卷之一百五十六 列傳第八十三
平重盛、平資盛、平清經、平有盛ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
平重盛
¶平重盛(たいらのしげもり)は、太政大臣平清盛の長男である。生まれつき忠実で謹厳、武勇は人並み外れ、人との接し方も温厚であり(注:百錬抄)、朝廷内外の人望を集めていた(注:源平盛衰記、平家物語)。久安六年、蔵人となり、従五位下に叙せられた。久寿二年、中務少輔に任じられた(注:公卿補任)。保元元年、崇徳上皇が兵を白河殿に集めると、重盛は禁軍を率いて清盛に従いこれを攻めた。源為朝(みなもとのためとも)が兵を率いて西門を守り、清盛配下の伊藤忠清・忠直が真っ先に攻めかかった。為朝が矢を一発放つと忠直の胸を貫き、忠清の鎧にも当たったため、軍中は震え上がった。清盛は恐れて「私がこの門を攻めよというのは、特に命令を受けたわけではない」と言い、東門の方へ向きを変えて攻撃を避けようとした。しかし将兵たちは口々に「東門もまた為朝が守っている。北門から攻めるほうがよい」と言うので、清盛は兵を引いて退いた。重盛は奮然として「勅命を奉じて出陣したからには、敵の強弱など問うところではない」と言い、単身軽騎兵を率いてまっすぐ進んだ。清盛は慌てふためき、左右の者に命じて重盛を引き止めさせ、やむなく春日表門へ向かった。まもなく源義朝が火を放って攻め立て、白河殿はついに陥落した(注:保元物語)。保元二年、正五位下に叙せられ、左衛門佐に任じられ、遠江守(とおとうみのかみ)を兼ねた(注:公卿補任)。
¶平治元年、重盛は清盛に従って熊野(くまの)に参詣した。切部(きりべ)に至ったところで、藤原信頼(ふじわらののぶより)らが謀反を起こしたと聞いた。清盛は進退窮まり、決断がつかずにいた。重盛は「武門の身として、天子が逆賊に迫られていると聞いて、どうして急いで国難に駆けつけずにいられようか」と言い、一同はこれに従った。そこで使者を遣わして熊野別当湛増(たんぞう)らに兵を徴発させたが、集まった兵はわずか百騎ほどであった。ちょうどそのとき、義朝の子・義平(よしひら)が三千の兵を率いて安部野(あべの)を扼していると聞き、清盛は寡兵では敵わないと恐れ、まず四国へ赴いて兵士を召し集めてから京へ入ろうとした。重盛は「事がぐずぐずと遅れれば、賊は必ず勅命を偽って我らを討つであろう。悔いても及ばない。寡兵をもって大軍を撃つのは、武門の常である。速やかに赴いて討死にすることこそ、後々の子孫の誉れとなるに十分だ」と言った。清盛はそれで決心がつき、遠く熊野の神に祈ってから京師へ向かった(注:愚管抄によれば、清盛が田辺に至ったとき、従っていた子の基盛・宗盛および兵士はわずか十五人であった。変事を聞いて動揺し、まず筑紫へ逃れて兵を挙げようとした。紀伊の湯浅宗重が兵三十余を率いており、京へ入るよう勧めた。熊野の湛快は弓矢と鎧を用意し、そのまま京師へ戻ったという。本書とは少し異なる)。一行が鬼中山(きなかやま)まで進んだとき、一騎の武者が近づいてくるのが見えた。皆顔色を失い、義平の使者かと思った。着いてみるとそれは六波羅からの使者で、伊勢の兵士三百余人が安部野で清盛を出迎えるという知らせであった。これでようやく人々の心は落ち着いた。重盛が京師の様子を尋ねると、使者は「六波羅には特に変わったことはありませんが、ただ播磨中将(はりまのちゅうじょう)が難を逃れて頼ってまいりました。信頼が勅命を偽って捕らえようとしましたが、匿いきれず引き渡しました」と答えた。重盛は怒って「困窮して我らを頼ってきた者を見捨てるのは不吉なことだ。後に誰が我らのために働いてくれようか」と言った。まもなく京師に戻り、天皇の御輿を六波羅にお迎えし、叔父の教盛(のりもり)・頼盛(よりもり)とともに、それぞれ千騎を率いて道を分けて信頼を攻めた。
¶重盛は兵卒を励まして「年号は平治、地は平安、我らは平氏である。この三つをもって占えば、賊を平らげることは疑いない」と言った。そこで兵を二隊に分け、五百騎を大宮大路に残し、残り半分を率いて待賢門(たいけんもん)を攻めた。信頼は大いに恐れて退き、兵は皆潰走した。重盛は進んで大庭(おおば)の椋(むく)の木の下まで至ると、源義朝は子の義平にこれを防がせた。義平は精鋭十六騎を率いて自ら戦い、重盛に狙いを定めた。重盛は戦いながら退き、大宮大路まで至ると、弓を杖について馬を休めた。部将の平家貞(たいらのいえさだ)が進み出て「これはまさに先祖の平将軍(たいらのしょうぐん)の再来です」と讃えた。重盛は再びその半数を率いて大庭に攻め入り、一戦してから退いた。義平が追ってくると、重盛は与三左衛門景安(よさざえもんかげやす)(注:景安は姓を欠く)・新藤左衛門家泰(しんとうざえもんいえやす)とともに脱出して走った。義平が追いつこうとしたとき、馬がつまずいて倒れた。鎌田政家(かまたまさいえ)が重盛を射たが、鎧が堅くて矢は通らなかった。さらに馬を射ると馬は倒れ、重盛は兜を落とした。政家が近づいてきたので、重盛は弓で打ちかかった。もたついているうちに、重盛は兜を着け直した。景安が駆けつけて政家を打ち倒した。義平が景安を刺そうとしたので、重盛は怒って自ら当たろうとした。家泰が馬を進めて義平の前に立ちはだかったが、これも政家に討たれた。重盛はその隙に六波羅へ逃げ延びた。義朝が攻めてきたが、重盛はこれを撃退した。このとき上皇は仁和寺(にんなじ)におられ、信頼らは赴いて助命を乞うた。上皇はこれを哀れみ、自ら書状をしたためて天皇に助命を願い出た。しかし使者が戻らないうちに、六波羅は兵士を遣わして信頼とその一味の藤原成親(ふじわらのなりちか)らを捕らえた。信頼は誅殺された。成親もまた死罪にあたるところであったが、重盛が助命を願い出て許され、自らその縄を解いた(注:平治物語)。この冬、その功により伊予守(いよのかみ)を兼ねた(注:公卿補任、平治物語、源平盛衰記)。翌年、従四位上に叙せられ、左馬頭・内蔵頭を歴任した。まもなく内蔵頭を辞し、右兵衛督となった。応保三年、従三位に叙せられた。長寛二年、正三位に進んだ。永万元年、参議となった(注:公卿補任)。
