卷之一百五十五 列傳第八十二

藤原成親、藤原成經、藤原師光、平時忠ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次6
  1. 藤原成親
  2. 藤原成經
  3. 藤原師光
  4. 平時忠
  5. 平賴盛
  6. 平宗清

藤原成親

藤原成親(ふじわらのなりちか)は、権中納言家成(いえなり)の子である(注:尊卑分脈、公卿補任による)。近衛(このえ)天皇・後白河(ごしらかわ)天皇の代に仕え、侍従・越後守・右近衛中将を歴任した(注:公卿補任による)。後白河上皇に特に寵愛され、朝廷の機務に参与した。平治の乱では藤原信頼(ふじわらののぶより)に与し、戦いに敗れて仁和寺(にんなじ)に逃げ込んだ。上皇はこれを匿った。平清盛(たいらのきよもり)は兵を仁和寺に遣わし、謀反に加わった者たちを捕らえさせた。成親は捕らえられ死罪に処されるはずであったが、平重盛(たいらのしげもり)が成親の姻戚であったため、その助命に奔走し、ついに死罪を減じられた(注:平治物語による。姻戚関係は源平盛衰記による。思うに愚管抄には、成親・信頼が仁和寺に至った際、覚性法親王(かくしょうほっしんのう)が二人を捕らえて清盛に送ったとある。信頼は誅殺されたが、成親はまだ若く罪状もやや軽かったため死を免れたという。今は本書の記述に従う)。応保元年、官爵を回復した(注:公卿補任による)。まもなく上皇の近臣であることを理由に解官された(注:公卿補任、百錬抄による)。仁安年間、参議となり権中納言に任ぜられ(注:公卿補任による)、尾張守を兼ねた。嘉応元年、成親は目代(もくだい)の右衛門尉政友(うえもんのじょうまさとも)(注:政友の姓は伝わらない)を尾張に派遣したが、政友は美濃(みの)に至って平野荘の神官と争いを起こした。この荘園は延暦寺(えんりゃくじ)に属していたため、僧徒が怒り、神輿を奉じて内裏に押しかけその罪を訴えた。朝廷の議によって成親は備後(びんご)に流罪と決まり、政友は投獄された。しかし成親はまだ配所に赴かないうちに赦されて元の官職に復した(注:百錬抄、源平盛衰記による。備後については公卿補任による)。二年、右衛門督を兼ね、検非違使別当となった。安元年間、権大納言に任ぜられた(注:公卿補任による)。治承元年、左近衛大将の職が空いた際、成親は寵愛を頼んで焦り、懸命に望んだが得られず、心中大いに不満であった。そのうえ重盛・宗盛(むねもり)が飛び越えて左右の大将に任ぜられたため、成親はますます恨みを募らせ、ひそかに武具を整え、同志を集めて平氏打倒を図った(注:源平盛衰記、長門本平家物語による。思うにこの二書はいずれも重盛・宗盛が左右大将になったとするが、まもなく重盛は左大将を辞し、藤原実定(ふじわらのさねさだ)が左大将となった。成親はこれもまた清盛の意向によるものと考え、決意をいよいよ固めたという。しかし公卿補任によれば治承元年七月に成親は配所で死んでおり、その年の十二月に実定が左大将になっている。これによれば二書は誤りであるので、ここに記しておく)。成親は蔵人(くろうど)源行綱(みなもとのゆきつな)を招いて手厚くもてなし、膝を突き合わせて耳打ちした。「平氏は密かに朝廷の権力をほしいままにし、その罪悪は積もりに積もっている。法皇は成親にこれを討たせようとお考えである。私は敵愾心こそ強くはないが、非力ながら力を尽くしたいと思う。卿は源氏の血筋、将帥として頼られたいと思わぬわけがあろうか。事がもし成就すれば、卿のために奏請し、天下の兵権を握らせよう」。行綱はこれを承諾した。当初、成親は法勝寺執行の俊寛(しゅんかん)と謀ろうとしたが、言い出しにくかった。何度も俊寛を招いては侍女に酒を勧めさせた。俊寛はその侍女と情を通じ、成親はその機に乗じて謀を告げ、検非違使平康頼(たいらのやすより)、式部大輔藤原章綱(ふじわらのあきつな)、僧の蓮海(れんかい)・西光(さいこう)らとともに、俊寛の鹿谷(ししがたに)の別荘で会合した。