卷之二十三 本紀二十三
嵯峨天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
嵯峨天皇
¶嵯峨天皇は、諱を神野(かみの)といい(注:文徳実録による。案ずるに、日本紀略には賀美能(かみの)とあるが、訓読は互いに通じる)、平城帝(へいぜいてい)の同母弟である。
¶延暦5年9月7日癸巳、長岡宮で誕生した(注:日本紀略・皇代記による)。慣例として、皇子が生まれるたびに、乳母の姓をもってその名とした。天皇の乳母の姓は神野であったため、これを名とした(注:文徳実録による)。
¶天皇は幼少より聡明で、読書を好んだ。成長すると経史を広く読み、文章を巧みに作り、草書・隷書にも優れていた。気品は山のように高く、人君たる器量を備えていた。桓武帝(かんむてい)はとりわけこれを寵愛した。 初めは親王であった。延暦18年2月、元服した。22年正月、三品に叙せられ、中務卿・弾正尹(だんじょうのかみ)を歴任した(注:日本紀略による)。
¶大同元年5月、皇太弟に立てられた。
¶4年4月丙子朔、平城帝は病のため位を譲った。皇太弟は上表して固く辞退したが、聞き入れられなかった(注:日本紀略による)。13日戊子、大極殿で天皇の位に即いた。時に24歳(注:類聚国史・日本紀略による。年齢は水鏡・皇代記・皇年代略記、および本書に崩年57歳とある記述による)。右大臣兼左近衛大将の藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)、中納言兼右近衛大将の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、いずれも留任した(注:公卿補任による)。14日己丑、詔して皇甥の高岳親王(たかおかしんのう)を皇太子に立てた(注:類聚国史・日本紀略による)。中納言藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)を東宮傅(とうぐうのふ)とした(注:公卿補任による)。16日辛卯、諸国に神社の修造を命じる勅が下された。20日乙未、諸道の観察使に外任(げにん)を兼ねさせ、その旧来の封戸を収めて国用の助けとする旨の勅使が発せられた(注:日本紀略による)。28日癸卯、詔して次のように仰せられた。「このところ太上天皇の御体調が優れず、幾月にもわたって続いているが、医薬に験(しるし)なく、祈祷にも効き目がない。霊あるものの中で、人はとりわけ重い存在である。寛大な恵みを施し、もって聖体を助けようと思う。天下に大赦を行い、通常の赦免では許されない罪も、すべて赦し除くこととする。また天下に七日間の殺生禁断を命ずる。水辺に住み漁を生業とする百姓には、事情に応じて食糧を支給せよ。」(注:類聚国史による)5月22日丁卯、長雨のため京師の民に物を賑給した。25日庚午、松尾・鴨御祖(かものみおや)・別雷(わけいかづち)などの社で晴天を祈った(注:日本紀略による)。27日壬申、大炊寮(おおいのつかさ)の倉が火災に遭った(注:類聚国史・日本紀略による)。28日癸酉、伊勢国が白烏を献上した(注:日本紀略による)。6月8日壬午、丹生川上(にうのかわかみ)で雨を祈った(注:日本紀略による)。13日丁亥、三品高津内親王を妃に、橘嘉智子(たちばなのかちこ)・多治比高子(たじひのたかこ)を夫人に立てた。秋7月乙巳朔、小安殿(こやすどの)で薬師法を七日間修し、太上天皇の御不例を祈った(注:類聚国史・日本紀略による)。3日丁未、大原・栗前・水生・日根などの野での狩猟を禁じた。17日辛酉、諸国司に斎戒して雨を祈るよう勅した。19日癸亥、大風が吹いた。8月5日戊寅、また大風が吹いた(注:日本紀略による)。11日甲申、皇女仁子内親王(にしないしんのう)を伊勢斎王とした。癸卯晦、天皇は左兵衛府において太上天皇にお目にかかった(注:類聚国史・日本紀略による)。9月3日丙午、旱魃と疫病のため、諸国から京師に徴発されていた脚夫の労役を停止した(注:類聚国史による)。5日戊申、暴風で家屋が倒壊した(注:日本紀略による)。27日庚午、観察使の起請十六条を天下に頒布した(注:日本紀略・類聚国史による)。冬10月癸酉朔、渤海が来朝して貢物を献じた(注:日本紀略による)。11月5日丁未、太上天皇は右近衛中将藤原真夏(ふじわらのまなつ)・左馬頭藤原真雄(ふじわらのまお)・左少弁田口息継(たぐちのおきつぐ)・左近衛少将藤原貞本(ふじわらのさだもと)らを平城の旧都、および摂津の豊島(てしま)・為奈(いな)などの野に遣わし、宮地を見立てさせた。12日甲寅、太上天皇は右兵衛督藤原仲成(ふじわらのなかなり)、および田口息継らを遣わし、平城に宮を造らせた(注:類聚国史による)。12月4日乙亥、太上天皇は平城宮に行幸した。宮殿はまだ完成していなかったため、仮に故右大臣大中臣清麻呂(おおなかとみのきよまろ)の邸宅を御所とした(注:類聚国史・日本紀略による)。
¶弘仁元年庚寅、春正月壬寅朔、御不例のため朝賀を取りやめた。侍臣以上に衣や夜具を賜った(注:類聚国史・日本紀略による)。7日戊申、使者を遣わして左右京の飢民を賑給した(注:日本紀略による)。13日甲寅、隠岐国の大同元年以来の未納税を免除した(注:類聚国史による)。この月、平城宮が完成し、太上天皇はそこに遷り住んだ(注:水鏡による)。3月10日庚戌、初めて蔵人所(くろうどどころ)を置いた(注:職事補任による)。夏4月、招提寺(しょうだいじ)の塔を造営した(注:日本紀略による)。5月15日甲寅、諸国に「相撲人の進上を停止せよ」と勅した(注:類聚国史・日本紀略による)。20日己未、使者を丹生川上に遣わして晴天を祈った(注:日本紀略による)。6月2日庚午、神泉苑に行幸した。18日丙戌、再び神泉苑に行幸した。28日丙申、太上天皇が詔して仰せられた。「先に観察使を置き、それぞれ一道を委ねた。しかし参議という職は、期待も重く、守るべき務めも大きい。任にあたって成果を求めるのは、職掌が有名無実であってはならないからだ。観察使を廃止し、参議の号を復すべきである。封邑の制度も、また旧来の数に戻す。」(注:日本紀略による)秋7月13日辛亥、御不例のため川原寺・長岡寺の二寺で誦経した(注:類聚国史・日本紀略による)。18日丙辰、右大弁藤原藤嗣(ふじわらのふじつぐ)・陰陽頭安倍真勝(あべのまかつ)らを遣わし、高畠陵(たかはたのみささぎ)を鎮祭させた。この日、使者を遣わして畿内の名神に幣帛を奉り、風雨の災いを祓った(注:類聚国史による)。19日丁巳、天皇は東宮に移り住んだ。26日甲子、天下に七日間の殺生禁断を命じた。漁を生業とする者には食糧を支給した。戊辰晦、右大弁藤原藤嗣を遣わし、大神宮(だいじんぐう、伊勢神宮)に幣帛を奉らせた。8月8日丙子、石上神(いそのかみのかみ)に幣帛を奉り(注:日本紀略には名神とあるが、今は類聚国史に従う)、御不例を祈った。10日戊寅、摂津国が「慶雲が現れた」と報告した。11日己卯、太政官で薬師法を七日間修した(注:類聚国史・日本紀略による)。9月戊戌朔、畿内に使者を遣わし、民に口分田を班給した(注:日本後紀・日本紀略による)。6日癸卯、太上天皇の尚侍(ないしのかみ)藤原薬子(ふじわらのくすこ)は、太上天皇の勅と偽って、都を平城に遷そうと企てた。これにより人心が騒然となった(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。10日丁未、宮中で戒厳態勢がとられた(注:日本後紀・類聚国史による)。使者を遣わして伊勢・近江・美濃の三国府、および旧関を守らせた。薬子とその兄仲成らの罪悪を詔してあばいた。参議藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)を遣わし、柏原山陵に事の次第を告げさせた。11日戊申、大外記(だいげき)上毛野穎人(かみつけののひでひと)が平城から来て、「太上天皇は今暁、兵を率いて東国に入られた」と報告した。