卷之一百廿一 列傳第四十八

大伴旅人、大伴家持、大野東人、田中多太麻呂ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字
この巻の目次13
  1. 大伴旅人
  2. 大伴家持
  3. 大野東人
  4. 田中多太麻呂
  5. 坂上苅田麻呂
  6. 坂上犬養
  7. 道島島足
  8. 大伴駿河麻呂
  9. 百濟俊哲
  10. 紀廣純
  11. 藤原繼繩
  12. 藤原乙叡
  13. 大伴益立

大伴旅人

巨勢麻呂(こせのまろ)。祖父の大海(おおあま)は、推古天皇の時代に小徳冠を授けられた。父の志丹(しに)は、舒明天皇の時代に京職(きょうしき)を務め、直大参(じきだいさん)に叙せられた。(注:続日本紀による。)麻呂は、持統天皇の時代に直広肆(じきこうし)を授けられた。(注:日本紀による。)慶雲年間、民部卿となり、この時位は従四位下であった。和銅年間、左大弁となり、公平な政務を行ったことから正四位下を授けられた。陸奥・越後の蝦夷が辺境を侵し騒がせたため、遠江・駿河など七か国の兵を徴発し、麻呂を陸奥鎮東将軍として節刀を賜り、軍令を授けて、民部大輔の佐伯石湯(さえきのいわゆ)・内蔵頭の紀諸人(きのもろひと)とともに、二つの道から出撃してこれを討ち平らげた。正四位上に進んだ。六年、従三位に進んだ。霊亀元年、中納言を拝命し、次のように奏上した。「出羽国を建てて、すでに数年が経ちました。土地は肥沃で、田野は広々としています。しかし役人や民は少なく、蝦夷はまだ従っておりません。どうか近隣の国の民を移してこれを満たし、蝦夷を手なずけて、あわせて土地の利を保つようにさせてください。」これが聞き入れられた。養老元年、薨去した。石湯は、文武天皇の時代に伊勢守となり、従五位上に叙せられ、天皇が伊勢に行幸された際、湯の封戸十戸を賜った。元明天皇の時代、正五位下に進み、民部大輔に任じられ、越後蝦夷征討将軍となった。事が平定されると、右将軍を拝命した。(注:続日本紀による。)

大伴家持

大伴旅人(おおとものたびと)。(注:原本および公卿補任には、「旅人」を「多比等」とする本もある。補任や万葉集には「淡等」ともある。いずれも音や訓が通じる。)右大臣長徳(ながとこ)の孫で、大納言安麻呂(やすまろ)の長子である。元明天皇の時代、正五位上に叙せられ、左将軍となった。和銅年間、隼人・蝦夷が入朝した際、旅人は右将軍の佐伯石湯、副将軍の穂積老(ほづみのおゆ)・小野馬養(おののうまかい)とともに、騎兵を率いて京城の門を守った。まもなく従四位下に進み、再び左将軍となった。(注:これより先に左将軍を罷免されていたはずだが、原本にはその記載がなく、おそらく脱文であろう。)霊亀元年、従四位上に進み、中務卿となった。養老二年、中納言を拝命した。まもなく正四位下に進み、山背国の摂官となった。大宰府管内で隼人が反乱を起こし、大隅守の陽侯麻呂(やこのまろ)を殺害した。旅人は征隼人持節大将軍となった。授刀助の笠御室(かさのみむろ)・民部少輔の巨勢真人(こせのまひと)とともにこれを討ち平らげた。詔にいう。「蛮夷が害をなすのは、古くからあることだ。漢は五人の将軍に命じて、驕った胡族を服従させ、周は二度の親征に労苦して、辺境の民を来朝させた。今、西の隅の賊は、乱に乗じて教化に逆らい、たびたび善良な民を害している。そこで持節将軍・正四位下・中納言兼中務卿の大伴宿禰旅人を遣わして、その罪を誅罰し、その巣窟を覆させる。兵を治め民を率いて、凶徒を切り払った。首領は自ら手を縛って降伏を願い出て、賊党は頭を叩いて争って風化になびいた。しかし将軍は野原に身をさらし、長らく日数を重ねた。時は盛夏にあたり、どうして苦労がなかろうか。特に使者を遣わして慰問するので、その忠誠を心に留めてほしい。」大将軍以下、下級の兵士に至るまで、それぞれに応じて褒賞が与えられた。まもなく旅人は召還され、副将軍以下に現地の駐屯を続けさせた。五年、従三位に叙せられ、帯刀資人四人を賜った。この年、元明天皇が崩御し、旅人は山陵の造営を監督した。神亀の初め、正三位に叙せられ、封戸と品物を加増された。(注:続日本紀による。)あわせて山城国の政務を管掌した。(注:続日本紀による。)その後、太宰帥として都を離れた。天平二年、召還された。(注:万葉集による。)大納言を拝命した。三年、従二位に叙せられ、まもなく薨去した。(注:続日本紀による。)享年六十七。旅人は文才があり、(注:懐風藻による。)和歌を得意とした。生まれつき酒を愛し、歌を十数首作って、酒の徳をこの上なく讃えた。聖武天皇はその人柄を重んじ、妻を亡くした際には式部大輔の石上堅魚(いそのかみのかたうお)を太宰府に遣わして弔問と贈り物をさせた。旅人が任地で重い病にかかった際、弟の右兵庫助稲公(いなきみ)と甥の治部少丞胡麻呂(こまろ)に会いたいと奏上し、言い残すことがあった。天皇はそこで二人を遣わして見舞わせた。まもなく旅人は快復した。その後、都で病が重くなった際には、内礼正の県犬養人上(あがたのいぬかいのひとかみ)を遣わして看病させた。その厚遇を受けたことはこのようであった。(注:万葉集による。)子は家持(やかもち)。(注:続日本紀による。)

