卷之第十七 本紀第十七
孝謙天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
孝謙天皇
¶孝謙天皇は、諱(いみな)を阿倍(あべ)といい、聖武天皇の皇女である。母は皇后藤原氏(光明皇后)。
¶養老二年にお生まれになり(注:生年は本書に崩年53歳とある記述による)、内親王となり、封千戸を賜った(注:「封」以下は本書廃帝紀による)。
¶天平十年正月、皇太子に立てられた。
¶十五年五月五日、聖武天皇は禁中(宮中)に群臣を集めて宴を催した。皇太子(孝謙天皇)は自ら五節(ごせち)の舞を舞い、元正天皇はこれを称える歌を作って褒めた。
¶天平感宝元年、七月二日甲午、禅(ゆずり)を受けて大極殿において天皇の位に即いた。時に35歳(注:年齢は本書に崩年53歳とある記述、および皇年代記・皇年代略記による。○歴代皇紀には31歳とあるが、誤りである)。左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)、右大臣の藤原豊成(ふじわらのとよなり)は、いずれも留任した(注:「左大臣」以下は公卿補任による)。この日、天平勝宝と改元した。
¶天平勝宝元年己丑、秋七月十二日甲辰、右大臣の藤原豊成が中衛大将を罷め、大納言の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が中衛大将を兼任した(注:豊成が大将を罷めたことについては、諸書に見えるところがないが、公卿補任には大将であった期間を凡そ八年と記している。これによって推せば、豊成は天平十四年に大将を兼任し、この年に至っておよそ八年になる。豊成が罷めて仲麻呂がこれに代わったのであろう。それゆえこの日の条にこれを付した。仲麻呂が大将を兼任したことについて、本書には宝字八年九月の条にその記述があるが、月日を記していない。今は公卿補任による)。八月十日辛未、藤原仲麻呂が紫微令(しびれい)を兼任した。二十一日壬午、大隅・薩摩の隼人が調を貢進した。
¶九月六日丁酉、小宅女王(おやけのじょおう)を伊勢斎王とした(注:本書はこの年閏五月の条に、伊勢斎王が親の喪に遭い、斎宮より退出したと記しているが、斎王を定めたという記述がない。「六日」以下は一代要記による)。七日戊戌、紫微中台(しびちゅうだい)の官位を制定した。冬十月九日庚午、河内国の智識寺(ちしきじ)に行幸した。十四日乙亥、石川に行幸し、通過した地の百姓に綿を賜り、逋負(ほふ、滞納)を免除し、従駕の官人にもそれぞれ綿を賜った。十五日丙子、大郡宮(おおごおりのみや)に還った。
¶十一月二十五日乙卯、南薬園新宮(みなみのやくおんのにいみや)において大嘗祭を行った。十二月十八日戊寅、宇佐八幡神を梨原新殿(なしはらのにいどの)に遷し、四十人の僧に七日間悔過(けか、罪過を悔い改める法会)を行わせた。二十七日丁亥、天皇は太上天皇(聖武上皇)・皇太后(光明皇太后)に従って東大寺に行幸した。僧五千人を集め、礼仏・読経を行い、舞楽を奏した。東大寺に封四千戸、奴婢おのおの百人を施した。
¶二年庚寅、春正月一日庚寅朔、大安殿に出御して朝賀を受けた。この日、車駕は大郡宮に還った。二月九日戊辰、薬師寺宮に移御した。十六日乙亥、春日酒殿(かすがのさかどの)に行幸した。二十二日辛巳、天皇は太上天皇・皇太后に従って東大寺に行幸し、封を加増して五千戸とした(注:「二十二」以下は、本書廃帝紀の宝字四年七月の勅文による。○東大寺所蔵の勅書には、元年閏五月二十日のこととあるが、今はひとまず本書に従う)。三月十日戊戌、駿河国守の楢原東人(ならはらのあずまひと)が黄金を得てこれを献上した。