¶この秋、二条天皇が崩御し、諸寺の僧侶が会葬した。延暦寺(えんりゃくじ)と興福寺(こうふくじ)の二寺は葬列の順序を争い、兵を構えるまでになった。このとき「上皇が密かに僧徒に命じて平氏を討たせようとしている」との流言が立った。清盛は大いに驚き、兵を集めて自ら守りを固めた。重盛はこれを妄説だと強く主張し、法住寺殿(ほうじゅうじどの)に赴いて事情を質した。ちょうど上皇が自ら六波羅に赴いて事情を説明しようとし、御輿がすでに道中にあった。重盛はそこで供奉して戻った。清盛は病と称して出迎えず、上皇は御所へ帰られた。重盛は清盛を諫めて「我が一門は逆賊を討ち乱を治めてきており、その功績も多い。今どのような咎めを受ける理由があって、にわかにこのような事態になったのでしょうか。父上は言葉や顔色にお出しになるべきではありません。姦人がこれに乗じて讒言を醸し出すことを恐れます。我らがひとえに上を敬い下を思いやっていれば、神も我らを助けてくださるでしょう。何を恐れることがありましょうか」と言った。清盛はその度量の大きさに感嘆した。上皇もまた側近たちを戒めて「軽々しく根拠のない噂を立ててはならない」と言われた(注:源平盛衰記)。仁安元年、権中納言に任じられ、春宮大夫(とうぐうだいぶ)を兼ねた。仁安二年、従二位に叙せられ、権大納言に転じ、帯剣を許された。仁安三年、病により官を辞した。嘉応元年、正二位に叙せられた(注:公卿補任)。
¶嘉応二年、子の資盛(すけもり)が路上で摂政藤原基房(ふじわらのもとふさ)に行き会いながら、車から下りて礼を尽くさなかった。基房の従者は資盛の車の簾を斬りつけて辱めた。重盛は資盛を叱って「官位には高下があり、同列の者でさえ敬うべきなのに、まして摂政に対してはなおさらである。お前はもう十歳を過ぎていながら礼法をわきまえず、辱めを受けるのも当然だ」と言った(注:源平盛衰記)。基房は手を下した従者を縛って差し出し謝罪したが、重盛はかえって恐縮し、労をねぎらって送り返した(注:玉海、源平盛衰記)。清盛はこれを聞いて激怒し、報復しようとした。重盛は諫めて「資盛は幼く愚かで、摂政に対して礼を失いました。罪は従者にあるのに、それを問わずかえって尊貴の方を犯そうとするのは、道理に背くことではありませんか。そもそも摂政という臣は、天皇の政治を助け、万民を慈しみ育てるためにあるものです。どうして勢いをかさに着てこれを凌辱してよいでしょうか。しかも徳をもって人に勝つ者は栄え、力をもって人に勝つ者は滅びます。どうか父上、よくお考えください」と言った。清盛はこれを聞き入れず、密かに武士を使って基房を辱めさせた(注:源平盛衰記、平家物語。愚管抄および盛衰記の一説では、基房への報復は重盛の意向から出たものとする。玉海もその顛末を詳しく載せているが、ただ大納言〈重盛〉が甚だこれを憂えたとあるだけで、報復が重盛から出たという記述はない。今、その人柄から推し量るに、これほど角を突き合わせるようなことをするはずがない。おそらく当時世間の噂が入り乱れ、それに従って書き記されたのであろう)。重盛はこの一件で処罰を受けることを恐れ、事に関わった者を通じて資盛を伊勢へ追いやった(注:平家物語)。
¶承安元年、再び権大納言となった。承安四年、源雅通(みなもとのまさみち)が病により右近衛大将を辞したが(注:公卿補任)、公卿の多くがその後任を望んだ。重盛は上奏して「官職の設けには文官と武官の違いがあります。ひたすら名門の家柄ばかりを選ぶのは、近頃の悪しき風潮です。臣はもともと武門の出であり、しかも大臣の子が大将に任じられるのは古今の通例です。どうかこの職に就かせていただきたく存じます」と述べ、ついに右近衛大将を兼ねることとなった(注:源平盛衰記)。治承元年、左近衛大将に転じ、まもなく内大臣を拝命した(注:公卿補任)。この年、延暦寺の僧が訴訟を起こし、日吉(ひえ)の神輿を奉じて京師に入ろうとしたため、源氏・平氏の諸将に命じてこれを防がせた(注:源平盛衰記、平家物語)。重盛は三千余騎をもって陽明門・待賢門・郁芳門の三門を守り、これを防ぎ退けた(注:平家物語。源平盛衰記では三千を三万とする)。
¶これより先、藤原成親(ふじわらのなりちか)が徒党を組んで密かに平氏を滅ぼそうと謀ったが、事が漏れて捕らえられた。清盛は武士に命じて成親を直ちに斬らせようとした。重盛は諫めて「彼は法皇の寵臣です。その祖先の顕季(あきすえ)が白河院の御代に仕えて以来、家を伝えることすでに久しく、爵位も高いものです。今、私怨によって急いでこれを殺すのは、よいこととは思えません。ただ都の外へ追放し、他の者への戒めとするのがよいでしょう。この言葉は真に国家のためを思ってのことであり、彼と縁戚だからではありません。昔、嵯峨天皇の御代に藤原仲成(なかなり)が誅殺されました。その後、二十五代にわたって死刑は廃止されていましたが、保元の頃、信西(しんぜい)が権勢を振るい、源氏・平氏両氏の多くを斬り、宇治左府(藤原頼長)の墓を暴きました。その二年後、信西の墓もまた信頼によって暴かれました。これはその報いではないでしょうか。今、我が一門は貴く盛んなること世に冠たるものですが、思い煩うべきはただ子孫のことのみです。どうか父上、善行を積む慶びをお考えになり、子孫のために少しこらえてください」と言った。清盛の怒りはやや解けた。重盛は退出して武士に「父上は一時の怒りに任せておられるが、後にきっと悔やまれるはずだ。たとえ命令があっても、決して刃を加えてはならぬ」と戒めた。これによって成親は死を免れることができた。
