卷之一百五十四 列傳第八十一

大庭景親、大庭景久、伊東祐親、伊東祐清ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字
この巻の目次14
  1. 大庭景親
  2. 大庭景久
  3. 伊東祐親
  4. 伊東祐清
  5. 齋藤實盛
  6. 足利忠綱
  7. 平家貞
  8. 平貞能
  9. 平盛俊
  10. 平盛嗣
  11. 藤原忠清
  12. 藤原景清
  13. 藤原景家
  14. 藤原景高

大庭景親

大庭景親(おおばのかげちか)は、姓を平氏といい、三郎と称した相模国(さがみのくに)の武士である。平太景能(たいらのたけよし)の弟にあたる。(注:平氏系図・異本保元物語による。相模の人であることは東鑑に基づく。諸系図には景義の子とするものもあるが、これは誤りである。)

保元の乱では源義朝(みなもとのよしとも)に従って白河殿を攻めた。(注:保元物語による。)このとき罪を得て斬首されるところであったが、平氏の取りなしによって助命された。(注:源平盛衰記による。)

源頼政(みなもとのよりまさ)が挙兵すると、景親は平氏方についてこれを討ちに向かった。(注:東鑑による。)

源頼朝(みなもとのよりとも)が石橋山に陣を構えたとき、景親は弟の股野景久(またのかげひさ)とともに平氏方につき、(注:源平盛衰記による。)武蔵・相模の諸将とともに兵三千を率いて攻め寄せた。(注:東鑑・源平盛衰記による。)

稲毛重成(いなげしげなり)は景親に、「日はすでに暮れた。敵味方の見分けがつきにくい。明日を待って戦うべきだ」と言った。(注:源平盛衰記による。)ところがちょうど三浦義澄(みうらよしずみ)らが丸子川(まりこがわ)に到着し、景親や諸将の屋敷に火を放った。景親はこれを望み見て言った。「これは三浦党の仕業に違いない。もし明日まで延ばせば、彼らは必ず頼朝方に加わるだろう。そうなれば我らは前後から敵を受け、支えきれなくなる。石橋の要害は道が狭く、大軍を動かすには向かない。今は敵兵が少ないうちに、まずこれを攻め落とし、明日改めて三浦党と戦えば、双方に抜かりはない」。(注:東鑑による。源平盛衰記も参照した。)そこで進撃した。

夜明けにかけて頼朝は敗れて杉山へ逃げ、景親はその勝ちに乗じて追撃した。頼朝は山谷に身を潜め、景親はその行方をつかめなかった。景親は関所を固めて険しい道を封鎖し、道を断った。そして騎馬の使者を送って平清盛(たいらのきよもり)に戦況を報告した。清盛は平維盛(たいらのこれもり)・平忠度(たいらのただのり)らに命じ、兵を率いて頼朝を討たせた。

やがて頼朝の勢いは大いに盛んになり、関東の武士たちは次々とこれに従うようになった。景親は兵千を率いて(注:盛衰記には三千とある。)平氏の軍を迎え、(注:東鑑・源平盛衰記による。)藍沢宿(あいざわのしゅく)まで進んだ。(注:源平盛衰記による。)しかし頼朝の兵二十万が足柄山を越え、甲斐源氏の二万余りも駿河に陣を敷いていると聞き、進退窮まって策の施しようがなく、河村山(かわむらやま)へ逃れた。(注:盛衰記には星山とある。)数日後に降伏して出てきたため、頼朝は上総介平広常(かずさのすけたいらのひろつね)のもとに拘束させ、(注:東鑑・源平盛衰記による。)その年のうちに固瀬川(かたせがわ)のほとりで斬った。(注:東鑑による。)その子もまた父とともに斬られた。(注:源平盛衰記による。)弟に景久がいる。

大庭景久

大庭景久(おおばのかげひさ)は股野五郎(またのごろう)と称した。兄景親とともに石橋山で頼朝を攻め、佐那田義忠(さなだよしただ)と組み合ってこれを討ち取った。(注:東鑑による。源平盛衰記も参照した。)

頼朝が敗走したのち、景久は武田氏・一条氏らの一族を討とうとし、駿河目代(するがのもくだい)橘遠茂(たちばなのとおもち)の兵を督励して甲斐へ向かい、富士山北麓に陣を進めた。ところが夜中に鼠の群れが現れ、兵士たちの弓弦をことごとく嚙み切ってしまった。景久はどうしてよいか分からず、志太山(しだやま)へ移った。そこへ甲斐から安田義定(やすだよしさだ)・工藤景光(くどうかげみつ)らが来襲し、これと戦った。景久の軍は矢を射ることもできず、潰走した。(注:東鑑による。)

景親が斬られると、景久は自分も逃れられないと悟り、ひそかに京へ上り、(注:東鑑・源平盛衰記による。)ついに平維盛に従って、北陸で源義仲(みなもとのよしなか)を討った。安宅(あたか)の戦いで敗れ、義仲軍に成合(なりあい)まで追撃されると、景久は縦横に奮戦して十三の首級を挙げたが、深手を負ってついに自害した。(注:源平盛衰記による。八坂本平家物語には、景久は礪波山(となみやま)で戦死したとある。長門本には、根井幸親(ねいゆきちか)に射殺されたとある。)

これより先、景久は斎藤実盛(さいとうさねもり)らとともに京にいたが、実盛は自らの死を覚悟し、仲間たちの心を試そうとして景久らに言った。「今や源氏の勢いは日に日に盛んになり、平氏はたびたび敗れている。いっそ木曾殿(義仲)に降ってはどうか」。景久は答えた。「我らはもとより東国に名を知られた者だ。暑いから近づき寒いから離れるような真似は、私にはとてもできぬ。今日のことは、もう心を決めている」。そして戦死した。(注:平家物語による。)

伊東祐親

伊東祐親(いとうすけちか)は(注:祐親の名は東鑑による。本書では祐近とする。)、姓を藤原氏といい、工藤大夫家次(くどうのたいふいえつぐ)の孫にあたる。父は祐家(すけいえ)という。(注:尊卑分脈による。)