¶夏四月四日辛酉、勅してこう仰せられた。「このごろ思うところがあった。薬師経を持し、行道(ぎょうどう、経を唱えながら仏の周りを巡ること)し懺悔を行った。願わくは恩恵を施し、あわせて人々を済度したい。すべての瑕穢(かおい、罪の汚れ)を洗い尽くし、あらためて自らを新たにさせたい。天下に大赦を行い、四畿内の今年の調を免除すべきである。」五月八日乙未、百人の僧を中宮の安殿に召し、仁王経を講じさせた。京畿七道にも講説させた。二十四日辛亥、中山寺の塔に落雷があり、京師では雨水があふれた。
¶六月七日癸亥、備前国が飢饉となり、これを賑給した。秋七月十八日甲辰、摂津・参河の女子が、それぞれ一度に三子を産んだ。ともに正税・乳母を賜った。九月二十四日己酉、従四位下の藤原清河(ふじわらのきよかわ)を遣唐大使とし、従五位下の大伴古麻呂(おおとものこまろ)を副使とした。冬十月十八日己酉、元正天皇を改葬した。
¶三年辛卯、春正月十四日戊戌、東大寺に行幸した。夏四月四日丙辰、参議の石川年足(いしかわのとしたり)を伊勢に遣わし、大神宮に幣帛を奉らせた。また使者を遣わして天下の諸社に幣を奉らせ、遣唐使の平安を祈った。秋八月一日辛亥朔、日食があった。冬十月二十三日壬申、太上天皇が病に伏したため、天下に大赦を行った。十一月七日丙戌、従四位上の吉備真備(きびのまきび)を遣唐副使とした(注:去年九月に大伴古麻呂を副使としたが、ここに至ってまた真備を副使としている。その理由は詳らかでない)。十日己丑、勅して天平勝宝元年以前の公私の負租(未納の租)を免除した。この年、初めて常楽会(じょうらくえ)を置いた(注:「この年」以下は一代要記による。○年中行事によれば、興福寺の常楽会は二月十五日に行われるとあるが、その起源については記していない。おそらくこれに始まるものであろう)。
¶四年壬辰、春正月一日己卯朔、太宰府が白亀を献上した。三日辛巳、勅してこう仰せられた。「天下において今年の殺生を禁じる。海沿いに住み漁業を生業とする百姓には、一日粟二升を人ごとに給せよ。鰥寡孤独・貧窮老疾で自活できない者を賑恤せよ。」十一日己丑、地震があった。太上天皇が病に伏していたため、僧尼千人を得度させた。二十五日癸卯、正七位下の山口人麻呂(やまぐちのひとまろ)を遣新羅使とした。
¶夏四月九日乙酉、東大寺に行幸し、盧舎那仏の大像を慶賀した。百官の儀衛は、元会(元日の朝賀)の儀と同様であった。僧一万人を召して斎会を設け、舞楽を奏した。法会の盛んなことは、これ以前に比べるものがなかった。この日の夕方、大納言藤原仲麻呂の田村第(たむらのだい)に還御した。六月十四日己丑、新羅の王子金泰廉(きんたいれん)が入朝し貢物を奉った。秋七月二十日甲子、下総国の女子が一度に四子を産んだ。穀物および乳母を賜った。八月十七日庚寅、京師の巫覡(ふげき、みこ・かんなぎ)十七人を捕らえ、流罪に処した。冬十月一日甲戌朔、地震があった。二日乙亥、また地震があった。十二月一日己酉朔、日食があった。
¶五年癸巳、春正月一日癸卯朔、朝賀を廃した。二月九日辛巳、従五位下の小野田守(おののたもり)を遣新羅大使とした(注:本書によれば、四年正月に山口人麻呂を遣新羅使としたが、ここに至ってまた田守を新羅使としている。おそらく新羅の王子が来朝したことにより、前の任命を罷めて改めて命じたのであろう。また案ずるに、本書はこれ以後、田守の帰還を記さず、翌年には太宰少弐となったと記している。宝字四年九月癸卯の条によれば、この時新羅が礼を失したため、田守は使命を果たさずに帰ったという。しかしその帰還を記していないのは、おそらく欠文であろう)。三月二十九日庚午、東大寺に百高座(ひゃくこうざ)を設け、仁王経を講じさせた。つむじ風が急に起こり、講義を終えることができなかった。