西光は法皇の寵愛を受けており、成親と結んで、表向きは遊興にかこつけながら、専ら軍事を議した。成親はひそかに行綱に布五十反を与え、軍資に充てさせた。宴もたけなわの頃、風が吹いて傘がひっくり返り、群がる馬が驚いて逃げ出した。座にいた客も驚いて立ち上がり、誤って瓶子(へいし)を割ってしまった。成親は笑って言った。「今日、事を起こすにあたり平氏がすでに倒れた(注:瓶子と平氏は音が近い)とは、なんと愉快なことか」。座の者は皆笑った。康頼は立ち上がって舞い、「平氏の首はすでに得た。市中を引き回し、獄門に梟(さら)すべきだ」と言い、瓶子を取って柱に懸けた(注:源平盛衰記による。平家物語も参照した。式部大輔章綱については長門本平家物語による)。成親は「ちょうど折よく祇園祭が行われ、街は喧騒に包まれている。この時に乗じて六波羅(ろくはら)に火を放ち、西側から急襲すれば、不意を突いて志を遂げられよう」と提案した。そこで行綱を将として八条に向かわせ、俊寛・康頼は七条北門、蓮海・章綱は修菩寺の西に配置した。部署はすでに定まっていた(注:長門本平家物語による)。折しも延暦寺の座主明雲(みょううん)が配流の処分を受け、僧徒が群がり立って奪い返した。法皇は成親にこれを討たせようとしたため、この計画は実行されずに終わった。行綱はその計画がいたずらに日を重ねるのを見て、弱い勢力で強大な平氏に敵対することは到底成し遂げられないと考えた。そこで福原(ふくはら)に馳せ参じて事の次第を告白した。清盛は大いに驚き、急いで六波羅に戻り、まず西光を捕らえて尋問し、使者を遣わして成親を招いた。成親は事が露見したことをまだ知らず、正装して参上した。役人たちは成親の髪をつかんで捕らえた。清盛は成親を一室に幽閉させ、日が暮れるのを待って殺そうとした。重盛が見舞いに行くと、成親は泣いて「あなたが私の命乞いをしてください」と言った。重盛は清盛に会い、事情を説いて宥めた。清盛の怒りはやや解けたが、成親に会うと怒鳴りつけた。「平治の乱の折、お前は誅されるべきところであったが、重盛の尽力によって助けられ、今日まで生きながらえた。位は高く俸禄も厚く、諸国をも兼ね領している。それなのに何の不足があって、たちまち旧恩を忘れ、かえって我が一族を滅ぼそうとするのか。天の見る目に狂いはなく、ついに私に捕らえられることとなった。お前が謀議の詳細を述べよ」。成親は頭を垂れて詫びた。「私はあなたに対しもとより宿怨などなく、そのようなことがあるはずもありません。讒言する者の口から出た話でしょう、どうか信じないでください」。清盛は怒って西光の自白書を取り出し、大声でそれを読み上げて言った。「お前はどの面下げてなお私を欺こうとするのか」。その書状で成親の顔を殴りつけ、外へ引きずり出して鞭打つよう命じた。成親は備前(びぜん)の児島(こじま)に流され、難波経遠(なんばのつねとお)がこれを護送した。経遠は児島が津会(つあい)に接していたため、成親を難波に移した。まもなく清盛は経遠に成親を殺すよう命じた(注:源平盛衰記による)。経遠は酒に毒を盛って飲ませたが死ななかった(注:平家物語による)。崖下に鉄菱(てつびし)を撒き、そこに突き落として死なせた(注:源平盛衰記、平家物語による。愚管抄には、七日間絶食させたのち酒を飲ませて大酔させて死なせたとある)。享年四十であった(注:公卿補任の天養元年に七歳とある記述による)。成親はかつて鳥羽(とば)の別荘に館を建て、極めて壮麗な造りとし、住吉(すみのえ)の風景を模して洲浜殿(すはまどの)と名付けた。白河法皇がここに行幸された折、成親は八葉車を献上し、五色の緒の簾で飾った。公卿以下への贈り物も非常に多く、牛飼いに至るまで五十万銭を受け取ったという。その驕奢ぶりはこれほどであった(注:長門本平家物語による)。子に成経(なりつね)がいる。

藤原成經

