卷之第十一 本紀第十一
天武天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
天武天皇
¶天武天皇は、はじめ大海人皇子(おおあまのみこ)と称した。天智帝の同母弟である。
¶生まれながらにして人並み優れ、成人に及んでは雄々しく抜きん出て神のごとき武勇があり、天文・遁甲(とんこう、占術)の術に通じていた。
¶天智帝の四年十月十七日庚辰、帝は病に伏し、蘇我安麻呂(そがのやすまろ)を遣わして天皇を召した。安麻呂は日頃から天皇と親しく、密かに天皇に告げて言った。「よくよく考えてお答えください。」天皇はこれにうなずいた。まもなく寝所に入ると、帝は後事を託した。天皇は辞退して言った。「私は不幸にも病が多く、どうして社稷(しゃしょく、国家)をお受けすることができましょうか。願わくは陛下、天下を皇后にお託しになり、大友皇子(おおとものみこ)を皇太子にお立てください。私は今日にも出家し、陛下のために功徳を修めとうございます。」帝はこれを許した。天皇はそこで退いて宮中の仏殿に入り、胡床(こしょう、腰掛け)に座って髪を剃り、僧となった。帝は次田生磐(すきたのいくは)を遣わして袈裟を賜った。天皇は所持していた兵器をすべて集め、官に納めた。十九日壬午、宮中に参内して拝辞し、吉野に入った。左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)・右大臣中臣金(なかとみのかね)・大納言蘇我果安(そがのはたやす)らは、菟道(うじ)まで見送った。当時の人々はこれを評して、「虎に翼をつけて放ったようなものだ」と言った。この日の夕方、島宮(しまのみや)にお泊まりになった。翌日、吉野に至り、舎人(とねり)たちに仰せられた。「私は今、仏道に入って修行しようと思う。汝らのうち、道を修めようと思う者は留まるがよい。仕えて名を成そうと思う者は帰るがよい。」舎人たちはあえて去ろうとしなかった。重ねて命じると、半数は留まり、半数は去った。
¶明くる年の五月、朴井雄君(えのいのおきみ)が来て告げて言った。「私は先ごろ美濃に行っておりました。そのとき、朝廷は美濃・尾張両国の国司に勅して、山陵を造る人夫を徴発させ、それぞれに武器を持たせております。私が思いますに、これは山陵造営のためだけではなく、必ず別の事情があるのでしょう。もし早く手を打たなければ、悔やんでも及びません。」また、ある人が告げて言った。「近江京から倭京(やまとのみやこ)に至るまで、多くの物見の兵を配置しております。菟道の橋を守る者に命じて、私糧を運ぶ舎人たちを遮り留めております。」天皇はこれを聞いて不快に思い、仰せられた。「私が世を遁れたのは、病を治し身を全うして、天寿を永く保とうとしたためである。事態がすでにこうなった以上、私はどうしてじっと座して滅ぼされるのを待つことがあろうか。」
¶六月二十二日壬午、村国男依(むらくにのおより)・和珥部君手(わにべのきみて)・身毛広(むげつのひろ、注:「身毛」は続日本紀にはむけつと読む)を遣わし、美濃国司のもとへ行かせて事情を告げさせた。まず先に安八磨郡(あはちまのこおり)の湯沐令(ゆのうながし)である多品治(おおのほむじ)に命じて、本郡の兵を発し、急ぎ不破道(ふわのみち)を塞がせた。
¶二十四日甲申、天皇は東国へ赴こうとされた。ある者がいさめて言った。「近江の群臣は、謀を企ててすでに久しく、必ず天下に触れを出して道を塞ぐでしょう。今、徒手のまま東へ向かわれては、事がうまく運ばないのではないかと恐れます。」天皇はこれに従い、男依らを呼び戻そうとして、大分恵尺(おおきだのえさか)・黄書大伴(きふみのおおとも)を遣わし、志摩(しま)に出会わせ、倭の留守司(るすのつかさ)高坂王(たかさかのおおきみ)から駅鈴(えきれい)を求めさせようとした。そこで恵尺らに命じて言った。「もし鈴が得られなければ、志摩はすぐに戻って報告せよ。」恵尺はまっすぐ近江に至り、高市皇子(たけちのみこ)・大津皇子(おおつのみこ)の二人を呼び、伊勢で我と落ち合うよう伝えた。まもなく高坂王は鈴を与えず、志摩は戻って事の次第を申し上げた。この日、天皇は東国へ向けて出発した。正妃の鸕野皇女(うののひめみこ)が輿(こし)に乗って従った。草壁皇子(くさかべのみこ)・忍壁皇子(おさかべのみこ)、および朴井雄君・県犬養大伴(あがたのいぬかいのおおとも)・佐伯大目(さえきのおおめ)・大伴友国(おおとものともくに)・稚桜部五百瀬(わかさくらべのいおせ)・書根麻呂(ふみのねまろ)・書智徳(ふみのちとこ)・山背小林(やましろのおばやし)・山背部小田(やましろべのおだ)・安斗智徳(あとのちとこ)・調淡海(つきのおうみ)ら二十余人、女嬬(にょじゅ)十余人が従った。当時、事は急に起こったことで、車馬を待つ余裕がなかった。天皇は徒歩で出発されたが、途中で県犬養・大伴の馬を得てこれに乗った。津振川(つぶりかわ)を過ぎるころ、車馬もまた追いついた。菟田(うだ)の吾城(あき)に至ると、大伴馬来田(おおとものまくた)・黄書大伴が後から追いついた。屯田司(みたのつかさ)の舎人である土師馬手(はじのうまて)が従者たちに食事を供し、甘羅村(かむらのむら)を過ぎると、猟師の大伴朴本大国(おおとものえのもとのおおくに)ら二十余人を呼び集め、また美濃王(みののおおきみ)を召すと、みな来て従った。駄馬(だば)米五十匹を徴発し、徒歩の者を乗せ、大野(おおの)に至った。ちょうど日が暮れ、民家の垣根を壊して松明(たいまつ)を作り、進んだ。夜半に隠郡(なばりのこおり)を過ぎ、駅家(うまや)を焼いた。叫んで言った。「天皇が東国にお入りになる。役人・民はみな帰順せよ。」しかし応じる者は一人もいなかった。横河(よこかわ)を渡ると、黒雲が天を覆い、広さ十余丈に及んだ。天皇は燭(ともしび)を掲げ、自ら式占(しきせん、占い)を行って仰せられた。「これは天下が二つに分かれる兆しである。しかし私はついにこれを得るであろう。」進んで伊賀郡(いがのこおり)に至り、またその駅家を焼いた。中山(なかやま)に戻ると、郡司らが数百の兵を率いて帰順した。