大野東人

大伴家持(おおとものやかもち)。天平年間、従五位下に叙せられ、越中守となった。次第に昇進して兵部少輔・山陰道巡察使・兵部大輔・信部大輔・大宰少弐を歴任した。宝亀年間、左中弁に補せられ、中務大輔・式部員外大輔を兼務し、左京大夫となり、衛門督に転じた。それ以前には因幡・薩摩・相模・上総・伊勢の五か国の守を歴任し、正四位下に進んだ。十一年、参議を拝命し、右大弁を兼ねた。天応元年、東宮大夫となり、正四位上に進み、左大弁に転じて、従三位に叙せられた。延暦元年、氷上川継(ひかみのかわつぐ)の事件に連座して、官職を奪われ京外に追放された。まもなく参議・東宮大夫に復帰し、陸奥按察使・鎮守将軍を兼ねた。二年、中納言に任じられ、他の官はもとのままとした。三年、持節征東将軍となった。四年、次のように上言した。「名取以南の十四郡は、山海の僻地にあり、辺境から遠く隔たっているため、兵の徴発があっても機会に間に合いません。そこで仮に多賀・階上の二郡を置き、百姓を募集して国府を充実させ、東西を防御してまいりました。しかし開設したという名目だけがあって、まだ統率する官が任命されておらず、百姓は成り行きを見守るばかりで、心の拠り所がありません。どうかこれを郡として建て、官員を備えてください。そうすれば民は統治する者があることを知り、賊は付け入る隙をなくすでしょう。」これが許された。この年、薨去した。(注:続日本紀による。)まもなく、一族の左少弁継人(つぐひと)らが、皇太子の命を受けて、中納言藤原種継(ふじわらのたねつぐ)を殺害した。事件が発覚して逮捕され、供述して「家持が首謀者である」と述べた。家持は死後に除名され、子の永主(ながぬし)は隠岐に流された。(注:続日本紀による。日本紀略もあわせて参照。)後に恩赦を受けて帰京した。桓武天皇は遺詔によって、家持の本来の官位を回復させた。(注:類聚国史による。)家持は和歌を得意とし、万葉集二十巻を撰した。上は雄略天皇の時代から、下は廃帝(淳仁天皇)の時代に至るまで、収められた歌は総計四千余首にのぼり、収集は広くゆきわたり、民の風俗をうかがうに十分である。これより先、和歌を集めた書物はまだ成立しておらず、後世に和歌を語る者は、これを手本とした。(注:万葉集の撰者については諸説が入り乱れて定まらない。今、本集を考証し、かつ拾芥抄に載る藤原定家の説に基づいて、家持の撰とする。)

田中多太麻呂

大野東人(おおののあずまひと)は、糺職大夫(ただすのしきのだいぶ)果安(はたやす)の子である。元明天皇の時代、正位上に叙せられた。和銅年間、新羅の使者が来朝した際、東人は従六位下の布勢人(ふせのひと)とともに、騎兵を率いて三碕(みさき)に出迎えた。(注:原本では「碕」を「椅」に作るものもある。)養老年間、従五位下に進んだ。神亀の初め、陸奥の蝦夷が反乱を起こし、式部卿藤原宇合(ふじわらのうまかい)に従ってこれを討った。(注:続日本紀による。)東人は「多賀城を築いて蝦夷の侵入を防ぐべきです」と建議した。(注:多賀城碑による。)功績により従四位下勲四等を授けられ、陸奥鎮守将軍となり、按察使を兼ねた。天平年間、「鎮所にいる兵士については、功績を記録して官位を授け、後の人を励ますべきです」と奏上し、これが聞き入れられた。まもなく従四位上に叙せられた。また、「陸奥から出羽柵に至るには、道が男勝(おがち)を経由するため、行程が遠回りになります。どうか男勝の蝦夷を征討して、直行できる道を通してください」と奏上した。詔によって兵部卿藤原麻呂(ふじわらのまろ)らを遣わしてこれを討たせた。麻呂は東人とともに諸国の兵を率いて進撃し、これを打ち破った。蝦夷はことごとく降伏した。東人の計略によるところが多く、その詳細は麻呂の伝にある。麻呂は奏上して東人を多賀柵の鎮守とし、大養徳守(やまとのかみ)を兼ねさせた。十一年、参議を拝命した。太宰大弐藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が兵を挙げると、朝廷は東人を大将軍とし、節刀を授けてこれを討伐させた。従五位上の紀飯麻呂(きのいいまろ)が副将となった。東海・東山・山陰・山陽・南海の五道から兵一万七千を徴発し、また隼人を召して位階と衣服を授け、従軍させた。折しも新羅への使節船が長門に停泊していたため、勅命によりその積荷を軍用に充てさせた。使節の中で才能のある者は、それぞれの能力に応じて登用させた。東人はこれと戦い、賊将の小長谷常人(おはつせのつねひと)・凡河内田道(おおしこうちのたみち)らを斬り、登美・板櫃(いたびつ)・京都の三営の賊兵千七百六十七人を降伏させ、あわせて武器などを多数獲得した。また、長門豊浦郡の少領額田部広麻呂(ぬかたべのひろまろ)を差し向け、精鋭を率いて先に板櫃を渡らせた。従五位上の佐伯常人(さえきのつねひと)・従五位下の安倍虫麻呂(あべのむしまろ)を遣わし、兵四千と隼人を率いて板櫃営を鎮めさせ、自らは後続の兵を率いて追いついた。賊将の楉田勢麻呂(しもとだのせまろ)・膳東人(かしわでのあずまひと)・勇山伎美麻呂(いさやまのきみまろ)・佐伯豊石(さえきのとよいわ)らはみな降伏した。詔にいう。「朕は思うところがあり、今月の末に、しばらく関東へ赴くことにする。時宜にかなわないことではあるが、事情はやむを得ない。将軍はこれを承知し、疑うことのないように。」広嗣は板櫃河で迎え撃ったが、軍勢は崩れ、広嗣とその弟の綱手(つなて)は斬られた。十三年、功績により従三位に叙せられた。天皇が恭仁京(くにきょう)に行幸した際、東人は平城京に留守として残った。十四年、薨去した。(注:続日本紀による。)