天皇は大納言坂上田村麻呂・参議文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を遣わし(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)、兵を率いて美濃路を遮らせた(注:日本後紀・類聚国史による)。また兵を発して宇治・山崎と渡・市津を守らせた。この夜、仲成は誅殺された。12日己酉、太上天皇は宮に戻って髪を剃り、薬子は毒を仰いで死んだ。13日庚戌、皇太子を廃し、皇弟の中務卿大伴親王(おおともしんのう)を皇太弟に立てた。詔して、「太上天皇に従って東国に赴いた者は問わない」とした(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。18日乙卯、大納言藤原園人(ふじわらのそのひと)を皇太弟傅とした(注:日本後紀・公卿補任による)。19日丙辰、改元した。29日丙寅、渤海が来朝して貢物を献じた(注:日本後紀・日本紀略による)。冬10月27日甲午、松崎川で禊(みそぎ)を行った(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。11月18日甲寅、雷が鳴った(注:日本後紀・日本紀略による)。19日乙卯、大嘗祭を行った。12月13日己卯、芹川野(せりかわの)で遊猟した。16日壬午、参議巨勢野足(こせののたり)を遣わし、八幡宮および樫日廟(かしひのみたまや)に幣帛を奉り、乱の平定を感謝する祈りを捧げた。20日丙戌、鋳銭司(じゅせんし)が新銭を献上した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。長官以下に叙位・賜物があった(注:日本後紀・類聚国史による)。この年、皇女有智子内親王(うちこないしんのう)を賀茂斎王とし、太上天皇との和睦を祈らせた。賀茂斎王の制度はこれに始まる(注:貴女抄・一代要記による。○賀茂斎院記には、その由来と起源が記されていない。帝王編年記は、弘仁9年5月に初めて置かれたとする)。大和・河内・摂津・参河・遠江・丹波・因幡・伯耆・播磨・美作・備後・淡路・讃岐・土佐で飢饉があり、使者を遣わして賑給した(注:日本紀略による)。
¶2年辛卯、春正月5日庚子、上殿舎人(じょうでんとねり)を内豎(ないじゅ)に戻した(注:日本後紀・日本紀略による)。2月8日癸酉、諸国の夷俘(いふ)に食糧を給するよう勅した(注:日本後紀・類聚国史による)。11日丙子、北野で遊猟した。15日庚辰、西宮に移り住んだ(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。3月10日乙巳、初めて諸国に夷俘の計帳(けいちょう)を進上させた(注:日本後紀・類聚国史による)。夏4月17日庚辰、正四位上文室綿麻呂を征夷将軍とし、従五位下大伴今人(おおとものいまひと)・佐伯耳麻呂(さえきのみみまろ)・坂上鷹養(さかのうえのたかかい)を副将軍とした(注:日本後紀による)。27日庚寅、正六位上林東人(はやしのあずまひと)らを渤海に遣わした(注:日本後紀・日本紀略による)。この月、四度神泉苑に行幸した(注:日本後紀・類聚国史による)。5月12日乙巳、神泉苑に行幸した。これ以後、たびたびここで暑を避けた(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。20日癸丑、諸国で疫病が相次いだため、鰥寡孤独(かんかこどく)や貧窮・老疾で自活できない者を賑恤(しんじゅつ)するよう勅した(注:日本後紀・日本紀略による)。21日甲寅、農民が魚を食し酒を飲むことを重ねて禁じた(注:日本後紀・類聚国史による)。23日丙辰、大納言兼右近衛大将坂上田村麻呂が薨じた(注:日本後紀・日本紀略・公卿補任による)。25日戊午、信濃国が白烏を献上した(注:類聚国史・日本紀略による)。6月癸亥朔、参議巨勢野足に右近衛大将を兼ねさせた(注:日本後紀・公卿補任による)。3日乙丑、大神宮に幣帛を奉った。19日辛巳、十三大寺の80歳以上の僧尼に、一人当たり絁(あしぎぬ)二匹、布四端を賜った(注:日本後紀・類聚国史による)。25日丁亥、主殿寮(とのもりょう)の釜が理由もなく倒れた(注:日本後紀・日本紀略による)。秋7月12日甲辰、神泉苑に行幸し、陪侍の者に銭を賜った。13日乙巳、勅して、「平城宮の諸衛の官人らが、出入りを勝手にし、宿衛を怠っていると聞く。参議に督察を加えさせるべきである」と仰せられた(注:日本後紀・類聚国史による)。8月12日甲戌、神泉苑に行幸した。この夜、星が合したり離れたりし、まるで争うかのような様子であった(注:日本後紀・日本紀略による)。16日戊寅、北野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史による)。9月12日癸卯、大風が吹いた。13日甲辰、暴風の被害者に米を賜った(注:日本後紀・日本紀略による)。16日丁未、平城宮の諸衛府の官人らが勝手に宿直を離れていることについて、少将以上に検校させるよう申し勅した。26日丁巳、紫野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史による)。この月、桃や李の花が咲いた。冬10月2日癸亥、林東人らが渤海から帰還した(注:日本後紀・日本紀略による)。20日辛巳、仁王経を講じた(注:日本後紀による)。24日乙酉、栗前野で遊猟した。27日戊子、紫野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。11月9日庚子、伊勢国では近年事が多く百姓が疲弊しているため、今年の田租を免除した(注:日本後紀・類聚国史による)。28日己未、左右衛士府(さゆうえじふ)を改めて左右衛門府とした(注:日本後紀・日本紀略・令集解による)。12月16日丙子、地震があった。17日丁丑、大原野で遊猟した。閏月9日己亥、日に抱気(ほうき、暈のような気象現象)が現れた。14日甲辰、水生野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。19日己酉、出羽国の百姓が軍役に疲弊したため、三年間の課役免除を賜った(注:日本後紀による)。
¶3年壬辰、春正月25日甲寅、栗前野で遊猟した。2月12日辛丑、神泉苑に行幸して花を観賞した。花宴の節会(せちえ)はこれに始まる。14日癸卯、水生野で遊猟した。15日甲辰、交野(かたの)で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。3月24日壬午、右京の住人が連理の木を献上した(注:日本後紀・日本紀略による)。夏4月6日癸巳、神泉苑に行幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。16日癸卯、行いの良くない僧尼を糾すよう勅した(注:日本後紀・類聚国史による)。5月3日庚申、諸国司が公廨田(くげでん)や、規定外に営む水陸の田を重ねて禁じるよう勅した(注:日本後紀による)。12日己巳、神泉苑に行幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。18日乙亥、京師の飢民に賑給した(注:日本紀略による)。21日戊寅、公卿が「令の条文のうち不便なものを刊定したい」と奏請し、これを許した。6月2日戊子、参議紀広浜(きのひろはま)・陰陽頭阿倍真勝ら十余人に日本紀を読ませ、従五位下多人長(おおのひとなが)にこれを講じさせた。この日、諸国に夷俘長(いふのおさ)を置いた(注:日本後紀・類聚国史による)。3日己丑、使者を摂津に遣わし、長柄橋(ながらのはし)を造らせた(注:日本後紀・日本紀略による)。5日辛卯、薩摩国で蝗害があり、未納の稲を免除した。16日壬寅、官倉を開き、価を下げて貧民に売った。23日己酉、重ねて僧尼を糾した(注:日本後紀・類聚国史による)。