¶二十五日乙酉、夜明けに蕀萩野(たらのはぎの)で御車を止めて食事を進め、積殖山口(つみえのやまぐち)へ向かった。高市皇子は民大火(たみのおおひ)・赤染徳足(あかそめのとこたり)・大蔵広隅(おおくらのひろすみ)・坂上国麻呂(さかのうえのくにまろ)・古市黒麻呂(ふるいちのくろまろ)・竹田大徳(たけだのだいとこ)・膽香瓦安倍(いかごのあべ)を率い、鹿深(かふか)から来て合流した。進んで大山(おおやま)を経て、伊勢の鈴鹿(すずか)に至った(注:宇治拾遺物語には、天皇が微行して独り吉野を出発し、あらゆる苦難をなめられたこと、田原(たわら)の里人が栗を献じ、志摩の土地の者が水を進め、洲股(すのまた)の女が天皇を匿ったことなどが載っている。源平盛衰記にもまた、鈴鹿の老翁が天皇を匿い、不破の土豪が天皇を使役したことなどが載っている。いずれも根拠のない作り話であり、他の書物には見えない。今はいずれも採らない)。国司の守(かみ)三宅石床(みやけのいわとこ)、介(すけ)三輪子首(みわのこびと)、湯沐令田中足麻呂(たなかのたりまろ)・高田新家(たかだのにいのみ)らが来て合流し、兵五百を発して鈴鹿山の道を塞いだ。天皇は進んで川曲(かわわ)の坂下に至った。ちょうど日が暮れ、正妃が疲れておられたので、しばらく御車を止めた。夜になって曇り、雨が降りそうになったので出発した。まもなく雷雨が激しく降り、寒さも厳しくなり、人々はみな凍えて疲れ果てた。三重郡(みえのこおり)に至って、家屋一棟を焼いて暖をとった。
¶二十六日丙戌、明け方、朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)のほとりに至り、天照大神を遥拝(ようはい)した。大津皇子は大分恵尺・難波三綱(なにわのみつな)・駒田忍人(こまたのおしひと)・山辺安麻呂(やまのべのやすまろ)・小墾田猪手(おはりだのいのて)・埿部眂枳(はしべのみさき、注:「眂」はもとの本書では「賦」に作るが、今は卜部兼永本および釈日本紀によって訂正した)・大分稚臣(おおきだのわかおみ)・根金身(ねのかねみ)・漆部友背(ぬりべのともせ)らを率いて来て合流した。村国男依もまた来て、兵三千を発して不破道を塞いだと報告した。天皇はこれを褒めた。そこで高市皇子に命じて不破の軍事を監督させ、皇子は和蹔(わざみ)に移って居所を構えた。山背部小田・安斗阿加布(あとのあかふ)を東海に、稚桜部五百瀬・土師馬手を東山に遣わし、兵を発せさせた(注:釈日本紀に引く私記に、安斗智徳の日記には「信濃の兵を発せしめた」とある)。この夜、天皇は桑名郡(くわなのこおり)に宿営した。帝(大友皇子)は書薬(ふみのくすり)・忍坂大麻呂(おさかのおおまろ)らを遣わし、東国の兵を徴発させようとした。薬らは不破に至ったが、高市皇子が伏兵を出してこれを捕らえた。
¶二十七日丁亥、天皇は不破にお入りになった。尾張国司の守(かみ)である小子部鉏鉤(ちいさこべのさひち)が、二万の兵を率いて帰順した。天皇は大いに喜び、その兵を分けて諸道の守りにあてた。進んで野上(のがみ)に至ると、高市皇子が出迎えた。天皇はその背をなでてねぎらい、そこで全軍の統率を命じた。ここに行宮(あんぐう)を野上に造ってお住まいになった。この夜、大雷雨があった。天皇は祈って仰せられた。「天神地祇よ、我を助けたまわば、雷雨をやませたまえ。」言い終わるとすぐに雷雨はやんだ。
¶二十八日戊子、和蹔に行き、軍を視察した。二十九日己丑の晦日、また和蹔に行き、その日のうちに戻った。大伴吹負(おおとものふけい)は倭京の留守司である坂上熊毛(さかのうえのくまげ)、および漢直(あやのあたい)らと謀り、飛鳥寺(あすかでら)の陣営を奪い、その将である穂積百足(ほづみのももたり)を殺し、穂積百枝(ほづみのももえ)・物部日向(もののべのひなた)を捕らえ、留守司の高坂王・稚狭王(わかさのおおきみ)を招いて降伏させ、大伴安麻呂(おおとものやすまろ)らを遣わして戦果を報告した。天皇は大いに喜び、その場で吹負を将軍に任じた。三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)・賀茂蝦夷(かものえみし)、および諸々の豪傑たちが、相次いで吹負のもとに帰順した。
¶七月庚寅朔、吹負は軍を発して乃楽(なら)へ向かった。裨将(ひしょう、副将)を分遣し、竜田(たつた)・大坂(おおさか)・石手(いわて)の三道を守らせた。坂本財(さかもとのたから)らは竜田へ向かい、平石野(ひらいしの)に陣を敷いた。近江の兵は高安城(たかやすのき)にいたが、味方が来ると聞くや、蓄えを自ら焼いて逃げ去った。財らは進んでこれに入った。
¶二日辛卯、紀阿閉麻呂(きのあえまろ)・多品治・三輪子首・置始菟(おきそめのうさぎ)を遣わし、数万の兵を率いて伊勢の大山から倭へ向かわせた。村国男依・書根麻呂・和珥部君手・膽香瓦安倍は、数万の兵を率いて不破から近江へ向かった。いずれも赤を旗印とした。別に多品治に命じ、兵三千を率いて蕀萩野に駐屯させた。田中足麻呂は倉歴道(くらふのみち)を守った。近江の将である山部王(やまべのおおきみ)・蘇我果安・巨勢人(こせのひと)は、数万の兵を率いて不破を襲おうとし、犬上川(いぬかみがわ)に軍を進めたが、自ら潰えて逃げ去った。羽田八国(はたのやくに)はその一族を率いて降伏してきた。そこで斧鉞(ふえつ)を授けて将軍に任じ、北から越(こし)に入らせた。近江の将である壱岐韓国(いきのからくに)は高安を攻め、坂本財は城を出て衛我河(えがのかわ)の西で戦ったが、勝てなかった。このとき、紀大音(きのおおと)は坂道を守ることを恐れ、財らは退いてこれと合流した。これより先、近江の兵が玉倉部邑(たまくらべのむら)に迫ったとき、天皇は出雲狛(いずものこま)に命じて撃退させていた。
¶四日癸巳、大伴吹負は大野果安(おおののはたやす)と乃楽山(ならやま)で戦い、敗れて逃げた。
¶五日甲午、近江の別将である田辺小隅(たなべのおすみ)は、夜に倉歴を襲い、田中足麻呂は陣営を捨てて逃げ出した。
¶六日乙未、小隅はまた蕀萩野を襲ったが、多品治がこれを迎え撃って追い払った。七日丙申、村国男依らは近江軍と息長横河(おきながのよこかわ)で戦い、これを破って、その将である境部薬(さかいべのくすり)を斬った。
¶九日戊戌、男依は秦友足(はたのともたり)を鳥籠山(とこのやま)で撃ち、これを斬った。この日、東道将軍(とうどうしょうぐん)である紀阿閉麻呂らは、吹負が敗れたと聞き、置始菟を遣わして救援させた。吹負と墨坂(すみさか)で出会い、進んで金綱井(かなつなのい)に陣を敷いた。軍は再び勢いを盛り返し、壱岐韓国と葦池(あしのいけ)のほとりで戦い、これを破って敗走させた。吹負は軍を分け、三道を並び進ませた。自ら中道を担当したところ、近江の別将である廬井鯨(いおいのくじら)が兵を率いて攻めてきた。吹負の兵が矢を連射すると、鯨は進むことができなかった。ちょうど上道の将である三輪高市麻呂・置始菟が、近江軍を箸陵(はしのみささぎ)で大いに破った。勝ちに乗じて鯨の軍の後方を断つと、鯨は驚いて振り返り、潰えて逃げ去った。倭の地はことごとく平定された。
