卷之一百廿二 列傳第四十九
紀古佐美、大伴弟麻呂、大伴古慈斐、大伴勝雄ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
紀古佐美
¶紀古佐美(きのこさみ)は、大納言紀麻呂(きのまろ)の孫で、正六位上・紀宿奈麻呂(きのすくなまろ)の子である(注:『公卿補任』による)。天平宝字年間の末に従五位下に叙せられ、丹後守(たんごのかみ)となった。宝亀年間には兵部少輔・式部少輔・伊勢介(いせのすけ)・左少弁を歴任し、従五位上に進んだ。ちょうど蝦夷(えみし)が反乱を起こし、紀広純(きのひろずみ)を殺害する事件が起きた。古佐美は征東副使となり、大使の藤原継縄(ふじわらのつぐただ)に従ってこれを討伐した。天応元年、陸奥守(むつのかみ)となり、従四位下に叙せられた。延暦初年には左兵衛督に転じ、但馬守(たじまのかみ)を兼ね、左中弁・式部大輔・中衛中将を歴任して参議に任じられ、さらに東宮大夫・左大弁・右大弁を歴任して、次第に正四位下まで進んだ。延暦七年、征東大将軍となり大和守(やまとのかみ)を兼ね、陸奥の蝦夷征討にあたった。出発にあたって帝に拝謁した際、勅により殿上で節刀を授けられ、次のような勅書を賜った。「そもそも日を選んで将軍を任命するのは、まさに天子の言葉によるものである。車の轂(こしき)を推して出陣を命じ、もっぱら将軍に事を任せる。聞くところによれば、これまでの別将たちは軍令を慎まず、なお多くの落ち度があったという。その原因を考えれば、弊害は法を軽んじたことにある。副将軍で死罪を犯した者があれば、身柄を拘束して奏上せよ。軍監以下の者は法に従って斬罪に処せ。坂東(ばんどう)の安危は、この一挙にかかっている。将軍よ、努めよ。」そして御衾(ぎょきん)二領、彩帛三十匹、真綿三百屯を賜り、東海道・東山道・坂東諸国の歩兵騎兵五万余を多賀城(たがじょう)に集結させ、道を分けて賊地に進軍させた。延暦八年、古佐美は衣川(ころもがわ)まで至ったが、軍を留めて進もうとしなかった。四月、上書して状況を報告した。五月、勅が下った。「奏上を検討し、三月二十八日に官軍が川を渡り、三か所に陣営を置いて鼎の脚のような態勢を取ったことを知った。それから三十日余りが経つのに、どういうわけか逗留して日を費やし、まったく進軍しないのは、その利点が見えない。そもそも用兵は拙くとも速いことを貴ぶのであり、巧みでも長引くことは聞いたことがない。また六月、七月は暑さが極まる時期である。今のうちに攻め入らなければ、時機を失うことを恐れる。すでに時機を失えば、後悔しても及ばない。将軍は機を見て進退すべきであり、それに異論はない。ただ一か所に長く留まっていることを、朕は不審に思う。その理由と水軍の様子を詳しく記し、駅馬に付けて奏上せよ。」このとき副使の民部少輔・佐伯葛城(さえきのかつらぎ)は軍を率いて進撃していたが、その途上で病没した。詔により正五位下を追贈された。古佐美はさらに次のように奏上した。「副将軍の入間広成(いるまのひろなり)と左中軍別将の池田真枚(いけだのまひら)は、前軍別将の安倍猨島(あべのさるしま)・墨縄(すみつな)らと協議し、三軍そろって進み、川を渡って賊を討つことにした。約束の期日が来ると、中軍・後軍からそれぞれ二千人を選び、川を渡って進ませた。賊将である蝦夷の阿氐流(あてる)が三百人ほどを率いて迎え撃ってきたが、官軍の勢いは鋭く、賊は退却した。官軍は戦いながら賊の集落を焼き払い、巣伏村(すぶしむら)まで進んで前軍と合流しようとした。ところが前軍は賊に阻まれて前進できずにいた。そこへ賊八百人ほどが来て戦いを挑み、官軍はやや後退した。さらに別に四百人ほどの賊が東の山から現れて官軍の背後を断ち、前後から挟み撃ちにした。官軍は敗走し、別将の丈部善理(はせつかべのよしまさ)、進士(しんし)の高田道成(たかだのみちなり)・会津壮麻呂(あいづのますまろ)・安宿戸吉足(あすかべのよしたり)・大伴五百継(おおとものいおつぐ)らが戦死した。