¶重盛が館に戻った後も、清盛の怒りは収まらず、法皇を別の宮に幽閉しようとして、子弟や家臣を大勢呼び集めた。そこで平氏の一族は皆、甲冑に身を固めて清盛の邸に参集した。重盛は遅れて到着し、中門に至ると、人々が烏帽子に直衣といういでたちの重盛を見て、袖を引いてこう言った。「一大事があって殿をお呼びしております。父上はすでに甲冑をお召しなのに、殿はまだそのようにくつろいだ装束でいらっしゃるのですか」(注:平家物語ではこれを平貞能〈たいらのさだよし〉の言葉とする)。重盛は言った。「それは何ということを言うのか。近衛大将は兵権の帰するところであり、私はたまたまこの職を汚している身だ。みだりに甲冑を着るのは、甚だふさわしくない。もし賊が猖獗を極め、官軍が敗れるようなことがあれば、大臣の重い身であっても、甲冑を着け武具を執るべきであろう。私にはまだ、諸君のなさろうとしていることがどのようなものか分からない。敵として排斥しようとしている相手とは誰なのか。そもそも大事というものは、朝廷にかかわることを言うのだ。これは私事であって、どうして大事と言えようか」。人々は皆どよめいた(注:平家物語、源平盛衰記を参照して訳出)。清盛は内心恥じ入ったが、装束を着替える間もなく、急いで立ち上がり、白い狩衣を着けたまま出てきた。甲冑が見えるのを恐れて、しきりに手で襟を正したため、縫い目が裂けるほどであった。それでもゆとりがあるふうを装い、落ち着いた様子で言った。「来るのがなぜこんなに遅いのだ。西光(さいこう)を拷問して、事情はすっかり分かった。成親の謀反は、実は法皇に由来するもので、皆いやしい小人どもが宮中に近侍し、身分不相応な出世を望んだ結果である。それなのに法皇は軽々しく事を起こされた。今こそ法皇を他所へお移しし、禍の根を除かねばならぬ」。
¶重盛は涙を流して言った。「今、父上のなさりようを見て、悲しみと恐れが同時にこみ上げてまいります。太政大臣にまで昇った者が自ら甲冑を身にまとったなどということは、いまだかつて聞いたことがございません。まして法衣の上に着けるなどとは、なおさらです。仏の説かれる四恩のうち、国恩こそが最も重いと聞いております。これを知る者が人であり、知らぬ者は禽獣です。そもそも我が一門は、桓武天皇の血筋とはいえ、中古以来これといって顕達した者はおりませんでした。平将軍(貞盛)が平将門を討った時も、その恩賞は受領にとどまるものでした。刑部卿(平忠盛)が得長寿院を造営してようやく昇殿を許された時でさえ、人々はなお過分な褒賞だと思ったのです。それが父上は下級の官から身を起こし、位は人臣を極めるまでになりました。重盛のような愚か者でさえ、父祖の恩蔭によって高位高官を賜っております。一門の所領は天下のほとんど半ばに及び、寵愛と栄華はこれ以上ないほどです。それなのに今にわかにこの厚恩を忘れ、皇威を軽んじるならば、鬼神は必ずお怒りになり、滅亡はそう遠くありません。重盛は深くこれを恐れます。今は謀反の首謀者一、二名を捕らえ、罪ある者を罰すればそれで十分でございましょう。どうして至尊の御方にまで迫ろうとされるのですか。かつまた、父上がたとえそれをなさろうとしても、重盛は国恩に背くことに忍びません。私の部下には決死の兵二百がおり、法皇をお守りするには十分です。とはいえ、子として父に逆らうこともまた忍びないことです。かつて源義朝は父を殺めましたが、それは主君の命によるものであったとはいえ、悖逆の罪をどうしようもありませんでした。重盛は、孝子であろうとすれば不忠となり、忠臣であろうとすれば不孝となります。進退窮まりました。もし私の言葉をお聞き入れくださらないのであれば、どうかまず重盛を斬ってください」。清盛は「余命はいくばくもない。ただ子孫のことばかりが気にかかるのだ。これから先は、そなたの計らうままにするがよい」と言い、立ち上がって奥へ入った。
¶重盛は弟たちを叱って「父上は老いて衰えられ、このような良からぬことを企てられたのだ。諸君はなぜ懸命に諫めず、かえって賛成したのか」と言った。また将兵たちを戒めて「お前たちは私の言葉を固く守り、決してみだりに動いてはならぬ。もし父上に従おうとするなら、まず私を斬ってからにせよ」と言った。重盛は自邸に戻ってからも、なお清盛が乱暴なことをするのではないかと案じ、急を告げて厳戒態勢をとらせた。将兵たちは皆「この殿は今まで軽々しく事を起こされたことはない。今にわかにこの召集があったからには、どうして急いで駆けつけずにいられようか」と言った。難波経遠(なんばつねとお)・瀬尾兼康(せのおかねやす)・平家貞、およびその子の貞能(さだよし)らが我先にと小松第(こまつてい)に集まった。そこで平盛国(たいらのもりくに)に命じて兵を点呼させたところ、現有兵力は二万余に及んだ(注:平家物語では一万余とする)。そこで家貞・貞能を遣わして清盛に「法皇が父上の謀をお聞きになって激怒され、重盛に討伐の詔を下されました。父上が突然の事態に非常のことがあってはと恐れ、それでお二人を遣わして警護させることにしました。私自ら身をもって固くお願い申し上げますので、どうかお驚きになりませんように」と伝えさせた。