¶十三日壬寅、村国男依らは進んで安河(やすかわ)のほとりで戦い、社戸大口(こそべのおおくち)・土師千島(はじのちしま)を捕らえた。
¶十七日丙午、また栗太(くるもと)の軍を撃ち、これに勝った。
¶二十二日辛亥、諸将は進んで瀬田(せた)に至った。近江軍は橋の西に陣を張り、橋板を撤去して守りを固めた。大分稚臣は身を挺して真っ直ぐに進み、兵たちがこれに続いた。近江軍は敗れた。男依らは軍を進めて粟津(あわづ)の岡下に至り、将軍羽田八国は出雲狛を率いて三尾城(みおのき)を攻め、これを落とした。
¶二十三日壬子、男依は近江軍と粟津市(あわづのいち)で戦い、その将である犬養五十君(いぬかいのいきみ)・谷塩手(たにのしおて)を斬った。ここに至って、近江軍は潰散した。
¶二十四日癸丑、諸将は篠浪(しののなみ)に会し、左右大臣以下を捜索して捕らえた。
¶二十六日乙卯、諸将は不破宮(ふわのみや)に参上し、戦勝を奏上した。
¶八月二十五日甲申、高市皇子に命じ、近江の群臣の罪状を裁かせた。右大臣中臣金は斬罪に処し、左大臣蘇我赤兄・大納言巨勢人は、その子孫とともに、また中臣金の子・蘇我果安の子とともに、ことごとく流罪に処した。その他の者は釈放して罪を問わなかった。二十七日丙戌、諸々の功臣に恩賞を与えた。
¶九月八日丙申、天皇は不破を発ち、桑名に戻った。十二日庚子、倭京に至り、島宮にお住まいになった。十五日癸卯、岡本宮(おかもとのみや)に遷った。十二月四日辛酉、功のあった諸臣に恩賞を与え、それぞれ小山位(しょうせんい)以上の位を授けた。この年、岡本宮の南に宮室を造営し、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)と号した(注:本書によれば、十五年七月に朱鳥(しゅちょう)と改元し、そこで宮を飛鳥浄御原宮と名づけたとある。これによれば、この時点ではまだ飛鳥宮の名はなかったことになる。しかし翌年二月にも、飛鳥浄御原宮で即位したとあるのは、おそらく後から遡って称したものであろう)。新羅が調(みつぎ)を貢いだ。
¶元年癸酉(注:本書は壬申の年を元年とするが、今は壬申の歳を大友帝(弘文天皇)に属させ、癸酉の歳を天皇即位の元年とする。それゆえ本書とは一年の差が生じている。また、薬師寺の塔の銅の擦(さつ、相輪の飾り)に銘があり、舎人親王(とねりしんのう)の筆と伝えられる。その文に「維(こ)れ清原宮に馭宇(ぎょう)せし天皇の即位八年庚辰の歳」とある。これによれば、当時実際にこの年を即位紀元としたことは明らかである。本書が壬申を元年とするのは、ひとえに天武を天智の皇統に直接接続させようとしたためであり、これによってこの曲筆が生じたにすぎない)、春正月七日癸巳、群臣に宴を賜った。
¶二月二十七日癸未、飛鳥浄御原宮で天皇の位にお即きになった。これを天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)という。正妃の鸕野皇女を皇后に立てた。二十九日乙酉の晦日、功臣に爵位を差をつけて賜った。
¶三月十七日壬寅、備後国司(びんごのこくし)が亀石郡(かめいしのこおり)で白い雉(きじ)を獲て献上した。勅して本郡の課役を免じ、天下に大赦を行った。この月、初めて大蔵経(だいぞうきょう)を川原寺(かわらでら)で書写させた。夏五月乙酉朔、詔して仰せられた。「およそ出仕する者は、まず大舎人(おおとねり)に任じ、そのうえで才能を選び定めて官職に就かせよ。婦女で仕官を望む者もこれを許し、その考選(こうせん、勤務評定)は官人の例に準じよ。」
¶閏六月八日壬辰、耽羅王(たんらおう)がその子である久麻芸(くまげ)・都羅宇麻(とらうま)を遣わして朝貢した。十五日己亥、新羅は二人の使者を遣わし、天皇の即位を祝い、天智帝の喪を弔った(注:本書の注に、あるいは調を貢いだ使者ともいう)。秋七月、初めて不破関(ふわのせき)を置いた(注:「秋七月」以下は一代要記・帝王編年記による)。
¶八月二十日癸卯、高麗(こうらい)が調を貢いだ。冬十二月五日丙戌、大嘗(だいじょう、大嘗祭)に奉仕したことにより、中臣・忌部(いんべ)および神官、播磨・丹波二国の郡司以下の役夫たちに、それぞれ物を賜った。郡司らには爵位を各一級賜った(注:本書には大嘗を行ったことが記されていないが、おそらく脱文であろう)。十七日戊戌、小紫(しょうし)美濃王・小錦下(しょうきんげ)紀堅麻呂(きのかたまろ)を、高市大寺(たけちのおおてら)を造る司(つかさ)とした(注:本書の注に、今の大官大寺(だいかんだいじ)がこれである、とある)。
¶二年甲戌、春三月七日丙辰、対馬(つしま)が初めて白金(しろかね、銀)を貢ぎ、諸々の神祇に献じた。小錦以上の大夫(まえつきみ)に頒賜(はんし)し、その国司の守である忍海大国(おしぬみのおおくに)に小錦下を授けた。秋八月三日庚辰、忍壁皇子を石上神宮(いそのかみじんぐう)に遣わし、神宝を整理させた。神府(しんぷ)に収蔵されていた諸家の宝器は、ことごとくその子孫に返還した。冬十月、大来皇女(おおくのひめみこ)を遣わして伊勢神宮に仕えさせた。
¶三年乙亥、春正月丙午朔、大学寮(だいがくりょう)の諸学生、陰陽寮(おんみょうりょう)・外薬寮(げやくりょう)、および舎衛(しゃえ)の女・堕羅(だら)の女、百済(くだら)の善光(ぜんこう)、新羅の人らが、薬や珍しい品々を献じた。二日丁未、皇子以下百官が朝賀に参列した。三日戊申、百官の初位(そい)以上の者が薪(たきぎ)を献じた。五日庚戌、初めて占星台(せんせいだい)を建て始めた。七日壬子、群臣に宴を賜った。十七日壬戌、公卿大夫、および百官の初位以上の者が、西門の庭で弓を射た。この日、大倭(おおやまと)が瑞祥の鶏(にわとり)を、東国が白い鷹(たか)を、近江が白い鴟(とび)を献上した。二十三日戊辰、諸社に幣帛(へいはく)を奠(そな)えた。