藤原成経(ふじわらのなりつね)は、幼少のころから後白河法皇に仕え、格別に寵愛されて、常にそば近くに仕えない日はなかったほどであった(注:源平盛衰記、長門本平家物語による)。嘉応・承安の頃、次第に昇進して右近衛少将となり、丹波守を兼ねた(注:公卿補任による)。世に丹波少将と称された。治承元年、父の事件に連座して六波羅に幽閉された。妻の父である平教盛(たいらののりもり)が力を尽くして助命に努めた。清盛はやむを得ず、瀬尾兼康(せのおかねやす)に命じて備中(びっちゅう)に追放させた。その後、康頼・俊寛とともに薩摩(さつま)の鬼界島(きかいがしま)に流された(注:源平盛衰記、平家物語による)。教盛はいつも衣食を届けたが、成経はそのたびに二人にも分け与えたので、艱難辛苦は極まり、かろうじて飢えと寒さを免れる有様であった(注:平家物語による)。翌年、赦されて京に戻った。清盛は品物や領地を与え、待遇はかなり手厚かった(注:長門本平家物語による)。まもなく官職に復し、参議正三位に進んだ。建仁二年、薨去した(注:公卿補任による。源平盛衰記は大納言とするが誤りである)。

藤原師光

藤原師光(ふじわらのもろみつ)は阿波(あわ)の人で、その父については詳らかでない。少納言入道信西(しんぜい)に仕えた。幼くして利発であったため、信西に愛され、推挙されて左衛門尉となった(注:源平盛衰記による)。平治の乱で信西が奈良に逃れた際、師光もこれに従った。信西が死を覚悟すると、師光は髪を剃り、法名を賜るよう願い出た。信西は名を改めて西光とした(注:平治物語による)。後白河法皇に親しく近侍し、寵遇は日に日に厚くなり(注:源平盛衰記による)、当時の人々は「側近第一」と称した(注:玉葉による)。名門の家系に籍を置きたいと望み、勅命によって中納言藤原家成(ふじわらのいえなり)の子孫の姓を名乗ることとなり、院中の事務を執り行い、朝政にも関与した(注:尊卑分脈による)。子の師高(もろたか)は左衛門尉・検非違使となった。安元の初め、加賀守(かがのかみ)に任ぜられた。折しも師高の子師経(もろつね)が目代となり、ある事件がもとで涌泉寺(ゆうせんじ)を焼いてしまった。白山(はくさん)の僧徒が群れをなして立ち上がり、神輿を奉じて延暦寺にやって来て、ともに内裏に押しかけて訴えた。朝廷の議によって師高は尾張に流され、師経も同じく流罪となった。師光はこれを恨みに思い、延暦寺の座主明雲を法皇に讒言して伊豆(いず)に流させた(注:源平盛衰記、平家物語を参照した。師経の配流については玉葉、百錬抄による)。鹿谷の謀議が露見するに及び、平清盛は師光を捕らえるよう命じ、庭先に引き据えて目を怒らせて罵った。「お前は卑しい身分でありながら朝廷に仕え、父子ともに官職にある。それなのに恩寵をかさに着て驕り高ぶり、天台座主を讒言によって陥れた。そして今また凶悪な者どもに与して我が一族を図ろうとしている」。師光は顔色一つ変えずに答えた。「およそ武士たる者、受領や検非違使になったところで、何ら咎められることではありますまい。あなたの父忠盛(ただもり)殿は身分の低い出自で、殿上人たちはともに肩を並べることを恥じたものです。あなたも年を重ねながらなかなか叙爵にあずかれず、我が家成卿を頼って、粗末な布衣に高下駄を履き、朝な夕なに伺候しておられ、都の子供たちは『高平太(たかへいた)』と呼んでいたものです。保元の頃、父君が海賊を捕らえた恩賞によって、一気に四位の兵衛佐に昇進され、世間の人々は皆目を見張りました。それが今では人臣を極める地位にまで至っている、これはあまりに分不相応な栄達ではありませんか」。清盛は怒りに堪えかね、立ち上がってその顔を蹴った。師光は罵るのをやめず、厳しい拷問を受けたが、ついに師光は事の真相をすべて白状した。そこで清盛は師光の口を裂くよう命じた(注:源平盛衰記、平家物語を参照した)。夜半に斬られ(注:玉葉による)、その首は獄門に梟された(注:百錬抄による)。子の師高は加賀守、師平(もろひら)は左衛門尉、師親(もろちか)は右衛門尉であった。師高は尾張に流されていたが、師光が死ぬと、清盛は小熊郡司維長(おぐまのぐんじこれなが)(注:姓は伝わらない)に命じて師高を殺させた。師平・師親も殺され、いずれも首を梟された(注:源平盛衰記、平家物語を参照した)。