¶夏四月九日庚辰、再び講じたが、つむじ風がまた起こった。十五日丙戌、皇太后が病に伏したため、詔して天下に大赦を行った。五月二十五日乙丑、渤海が来朝し貢物をもたらした。秋九月五日壬寅、摂津国で大風があり、海が溢れて家屋を壊し、多くの民が波にさらわれ溺れた。これを賑恤した。冬十一月二日己亥、尾張国が白亀を献上した。十二月十一日丁丑、摂津国で水害に遭った諸郡の今年の田租を免除した。十三日己卯、西海道で秋の収穫が多く損なわれたため、今年の田租を免除した。
¶六年甲午、春正月一日丁酉朔、上野国が白鳥を献上した。五日辛丑、東大寺に行幸し、灯二万を灯した。勅してこう仰せられた。「初元(年の初め)に暦が開かれ、年が改まり春を迎え、天地は仁を行い、動植物にも恵みが及んでいる。いにしえの明主は、この良き時にあたり、必ず時和(季節の和らぎ)を布き、広く慈しみの令を施した。朕は徳が薄いといえども、どうしてこれに倣わずにいられようか。天下に大赦を行うべきである。」十六日壬子、大伴古麻呂が唐より帰還した。
¶二月二十日丙戌、太宰府に勅してこう仰せられた。「天平七年、亡き大弐の小野老(おののおゆ)が高橋牛養(たかはしのうしかい)を南島に遣わして標識を立てさせたが、年月を経て朽ち壊れている。今、旧に依ってこれを修理し、標識ごとに島の名、および船の泊まる場所、水のある場所、行程の去就を表示せよ。漂着した船が、帰るべき方角を知ることができるようにせよ。」三月十日丙午、使者を遣わして唐からの信物(贈り物)を山科陵(やましなのみささぎ、天智天皇陵)に奉らせた。夏四月、東大寺に行幸し、菩薩戒を受けた(注:「夏四月」以下は、日本高僧伝・帝王編年記・歴代皇紀・鑑真東征伝による)。
¶秋七月十三日丙午、大皇太后(光明皇太后)が病んだため、詔して天下に大赦を行い、僧尼百七人を得度させた。十九日壬子、大皇太后藤原氏(光明皇太后)が崩御した。八月四日丁卯、大皇太后を葬った。冬十月十四日乙亥、官人・百姓が双六(すごろく)に興じて集まることを禁じた。十八日己卯、射田(しゃでん、弓術奨励のための田)を畿内七道に置いた。閏月二十日辛亥、太宰府に命じて、管内で起きた山崩れを鎮祭させた。
¶十一月一日辛酉朔、巡察使を諸道に遣わした。従四位上の池田王(いけだおう)を畿内使とし、従五位下の紀小楯(きのおだて)を東海道使、石川豊成(いしかわのとよなり)を東山道使、藤原武良志(ふじわらのむらし)を北陸道使、従五位上の大伴家持(おおとものやかもち)を山陰道使、従五位下の阿倍毛人(あべのえみし)を山陽道使、多治比木人(たじひのこひと)を南海道使、従四位上の紀飯麻呂(きのいいまろ)を西海道使とした。八日戊辰、勅して、太上天皇・皇太后の起居(健康)を祈るため、四十九人の僧に薬師仏を供養させ、天下に大赦を行った。二十四日甲申、薬師寺の僧行信(ぎょうしん)を、下野薬師寺に赴かせた(注:原文には動詞に当たる語が見当たらず、原文のまま趣旨を汲んで訳した)。二十七日丁亥、大神社女(おおみわのやしろめ)を日向に流し、多麻呂(たまろ)を多褹島(たねがしま、種子島)に流した。この年、畿内諸国で風水害があり、これを賑恤した。