¶二月九日癸未、大倭・河内・摂津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張などの国に勅して、歌の上手な男女、および侏儒(しゅじゅ、小人芸人)・伎人(わざひと、芸人)を選んで貢がせた。十五日己丑、甲子(きのえね)の年に諸氏に賜った部曲(かきべ)、および親王・諸王以下の群臣・諸寺に賜った山沢(さんたく)・浦嶼(うらしま)・林野(りんや)・陂池(ひち、ため池)を廃止するよう詔した。二十三日丁酉、高安城(たかやすのき)に行幸した。この月、新羅王がその子である忠元(ちゅうげん)らを遣わして入貢した。
¶三月十六日庚申、栗隈王(くりくまのおおきみ)を兵政官長(ひょうせいかんのかみ)とし、小錦上(しょうきんじょう)大伴御行(おおとものみゆき)を大輔(たいふ)とした。この月、高麗・新羅が調を貢いだ。夏四月五日戊寅、僧尼二千四百余人を召し、大斎(だいさい)を設けた。九日壬午、詔した。「諸国が税を貸し付けるにあたっては、今後、百姓(ひゃくせい)の貧富をよく見極めて、三等に区分せよ。中戸(ちゅうこ)以下で貸し付けを望む者にはこれを許せ。」十日癸未、小紫美濃王・小錦下佐伯広足(さえきのひろたり)を竜田(たつた)の立野(たちの)に遣わして風神を祭らせた。小錦中(しょうきんちゅう)間人大蓋(はしひとのおおふた)・大山中(だいせんちゅう)曾禰韓犬(そねのからいぬ)を広瀬(ひろせ)の河曲(かわわ)に遣わして大忌神(おおいみのかみ)を祭らせた(注:風神・大忌の祭は、この後恒例の制度となったので、以後は記さない)。十七日庚寅、詔して、猟師・漁師が檻(おり)や落とし穴を造り、仕掛け槍を施すことを禁じ、四月から九月までは梁(やな)や簗漁具を設けること、また牛・馬・鶏・犬・猿を食べることを禁じ、もし犯す者があれば罪に処すとした。十八日辛卯、三位(さんみ)麻績王(おみのおおきみ)は罪あって因幡(いなば)に流され(注:万葉集には、伊勢の伊良虞島(いらごのしま)に流されたとある)、その二人の子は伊豆島・血鹿島(ちかのしま)に流された。二十三日丙申、才芸に優れた者を選び、物を差をつけて賜った。秋七月七日己酉、新羅に使者を遣わし、小錦上大伴国麻呂(おおとものくにまろ)を大使、小錦下三宅入石(みやけのいりし)を副使とした。
¶八月二十二日癸巳、大風が吹いた。この月、耽羅王がその子である久麻伎(くまき)を遣わして入貢した。
¶冬十月三日癸酉、四方に使者を遣わして大蔵経を求めさせた。十日庚辰、群臣に宴を賜った。十六日丙戌、筑紫(つくし)が唐人三十人を献上したので、遠江(とおとうみ)に住まわせた。二十日庚寅、詔して諸王以下初位以上の者に、それぞれ武器を備えさせた。この日、相模国(さがみのくに)が「高倉郡(たかくらのこおり)の女子が一度に三人の男子を産んだ」と言上した。
¶十一月三日癸卯、夜、ある人が宮の東の丘に登り、妖言を述べて自ら首を刎ねた。宿直(とのい)の者に爵位一級を賜った。この月、大地震があった(注:一代要記に、この年初めて除目(じもく、官吏任命の儀)を行った、とある)。
¶四年丙子、春正月庚子朔、百官が朝賀に参列した。四日癸卯、高市皇子以下小錦以上の大夫に、衣・袴・褶(ひらみ)・腰帯・脚帯および几杖(きじょう)を賜ったが、小錦三階の者には几は賜らなかった。七日丙午、小錦以上の大夫に物をそれぞれ差をつけて賜った。十五日甲寅、初位以上の者が薪を献じ、それにより宴を賜った(注:前年正月三日に百官が薪を献じたとあるのによれば、後世正月十五日に薪を献じるのは、おそらくこれに始まる。それゆえ以後は記さない)。十六日乙卯、西門の庭で弓を射た。的に中(あ)てた者には物を差をつけて賜った。この日、天皇は島宮で宴を催した。二十五日甲子、詔した。「およそ諸国の国司は大山位(だいせんい)以下の者を選んで任命せよ。ただし畿内および陸奥(むつ)・長門(ながと)の二国の国司はこの限りではない。」
¶二月、大伴国麻呂らが新羅から帰国した。
¶夏四月四日辛丑、大倭の添下郡(そうのしものこおり)の人、鰐積吉事(わにつみのきちこと)が瑞祥の鶏を献上した。飽波郡(あくなみのこおり)は「雌鶏が雄鶏に変わった」と言上した。十四日辛亥、勅した。「諸王・諸臣の封戸(ふこ)が西国にある者は、東国に改めて与えよ。」また勅した。「諸国の臣・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)の子、および庶人(しょにん)で才能があり仕官を望む者は、みなこれを許せ。」
¶五月三日庚午、諸国の国司が調を輸送するについて、その優劣を調べて罪を科した。七日甲戌、下野(しもつけ)が飢饉となり、百姓が子を売ることを願い出た。国司はその事情を奏上したが、許されなかった。この月、勅した。「南淵山(みなぶちやま)・細川山(ほそかわやま)での草刈り・薪取りを禁じ、畿内の山野で濫りに樵蘇(しょうそ、伐採・草刈り)することを重ねて禁じる。」この夏は大旱魃(だいかんばつ)で、五穀が実らず、百姓は飢えて困窮した。四方に使者を遣わして神祇に幣帛を奉らせ、僧尼に三宝(さんぽう)への祈祷をさせて雨乞いをさせた。
¶秋七月二日戊辰、卿大夫(けいたいふ)および百官の爵位を進め、それぞれ差をつけた。この月、長星(ちょうせい、彗星)が東方に現れた。
¶八月二日丁酉、親王以下小錦以上の大夫、および皇女・姫王(ひめおおきみ)・内命婦(ないみょうぶ)らに食封(じきふ)をそれぞれ差をつけて賜った。十六日辛亥、諸国に大解除(おおはらえ)を行うよう詔し、それにより国造・郡司に祓柱(はらえつもの)を出させた。十七日壬子、大赦を行った。「死刑・没官(もっかん)・三流(さんる)の罪は、いずれも一等を減じよ。徒罪(ずざい)以下は、すでに発覚した者も未発覚の者も、ことごとく赦す。ただしすでに流罪となった者は、この赦の対象としない。」この日、諸国に放生(ほうじょう)を行うよう詔した。九月丙寅朔、雨のため告朔(こうさく、朔日の儀礼)を行わなかった。十日乙亥、京畿の男子に武器を支給した。十二日丁丑、筑紫太宰(つくしのだざい)の屋垣王(やがきのおおきみ)が罪あって土左(とさ)に流された。十三日戊寅、百官および蕃客(ばんかく、外国からの客)に物を差をつけて賜った。
¶冬十月乙未朔、酒宴を設けて群臣を饗した。三日丁酉、新嘗(にいなめ)の諸神に幣帛を奠えた。十日甲辰、新羅に使者を遣わした。大乙上(だいおつじょう)物部麻呂(もののべのまろ)を大使、大乙中(だいおつちゅう)山背百足(やましろのももたり)を副使とした。
