卷之一百廿三 列傳第五十
吉備真備、吉備泉、菅原清公、菅原善主ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
吉備真備
¶吉備真備(きびのまきび)(注:『続日本紀』のある写本では、景雲元年・宝亀元年・延暦十年の記事で真備を「真吉備」と表記している。『類聚国史』奉献部、『類聚三代格』弘仁十一年官符、『公卿補任』、および松浦社縁起の藤原広嗣上表文にも同様に「真吉備」とあるが、今はその由来を考証する術がない)は、本姓を下道朝臣(しもつみちのあそん)といった。その祖先は吉備彦命(きびひこのみこと)に出て、代々吉備国に住んでいた。九世の祖である御友別(みともわけ)(注:『公卿補任』による)の長子・稲速別(いなはやわけ)は川島県を領有し、子孫は下道臣を姓とした。天武天皇の御代に朝臣の姓を賜った(注:『日本紀』による)。父の国勝(くにかつ)は右衛士少尉であった(注:『続日本紀』による)。
¶真備は従八位下に叙せられ、霊亀二年、遣唐留学生となった。この時二十四歳であった。唐において経書・史書を深く研究し、多くの学芸に通じた。当時、唐において名を知られた留学生は、真備と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の二人だけであった。天平七年に帰国し、『唐礼』百三十巻、『大衍暦経』一巻、『大衍暦立成』十二巻、測影鉄尺一枚、銅律管一式、『楽書要録』十巻、糸巻き漆塗り角弓一張、馬上で水を飲むための漆塗り角弓一張、露面漆四節、角弓二張、射甲箭二十本、平射箭十本を献上した。正六位下を授けられ、大学助に任じられた。まもなく中宮亮となり、次第に昇進して従五位上に至り、右衛士督に転じた。孝謙天皇がまだ東宮であった頃、その学士となって『礼記』『漢書』を進講し、非常に厚い恩寵を受けた。東宮学士から大夫に昇り、なお学士を兼ねた。まもなく現在の「吉備」の姓を改め賜り、右京大夫に転じた。天平勝宝の初め、従四位上に進んだが、ある事件により筑前守に左遷され、間もなく肥前守に転じた。天平勝宝四年、遣唐副使として唐に赴いた(注:『続日本紀』による)。玄宗皇帝は真備に銀青光禄大夫の位を授けた(注:『日本高僧伝要文抄』による)。帰国に際して暴風に遭い船団が散り散りとなり、真備は益久島(やくのしま、屋久島)に漂着した。天平勝宝六年、紀伊国牟漏崎(むろのさき)に至った。都に入り、正四位下に進み、大宰大弐に昇進した。筑前国怡土城(いとのき)の築城を建議し、勅命によりその事業を専任した。天平宝字の初め、唐で内乱が起きたため、勅命により船王(ふねおう)と真備に防備を命じた。真備は「農耕をしながら戦いに備えることは、昔の人も説くところである。五十日を教練に充て、十日を軍役に充てられたい」と献策し、朝廷の議はこれに従った。また授刀舎人(じゅとうのとねり)の春日部三関(かすがべのみつせき)、中衛舎人の土師関成(はじのせきなり)らを遣わし、八陣九地の陣立ての法を学ばせた。まもなく西海道節度使となった。天平宝字八年、召されて東大寺長官となったが、病のため政務を執らなかった。恵美仲麻呂(えみのなかまろ、藤原仲麻呂)の反乱に際しては、召し出されて軍事の謀議に参画し、従三位に叙せられ(注:『続日本紀』による)、参議に任じられ中衛大将を兼ねた(注:『公卿補任』による)。真備は賊が必ず逃走すると見抜き、兵を遣わして退路を塞ぎ、その指揮配置がまことに的確であったため、旬日のうちに乱は平定された。天平神護元年、勲二等を授けられ、正三位に叙せられた。翌年、中納言となり、間もなく大納言に転じ、東宮時代からの旧恩により右大臣に抜擢され、従二位を授けられた。神護景雲の初め、近江国の穀二千斛を賜った。真備は対馬島の墾田三町一段、陸田五町二段、雑穀二万束を献上し、島の備蓄とした。勅により大宰府に綿二万屯を賜い、新羅との交易品を購入させた。天皇が真備の邸に行幸し、正二位に進み、まもなく稲十万束を賜った。神護景雲四年、天皇の病が重くなり、勅により真備に中衛府・左右衛士府の事を管掌させた(注:『続日本紀』による)。天皇が崩御したが、後継はまだ定まっていなかった。真備らは文室浄三(ふんやのきよみ)を立てようとしたが、浄三は固辞した。そこでその弟の大市(おおいち)を立てようとしたが、左大臣藤原永手(ながて)(注:原文は「永守」)・内大臣藤原良継(よしつぐ)が右大弁藤原百川(ももかわ)とともに策を定め、光仁天皇を擁立した(注:『日本紀略』『水鏡』による)。