坂上苅田麻呂

田中多太麻呂(たなかのただまろ)は、天平宝字年間、中衛員外少将に任じられ、上総員外介を兼ね、従五位上に叙せられて、東海道節度副使・陸奥守となり、鎮守副将軍を兼ね、まもなく鎮守将軍を拝命した。景雲年間、伊治城(いじじょう)が完成すると、勅にいう。「陸奥国から奏上のあった、伊治城完成の知らせを見た。築城の工事は三十日もかからずに終えたという。朕は大いにこれを喜んでいる。危険に臨んで身の危険を顧みないところに、忠勇の心があらわれ、命を受けて任務にあたったからこそ、功績が早く成し遂げられたのだ。これはただ城を築いて外敵を制するだけでなく、まことに守備を減らして辺境を安んじるに足るものである。もし褒賞して昇進させなければ、どうして後に続く者を励ますことができようか。よろしく褒賞を加え、その忠勤をねぎらうべきである。従四位下田中朝臣多太麻呂には、正四位下を授ける。外従五位下道島宿禰三山(みちしまのすくねみやま)は、真っ先にこの計略を立てたので、今その功をたたえて、特に従五位上を賜る。外従五位下吉弥侯部真麻呂(きみこべのままろ)は、国のために先頭に立って尽くし、蝦夷を懐柔して従わせたので、外正五位下を賜る。軍毅以上、および諸国の軍士・蝦夷の俘囚で、事にあたって功績のあった者、位を賜るべき者については、鎮守将軍がよく吟味して等級を定め、奏上せよ。」多太麻呂は次のように上言した。「兵士を設けるのは、いざという時のためです。戦いに慣れ生死を軽んじ、勇んで先を争うようであってこそ、初めて役に立つのです。しかし近年、諸国から徴発された防人は、道中で逃亡してしまいます。当国では兵糧を鎮所まで運ぶのに、稲三十六万束を要し、いたずらに官物を費やし、民は困窮しております。前任の守であった百済敬福(くだらのきょうふく)は、他国からの防人を免じて、当国の人に置き換えました。どうかこの前例にならい、当国から四千人を差し出させ、防人を二千五百人減らしてください。またこの地は寒さが厳しく、積もった雪はなかなか消えません。租税である調庸を運ぶのに、初夏に出発して晩秋に帰郷するまで、山を越え海を渡る苦労は並大抵ではなく、民の生業を妨げることはこれに勝るものがありません。どうか調庸を国内に留め置き、十年に一度、まとめて都の倉庫へ運ばせてください。」これが許された。さらに次のように上言した。「他国からの防人で現在駐屯している者は、三千余人です。そのうち二千五百人は、すでに符によって免じられました。残る五百余人については、諸方の砦に留めて守らせたく存じます。天平宝字三年の符によって、浮浪の民千人を差し出させ、桃生柵戸に配置しましたが、みな逃げ隠れしようとする気持ちを抱き、当てもなくさすらう者ばかりで、城のもとに着く頃には、次々と逃亡してしまいます。今の対策としては、近隣の国から三丁以上の戸を二百戸募り、城郭に移して住まわせ、永く辺境の守りとするのがよいでしょう。彼らが落ち着いたところで、次第に防人を減らしていくべきです。」太政官は次のように議奏した。「そもそも住み慣れた土地を離れがたく思うのは、人の常の情である。今、罪のない民を移して辺境の守りに配置すれば、人々の心は満たされず、逃亡が絶えないであろう。もし二城の肥沃な土地に移り住み、農業の利益を求めることを願う者があれば、当国・他国を問わず、望みに任せて配置するのがよい。法の定めを超えて税を免除し、人々が喜んで移り住むようにして、辺境の守りとせよ。」これが裁可された。その後、都に入って宮内大輔となった。宝亀年間、民部大輔を歴任し、美濃守を兼ね、右大弁に改まり、出雲守を兼ねた。九年、卒去した。(注:続日本紀による。)