平時忠

平時忠(たいらのときただ)は、大納言高棟(たかむね)の子孫である(注:平氏系図による)。兵部権大輔時信(ときのぶ)の子である。時信の娘は後白河帝の后となったため(注:源平盛衰記、平家物語、平氏系図による)、時信は左大臣を追贈された(注:百錬抄、源平盛衰記、平氏系図による)。時忠は久安の頃、非蔵人・左衛門尉となった。後白河朝では刑部・兵部大輔を歴任した。永暦元年、右少弁を兼ねたが、まもなく解官された(注:公卿補任による)。応保二年、国家を呪詛したとの罪で出雲(いずも)に流された(注:百錬抄、愚管抄、長門本平家物語による。出雲については公卿補任による)。永万元年、赦されて京に戻った。翌年、官位を回復し、まもなく左少弁に転じた。仁安の頃、参議となり従三位に叙され、右衛門督・検非違使別当を兼ねた。まもなく権中納言に任ぜられた(注:公卿補任による)。嘉応元年、中納言藤原成親の罪状を偽って奏上したとの罪で、再び出雲に流された。翌年、延暦寺の訴えによって京に呼び戻され(注:玉葉、百錬抄による)、官位を回復し、まもなく従二位に叙された(注:公卿補任による)。治承元年、延暦寺の僧徒が神輿を奉じて内裏を犯し、加賀守師高の配流を求めたが、朝廷の諸将がこれを拒んで退けた。僧徒が再び京に入ろうとしたため、朝廷はこれを憂慮し、勅使を遣わして説諭させようとした。宣旨が下されたものの、廷臣たちは恐れをなして誰も行こうとしなかった。時忠は公卿の中でも日頃から気骨があると評されており、選ばれてこれに応じた。僧徒は激しく怒り、辱めを加えようとしたが、時忠は顔色一つ変えず、まっすぐ大講堂に進み、筆を執って書状をしたため、順逆の理をもって諭した。その言葉は的確で、僧徒たちは回し読んで感嘆し、事態はついに収まった。人々はその胆力と知恵を称えた(注:源平盛衰記、平家物語による)。三年、正二位に進んだ(注:公卿補任による)。四年、安徳帝(あんとくてい)が即位した。当時三歳であったため、人々は「清盛は幼い主君を立てて権力をほしいままにしている」と非難した。時忠はこれを聞くと色をなして言った。「諸君は何と物事をわきまえないことか。近頃でも近衛・六条の両帝は、いずれも二、三歳で皇位に就かれた。もし外国の例を見れば、周の成王、漢の孝殤帝、晋の穆帝など、あるいは母后が抱いて政務に臨み、あるいは襁褓のうちに即位した例がすでにある。今さら何を議論することがあろうか」。これを聞いた者たちは笑って「いずれも褒められた先例ではない」と言い合った(注:源平盛衰記、平家物語による)。寿永二年、権大納言に任ぜられた(注:公卿補任による)。この秋、帝に従って西国に下った。これより先、豊後(ぶんご)国司藤原頼輔(ふじわらのよりすけ)は子の頼経(よりつね)を遣わして国務を取り仕切らせていた。頼経は平氏が帝を奉じて太宰府(だざいふ)に入ったと聞くと、遠く命じてこれを拒ませた。頼経は緒方惟能(おがたこれよし)と謀を合わせ、行在所(あんざいしょ)を攻めようとした。惟能はまず子の惟村(これむら)を遣わして平氏に告げさせた。「我ら惟能らは先に院宣を承っており、貴族方を九州に入れるわけにはいかない。どうか速やかにここを立ち去られよ」。時忠は出て会い、こう告げた。「お前はよく私の言うことを聞け。我らが君は天孫四十九世の正統、人皇八十一代の天子、高倉帝(たかくらてい)の嫡長子であらせられる。天照大神(あまてらすおおみかみ)の御加護を受けておられ(注:源平盛衰記、平家物語による)、しかも伝国の剣璽(けんじ)は今まさにここにある。東北の兇徒どもは、源頼朝(みなもとのよりとも)・源義仲(みなもとのよしなか)に惑わされ、順逆をわきまえずしばしば官軍に逆らい、自ら禍を招いて滅びようとしている。お前たちが順を捨てて逆に与するとは、なんと浅はかなことか。もしお前たちが九州の者らしく朝廷にはせ参じ、近くその恩沢を受けるならばよいものを、今にわかに豊後守に惑わされ、官軍に逆らうならば、天罰は逃れられまい。この時にあたり、お前たちはよろしく王室を助け守り、力を合わせて賊を討つべきである。