行家はこれを避けて西海へ向かった。十一月、摂津(せっつ)の大物浦(だいもつのうら)から海を渡ろうとして、河尻(かわじり)まで進んだ。その地の住人多田行綱(ただのゆきつな)らが遮って攻撃してきたが、義経・行家はこれを防ぎ破った。船を出す段になって、突如大風が吹き荒れ、船が壊れ損なわれた(注:『玉海』『東鑑』『源平盛衰記』による)。行家は義経とはぐれ、和泉(いずみ)に漂着した(注:『玉海』八坂本『平家物語』による)。法皇は再び頼朝の求めに応じて畿内に触れを出し、義経の捜索を命じた。この時、行家は和泉の在庁官人日向権守清実(ひゅうがのごんのかみきよざね、注:姓は不明)の家に潜んでいたが、平時定(たいらのときさだ)が常陸房昌明(ひたちぼうしょうみょう)を率いて不意を襲い、行家は捕らえられ、赤井河原(あかいがわら)で斬られ、その首は鎌倉へ送られた(注:『東鑑』による)。

注:諸本の『平家物語』には次のようにある。平時定は行家が和泉の八木郷(やぎごう)に逃げ隠れていると聞き、これを襲おうとした。常陸房昌明が募集に応じて向かった。行家は昌明が突入してくるのを見て、左右に刀を振るってこれを防いだ。やがて昌明と組み打ちとなったが、行家は力が強く、昌明は抑えることができなかった。時定の従士宗安(むねやす)が石を投げて行家の額を打つと、行家は笑って言った、「敵を討つには刃を使うべきであろう。なぜ礫(つぶて)などを用いるのか」。兵士たちが続いて駆けつけ、ついに捕らえられた。行家は座らせられ、昌明に自分の太刀を検分させた。昌明の太刀には四十余か所の刃こぼれがあったが、行家の両刀はついに無傷であった。昌明は言った、「私は山中でしばしば悪僧と戦ってきたが、あなたほどの精妙な技量の持ち主にはまだ出会ったことがない。あなたは私の腕をどう見られるか」。行家は思案して言った、「すでにお前に捕らえられた身、今さら何を言うことがあろうか」。こうして赤井河原で斬られ、その首は鎌倉へ送られた。頼朝は昌明に恩賞を与えず、逆に流罪に処した。世の人々はこれを怪しんだが、後に召し返して所領を賜り、こう言った、「お前が身分の低い者でありながら優れた武将を討ち取ったことは、受け取れば不吉なことになりかねぬと恐れたのだ。それゆえしばらく流罪として咎めを塞いだまでのことである」。『平家物語』の諸本を見比べると、その文にはそれぞれ異同があるので、今はその大意を摘記してここに付け加えておく。

行家の子に光家(みついえ、注:本書では家光(いえみつ)とするが、今は『東鑑』に従った)、行頼(ゆきより)がいる(注:『尊卑分脈』による)。光家は太郎(たろう)と称し、蔵人に任じられ、さらに左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられて検非違使を務め、父とともに殺害された(注:『源平盛衰記』によれば、樋口兼光が石川城で行家を攻めた際、蔵人判官家光を斬ったとある。また『玉海』文治元年十一月条によれば、行家が義経とともに大物浦に船を泊めた際、大風が吹き荒れ、行家は和泉に漂着し、追っ手が家光を捕らえてその首をさらしたとある。光家がすでに蔵人判官であったことから考えると、行家の部下にさらに別の蔵人判官がいたとは考えにくい。「家光」「光家」の字はおそらく前後が入れ替わっただけで、実は同一人物であろう。しかしこれ以上は考証のしようがない)。行頼は二郎(じろう)と称した。洲股川の戦いで軍が敗れ、捕らえられた(注:『東鑑』による。『玉海』文治元年の記には、行家の子慶俊律師(けいしゅんりっし)が兵を率いて近江へ向かい、法皇自らが甲冑を賜ったとある。しかし他の諸書にはこの記載が見えない。『尊卑分脈』では、行家の子で僧となった者には西乗(さいじょう)・行寛(ぎょうかん)の二人がいるとするが、慶俊の名はない。ひとまずここに付記して参考としておく)。