坂上犬養

坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)は、阿智使主(あちのおみ)の後裔である。祖父の大国(おおくに)は、右衛士大尉であった。父の犬養(いぬかい)は、若い頃から武勇で知られ、聖武天皇に深く寵愛され、従四位下左衛士督にまで至った。天皇が崩御すると、犬養は格別の待遇を受けていたことから、右兵衛率の鴨虫麻呂(かものむしまろ)とともに、山陵を守ることを願い出た。孝謙天皇はその志をあわれみ、特にその願いを許し、詔を下してこれを褒め称え、正四位上を授けて、封戸百戸を賜った。天平宝字の初め、播磨・大和の守を歴任した。八年、卒去した。享年八十三。

苅田麻呂は、天平宝字年間、授刀少尉となった。恵美仲麻呂(えみのなかまろ)が反乱を起こした際、その子の訓儒麻呂(くすまろ)を遣わして、鈴印(すずいん)を奪おうとした。苅田麻呂は詔を受け、将曹の牡鹿嶋足(おしかのしまたり)とともに訓儒麻呂を射殺し、その功により従四位下を授けられ、大忌寸(おおいみき)の姓を賜り、中衛少将に補せられて、甲斐守を兼ねた。神護年間、勲二等を授けられ、功田二十町を賜り、これを子に伝えることを許された。宝亀年間、道鏡の陰謀を密告した功により正四位下に叙せられ、陸奥鎮守将軍となり、中衛中将に補せられ、(注:原本の宝亀三年および延暦五年の条には、近衛員外中将とある。)安芸守を兼ねた。次のように奏上した。「檜前忌寸(ひのくまのいみき)の祖である阿智使主は、軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)で天下を治めた御代に、十七県の人民を率いて帰化しました。詔によって大和国高市郡檜前村を賜り、そこに住みました。他の姓の者は十のうち一、二にすぎません。どうか檜前忌寸を郡司に任じてください。」これが許された。(注:原本には「檜前忌寸の祖阿智使主」とあり、下文にはまた「臣らは阿智使主の後裔である」とある。これから見ると、檜前氏と坂上氏は同じ祖先であるため、このように願い出たのである。)数年後、丹波守を兼ねた。天応元年、右衛士督を兼ねた。延暦年間、氷上川継の事件に連座して官職を奪われた。数か月後、右衛士督に復帰し、伊予・備前などの守を歴任した。坂上氏は代々武勇で名を知られ、苅田麻呂は騎射に優れ、宮中の警護に長く仕え、数代の天皇に仕えて、格別の寵遇を受け、別に封戸五十戸を賜った。四年、下総守を兼ね、従三位に叙せられた。次のように上表した。「私どもはもともと後漢の霊帝の曾孫にあたる阿智王の後裔でありながら、先祖の王族としての血筋を失い、身分の低い姓を冒してまいりました。どうか『忌寸』の姓を改めて、『宿禰』を賜りますよう願います。天恩をもってお察しいただき、この願いをお聞き届けください。いわゆる『冷えた灰が再び暖まり、枯れた木が再び栄える』とはこのことです。」そこで坂上・内蔵・平田・大蔵・文調・文部・谷民・佐太・山口など十の姓、十六人が、みな『宿禰』の姓を賜った。この年、左京大夫となり、他の官はもとのままとした。五年、薨去した。享年五十九。(注:続日本紀による。系図には七人の男子、石津麻呂・広人・田村麻呂・鷹主・真弓・鷹養・雄弓が載っているが、田村麻呂を除いては他の書物に見当たらないため、ここでは採用しない。)子の田村麻呂(たむらまろ)には別に伝がある。

道島島足

道島島足(みちしまのしまたり)は、陸奥国牡鹿郡(おしかぐん)の人である。体格は雄々しく逞しく、気性は勇猛で、騎射に優れていた。もとの姓は丸子(まりこ)といったが、天平勝宝五年、牡鹿連(おしかのむらじ)の姓を賜った。天平宝字年間、授刀将曹となり、詔を受けて坂上苅田麻呂とともに、恵美訓儒麻呂を射殺し、その功により従四位下に抜擢され、宿禰の姓を賜って、授刀少将に補せられ、相模守を兼ねた。神護年間、勲二等を授けられ、近衛員外中将に昇進し、道島宿禰の姓を賜り、正四位上にまで至った。景雲の初め、陸奥大国造となった。宝亀年間、下総守を兼ね、都に入って内厩頭となり、播磨守を兼ねた。延暦二年、卒去した。(注:続日本紀による。)