家次は年老いてから寡婦を娶ったが、その女には先夫との間に生まれた娘が一人あり、家次はこの娘とも通じて祐次(すけつぐ)をもうけた。祐家が早くに世を去ったため、家次は祐次を跡継ぎに立て、伊東荘(いとうのしょう)を与えた。そして祐親には兄として祐次に仕えさせ、河津荘(かわづのしょう)を与えたので、祐親は河津二郎(かわづのじろう)と称した。

祐親は恨みを抱いて言った。「私こそが正統の嫡孫であり、当然家を継ぐべきなのに、かえって庶子を跡継ぎとするとは、まったく道理に合わない」。家次が死ぬと、ついに役所に訴え出たが、勝訴できず、祐親はますます怒りを募らせた。

やがて祐次が病を得て死にかけたとき、祐親は見舞いに行き、うわべだけ悲しみに堪えないふりをした。祐次はこれを真に受け、我が子祐経(すけつね)を託して言った。「金石(こんじゃく)が十五歳になったら、お前が烏帽子親となって元服させ、お前の娘を妻にあててやってほしい」。祐親はこれを承諾し、祐次は喜びのうちに息を引き取った。金石とは祐経の幼名である。祐経は成長すると伊東荘を領した。

祐親は祐経の妻となる自分の娘を連れて京へ上り、平重盛(たいらのしげもり)に拝謁して、祐経を京の宿衛(しゅくえい)として留め置き、自身は伊豆へ帰ると、祐経の所領をことごとく奪い取ってしまった。祐経が人を遣わして年貢を取り立てさせようとしても、得ることができなかった。祐経はこれを訴え出た。祐親はひそかに担当の役人に賄賂を贈り、役人は所領を二分してそれぞれに半分ずつ領させるという裁定を下した。祐経は憤慨し、ひそかに京を抜け出して祐親を討とうと図った。祐親はこれを察知して京の当局に訴え出て、祐経の妻を奪い、あらためて土肥遠平(どいとおひら)に嫁がせてしまった。祐経はますます恥辱と憤りを募らせ、人目を忍んで伊豆へ帰り、祐親を殺そうと謀った。

当時、源頼朝は罪により伊豆に流されていた。祐親とその子祐泰(すけやす)(注:祐泰の名は東鑑による。尊卑分脈には祐道とある。)は、他の豪族たちとともに頼朝を迎え、富士野で狩りを行った。祐経は家人の大見小藤太(おおみのことうだ)・八幡三郎(はちまんさぶろう)に祐親父子を討つよう命じ、二人は赤沢山(あかざわやま)に伏せて機会をうかがった。祐泰が先に通りかかると、八幡は背後から矢を放ってこれに命中させた。祐泰は振り返って矢をつがえようとしたが、引き絞ることができず、気を失って馬から落ちた。祐親が続いて到着すると、大見は矢を放って祐親の指を傷つけた。祐親はわざと重傷を負ったふりをして馬の陰に伏し、「賊がいるぞ」と叫んだ。人々はみな駆けつけて集まった。大見と八幡はその隙に逃げ去った。

祐親は祐泰のもとへ行き、刺さった矢を抜いて声を荒げて言った。「お前を射たのは誰だ。一矢を受けたと叫びながら、何も言わずに死ぬつもりか」。祐泰は喉の奥から声を絞り出して言った。「祐経には積年の恨みがあります。先ほど大見と八幡の姿を見て、怪しいとは思っていました。今、祐経は将軍家(頼朝)の御眷顧を受けている身、あなた様にとって最後まで不利にならぬとも限りません」。言い終えると息絶えた。祐親は悲しみと怒りに駆られ、次男の祐清(すけきよ)を遣わして大見と八幡を討たせた。

そもそも頼朝が伊東にいたころ、祐親の娘と通じて一子をもうけていた。当時祐親は京にあり、その妻がひそかにこの子を育てていた。祐親は帰宅してこれを知って憎み、また平氏に罪を問われることを恐れて、ひそかにその子を殺し、あわせて頼朝をも害そうと図った。祐清がこれを頼朝に告げたため、頼朝はその場を去って北条氏のもとへ身を寄せた。(注:曾我物語による。本書が記す祐親の一族については、尊卑分脈などの記載とかなり異同があるが、ここではすべてを注記しない。)

治承年間、頼朝が挙兵して石橋山で敗れ、土肥へ逃れた。祐親は兵三百を率いてこれを追ったが追いつけず、土肥の民家を焼き払って引き揚げた。(注:源平盛衰記による。)

やがて頼朝の兵威は日に日に盛んになり、関東はことごとくこれに従った。祐親は勢い窮まり、伊豆の鯉名(こいな)から船で駿河へ渡って平維盛と合流しようと図ったが、途中で天野遠景(あまのとおかげ)に捕えられた。当時頼朝は黄瀬川(きせがわ)に陣を敷いており、遠景は祐親を連れてこれに謁見させた。祐親の娘婿である三浦義澄は、祐親を自らの家に預けたいと願い出た。

寿永年間、頼朝の妻(北条政子)が懐妊したのを機に、祐親の赦免を願い出ると、頼朝はこれを許した。義澄は大いに喜び、祐親を幕府に赴かせて謝罪させようとした。祐親は嘆いて、「私にどんな顔をしてもう一度頼朝に会えるというのか」と言い、ついに自害した。(注:東鑑による。)

祐経は若いころ京で宿衛を務め、左衛門尉(さえもんのじょう)となり、工藤一臈(くどういちろう)と称された。(注:東鑑・曾我物語による。)和歌をたいそう好んだ。のちに頼朝に仕え、深く目をかけられた。常々、祐泰の二人の子である祐成(すけなり)・時致(ときむね)による復讐を恐れ、ひそかに頼朝に説いて言った。「伊東の孫にあたる河津の二子は、曾我祐信(そがのすけのぶ)に養われております。伊東(祐親)はあなた様の仇でしたから、あの二人が成長すれば、必ずその志を遂げようとするでしょう。危険ではありませんか」。頼朝は二子を捕らえて斬ろうとしたが、畠山重忠(はたけやましげただ)らが取りなして助命された。(注:曾我物語による。)