この間に焼き払った賊の集落は十四か所、八百戸に及び、押収した武器や雑物は別に記録した通りである。我が方の戦死者は二十五人、矢を受けた者は二百四十五人、溺死した者は千三十六人、川に流されながらも逃げ帰った者は千二百五十七人であった。別将の出雲諸上(いずものもろかみ)・道嶋御楯(みちしまのみたて)らは、残った兵を率いて引き返した。」六月、勅が下った。「先の奏上を検討するに、『胆沢(いさわ)の賊は皆、川の東岸に集結している。まずこの地を征討し、その後で奥地への進攻を図る。そこで軍監以上の者が兵を率いて陣容を張り、威容を厳しく整え、前後相継いで攻めれば討伐できる。しかし兵が少なく将が卑しかったために敗北を招いた』とのことであった。これはすなわち副将らの策の誤りである。善理らが戦死し、多くの兵が溺死したことについては、深く心を痛めている。」古佐美はさらに次のように奏上した。「胆沢の地は賊の本拠となる奥地であります。今、大軍で征討し、賊の村々を打ち払ってはおりますが、残党は身を潜めて人や物を殺し奪っております。また斯波(しわ)・和賀(わが)は、さらに奥深い僻地にあります。臣らはさらに進んで討伐しようと思いますが、糧食の輸送に難があります。玉造塞(たまつくりのさく)から衣川の陣営までは行程四日、輜重(しちょう)の受け渡しに二日を要します。衣川から斯波の地までは行程六日、輜重の受け渡しに二日を要します。したがって玉造塞から斯波の地までは往復二十四日かかり、その上、賊に遭遇したり雨に阻まれたりすれば、この日程には収まりません。水路・陸路の両方を使い、輜重運搬に二万二千四百四十人を要して六千二百十五斛(こく)を運び補いました。征討軍二万七千四百七十人の一日の食糧は五百四十九斛です。これで計算すると、一度に運べる分では、わずか十一日しか支えられません。臣らが検討したところ、斯波の地を目指すには支度に不足が出ます。もし征討兵を分けて輜重を増やせば、軍勢が少なくなって討伐に足りなくなります。その上、軍を興してから春・夏を経て、軍勢も輜重もすっかり疲弊しており、これ以上進めば危険であり、持久しても利はありません。長く賊地に駐屯し、百里の彼方から糧食を運ぶのは良策ではありません。取るに足らない小賊とはいえ、なお天誅を逃れており、しかも水田・陸田は耕作できず、すでに農繁期を失っています。これを滅ぼさずにおいて何を待つのでしょうか。今日の計としては、軍を解いて糧食を節約し、非常の事態に備えるのが最善です。軍勢の食糧は一日二千斛です(注:先の文には一日の食糧は五百四十九斛とあるが、ここでは軍勢の食糧を一日二千斛としている。おそらく本軍全体の総数を挙げたものであろう。今はこれ以上考証できない)。もし奏上して裁可を仰げば、いっそう浪費が増えることを恐れます。そこで今月十日をもって、以前に解散を決めた旨を諸軍に通達いたしました。臣らの拙い考えではありますが、奏上すると同時に実行に移した次第です。」勅が下った。「これまでの奏上を検討するに、『賊は川の東岸に集結して官軍に抵抗している。まずこの地を征討し、その後で奥地への進攻を図る』とのことであった。今、深く攻め入るのは不利であるとして軍を解こうとするなら、事の次第を詳しく奏上し、返答を待ってから行っても遅くはなかったはずである。ひとたび兵を退いて討伐を果たさぬまま、このような計らいをしたのは、いったいどういう道理か。将軍らが賊を恐れてこのような振る舞いに及んだことは明らかである。それでいて巧みに言葉を飾って罪を逃れようとするのは、不忠の甚だしさ、これに勝るものはない。広成・墨縄は長く賊地にあって戦陣に習熟しているゆえに副将の任を委ね、力戦の成果を期待していた。それなのに陣営に安住して勝敗の行方を傍観し、副将を差し向けたところ、かえって敗北を招いた。君に仕える道が、どうしてこのようであってよいものか。そもそも軍を出して功がないのは、良将の恥とするところである。今、軍勢を失い糧食を浪費したことは、国家にとって大きな害であり、この遠征の任にあった者は、いったい誰がその咎めを負うのか。」