大伴駿河麻呂

大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)。(注:万葉集には、大伴駿河麻呂は高市大卿(たけちのだいきょう)の孫とある。系図には、参議道足(みちたり)の子とするものもある。続日本紀・公卿補任には父祖が記されていない。今のところ考証のしようがない。)天平年間、従五位下に叙せられ、越前守となった。天平宝字の初め、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)に与したことに連座して左遷された。後に召還され、従五位上を授けられた。宝亀年間、出雲・肥後の守を重ねて歴任し、従四位下に叙せられて、陸奥按察使となった。老齢を理由に固辞したところ、詔にいう。「聞くところによれば、そなた駿河麻呂宿禰は、老いて職に就くことができないという。しかし陸奥の任は、まさにその人を選ばねばならぬ。ただそなたこそ朕の意にかなうゆえ、現任の官を授けるのだ。」その日のうちに正四位下を授けられた。まもなく陸奥鎮守将軍を兼ねた。蝦夷が辺境を侵したため、駿河麻呂は状況を奏上し、処分を仰いだ。勅にいう。「将軍が先日、蝦夷征討の是非について奏上したところによれば、『一つには討伐すべきでない、一つには必ず討伐すべきである』という。朕は民の労苦を思い、事あるごとに寛大な態度をとってきた。しかし今、将軍の奏上を得たところによれば、あの愚かな蝦夷は野心を改めず、たびたび辺境を侵し、あえて王命に逆らっているという。事情はやむを得ない。すべて先の奏上のとおりにせよ。すみやかに軍を発し、機に応じて討ち滅ぼすべきである。」その時、海道の蝦夷が橋や道を焼き切り、桃生城(ものうじょう)を攻めて、その西の郭を破った。守備兵はこれを支えきれず、国司は援軍を送るとともに、早馬を走らせてこれを報告した。(注:原本には結末が記されておらず、おそらく脱文であろう。下文の百済俊哲の奏上と照らし合わせると、包囲を突破して脱出したのはこの時のことかと思われるが、今のところ考証のしようがない。)そこで坂東八か国に勅していう。「陸奥から急を告げてきたならば、国の大小に応じて援兵を差し出し、機を逃さぬよう務めよ。」駿河麻呂はさらに次のように奏上した。「私どもが賊の様子を推し量りますに、犬のようにこそこそ盗み鼠のようにこそこそ盗む程度のもので、時に侵略はあっても、大きな害には至りません。今、草木が茂る時期に攻めれば、朕は後に悔いを残すことを恐れます。」天皇は、駿河麻呂が軍事について軽々しく論じ、言うことの前後が食い違っていることを咎めたところ、駿河麻呂は恐れて、兵を進めて賊を打ち破り、遠山村(とおやまむら)まで追撃した。その地は険阻で、蝦夷が頼みとする場所であった。歴代の将軍たちは、いまだかつてこれを徹底して討伐したことがなかった。ここに至ってその巣窟を覆し、投降者が相次いだ。その功をたたえて労をねぎらい、御服と綵帛(さいはく)を賜った。六年、参議に任じられ、使者を遣わして次の詔を宣べさせた。「先に蝦夷が反逆を企て、桃生城を侵した。鎮守将軍大伴宿禰駿河麻呂は、朝廷の委任を受け、身命を顧みず、反逆した賊を討って活かし、懐柔して服従させた。その労苦の重さは、まことに称賛に値する。正四位上を授け、勲三等を賜う。従軍した部将以下、千七百九十余人にも、それぞれの功に応じて位を授ける。」七年、卒去した。従三位を追贈され、絁(あしぎぬ)三十匹、布百端を賜った。(注:続日本紀による。)

百濟俊哲

百済俊哲(くだらのしゅんてつ)は、宝亀年間、蝦夷が反乱を起こした際に功績があり、勲六等を賜り、まもなく勲五等となった。次第に昇進して従五位上となり、陸奥鎮守副将軍となった。次のように奏上した。「私は賊に包囲される中で、兵は疲れ矢は尽きておりました。桃生・白河など十一の神に祈ったところ、包囲を突破して脱出することができました。神のご加護がなければ、どうして全滅を免れましょうか。どうかこの十一社を、幣帛を捧げる社に準じて扱ってください。」これが許された。天応元年、蝦夷征討の功労により、正五位上勲四等を賜った。延暦年間、事件に連座して、日向権介に左遷された。四年間そこにとどまった後、恩赦を受けて都に帰った。天皇が蝦夷征討を望まれ、坂上田村麻呂とともに東海道に赴かせて、軍士・武器を検分させ、征夷副使・下野守となり、陸奥鎮守将軍を兼ねさせた。(注:続日本紀による。)まもなく勲三等を授けられ、従四位下にまで至った。(注:続日本後紀、承和元年の条による。)十四年、卒去した。(注:日本紀略による。)