¶七歳乙未、春正月一日辛酉朔、諒闇(りょうあん、喪に服すること)のため朝賀を廃した。四日甲子、勅して「年」を「歳」と改めた。三月二十八日丁亥、八幡大神の託宣により、封戸・位田を収公し、ただ常神田(じょうしんでん)のみを留めた。夏六月十五日癸卯、安芸国が白鳥を献上した。冬十月二十一日丙午、太上天皇が病に伏した。勅してこう仰せられた。「天下に大赦を行い、鰥寡惸独・貧窮老疾の者を存恤(ぞんじゅつ、慰め救う)せよ。今日より十二月晦日まで、殺生を禁じる。使者を山科・大内などの山陵に遣わし、幣を奉って祈請せよ。」十一月二日丁巳、使者を伊勢に遣わし、大神宮に幣帛を奉らせた。
¶八歳丙申、春二月二日丙戌、左大臣の橘諸兄が致仕(ちし、辞職)した。二十四日戊申、難波に行幸した。二十五日己酉、車駕は智識山下(ちしきさんげ)など七つの寺を過(よぎ)り、礼仏した。二十六日庚戌、内舎人(うどねり)を六つの寺に遣わして誦経させた。二十八日壬子、行幸は難波新宮に至った。
¶三月一日甲寅朔、太上天皇が堀江(ほりえ)に行幸した。二日乙卯、詔して河内・摂津の田租を免除した。五日戊午、使者を遣わして摂津の諸寺で誦経させた。夏四月十四日丁酉、勅してこう仰せられた。「このごろ太上天皇の聖体が病に伏し、日を経ることすでに久しいが、いまだ平復しない。聞くところによれば、『災いを消し福を致すには仁風に勝るものはなく、病を救い命を延ばすには実に徳政によるものである』という。天下に大赦を行うべきである。鰥寡孤独・貧窮老疾の者には、量って賑恤を加えよ。」十七日庚子、車駕は宮に還った。二十二日乙巳、使者を伊勢に遣わし、大神宮に幣帛を奉らせた。晦日壬子、医師・禅師・官人おのおの一人を左右京、および四畿内に遣わし、疹疾(しんしつ、はしかなどの疫病)にかかった者を救療させた。使者を遣わして八幡大神宮に幣帛を奉らせた。
¶五月三日乙卯、使者を伊勢に遣わし、大神宮に幣帛を奉らせ、天下の今年の田租を免除した。この日、太上天皇(聖武上皇)が崩御した。遺詔して「中務卿の道祖王(ふなどおう)を皇太子とせよ」と仰せられた。七日己未、文武百官は素服(そふく、喪服)を着け、哀(あい、悲しみ)の礼を行った。二十日壬申、聖武天皇を葬った。二十四日丙子、僧の法栄(ほうえい)が聖武天皇の医薬に仕えて労があったことにより、その出生地である本郡の課役を免除した。二十五日丁丑、先帝(聖武天皇)の病に仕えた禅師百二十六人について、その属する戸の課役を免除した。
¶六月八日庚寅、詔して「天下において、今日より来年五月三十日まで、殺生を禁断する」と仰せられた。十日壬辰、詔してこう仰せられた。「このごろ使者と工人を分かち遣わし、諸国の仏像を検め催促させ、あわせて殿塔を造らせ、来年の忌日に間に合わせるようにしているが、仏法は慈悲をもって先とするものであり、これによって百姓を苦しめるべきではない。国司や工人で朕の意にかなう働きをした者には、特に褒賞を加えよ。」二十二日甲辰、初めて怡土城(いとじょう)を築いた。六道諸国に勅して、東大寺大仏殿の歩廊(ほろう、回廊)を造らせた。秋八月四日乙酉、近江国の朝書法(ちょうしょほう)百巻を崇福寺(すうふくじ)に施した。
¶冬十月一日辛巳朔、日食があった。十六日丙申、白気が日を貫いた。十一月十七日丁卯、諒闇のため新嘗祭を廃した(注:本書の注に、神祇官記を検するに、この年は神祇官の曹司(役所)において新嘗祭を行った、とある)。十二月一日庚辰朔、先月より、雷が六日にわたって鳴った。五日甲申(注:本書には「甲」の下に「寅」の字があるが、衍字(えんじ、誤って入った文字)である。今、干支を推算してこれを削った)、百人の僧を東大寺に集め、仁王経を転読させた。十六日乙未、これより先、勅して京師の孤児を収容し、衣食を給してこれを養わせていた。ここに至り、九人の男子と一人の女子があり、姓を賜って編戸(良民の戸籍)に編入した。晦日己酉、勅して、皇太子および右大臣藤原豊成、大納言藤原仲麻呂ら十二人を、東大寺・大安寺・外島坊(げしまぼう)・薬師寺・元興寺・山階寺に分かち遣わし、梵網経を講じさせた。これをもって聖武天皇の冥福を薦(すす)めた。