¶十一月乙丑朔、新嘗の事があるため告朔を行わなかった。三日丁卯、新羅が使者を遣わして調を貢ぎ、政(まつりごと、国政の報告)を求めた。粛慎(みしはせ)の人がこれに従って来朝した。十九日癸未、京に近い諸国に放生を行うよう詔した。二十日甲申、諸国に使者を遣わし、金光明経(こんこうみょうきょう)・仁王経(にんのうきょう)を講じさせた。二十三日丁亥、高麗が朝貢した。この年、新城(にいき)に都を置こうとしたが、実現しなかった。
¶五年丁丑、春正月十七日庚辰、南門で弓を射た(注:これより後、本書は毎年十七日に弓を射たと記している。恒例の行事であることは明らかなので、以後は記さない)。
¶三月癸巳朔、物部麻呂が新羅から帰国した。この月、勅して山背(やましろ)に賀茂神宮(かもじんぐう)を造営させた(注:「勅」以下は年中行事に引く右官史記による)。
¶夏四月十一日壬寅、村田名倉(むらたのなくら)が乗輿(じょうよ、天皇)を指さして誹謗したとして、伊豆島に流された。
¶五月壬戌朔、告朔を行わなかった(注:本書にはその理由が記されていない)。七日戊辰、新羅人が血鹿島(ちかのしま)に漂着した。この月、旱魃となり、京畿で雨乞いを行った。
¶六月十四日乙巳、大地震があった。この月、東漢直(やまとのあやのあたい)らに詔して仰せられた。「汝らの一族は、かつて七つの罪を犯した。小墾田(おはりだ)朝から近江朝に至るまで、そのたびごとにこの事を議してきた。朕は今、汝らの罪状を調べて刑罰に処そうと思うが、その一門を根絶やしにすることは忍びない。それゆえ大恩を垂れてこれを許す。今より後、もし罪を犯す者があれば、必ず罰して赦さない。」
¶秋八月十五日乙巳、飛鳥寺で斎(とき)を設け、大蔵経を読ませた。天皇は寺の南門に出御し、三宝を礼拝した。あらかじめ親王・諸王および群卿に、それぞれ得度者(とくどしゃ、出家を許される者)一人を賜ると詔していた。二十八日戊午、耽羅王がその子である都羅(とら)を遣わして朝貢した。
¶冬十月十四日癸卯、内小錦上(ないしょうきんじょう)河辺百枝(かわべのももえ)を民部卿(みんぶきょう)とした。内大錦下(ないだいきんげ)丹比麻呂(たじひのまろ)を摂津職(せっつしき)の大夫とした。
¶十一月己未朔、雨のため告朔を行わなかった。筑紫太宰が赤烏(せきう、赤い烏)を献上した。太宰府の諸司、および本郡の郡司に、物を賜り爵位を進めた。その赤烏を獲た者には爵位五級を賜った。郡中の百姓には一年間の課役を免除した。天下に大赦を行った。十二月己丑朔、雪のため告朔を行わなかった。
¶六年戊寅、春、天神地祇を祭ろうとした。天下にことごとく祓(はらえ)を行わせ、倉梯河(くらはしがわ)のほとりに斎宮(さいぐう)を建てた。夏四月七日癸巳、斎宮に行幸しようとしたところ、ちょうど十市皇女(とおちのひめみこ)が薨じ、この事は結局中止となった。十三日己亥、新宮の西庁に落雷があった。十四日庚子、御車を出して十市皇女の葬儀に臨んだ。秋九月、忍海能麻呂(おしぬみののうまろ)が瑞祥の稲を献上し、徒罪以下を赦した。冬十月甲申朔、綿のような物が難波(なにわ)に降った。当時の人々はこれを甘露(かんろ)と呼んだ。二十六日己酉、文武官の考績(こうせき、勤務評定)と進階(しんかい)の制を定めるよう詔した。十二月二十七日己卯、臘子鳥(ろうしちょう、小鳥の一種)が群れをなして飛び、空を覆った。この月、筑紫で大地震があり、民家の多くが倒れた。
¶七年己卯、春二月壬子朔、高麗が調を貢いだ。四日乙卯、辛巳(かのとみ)の年に大閲(だいえつ、大規模な軍事訓練)を行おうとし、親王・諸臣および百官に、あらかじめ兵馬を養い蓄えるよう詔した。この月、困窮した民を大いに賑わし救った。三月七日丁亥、越智(おち)に行幸し、後岡本天皇(のちのおかもとのすめらみこと、斉明天皇)の陵に参拝した。二十二日壬寅、貧しい僧尼に綿布を賜った。夏五月五日甲申、吉野宮に行幸した。六日乙酉、天皇は皇后・諸皇子とともに盟約を結んだ。七日丙戌、御車は宮に還った。六月庚戌朔、雹(ひょう)が降った。二十三日壬申、雪が降った。秋七月六日甲申、また雨乞いを行った。八月己酉朔、諸氏に女を貢がせるよう詔した。十一日己未、泊瀬(はつせ)に行幸し、迹驚淵(とどろきのふち)のほとりで宴を催した。これより先、王卿(おうけい)は騎乗するもののほかに、別に細馬(さいば、良馬)を養うよう詔していた。ここに至って、迹見(とみ)の駅でその馳駆(ちく)を観覧した。二十二日庚午、縵忍勝(かずらのおしかつ)が嘉禾(かか、めでたい稲穂)を献上した。冬十月二日己酉、詔して仰せられた。「朕が聞くところでは、『近頃、乱暴な悪事をなす者が多く里巷(りこう)におり、あるいは見て見ぬふりをして取り締まらず、あるいは隠して正さない』という。これは王卿らの過ちである。今より後、厳しく取り締まりを行い、怠ることのないように。」十一日戊午、地震があった。十七日甲子、新羅が調を貢いだ。十四日庚寅、地震があった。二十三日己亥、大乙下(だいおつげ)倭馬飼部連(やまとのうまかいべのむらじ)を大使、小乙下(しょうおつげ)上光欠(かみつみつかけ、注:読みは未詳)を小使とし、多禰島(たねのしま)に遣わし、それぞれに爵位一級を賜った。この月、初めて竜田山(たつたやま)・大江山(おおえやま)の二つの関所を置き、難波に羅城(らじょう、城壁)を築いた。十二月二日戊申、嘉禾の瑞祥により、親王・諸臣・百官に物を差をつけて賜った。大辟(たいへき、死刑)以下の罪を赦した。この年、紀伊が霊芝(れいし)を、因幡が瑞祥の稲を献上した。
¶八年庚辰、春正月八日甲申、天皇は小殿(こでん)にお出ましになり、大殿(おおとの)の庭で王卿に宴を賜った。二十日丙申、摂津国が「活田村(いくたのむら)の桃と李(すもも)が実をつけた」と言上した。二月十八日癸亥、東方で太鼓のような音がした。二十六日辛未、ある人が獣の角を献上した。角の上に肉がついており、当時の人々はこれを麒麟(きりん)の角と考えた。三月十日乙酉、摂津国が白い巫鳥(しとと)を献上した。二十三日戊戌、菟田の吾城に行幸した。夏四月十一日乙卯、橘寺(たちばなでら)が火災にあった。五月乙亥朔、勅して京内の二十四の寺に絁(あしぎぬ)・綿・糸・布をそれぞれ差をつけて賜った。この日、初めて金光明経を宮中および諸寺で講じさせた。十三日丁亥、高麗が朝貢した。六月八日辛亥、灰が降った。秋七月五日戊寅、犬養大伴(いぬかいのおおとも)の家に赴き、その病を見舞った。この日、雪が降った。十日癸未、朱雀(すざく)が南門に集まった。八月五日丁未、法官(ほうかん)が嘉禾を献上した。大水害があった。十四日丙辰、大風が木を折り家屋の屋根を吹き飛ばした。九月九日辛巳、朝嬬(あさづま)に行幸し、長柄(ながら)で大山位以下の者の馬を観覧し、それにより騎射を命じた。二十三日乙未、地震があった。冬十月四日乙巳、京内の僧尼・百姓で貧窮する者に絁・綿布を差をつけて賑給(しんごう、施し与えること)した。十一月壬申朔、日食があった。三日甲戌、夜、東方が明るくなり、戌(いぬ)の刻から子(ね)の刻まで続いた。七日戊寅、百官に詔した。「およそ国家に利があり百姓を救う方策を持つ者は、宮中に参上して申し出よ。」十日辛巳、雷が鳴った。十二日癸未、皇后が病に伏したことにより、薬師寺(やくしじ)を創建することとし、僧百人を得度させ、囚人を赦した。二十四日乙未、新羅が調を貢いだ。二十六日丁酉、天皇が病に伏した。僧百人を得度させると、まもなく快癒した。三十日辛丑の晦日、臘子鳥が群れをなして飛び、空を覆った。