紀廣純

紀広純(きのひろずみ)は、大納言麻呂の孫で、左衛士督宇美(うみ)の子である。天平宝字年間、北陸道への使者として、民の苦しみを尋ねる任にあたった。まもなく従五位下に叙せられ、太宰少弐となった。薩摩・筑後の守を歴任した。宝亀年間、美濃介に転じ、従五位上に進み、河内守に改まった。新羅の使者金三玄(きんさんげん)らが太宰府に来訪した際、広純は勅命を受けてこれを検分し尋問した。陸奥の蝦夷が辺境を侵したため、広純は鎮守副将軍を兼ねて、これを討った。まもなく陸奥介に転じ、正五位下に進み、勲五等を授けられた。この頃、蝦夷はまだ平定されておらず、たまたま按察使の大伴駿河麻呂が卒去したため、広純が陸奥守となった。まもなく按察使・鎮守将軍を兼ねた。まもなく従四位下勲四等を授けられた。これより先、広純は「出羽の志波村(しわむら)の賊が、蟻のように群がって害をなしております。出羽の軍士は、戦うたびに敗れております」と上言した。そこで近江介の佐伯久良麻呂(さえきのくらまろ)を鎮守権副将軍として、出羽を鎮めさせた。十一年、広純は参議を拝命した。「水路をとって賊を討ちたいのですが、近年は寒さが厳しく、川の水が凍りついて、船を通すことができません。賊はこれをよいことに、たびたび侵入してきます。どうかまず兵三千を差し向けて、賊が侵入する道をふさいでください。三、四月に雪が消え、雨水があふれるのを待って、まっすぐに賊地に入り、覚鼈城(かくべつじょう)を築いて守らせてください」と建言した。勅にいう。「山の賊が近くにいて、隙をうかがって侵入してくる。覚鼈城を築いて、膽澤(いさわ)の賊を防ぐのがよい。」という敕符がまだ届かないうちに、さらに「賊が長岡に侵入し、官軍がこれを防ぎ戦い、互いに死傷者を出しております。早く討伐しなければ、侵略がやみません。どうか三月中旬に兵を発して討伐に進み、城を築いて守備を置いてください」と上言した。勅にいう。「狼のような子は野心を抱き、恩義を顧みず、あえて険阻な地形を頼みとして、たびたび辺境を犯している。兵は不吉な道具ではあるが、事情はやむを得ない。すでに三千の兵を発して、悪い芽を刈り取り、残った火種を消し去るがよい。おおよそ軍事の動静については、その場に応じて対処せよ。」覚鼈柵が完成すると、広純は自ら俘囚の軍を率いて、伊治城に入った。牡鹿郡大領の道島大楯(みちしまのおおたて)、上治郡大領の伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)らがこれに従った。砦麻呂はもともと蝦夷の俘囚の出身で、以前から広純に恨みを抱いていたが、表面では媚びへつらってこれに仕えていた。広純はこれを信用したが、大楯はことあるごとに砦麻呂を見下し、蝦夷の俘囚として扱ったため、砦麻呂は深くこれを恨んだ。この時に至って俘囚の軍を扇動し、自ら内応して、まず大楯を殺し、ついで広純の館を包囲して攻め殺した。介の大伴真綱(おおとものまつな)は包囲の一角を突破して脱出し、多賀城にたどり着いた。城中には武器や物資が数えきれないほど蓄えられており、百姓は先を争ってそこに逃げ込もうとした。しかし真綱と掾の石川浄足(いしかわのきよたり)は、こっそりと裏門から逃げ出した。百姓は頼るところがなくなり、一斉に散り散りに逃げ去った。数日後、賊が到着し、府庫を打ち壊し、思うままに財物を略奪した。残されたものは、火を放たれてことごとく焼き尽くされた。(注:続日本紀による。)