24日庚戌、大堰(おおい)に行幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。26日壬子、畿内の名神に幣帛を奉り雨を祈った。27日癸丑、小鳥が大鳥を生んだ。秋7月丁巳朔、旱魃と疫病のため天下の名神に幣帛を奉った。2日戊午、大神宮に幣帛を奉った(注:日本後紀・日本紀略による)。24日庚辰、神泉苑に行幸し、陪侍の者に銭を賜った(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。9月6日辛酉、北野で遊猟した。20日乙亥、東大寺から四方各二里の間での殺生を重ねて禁じた(注:日本後紀・類聚国史による)。25日庚辰、大原野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。26日辛巳、勅して仰せられた。「怪異のことは、聖人は語らない。妖言の罪は、法制において軽くない。しかるに諸国の民が言をいつわり、言上することが実に多い。あるいは国家のことに及び、あるいはみだりに禍福を説き、法を敗り紀を乱すことは、これより甚だしいものはない。諸国に厳しく検察させ、今後、みだりに託宣と称する者は、男女を問わず、事情に応じて処罰せよ。ただし神託が確かで、その霊験が特に著しいものについては、国司が検察のうえ、事実に基づいて言上せよ。」(注:日本後紀・類聚三代格による)冬10月6日辛卯、右大臣兼左近衛大将藤原内麻呂が薨じた(注:日本後紀・日本紀略による)。12月2日丙戌、七大寺の常住僧、および内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に調綿一万五百屯を施した(注:日本後紀・類聚国史による)。5日己丑、大納言藤原園人を右大臣とし(注:日本後紀・公卿補任による)、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)に左近衛大将を兼ねさせた(注:公卿補任による)。21日乙巳、芹川野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。
¶4年癸巳、春正月26日庚辰、栗前野で遊猟した。2月16日己亥、交野で遊猟した。18日辛丑、水生野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。25日戊申、「作物が損なわれた年には、土民には賑給するが、俘囚(ふしゅう)には及ばない。今後は俘囚もあわせて賑給の対象とする」と定めた(注:類聚国史による)。29日壬子、神泉苑に行幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。3月18日辛未、太宰府が「新羅人が肥前国小近島(おぢかじま)に到来した。土民がこれと戦い、百余人を殺し捕らえた」と報告した(注:日本紀略による)。夏4月癸未朔、日食があった。22日甲辰、皇太弟の南池に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。5月10日辛酉、摂津国で頭一つ体二つの兎が捕らえられた(注:日本紀略による)。25日丙子、勅して仰せられた。「国を治める要は、民を富ませることにある。民に蓄えがあれば、凶年もこれを防げる。それゆえ禹(う)の治世では九年の洪水があっても人々に飢えた顔色はなく、湯(とう)の治世では七年の旱魃があっても民は生業を失わなかった。今、諸国の官吏は、その委任の趣旨に大きく背いている。あるいは労役を課す時期を誤って農事を廃れさせ、あるいはもっぱら民を侵し搾ることに専念して、慈しみ育てる心がない。これによって民は生業を失い、飢饉が相次いでいる。天災によるものでなくとも、常に民の飢えが告げられ、毎年賑給を行うため、倉廩はほとんど尽きようとしている。もし本当に災害があったなら、何をもって救済するのか。今後は、田畑の損害や疫病などの事情がなければ、みだりに賑給を求めることを許さない。」(注:類聚国史による)6月壬午朔、京畿の百姓が病人を遺棄することを禁じた(注:類聚国史・類聚三代格による)。2日癸未、水害に遭ったため、石見・安芸の未納税を免除した(注:類聚国史による)。3日甲申、大隅・薩摩で蝗害があり、未納税を免除した(注:類聚国史・日本紀略による)。24日乙巳、大堰に行幸した(注:類聚国史による)。秋8月15日乙未、皇太弟の南池に行幸した。16日丙申、葛野川(かどのがわ)に行幸した。9月24日癸酉、清涼殿で皇太弟を宴し、漢風の儀礼をもってもてなした(注:類聚国史・日本紀略による)。27日丙子、勅して仰せられた。「辺境の要地は、外冦(がいこう)を防ぐ地である。不測の事態への備えは、食糧をもって重しとする。今、大軍がしばしば出動し、蓄えた糧食はすっかり尽きたが、なお残賊がおり、非常の事態は測りがたい。もし蓄えがなければ、急変にどう対処できようか。陸奥・出羽両国の公廨(くげ)を正税と混合し、毎年互いに融通して信濃・越後の二国に給せよ。ただし不作で混合すべき物がない場合や、公廨を得られない者がいる場合は、状況に応じて移送し、実情に基づいて融通せよ。この措置を停止する時期は、後の勅を待て。」(注:類聚国史による)28日丁丑、大原野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。冬10月3日壬午、名神に幣帛を奉り、豊作を感謝した(注:日本紀略による)。4日癸未、北野で遊猟した。7日丙戌、櫟原野(いちはらの)で遊猟した。24日癸卯、栗前野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。この月、暴風に遭ったため、筑後・豊前・肥前・大隅・薩摩の租調を免除した。11月21日庚午、勅して仰せられた。「夷俘の性質は、平民とは異なる。朝廷の教化に従ってはいても、いまだ野心を忘れていない。そこで諸国司に、手厚く教え諭すよう命じてきた。しかし彼らはかえって朝旨に背き、慰撫にあたろうとしない者もいる。夷俘の訴えは、日を経ても処理されず、不満と怨みを募らせ、ついに反逆に至る。播磨・備前・備中・筑前・筑後・肥前・肥後・豊前の守・介らに、重ねて教喩を加えさせよ。訴えの事柄は速やかに処分せよ。みだりに決定できない事柄は、言上して裁可を仰げ。もし慰撫の仕方を誤って反逆を招いたり、上京して越訴(おっそ)する者が出たりした場合は、担当者を事情に応じて処罰する。」24日癸酉、諸国の介以上から一人を選び、夷俘専当(いふせんとう)とした。この日、水生野で遊猟した(注:類聚国史による)。27日丙子、芹川野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。この年、竹に実がなった(注:日本紀略による)。
¶5年甲午、春2月己卯朔、陸奥国が白雉を捕らえて献じた。8日丙戌、栗前野で遊猟した。16日甲午、交野に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。この日、鶺鴒(せきれい)が数え切れないほど陰陽寮の枇杷の木に集まった(注:日本紀略による)。17日乙未、交野で遊猟した。18日丙申、水生野で遊猟した。21日己亥、山城・摂津・河内の守・介らの位階を進めた。四位以上には衾(ふすま)を、侍従・弁と三国の掾(じょう)以上には衣を、目(さかん)以下および郡司には綿を、それぞれ差をつけて賜った。この日、車駕は宮に還った(注:類聚国史・日本紀略による)。27日乙巳、山城・大和・河内・摂津・近江などの諸国に、4月以前に小年魚(こあゆ)を捕ることを禁じた(注:類聚国史による)。28日丙午、神泉苑に行幸した。夏4月28日乙巳、参議藤原冬嗣の閑院第(かんいんてい)に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。5月4日庚戌、身が白く頭が黒い鳥が太政官の厨に集まった(注:日本紀略による)。