清盛は大いに慌てふためいて「ひたすら内府(重盛)の思うようにするがよい」と言った。重盛は家貞らに「私は方便を用いて父の過ちを救おうとしたが、かえってその心を傷つけてしまった。これがどうして子としての道であろうか」と言い、涙をはらはらと流した。聞く者は皆悲しみに胸を痛めた(注:源平盛衰記)。それから兵士たちをねぎらって「諸君は約束の時を違えず、その信義は誠に見事である。ただ先に聞くところがあって呼び集めたが、事はちょうど解決した。速やかに引き取るがよい。今後はこれを当たり前のこととして慣れてはならぬ」と言った。法皇はこれを聞いて涙を流し、「重盛とはどのような人物か、徳をもって怨みに報いるとは」と仰せられ(注:源平盛衰記、平家物語)、「朕はこの人より先に命を終えたいものだ。勁松(けいしょう)は歳寒に彰れ、貞臣は国の危うきに現れるというが、まさにこの人のことを言うのであろう」と仰せられた(注:源平盛衰記)。
¶清盛の横暴は日ごとに甚だしくなり、重盛は常日頃から憂え恐れていた。ある夜、重盛は源頼朝が神に祈ると、神が父の首を斬るという夢を見た。目覚めて悲しみ泣いた。瀬尾兼康が参上した折、人払いをしてその夢のことを告げると、兼康もまた重盛と同じ夢を見ていたという。重盛はいよいよ悲しみを深くした。ちょうど子の維盛(これもり)が訪れたので、酒を飲ませることにした。貞能が酌をし、重盛は貞能に命じて維盛に太刀を与えさせた。維盛は家伝の宝刀「小烏(こがらす)」だと思ったが、よく見るとそれは無文(むもん)の刀であった。維盛は顔色を失い、貞能が間違えたのではないかと疑った。重盛は涙を流しながら「そなた、深く怪しむには及ばぬ。これは大臣の葬儀の折に帯びる刀である。父上が百年の後(お亡くなりになった後)は、私がこれを帯びるはずのものだ。今、私には思うところがあって、それでそなたに与えるのだ」と言った。維盛はそれ以上尋ねることができず、泣きたいのをこらえて退出した(注:平家物語。源平盛衰記も参照して訳出)。まもなく、重盛は左近衛大将の職を解かれた。治承三年、内大臣を辞した(注:公卿補任)。重盛は熊野社に参詣し、自ら死を祈った(注:山槐記、源平盛衰記、平家物語。盛衰記・平家物語には、重盛が証誠殿を拝したとき、その身から光が生じたが、従者はこれを不吉として告げなかったとある。ここでは採らない)。
¶帰路、岩田川(いわたがわ)を通ったとき、折しも真夏の盛りで、維盛やその子どもたちは川に入って涼を取ったため、衣服が濡れそぼった。左右の者はそれが喪服を着ているように見えるのを不吉に思い、着替えるよう願い出た。しかし重盛は聞き入れず、これで願いが遂げられたと思った。まもなく病の床に就いた。ちょうど宋(そう)から医師が来ていたので、清盛は治療を受けるよう勧めた。重盛はこれを辞退して「命というものは天の授けたもうところであり、治療して何になろうか。私がもし彼の力を借りて治ったならば、それは我が国に医者がいないことを示すようなものだ。まして大臣の位にある者が、私的に異国の素性の知れぬ者に会うわけにはいかない。たとえ私が助からなくても、どうして国の恥を忍ぶことができようか」と言った。清盛も無理強いすることはできなかった(注:源平盛衰記、平家物語)。病はいよいよ重くなり、天皇は薬を賜り、法皇も見舞いに臨まれた(注:山槐記。天皇が薬を賜ったことは百錬抄による)。剃髪して法名を証空(しょうくう)といった(注:帝王編年記。平家物語では浄蓮、八坂本平家物語では照空とする)。薨去したとき、年は四十二であった(注:公卿補任、山槐記、帝王編年記。源平盛衰記、平家物語では四十三とする)。世に小松殿(こまつどの)と称された(注:平家物語)。
¶重盛はその部屋の四方に、それぞれ十二体の仏像を安置し、像ごとに長明灯籠(じょうみょうとうろう)を懸け、美女四十八人を精選してその奉仕に当たらせた。日没になるたびに、礼讃を終えると、鈸(はち)を打たせて歌を歌わせ、自らはその中央に座って聞いた。当時の人々はこれにちなんで灯籠大臣(とうろうのおとど)とも称した(注:本書〈大日本史編纂の典拠書〉によれば、重盛の采地である陸奥気仙郡(むつけせんぐん)から産する金千三百両を朝廷に献上したという。当時、宋人の妙典(みょうてん)が筑紫に来ていたので、重盛はこれを召して金百両を与え、さらにこう頼んだという。「今そなたに檜材一船分と、黄金千二百両を託す。そのうち二百両は育王山(いくおうざん)の僧侶に施し、千両は宋の朝廷に納めてほしい。私のために育王山に小堂を一つ建て、僧の食料となる田を置き、私の冥福を修めてもらいたい」。妙典はそこで帰国して宋の朝廷に願い出、宋の皇帝はこれを許したという。考えるに、重盛は日頃から国の体面を重んじ、まさに病にあっても宋の医師を拒んだほどであるから、私的に宋の皇帝に願い出るようなことをするはずがない。この当時、宋の僧徳光(とくこう)が育王山を主宰しており、それゆえ後世の人々が徳光と僧正瑛(えい)の頌(しょう)とを結びつけて、これを贈金の証拠と付会したものであろう。実際には何のかかわりもない。本書のこの説は、他のどの書にも載っておらず、それゆえ今はこれを採らない)。