ひとたび帝が都にお戻りになった後で悔いても及ばないぞ」(注:源平盛衰記による)。惟村は帰ってこれを報告したが、惟能は聞き入れず、ついに九州の兵を率いて攻め寄せ、宗盛らは帝を奉じて逃れた。翌年、一の谷城が陥落し、平重衡(たいらのしげひら)が捕虜となった。法皇は重衡に書状を持たせて宗盛に送らせ、また時忠に院宣を下し、三種の神器を差し出すよう求め、御壺(みつぼ)召次(めしつぎ)花方(はなかた)に院宣を持たせて屋島(やしま)に至らせた。時忠は花方を捕らえて言った。「お前は法皇の使者として、遠く風波を越えてやって来た、まことにご苦労であった。今、お前に一生の記念を作ってやろう」。そして焼き印をその顔に押し、「浪方(なみかた)」の二字を刻み、髻(もとどり)を切り鼻をそいで送り返した(注:源平盛衰記、平家物語を参照した)。帝が海上で崩御された折、平氏の者たちは捕虜となるか死ぬかし、剣璽もまた海に沈んだが、神鏡を納めた内侍所(ないしどころ)だけは残った。兵士たちはそれが何であるか知らず、櫃(ひつ)を開けようとしたところ、たちまち目がくらんで鼻血を流した。時忠はこれを見て叱りつけた。「これは内侍所であるぞ」。兵士は恐れをなして退いた。時忠はすでに京に戻っていたが、ひそかに子の時実(ときざね)に語った。「私には一箱の文書があるが、かつて源義経(みなもとのよしつね)に押収されてしまった。もしこれが世間に露見すれば、連座する者が非常に多くなり、私自身も罪を免れがたいだろう。どうしたものか」。時実は「聞くところによれば義経は妻の言葉をよく聞き入れるという。事ここに至っては、義経と縁組みをして頼むよりほかあるまい」と言った。時忠は聞き入れなかったが、時実がなおも強く勧めたため、時忠は泣く泣くこれに従った。義経は娘を得て大いに喜び、ついにその文書を返した。時忠はこれをことごとく焼き捨て(注:源平盛衰記、平家物語による)、法皇に奏上した。「臣は賊に従って西海に赴きましたが、自らその罪を免れがたいことは承知しております。しかし、前内大臣(平宗盛)が臣に神鏡を海に沈めるよう命じたにもかかわらず、臣はこれを守り抜いて帰参いたしました。これは臣の功績であります。願わくはこの功によって流罪を免れ、京に安住することをお許しください。髪を剃り墨染めの衣をまとい、長く俗世を辞したく存じます」。そこで公卿たちに議させることとなった(注:玉葉、源平盛衰記を参照した)。時忠は西国にあった間、軍の統率者の地位にこそなかったものの、軍国の事に関してはすべて関与しないことがなかった。そのため頼朝から深く忌み嫌われ、また先に院の使者花方を辱めた言葉があまりに無礼であったため、法皇もこれを恨みに思っていた(注:源平盛衰記による)。朝廷の議はついに時忠を能登(のと)に、時実を周防(すおう)に流すこととした(注:玉葉、源平盛衰記、長門本平家物語による。現行の平家物語では周防を安芸(あき)とし、八坂本では土佐とするが誤りである)。配流の官符が下されたが、数か月にわたって滞留していた。頼朝は義経の仕業を疑い、奏上してこれを促したため、時忠は能登へと赴いた。文治五年、配所で世を去った(注:東鑑による)。享年六十(注:公卿補任による。東鑑は六十二とするが、今は公卿補任の承安四年に四十五歳とある記述に従う)。頼朝は「この人は先の朝廷の輔佐であり、智臣の誉れがあった、朝廷のために惜しむべき人材であった」と嘆いた(注:東鑑による)。時忠は高倉・安徳の二代にわたり、后の縁により栄達を重ね、また清盛の妻の兄であったことから、その権勢は当代随一で、位階の叙任や除目の多くが彼の意向によって決められた。世間の人々は大臣になるものと見なし、「平関白(たいらのかんぱく)」と呼んだ。おおよそ三度検非違使別当を務め(注:源平盛衰記による)、その職務ぶりは厳格であった。かつて強盗十二人を捕らえ、その右手を切り落として獄門に懸けたことがあり、当時の人々はこれを恐れおののいた(注:百錬抄、源平盛衰記、平家物語を参照した。