七月、古佐美らは上書し、大勝したと偽って報告した。勅が下った。「今月十日の奏上を得た。それには『いわゆる胆沢とは、水陸見渡す限り広大な地であり、蝦夷の輩が集まる所であったが、大軍が一たび臨むと、たちまち荒れ果てた廃墟となり、生き残りの賊はかろうじて命を保つのみで、その危うさは朝露のようなものである。軍船が纜(ともづな)を解いて連なり百里に及び、天子の軍が向かうところ、前に強敵なし。海辺の巣窟にはもはや人の気配もなく、山谷の隠れ家にはただ鬼火が見えるばかりである。この上ない喜びに堪えず、急使を飛ばして奏上する』とあった。しかし先後の奏上を照らし合わせると、討ち取った賊の首級は百に満たず、こちらの死傷者はほぼ三千に及ぶ。これでどうして喜ばしいと言えようか。そもそも大軍が引き上げようとする際に、凶賊が背後を攻めるのは一度だけではない。それなのに『大軍が一たび臨むと、たちまち荒れ果てた廃墟となった』と言うのは、事の実情を推し量れば、虚飾に等しいものと思われる。真枚・墨縄らは自ら兵を督励せず、副将を川の東岸に遣わし、軍は敗れて逃げ、溺死者は千人余りに及んだ。それなのに『ひとたび渡って戦いながら焼き払い、賊の巣窟を捜索してから本営に引き返した』と言い、この溺死した軍勢のことは伏せて論じていない。ただ征東副使の多治比浜成(たじひのはまなり)らが賊を討って土地を攻略したことだけは、他に比べていくらか勝っている。それなのに今『天子の軍が向かうところ前に強敵なく、山谷の隠れ家にはただ鬼火が見えるばかりであった』と言うのは、実情を超えた誇張の言葉である。そもそも勝利を報告する上表というものは、賊を平定し功を立てた後に奏上すべきものである。今、賊の巣窟を突き止めることもできず、その一族を滅ぼすこともできないまま、急使を飛ばして祝意を述べるとは、将軍たちは恥じることがないのか。」九月、古佐美らはついに都に帰り、節刀を返上した。大納言藤原継縄・中納言藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)らに命じて、太政官の曹司(そうし)で事の次第を取り調べさせた。古佐美・広成・真枚・墨縄らはいずれも罪状を認めた。勅が下った。「古佐美は賊地を平定できず、軍を敗り糧食を浪費した。本来ならば法に照らして厳しく処罰すべきであるが、これまでの功労を思い、いっさい問わないこととする。真枚・墨縄らは愚かで臆病であり、進退の判断を誤って、そのたびに軍の期日に遅れた。法に照らせば墨縄は斬罪、真枚は官を解いて冠位を没収すべきところである。しかし墨縄は長く辺境の守りを務め、勤勉に職務にあたってきたので、刑を免じて官位のみを取り上げる。真枚は日上港(ひかみのみなと)にあって溺れる兵を救援したので、官を解くにとどめ冠位は没収しない。その他小さな功のあった者には、それぞれ相応の褒賞を与える。小さな罪のあった者は不問に付す。丈部善理は胆沢の戦いで官軍が敗れた際、奮戦して戦死したので、外従五位下を追贈する。」その後まもなく古佐美は正四位上に進み(注:『続日本紀』による)、但馬守を兼ね、左衛門督に転じた。延暦十三年、中納言に任じられるとともに、位階を飛び越えて正三位を授けられた。ほどなく式部卿を兼ねた。十五年、大納言に転じた。十六年、皇太子傅を兼ねた。まもなく薨去した。享年六十五。従四位下・百済英孫(くだらのえいそん)らを邸宅に遣わして詔を伝え、従二位を追贈した。子に広浜(ひろはま)・末成(すえなり)がいる。広浜は参議正四位下となった(注:『公卿補任』による。末成については『類聚国史』による)。末成は幼い頃から聡明で、書物を博く読んでいた。延暦年間に式部丞に任じられた。当時、清廉な人物としての推挙を許され、伊予介(いよのすけ)として地方に出た。大同・弘仁年間には出雲・常陸・大和・越前の国守を歴任し、赴任先ではいずれも政務に優れると評判であった。従四位下に至った。天長二年に没した。享年四十五。正四位上を追贈された(注:『類聚国史』による)。