¶以前、重盛が相撲節会(すまいのせちえ)の行事を務めたとき、大勢の人の中でひそかにこう言う者があった。「この殿は福が多く、近衛大将にまで至った。容姿も人柄も、また人並み外れている。このような澆季(ぎょうき、道徳の衰えた末の世)にはめったに見られない人物だ。ただ、長生きはできないのではないかと恐れる」。果たしてその言葉の通りとなった(注:源平盛衰記)。かつて中宮に事を奏上していたとき、一匹の蛇が膝元まで這い寄ってきたことがあった。中宮を驚かせてはと恐れ、重盛は静かにその頭と尾を捉え、蔵人の源仲綱(みなもとのなかつな)を呼んでこれを片付けさせた。仲綱は袖に包んで運び出し、少しも嫌がる様子を見せなかった。重盛はこれを喜び、翌日、駿馬と良刀を贈り、自ら書状をしたためて「昨日のふるまいは、まるで還城楽(げんじょうらく)の舞のようであった」と褒めた。その人柄と度量はこのようなものであった(注:源平盛衰記、平家物語)。
¶子には維盛・資盛・清経(きよつね)・有盛(ありもり)・師盛(もろもり)・忠房(ただふさ)・宗実(むねざね)がいる。宗実は左大臣藤原経宗(ふじわらのつねむね)の養子として出た。重真(しげざね)・行実(ぎょうじつ)・重遍(じゅうへん)・清雲(せいうん)は、いずれも僧となった。
平資盛
¶平資盛(たいらのすけもり)は和歌を得意とした(注:平氏系図)。仁安元年、従五位下に叙せられ、まもなく越前守となった(注:公卿補任)。路上で摂政基房に行き会いながら車から下りなかったため(注:玉海、源平盛衰記)、重盛はその不敬を責めて伊勢へ追放した(注:平家物語)。翌年、帰京を許された。承安四年、侍従を兼ねた。治承二年、右近衛少将となり、累進して従四位上に叙せられた(注:公卿補任)。治承四年、近江以東の源氏一族が各地で蜂起し、こぞって源頼朝に応じた。資盛は叔父の知盛(とももり)らとともに兵を率いてこれを討ち、山本義経(やまもとよしつね)・柏木義兼(かしわぎよしかね)と戦い、これを打ち破って敗走させた(注:玉海、源平盛衰記)。養和元年、右近衛権中将となった。寿永二年、蔵人頭に補せられ、従三位に叙せられた(注:公卿補任)。安徳天皇が西海(さいかい)へ赴かれると、一族はこぞってこれに従った。資盛は日頃から法皇の眷遇(けんぐう)を得ていたので、鳥羽から法住寺殿へ戻って参じた。しかし法皇はすでに御所を出られた後であったので、人を遣わして事の次第を奏上させたが、返答がなかったため、そのまま西海へ赴いた(注:愚管抄)。翌年、源範頼(みなもとののりより)・義経(よしつね)が一谷城(いちのたにじょう)を攻めてきたので、資盛は七千騎を率いて三草山(みくさやま)でこれを防いだ。夜、義経に敗れ(注:東鑑、源平盛衰記。平家物語では兵三千とする)、屋島(やしま)へ逃れた(注:源平盛衰記、平家物語)。壇ノ浦の戦いに敗れると、海に身を投げて死んだ(注:東鑑、平家物語。玉海の元暦元年二月十九日の記事には、資盛・貞能らは豊後(ぶんご)の土豪に捕らえられたとある。源平盛衰記もまた、豊後の人が資盛・清経を捕らえ、その首を範頼に送ったとする。どちらが正しいかは分からない)。
¶子に盛綱(もりつな)がおり(注:平氏系図)、北条氏の家臣となった(注:一本織田系図)。その後の子孫は長崎氏となった(注:平氏系図、異本織田系図)。次に親実(ちかざね)がおり(注:実は真とも書く)、その母は親実を抱いて近江の津田(つだ)に身を隠した。土地の郷長がその母を妻に迎え、親実を育てて越前織田(おだ)神社の神官の子とし、織田権大夫(おだごんのたゆう)と号した(注:織田系図。異本も参照)。また津田先生(つだせんせい)とも称した(注:異本平氏系図。異本織田系図によれば、資盛の子として、長男は盛国で資盛が伊勢在住中に生まれた子であり、次に実忠〈さねただ〉がいて鎌倉に仕え関左近大夫と号し、次に盛綱、次に親実がいるという。他に証拠となる書がないので、参考として付け加える)。剃髪して法名を覚盛(かくじょう)といった。かつて和歌を詠んで思いを寄せてこう言った。「五月雨は(佐美馱禮波)、津田の入江の(豆馱乃伊利延乃)、澪標(美乎豆玖志)、見えぬも深き(美延奴毛布加幾)、驗なりけり(志留志奈利計利)。」(注:尾張の法華寺(ほっけじ)所蔵の織田系図によれば、この歌は資盛が西海へ赴く日に親実の母に贈った歌であるという。また安土山総見寺(そうけんじ)所蔵のものによれば、権中納言藤原為重(ためしげ)がこの歌を親しく書写したとあり、その奥書に「覚盛法師、俗名は親実。小松内大臣重盛公の次男資盛卿の子である」とある。今はこれに従う)。
平清經
¶平清経(たいらのきよつね)は正四位下に叙せられ(注:平氏系図)、左近衛中将となった。寿永二年、宗盛(むねもり)らとともに太宰府(だざいふ)を出て、船で豊前(ぶぜん)の柳浦(やなぎのうら)に至った。一門と国家の情勢が日ごとに危うくなり、もはや立て直しようがないと見て取ると、ある夜、月を眺めながら慷慨し、笛を吹き朗詠したのち、ついに海に身を投げて死んだ(注:源平盛衰記、平家物語)。
平有盛
¶平有盛(たいらのありもり)は従四位下に叙せられ、左近衛少将となった。寿永三年、資盛に従って兵を率い三草山に陣を敷いたが、源義経に敗れ、屋島へ逃れた(注:東鑑、源平盛衰記、平家物語)。壇ノ浦の戦いに敗れると、力戦の末に討死した(注:源平盛衰記)。
平師盛
¶平師盛(たいらのもろもり)は備中守(びっちゅうのかみ)であった。一谷城が陥落すると、船に乗って逃れようとした。そこへ一人の武士が現れ、その船に乗せてほしいと頼んだ。師盛はこれを許した。ところがその武士は体格が非常に大きく、飛び乗った拍子に船が転覆してしまった。師盛は水に落ちた。源義経の配下の武士、伊勢義盛(いせよしもり)が鉄の熊手でこれを引っかけて斬った(注:源平盛衰記、平家物語。平家物語では伊勢義盛を本多親経〈ほんだちかつね〉とする。東鑑では遠江守源義定〈みなもとのよしさだ〉がこれを討ち取ったとする。どちらが正しいかは分からない。今はより詳しい方に従う)。