¶天平宝字元年丁酉、春正月一日庚戌朔、諒闇のため朝賀を廃した。勅して八百人を得度させた。六日乙卯、前左大臣の橘諸兄が薨じた。三月二十日戊辰、寝殿の承塵(しょうじん、天井)に、おのずから文字が生じた。「天下太平」とあった(注:一代要記はこれを天平勝宝二年のこととし、歴代皇紀もまた勝宝年間のこととしているが、誤りである)。二十二日庚午、勅して親王および群臣を召し、この瑞字(ずいじ、めでたい文字)を見せた。晦日丑(注:原文のまま)、皇太子(道祖王)を廃した。
¶夏四月四日辛巳、大炊王(おおいおう)を皇太子に立てた。詔してこう仰せられた。「国は君をもって主とし、儲(もうけ、皇太子)をもって固めとする。それゆえ先帝(聖武天皇)は遺詔して『道祖王を皇太子に立てよ』と仰せられた。しかし諒闇がいまだ終わらず、陵の土もいまだ乾かぬうちに、頑愚な童子に馴れ親しみ、喪に居りながら礼を失した。機密の事はことごとく民間に漏れた。たびたび教え諭したが、悔い改める心がなかった。婦人の言葉を好んで用い、しだいに乱暴な振る舞いが多くなり、ひそかに東宮を抜け出し、夜に乗じて忍び歩きをした。自ら『生まれつき愚かで、重責に堪えられない』と言った。それゆえ朕はこれを廃し、大炊王を立てることとした。朕は自ら三宝(仏・法・僧)に祈願し、神明に禱った。政の善悪について、その徴験を示していただきたいと願った。ここに、朕の居所の承塵に『天下太平』の文字が現れた。これはすなわち上天の加護であり、神明が示されたものである。古今を見わたしても、いまだ見聞したことのないことである。まさに知る、仏法僧の三宝は先んじて国家の太平を記し、天地の諸神はあらかじめ宗社の永久の堅固を示されるものであることを。この吉祥のしるしを戴き、まことに喜ばしく、まことに恐れ多い。これもまた王公らが忠を尽くし匡弼(きょうひつ、補佐)したことによるものであろう。この奇瑞に感応したことは、どうして朕一人がよく招き得たものであろうか。王公士庶とともに、この天の賜り物を奉じ、旧来の瑕(きず)を洗い滌(すす)ぎ、衆とともに新たに始めるべきである。天下に大赦を行うべきである。天下の百姓は、成童(十七歳)で軽徭に入り、弱冠(二十歳)で正役に当たるが、その労苦を愍(あわ)れみ、心に軫(いた)みを覚える。今後は、十八歳をもって中男とし、二十二歳以上をもって正丁とする。いにしえ、国を治め民を安んずるには、必ず孝をもって理(おさ)めた。百行の本は、これより先なるものはない。天下に令して、家ごとに孝経一本を蔵し、精勤して誦習させるべきである。百姓のうち孝行の聞こえ著しい者があれば、所由の長官はその名を録して推薦せよ。不孝・不恭・不友・不順の者があれば、陸奥の桃生(ものう)・出羽の小勝(おかち)に配し、風俗を清めよ。また頴川(えいせん)に高臥し、箕山(きざん)に跡を遁れた者(隠者)があれば、朕に代わって巣父(そうほ)・許由(きょゆう)たる者としよう。礼をもって巡り問い、その心のままに性を養わせよ。天下の鰥寡孤独・篤癃廃疾の者には、量って賑恤を加えよ。高麗・百済・新羅の人で、王化を慕って来附した者のうち、姓を賜ることを志願する者があれば、これを聴き許せ。」ここにおいて百官は表を上(たてまつ)り、瑞字を賀した。