獄門に懸けたことは百錬抄による)。子に時実、時家(ときいえ)、時宗(ときむね)がいる。  時実は仁安元年、従五位下に叙され、讃岐守(さぬきのかみ)に任ぜられた。嘉永の頃、正四位下に進み、左近衛権中将となった(注:公卿補任による)。帝に従って西国に下った。平氏が滅びると捕虜となって京に連れ戻され(注:平家物語、源平盛衰記による)、周防に流されることとなった。しかしまだ配所に赴かないうちに、義経と頼朝の間に不和が生じ、義経が西国に向かおうとした際、時実もこれに従った。大物浦(だいもつのうら)で船を出したところ、突然暴風が起こって進むことができず、従者たちは四方に散った。時実も義経とはぐれ、京に戻ろうとした。頼朝の兵士がこれを捕らえ、鎌倉に送った。頼朝は朝廷の官人の罪を独断で決めるべきではないとして、時実を京へ送り返し、改めて上総(かずさ)への流罪とした。文治五年、赦されて京に戻った(注:東鑑による)。建暦元年、三位に叙された。建保元年、急死した。享年六十三(注:公卿補任による)。時家は従四位下に至り、右近衛中将に任ぜられた。時宗は侍従となった(注:平氏系図による。本書では時家の子とすることもある)。

平賴盛

平頼盛(たいらのよりもり)は、刑部卿忠盛の第五子であり、清盛の異母弟である(注:平氏系図、公卿補任による。刊本の系図では第三子とする)。かつて平氏には小烏(こがらす)・抜丸(ぬけまる)という二振りの名刀があった。忠盛が没すると、清盛は嫡流としてこれを継ぎ小烏を得たが、頼盛もまた母の縁によって抜丸を得た。これにより清盛との間に確執が生じた(注:長門本平家物語、源平盛衰記による)。保元の頃、安芸守(あきのかみ)に任ぜられ右兵衛佐を兼ね、従四位下に叙されて中務大輔(なかつかさのたいふ)となり、まもなく参河守(みかわのかみ)を兼ねた(注:公卿補任による)。平治の乱では、帝がひそかに六波羅に行幸された際、清盛は子弟にそれぞれ千騎を率いさせて攻め込ませた。頼盛は郁芳門(いくほうもん)に入り、義朝(よしとも)と戦って敗れ、単騎で退いた。鎌田政家(かまたまさいえ)の従者八町二郎(はっちょうじろう)という大力の者が疾走してこれを追いつき、鉄搭(てつたく)で引っかけた。頼盛は何度も兜を傾けてかわそうとしたが、ついに引っかけられ、あわや馬から落ちそうになった。そこで抜丸を振るって鉄搭を断ち切ると、二郎は転倒し、その隙に六波羅に逃げ帰ることができた。その後、信頼らが敗れて仁和寺に隠れると、頼盛は兄の教盛とともに三百余騎を率いてこれを包囲し、捕らえた。その功により尾張守を兼ねた(注:平治物語による)。永暦・応保の間に、次第に昇進して修理大夫(しゅりのだいぶ)となり、正四位下に叙された。永万二年、太宰大弐(だざいのだいに)を兼ねた。仁安元年、従三位に叙され、参議に任ぜられた。治承四年、正二位に叙された。寿永二年、権大納言に任ぜられた(注:公卿補任による)。その邸宅を池殿(いけどの)といったことから、池大納言(いけのだいなごん)と称された。当時、東北の源氏の勢力は非常に盛んであった。宗盛は源義仲(みなもとのよしなか)が京に入ったと聞き、諸将を分け遣わしてこれを防がせた(注:平家物語、源平盛衰記による)。頼盛にも山科(やましな)へ向かうよう命じたが、頼盛は辞退して言った。「治承三年の冬以来、私には思うところがあり、長らく弓矢を手にすることをやめております。かつて故人となった道殿(みちどの)にもそう告げて誓いを立てました。今さら再び戦に従うわけにはまいりません」。宗盛はこれを許さなかった。やがて宗盛が帝を奉じて西国に赴くこととなり、頼盛はこれを聞いて子の為盛(ためもり)を遣わして様子を尋ねさせた。為盛が鳥羽(とば)で追いついたが、宗盛は慌ただしくろくに言葉も交わさずに去っていった(注:愚管抄による)。頼盛もその後を追ったが、実際には京を離れる意志はなかった。鳥羽の南まで来ると、赤旗を撤収して引き返した(注:源平盛衰記、平家物語による)。