卷之一百十八 列傳第四十五
佐伯今毛人、百濟敬福、國中公麻呂、高倉福信ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
佐伯今毛人
¶佐伯今毛人(さえきのいまえみし)は、大連(おおむらじ)大伴室屋(おおとものむろや)の子孫である。(注:「大連」以下は『姓氏録』に基づく。)父は人足といい、従五位下・右衛士督であった。今毛人は勇壮で才幹があった。聖武帝が東大寺を創建した際、今毛人に工事の監督をさせたところ、指図の仕方が的確で、作業員たちも怠けることができなかった。帝はこれを立派だと思い、次第に抜擢されるようになった。天平勝宝の初め、大和介となり、従五位下を授けられた。まもなく官位を三階進めた。天平宝字の中頃、従四位下に叙せられ、摂津大夫に任じられ、造東大寺長官を兼ね、営城監に遷り、肥前守(ひぜんのかみ)を兼ね、太宰大弐に昇進した。神護景雲の初め、専ら怡土城(いとじょう)の築城を担当し、造西大寺長官となった。左大弁に遷り、因幡守を兼ね、従四位上に進んだ。宝亀年間、播磨守を兼ね、正四位下に進んだ。宝亀六年、遣唐大使となった。翌年四月、節刀を授けられて肥前に至ったが、風波の都合が悪く、数か月留まった。まもなく秋になって逆風となり、出航できなくなったため、博多の大津に戻り、来年まで待つことを奏請した。これが許された。十一月に都に入り、節刀を返上した。宝亀八年、再び唐に赴いた。羅城門に至って病にかかったが、無理をして道を進んだ。摂津に至って病状が重くなったため、勅命により副使の小野石根(おののいわね)に節刀を持たせて先に出発させ、大使の職務を代行させた。今毛人は結局唐へは行かなかった。数年後、再び太宰大弐となり、天応元年、正四位上に進んだ。太宰帥の藤原浜成(ふじわらのはまなり)が罪を得たため、勅命により今毛人が太宰府の事務を代行した。延暦の初め、再び左大弁となり、大和守を兼ね、従三位に進み、皇后宮大夫を兼ねた。都を遷すにあたり、詔を受けて藤原種継(ふじわらのたねつぐ)らとともに、山背国(やましろのくに)乙訓郡(おとくにぐん)長岡の地相を見て、造長岡宮使となった。(注:『続日本紀』による。)今毛人は公務に忠実で謹み深く、深く仏教を信仰していた。かつて東大寺の造営を監督していたころ、常日頃から斎戒を保っていたので、帝は彼を「東大居士」と呼んだ。造宮使として危険な任務にあたっていたときも、昼夜監督にあたりながら、なお毎日金剛経を誦んでから事に臨んだという。(注:『高僧伝要文抄』による。)延暦三年、参議に任じられ、まもなく正三位に進み、民部卿となり、太宰帥に任じられた。(注:『続日本紀』による。)任地で得た租税・俸禄は、その十分の二を写経の費用に充てて国家の安泰を祈り、残りはすべて貧しい者たちに施した。家には財産がなかった。(注:『高僧伝要文抄』による。)延暦八年、上表して官を辞した。その参議の位と封戸は、半分を割いて彼に賜った。それ以後、致仕する者には例として半分の俸禄を給することとなったという。延暦九年、薨去した。享年七十二。(注:『続日本紀』による。)
百濟敬福
¶百済敬福(くだらのきょうふく)は、百済(くだら)の義慈王(ぎじおう)の玄孫である。舒明天皇の御代、義慈王はその子の豊璋(ほうしょう)を遣わして日本に仕えさせた。後に義慈王は唐と戦い、王は敗れて唐に捕らえられた。その臣下の佐平(さへい)福信(ふくしん)が兵を起こして国を復興し、豊璋を迎えて王に立てた。豊璋は即位すると、讒言によって福信を殺した。唐軍が再び攻めてきたため、豊璋は朝廷に援軍を求めた。朝廷は兵を遣わして唐軍を防がせたが、うまくいかなかった。