藤原繼繩

藤原継縄(ふじわらのつぐただ)は、右大臣豊成(とよなり)の長男である。(注:日本後紀、公卿補任による。)従五位下に叙せられ、信濃・越前の守を歴任した。神護元年、次第に昇進して従四位下となった。二年、右大弁に補せられ、参議を拝命した。景雲年間、外衛大将となった。宝亀年間、従三位に叙せられ、大蔵卿・宮内卿を歴任し、兵部卿に転じて、左兵衛督を兼ねた。十一年、中納言を拝命した。折しも陸奥の蝦夷俘囚が按察使紀広純を殺害したため、継縄は征東大使となり、副使の大伴益立(おおとものますたて)・紀古佐美(きのこさみ)らを率いてこれを討伐した。従五位上の安倍家麻呂(あべのいえまろ)を出羽鎮狄将軍とし、別の道から討伐にあたらせた。五月、坂東の諸国および能登・越中・越後に勅していう。「干し飯三万石を作り、征東軍の食糧に備えよ。」また坂東の諸国に勅していう。「狂った賊が秩序を乱し、辺境を侵し騒がせている。のろしを上げる砦は混乱し、斥候は役目を果たせずにいる。今、征東・鎮狄の将軍を遣わし、それぞれ道を分けて征討させる。期日を定めて兵を集め、文武ともに力を合わせて謀り、将は力を尽くし、賊の悪党を刈り取り、首謀者を誅殺せよ。広く戦士を募り、早く軍のもとへ送り届けよ。もしこの機に乗じて功を立てようとする者があれば、名を記録して奏上せよ。平定の後には、順序にかかわらず抜擢しよう。」七月、継縄は甲(よろい)千領、襖(あお)四千領を要請し、尾張・参河など五か国に命じて甲を輸送させた。東海・東山の諸国には襖を作らせて輸送させた。勅にいう。「今、逆賊を討つため、坂東の軍士を徴発する。九月五日を期限として、みな陸奥国多賀城に集結させよ。必要な軍糧については、役所に申し出て送らせるがよい。兵の集結には期限があるが、食糧の輸送は追いつきにくいので、道のりの近さを考慮し、下総の干し飯六千石、常陸の一万石を割り当て、八月二十日までに、軍の駐屯地へ運び届けよ。」しかし継縄らは軍を駐屯させたまま進軍しなかった。この事が朝廷に伝わると、藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)を遣わし、節刀を持たせて将士を督励させた。十月、継縄らはさらに、今年は出兵すべきでないという内容を奏上した。勅にいう。「今月二十二日の奏上を見て、使者らが手間取り、すでに機会を失ったことを知った。将軍が出兵してから、すでに百日を経て、集まった歩兵・騎兵は数万人にのぼり、これまで幾度となく賊地に入る時期について奏上してきた。すでに深く侵入し、狂った賊を平定したものと考えていた。それなのにまた、今年は征討すべきでないと奏上し、夏には草が茂ると言い、冬には襖が乏しいと言い、あれこれ言い訳を並べて、とうとう滞留するに至った。兵を募り食糧を集めるのは、将軍のなすべきことであるのに、駐屯地では備えを整えることもせず、かえって城中の食糧がまだ十分でないなどと言う。それならば、いったい何月何日に、賊を誅し城を回復するというのか。思うに将軍は賊にたばかられて、このような遅延を招いているのであろう。今はまだ子(ね)の月にもなっておらず、なお進軍できるはずである。それなのに勅旨に背いて、進撃を果たさない。人も馬もすっかり疲れ果てて、どうして敵に対抗できようか。優れた将軍の策とは、このようなものであろうか。よろしく部隊を教え諭し、心を励まして征討にあたるべきである。もし今月中に賊地に入れないならば、多賀・玉造などの城にとどまって、厳重に防備を固め、あわせて戦の訓練を行うがよい。」天応元年、中務卿を兼ね、左京大夫に転じて、正三位に叙せられた。延暦二年、大納言を拝命し、まもなく太宰帥・皇太子傅を兼ね、従二位に進み、民部卿を兼ねた。六年、天皇の車駕が高椅津(たかはしのつ)に行幸し、帰りに継縄の邸宅に立ち寄った。妻である正四位上百済明信(くだらのみょうしん)に従三位を賜った。また交野(かたの)で狩りを行い、継縄の別荘を行宮とした。(注:続日本紀による。)その後もたびたび行幸した。(注:類聚国史、日本紀略による。)皇太子の元服の際には、継縄と紀船守(きのふなもり)に勅して冠を加えさせた。八年、中衛大将を兼ねた。九年、右大臣を拝命した。(注:続日本紀による。)十三年、天皇の車駕が新京を巡覧し、帰りに継縄の高椅の邸宅に行幸し、宴を開いて大いに楽しんだ。(注:類聚国史による。)まもなく正二位に叙せられた。十五年、薨去した。享年七十。(注:日本後紀、公卿補任による。)桃園右大臣と称された。詔によって参議藤原継兄(つぐえ)らを遣わし、葬儀を監護させ、贈り物を賜った。中納言壱志濃王(いしののおおきみ)が邸宅に赴いて詔を宣べ、(注:公卿補任による。)従一位を追贈した。継縄は文武にわたる清らかな官職を歴任し、右大臣という重い任にありながら、謙虚で慎み深く自らを守り、世間の非難を免れることができた。(注:日本後紀、公卿補任による。)かつて勅を受けて、天平宝字から宝亀に至る国史を編纂し定めた。(注:類聚国史による。)

子の乙叡(たかとし)は、延暦年間、従三位中納言に至り、中衛大将を兼ねた。母の有済(うさい)氏はかつて桓武天皇の尚侍を務めており、そのため乙叡は天皇に格別に寵愛された。(注:日本後紀、公卿補任による。)天皇が都に行幸した際、たびたびその邸宅を訪れ、一日中宴を楽しんだ。(注:類聚国史による。)平城天皇が皇太子であった時、乙叡は宴席で不敬な振る舞いをした。天皇はこれを恨みに思った。大同二年、ついに伊予親王の事件に連座して、官職を解かれ自邸に籠居した。翌年、これを憂えて薨去した。享年四十八。乙叡は人柄が頑固でおごり高ぶり、多くの別荘を構え、遊びに出るときは必ず女性を伴った。(注:日本後紀、公卿補任による。)曾孫の保則(やすのり)が最も名を知られており、別に伝がある。