8日甲寅、詔して皇子信弘(のぶひろ)・常明(つねあきら)、皇女貞姫・潔姫・全姫・善姫に源朝臣(みなもとのあそん)の姓を賜った(注:姓氏録による)。12日戊午、神泉苑に行幸した。18日甲子、俘囚の反乱により、出雲国意宇(おう)・出雲・神門(かんど)三郡の未納税を免除した(注:類聚国史・日本紀略による)。この月、虫がついて柏原山陵の樹木が枯れた。6月3日戊寅、神泉苑の北垣が理由もなく崩れ落ちた。この日、京師の飢民に賑給した。19日甲午、鴨川で禊を行った(注:日本紀略による)。23日戊戌、国司がみだりに館舎を改造することを禁じた(注:類聚三代格による)。秋7月12日丁巳、新銭一千貫、中宮の鉄一千錠を、諸大寺に分けて施した(注:類聚国史による)。16日辛酉、葛野川に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。21日丙寅、大和・河内の未納租を免除した(注:日本後紀・類聚国史による)。25日庚午、畿内・近江・丹波などに、旱害のときには官長が潔斎して自ら雨を祈ることを恒例とするよう勅した(注:日本後紀による)。閏月6日庚辰、神泉苑に行幸した。12日丙戌、再び行幸した。27日辛丑、北野で遊猟した。癸卯晦、美作国が白雀を献上した。8月11日甲寅、皇太弟の南池に行幸した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。18日辛酉、大和国の八島寺で嘉禾(かか、めでたい稲)が生じ、一茎に十八穂があった(注:日本後紀・日本紀略による)。25日戊辰、北野で遊猟した。26日己巳、栗栖野(くるすの)で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。29日壬申、詔して仰せられた。「近年、春の耕作の頃は、枝に灌ぐ雨の潤いに恵まれ、秋の稔りの頃は、畝に余る糧を得ている。天下の国司に委ね、明らかに検校させよ。官幣を奉り、高齢の僧尼、および老人・鰥寡孤独で自活できない者に施しを給せよ。」(注:日本後紀・日本紀略による)この月、太政官院で薬師法を七日間修した(注:類聚国史による)。9月9日壬午、神泉苑に行幸した。11日甲申、京畿七道の国分寺の80歳以上の僧尼に綿を施し、80歳以上の老人、および鰥寡孤独で自活できない者に穀を、それぞれ差をつけて賜った(注:日本後紀・類聚国史による)。15日戊子、名神に幣帛を奉り、豊作を感謝した(注:日本後紀・日本紀略による)。27日庚子、栗前野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。癸卯晦、渤海が来朝して貢物を献じた(注:日本後紀・日本紀略による)。冬10月10日癸丑、北野で遊猟した。24日丁卯、水生野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。27日庚午、太宰府が「新羅人26人が帰化した」と報告した(注:日本後紀・日本紀略による)。11月9日辛巳、賊乱に遭ったことと蕃客(ばんかく)への供応により、出雲国の田租を免除した(注:○類聚国史は辛丑とするが誤りである)。22日甲午、芹川野で遊猟した。12月20日壬戌、再び芹川野で狩りをした(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。
¶6年乙未、春2月17日己未、交野に行幸した。23日乙丑、宮に還った(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。28日庚午、神泉苑に行幸した(注:日本後紀による)。3月2日癸酉、「蕃国の使者が入朝するには定めの期日がある。客館の設備は、常に堅固でなければならない。弾正台および京職に検校させよ」と定めた(注:日本後紀・日本紀略による)。20日辛卯、勅して仰せられた。「軍用の要は、馬をもって第一とする。今聞くところでは、権貴の家が辺境の邑で馬を求め、その地では取り締まりが緩んでいるために、兵馬が不足しているという。延暦6年の格(きゃく)に依り、陸奥・出羽二国の馬の売買を禁じるべきである。ただし駄馬はこの禁の限りではない。」(注:日本後紀・類聚国史による)夏4月11日壬子、神泉苑に行幸した。22日癸亥、近江の滋賀韓崎(しがのからさき)に行幸し、皇太弟もこれに従った。崇福寺(すうふくじ)・梵釈寺(ぼんしゃくじ)に立ち寄り、そのまま御船で湖に浮かんだ。国司が風俗歌舞を奏した。5月14日甲申、薩摩国で蝗害があり、調庸・田租を免除した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。6月3日壬寅、畿内および近江・丹波・播磨などの国に茶を植えさせ、毎年これを献じさせた(注:日本後紀・類聚国史による)。16日乙卯、河内国で水害があり、賑給した(注:日本後紀による)。秋7月7日丙子、神泉苑に行幸した。13日壬午、夫人橘氏を皇后に立てた(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。夫人多治比高子を妃に、従四位下藤原緒夏(ふじわらのおなつ)を夫人に立てた(注:日本後紀・類聚国史による)。20日己丑、中務卿万多親王(まんだしんのう)・右大臣藤原園人らが、新撰姓氏録を撰上した(注:姓氏録奏表による。○案ずるに、日本紀略には5年6月朔のこととある)。24日癸巳、神泉苑に行幸した。25日甲午、詔して仰せられた。「天は民を生み、これを治める者を立てた。それは財を豊かにし、用を利し、天下を教化するためである。それゆえ弊れた風俗を救おうと、夜明けまで努めてきた。農夫には実りの喜びがあり、女の仕事には機織りの嘆きがないようにと願っている。しかし去る5月以降、雨水が氾濫し、田畑を耕すことができなかった。百姓が足らなければ、君主が誰と共に足りるであろうか。左右京・畿内は、今年の田租を免除すべきである。」(注:日本後紀・類聚国史による)この日、国司の交替を四年を限りとした。8月己亥朔、日食があった。3日辛丑、使者を伊勢および賀茂に遣わし、幣帛を奉って晴天を祈った(注:日本後紀・日本紀略による)。26日甲子、北野で遊猟した。9月26日癸巳、大原野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。5月からこの月まで、諸国で長雨が続いた(注:日本後紀・日本紀略による)。冬10月25日壬戌、栗前野で遊猟した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。11月20日丁亥、「毎年初冬に死刑を裁断すべきことを奏し、春の月にまで延ばしてはならない」と勅した(注:日本後紀・類聚国史・類聚三代格による)。28日甲午、水生野で遊猟した。12月17日癸丑、芹川野で遊猟した。この年、たびたび不作が続いたため、太宰府管内諸国の田租を、三年を限って免除した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略による)。