豊璋は船に乗って高麗(こうらい)へ逃げ、禅広(ぜんこう)はそのまま日本に留まって去らなかった。持統天皇の御代、百済王(くだらのこにきし)の号を賜った。死去すると、正広参(しょうこうさん)を贈られた。禅広の長子の昌成(しょうじょう)は先に死去し、天武天皇の御代、小紫(しょうし)を贈られた。次子の郎虞(ろうぐ)は、元正天皇の御代、従四位下を授けられ、摂津亮(せっつのすけ)となった。敬福(きょうふく)はその末子である。人となりは聡明で弁が立ち、政治を行う才があったので、聖武帝は特に彼を寵遇したが、放縦で品行が定まらず、大いに酒色を好んだ。貧しい者がいると聞けば、財産を傾けてまで施し、なければ借金をしてでも与えた。それゆえしばしば地方官を歴任したが、家には余分な財産がなかった。天平年間、再び陸奥守(むつのかみ)となり、従五位上に叙せられた。これより先、日本国内では黄金を産出せず、常に外国から取り寄せていた。東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ)が完成した際、鍍金に用いる金が不足しており、帝は常々これを嘆いていた。ちょうどそのころ陸奥国小田郡(おだぐん)で黄金が産出し、当時敬福が国守であったので、早馬でこれを献上した。帝は大いに喜び、元号を天平感宝(てんぴょうかんぽう)と改め、特に敬福に従三位を授けた。その後さらに黄金九百両を献上した。天平勝宝年間、宮内卿となり、河内・常陸の国守を兼任し、西海道の兵を検分する使いとなり、右大弁に遷った。天平宝字年間、出雲・伊予の国守を歴任し、南海道節度使となり、讃岐守に改められ、都に入って外衛大将となった。天平宝字八年、太上天皇の勅を奉じて、山村王(やまむらおう)らとともに兵を率いて中宮院を包囲し、帝を宮中から退去させた。天平神護元年、刑部卿となった。称徳帝が紀伊に行幸した際、後騎兵将軍を務めた。天平神護二年、薨去した。享年六十九。(注:『続日本紀』による。)
國中公麻呂
¶国中公麻呂(くになかのきみまろ)は、その先祖は百済人である。祖父の徳率(とくそつ)国骨富(こくこつふ)は、天智天皇の御代、百済が滅亡の混乱に見舞われた際、日本に帰化してきた。公麻呂は大和国葛下郡(かつげぐん)国中村(くになかむら)に住んでいたことから、これを氏(うじ)とした。かつて聖武帝が盧舎那仏の銅像を造立した際、その規模が大きく、鋳造の職人たちは手のつけようがなかった。公麻呂は巧みな工夫の才があり、ついにこれを完成させた。神護景雲の初め、帝が東大寺に行幸して仏像を拝んだ際、公麻呂の功を賞して従四位下を授け、造東大寺次官とし、但馬員外介(たじまのいんがいのすけ)を兼ねさせた。宝亀五年、死去した。(注:『続日本紀』による。)
高倉福信
¶高倉福信(たかくらのふくしん)は、武蔵国高麗郡(こまぐん)の人である。もとの姓は背奈(せな)といい、その先祖は高麗(こうらい)の出身である。祖父の福徳(ふくとく)は、唐の将軍李勣(りせき)が平壌を攻め落とした際、難を避けて日本に帰化し、武蔵国に住んだ。福信は幼い頃から腕力があり、まだ元服前の年齢で、伯父の行文(ぎょうぶん)に従って都に出て、かつて石上(いそのかみ)の街で相撲を取ったところ、かなう者がいなかった。これによって名が知られるようになった。聖武帝がこれを聞いて召し出し、内豎所(ないじゅどころ)に仕えさせ、その才を大変愛でて、初めは右衛士大志(うえじのだいさかん)とし、まもなく外従五位下を授け、次第に昇進させて春宮亮(とうぐうのすけ)に任じ、背奈王(せなのこにきし)の姓を賜り、重ねて正五位上に進めた。天平勝宝の初め、中衛少将に遷り、紫微少弼(しびのしょうひつ)を兼ね、従四位上に進み、改めて高麗朝臣(こまのあそん)の姓を賜った。橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変では、勅命を受けて小野東人(おののあずまひと)・答本忠節(とうほんのちゅうせつ)らを捕らえた。正四位下に進み、信部大輔(しんぶのたいふ)に遷り、まもなく但馬守となった。天平神護元年、従三位を授けられ、まもなく造宮卿となった。神護景雲元年、法王宮大夫を兼ねた。宝亀の初め、武蔵守を兼ねた。楊梅宮(やまもものみや)の造営にあたっては、福信がその事務を統括した。宮が完成すると功労を賞され、その子の石麻呂(いわまろ)に従五位下が授けられた。まもなく近江守を兼ねた。宝亀十年、上表して「私の先祖の代より、我が国の教化に帰服してまいりましたが、新しい姓の栄誉をいただいたとはいえ、もとの高麗(こま)という号はまだ改めておりません。どうか高麗を改めて高倉(たかくら)としたく存じます」と願い出た。これが許された。天応元年、弾正尹(だんじょうのかみ)に遷った。延暦四年、辞職を願い出た。優詔をもってこれを許し、杖と衾(ふすま)を賜り、散位のまま自宅に帰らせた。延暦八年、薨去した。享年八十一。(注:『続日本紀』による。)
紀勝長
¶紀勝長(きのかつなが)は、初めの名を梶長(かじなが)といった。角宿禰(つののすくね)の十一世の孫である。父は船守(ふなもり)といい、(注:『公卿補任』による。)廃帝(はいたい、淳仁天皇)の御代、授刀舎人(じゅとうのとねり)であった。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱の際、その将の矢田部老(やたべのおゆ)を射殺し、その功を論じられて従五位下を授けられ、勲五等を賜った。(注:叙勲については『公卿補任』による。)天平神護二年、功田八町を賜り、これを子に伝え、代々官職を歴任した。延暦年間、正三位大納言に至った。(注:『続日本紀』による。)死去すると、帝は哀悼して三日間政務をとらなかった。(注:『公卿補任』による。)贈右大臣正二位を賜った。(注:『日本紀』『公卿補任』『続日本後紀』による。)
¶勝長はその長子である。(注:『公卿補任』による。)延暦四年、従五位下に叙せられた。翌年、近江介となった。当時、帝は蝦夷を征討しようとし、勝長を東山道に遣わして兵士や武器を検閲させた。(注:『続日本紀』による。)延暦十一年、兵部少輔となり、まもなく大輔に転じ、式部大輔に遷り、右中弁となり、右衛門督・右兵衛督・美作守を兼任し、造東大寺長官となった。(注:『公卿補任』による。)延暦十五年、参議に任じられた。延暦二十年、帝がその山階(やましな)の邸宅に行幸した。(注:『日本紀略』による。)延暦二十二年、従三位に進んだ。大同元年、中納言に転じたが、まもなく薨去した。享年五十三。勝長は性格が寛大で優雅であり、客をもてなすことを好み、応対に飽きることがなかった。宴会の費用は、出入りを問わず気にしなかった。弓馬の術に優れ、立ち居振る舞いは世の模範となるほどであった。ただ犬や馬などの玩具を愛好しすぎて、しばしば世間の非難を招いた。(注:『公卿補任』による。)子には興道(おきみち)・名虎(なとら)がいる。(注:『系図』による。)
¶興道は、天長年間、従四位下右兵衛督に至り、父の家業を継いで弓術に優れていた。大同年間、伴和武多麻呂(とものわむたまろ)という者があり、同じくその術を伝え、後世の武人はみなその技法を用いた。名虎は、仁明天皇の御代、正四位下刑部卿に至った。(注:『続日本後紀』による。)その子の有常(ありつね)は、清廉で威厳のある人柄であった。貞観年間、雅楽頭従四位下に至った。(注:『三代実録』による。)勝長の弟に田上(たがみ)がいる。
紀船守