藤原乙叡

大伴益立(おおとものますたて)は、はじめ従六位上を授けられた。天平宝字年間、鎮守将軍恵美朝獦(えみのあさかり)が桃生城を築いた際、益立は軍監となり、功績があって従五位下に進んだ。(注:原本には「再度の征討の労をたたえて位を進めた」とあるが、その事実は他に見当たらず、おそらく脱文であろう。)軍曹の韓袁哲(からのえんてつ)は真っ先に城に登った功により、三階級進んだ。まもなく益立は陸奥鎮守副将軍となり、陸奥介を兼ねた。景雲年間、功をたたえられて正五位上に進み、兵部大輔・式部大輔を歴任した。宝亀年間、肥後守となり、太宰少弐に改まった。六年、遣唐副使となった。翌年八月、海に船出したが、風が悪く進むことができず、博多に引き返し、大使の佐伯今毛人(さえきのいまえみし)は都に帰った。益立は太宰府にとどまって出発の時期を待ち、当時の人々はこれを立派だとたたえた。しかし結局は渡航しなかった。まもなく権左中弁・左右兵衛督を歴任した。十一年、征東副使となり、陸奥守を兼ねた。出発にあたり、従四位下に叙せられた。勅にいう。「将軍らの五月八日の奏上を見ると、『兵糧を備えつつ、機会をうかがい、今月下旬には国府に進み入り、その後、機を見て事に応じて、天誅を行う』とあった。すでに二か月が過ぎた。日数を計算し道のりに照らせば、そろそろ捕虜を献じる知らせを待つべき頃である。そもそも軍を出して賊を討つのは、国家の大事である。進退や動静については、逐一奏上すべきである。どうして数十日もの間、まったく音沙汰がないのか。詳しい事情を報告せよ。文書では意を尽くせないというなら、軍監以下の弁の立つ者を一人差し出し、早馬で奏上に来させよ。」ある者が益立を讒言していう。「益立は敵陣の前まで来ていながら、たびたび征討の期限を先延ばしにし、逗留して進まず、いたずらに軍糧を費やし、長い月日を無駄にしている。」そこで按察使の藤原小黒麻呂を遣わしてこれを征討させた。翌年、賊が平定されると、詔によって益立の臆病を非難し、その本来の位を剥奪した。延暦年間、兵部大輔となった。(注:続日本紀による。益立を讒言した者があったという件は、続日本後紀による。)子の野継(のつぐ)は、仁明天皇の時代、越後大掾となった。承和年間、父の冤罪を訴える上書をした。詔によって本来の位が回復された。(注:続日本後紀による。)

大伴益立

藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)は、中衛大将房前(ふささき)の孫で、従五位下馬養(うまかい)の子である。(注:公卿補任による。)天平宝字の末、従五位下を授けられ、伊勢守となった。景雲年間、式部少輔・安芸守を歴任した。宝亀年間、中衛少将に任じられ、右衛士督に改まり、美濃・上野・出雲・常陸の守を兼任し、次第に昇進して従四位上となった。十年、参議を拝命した。十一年、陸奥の蝦夷が反乱を起こすと、正四位下を授けられ、持節征東大使となった。次のように奏上した。「この愚かな蝦夷どもは、まことに徒党が多うございます。あるいは巧みな言葉で謀を結び、あるいは隙をうかがって害毒を放っております。そこで兵二千を遣わし、鷲座(わしくら)・楯座(たてくら)・楯石沢(たていしさわ)・大菅屋(おおすげや)・柳沢(やなぎさわ)など五つの道を切り開いて経略させ、木を切り倒して小道をふさぎ、溝を深くして険しい地形を設け、逆賊が右往左往する要害を断ち切らせております。」勅にいう。「聞くところによれば、出羽の大室塞(おおむろのさい)なども、また賊の要害であるという。将軍と国司に命じて、険しい地形に拠って砦を置き、突入を防がせるのがよい。」天応元年、陸奥按察使を兼ね、兵部卿を加えられた。桓武天皇が即位すると、小黒麻呂は賊の情勢について上申した。勅にいう。「奏上を得て、詳しく状況を知った。あの蝦夷俘囚という者たちの性質は、蜂や蟻のように群がり集まるものである。攻めれば山や藪へ逃げ隠れ、緩めれば城や砦を侵略する。伊佐西古(いさせこ)・諸絞(もろしめ)・八十島(やそしま)・乙代(おとしろ)らは、賊の中の首謀者で、一人で千人に匹敵するという。山野に身を隠し、機会をうかがっている。わが軍の威勢を恐れて、まだあえて害毒を放ってはいない。それなのに今、将軍らは、まだ一人の首級も斬らないうちに、先に軍を解散させてしまった。事はすでになされてしまい、もはや取り返しがつかない。しかし先に届いた前後の奏上を見れば、賊の軍勢は四千余人であるのに対し、斬った首級はわずか七十余りにすぎず、それならば残された賊はなお多いはずである。どうしてそれほど急いで凱旋を願い出るのか。たとえ前例があったとしても、朕はこれを認めない。副使の内蔵全成(くらのまたなり)・多犬養(おおのいぬかい)らのうち一人を差し向け、早馬で都に上らせよ。まず軍中の詳しい事情を奏上させ、その他のことは後の処分を待て。」この時、征東副使の大伴益立は逗留して進軍しなかったため、そこで小黒麻呂に命じて、軍を進めて蝦夷を討たせた。到着するとことごとく諸方の砦を回復し、その功により民部卿を授けられた。賊が平定されて都に帰ると、功績により正三位に叙せられた。延暦の初め、再び陸奥按察使を兼ねた。まもなく左京大夫に改め兼任し、中納言に任じられ、まもなく大納言に転じた。(注:続日本紀による。)十三年、薨去した。享年六十二。従二位を追贈された。(注:公卿補任による。)子の葛野麻呂(かどのまろ)には別に伝がある。道雄(みちお)は従四位上参議にまで至った。(注:公卿補任、尊卑分脈による。)