建久四年、祐経は頼朝に従って富士野で狩りを行った際、ついに祐成・時致に討たれた。(注:東鑑・曾我物語による。)子の祐時(すけとき)は(注:尊卑分脈による。)幼名を犬房丸(いぬぼうまる)といい、(注:工藤系図による。)同じく頼朝に仕えた。(注:東鑑・曾我物語による。)

伊東祐清

伊東祐清(いとうすけきよ)は伊東九郎(いとうくろう)と称した。(注:東鑑による。)

かつて頼朝が伊豆に流されていたとき、祐清はその只者ならぬ器量を見抜き、ひそかに厚く遇していた。父祐親が頼朝を殺そうとしたとき、祐清はその企てを頼朝に告げて難を避けさせた。頼朝はこれを深く恩義に感じた。

祐親が死んだのち、頼朝は祐清を召して言った。「お前の父の罪は、私はなお赦そうと思っている。お前は私に恩を施してくれた、必ず重く報いよう」。祐清は答えた。「父はすでに害されました。私にどんな顔であなた様にお仕えできましょうか。それに私があなた様をお守りしたのは、後の見返りを望んでのことではありません。どうか速やかに私を斬ってください。それがかなわぬなら、どうか私を放免していただきたい。私は必ず平氏方についてあなた様を射ることになりましょう」。頼朝は言った。「私はお前を殺すには忍びない。それに一人の去就など、勝敗の行方に何のかかわりがあろうか。お前は速やかに立ち去り、平氏につくがよい」。そして祐清を放免した。

祐清はそのまま京へ奔り、のちに平氏に従って、篠原(しのはら)で源義仲と戦って死んだ。(注:長門本平家物語による。)

齋藤實盛

斎藤実盛(さいとうさねもり)は別当(べっとう)と称し、鎮守府将軍藤原利仁(ふじわらのとしひと)の後裔である。代々越前(えちぜん)の名家であったが、実盛の代に武蔵国長井(むさしのくにながい)に移り住んだ。(注:源平盛衰記による。)

源為義(みなもとのためよし)・義朝父子に仕えた。白河殿の戦いおよび待賢門(たいけんもん)の戦いでは、義朝に従って功があった。(注:保元物語・平治物語による。)

義朝が東国へ落ち延びたとき、実盛らわずか三十余騎がこれに従った。延暦寺の僧兵たちがこれを察知し、三百人が道に出て待ち伏せた。実盛は馬を下りて兜を手に持ち、髪を振り乱して顔を覆い、偽ってこう言った。「我らは諸国で兵を募っていたが、左馬頭殿(義朝)が討ち死にされたので、生き延びてただ逃げ帰るところだ。我らを殺したとて何の功になろう。鎧や武具が入用なら、持っているものはすべて差し上げよう。ただ皆様は大勢おられるゆえ、行き渡らぬのではないか。ならば私が投げるものを、各自が拾って手に入れてはどうか」。そう言って兜を地面に投げると、僧兵たちは我先にとそれに群がった。一行はその混乱に乗じて駆け抜けた。僧兵たちは大いに怒り、兵を振るって追い迫った。実盛は大声で自らの名を名乗り、馬を返してこれに立ち向かった。僧兵たちはたじろいで退いた。さらに進んで龍華(りゅうげ)で横川(よかわ)の僧兵を打ち破った。勢多(せた)に至ると、義朝は実盛らに暇を告げ、それぞれ別の道を分かれて落ち延び、東国で落ち合うことを約した。(注:平治物語による。)

義朝の死後、実盛は平宗盛(たいらのむねもり)に仕え、平維盛に従って北陸で源義仲を討った。これより先、富士川の戦いのとき、実盛は「関東の武士は騎射に優れ精強で、とても敵しがたい」と盛んに言い立てたため、平氏の軍兵は大いに恐れ、ついに戦わずして敗走することとなった。この北陸出兵にあたり、実盛は宗盛に願い出て言った。「私は必ずこの一戦に命を懸け、以前の恥をすすぎたく存じます。ただ越前は私の故郷であり、親類縁者もみなそこにおります。昔から『錦を衣て郷に還る』と申します。どうか錦の直垂(ひたたれ)を賜り、死後の誉れとしとうございます」。宗盛は哀れんでこれを許した。

篠原で戦いに及ぶと、味方はみな敗走した。実盛はただ一人踏みとどまって奮戦し、手塚光盛(てづかみつもり)と組み合って、ついに討たれた。光盛はその首を義仲に見せて言った。「光盛がこの首を得ましたが、身なりは武士でありながら錦の直垂を着ており、大将ともなれば従う兵もなく単騎でした。姓名を尋ねましたが最後まで名乗らず、ただ『木曾殿にお見せせよ』とだけ申しました」。義仲はよくよく見て言った。「ああ、これは斎藤別当ではないか。私が幼いころに見たときはすでに白髪であったのに、今は鬢が黒いのはどうしたことか。樋口(ひぐち)は斎藤と旧知の間柄だ、あるいは見分けがつくかもしれぬ」。樋口兼光(ひぐちかねみつ)は一目見るなり涙を流して言った。「これは実盛です。かつて『私は年老いて力も衰えたが、そのために若い者たちから侮りを受けてばかりだ。いずれ戦に臨むときには、鬚や髪を染めて若武者たちに伍そう』と語っておりました。今まさにその言葉どおりにしたのです」。そこで首を洗うと、鬚も髪も真っ白であった。義仲はこれを見て涙を隠した。実盛、時に七十三歳。(注:源平盛衰記・平家物語による。)