¶九年辛巳(注:原文は「辛己」に作るが、庚辰の翌年であるので辛巳とすべきものであろう)、春正月二日壬申、諸々の神祇に幣帛を奠えた。七日丁丑、天皇は小殿にお出ましになり、親王・諸王を内安殿(うちのあんでん)に、諸臣を外安殿(とのあんでん)にお集めになり、酒宴を設けて音楽を奏させた。十九日己丑、畿内および諸国に、神社を修繕するよう詔した。二月二十五日甲子、天皇は皇后とともに大極殿(だいごくでん)に出御し、親王・諸王・群臣に詔して仰せられた。「朕は今、律令(りつりょう)を定め、法式を改めようと思う。卿らはともにこの事業に取り組むように。しかし、にわかにこの任務に就かせては、公事(くじ)に支障が出ることを恐れる。人を分けてこれに当たらせるのがよい。」この日、草壁皇子を皇太子に立て、万機(ばんき、政務)を摂(と)らせた。三月十七日丙戌、天皇は大極殿に出御し、川島皇子(かわしまのみこ)・忍壁皇子・広瀬王(ひろせのおおきみ)・竹田王(たけだのおおきみ)・桑田王(くわたのおおきみ)・三野王(みののおおきみ)、大錦下(だいきんげ)上毛野三千(かみつけののみちち)、小錦中忌部首(いんべのおびと)、小錦下阿曇稲敷(あずみのいなしき)・難波大形(なにわのおおかた)、大山上(だいせんじょう)中臣大島(なかとみのおおしま)、大山下(だいせんげ)平群子首(へぐりのこびと)に詔して、帝紀(ていき)および上古の事を撰ばせた。二十一日庚寅、地震があった。夏四月三日辛丑、禁式(きんしき)九十二条を設け、親王から庶人に至るまでの服色(ふくしょく)の制度を定めた。五月十一日己卯、皇祖の御魂(みたま)を祭った。この日、詔して仰せられた。「近頃、百官が宮人(みやひと)に取り入り、私的に頼み事をし、賄賂を贈って結びつきを固め、礼を尽くすことが過ぎている。今より後、このような者があれば、事に応じて罪に処する。」六月十七日乙卯、雨乞いを行った。二十四日壬戌、地震があった。秋七月戊辰朔、朱雀が現れた。四日辛未、小錦下釆女筑羅(うねめのつくら)を大使、当摩楯(たぎまのたて)を小使として新羅に遣わした。小錦下佐伯広足を大使、小墾田麻呂(おはりだのまろ)を小使として高麗に遣わした。三十日丁酉の晦日、天下に大祓(おおはらえ)を行うよう勅した。国造らはそれぞれ祓柱(はらえつもの)として奴婢一人を出した。八月十日丙子、詔した。「三韓(さんかん)からの投化民(とうかみん、帰化した人々)が、来朝してすでに十年を経過した。今、その期限が過ぎたので、最初に来朝した者の子孫は、みな課役を免除する。」十六日壬午、伊勢国が白い茅鴟(ふくろう)を献上した。二十日丙戌、多禰島に遣わした使者が帰国し、その地図を献上した。九月五日辛丑、周防国(すおうのくに)が赤い亀を献上した。これを島宮の池に放った。八日甲辰、勅した。「およそ諸氏で氏上(うじのかみ)がまだ定まっていない者は、それぞれこれを定めて理官(りかん)に申告せよ。」十六日壬子、彗星が現れた。十七日癸丑、熒惑(けいこく、火星)が月に入った。冬十月丙寅朔、日食があった。六日癸未、地震があった。二十日乙酉、新羅が調を貢いだ。二十五日庚寅、大山位以下小建(しょうこん)以上の者に、それぞれ意見を述べさせるよう詔した。この月、広瀬野(ひろせの)の行宮(あんぐう)が完成した。十一月二日丁酉、地震があった。
¶十年壬午、春正月十九日癸丑、地震があった。三月甲午朔、小紫三野王、および宮内官(くないかん)の大夫らに、新城(にいき)の地を視察させた。七日庚子、地震があった。十三日丙午、境部石積(さかいべのいわつみ)らに勅して、新字(しんじ)四十四巻を作らせた。十六日己酉、新城に行幸した。二十八日辛酉、詔して諸王・諸臣が位冠(いかん)を着用することを停止し、また親王以下の食封をすべて官に納めるよう詔した。夏四月二十日癸未、筑紫太宰の丹比島(たじひのしま)らが大鐘を献上した。二十二日甲申、越(こし)の蝦夷(えみし)である伊高岐那(いたかきな)らが、「俘囚(ふしゅう)の戸七千戸をもって、別に一郡を置きたい」と願い出た。これを奏上して許可された。二十三日乙酉、詔した。「男女はみな髪を結うようにせよ。」五月十六日戊申、佐伯広足らが高麗から帰国した。六月壬戌朔、高麗が朝貢した。秋七月三日甲午、隼人(はやと)が来て特産品を貢ぎ、大隅隼人(おおすみのはやと)と阿多隼人(あたのはやと)に相撲を取らせた。十七日戊申、地震があった。二十七日戊午、信濃(しなの)・吉備(きび)がともに「霜が降り大風が吹き、五穀が実らない」と言上した。八月壬戌朔、親王以下の群臣に勅して、それぞれ時勢に施すべき法式を述べさせた。三日甲子、夕暮れに大きな星が東から西へ流れた。五日丙寅、法令を定めた。御殿の中に虹が現れた。十一日壬申、空中に幡(はた)のような物があり、火のような色をして北へ流れ、諸国でみな見えた。この日、白い気が東の山から起こった。十二日癸酉、大地震があった。十七日戊寅、地震があった。この日、明け方、虹が空の中天に現れた。二十二日癸未、礼儀・言語の制を定めた。詔して仰せられた。「およそ考選(こうせん、官吏登用試験)を受けるべき者は、その氏族の家系・素性をよく調べたうえで審査せよ。もし氏族の素性が明らかでない者は、たとえ行いと才能があっても、考選の対象としない。」二十八日己丑、日高皇女(ひたかのひめみこ)の病により、大辟(死刑)以下の男女百九十八人を赦した。二十九日庚寅の晦日、僧百四十余人を大官大寺で得度させた。九月二日壬辰、勅した。「今より後、跪礼(きれい、ひざまずく礼)・匍匐礼(ほふくれい、はいつくばう礼)を廃止し、改めて難波朝廷の立礼(りゅうれい、立って行う礼)を用いよ。」冬十月八日戊辰、大酺(たいほ、酒宴)を行った。