大伴弟麻呂
¶大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)は、大伴吹負(おおとものふけい)の曾孫である(注:『続日本紀』によれば「古慈斐は吹負の孫」と記されている)。父の古慈斐(こじひ)は(注:『公卿補任』による)、若い頃から才幹があり、ひととおり書記の学に通じ、初めは大学大允として出仕した。藤原不比等(ふじわらのふひと)は娘を彼に嫁がせた。天平勝宝年間には次第に昇進して従四位上・衛門督に至ったが、にわかに出雲守として地方に出され、疎んじられ退けられたことで、常に鬱々としていた。天平勝宝八年、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が「古慈斐と淡海三船(おうみのみふね)は朝政を誹謗し、臣下としての礼を欠いている」と讒言したため、衛士府に禁固され、土佐守(とさのかみ)に左遷された。天平宝字の初め、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の一味とされ、再び罪を得た。宝亀の初め、召還されて本来の位に復し、大和守となり、正四位下に叙せられた。宝亀六年、老齢を優遇されて従三位を授けられた。同八年、薨去した。享年八十三(注:『続日本紀』による。「父古慈斐」以下ここまでは、古慈斐についての記事である)。
¶弟麻呂は、宝亀の末に衛門佐となった。天応元年、中宮亮を兼ね、次第に昇進して左衛士佐となった。延暦の初め、常陸介に任じられ、征東副将軍となり、その後入って右中弁を補任され、左中弁に転じ、皇后宮亮・河内守を兼任した。延暦十年、従四位下に至り、征夷大使となって(注:『続日本紀』による)陸奥に赴いた。十三年、節刀を授けられた。弟麻呂は副使の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らを遣わして蝦夷を討たせ、大いにこれを打ち破り、首四百五十七級を斬り、捕虜百五十人、馬八十五匹を得た。翌年、軍を率いて凱旋した(注:『類聚国史』『日本紀略』による)。功を褒められて従三位勲二等を授けられた(注:『類聚国史』による)。ほどなく皇太子傅となったが、老齢を理由に辞職を願い出て、中納言藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)を通じて邸宅にてこれを許された。大同四年、薨去した。享年七十九。子に勝雄(かつお)がいる。
大伴古慈斐
¶大伴勝雄(おおとものかつお)は、天長年間に陸奥守となり按察使(あぜち)を兼ね、従四位下・右兵衛督に至り、讃岐権守(さぬきのごんのかみ)を兼ねた。生まれつき鷹揚で寛容な性質であり、他人の隠し事を暴くようなことはなかった。家風は清廉で、財貨や利益に近づくことがなかった。地方に出ては軍事を統率し、都に入っては禁兵を統括した。当時の評判では「勝雄は学才には乏しいが、将帥としての器量がある」と称された。天長八年、没した。享年五十六(注:『類聚国史』による)。
大伴勝雄
¶坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(注:「村」は「邑」とも書く)は、左京大夫・坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)の子である(注:『公卿補任』による)。身長は五尺八寸、胸の厚さは一尺二寸、体重は二百一斤、痩せても六十四斤あり、眼は蒼隼(あおはやぶさ)のように鋭く、髭は金の糸のようで、腕力に優れていた(注:『水鏡』『田邑麻呂伝記』による)。延暦年間、従五位下に叙せられ、近衛将監となり内匠助を兼ね、近衛少将に進んだ(注:『古今著聞集』によれば、嵯峨天皇の時代、隙をうかがって天皇を害しようとした者がいたが、田村麻呂が近衛将監として常に側近くにいることを憚り、その官職の異動を待っていたという。