¶五月五日辛亥(注:原文「幸亥」とあるが、「辛亥」の誤りと思われる)、大宮を改修するため、田村宮(たむらのみや)に遷御した。九日乙卯、能登・安房・和泉などの国を再び置いた。二十一日丁卯、初めて紫微内相(しびないしょう)を置き、大納言の藤原仲麻呂をこれに任じた。有司(役人)に勅して、藤原不比等が刊修した律令を施行させた。
¶秋七月四日庚戌、左大弁の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が廃立を謀り、事が発覚して獄に下された。その党類である黄文王(きぶみおう)・道祖王・安宿王(あすかべおう)・大伴古麻呂・多治比犢養(たじひのこうしかい)・小野東人(おののあずまひと)・賀茂角足(かものつのたり)・佐伯大成(さえきのおおなり)・大伴古慈斐(おおとものこしび)らを捕らえ、鞠問(きくもん、取り調べ)して罪に処した。八日甲寅、勅してこう仰せられた。「このごろ頑愚な奴らが密かに反逆を図った。皇天は遠からず、これを網羅して誅に伏させた。民間には、あるいは亡魂に仮託して浮言を紛々と流し、郷邑を擾乱する者がいるかもしれないが、軽重を論ぜず、みな同罪とする。あまねく遠近に告げ、妖(あやしい噂)の源を絶つべきである。」また勅してこう仰せられた。「逆人の党与は、京畿では十日、遠国では三十日を限り、自首する者はこれを赦す。人に告発された者は、必ず本罪を科す。」十二日戊午、右大臣の藤原豊成を貶(おとし)め、太宰員外帥(だざいのいんがいのそち)とした。黄文王らに詿誤(けいご、巻き込まれること)された百姓を、出羽柵戸(でわのきのへ)に移した。二十四日庚午、宮中に斎会を設け、仁王経を講じさせた。
¶八月十三日己丑、駿河国益頭郡(ましづのこおり)の人が、蚕が文字を成したものを献上した。十八日甲午、勅してこう仰せられた。「朕は寡薄(かはく、徳の乏しいこと)の身をもって、かたじけなくも洪基(こうき、大いなる皇統)を継ぎ、八方に君臨してより、ここに九年になる。かつて善政というものがなく、日夜憂い思うこと、深き淵に臨むように危うく、薄氷を踏むように慎んできた。去る三月二十日、皇天は朕に『天下太平』の四字を賜り、天下の安寧を表し、暦数(れきすう、皇統)の永久の堅固を示された。しかるに賊臣たる廃太子道祖王、および安宿王・黄文王・橘奈良麻呂らは、生まれつき兇頑にして、昏迷悖虐(こんめいはいぎゃく、道理に暗く乱暴)であり、君臣の道を顧みず、幽顕(神仏と人)の戒めを畏れず、ひそかに逆徒を結んで宗社を傾けようと謀った。ことごとく天の責めを受け、みなその罪に伏した。二叔(周公旦の兄弟、管叔・蔡叔の故事)の流言も、ついに蕭牆(しょうしょう、内輪)の内で止んだ。四凶(舜の時代の悪人)の類も、遠く辺境に放逐された。京師は清く粛まり、朝堂も安らかに静まっている。ひそかに恐れるのは、朕の徳が虞舜に及ばず、時運が困難な時に当たり、武勇は殷の湯王に恥じ、任は機乱(危機や乱れ)に当たっていることである。昼となく夜となく思い、寝食を廃するほどであった。ここに、駿河国益頭郡の人、金刺舎人麻自(かなさしのとねりまじ)が、蚕が文字を成したものを献上した。その文には『五月八日、帝釈の標(しるし)を開き下し、天王(天皇)の命が百年であり、国内を安息させることを知らしめる』とあった。そこで群臣に下して議させたところ、みな口をそろえてこう言った。『五月八日は、太上天皇(聖武天皇)の一周忌に当たり、斎会を設け悔過を行った最終日であります。