真備は「思いもよらず、長生きしたことの弊害が、ついにここまで至ろうとは」と嘆いた(注:『日本紀略』による)。そこで上表して次のように述べた。「私はひそかに聞いております、『力に堪えぬのに無理に事をなす者は身を滅ぼし、心が及ばぬのに極官にある者は必ず判断を誤る』と。真備が自らを省みるに、まことにこの言葉の証しとするに足ります。去る天平宝字八年、真備は齢七十に満ち、正月に致仕の表を奉ろうとしておりました。ところが折しも官符があり、造東大寺長官に補されたため、これにより上京し、その後病のため家に帰りました。にわかに兵乱が起こり、召されて軍務に参画し、些少の功を録せられて次々と貴い官職に昇り、辞退も許されぬまま、すでに数年が過ぎました。今や老いと病が身にまとわりつき、治療しても癒えがたい有様です。朝廷の要職は激務であり、しばらくも空しくすることはできません。どうして病んだ老いの身を抱えたまま、久しく大臣の位を汚し、いくつもの職を兼帯して万機に関わり続けることができましょうか。我が身を顧みますに、恥じ入ること甚だしく、天に慚じ地に愧じ、身の置き所もございません。伏してお願い申し上げます、官を退くことをお許しいただき、賢者の進む道を空けさせてくださいませ。上は聖朝の老を養う徳をいただき、下は凡愚なる身の分をわきまえる心を遂げさせていただきたく存じます。」これに対して詔があった。「昨日、奉った上表を見て、そなたが退官を願い出たことを知った。先帝の御忌もまだ終わらぬのに、なぜそのように早く官を退こうとするのか。悲しみと驚きが入り交じり、にわかには答える言葉もなかった。夜通しそなたの労苦を思い、座したまま夜を明かした。そなたの願いに従わなければ謙譲の美徳に逆らうようであるが、さりとてその願いを叶えようとすれば、いよいよ賢い補佐役を失うことを思う。よって中衛府の職は解くが、なお大臣の位はそのまま帯びよ。座して臨む間も、朝廷の右席を空けてはならぬ。」真備はその後も重ねて上表して切に願い出、長い時を経てようやく許しを得た。宝亀六年に薨じた。享年八十三であった。朝廷は使者を遣わして弔問した(注:『続日本紀』による)。
¶真備は大納言であった時、中壬生門(なかのみぶもん)の西に二本の柱を立てることを奏上した。その一本には「およそ役人に不当に抑圧された者は、この柱の下に至って訴え出るべし」と記し、もう一本には「民のうちに無実の罪に苦しむ者があれば、この柱の下に至って訴え出るべし」と記した。そしてともに弾正台に命じて、その訴状を受理させた。もともと大学寮の釈奠(せきてん、孔子を祭る儀式)の作法は十分に整っていなかったが、真備は礼典を考証してこれを整備し直し、器物も初めて揃い、儀礼の様子も見事なものとなった。大蔵省の双倉(ならびぐら)が火災に遭った際には、私財を出してこれを造営した。また律令二十四条を削正し、延暦年間に至って勅によりこれが用いられた(注:『続日本紀』による)。著書に『私教類聚』三十八条がある(注:『拾芥抄』による)。子に泉(いずみ)がいる。
吉備泉
¶吉備泉(きびのいずみ)は近衛将監となった。神護景雲・宝亀の間に、大学員外助・左衛士督を歴任して兼務し、大学頭となった。延暦の初め、伊予守に転じたが、同僚と折り合わず、しばしば訴えられた。朝廷が使者を遣わして事情を糺したところ、泉は不服として述べた言葉が不敬にあたるものであった。そこで勅が下された。「伊予国守の泉は、政治の実績が聞こえず、罪科の事実は明らかである。国の定めに照らせば通常の処罰を科すべきところである。しかしその父である故右大臣(吉備真備)は、かつて唐に留学して帰朝し、教化の風を広めて大臣の位に登り、朝廷の政を助けた。そうであれば、その父の美徳はなお忘れがたい。その子の過ちであるからといって、どうして憐れみをかけずにいられようか。よって泉の罪を宥し、今後の善行を思わせることとする。ただし現任は解き、これまでの過ちを懲らしめとする。」こうして佐渡守に左遷された(注:『続日本紀』による)。平城天皇の即位に伴い、召し還された。大同年間には南海道観察使を歴任し、右京大夫を兼ね、参議に准じ、左右大弁・刑部卿を務め、正四位下を授けられた。弘仁元年、参議に任じられ、伊勢守・武蔵守・左衛門督を歴任して兼ねた。弘仁五年、七十歳で卒した(注:『公卿補任』による)。
菅原清公