¶7年丙申、春正月丁卯朔、雨のため朝賀を取りやめた。2日戊辰、大極殿に出御し、朝賀を受けた(注:類聚国史・日本紀略による)。25日辛卯、砂が雨のように降った(注:日本紀略による)。26日壬辰、栗前野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。2月丁酉朔、日食があった(注:日本紀略による)。16日壬子、交野に行幸した。20日丙辰、水生野で遊猟した。25日辛酉、典侍(ないしのすけ)小野石子(おののいわこ)の長岡第に行幸した。27日癸亥、嵯峨の別館に行幸した。28日甲子、宮の修理のため、弁官曹司(べんかんのぞうし)に移り住んだ。3月27日壬辰、左右近衛に弓を射させ、命中した者に銭を賜った。夏4月6日辛丑、神泉苑に行幸した。左右近衛に弓を射させ、命中した者に銭を賜った。25日庚申、車駕は宮に還った(注:類聚国史・日本紀略による)。6月15日己酉、これより先、天皇は外従五位下勇山文継(いさやまのふみつぐ)から史記の進講を受けており、この日それが終わったので、文継に従五位下を授けた。26日庚申、大堰に行幸した。28日壬戌、神祇官が「高畠山陵の樹木を伐ったところ、祟りが占いに現れた」と奏上した。勅して仰せられた。「朕が心から敬うところは、ひとえに山陵にある。しかるに担当の役人が監督を怠り、このような咎めを招く兆しに至った。国の法典に照らせば、その罪は軽くない。今後は厳しく禁断せよ。」秋7月15日戊寅、鋳銭司を廃止した。20日癸未、勅した。「風雨が時ならず、田畑が被害を受けているのは、国司が祭祀をつつしまないことによるものである。今聞くところでは、今年の青苗はよく茂っており、めでたい稲が畝に満ち、民が豊かになることを願っている。畿内七道の官長に命じ、清く慎んで斎戒し、名神に幣帛を奉り、風雨がやむよう祈らせ、油断のないようにせよ。」(注:類聚国史による)8月2日乙未、大神宮に幣帛を奉った(注:類聚国史・日本紀略による)。16日己酉、大風が吹き、羅城門(らじょうもん)が倒れ、諸国が被害を受けた(注:日本紀略による)。24日丁巳、冷然院(れいぜんいん)に行幸した。27日庚申、嵯峨の別館に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。この日、信濃国が「昨年は不作で、国内の食糧が乏しい。穀一万斛を求め、商布と交換して、困窮を救いたい」と申請し、これを許した(注:類聚国史による)。28日辛酉、再び嵯峨に行幸した。9月4日丙寅、天皇が病に伏した。6日戊辰、大神宮に幣帛を奉り、風災を祓う祈りに感謝した。9日辛未、御不例のため節会を取りやめた。冬10月8日己亥、地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。13日甲辰、太宰府が「新羅人180人が帰化した」と報告した(注:日本紀略による)。12月壬辰朔、中納言巨勢野足が右近衛大将を辞した。参議文室綿麻呂を右近衛大将とした(注:公卿補任による)。この年、僧空海(くうかい)が高野山に道場を創建した(注:歴代皇紀・一代要記・性霊集による)。
¶8年丁酉、春正月25日乙酉、芹川野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。2月辛卯朔、日食があった(注:日本紀略による)。9日己亥、瑞野(みずの)で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。15日乙巳、太宰府が「新羅人33人が投化した」と報告した(注:日本紀略による)。17日丁未、交野に行幸した。20日庚戌、宮に還った。夏4月3日壬辰、冷然院に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。22日辛亥、太宰府が「新羅人144人が投化した」と報告した(注:日本紀略による)。閏月16日乙亥、嵯峨の別館に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。6月2日庚申、室生山(むろうさん)で雨を祈った(注:日本紀略による)。4日壬戌、天下の諸国に雨を祈らせた(注:日本紀略、祈雨日記が引く日本後紀による)。摂津国が「海潮が激しく溢れ、220人が押し流されて水没した」と報告した(注:日本紀略による)。8月17日甲戌、北野で遊猟した。9月25日辛亥、大原野で遊猟した。冬10月丁巳朔、七大寺の常住僧に調綿一万三百屯を施し、水生野で遊猟した。11月23日戊申、再び水生野で遊猟した。25日庚戌、大雪が降った。左右近衛に綿を賜った。12月13日丁卯、地震があった。14日戊辰、芹川野で遊猟した。18日壬申、地震があった。20日甲戌、また地震があった(注:類聚国史・日本紀略による)。この年、信濃・長門・筑前で飢饉があり、いずれも賑恤した(注:日本紀略による)。
¶9年戊戌、春正月24日戊申、芹川野で遊猟した。2月7日辛酉、栗前野で遊猟した。16日庚午、交野に行幸した。19日癸酉、宮に還った。28日壬午、神泉苑に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。3月19日壬寅、公卿が「近年、水害と旱害が相次ぎ、被害は少なくない。臣下の封禄を減らして、国用の助けとしたい。豊作の年を待って、もとに戻したい」と奏上し、これを許した。23日丙午、詔して「朝会の礼、常服の制、拝礼・跪拝の作法は、男女を問わず、すべて唐の儀礼に準じる。五位以上の礼服、諸々の朝服の色、および衛仗(えいじょう)の服は、みな旧来の儀に依る」とした(注:日本紀略による)。この春、大疫があった。天皇は自ら金字の般若心経を書写し、僧空海に慶讃させて、これを祓わせた(注:古今著聞集による)。夏4月13日丙寅、使者を遣わして京畿の諸神に雨を祈らせた。22日乙亥、大神宮に幣帛を奉り、諸大寺および畿内諸寺に転経・礼仏させて雨を祈らせた。23日丙子、炎暑と旱害のため、正殿を避けた。詔を下して「御膳の常の献立を減らせ。後宮の費用、および左右馬寮の秣穀(まぐさ)は、すべて減らせ」とした。あわせて左右京職に「道に倒れた死者を掩(おお)い埋め、困窮する者に賑給せよ」と命じた。また法官に命じて冤罪を明らかに正させた。諸社に幣帛を奉って雨を祈った。また僧綱(そうごう)に転経を命じた。天皇および公卿百官は、三日間素食(そしょく)をとった(注:日本紀略による)。この日、太秦公寺(うずまさのきみでら)が火災に遭った(注:類聚国史・日本紀略による)。24日丁丑、河内国で飢饉があり、賑恤した。26日己卯、使者を柏原山陵に遣わし、雨を祈らせた。27日庚辰、殿閣諸門の名号を改め、それぞれその場所に額を掲げた。この日、旱害のため前殿で仁王経を講じた(注:日本紀略による)。5月23日乙巳、斎院司(さいいんし)を置いた(注:類聚国史・日本紀略による)。6月癸丑朔、日食があった。秋7月3日乙酉、讃岐国の牛が頭二つの子牛を生んだ(注:日本紀略による)。7日己丑、旱害のため節会を取りやめた(注:類聚国史・日本紀略による)。14日丙申、使者を貴布禰(きふね)、および室生山の龍穴に遣わし、雨を祈らせた(注:日本紀略による)。この月、相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野などの国で地震があり山が崩れた。圧死した百姓は数え切れないほどであった。8月19日庚午、使者を諸国に遣わして巡察させた。詔して仰せられた。「朕は徳の乏しい身でありながら、謹んで帝位を受け継ぎ、民を撫で育てる誠意は、片時も忘れたことがない。しかし王の教化はいまだ行き渡らず、帝の事業もいまだ興らず、その咎めの兆しが現れることが、ここにきて特に甚だしい。聞くところによれば、『上野国などの地域で、地震による災害があり、水害も重なって、人や物が損なわれている』という。天道は高く遠いものとはいうが、言わずにはいられない。まことに政治のやり方に欠けるところがあって、このような神の咎めを招き、みずから民の苦しみをもたらしたのは、朕の責めによるものである。徳薄く恥知らずなことを、天下に恥じる。静かにその咎めを思うと、実に嘆かわしい限りである。どうして民が危うい目に遭っているのに君主だけが安穏でいられようか、子が憂えているのに親が気にかけないことがあってよいものか。そこで特別に使者を派遣し、慰問を加えさせる。地震や水害によって生業がすっかり失われた者については、使者と現地の官司とが共に見計らい、今年の租調を免除せよ。あわせて民か夷かを問わず、正税をもって賑恤し、家屋の修理を助け、飢えと露宿を免れさせよ。圧死した者たちは、速やかに埋葬せよ。寛大な恵みの趣旨を尽くし、朕のこの深い思いに応えよ。」25日丙子、畿内および京戸の租の納入について、銭納を停止し稲で収めさせた(注:類聚国史による)。28日己卯、北野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。