帝釈天がその誠に感応し、勝業(すぐれた事業)を下界より鑑みられ、これによって百年の遠い治世を授けられたのでしょう。仁徳の教化は広く行き渡り、天下は安息し、慈しみの風は遠くまで洽(あまね)く及び、国家が全く平らかであることの験(しるし)であります。そもそも蚕という生き物は、虎のような文様を持ち、時に応じて脱皮し、馬のような口を持ちながら互いに争うことがありません。室内で生まれ育ち、その絹は天下の人々の衣となります。それゆえこの神虫に文字を成させ、これをもって神異を表されたのは、天よりこれを祐(たす)けられたものであり、吉にして利あらざるはありません。』これはどうして朕の力によって致されたものであろうか、これは賢佐(賢臣の補佐)の成した功である。王公とともに、この賜り物を承け、恵沢を天下に及ぼしたいと思う。天平勝宝九歳を改めて、天平宝字元年とする。天下の田租の半分を免除する。本郡(益頭郡)の百姓には、一年間課役を免除する。」
¶二十三日己亥、大学寮・雅楽寮・陰陽寮・典薬寮・内薬司に勅して、公廨田(くげでん)を置き、生徒に供給させた。二十五日辛丑、勅してこう仰せられた。「国を治める大綱は、文と武とにあり、どちらか一方を廃してはならない。この言葉は前代の経書にも著されている。先には勅を下し、文才を勧めるため、職の閑要(重要度)に応じて公田を量り置いた。しかし武備については、いまだ処分(取り計らい)がなかった。それゆえ今、六衛府に射騎田(しゃきでん)を置き、毎年季冬(晩冬)に優劣を試み、群を抜く者に給し、武芸を興隆させよ。」
¶冬十月六日庚戌、勅してこう仰せられた。「聞くところによれば、諸国の庸調を運ぶ脚夫(きゃくふ、人夫)は、任務を終えて故郷に帰る際、道のりが遠く食糧が尽きるという。また旅の途上で病んだ人が、辛苦の末にむなしく命を落とすこともあるという。朕はこれを思うにつけ、深く憐れみの情を増す。官司に命じ、量って糧食・医薬を給するべきである。もし怠り緩めて行わない者があれば、違勅の罪を科せ。」十二月八日辛亥、越前国の墾田百町を山階寺(やましなでら、興福寺)の施薬院に施し、疾病・貧乏の者を救い養わせた。九日壬子、太政官は、乙巳(大化改新)・壬申(壬申の乱)の功臣、大宝・養老の律令修撰者、および謀反を告げ知らせた者の功田について議定した。
¶二年戊戌、春正月五日戊寅、詔してこう仰せられた。「朕は凡庸で徳の乏しい身をもって、かたじけなくも大位を承けた。母のように天下に臨み、子のように万民を育て、賢良の臣とともに、風化を清くしたいと思っている。宝暦(皇統)を長く固め、万民を安んじたいと願う。ところが思いもかけず、狼戻(ろうれい、道理に背く)な近臣が、ひそかに不軌を抱き、悪事を同じくして相済(な)し、ついには乱の端緒となった。宗社の威霊に頼り、たちまちこれを殲滅(せんめつ)することができた。しかし逆人の親族・党類は、憂い不安を懐いているであろう。深い過ちを犯した者であっても、なお軽い処分にとどめ、彼らを坦然として恐れなく、その反側(不安動揺)の心を息(や)ませたいと思う。聞くところによれば、『百官の在位の者は、なお憂い恐れている』という。よろしく朕の思いを悉く知り、疑い慮ることに心を煩わせなくてよい。昔、張敞(ちょうしょう)は罪の疑いを受けながらも、かえって朱軒(しゅけん、高官の車)を得るに至り、安国(あんこく)は徒罪を免れて、重ねて青組(せいそ、印綬)を帯びた。彼らはみな心を洗い節を励まし、まごころを尽くして忠義を尽くすことができた。その事績は一時に美しく、誉れは千載に流れ伝わっている。今の志ある者たちも、どうして前代の賢人に劣ろうか。過ちを改め滌(あら)い、努めて自ら新たになれ。まさに願うのは、瑕(きず)が瑜(美点)を覆い隠すことのないようにし、良工(すぐれた工匠)を待って、材を棄てることなく、大廈(たいか、大きな建物)を成すことである。すべての在位の者は、この言葉を鑑(かがみ)とし、日夜怠ることなく、努めてその職を修めよ。」