¶菅原清公(すがわらのきよきみ)は、遠江介(とおとうみのすけ)古人(ふるひと)の子である。若い頃からおおよそ経書・史書に通じていた。延暦年間、勅命により東宮に陪侍した。二十歳前後で試験を受け、文章生(もんじょうしょう)に補せられ、学業が優れていたため秀才に挙げられた(注:『続日本後紀』による)。美濃少掾となった(注:『公卿補任』による)。対策の試験に及第し、大学少允に任ぜられ、まもなく遣唐判官となり、近江権掾を兼ねた。唐に至ると、大使とともに徳宗皇帝に謁見した。帰国後、従五位下に叙せられ、大学助に転じた。大同の初め、尾張介に転じたが、その治政は刑罰を用いず、後漢の劉寛(りゅうかん)の政治にならったものであった。弘仁の初め、任期を終えて入京し、左京亮に補せられ、大学頭・主殿頭・左右少弁を歴任し、式部少輔に転じて阿波守を兼ねた。弘仁九年には次のような詔が下された。「天下の儀式や男女の衣服は、すべて唐の制度に依るものとする。五位以上の位記は改めて漢風の様式に従うものとする。諸々の宮殿・院・堂・門・閣には、すべて新たな扁額を掲げるものとする。また多くの官人による舞踏についても、清公がすべて取り仕切るものとする。」文章博士を兼ね、『文選』を進講し、あわせて撰修の事業にも参与した。式部大輔に転じた。左中弁に任じられたが意に満たぬところがあり、右京大夫への転任を願い出た。天皇がくつろいだ様子で京職大夫の官位について尋ねると、清公は「正五位相当の官ですが、その日のうちに従四位相当の官に改められました」と答えた。数年後、弾正大弼に任ぜられた。天長年間には都を出て播磨権守となったが、間もなく公卿らが「清公は国の元老であり、遠くに置くべきではない」と議奏したため、召し還されて再び文章博士を兼ね、また弾正大弼に転じた。信濃守を兼ね、左京大夫に転じたが、文章博士は元のままであった。承和の初め、摂津権介を兼ね、さらに但馬権守を兼ねて『後漢書』を進講した。承和六年、従三位に叙せられたが、老いと病により体が衰弱し、歩行も甚だ困難となった。そこで勅により、牛車や馬に乗って南大庭の梨の木の下まで至ることを許された。その後は病と称して、次第に朝廷への参内を絶った。清公は生来仁愛に厚く、生き物を慈しみ、深く仏法を信じて、仏像の造立や写経を怠らず勤めとした。常に薬を服用し、容色は衰えなかった。承和九年に薨じた。享年七十三であった(注:『続日本後紀』による)。清公はかつて『凌雲集』『文華秀麗集』の二集の撰修に加わり(注:両書の序による)、自らの家集六巻がある(注:『菅家後草』による)。子に善主(よしぬし)・是善(これよし)がいる。
菅原善主
¶菅原善主(すがわらのよしぬし)は、幼い頃から聡明で弁舌に優れ、容姿も美しかった。二十三歳の時、文章生の試験を受けて及第した。承和の初め、弾正少忠に任ぜられ、遣唐使判官となって播磨権大掾を兼ねた。帰朝復命の日、その功労により従五位下を授けられた。まもなく兵部少輔、伊勢介・越前介などを歴任し、勘解由次官(かげゆのすけ)となった。仁寿二年、五十歳で卒した(注:『文徳実録』による)。
菅原是善
¶菅原是善(すがわらのこれよし)は、幼い頃から父祖の家業を受け継いだ。弘仁の末、殿上に侍したが、この時十一歳であった(注:『尊卑分脈』による)。承和の初め、文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に補せられ、従六位下に叙せられた。承和六年、対策の試験を受け、判定は中上等とされ、位を三階進められた(注:『続日本後紀』による)。翌年、大学少允となり、助に転じ、まもなく大内記に任ぜられ(注:『公卿補任』による)、従五位下を授けられた。文章博士に転じ、東宮学士を兼ねた(注:『続日本後紀』『公卿補任』による)。文徳天皇の即位に伴い、正五位下を授けられ、加賀権守を兼ねた。仁寿三年、大学頭となった。「文章生でまだ出身(しゅっしん、任官)していない者は、及第の後であっても、名簿の勘査を経ずに考課の先例に加えることはできない」と奏請し、これが許可された。斉衡年間には従四位下を加えられ、左京大夫となった。天安年間には美作守・伊勢守などを兼ねた。貞観二年、従四位上を授けられた。貞観五年、弾正大弼となり、刑部卿に転じた。貞観十二年、式部大輔・伊予権守を兼ねた。貞観十四年、参議に任じられた。翌年、正四位下に進んだ。その後、勘解由長官・近江守を兼ねた。元慶三年、従三位に叙せられた。翌年、薨じた(注:『三代実録』による)。享年六十九であった(注:『公卿補任』による)。『文徳実録』の撰修に加わり、また『東宮切韻』二十巻、『銀牓輸律』十巻(注:仁和寺書籍目録には「輸」を「翰」に作る)、『集韻律詩』十巻、『会分類集』七十巻を著し、自らの家集十巻がある(注:『三代実録』による)。子に道真(みちざね)がおり、別に伝がある。