9月10日辛卯、詔して仰せられた。「天の命を受ける者は、その道において民を愛することを貴ぶ。皇王の位にある者は、その功において万物を救うことを先とする。それゆえよく己を抑えて人々の望みに従い、徳を修めて神霊の心に応え、日暮れまで休むことなく、夜更けまで眠りを忘れて務めるべきである。しかるに朕の知恵は万物に行き渡らず、まことは天を動かすに至らず、この上ない調和に欠けるところがあって、咎めの兆しがしばしば現れている。このところ地震があり、その害は民に及んでいる。吉凶は人によるものであり、怪異は自ら起こるものではない。あるいは朕の政令が民の心を離れさせているのではないかと恐れる。この重い咎めを降して、朕を戒め励まそうとするものであろうか。天の戒めを畏れ、安んじていることができない。亀卜(きぼく)・筮竹(ぜいちく)で占うと、時にかなって咎めを告げている。昔、天平年間にも同様の異変があり、それによって疫病が広まり、国中が傷んだ。前の事を忘れず、遠くない先例に鑑みるべきである。ひそかに思うに、仏の教えは奥深く、人の悲しみを救うことを第一とし、どんなに小さなことでも大切にしないということはなく、どんなに遠いことでも救わないということはない。また疾病を祓い除くことにも、先例がある。天下の諸国に、金光明寺で斎を設け僧を招き、金剛般若波羅蜜経を五日間転読させよ。あわせて使者を遣わして禊を修めさせ、不祥を除け。また畿内七道の諸国から、『弘仁8年以前の未納の租税は、一切徴収を停止してほしい』との上言があった。左右京の民の租についても、去年以前から滞納のある者は、上言の有無を問わず、同じく免除する。」冥界の道が照覧し、災いの源を末流のうちに塞ぐこと、そして福をもたらす道を明らかにし、病の根を芽が出る前に抜き去ることを願う。もし咎めが一身に帰し、人々に夭折する者がなくなるのであれば、その災いを移すことは、望むところではない。周の文王が自らを罪したことは、実に仰ぎ見るところである。朕の言に偽りがないことは、まさに明るい太陽のごとくである。」(注:類聚国史による)11日壬辰、大神宮に幣帛を奉り、疾疫の除去を祈った(注:類聚国史・日本紀略による)。冬10月9日己未、雨乞いに応験があったため、貴布禰社に報謝した(注:日本紀略による)。24日甲戌、栗前野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。27日丁丑、七大寺の常住僧に綿一万屯を施した。11月辛巳朔、新銭を鋳造し、文字を富寿神宝(ふじゅしんぽう)とした。5日乙酉、治部卿坂本親王(さかもとしんのう)が薨じた(注:日本紀略による)。12月19日戊辰、右大臣兼皇太弟傅藤原園人が薨じた(注:日本紀略・公卿補任による)。
¶10年己亥、春正月庚辰朔、風寒のため朝賀を取りやめた。26日乙巳、芹川野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。2月20日戊辰、公卿が奏上した。「近年不作が続き、百姓は飢饉に苦しみ、倉廩は空になって、賑給する物がない。困窮した民は飢えに直面すると、必ず廉恥の心を忘れてしまう。臣らが伏して望むには、畿内に使者を遣わし、富豪の蓄えを実地に記録し、困窮する者に貸し与え、秋の収穫の時に、その数量に応じて返させたい。そうすれば富める者は財を失う心配がなく、貧しい者は命を全うする喜びを得られるであろう。」これを許した(注:類聚国史・類聚三代格による)。21日己巳、水生野で遊猟した。水生村の困窮者に米を差をつけて賜った。22日庚午、宮に還った。25日癸酉、神泉苑に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。3月己卯朔、虹が太陽を貫いた(注:日本紀略による)。2日庚辰、山城・美濃・若狭・能登・出雲で飢饉があった。勅して、「倉の蓄えはすでに尽き、賑給する物がない。貸し与えを加えて、その急を救え。班給の方法は、賑給の例に準じよ」とした(注:類聚国史による)。14日壬辰、去年の不作により百姓の食糧が乏しいため、京畿での麦の売買を禁じ、飢えを救う備えとした(注:類聚三代格による)。また青麦を馬の飼料とすることを禁じた。21日己亥、詔して「故夫人藤原吉子(ふじわらのよしこ)、および伊予親王の位号を復す」とした。夏5月17日甲午、神泉苑に行幸し、貴布禰で雨を祈った。6月丁未朔、日食があった。4日庚戌、京中の困窮者に銭を給した。9日乙卯、丹生川上・貴布禰に白馬を奉り、晴天を祈った(注:日本紀略による)。24日庚午、葛野川に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。秋7月2日戊寅、丹生川上に黒馬を奉り、雨を祈った。17日癸巳、使者を遣わして大神宮に雨を祈らせた。18日甲午、十三大寺および大和の定額諸寺に、大般若経を三日間転読させ、雨を祈らせた。20日丙申、京師に白龍が現れ、暴風雨が民家を損なった。夏から雨が降らず、諸国が被害を受けた。嵯峨院に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。28日癸酉、貴布禰で晴天を祈った(注:日本紀略による)。29日甲戌、遠江・相模・飛騨の国分寺が火災に遭った(注:類聚国史による)。乙亥晦、丹生川上で晴天を祈った(注:日本紀略による)。冬10月2日丁未、大原野で遊猟した(注:類聚国史による)。10日乙丑、冷然院に行幸した。20日乙丑、交野に行幸した(注:原文のまま。「乙丑」の日付が二度記されているが、原文の書式を尊重しそのまま示す)。24日己巳、宮に還った(注:類聚国史・日本紀略による)。11月3日丁丑、薩摩国で蝗害があり、租を免除した(注:類聚国史による)。20日甲午、渤海が来朝して貢物を献じた(注:日本紀略による)。22日丙申、栗前野で遊猟した。26日庚子、芹川野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。12月乙巳朔、日食があった。6日庚戌、池の水を涸らして魚を捕ることを重ねて禁じた(注:日本紀略による)。この年、大納言藤原冬嗣・中納言藤原緒嗣らに勅して、日本後紀を編修させた(注:類聚国史所載の日本後紀序による)。
¶11年庚子、春正月26日己亥、栗前野で遊猟した。閏月22日乙丑、芹川野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。24日丁卯、近江の梵釈寺に四天王の銅像を安置した。2月5日丁丑、釈奠(せきてん)の日を改め、仲丁(ちゅうてい)を用いることとした(注:日本紀略による)。13日乙酉、水害のため河内国の窮乏戸に賑貸(しんたい)した(注:類聚国史による)。14日丙戌、遠江・駿河に配された新羅人700人が反乱を起こした。二国が兵を発して討伐したが勝てず、賊はついに海に逃げ入った。相模・武蔵など七国の兵を発してこれを討ち平らげた。17日己丑、使者を遣わして大和国高市郡(たけちぐん)に泉池を造らせた(注:日本紀略による)。20日壬辰、交野に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。3月6日丁未、京師の飢民に賑給した(注:日本紀略による)。夏4月7日戊寅、七道諸国の介(すけ)以上を、夷俘専当とした(注:類聚国史・日本紀略による)。9日庚辰、詔して仰せられた。「上を損じて下を益することは、民の喜びこの上なく、施し与えることは、王の政において貴ばれるところである。このところ、水害と旱害が相次ぎ、穀物が実らなかった。家には蓄えの粟もなく、戸ごとに菜蔬の色をしている。一日でも食に窮すれば、それは三年に等しい苦しみである。春にこれを思うと、深く憐れみの情がわく。天下の百姓で、租税を未納の者、および調庸を未進の者について、左右京・畿内は弘仁10年以前、七道諸国は9年以前のものを、多寡を問わずすべて免除せよ。