平忠房
¶平忠房(たいらのただふさ)は侍従となり、丹後守(たんごのかみ)に任じられたので、丹後侍従と称された(注:東鑑、平家物語)。平氏がすでに滅んだ後、文治元年、捕らえられて鎌倉へ送られた(注:平家物語)。頼朝は兵衛尉藤原基清(もときよ)に命じて(注:東鑑。源平盛衰記では左兵衛尉宝原〈たからはら〉とする)、忠房を京師へ護送させた。近江に至ってこれを殺した(注:源平盛衰記、平家物語。長門本平家物語によれば、忠房は屋島城が陥落した後、行方が分からなくなっていたが、後に紀伊へ赴き、湯浅宗重(ゆあさむねしげ)を頼ってその城に拠った。平氏の残党である平盛嗣(もりつぐ)・藤原忠光(ただみつ)・その弟の景清(かげきよ)らや、伊賀・伊勢両国の武士の多くがこれに従った。源頼朝は熊野別当湛快(たんかい)らに命じて急ぎこれを攻めさせたが、城は堅固で落ちなかった。湛快は増援を求めた。そこで頼朝は僧文覚(もんがく)を遣わして忠房を誘わせた。宗重もまた勝ち目がないと見て、忠房に降伏を勧めた。忠房は源義経のもとへ送られ、義経はさらに鎌倉へ送った。頼朝は忠房を引見して優しい言葉をかけ、京師へ帰らせたが、道中近江の瀬多(せた)に至ったところでこれを殺したという。保暦間記もまた、忠房は密かに屋島を脱出し、熊野に身を隠していたところ、平氏の残党が次第に集まってきたが、戦いに敗れて捕らえられ、鎌倉に至って誅殺されたとする。考えるに、この件については平家物語の諸本の間で記述に相違がある。もし本当にこのような経緯であったなら、東鑑や源平盛衰記などの書が書き漏らすはずがない。疑わしい説であるので、ここでは採らない)。
平維盛
¶平維盛(たいらのこれもり)は、仁安の頃、美濃権守(みののごんのかみ)となり、まもなく右近衛権少将に任じられた。承安二年、中宮権亮(ちゅうぐうごんのすけ)を兼ね、従四位下に叙せられた(注:公卿補任)。容姿が美しかった。安元の頃、法皇の五十の賀が催された際、維盛は青海波(せいがいは)を舞い、見る者は皆その美しさに見とれた(注:玉海、安元御賀記、源平盛衰記、平家物語、右京大夫家集)。人々はこれを桜梅少将(おうばいのしょうしょう)と呼んだ(注:源平盛衰記)。源頼朝が挙兵すると、維盛は追討使に任じられ、薩摩守忠度(ただのり)・参河守知度(とものり)がこれを補佐した(注:玉海、山槐記、源平盛衰記)。かつて先祖の因幡守正盛(まさもり)が源義親(よしちか)を討伐した先例にならい、駅鈴(えきれい)を賜ったが節刀(せっとう)は授けられなかった(注:百錬抄、源平盛衰記、平家物語)。九月二十二日、五千余騎を率いて(注:玉海)福原(ふくはら)を出発し(注:福原出発の日については、平家物語の諸本の間でかなりの相違がある。ここでは山槐記、源平盛衰記に従う)、進軍した(注:玉海、山槐記)。十月十日、駿河国府(するがこくふ)に至った(注:源平盛衰記)。
¶足柄山(あしがらやま)を越えて平地に出て敵を待とうとした。部将の藤原忠清(ただきよ)は「福原を出発した日、相国(清盛)は直々に『すべて軍中のことは忠清に任せる』と命じられました。これは殿御自身がお聞きになったことです。それゆえ私はあえて拙い考えを申し上げます。今、伊豆・駿河の兵はまだ我らに従っておらず、烏合の衆を率いて遠く険阻な地に攻め入るのは、甚だ危険な道です。富士川(ふじかわ)に臨んで陣を張るのに越したことはありません」と言った。維盛はこれに従った(注:平家物語)。麾下の武士、斎藤実盛(さいとうさねもり)はかつて関東にいたことがあり、東国の事情に詳しかった。維盛は実盛を呼んで「頼朝の軍勢の中で、弓の名手や強弓を引く者は、そなたのような者がどれほどいるのか」と尋ねた。実盛は答えて「殿は実盛を弓の名手とお考えですか。おおよそ東国の兵で弓をもって称される者は、大矢は十四、五束(そく)を下りません。実盛のような者は、車に載せ枡で量るほど数え切れないほどおります。しかもその兵馬は精強で、東国の兵一騎は、ほとんど我が方の二、三十騎に匹敵します。我が兵は五万、敵は二十万と号しております。我らは客であり敵は主であって、彼らは地形に精通し、前を遮り後ろを断てば、我らは必ず敗れましょう。まずは武蔵・相模の兵士を招き寄せ味方につけてから、しかる後に攻めるべきです」と言った。将兵たちは皆恐れをなし、もはや戦う意気を失った(注:源平盛衰記。平家物語も参照して訳出)。まもなく実盛は暇を告げて京師へ帰り、維盛は不快に思って「実盛と一緒でなければ、軍を進められないというのか」と言った。そこで忠清を先鋒として(注:源平盛衰記、南部本平家物語)、富士川に進んで陣を敷いた。頼朝が黄瀬川(きせがわ)に至ると(注:東鑑、源平盛衰記、平家物語)、頼朝の将である武田信義(たけだのぶよし)が維盛に書状を送ってきた。維盛は激怒した。忠清は維盛にその使者を斬るよう勧めた(注:玉海、山槐記。山槐記では忠清を忠景とする。南都本・長門本平家物語では信義の使者を頼朝の使者とする)。