¶十一年癸未、春正月二日庚寅、百官が朝賀に参列した。筑紫太宰の丹比島が三本足の雀(すずめ)を献上した。七日乙未、大極殿で親王以下の群臣に宴を賜り、雀を観覧させた。十八日丙午、詔して仰せられた。「朕が聞くところでは、『政(まつりごと)を行う道理が天に叶えば、祥瑞(しょうずい、めでたい兆し)がこれに応じる』という。朕が皇位に登ってこのかた、祥瑞がしきりに現れ、一つには畏れ多く思い、一つには喜ばしく思う。まさに天下とともにこの慶事を分かち合うべきである。小建以上の者には物を差をつけて賜り、大辟以下の罪を赦し、百姓の課役を免除する。」この日、小墾田舞(おはりだのまい)および三韓楽(さんかんがく)を御殿の前で演奏させた。二月己未朔、大津皇子に詔して、初めて朝政に参与させた。夏四月十五日壬申、銅銭を用いるよう詔した。この夏、初めて僧尼を宮中に召して安居(あんご、夏の修行期間)させた。秋七月四日己丑、鏡姫王(かがみのひめみこ)の邸を訪れ、病を見舞った。十五日庚子、雨乞いを行った。十八日癸卯、御車が京師(みやこ)を巡幸した。八月五日庚申、天下に大赦を行った。この月、久しく雨が降らなかったので、百済の僧道蔵(どうぞう)に雨乞いをさせた。九月二日丙戌、大風が吹いた。冬十月十三日丁卯、倉梯(くらはし)で狩りをした。十一月四日丁亥、諸国に陣法(じんぽう、軍陣の作法)を習わせるよう詔した。十三日丙申、新羅が調を貢いだ。十二月十三日丙寅、五位の伊勢王(いせのおおきみ)、大錦下羽田八国、小錦下多品治・中臣大島、および判官(じょう)・録(さかん)・史(ふひと)・工匠(たくみ)を遣わし、天下を巡行させて諸国の境界を定めさせた。十七日庚午、詔して仰せられた。「およそ文武の官人および畿内で位のある者は、四孟月(しもうげつ、正・四・七・十月)に朝参(ちょうさん)せよ。もし病にかかって朝参できない者は、官司がそのことを書き記して法官に送れ。」天皇は難波に都を建てようと思い、百官にそれぞれ宅地を選び定めるよう詔した。
¶十二年甲申、春正月二十三日丙午、天皇は東庭に出御し、弓の名手や侏儒・左右の舎人らを召して弓を射させた。二月二十八日庚辰、浄広肆(じょうこうし)広瀬王、小錦中大伴安麻呂、および判官・録事(ろくじ)・陰陽師・工匠らを畿内に遣わした。三野王、小錦下釆女筑羅らを信濃に遣わした。いずれも都を建てる地を視察させるためである。三月九日辛卯、御車が京師を巡幸し、宮室の地を定めた。夏四月五日丙辰、徒罪以下の囚人を赦した。二十日辛未、新羅に使者を遣わした。小錦下高向麻呂(たかむくのまろ)を大使、小山下都努牛飼(つののうしかい)を小使とした。閏月五日丙戌、百官に威儀(いぎ、儀礼における立ち居振る舞い)を整え励むよう詔した。また詔して仰せられた。「およそ政の要(かなめ)は軍事にある。文武の官人は武芸を習うことに努めよ。兵馬・武器は、蓄えを欠かすことのないように。馬を持つ者は騎士となり、馬を持たない者は歩卒となれ。朕は時に応じてこれを検閲する。もし詔旨に背き、訓練が精妙でない者があれば、親王以下諸臣に至るまで必ず罰する。大山位以下の者は、罰すべき者は罰し、杖(じょう)すべき者は杖に処す。その一方、勤めて訓練に励み精妙な者は、たとえ死罪であっても二等を減じる。ただし自らの才を頼みとしてわざと法を犯す者は、赦しの対象としない。」十一日壬辰、三野王らが信濃国の図を献上した。十六日丁酉、宮中で斎(とき)を設けた。それにより罪ある舎人らを赦した。五月十四日甲子、百済からの帰化僧俗の男女二十三人を武蔵(むさし)に住まわせた。二十八日戊寅、高麗に使者を遣わした。三輪引田難波麻呂(みわのひけたのなにわまろ)を大使、桑原人足(くわばらのひとたり)を小使とした。六月四日甲申、雪が降った。秋七月四日癸丑、広瀬に行幸した。二十三日壬申、彗星が西北に現れた。冬十月己卯朔、天下の諸氏の族姓(ぞくせい)を改め、定めて八等とするよう詔した(注:八色の姓(やくさのかばね)の制)。三日辛巳、伊勢王らを遣わして諸国の境界を定めさせた。この日、耽羅に使者を遣わした。県犬養手繦(あがたのいぬかいのたすき)を大使、川原加尼(かわらのかね)を小使とした。十四日壬辰、京師および諸国で大地震があった。山が崩れ川があふれ、人や家畜の多くが死んだ。伊予(いよ)の温泉が埋まり、土左(とさ)の田畑五十余万頃(けい)が陥没して海となった。この夜、東方で太鼓のような音がした。伊豆島の西北の海中に、自然に一つの島ができた。長さ三百余丈であった。この月、土左国司が「潮が激しくあふれ、貢納の運搬船の多くが沈んだ」と言上した。二十一日戊辰、東北に星が落ちた。二十三日庚午、酉(とり)の刻に東方に星が落ち、大きさは盆のようであった。戌(いぬ)の刻には、星が雨のように降った。この月、昴(すばる)に彗星が現れた。十二月六日癸未、新羅が、入唐学生の土師甥(はじのおい)・白猪宝然(しらいのほうねん)、および百済との戦役で唐に留められていた者を送ってきた。猪使子首(いのつかいのこびと)・筑紫三宅得許(みやけのとくこ)が、筑紫に到着した。十三日庚寅、死刑以下の囚人を赦した(注:水鏡・元亨釈書には、この冬、天皇が病に伏し、皇太子が勅を奉じて百官を率いて大官大寺で祈願したところ、天皇が夢のお告げを感じて快癒した、とある)。この年、伊賀・伊勢・美濃・尾張の四国の調役について、今後は年を隔てて免除するよう詔した。倭国(やまとのくに)は「葛城下郡(かつらぎのしものこおり)で足が四本ある鶏が生まれた」と言上した。丹波国は「氷上郡(ひかみのこおり)で角が十二本ある子牛が生まれた」と言上した。