田村麻呂はその後少将・中将・大将を歴任し、天皇の寵愛も格別であったため、ついにその企ては実行されなかった、とある。しかし田村麻呂は桓武朝で少将・中将を歴任し、平城朝で大将に任じられ、嵯峨朝の弘仁二年に没しており、『著聞集』の記述は事実と食い違っている。よってここでは採らない)。越後守(えちごのかみ)を兼ねた。帝が蝦夷征討を企てた際、田村麻呂は従五位上・百済俊哲(くだらのしゅんてつ)とともに東海道に赴いて兵士・馬を検分し、武具を点検し、まもなく征夷副使となった(注:『続日本紀』による)。大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討ち、多くを討ち取り略取した(注:『日本紀略』による)。その功により従四位下に進み、木工頭を兼ね、陸奥出羽(でわ)按察使に任じられ、陸奥守・鎮守将軍を兼ねた。ほどなく征夷大将軍を拝命し(注:『公卿補任』による)、勅を奉じて諸国の夷俘(いふ)を検校した。延暦二十年、陸奥の蝦夷が再び反乱を起こしたため、節刀を授けられてこれを討った。凱旋すると従三位を授けられた(注:『日本紀略』による。『元亨釈書』の僧延鎮伝には、田村麻呂が勅を奉じて陸奥の逆賊高丸(たかまる)を討った話が記されている。高丸はすでに駿河(するが)を攻略し清見関(きよみがせき)まで進んでいたが、田村麻呂の出兵を聞いて陸奥に退いて拠った。官軍が賊と戦って矢が尽きたとき、一人の若い僧と少年が矢を拾って田村麻呂に与えたという。田村麻呂は高丸を神楽岡(かぐらおか)で射殺し、その首を都に送った。『吾妻鏡』には、奥州の田谷窟(たっこくのいわや)は賊将の悪路王(あくろおう)や赤頭(あかがしら)らが砦を構えた所であり、田村麻呂が賊を討った日、その窟の前に精舎を建て、鞍馬寺を模して多聞天像を安置し、西光寺と号して水田若干を寄進したとある。高丸・悪路王の二つの話はほかに見えないが、参考として付け加えておく)。近衛権中将に転じた(注:『公卿補任』による)。延暦二十一年、陸奥に胆沢城(いさわじょう)を築いて蝦夷を鎮圧した。夷の酋長である大墓公阿弖利為(たものきみあてりい)・盤具公母礼(いわぐのきみもれ)は、部落五百人余りを率いて降伏した。任務が終わり、田村麻呂は二人の酋長を伴って都に帰ったが、彼らは本拠地に帰してその仲間を招き寄せたいと請うた。公卿らは協議して「野性は獣のようなもので、服従するか反逆するかは定まらない。今、朝廷の威光によってこの梟雄を捕らえることができたのだ。もし奏請の通りにすれば、いわゆる虎を養って禍を残すことになる」と述べ、河内(かわち)の植山(うえやま)で斬った。延暦二十二年、再び陸奥に赴き、志波城(しわじょう)を築いた。出発にあたって帝に拝謁した際、彩帛五十匹、真綿三百屯を賜った(注:『日本紀略』による)。帰京して刑部卿となった(注:『公卿補任』による)。二十三年、再び征夷大将軍となった(注:『公卿補任』『日本紀略』による)。翌年、参議に任じられた。大同の初め、中納言に任じられ中衛大将を兼ね、その他の官職は元のままであった(注:『公卿補任』による)。田村麻呂は「陸奥・出羽では、郡司に任命できる者の員数に限りがあります。しかし辺境の要地の事情は、内地とはかなり異なります。願わくは、才幹があり果断な人物を員数外にも任用し、防備警固に備えたいと存じます」と奏上した。そこで勅により、正規の員数のほかにも郡司を軍役として任用することが許された(注:『類聚三代格』による)。大同二年、中衛府を右近衛府に改めたが、田村麻呂は元のままその府にとどまり、侍従・兵部卿を兼ね、正三位に進んだ(注:『公卿補任』による)。尚侍(ないしのかみ)藤原薬子(ふじわらのくすこ)の変が起きると、勅が下って三関(さんげん)を固めさせた。田村麻呂は近衛府にあって、その威望はもとより高かった。帝は彼が太上天皇(だいじょうてんのう)に用いられることを恐れ、急いで大納言に進めてその心をつなぎとめた(注:『水鏡』による)。