¶二十日、頼朝は進んで賀島(かじま)に陣を敷き、信義は夜に陣の後方から維盛の陣営を襲った(注:東鑑)。平氏の軍勢は水鳥が驚いて騒ぎ立てる音を聞き、敵の大軍が押し寄せてきたと思い込み、陣中は大混乱に陥って人馬が踏み合い、武具や軍需物資を捨てて逃げ去った。当時の人々はこれを歌に詠んで嘲笑した(注:東鑑、源平盛衰記、平家物語を参照して訳出)。維盛には初め逃げる気はなかったが、忠清がしきりに勧めたため退いた(注:玉海)。頼朝配下の飯田家義(いいだいえよし)父子は川を渡って追撃したが、あえて防ぎ戦おうとする者はいなかった。ただ伊勢の人、伊藤武者次郎(いとうむしゃじろう)だけが力戦して討死した(注:東鑑)。維盛らは退いて瀬多(せた)に至り、まず使者を遣わして事の次第を申し上げた。清盛は大いに怒って「勅命を奉じて出陣した以上、進むことはあっても退くことはない。もし官軍が不利となり、戦場に骨をさらすことになっても、恥とするには足りない。追討の任を受けながら、刃に血ぬることもなく退いたなどとは、いまだかつて聞いたことがない。お前たちはどの面下げて再び京師に入ろうというのか。山林に身を隠すべきである」と言った。維盛は恐れて京師に入ることができず、後にひそかに京師へ来て、検非違使藤原忠綱(ただつな)の家に身を寄せた(注:玉海)。清盛はこれを聞いて維盛を追放し忠清を斬ろうとしたが、実現しなかった(注:源平盛衰記、平家物語)。翌年、叔父の重衡(しげひら)とともに、尾張(おわり)の墨俣(すのまた)で源行家(ゆきいえ)を撃ち、これを大いに打ち破った(注:源平盛衰記)。まもなく右近衛権中将に転じ、蔵人頭に補せられ、続いて従三位に叙せられた(注:公卿補任、明月記)。
¶寿永二年、維盛は十万の兵を率いて北陸の源義仲(みなもとのよしなか)を討伐した。義仲はこれを聞き、配下の仁科守弘(にしなもりひろ)・林光明(はやしみつあき)・倉光成澄(くらみつなりずみ)・匹田俊弘(ひきたとしひろ)らを越前(えちぜん)に遣わして燧城(ひうちじょう)を守らせた。平泉寺(へいせんじ)の長吏(ちょうり)斉明(さいめい)もまたその配下千余人を率いてこれに加わった。この城は北陸道第一の要害であり、前後を山に阻まれ、麓には谷川があった。北陸方の兵は木や石を積んで道を塞ぎ、谷川をせき止めたため、水は湖のようにあふれていた。維盛はここに至って攻めることができず、岩神山(いわがみやま)に陣を敷いた。斉明は二心を抱き、書状をしたためて矢に結びつけて射込んだ。平氏はこれを手に入れ、堰があることを知ると、兵を出してこれを切り崩した。たちまち水が涸れ、平氏の軍が攻め込むと、斉明はこれに内応し、守弘らは支えきれずに城を捨てて逃げた。平氏軍はこれを追撃し、河上城(かわかみじょう)、三条野(さんじょうの)、篠原(しのはら)、安宅(あたか)で次々に打ち破り、林(はやし)・富樫(とがし)の城を落として、京師に戦勝を報告した。
¶斉明は維盛に「義仲は今、越後国府(えちごこくふ)にいます。我が軍が連勝して越前・加賀を平定したと聞けば、必ず全軍を挙げてやって来るでしょう。もし越中(えっちゅう)に攻め入られれば、大きな害となることを恐れます。急いで兵を遣わし、寒原(さむはら)の険を固めて、その進路を塞ぐべきです」と告げた。維盛はそこで平盛俊(たいらのもりとし)を遣わし、数千騎を率いて赴かせ、般若野(はんにゃの)に進み陣を敷いた。義仲は先んじて今井兼平(いまいかねひら)に六千騎を率いさせて攻めさせた。すでに寒原を越えて越中に入り、盛俊と交戦した。卯の刻から未の刻まで戦い、盛俊の兵は多くの死傷者を出し、散り散りになった兵をまとめて加賀へ戻った。そこで維盛は諸将と協議し、三万騎を分けて志雄山(しおやま)へ向かわせ、自らは七万余騎を率いて礪波山(となみやま)へ向かった。義仲は五万余騎を率いて越後から到着し、礪波山の麓に陣を敷き、叔父の行家(ゆきいえ)に志雄山を攻めさせた。維盛らは地勢が険阻であるから義仲も攻囲に苦しむであろうと考え、猿馬場(さるばば)に陣営を結び、義仲の陣とは二町ほどの距離を置いた。義仲がまず弓の名手十五騎を出して矢を放つと、維盛もこれに応じた。交代で繰り返し、互いにその数を倍にしながら、日が暮れるまで続いた。この夜、義仲は軍をひそませて奇襲し、鬨(とき)の声は山谷に鳴り響いた。維盛の全軍は浮き足立って混乱し、我先にと逃げ惑って南の谷に落ち込み、死者は一万八千余に及んだ(注:源平盛衰記。保暦間記では五万余、平家物語では七万余とする)。維盛はわずかに残った兵をまとめて、加賀へ逃れた(注:源平盛衰記、平家物語)。
¶維盛は佐良嶽(さらだけ)を守り、義仲は進んで維盛と平岳野(ひらたけの)で戦った。両軍とも十数日にわたり兵馬を休めた。維盛は義仲が襲来しようとしていると聞き、川を渡って夜のうちに逃げたため、溺死した兵士は千余人に及んだ(注:源平盛衰記)。そこで安宅(あたか)の港に陣を敷き、橋を撤去して義仲を待ち構えた。義仲は渡ることができず、まず鞍を置いた馬を放って川の深さを試させた。馬が陣中に突入してきたので、人々はこれを敗走兵が置き去りにした馬だと思った。畠山重能(はたけやましげよし)は「そうではない。これは敵が水深を試しているのだ。おそらく敵はすぐ近くにいるに違いない」と言った。重能はそこで弟の小山田有重(おやまだありしげ)とともに篠原岳(しのはらだけ)に登って様子をうかがった。案の定、義仲は川を渡って攻めてきた(注:源平盛衰記、長門本平家物語。篠原岳は長門本平家物語による)。重能がまず進み出て、諸将がこれに続き、双方入り乱れて戦った。ここで維盛らも兵を整えて義仲と会戦したが、戦いながら退いた。義仲は成合(なりあい)まで追撃し、実盛をはじめとする精鋭の多くが討死した(注:源平盛衰記)。維盛は潰走した兵をまとめて京師へ戻った(注:玉海、源平盛衰記、平家物語。平家物語の諸本では、礪波山・志雄山以下の各戦いにおける将士の姓名に相違があるが、ここでは逐一注記しない)。