二人の子があり、宗貞(むねさだ)は斎藤五(さいとうご)、宗光(むねみつ)は斎藤六(さいとうろく)と称した。(注:二子の名は長門本平家物語による。)ともに平維盛に仕えた。維盛が西国へ落ち延びる際、宗貞兄弟はお供を願い出たが、維盛はこれを聞き入れず言った。「そなたたちの父は北国へ出征する際、そなたたちをここに残していったが、まるで今日あることを予知していたかのようだ。私に代わって幼い六代(ろくだい)を守ってやってほしい」。宗貞兄弟はそこで思いとどまり、六代母子に付き従って菖蒲谷(しょうぶだに)に身を隠した。六代が捕らえられると、兄弟もこれに従い、素足のまま東国へと連行された。のちに赦されて京へ戻ると、二人とも出家し、その後の行方は分からない。(注:平家物語による。)

足利忠綱

足利忠綱(あしかがただつな)は又太郎(またたろう)と称した。鎮守府将軍藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫である。代々下野国足利荘(しもつけのくにあしかがのしょう)を領した。

父の俊綱(としつな)は、仁安年間に讒言に遭い所領を没収されたが、京に上って冤罪を訴え、平重盛の取りなしによって返還された。俊綱はこれを深く恩義に感じ、平氏のために力を尽くそうと考えた。

忠綱は武勇に優れ他に並ぶ者がなく、当時の人々は「忠綱には人に勝る点が三つある。歯の長さ一寸、声は十里に聞こえ、力は百人に匹敵する」と評した。

治承年間、以仁王(もちひとおう)が挙兵し、忠綱と小山朝政(おやまともまさ)に令旨(りょうじ)が下された。忠綱と朝政は同族でともに下野国の有力者であったため、常々互いに疑い合っていた。忠綱はもとより平氏と親しかったので、平知盛(たいらのとももり)に従って以仁王を宇治で攻めた。(注:東鑑による。)

橋がすでに切り落とされ、川の水がちょうど増水していたため、藤原忠清(ふじわらのただきよ)は攻めかかって敗れ、「兵を分けて岸を守り、淀の芋洗(いもあらい)へ回るか、さもなくば兵を引いて河内へ向かうべきだ」と議した。忠綱は進み出て知盛に言った。「もし道を迂回して時を移せば、僧兵が援軍に駆けつけ、王は奈良に入ってしまい、もはや制しきれなくなるでしょう。それにいま敵を前にして、溺れることなど気にかけている場合ではありません」。そして兵を励まして真っ直ぐに川を渡らせた。従う騎馬三百のうち、一人として溺れる者はなかった。諸軍もこれに続いて渡り、ついに大勝を得た。忠綱、時に十七歳。(注:平家物語・源平盛衰記による。)

京に戻ると、藤原忠清は「この戦勝の功は、実に忠綱によるものだ」としきりに言い立てた。清盛は忠綱を召してこれに褒賞を与えようとし、忠綱は上野六郡(こうずけろくぐん)の大介(だいすけ)に任じられ新田荘(にったのしょう)を賜りたいと願い出て、許された。ところが忠綱の一族の者たちが功を争って言い騒いだため、清盛はついにこれを実現しなかった。(注:源平盛衰記による。)

翌年、志太義広(しだよしひろ)が鎌倉を襲おうと図り、忠綱に援助を求めた。忠綱はこれを機に朝政を除こうと考え、ただちに義広に応じた。しかし義広が敗れると、竜奥(たつおく)に逃げ隠れた。数日のち、家臣の桐生某(きりゅうなにがし)が逃亡を勧めたため、忠綱はついに西国へ逃れ、その後の行方は分からない。

治承年間、俊綱は頼朝に攻められた。桐生は俊綱を殺して降伏を申し出た。頼朝はその不忠不義を憎んで桐生を誅し、その首を俊綱の首の傍らに晒した。俊綱の所領は没収されたが、妻子は赦され、宅地や財産は返された。(注:東鑑による。)

忠綱には忠広(ただひろ)という子があり、承久の乱で朝廷方に属して戦死した。(注:佐野系図による。)

平家貞

平家貞(たいらのいえさだ)は、鎮守府将軍貞盛(さだもり)の子孫で、進三郎大夫家房(しんのさぶろうたいふいえふさ)の子である。(注:平家物語・源平盛衰記による。盛衰記には家房を季房とする。諸本の系図では筑後守範季(ちくごのかみのりすえ)の子とする。)

祖父の木工頭貞光(もくのかみさだみつ)は右京大夫正盛(うきょうのだいぶまさもり)に仕え、その子孫は代々平氏に仕える家臣となった。家貞は筑後守(ちくごのかみ)に任じられた。

天承年間、廷臣たちが殿上で平忠盛(たいらのただもり)に恥辱を与えようとしたとき、家貞は子の家長(いえなが)とともに鎧を下に着込み太刀を帯びて、階段の下に控えていた。蔵人頭(くろうどのとう)源師俊(みなもとのもろとし)がこれを叱って退けようとしたが、家貞は立ち去ろうとせず、「私は忠盛様の従者です。良からぬことがあると聞いて参上し、万一に備えているのです」と言い、目を怒らせて見上げ、声を荒げて言い立てたので、人々は大いに気を挫かれ、あえて手出しできなかった。忠盛もまた機知をもって人々をあしらい、ついに難を免れた。(注:源平盛衰記による。)

清盛が熊野へ参詣する道中、藤原信頼(ふじわらののぶより)が乱を起こしたと聞き、引き返してこれを討とうとしたが、武具がなかった。家貞は携えていた長持五十棹から鎧兜や弓矢をいくらか取り出したので、人々はみなその備えの周到さに感服した。清盛は信頼の兵勢が盛んだと聞き、四国へ赴いて兵を徴募しようとしたが、重盛がこれを諫めて速やかに難に赴くよう勧め、家貞も強くこれに賛成したため、そのまま京へ引き返した。源義平(みなもとのよしひら)が六波羅を攻めたときには、家貞は子の貞能(さだよし)とともに先頭に立って進み、義平と戦った。(注:平治物語による。)