法住寺殿(ほうじゅうじどの)の法皇は頼盛を八条院(はちじょういん)の御所である常磐殿(ときわどの)に匿うよう命じた(注:愚管抄、平家物語による。常磐殿については源平盛衰記による)。平盛嗣(たいらのもりつぐ)は宗盛に「池殿の配下からは誰一人参上する者がありません。これはきっと京に留まっているのでしょう。討伐すべきです」と言ったが、宗盛は「恩を忘れ義を捨てた者を、たとえ来たとしても何の益があろうか。捨て置いて構うな」と答えた。これより先、源頼朝は池禅尼(いけのぜんに)の恩義により、たびたび書状を送って頼盛を慰め、また兵士たちにも頼盛の子らを害さぬよう戒めていた。そのため頼盛は西国への逃避に従わなかったのである(注:平家物語、源平盛衰記による)。ある者は頼盛の門に立て札を立て、仇敵の家に身を寄せて命を全うしていると非難した。頼盛はこれを深く恥じた(注:源平盛衰記による)。三年五月、頼朝は使者を遣わして頼盛とその臣平宗清(たいらのむねきよ)を鎌倉に招いた。頼盛は行こうとしたが、宗清は固く辞退して従わなかった(注:平家物語、源平盛衰記による)。頼盛はついに鎌倉に至り、頼朝の接待は非常に手厚く(注:東鑑、源平盛衰記による)、同じ舟に乗って由比浦(ゆいのうら)から杜戸(もりと)まで行き、酒宴を尽くして楽しんだ(注:東鑑による)。六月、京に戻った(注:東鑑、平家物語による。公卿補任、源平盛衰記ではいずれも五月とするが誤りである)。頼朝は餞別として金装の太刀一振り、砂金一袋、馬十匹を贈り(注:東鑑による。餞別の品は源平盛衰記、平家物語ではこれと異なるが、今は採らない)、奏上して頼盛の官爵と領地を回復させた(注:東鑑による。公卿補任、源平盛衰記、平家物語も参照した)。文治元年、髪を剃り名を重蓮(じゅうれん)と改めた(注:東鑑による)。翌年、薨去した。享年五十五(注:公卿補任による)。子に保盛(やすもり)、光盛(みつもり)、為盛、仲盛(なかもり)、知重(ともしげ)がいる。保盛は正三位に至った(注:公卿補任、平氏系図による)。光盛は正三位(注:愚管抄、公卿補任による)。為盛は右兵衛佐となり(注:愚管抄、平氏系図による)、紀伊守(きいのかみ)となった(注:平氏系図による。思うに源平盛衰記には為盛は礪波山(となみやま)で戦死したとあるが、愚管抄によれば平氏が西へ逃れた際、為盛はなお生存していたとあるので、その説は採らない)。仲盛は佐渡守(さどのかみ)に任ぜられ、知重は従五位下に叙されて武蔵守(むさしのかみ)となった(注:平氏系図による)。

平宗清

平宗清(たいらのむねきよ)は、弥平左衛門(やへいざえもん)と称された(注:諸本の平治物語ではいずれも弥平兵衛とする)。鎮守府将軍平貞盛(たいらのさだもり)の八世の孫で、左衛門尉季宗(すえむね)の子である(注:東鑑による。八世孫については平氏系図による)。平頼盛に仕え、頼盛が尾張守となると、宗清はその目代となった。永暦元年、源義朝(みなもとのよしとも)が誅殺され、その子朝長(ともなが)も死んだ。頼朝は逃亡していたが、宗清は尾張から京に入る途中、道で頼朝に出会い、これを捕らえた。青墓(あおはか)の宿駅に至り、朝長の墓を掘ってその首を得て、あわせて六波羅に送った。清盛は頼朝を宗清の家に幽閉し、処刑の日を定めた。宗清は頼朝に「あなたは死を免れたいと思いますか」と尋ねた。頼朝は答えた。「保元以来、父や兄、一族はほとんど滅び尽くしました。ただ僧となって冥福を祈りたいと願うばかりです」。宗清はこれを哀れに思い、こう告げた。「尾張にいる母の池禅尼(いけのぜんに)は、大弐(だいに、忠盛)殿の後妻であり、大弐殿は殊のほか敬い仕えておられました。尼は仁慈深い性質で、以前あなたの容貌についてお尋ねになったことがあります。私は『年は若くとも大人びた風格があり、しかも容姿は右馬助(うまのすけ)殿によく似ておられます』とお答えしました。尼はこれを聞いて悲しげな表情を浮かべられました。あなたがもしこれを頼りにお願いすれば、万に一つの望みがあるかもしれません」。右馬助とは禅尼の末子で家盛(いえもり)といい、早くに亡くなった人である。