太上天皇が東国へ向かおうとすると、田村麻呂に精鋭を率いさせて美濃(みの)路でこれを迎え撃たせた(注:『類聚国史』による)。このとき文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)は、太上天皇に近侍していたという理由で左衛士府に拘禁されていた。田村麻呂はその才能が用いるに足るものであることを知り、釈放するよう奏上した。ともに出陣させたところ、事はまもなく平定された(注:『類聚国史』『日本紀略』による)。弘仁二年、粟田(あわた)の別荘で薨去した。享年五十四(注:『日本紀略』による)。絁(あしぎぬ)・布・米、および役夫二百人を賜った。帝はその日、政務をとらなかった。大舎人頭藤原縵麻呂(ふじわらのかつらまろ)、治部少輔秋篠全継(あきしののまたつぐ)を邸宅に遣わして宣旨を伝え(注:『田邑麻呂伝記』による)、従二位を追贈し、山城(やましろ)国宇治郡(うじのこおり)栗栖村(くるすむら)の水田・陸田・山林三町を墓地として賜った(注:『日本紀略』による。あわせて『田邑麻呂伝記』も参照した)。その遺骸を棺の中に立たせ、平安京に向けて葬らせた。あわせて甲冑・剣・矛・弓矢・干飯(ほしいい)・塩を埋め、官がその事を監督させた。この後、国家に事変があると、その墓が鳴り動いたという。大将が出征するたびに、まずその墓に詣でて祈願したという(注:『田邑麻呂伝記』による)。彼が佩びていた剣は御府に納められ、坂上宝剣(さかのうえのほうけん)と呼ばれた(注:『古事談』『増鏡』による)。帝は自らその肖像に賛を記し、深くその死を悼んだという(注:『坂上系図』による)。かつて田村麻呂が狩りに出た際、僧延鎮(えんちん)に出会い、その清貧な修行ぶりを称賛した。そこで愛宕郡(おたぎのこおり)に清水寺(きよみずでら)を創建した(注:藤原明衡『清水寺新造願文』『今昔物語』による)。弘仁の初め、清水寺を官寺とするよう請うた(注:『田邑麻呂伝記』による)。子に広野(ひろの)(注:『類聚国史』による)・浄野(きよの)(注:『文徳実録』による)がいる。
坂上田村麻呂
¶坂上広野(さかのうえのひろの)。広野は若い頃から武勇で知られ、正直で意志が強く、節操を重んじた。弘仁年間には右近衛少将を歴任し伊勢守を兼ね、その後陸奥守として地方に出た。任期が満ちると右兵衛督に任じられ、従四位下勲七等に至った。天長五年、没した。享年四十一(注:『類聚国史』による)。広野の子は当道(まさみち)である(注:『三代実録』による)。
坂上廣野
¶坂上浄野(さかのうえのきよの)は、若い頃から家風を受け継ぎ、武芸に抜きん出ていた。平城天皇(へいぜいてんのう)が武徳殿(ぶとくでん)に出御した際、天下から選ばれた騎射の士二十人の中に、浄野は東宮少進として選ばれ、また徒歩で射る士の佐味香飾麻呂(さみのかしかまろ)・飯高常比麻呂(いいたかのつねひまろ)と技を競ったところ、浄野が最も優れていた。弘仁年間、陸奥鎮守将軍となった。当時、年は二十七であった。ほどなく陸奥介を兼ね、右近衛少将となった。天長の初め、薩摩守(さつまのかみ)に左遷され、まもなく土左権守(とさのごんのかみ)に転じた。都に戻ると正五位下に叙せられ、陸奥出羽按察使となった(注:『文徳実録』による)。承和年間、鎮守将軍匝瑳末守(そうさのすえもり)からの牒(ちょう)を得たとして、次のように奏上した。「昨年の春から今年の春にかけて、百姓の間に妖しい噂が広まり、騒ぎが収まりません。奥地の民は住まいを捨てて逃げ出しています。守備兵を増員して派遣し、民を呼び集めて農業に従事させる必要があります。また粟原(あわはら)・賀美(かみ)の両郡では逃げ出す百姓が多く、官では引き留めることができません。臣が思いますに、禍を防ぎ騒擾を鎮めるには、事が起こる前に慎重を期すべきです。また栗原・桃生(ものう)より北の俘囚(ふしゅう)は、弓を引く者が非常に多く、朝廷の教化に従っているように見えながらも、その態度は一定しません。今は真夏で草も豊かに茂り、馬も肥え賊も驕る時期であり、もし非常の事態が起これば、防ぎきることは難しいでしょう。