平治元年、日向太郎通良(ひゅうがたろうみちよし)が肥前で反乱を起こすと、清盛に討伐の勅命が下った。清盛は家貞を遣わしてこれを攻めさせた。通良は勇猛で、城は堅固でなかなか落ちなかったが、やがて官軍が続々と集まり、賊の勢いは次第に衰えた。年を越して城は陥落し、三百余りの首を斬り、通良とその子通秀(みちひで)・親能(ちかよし)ら七人の首を京へ送った。上皇は鳥羽殿に行幸してこれを御覧になった。家貞に従う騎馬二百余りは隊列を整えて進み、その姿は端正で、進退にも見るべきものがあった。上皇が人を遣わして姓名を尋ねさせると、家貞は馬上のまま応答し、見る者はみなこれを称賛した。(注:源平盛衰記による。)

子に家継(いえつぐ)・貞能・家実(いえざね)・家長がいる。(注:平氏系図による。家長については別本の平氏系図による。源平盛衰記では家継を貞能の弟とするが、玉海・山槐記・百錬抄はいずれも貞能の兄とし、系図とも合致するので、これに従う。長門本平家物語では家継を貞継とする。)家継については義烈伝に記す。家長は伊賀平内左衛門(いがへいないざえもん)と称し、平知盛に従って壇ノ浦で死んだ。(注:源平盛衰記・平家物語による。)

平貞能

平貞能(たいらのさだよし)は筑後・肥後などの国守を務めた。清盛は貞能を頼みとし腹心とした。(注:東鑑による。)

治承四年、菊池高直(きくちたかなお)らが挙兵して源頼朝に呼応した。貞能は肥後へ赴き、九州の兵を発して高直を攻めた。城兵は固く守りを固めていたので、貞能は急いで攻め落とすことはできないと見て、包囲を固めて守りを続け、要害を押さえて糧道を断った。高直は食糧が尽きて降伏し、原田(はらだ)・臼杵(うすき)・戸次(へつぎ)らも相次いで帰順したので、貞能は軍を整えて京へ凱旋した。貞能が鎮西(ちんぜい)にあったとき、役人を派遣して荘園や社寺に課税し、兵糧を徴発するなど取り立てが厳しく急であったため、筑紫の民はこれに苦しんだ。(注:東鑑・平家物語・源平盛衰記を参照した。)

当時、諸国は瓦解し戦乱が日に日に盛んになっていた。京では「摂津源氏の多田行綱(ただゆきつな)が兵を率いて川尻(かわじり)を塞いだ」という噂が流れた。貞能は騎兵五百を率いてこれを討ちに向かったが、噂が誤りだと聞いて引き返した。(注:騎兵五百の数は平家物語による。)

その帰路、宗盛が帝を奉じて西へ落ち延びるのに出会った。貞能は宗盛を出迎えて言った。「あなた様はいったいどこへ行こうというのですか。たとえ西海へ落ちたとして、はたして死を免れられるでしょうか。敵は我らが逃げると知れば、あちこちで待ち伏せするでしょう。それでは死んでもなお恥の上塗りです。どうせ死ぬなら、京で死ぬべきです。どうか速やかに引き返してください」。宗盛はこれを聞き入れなかった。貞能は悲しげに、「私は京を離れがたく、お供することはできません」と言い、京へ引き返した。そして重盛の墓に詣で、しばらく悲しみに沈んだのち、墓を掘り起こして遺骨を収め、(注:源平盛衰記による。)高野山に納めた。(注:平家物語による。)

その後また福原で宗盛に従った。宗盛が太宰府にあったとき、緒方惟能(おがたこれよし)が兵を起こして攻めてきた。宗盛は貞能に兵を率いてこれを防がせたが、うまくいかず退いた。(注:源平盛衰記・異本平家物語による。)

のちに逃亡して髪を剃り、(注:源平盛衰記・平家物語による。)名を以典(いてん)と改めた。(注:常陸国那珂郡小松寺旧記による。)宇都宮朝綱(うつのみやともつな)の取りなしにより、鎌倉での死罪を免れるよう願い出て、これが許された。(注:東鑑による。)肥後入道(ひごにゅうどう)と称した。(注:源平盛衰記による。玉海には、貞能は資盛(すけもり)とともに豊後の武士に捕らえられたとあるが、その顛末は詳らかでなく、今は考証のしようがない。小松寺旧記には、貞能は常陸国那珂郡に至り、重盛の遺骨を埋葬したのち、行方郡若菜村(なめがたぐんわかなむら)に庵を結んで隠棲し、そこで生涯を終えたという。)

平盛俊

平盛俊(たいらのもりとし)は清盛の一族の年長者(族父)である。(注:平氏系図による。)父は盛国(もりくに)といい、(注:平治物語・源平盛衰記・愚管抄による。)伊勢守(いせのかみ)を歴任したのち検非違使(けびいし)となり、(注:東鑑による。)主馬判官(しゅめのほうがん)と称された。(注:平治物語・長門本平家物語による。)

盛俊は体格が大きく力が強かった。越中守(えっちゅうのかみ)に任じられた。(注:源平盛衰記による。)平治の乱では重盛に従い、六波羅で源義平を防いだ。(注:平治物語による。)

養和の初め、兵を率いて洲股川(すのまたがわ)で源行家(みなもとのゆきいえ)を討って功があり、また子の盛綱(もりつな)・盛嗣(もりつぐ)および兵五千を率いて平維盛に従い、篠原で源義仲を討ち、安宅川(あたかがわ)で対陣した。盛俊は盛綱に川の浅瀬を測らせ、これを見つけると兵を督励して渡らせ、義仲の軍と交戦し、さらに行家とも志雄(しお)で戦った。義仲の援軍が来たため、退いた。(注:源平盛衰記による。)