¶十三年乙酉、春正月二日戊申、百官が朝賀に参列した。二十一日丁卯、爵位の名称を改め、階級を増やした。諸王以上は十二階、諸臣は四十八階とした。この日、皇太子には浄広壱(じょうこういち)、大津皇子には浄大弐(じょうだいに)、高市皇子には浄広弐、川島皇子・忍壁皇子にはともに浄大参(じょうだいさん)を授けた。諸王・諸臣にも爵位をそれぞれ差をつけて進めた。二月四日庚辰、唐人・百済人・高麗人百四十七人に爵位を賜った。三月、信濃国に灰が降り、草木がみな枯れた。夏四月四日己卯、紀伊国が「牟婁(むろ)の温泉が埋まった」と言上した。五月五日庚戌、南門で弓を射た。御車が飛鳥寺に行幸した。二十六日辛未、高向麻呂・都努牛飼らが新羅から帰国した。秋七月二十六日庚午、明位(みょうい)以下進位(しんい)以上の朝服(ちょうふく)の色を定めた。二十七日辛未、東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の、諸国の位ある者の課役を免除するよう詔した。八月十二日乙酉、浄土寺(じょうどじ)に行幸した。十三日丙戌、川原寺に行幸し、衆僧に稲を賜った。二十日癸巳、県犬養手繦らが耽羅から帰国した。九月九日壬子、旧宮の安殿(あんでん)の庭で宴を催した。この日、皇太子以下諸皇子に布をそれぞれ差をつけて賜った。十日癸丑、初めて神宝を伊勢の両大神宮に奉った(注:「十日」以下は園太暦(えんたいりゃく)延文二年の条に引く神宮旧記による。○宝基本紀(ほうきほんぎ)によれば、このとき、二十年ごとに両大神宮を改め造り、遷宮の儀を行うよう詔し、これを永式(えいしき、永久の定め)としたという。延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)・延喜式などの書にも、二十年ごとに修造するとの文が載っているが、年月は記されていない。ひとまず付記して参考に備える)。十一日甲寅、宮処王(みやこのおおきみ)・広瀬王・難波王・竹田王・弥努王(みののおおきみ)を京畿(けいき)に分遣し、民間の武器を検分させた。十五日戊午、直広肆(じきこうし)都努牛飼を東海道に、石川虫名(いしかわのむしな)を東山道に、佐味少麻呂(さみのすくなまろ)を山陽道に、巨勢栗持(こせのくりもち)を山陰道に、直広参路迹見(みちのとみ)を南海道に、直広肆佐伯広足を筑紫に遣わし、それぞれに判官一人・史一人を副えて、風俗を巡察させ、国司・郡司の治績を問い調べさせた。十八日辛酉、大安殿(だいあんでん)に出御し、王卿を召して、御殿の前で博戯(すごろくなどの遊戯)をさせた。十九日壬戌、皇太子および王卿ら四十八人に、羆(ひぐま)の皮・山羊(やぎ)の皮をそれぞれ差をつけて賜った。二十日癸亥、三輪引田難波麻呂らが高麗から帰国した。二十四日丁卯、天皇が病に伏した。大官(だいかん)・川原・飛鳥の三寺で三日間経を読ませ、稲を差をつけて賜った。冬十月、束間(つかま)の温泉に行幸しようとした。十日壬午、軽部足瀬(かるべのたるせ)・高田新家・荒田尾麻呂(あらたおのまろ)を信濃に遣わし、行宮を造らせた。十二日甲申、浄大肆泊瀬王(はつせのおおきみ)・直広肆巨勢馬飼(こせのうまかい)らに、畿内の役務を監督させた。十七日己丑、伊勢王らを東国に遣わした。十一月二日甲辰、鉄一万斤(きん)を周防(すおう)の総領所に輸送し、また鉄一万斤・箭幹(やがら、矢の柄)二千連(れん)、および絁・糸・布を筑紫太宰に輸送し、備蓄にあてた。四日丙午、詔した。「諸国の大角(はらのふえ)・小角(くだのふえ)・鼓吹(くすい)・幡旗(はたほこ)・弩(いしゆみ)・抌(のろし)の類を私宅に蔵することを禁じ、すべて郡の役所に収めさせよ。」六日戊申、白錦後苑(はくきんのこうえん)に行幸した。二十七日己巳、新羅が使者を遣わして貢物を献じ、国政の報告を求めた。十二月十日辛巳、地震があった。
¶朱鳥元年丙戌、春正月二日癸卯、大極殿に出御し、王卿に宴を賜った。九日庚戌、三綱律師(さんごうりっし)、および大官大寺の知事(ちじ)・佐官(さかん)の僧を召し、宮中で食事を賜った。十四日乙卯、難波宮(なにわのみや)が火災にあった。十六日丁巳、大安殿に出御し、諸王卿に宴を賜り、絁・綿布を差をつけて賜った。十七日戊午、後宮で宴を催した。十八日己未、大酺を行った。この日、御窟殿(みくつのとの)に出御し、俳優(わざおぎ)や歌を歌う者に物を差をつけて賜った。十九日庚申、地震があった。二月五日乙亥、功のあった国司九人に勤位(ごんい)を授けた。三月十日庚戌、雪が降った。夏四月十九日戊子、新羅が調を貢いだ。五月二十四日癸亥、天皇が病に伏した。川原寺で薬師経(やくしきょう)を講じさせ、宮中で安居させて祈祷させた。この月、天下に大赦を行った。六月二日庚午、工匠(たくみ)・陰陽師・侍医(じい)・入唐学生ら三十四人に爵位を授けた。七日乙亥、諸司で功のあった二十八人に爵位を加えた。十日戊寅、天皇の病について占ったところ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の祟りであった。そこで尾張の熱田社(あつたのやしろ)に返し納めた。十二日庚辰、雪が降った。十六日甲申、伊勢王らを飛鳥寺に遣わし、病平癒を祈らせた。十九日丁亥、百官を川原寺に遣わし、燃灯供養(ねんとうくよう)を行わせた。大斎(だいさい)を設けて悔過(けか、罪を悔いる法要)を行った。秋七月三日辛丑、諸国に大祓を行うよう詔した。四日壬寅、天下の戸調(こちょう)を半分に減じ、徭役(ようえき)をすべて免除した。五日癸卯、国懸(くにかかす)・飛鳥(あすか)・住吉(すみよし)に幣帛を奉った。八日丙午、僧百人を宮中に召し、金光明経を読ませた。十日戊申、民部省(みんぶしょう)が火災にあった。十五日癸丑、詔した。「天下の事は大小を問わず、すべて皇后および皇太子に申し上げよ。」この日、大赦を行った。十九日丁巳、詔した。「天下の貧民の未納の負債で、乙酉(きのととり)の年十二月三十日以前のものは、公私を問わず、一切免除する。」二十日戊午、元号を建てて朱鳥(しゅちょう)とした。それにより宮を飛鳥浄御原宮と名づけた。二十八日丙寅、浄行者(じょうぎょうしゃ)七十人を得度させ、御窟院(みくつのいん)で斎を設けた。この月、諸王・群臣は観世音(かんぜおん)の像を造り、大官大寺で観世音経を講じさせ、天皇の病平癒を祈った。八月己巳朔、八十人を得度させた。二日庚午、男女百人を得度させ、百体の菩薩像を宮中に安置し、観世音経二百巻を読ませた。九日丁丑、天皇の病平癒を神祇に祈った。十三日辛巳、秦石勝(はたのいわかつ)を遣わし、土左の大神に幣帛を奉らせた。
¶九月九日丙午、天皇は正殿(せいでん)で崩御した(注:本書には享年の記載がない。一代要記・皇胤紹運録にはいずれも、御年六十五歳とある)。二十四日(原文の干支「幸酉」は誤写と思われる)、南庭で殯(もがり)を行い、大内陵(おおうちのみささぎ)に葬った(注:延喜式には檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)という)。追って天武天皇と諡(おくりな)した。