¶まもなく京師は守りきれなくなり、天皇は西海へ行幸された(注:玉海、源平盛衰記、平家物語)。宗盛は一族を挙げてこれに従ったが、維盛は軍事に心を向けず、日夜妻子のことばかりを思っていた。寿永三年、側近三人とともに密かに屋島を抜け出し、船で紀伊まで行き、京師に入って妻子に会おうとしたが、道が塞がれていて果たせなかった。高野山(こうやさん)に登り(注:源平盛衰記、平家物語)、その途中、粉河寺(こかわでら)に立ち寄って僧源空(げんくう)に会い、戒を受けた(注:源平盛衰記)。重盛の旧臣であった斎藤時頼(さいとうときより)は出家してその寺におり、たまたま維盛はその庵に立ち寄った。時頼は一目見て驚きと悲しみが入り混じり、泣きながらその事情を尋ねた。維盛は「私は愛執を断ち切ることができず、常に子どもたちのことを思ってしまう。内府(宗盛)はそれを察せず、私を池大納言(頼盛)になぞらえてやや猜疑の目で見るようになった。それでここまで逃れてきたのだ。私は今、一度熊野の神を拝んでから、入水して死のうと思う」と言った。そこで二人で連れ立って高野山に登り、髪を剃って僧となった。時に年二十五であった(注:源平盛衰記、平家物語。本書ではともに二十七とするが、公卿補任によってこれを正した)。従者を屋島へ帰らせ、弟の資盛に「唐皮(からかわ)の鎧と小烏の太刀は、代々伝わる至宝である。私に伝わった後、先ごろ貞能に預けた。そなたがこれを受け継ぐべきである。もし乱が治まる日が来たら、必ず私の子に伝えてほしい」と言い伝えた。それから熊野に至り、舟に乗って那智(なち)の海に漕ぎ出た(注:源平盛衰記、長門本平家物語。盛衰記が引く禅中記〈ぜんちゅうき〉によれば、維盛は密かに京師に戻り、法皇の御所に参って助命を乞うた。法皇はこれを憐れみ、頼朝に死を許すよう命じた。頼朝はまず鎌倉に連れて来てから協議すべきだと奏上した。維盛は逃れられないと悟り、数日間食を断った。相模に至り、下痢を患って死んだという)。別伝によれば、従者たちは維盛が入水して死んだように見せかけ、実は牟漏郡(むろぐん)藤縄(ふじなわ)に身を隠して暮らし、子孫はついにその土地の人となったという。那智に香を貢いだことから、その地を香疁(こうろう)と名付けたとも伝える。小松氏・色川氏は、その子孫である(注:源平盛衰記の一説、色川氏系図を参照して訳出。源平盛衰記および平家物語の諸本は、維盛が実際に那智の海上で死んだとする。太平記では十津川に身を隠したとする)。
¶維盛には六代(ろくだい)という子がいた。文治元年、北条時政(ほうじょうときまさ)が京師に至り、平氏の子孫を探し求めた。時政は六代が母とともに遍照寺(へんじょうじ)のそばの菖蒲谷(しょうぶだに)に隠れていると聞き、赴いてこれを捕らえた。その乳母は、神護寺(じんごじ)の僧文覚(もんがく)が頼朝から篤く信任されていると聞き、駆けつけて救いを求めた。文覚は時政に会って熱心に助命を願い出た(注:源平盛衰記)。時政は聞き入れず、「二品(にほん)のご命令であるから、私の一存でどうこうできるものではない」と言った(注:源平盛衰記)。文覚は「どうか二十日ほど期限を延ばしていただきたい。私自ら頼朝に願い出るつもりだ」と言い、時政はこれを許した(注:源平盛衰記、平家物語)。文覚は鎌倉へ使者を送って「維盛の嫡子六代は、私がかねてより弟子とすることを許していた者です。時政殿はあなた様のご命令によって平氏の子孫を根絶やしにしようとしており、六代は今捕らわれの身となっております。あれほど幼く弱い者を放っておいたとして、何の憂いがございましょうか。まして彼の祖父(重盛)は、あなた様に大きな恩徳がございました。どうかしばらく六代を私にお預けください」と伝えさせた。頼朝はこれに逆らうことができず、これを許し、自ら書状をしたためて時政に諭し、その死を許した(注:東鑑。源平盛衰記や平家物語の諸本では、文覚が自ら鎌倉に赴いて陳情し、あれこれ手を尽くして救ったとするが、ここでは採らない)。
¶ところが文覚の使者は期限を過ぎても到着せず、時政は六代を連れて鎌倉へ戻る途中、駿河の千本松原(せんぼんまつばら)に至って、これを斬ろうとした。そこへ一人の僧が馬を走らせて東からやって来た。間に合わないのではと恐れ、笠を高く掲げて遠くから合図を示した。時政はこれを見て刑の執行を止めた。まもなく文覚からの書状が届き、ついに六代の身柄は文覚に預けられた(注:源平盛衰記、平家物語を参照して訳出)。頼朝は文覚に書状を送り、たびたび六代の様子を尋ねた。文覚は「六代は取るに足らぬ者ですから、お気にかけるまでもありません」と答えた。六代の母は不安に思い、剃髪するよう勧め、名を妙覚(みょうかく)と改めさせた。世に三位禅師(さんみのぜんじ)と称された(注:平家物語。妙覚の名は禰寝氏家譜による)。建久五年、妙覚は文覚の書状を携えて鎌倉に至り、大江広元(おおえのひろもと)のもとで事情を述べて恩に感謝した。頼朝は重盛の徳に感じ入り、妙覚を鎌倉にとどめて厚遇し、ある寺の別当に任じようとした(注:東鑑)。頼朝が亡くなると、文覚は謀反を企てた。事が発覚し、流罪に処された。妙覚はその時高雄(たかお)にいたが、源頼家(みなもとのよりいえ)はこれが変事を起こすのではないかと恐れ、奏上して捕らえさせ、相模の田越川(たごえがわ)で斬った(注:平家物語)。時に年二十六であった(注:長門本平家物語。他の諸本では二十九、あるいは三十とする。考えるに、六代が捕らわれたのは文治元年で、その時十二歳であった。正治元年に至れば、実に二十六歳である。それゆえここでは本書〈長門本〉に従う。禰寝氏家譜によれば、六代には清重(きよしげ)という子があり、薩摩の禰寝氏はその子孫であるという。しかし他に証拠となる書がないので、ひとまず参考として付け加える)。