まだ上申されていないものも追徴の必要はなく、あわせて去年貧民に貸し与えた分で、返済が滞っているものも、これを免除する。神社・寺院の稲についても、これに準じよ。国庫はいまだ充実せず、国の財政には遺漏も多いが、子が富んで親が貧しいということはあってはならない。努めて撫恤を加え、朕の意にかなうようにせよ。」(注:類聚国史による)21日壬辰、弘仁格十巻を施行した(注:三代実録貞観11年による)。26日丁酉、和泉国で飢饉があり、これを賑給した(注:日本紀略による)。5月4日甲辰、「路傍で飢え病む者を収容し養え」と勅した(注:類聚三代格による)。10日庚戌、讃岐国で旱害があり、賑給した(注:日本紀略による)。6月17日丁亥、冷然院に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。26日丙申、名神に幣帛を奉り、雨を祈った。27日丁酉、旱害のため諸国に大雲経を転読させた(注:日本紀略による)。秋7月9日己酉、勅して仰せられた。「去る天平神護2年9月、天下に勅して百姓に大麦・小麦の作付けを勧め課した。聞くところによれば、愚かな民は、自ら顧み慎むことをせず、ついには食料が尽きてしまうという。さらに飢饉ともなれば、耕作の時期を誤り、いたずらに労力を費やすことになるが、これは国郡の官司が格旨を慎まず、時節を授けるやり方を誤ったことによるものである。これで政に従っているといえるならば、誰を良吏と呼べようか。月令には、『仲秋の月には麦の作付けを勧め、時期を失ってはならない。時期を失う者があれば、必ず罰を行う』とある。今後は、8月から専ら播種に務め、時期を失わないようにせよ。」(注:類聚三代格による)12日壬子、葛野川に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。8月5日甲戌、因幡・伯耆・石見・安芸の未納税を免除した(注:類聚国史による)。7日丙戌、冷然院に行幸した。9月25日甲子、大原野に行幸した。27日丙寅、北野に行幸した。冬10月10日己卯、内供奉十禅師、および七大寺の僧に綿一万五百屯を施した(注:類聚国史・日本紀略による)。11月、「五位以上の封禄をもとに戻す」と詔した。公卿が上表して願い出て、常膳をもとに戻した(注:日本紀略による)。
¶12年辛丑、春正月5日壬寅、刑法断例十条を定めた(注:日本紀略による)。9日丙午、大納言藤原冬嗣を右大臣とした(注:公卿補任・日本紀略による)。2月11日戊寅、100歳以上の民に穀四斛、90歳以上に三斛、80歳以上に二斛、70歳以上に一斛を賜るよう勅した。国司の次官以上が郷邑を巡行し、自ら手渡して給した(注:日本紀略による)。夏4月5日庚午、常陸国の女子が一度に三子を産み、稲三百束を賜った(注:類聚国史・日本紀略による)。5月11日丙午、播磨国の民が地を掘って、高さ三尺八寸、径一尺二寸の銅鐸を一つ得た。6月5日己巳、丹生・貴布禰で晴天を祈った(注:日本紀略による)。秋8月3日丙寅、名神に幣帛を奉り、豊作を祈るよう勅した(注:類聚国史・日本紀略による)。18日辛巳、名神に幣帛を奉り、豊作を感謝した(注:日本紀略による)。9月6日己亥、右大臣藤原冬嗣の邸宅に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。冬10月24日丁亥、詔して仰せられた。「このところ天候が定まらず、水害が災いとなっている。河内国の境では被害がとりわけ甚だしく、秋の実りはこれによって損なわれ、下々の民はそのために苦しんでいる。朕は今この地を巡って、目にするたびに憂いを増している。被害を受けた諸郡には、三年間の課役免除を給する。とりわけ貧しい者については、去年の未納租税、および今年の租税も、あわせて免除する。山城・摂津両国は、地勢が入り組んでこの地と接している。水辺の百姓で資産を流失した者を調べ、いずれも今年の租税を免除する。あわせて三国の被害を受けた貧窮者には、程度に応じて賑給を加える。」(注:類聚国史による)27日庚寅、車駕は交野から還った(注:類聚国史・日本紀略による。○案ずるに、両書ともに行幸のことを記していないので、おそらく記載漏れであろう)。11月13日乙巳、渤海が来朝して貢物を献じた。12月4日丙寅、畿内諸国の博士・医師を再び置いた(注:日本紀略による。○類聚三代格には2日とある)。この年、東大寺に真言院を建てた(注:一代要記による)。
¶13年壬寅、春正月25日丁巳、北野で遊猟した。27日己未、芹川野で遊猟した。2月8日己巳、栗前野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。17日戊寅、「五位以上の高齢者は、ただ節禄を賜るのみとし、朝会には加わらせない」と定めた(注:類聚国史による)。21日壬午、水生野で遊猟した。22日癸未、芹川野で遊猟した。29日庚寅、神泉苑に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。3月14日乙巳、公卿が奏上した。「臣が聞くところでは、洪範八政(こうはんはっせい)は食を第一とするといいます。武装した兵百万も、粟がなければ守ることができません。それゆえ先王が政を定めるにあたっては、倉廩を充実させることに努めました。昔の賢人が残した規範も、食を足らせることを目指したものです。謹んで去る天平神護2年の勅書を検すると、『近江国近郡の穀五万斛を運び、松原倉に貯納すべし』とあります。伏して望むには、旧例に準じ、近江の沿江諸郡の穀を運んで、穀倉院に納めたく存じます。」これを許した(注:類聚三代格による)。夏4月辛酉朔、日食があった(注:日本紀略による)。18日戊寅、冷然院に行幸した(注:類聚国史・日本紀略による)。5月13日壬寅、石見国で飢饉があり、賑恤した(注:○案ずるに、本書には「五月」の字が脱けているが、今は干支によってこれを補った)。秋7月5日癸巳、使者を畿内諸国に遣わして雨を祈らせた(注:日本紀略による)。6日甲午、詔して仰せられた。「このところ恵みの雨が降らず、炎暑と旱害が十日余りも続いている。群神に幣帛を走らせたが、ひっそりと感応がない。詩経にも『旱すでに太だ甚だしく、憂心焚くが如し』とあるではないか。朕と皇后の服御の物は、節約するべきである。」8日丙申、新銭一百貫を諸王の貧しい者に班給した(注:類聚国史による)。山城国で飢饉があり(注:日本紀略による)、甲斐国で疫病があり、いずれも賑恤した(注:類聚国史・日本紀略による)。この日、公卿が「五位以上の封禄を重ねて減らしたい」と奏請し、これを許した。17日乙巳、新羅人40人が帰化した(注:日本紀略による)。8月戊午朔、災害が相次ぎ穀物が実らなかったため、諸国の国分二寺で七昼夜の悔過(けか)を行わせ、あわせて清神社(せいじんじゃ)を修めさせた。9月27日甲寅、北野で遊猟した。冬10月8日甲午、河陽宮(かようのみや)に行幸し、交野で遊猟した。11月丁巳、朔旦冬至(さくたんとうじ)にあたり、百官が表を奉って祝賀した(注:類聚国史・日本紀略による)。24日庚辰、詔して仰せられた。「神の功徳は特定のものを支配せず、万物はその生を遂げることを楽しむ。聖なる徳には外がなく、万民はことごとくその恩恵を受ける。それゆえよく天下をあまねく治め、陰陽の理を経緯し、大いに万民を庇護し、大いなる事業を広め興すことができる。朕は微小な身でありながら、かたじけなくも民を治める任を受け、薄氷を踏み奔馬に乗るような思いで、常に謹んで畏れを抱いている。このごろ担当の役人が『今年11月朔日はちょうど冬至にあたります。終わってまた始まり、天の法則にかなうものです。灰が飛んで寒の律に応じ、季節は微かな陽気を動かします』と奏上した。この長きにわたる慶事は、故実に基づかないものではない。天運が続く意義には、前例もある。朕の徳の乏しさで、どうして独りこれに当たれようか。天下とともに、この福を享受したいと思う。天下に大赦を行い、内外の文武官で主典(さかん)以上には位階一級を叙し、史生以下には物を量って賜るべきである。願わくは恩恵を畿内(赤県)に施し、天からの賜りものに応えたい。遠近に布告して、朕の意を知らしめよ。」(注:類聚国史による)27日癸未、瑞野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。