宗盛が西へ落ち延びる際、盛俊は一族を挙げてこれに従い、一ノ谷城を守った。城が落ちて逃れようとしたが、盛俊は力の限り戦って死んだ。(注:平家物語・源平盛衰記による。)

盛国は壇ノ浦の敗戦で捕虜となり鎌倉へ送られ、食を断って死んだ。弟の盛久(もりひさ)は左兵衛尉(さひょうえのじょう)となり、洲股川の戦いでは平重衡(たいらのしげひら)に従って功があった。(注:東鑑による。長門本平家物語には次のようにある。盛久は平宗盛に従って西国へ落ちたが、主家が敗れると京へ逃げ帰り、民家に身を隠した。かねてより観世音を篤く信仰し、等身大の像を造って清水寺に安置していた。そこで服装を変え素足になって清水寺に参詣し、千日詣でを行った。満願にならぬうちに北条時政に捕らえられ、鎌倉へ送られた。源頼朝は土屋宗遠(つちやむねとお)に命じて由比ヶ浜で盛久を斬らせようとしたが、いざ斬ろうとすると刀が折れ、取り替えてもまた折れた。宗遠はこれを不思議に思い、使いを走らせて頼朝に報告した。頼朝の妻北条氏がちょうど同じような夢を見ていたことが判明し、事が符合したため死罪を免れた。所領はすべて元通りに戻され、さらに良馬を与えられた。この話は怪異にわたるところがあるので、ここには採らない。)

盛俊には二人の子があり、盛棋(もりき)と盛嗣という。

平盛嗣

平盛嗣(たいらのもりつぐ)は右兵衛尉(うひょうえのじょう)となり、越中二郎兵衛(えっちゅうのじろうびょうえ)と称された。(注:源平盛衰記・平家物語による。)

養和元年、平知盛に従って尾張川(おわりがわ)で源行家を攻めた。(注:平家物語による。)寿永二年、平維盛に従って礪波山(となみやま)で源義仲を討った。また義仲の将である足利義清(あしかがよしきよ)と水島(みずしま)で戦ってこれを大敗させ、自ら義清を斬った。平教盛(たいらののりもり)に従って室山(むろやま)で源行家を討ち、柘植有重(つげありしげ)を斬った。(注:源平盛衰記・平家物語による。)

屋島の戦いで、知盛が将兵を激励し必ず義経(よしつね)を捕らえようとしたとき、盛嗣は奮い立って言った。「私はかねて義経が西へ上ると聞き、ひそかにその容姿を偵察しました。その者は小柄です、脇に抱えて海に投げ込むくらい容易いことです」。そして舟の上で鉄の熊手(鉄搭)を手に、義経の兜を引っかけ、あわや捕らえるところであった。小林宗行(こばやしむねゆき)が義経を救ったので、盛嗣はさらに宗行を引っかけ、その錏(しころ)を断ち切った。(注:源平盛衰記による。)

戦いに敗れると京に逃げ隠れたが、折しも平知忠(たいらのともただ)が同志を集めて法性寺(ほっしょうじ)で挙兵した。盛嗣はこれに加わったが、藤原能保(ふじわらのよしやす)に攻められ、知忠は自害し、盛嗣は逃げ去った。但馬国(たじまのくに)の住人気比道広(きひみちひろ)の家に身を投じ、馬の世話をする下働きとなった。馬を洗うたびに馳せ弓の技を披露するうち、次第に信頼を得て、ひそかに道広の娘と通じるようになった。道広は内心これが盛嗣であると気づきながらも問い質さなかった。やがて道広が京の警護の番に就くと、盛嗣もそのころ京を行き来するようになり、以前馴染んだ女がいたので、たびたびその家に通った。

頼朝が盛嗣に懸賞をかけて捜索していたところ、ある者がひそかにその女から盛嗣の居場所を聞き出し、鎌倉に告げた。頼朝は道広に捕縛を命じた。道広は妹婿の朝倉高清(あさくらたかきよ)を但馬へ遣わしてこれを捕らえさせた。高清は屈強の者数人を風呂場に差し向けて縛らせようとした。盛嗣は出てきて叱って言った。「私がお前たちごときに捕らえられるものか。しかし今ここで逃げれば、道広は必ず罪を得ることになる。義として逃げるわけにはいかぬ、ただ縄目を受けるのは忍びない」。そう言って自ら腰帯を解き、それで縛られた。

頼朝はこれを見て責めて言った。「お前は平氏の一族でありながら、なぜ西海で死ななかったのか」。盛嗣は答えた。「平家の諸公は、これといった奇策も出せぬまま、たちまち捕らえられ滅ぼされてしまいました。私は命を全うし、あらためて一人の主君に仕えて先祖の事業を復興したいと思ったまでです」。頼朝は「お前はかつて義経に仕えたことがあるか」と尋ねた。盛嗣は答えた。「以前京にいたとき、ひそかに判官殿(義経)を討とうと図りましたが、警戒が周到でその志を遂げられませんでした。その後は、鋭い刀と鏃をもって、いずれ将軍(頼朝)様のお命を試そうと思っておりました」。頼朝は内心これを赦そうとも思ったが、のちの禍根となることを恐れ、ついに由比ヶ浜で斬らせた。(注:長門本平家物語による。由比ヶ浜の地は源平盛衰記による。八坂本平家物語には、頼朝が盛嗣を赦して召し抱えようとしたところ、盛嗣は「忠臣は二君に仕えず。今、将軍は盛嗣の本心を知らぬまま赦して誅さずにおけば、後で必ず悔やむことになりましょう。どうか速やかに首をお斬りください」と言い、そのまま刑に服したとある。)

藤原忠清

藤原忠清(ふじわらのただきよ)は伊勢国故市(いせのくにふるいち)の人である。初めは伊藤五(いとうご)と称した。(注:保元物語による。)平清盛に仕え、右衛門尉(うえもんのじょう)に任じられた。(注:源平盛衰記による。)のちに上総介(かずさのすけ)となった。