¶紀田上(きのたがみ)。田上は、武芸に通じ、あわせて文才もあり、とりわけ政務に長けていた。大同の初め、相模守となり、百姓はこれに懐いた。大同三年、任期を終えて都に入った。平城太上天皇の変の際、太上天皇に従い、従四位を授けられた。(注:原文には位階の上下は記されていない。)事変が平定されると、佐渡権守に左遷されたが、恩赦にあって都に帰ることを許された。天長の初め、死去した。子に深江(ふかえ)がいる。(注:『続日本後紀』による。)
紀田上
¶紀深江(きのふかえ)。若くして大学寮に学び、おおよそ史書に通じていた。文章生(もんじょうしょう)から大学少允(だいがくのしょうじょう)となり、主税助(しゅぜいのすけ)・式部少丞(しきぶのしょうじょう)を歴任した。弘仁の末、従五位下に叙せられた。天長・承和の間、次第に昇進して左近衛少将となり、備中守を兼ね、兵部大輔となり、地方に出て伊予守となり、従四位上に進んだ。性格は寛容で穏やかであり、物事に動じることなく、赴任先ではよく治績を上げ、百姓はこれに安んじ、当時、有能な官吏と称された。在官のまま死去した。享年五十一。(注:『続日本後紀』による。)
紀深江
¶伴善男(とものよしお)は、左京の人で、参議国道(くにみち)の子である。生まれつき才気にあふれ、天性鋭敏であり、目が窪んで頬ひげが長く、身体は小柄で、気性は激しく、見る者はこれを侮りがたい子だと思った。元服前、校書殿(きょうしょでん)に出仕する機会があり、仁明帝に才を知られて寵愛され、任用は日ごとに重んじられた。承和年間、大内記(だいないき)に任じられ、(注:『三代実録』による。)蔵人(くろうど)となり、(注:『公卿補任』による。)式部大丞に遷り、従五位下を授けられた。讃岐権介となったが、赴任しないうちに、にわかに右少弁に遷った。(注:『三代実録』による。)そのころ、法隆寺の僧善愷(ぜんがい)が少納言の登美直名(とみのなおな)の罪を訴え、善男は左大弁の正躬王(まさみおう)らとともに、その罪状を論じ定めたが、何度も議論が紛糾して長らく決着せず、ついに「正躬王らは善愷の理不尽な訴えを許容した」と偽って奏上した。そこで明法博士(みょうほうはかせ)の讃岐永直(さぬきのながなお)らに命じてこれを裁かせた。正躬王をはじめその場で議論に加わった者は、みな官を解かれた。(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)善男はまもなく蔵人頭に補され、右中弁に転じた。嘉祥の初め、異例の昇進で従四位下を授けられ、参議に任じられ、右大弁に転じた。下野守を兼ね、検非違使別当に補され、式部大輔を兼ねた。嘉祥三年、従四位上に進んだ。(注:『三代実録』『公卿補任』による。蔵人頭・検非違使別当については『公卿補任』による。)七月、大水が出て、山崎橋(やまざきばし)が流された。帝は「川の橋は壊れやすく、水に浸食されるためである。もし適当な場所を得られれば、自然と被害はなくなるだろう」と考え、善男らに詔して山崎に赴いて利害を調べさせ、適地を探させたところ、ついに川橋の設置場所が定まった。(注:『文徳実録』による。)この年、中宮大夫となった。(注:『三代実録』による。)仁寿元年、美作守を兼ねた。(注:『文徳実録』『三代実録』による。)仁寿二年、母の喪に服して官を辞した。まもなく、詔によって復職させられ、(注:『三代実録』による。)正四位下となった。(注:『文徳実録』による。)斉衡年間、讃岐守を兼ね、従三位に進んだ。(注:『文徳実録』『三代実録』による。)詔を受けて国史を編纂した。(注:『文徳実録』による。)貞観元年、伊予権守を兼ね、正三位に進み、民部卿を兼ねた。貞観二年、中納言に任じられた。貞観六年、大納言に転じた。(注:『三代実録』による。)