まもなく宗清は禅尼のもとへ行き、頼朝の思いを伝えた。尼はこれを哀れに思い、平重盛に頼んで清盛を説得し、頼朝の死罪を宥めるよう頼んだ。清盛は聞き入れなかったが、なお刑の執行を延ばした。ちょうど義朝の三十五日忌が近づいたころ、頼朝は卒塔婆(そとば)を作ることを願い出た。宗清は百枚を作って与えた。頼朝は自ら仏の名を書き記し、衣を脱いで僧に施した。禅尼はこれを聞いてますます頼朝を哀れに思い、助命に力を尽くした結果、ついに死を免れることができた(注:平治物語による。諸異本も参照した)。これにより頼朝は宗清に深く恩義を感じ、平氏を討つに際しても、常に将士に宗清を害さぬよう戒めていた(注:長門本平家物語、源平盛衰記による)。平氏が西へ落ちていく中、宗清は頼盛に従って京に留まった。頼朝は池禅尼の恩を思い、頼盛と宗清を鎌倉に招こうとした。宗清は行くことを望まなかったが、頼盛が強く勧めたので、宗清は言った。「あなたには憂いはなくとも、一族はことごとく西海をさまよっております。私はいつもこれを思い、日夜悲しみ憤っております。どうかお許しください」。頼盛は恥じ入った様子で言った。「家のことはすべてお前に任せてきた。お前が私を留めるべきでないと思うなら、なぜ一言も言わなかったのか」。宗清は答えた。「行くか留まるかはあなたの判断次第、私ごときが口出しできることではありません。人は身分の貴賤にかかわらず、誰しも我が身を惜しむものです。頼朝殿は昔九死に一生を得て、それゆえ今日の栄達があります。私はかつて頼朝殿に恩を施したことがあり、今行って会えば必ず重い恩賞を賜るでしょう。しかしそれでは西海にいる一族の方々や僚友に対して恥ずかしくないでしょうか。あなたがもし義兵を挙げる先頭に立つというのであれば、私は先駆けを務めましょう。しかしこのまま鎌倉へ行くのでは、私が付き従う意味がありません。あなたはすでに京に留まっておられ、鎌倉からの招きは拒みがたいものです。あなたが鎌倉に着けば、頼朝殿は必ず私のことをお尋ねになるでしょう。その時は病と称してお断りください」(注:平家物語、源平盛衰記による)。そして頼盛を見送り、近江(おうみ)の野路(のじ)で別れを告げ(注:平家物語による)、まっすぐ屋島に赴いて宗盛に仕えた(注:東鑑による)。頼朝は宗清を招いて会おうとし、荘園を与えようとした。あらかじめ充文(あてぶみ、証書)を用意し、鞍馬(くらうま)や絹布を備えて宗清の来訪を待った。また将士三十人にそれぞれ鞍馬や絹布を持たせて宗清に贈らせた。ところが頼盛が鎌倉に着いて「宗清は病のため参りません」と告げた。頼朝は残念に思い、宗清に与えようとしていた品々をすべて頼盛に贈った(注:源平盛衰記による)。平氏が滅びると、宗清は逃れてその後の消息は分からなくなった。子の家清(いえきよ)は(注:平氏系図による)、平田家継(ひらたいえつぐ)らとともに兵を挙げ、近江で戦死した(注:東鑑による。本書ではただ「家清入道」とのみ記し姓を載せていない。しかし平氏系図によって考えると、家清と家継は再従兄弟(またいとこ)の関係にあり、これによって彼が平家清という名であることが分かる。よってここに記す。柘植家譜(つげかふ)には、宗清は少納言平信実(たいらののぶざね)の子であるとし、平氏が滅びた後、宗清は伊賀山中に逃れ住んだが、頼朝が藤九郎盛長(とうくろうもりなが)を遣わして、旧縁により宗清に伊賀国山田郡三十三邑を与えたという。盛長は宗清に家を構えて住むよう勧めた。宗清は柘(つげ)の枝を折って地に挿して「この枝が生い茂れば、我が住まいも成るだろう」と言った。翌年、果たして花が咲いたので、宗清はこれを不思議に思い和歌を詠み、それにちなんで柘植(つげ)を姓とした、という。しかし東鑑などの書にはこの話は見えず、また平氏系図を考えると、信実の子に右京大夫宗清という人物がいるが、柘植と称したという記述はない。柘植を称したのはすなわち左衛門尉宗清である。柘植家譜はおそらく同名であることから誤って一人の人物としてしまったのであろう。よってこの説は採らない)。