忠清が十八歳のころ、あるとき二人の賊が鳥羽殿(とばどの)の宝庫に逃げ込み、門を閉ざして立てこもった。捕り手たちはこれを取り囲むばかりで、恐れて中に踏み込む者がなかった。忠清はただちに塀を乗り越えて突き進み、一人を手ずから斬り、もう一人を縛り上げた。人々はその胆力と勇気に感服した。(注:平家物語による。)

以仁王が挙兵すると、忠清は園城寺(おんじょうじ)に潜入した。源頼政が僧兵たちに檄文を送って延暦寺・興福寺の二寺を招くと、両寺はこれに応じた。平家の武将たちは六波羅に集まって対策を協議した。忠清は言った。「山門(延暦寺)と南都(興福寺)が力を合わせれば、これを制するのは容易ではありません。三井寺(みいでら)の僧兵は関を閉ざして守りを固め、山の僧は弩(いしゆみ)を構えて要害に拠り、さらに東海・北陸の兵を招き、南都は吉野・十津川(よしの・とつかわ)の勢を率いて来るとなれば、我らは前後から敵を受けることになりましょう。もし持久戦になって日を重ねれば、諸国の源氏もまた集まってきて、もはや打ち破りがたくなります。まずは山法師たちを利で誘うべきです」。そこで延暦寺に院宣を下し、園城寺を討たせるよう仕向けた。米二万石、絹三千匹を諸坊に積み、僧兵たちに勝手に取らせたところ、延暦寺は案の定、約束を翻して平氏に味方した。

以仁王が宇治へ逃れると、忠清は弟の景象(かげあき)らとともに平知盛に従ってこれを追い、自ら三百余騎を率いて筒井明秀(つついあきひで)・渡辺省(わたなべのはぶく)らと戦ったが、うまくいかなかった。やがて足利忠綱が川を渡って進んだので、忠清もこれに続いて渡り、戦って功をあげた。(注:源平盛衰記による。)

平重衡らは、以仁王が奈良へ逃げたと聞き急いで討ちに向かおうとしたが、忠清は「南都に着くころには日も暮れてしまい、得策ではありません」と言い、軍を引き返させた。(注:山槐記による。)

まもなく先鋒として平維盛に従い、東国へ下って源頼朝を討つべく、駿河の富士川の西に陣を敷いた。夜、水鳥が驚いて騒ぎ立てたのを、頼朝の兵が夜襲してきたものと勘違いし、全軍が大いに動揺して自ら潰走して引き返してしまった。清盛は大いに怒り、忠清を斬るよう命じたが、(注:源平盛衰記・平家物語による。)平盛国(たいらのもりくに)が力を尽くして助命を願い出て、これを免れた。(注:平家物語による。)

その後、維盛に従って洲股川で源行家を討ち、また子の忠綱(ただつな)とともに維盛に従って北国で源義仲を討った。このとき忠綱は戦死した。(注:源平盛衰記による。)

忠清はついに髪を剃って逃げ去った。(注:伊藤本・八坂本・南都本平家物語による。)平家継(たいらのいえつぐ)が同志を糾合して伊賀で挙兵すると、忠清はこれに加わった。家継が敗死すると、忠清は山中に逃げ隠れ、(注:東鑑・玉海による。)のちに志摩国麻生浦(しまのくにあそうのうら)に潜んだ。加藤太光員(かとうだみつかず)の家来たちに捕らえられて京へ送られ、ついに六条河原(ろくじょうがわら)で斬られた。(注:東鑑による。平家物語には、忠清兄弟は清盛が亡くなると二人とも髪を剃り、まもなく源義仲の兵が起こると子や甥はみな戦死し、忠清はついに悲しみのうちに死んだとあるが、ここでは採らない。)

三人の子があり、忠綱・忠光(ただみつ)・景清(かげきよ)という。忠光については義烈伝に記す。忠綱は上総太郎(かずさたろう)と称し、検非違使となった。治承年間、父に従って宇治で源頼政を討ち、源兼綱(みなもとのかねつな)を射殺した。のちに従って源義仲を討ったが、戦死した。(注:源平盛衰記・平家物語による。)

藤原景清

藤原景清(ふじわらのかげきよ)は上総七郎兵衛(かずさしちろうびょうえ)と称した。体格が大きく、その勇猛さで当時よく知られ、世に悪七兵衛(あくしちびょうえ)と呼ばれた。(注:源平盛衰記・平家物語による。体格が大きいことは長門本平家物語による。)

寿永年間、平維盛に属して源義仲を攻めたがうまくいかず、また平知盛に従って室山で源行家を討ってこれを破った。(注:源平盛衰記による。)

屋島の戦いで、景清は岸に上がり美尾屋十郎(みおのやじゅうろう)と渡り合った。十郎が退いて逃げると、景清はこれを追い、左手に眉尖刀(なぎなた)を挟み右手で兜を掴み、互いに引っ張り合ったすえ錏(しころ)を断ち切ったが、十郎は逃げ去った。(注:平家物語による。)

義経が壇ノ浦に迫り、平知盛が義経を捕らえようとしたとき、景清は言った。「坂東の武士は馬上の戦いには長けているが、船戦(ふないくさ)となれば魚が木に登るようなもの、ことごとく捕らえて海に投げ込んでやろう」。平盛嗣が藤原範綱(ふじわらののりつな)と舟の中で組み合ったとき、景清は横から範綱を討って殺した。(注:源平盛衰記による。)

平氏が滅びると、景清は逃亡した。折しも平知忠が法性寺で挙兵すると、景清はこれに加わったが、知忠が敗れると逃げ去った。(注:長門本・如白本平家物語による。)

のちに出頭して降伏し、頼朝は和田義盛(わだよしもり)に命じてその邸に留め置かせた。景清は傲岸で無礼にふるまったので、義盛はこれに堪えかねて辞退を申し出、八田知家(はったともいえ)のもとへ移された。一年余りのち、景清は食を断って死んだ。(注:八坂本平家物語による。)