¶14年癸卯、春正月5日辛酉、彗星が西南に現れた(注:日本紀略による)。19日乙亥、僧空海を東寺長者とした(注:歴代皇紀・一代要記・弘法行状要集抄が引く行状記による)。20日丙子、益田池(ますだいけ)を掘削した(注:日本紀略による)。28日甲申、芹川野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。2月丙戌朔、両京の飢民に銭を賜った(注:日本紀略による)。12日丁酉、栗前野で遊猟した(注:類聚国史・日本紀略による)。25日庚戌、興福寺の僧中源庚信(ちゅうげんこうしん)、元興寺の僧永継(えいけい)らに淫行があったため、いずれも遠江国に流した(注:類聚国史による)。26日辛亥、比叡山の根本中堂を延暦寺と号した(注:歴代皇紀・一代要記・天台座主記・叡岳要記による)。28日癸丑、有智子内親王の山荘に行幸した。この月、天下で疫病による死者が多く出た(注:類聚国史・日本紀略による)。3月丙辰朔、越前国の江沼(えぬま)・加賀(かが)二郡を割いて、加賀国を置いた(注:日本紀略・類聚三代格による)。8日癸亥、東大寺で薬師法を修し、疫病を祓った(注:○東大寺要録には正月のこととある)。16日辛未、京師で米価が高騰した。穀倉院の穀一千斛をもって、価を下げて貧民に売った(注:類聚国史・日本紀略による)。22日丁丑、左右京で飢饉があり、これに賑給した。夏4月10日甲午、天皇は冷然院に移り住んだ。16日庚子、前殿に出御し、皇太弟を招いて、親しく諭して仰せられた。「朕はもともと数ある皇子の一人であった。太上天皇の格別のお引き立てをこうむり、思いがけず皇太子の位に昇り、皇統を継承した。その間、小人の讒言があって、たまたま太上天皇のお怒りを買い、朕の不徳を重ねることになった。しかし朕の赤心は、明るい太陽のごとく変わらない。朕は徳の乏しい身で、在位16年になる(注:○案ずるに、天皇の在位は実際には15年である。ここに16年とあるのは、おそらく誤りがあるのだろう)。皇太弟が賢明で仁厚であることは、朕のかねてより知るところであり、年齢もまた朕とほぼ同じである。皇太弟に位を伝えたいと思ってから久しい。今こそその宿願を遂げたいと思うので、この趣旨を承知してほしい。」皇太弟は座を退いて跪き、申し上げた。「臣は闇愚の身でありながら、久しく皇太子の位を忝(かたじけな)くしております。しかし不幸にも持病があり、常に皇統を継ぐに堪えないのではと恐れております。たびたび右大臣に語ってはおりますが、まだ奏上する機会を得ておりませんでした。今、臣に大宝(たいほう、皇位)を授けられては、心魂が迷い惑い、あえて勅を承ることができません。」天皇は懇ろに諭して仰せられた。「今日より前は、朕は皇太弟を我が子のように遇してきた。今日より後は、皇太弟が朕を遇するのも、また我が子のようにするだけのことである。」皇太弟はついに即位した。これが淳和帝(じゅんなてい)である。そこで正良親王(まさらしんのう)を皇太子に立てた。天皇は権中納言藤原三守(ふじわらのみもり)に書をもたせて辞退させたが、その書式は上表と同じものであった。淳和帝はそこで三守にその書を持ち帰らせた(注:日本紀略による)。そして尊号を奉り、太上天皇と称した。天皇は書を送って固く辞退したが、聞き入れられなかった(注:類聚国史・日本紀略による)。9月、嵯峨荘に行幸した。淳和帝は担当の役人に勅して御輿(みこし)と儀仗を設けさせたが、天皇はこれを辞退した。帝が再三強く願ったので、天皇はただ馬にのみ乗り、先導の兵仗は退けた(注:日本紀略による)。
¶天長2年10月、交野で遊猟し、左大臣藤原冬嗣がこれに従った。淳和帝は中納言清原夏野(きよはらのなつの)、および蔵人三人を遣わして供奉させた(注:類聚国史による)。11月、淳和帝が天皇の四十算(しじゅうさん、四十歳の賀)を祝った(注:類聚国史・日本紀略による)。
¶10年、皇太子が即位した。これが仁明帝(にんみょうてい)である。淳和帝は尊号を受け、これにより天皇(嵯峨)を先太上天皇と称した。
¶承和3年2月、交野で遊猟した。
¶4年10月、また交野で狩りをした。
¶9年7月、天皇が病に伏した。15日丁未、嵯峨院で崩御した。御年57歳。遺詔して、「太上天皇の葬礼を取りやめ、自ら故事を斟酌して、別に制を定める。これを送終(そうしゅう)と名づける」とした。その大略は次のようなものであった。「そもそも葬(ほうむ)るとは蔵(かく)すということであり、人に見られないようにすることを望むものである。しかるに周代以来、棺槨(かんかく)を用い、松や炭で隔て、千年にわたって遺骸を枯らし尽くそうとし、久しく死者をひとつの墓穴にとどめている。これはすでに真に帰るという道理に背いており、実に愚かな風俗の嘲りを残すものである。まして生きているときに堯舜のような徳もなかった者が、死んでどうして国家の費用を煩わせてよいものか。昔から財を豊かにして厚く葬ることは、賢者がこれを譏ってきた。それゆえ桓司馬(かんしば)が石槨を作ったことについても、『速やかに朽ちるに越したことはない』と言われている。しかし楊王孫(ようおうそん)の裸葬(らそう)もまた、忍んで行うべきことではない。すなわち漢の文帝・魏の文帝の二人こそ、わが手本とするところである。それゆえ朝に死ねば夕方に葬り、夕方に死ねば朝に葬りたい。棺は厚く作らず、これを筵(むしろ)で覆い、黒葛(くろかずら)で結わえて、床の上に置け。歛(れん、遺体の装束)には時服を用い、みな古い衣を使い、あらためて特別に仕立てることなく、纏束(てんそく)も加えず、牛角帯(ぎゅうかくたい)を着けさせよ。そのほかの衣衾(いきん)や飯含(はんがん)など、生前の品々は、一切用いない。山の北の人目につかない不毛の地を選んで葬り、穴を掘る深さと広さは、棺が入る程度でよい。葬儀は三日を限りとする。卜筮(ぼくぜい)を信じてはならず、俗事にとらわれてはならない(注:諡(おくりな)・誄(るい、弔いの言葉)・飯含・呪願・忌明けの日などのことを指す)。日が暮れてから葬地に向かえ。院中の人々は喪服を着けて喪の事にあたってよい。柩を挽く者は12人、燭を執る者は12人とし、いずれも粗末な布の衣を着けよ。従う者は20人を超えてはならない(注:院中の近習の者を指す)。男の子はこの限りではないが、婦女は一切参列を停止せよ。棺を下ろしたら、封土も植樹もせず、地面と平らにならせ。永く祭祀を絶つが、ただし子のうち年長の者が、私的に守り人を置いてもよい。しかし三年の後にはこれを停止せよ。天下の官吏・民は、喪服を着けてはならない。朝廷の官司も、哀悼のために弔問してはならない。ただし衰絰(さいてつ、喪服)を着ける者は七日を限りとし、これを過ぎれば早く脱ぐようにせよ(注:近臣で寝所に出入りしていた者を選び、素服を着けさせるべきである。除喪もこれに準じる)。また仏家の教えも、絶ち捨ててはならない。三七日・七七日には、それぞれ粗末な布百段を、一周忌には二百段を、便宜の寺に施して追福とせよ(注:仏への布施は細綿十屯とし、生絹で包んで白木の机の上に置くこと)。国忌(こっき)に配することはしなくてよい。毎年の忌日には、一つの寺で、いささか誦経させよ。しかしこの事は必ず今の代で終わらせ、後の子はこれに倣ってはならない。もしこれに従わなければ、これは地下で屍を辱めることであり、死してなお重ねて傷つけられることになる。もし魂に霊があれば、冥途で怨み悲しみ、永く怨霊となるだろう。この制に含まれないその他のことは、みなこの制の趣旨に準じて行え。」16日戊申、山陵を定めた(注:○案ずるに、延喜式には山陵の記載がない。おそらく遺詔により薄葬としたため、陵名がないのであろう)。商布二千段、銭一千貫文をもって葬送の費用にあて、その日のうちに葬儀を終えた(注:続日本後紀による)。嵯峨天皇と称した。