¶善男は性格が残忍酷薄で、弁が立ち、官にあっては物事の処理に長け、判断が機敏であった。朝廷の制度について詳しく調べ尽くしていた。政務の変化に応じて対応し、問われて答えられないことがなかった。しかし人の機嫌を取って取り入るのが巧みで、天皇に寵愛され、内記になってから八年、次々と要職を歴任し、ついに公卿に至り、地位も声望も次第に高まった。人となりは狭量で、人の欠点をあげつらうことを好み、人々はこれを憎んだ。(注:『三代実録』による。)これより先、善男は左大臣源信(みなもとのまこと)と不仲であり、たびたび信を陥れて代わろうと謀っていた。貞観八年の春、子の中庸(なかつね)らとともに応天門(おうてんもん)に放火し、それを信の仕業だと偽って言いふらした。右大臣藤原良相(ふじわらのよしみ)はこれを信じ、信を罪に問おうとした。摂政の藤原良房(ふじわらのよしふさ)はこれを聞いて大いに驚き、衣冠を整える暇もなく急いで参内し、信の無実を弁じた。(注:『三代実録』による。『神皇正統記』も参照した。)善男が放火を行ったとき、左京の人の大宅鷹取(おおやけのたかとり)が夜、応天門を通りかかったところ、門の柱に縋りついて下りてくる者がいた。それは善男・中庸、および家来の紀豊城(きのとよき)であった。まもなく火が出て、鷹取は善男の仕業だろうと思った。ちょうどそのころ、鷹取の子と善男の従者の子が争いになり、従者に殴られて瀕死の重傷を負った。この事件が朝廷に知られ、取り調べを受けたところ、鷹取はついに善男が応天門に放火したことを申し立てた。(注:『三代実録』による。『宇治拾遺物語』も参照した。『実録』には、鷹取の娘を拷問して殺したのは生江恒山(いくえのつねやま)、および同謀者の伴清縄(とものきよなわ)で、いずれも善男の従者であったとある。『拾遺』が載せる顛末はかなり詳しいので、今はこれに従う。)そこで参議の南淵年名(みなぶちのとしな)・藤原良繩(ふじわらのよしただ)に取り調べさせた。中庸を左衛門府に拘留し、罪を論じ定めた。善男・中庸、および同謀者の紀豊城・伴秋実(とものあきざね)・伴清縄ら五人は死罪に当たるとされた。詔によって死一等を減じ、善男を伊豆に、中庸を隠岐に、豊城を安房に、秋実を壱岐に、清縄を佐渡に流し、その資財・宅地を没収した。連座して流罪となった者は八人で、肥後守紀夏井(きのなつい)は土佐に、下野守伴男(とものおとこ)は能登に、上総権少掾伴夏影(とものなつかげ)は越後に、伴冬満(とものふゆみつ)は常陸に、紀春道(きのはるみち)は上総に、伴高吉(とものたかよし)は下総に、杞武城(きのたけき)は日向に、伴春範(とものはるのり)は薩摩に配流された。中庸の子の元孫(もとひこ)は八歳、叔孫(すえひこ)は五歳で、父の配所に随行した。朝廷はその幼さを哀れみ、途中で呼び戻した。(注:『三代実録』による。)貞観十年、善男は配流先で死去した。享年六十。(注:『公卿補任』『伴氏系図』による。)世に伝わるところでは、善男が微賤であったころ、郡司に仕えていたが、佐渡にいたとき、西大寺・東大寺の両寺にまたがる夢を見た。目覚めて妻にこれを語ると、妻は戯れに「またにかけて裂けてしまうのではないか」と言った。善男は不快に思いながら、郡司の家に赴いた。郡司はもとより人相見を得意としており、善男が来るのを見ると、大変丁重にもてなした。善男はこれを不思議に思った。郡司は言った。「あなたは益となる夢を得た。後にきっと大貴人になるだろう。」ただし、こっそりと人でない者に語ったことには、「大官に至ったとしても、必ずや最期を全うすることはないだろう」と。果たしてその言葉の通りになった。(注:『江談抄』『古事談』による。)