忠清の弟に景家(かげいえ)がいる。

藤原景家

藤原景家(ふじわらのかげいえ)は飛驒守(ひだのかみ)に任じられた。兄忠清に従って宇治で戦い、源頼政の首を得た。(注:山槐記による。)円満院(えんまんいん)の源覚(げんかく)が力の限り戦ったため、景家は以仁王が逃げ延びることを恐れ、兵を率いて急追した。光明山(こうみょうさん)に至って騎馬に矢の雨を浴びせさせ、王は流れ矢に当たって落命した。(注:平家物語による。)

養和の初め、子の景高(かげたか)を率いて平維盛に従い、北国で源義仲を討った。安宅の戦いで景高は戦死した。景家は兄忠清とともに髪を剃って出家し、(注:源平盛衰記・八坂本平家物語による。盛衰記には藤戸(ふじと)の戦いにも景家の名が見えるが、これは誤りであろう。)その後の行方は分からない。

二人の子があり、景高・景経(かげつね)という。

景高は太郎左衛門(たろうざえもん)と称した。父に従って以仁王を追い、その首を得て帰った。またのちに平維盛に属して源義仲を討ったが大敗し、安宅の渡し場まで退いて戦った。景高は率いていた兵五百をもって根井幸親の兵二百余りに当たり、久しく奮戦したが、両軍とも死傷者がほぼ出尽くしたところで、ついに幸親に討たれた。(注:源平盛衰記による。)

景経は三郎左衛門(さぶろうざえもん)と称し、平宗盛の乳母子(めのとご)であったため、最も親しく可愛がられていた。壇ノ浦の戦いに敗れ、宗盛が海に身を投げると、伊勢義盛(いせよしもり)に熊手で引っかけられ捕らえられた。景経は声を荒げてこれを叱りつけ、その舟に跳び込んで刀を振るい一人を斬り、進んで義盛を討とうとした。堀親家(ほりちかいえ)が横から矢を射て景経の額に命中させ、ついに討たれた。(注:源平盛衰記・平家物語による。)

藤原景高

瀬尾兼康(せのおかねやす)は備中国(びっちゅうのくに)の人で、太郎(たろう)と称し、瀬尾荘(せのおのしょう)を領した。(注:瀬尾は妹尾とも書く。)

寿永年間、平維盛に従って源義仲を討ち、安宅の渡しで戦ったが、倉光成澄(くらみつなりずみ)に捕らえられ、斬られようとした。義仲はその容貌を見て只者でないと感じこれを釈放し、成澄の弟成氏(なりうじ)に預けて拘束させた。兼康は心を屈して成氏に仕え、たいそう気に入られた。そこで説いて言った。「瀬尾荘は水草に恵まれた良い土地です。あなた様が申し出れば必ず手に入りましょう。私が道案内をいたしましょう」。成氏は義仲に願い出て、ともに赴くことになった。

兼康の子宗康(むねやす)はこれを聞いて出迎えに来て、播磨国府(はりまのこくふ)で落ち合った。一行が備前三石駅(びぜんみついしのえき)まで来ると、親しい者たちが酒を持って訪ねてきて、夜通し盛んに酒宴を催した。成氏が酔いつぶれて寝入ると、兼康と宗康はこれを刺し殺した。さらに源行家が備前国府に置いていた代官の館を襲ってこれも殺した。そして兵士を募って二千余人を得ると、佐々迫(ささのさこ)に砦を設けて守りを固めた。

折しも義仲は兵を率いて備前へ向かう途中でこれを聞き、大いに怒り、今井兼平(いまいかねひら)に兵三千を率いてこれを討たせた。兼康は敗走し、備中の板倉川(いたくらがわ)を守ったが、追撃を受けてまた敗れ、成澄と組み合って川に落ちた。水中で成澄の刀を奪い取ってこれを殺し、その馬を奪って逃げた。宗康は体が肥えていたうえ足が腫れて歩けず、道の途中で行き倒れになった。兼康はすでに一里ほど進んでいたが、見捨てるに忍びず引き返し、故郷の方を望んで涙を流した。そこへ追っ手が駆けつけたので、逃れられぬと悟り、自ら宗康を刺し殺し、力の限り戦って数人を斬ったが、ついに討たれた。(注:平家物語による。源平盛衰記には次のようにある。

はじめ兼康は捕らえられ、心を屈して義仲に仕えた。折しも義仲の軍が備中水島の戦いで大敗し、国人たちはみな平氏に降った。義仲は自ら兵を率いてこれを討ちに赴いた。兼康はその土地の者であることから道案内を命じられた。播磨に着くと、兼康は義仲を欺いて言った。「まず備中へ先に行かせてください。本国の者に兵糧を用意させましょう」。また成澄を誘って言った。「私がもと領していた瀬尾荘は土地が肥えております。功をもってこれを願い出てはいかがですか」。成澄は義仲に願い出てこれを与えられ、兼康とともに瀬尾へ向かった。備前の和気の渡し(わけのわたし)に着くと、道端の寺で休息した。兼康は言った。「瀬尾はここから遠くありませんが、村人たちはまだ新しい領主のお越しを知りません。供応に不備があってはいけませんので、先に行って村の長老たちに知らせておきましょう」。そして草壁村(くさかべむら)に馳せつけ、旧知の者たちと謀り、夜のうちに手勢を率いて寺を襲い成澄を殺した。そして兵士を招集して三百人を得ると、佐々迫の険しい地に拠って備えた。義仲は成澄が殺されたと聞いて大いに怒り、攻め寄せた。兼康の軍は敗れ、退いて板倉を守ったがまた敗れ、子の兼道(かねみち)とともに逃げ出した。兼道は体が肥えていて歩いて従うことができなかった。二人は林の中に入り、大木の陰に隠れて追っ手を射たが、矢が尽きると、それぞれ切腹して死んだ。今はこちらの本書の記述に従う。)