¶また詔してこう仰せられた。「天に法(のっと)って教化を施すのは、聖主の遺した規範である。時に順って風化を宣べるのは、先王の嘉(よ)き令である。それゆえ天地(二儀)に過ちなく、四季が和し協うことができる。休気(めでたい気)が国土にあまねく布かれ、仁と長寿が万民に及ぶ。今、三陽(春)がすでに建ち、万物が初めて萌え出で、和やかな光景がまさに新たであり、人々はともに慶ぶべきである。それゆえ使者を八道に分かち遣わし、民の苦しみを巡り問わせる。貧しい者・病める者を恤(あわ)れむことに努め、飢えと寒さを救うことを矜(あわれ)め。願わくは、家に寒く貧しい憂いなく、国に来蘇(らいそ、蘇生)の楽しみあることを。清廉公平な使者を差し遣わし、努めて賑恤を加え、朕の心にかなうようにせよ。」ここにおいて、従五位下の石川豊成を京・畿内使とし、正六位下の藤原浄弁(ふじわらのきよべん)を東海道・東山道使、正六位上の紀広純(きのひろずみ)を北陸道使、大伴潔足(おおとものきよたり)を山陰道使、藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ)を山陽道使、従六位下の阿倍広人(あべのひろひと)を南海道使、正六位上の藤原楓麻呂(ふじわらのかえでまろ)を西海道使とした。
¶二月二十日壬戌、詔してこう仰せられた。「時に随って制を立てることは、国を有する者の通則である。世に代わって権(はかりごと)を行うことは、昔の王の彝訓(いくん、常なる教え)である。このごろ、民間の宴会には、ともすれば違僽(いしゅう、はしたない振る舞い)がある。あるいは悪事を同じくする者が相集まって、みだりに聖化(天子の教化)を誹謗し、あるいは酔い乱れて節度なく、闘争を引き起こすことがある。今後、王公以下、祭祀・療病のほかは、飲酒してはならない。朋友・親戚で相訪ねようとする者は、まず官司に告げ、その後に集会せよ。もし犯す者があれば、五位以上は一年間禄を停止し、六位以下は現任を解き、それ以外の者は杖八十の刑に処す。淳朴な風俗を願い、よく人の善を成すことを望む。平日に礼を講じ、乱を未然に防ぐべきである。」二十七日己巳、大和国の神山に不思議な藤が生じ、虫食いが文字を成した。
¶三月十日辛巳、詔してこう仰せられた。「朕が聞くところ、孝子が親を思う心は、終身極まりないものであるという。この言葉は竹帛(書物)に編まれ、千古に磨滅しない。天平勝宝八歳五月、先帝(聖武天皇)が登遐(とうか、崩御)された。朕は自らこの悲しみに遭い、感傷の思いを懐いてはいるが、礼制に限りがあるため、身を俯(かが)めて吉事(端午の節句などの祝い事)に従ってきた。しかし端午の節句に臨むたびに、風樹(ふうじゅ、親の死を悲しむ故事)の思いに心を驚かされ、席を設け觴(さかずき)を行うことは、忍びなく行いがたい。今後は永くこの節会を停止する。」
¶秋七月四日甲戌、皇太后が病に伏したため、天下において今年の殺生を禁じた。八月一日庚子朔、皇太子(大炊王、淳仁天皇)に位を譲った。群臣は尊号を上(たてまつ)り、上台宝字称徳孝謙皇帝(じょうだいほうじしょうとくこうけんこうてい)と申し上げた。