伏してお願いいたしますのは、援軍千人を派遣し、四月・五月の間に交代で上番・下番させ、しばらく賊の来襲に備えることです。その糧食は、通例に従い現地の穀物から支給していただきたく存じます。奏上して裁可を待っていては事の機会を失うことを恐れますので、派遣すると同時に奏上いたします。」勅によりこれが許された(注:『続日本後紀』による)。在任数年の間、夷の民とも和親を保ち、関所も無事であった。都に戻って右馬頭となり、右兵衛督に転じ、次いで因幡(いなば)・相模(さがみ)守を兼ね、正四位下に至った。嘉祥三年、没した。享年六十二(注:『文徳実録』による)。子は当宗(まさむね)である(注:『坂上系図』による)。
坂上淨野
¶坂上当宗(さかのうえのまさむね)は(注:『坂上系図』による)、承和年間、右近衛将監となった。当時、伊勢の盗賊が名張郡(なばりのこおり)の山中に集まり、ひそかに私鋳銭を作っていた。当宗は近衛の夷俘らを率いてこれを捜索し捕らえ、あわせて鋳造の道具と銭を献上した。従五位下に至り、鎮守将軍に任じられ、陸奥介を兼ねた(注:『続日本後紀』による)。仁寿・斉衡年間には掃部頭(かもんのかみ)となり、左兵衛権佐に転じた(注:『文徳実録』による)。広野の子は当道である(注:『三代実録』による)。
坂上當宗
¶坂上当道(さかのうえのまさみち)は、若い頃から武事を好み、弓馬に巧みで、あわせて才知もあった。承和年間、内舎人となった。正月の大射(だいしゃ)の儀で五位以上の者が定員に満たなかったため、詔により当道がその数に加えられた。右近衛将監・左兵衛・左衛門大尉を歴任した。斉衡二年、従五位下を授けられ、右衛門権佐に任じられて検非違使を統括した。法の運用は公平で、権勢に阿(おもね)ることがなかった。天安の初め、左近衛少将に転じた。貞観元年、陸奥守として地方に出て常陸権介を兼ね、従五位上に進んだ。任期が満ちても後任が来ず、四年待った末に、任地で没した。享年五十五。当道は財を軽んじ義を重んじ、在任中は清廉な政治を行ったと評された。国内は粛然と治まり、民も夷俘も安んじた。暮らしは貧しく蓄えもなく、棺に納める段になっても、あるのはただ布団一枚だけであったが、その遺徳は長くその地の人々の間に残ったという(注:『三代実録』による)。
坂上當道
¶巨勢野足(こせののたり)は、参議巨勢堺麻呂(こせのさかいまろ)の孫で、式部大輔巨勢苗麻呂(こせのなえまろ)の子である(注:『公卿補任』による)。延暦年間、従五位下に叙せられ、陸奥鎮守副将軍となり、征夷副使に転じた。大伴弟麻呂に従って蝦夷を征討し(注:『続日本紀』による)、陸奥介を兼ね、正五位下に進んだ。ほどなく下野守(しもつけのかみ)を兼ね、都に入って兵部大輔となった。左衛門督に転じた。大同年間、左兵衛督に任じられ、侍従を兼ね、左近衛中将となった。弘仁の初め、蔵人頭に任じられ中務大輔を兼ね、参議に任じられて備中守(びっちゅうのかみ)を兼ね、次第に従三位に叙せられて勲三等を賜り、右近衛大将・備前守(びぜんのかみ)を兼ねた。弘仁三年、中納言に任じられた。六年、陸奥出羽按察使を兼ね(注:『公卿補任』による)、次のように奏上した。「軍団の用途で馬に勝るものはありません。しかし権勢のある者の使者や富裕な民が互いに往来して、馬を求めることが絶えません。そのため官吏や民に迷惑をかけ、無理に夷俘の者たちの馬を奪うようなことも起きています。国内が治まらないのは、まさにこれが原因です。馬の値段が高騰するだけでなく、兵馬そのものも得難くなっています。延暦六年に勅符を下し、特に規則を定めましたが、年月が経ち世が移るにつれて、慣れが生じ守られなくなっています。願わくは、新たに厳しい制度を下し、さらに禁止を強めていただきたく存じます。」勅によりこれが許可された。出羽国もこれに準じることとされた(注:『類聚三代格』による)。翌年、正三位に叙せられ、右近衛大将の任を解かれた。まもなく薨去した。享年六十八(注:『公卿補任』による)。