卷之一百十五 列傳第四十二

秦河勝、阿倍御主人、大伴御行、多治比池守ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

Read this volume in English →

文字
この巻の目次21
  1. 秦河勝
  2. 阿倍御主人
  3. 大伴御行
  4. 多治比池守
  5. 多治比家主
  6. 道首名
  7. 石川年足
  8. 石川名足
  9. 石川豐成
  10. 藤原岳守
  11. 清原有雄
  12. 丹墀門成
  13. 春枝王
  14. 長岑高名
  15. 山田古嗣
  16. 藤原高房
  17. 甘南備高直
  18. 紀夏井
  19. 南淵永河
  20. 小野恒柯
  21. 橘良基

秦河勝

秦河勝(はたのかわかつ)は、山城国葛野郡の人である。推古天皇十一年、豊聡耳皇子(とよとみみのみこ、聖徳太子)が仏像を尊崇し、群臣にこれを拝ませようとした。河勝は進み出てその像を受け取り、蜂岡寺(はちおかでら)を建ててこれを安置した。皇極天皇三年、東国の不尽河(ふじがわ、富士川)のほとりに大生部多(おおうべのおお)という者がおり、異形の虫を飼い、郷里の人々を惑わして「これは常世神(とこよのかみ)である」と説いた。巫女や神主たちも神のお告げと称して「常世神を祭る者は貧しい者も富み、老いた者も若返る」と言った。民は争って財宝を投げ捨て、酒や肉を道端に並べて「新しい富が入ってくる」と叫び、都でも田舎でもこれを祭り、歌い舞って福を求めたが、財を投げ捨てても何の益もなく、浪費はますますひどくなった。河勝はこの妖術が民を惑わすことを憎み、大生部多を捕らえて鞭打った。巫女や神主たちは恐れて祭りをやめ、当時の人々はこれを歌に詠んで河勝を称えた。(注:『日本書紀』による)

阿倍御主人

阿倍御主人(あべのみうし)は、(注:原注によれば、本書は天武五年紀・朱鳥元年・持統八年の記事ではいずれも「布勢朝臣」と記し、十年の記事では「阿倍朝臣」と記している。『続日本紀』大宝元年の記事によれば、御主人はもと阿倍布勢臣を名乗り、のちに朝臣の姓を賜ったという。ただし布勢から阿倍へ改めた年月は明らかでない。)天武天皇の朝で直大参の位にあった。持統天皇の朝で位を重ねて正広肆に進み、封二百戸を加増されて従来と合わせ五百戸となり、氏上(うじのかみ)となって大納言に任じられ、資人(しじん)八十人を許された。(注:『日本書紀』による。)文武天皇は巡察使の奏上により諸国司の善政を褒賞し、御主人を正広参に進めた。(注:本書はどの国の国司であったかを記しておらず、今は考証できない。)大宝元年、従二位に改め授けられ右大臣を拝した。(注:『公卿補任』が引く『扶桑記』には、大臣となったのち大納言を兼ねたとあるが、本書には見えず、『扶桑記』も今は失われており、他に考証する手立てがない。)絁(あしぎぬ)五百匹、糸四百絇(こう)、布五千段、鍬一万口、鉄五万斤、備前・備中・但馬・安芸の田二十町を賜り、また壬申の乱の功により二百戸を封ぜられ、その四分の一を子に伝えることを許された。三年に薨じた。正三位石上麻呂(いそのかみのまろ)を遣わして弔い、賻物(ふもつ)を贈らせた。(注:『続日本紀』による)

子の広庭(ひろにわ)は、霊亀・養老の間に宮内卿・左大弁を歴任し、参議として朝政にあずかり、河内・和泉の政務を知行した。神亀年間、従三位中納言に至った。天平四年に薨じた。子の島麻呂(しままろ)は、天平宝字年間に参議正四位下に至った。(注:『続日本紀』による)

大伴御行

大伴御行(おおとものみゆき)は、右大臣長徳(ちょうとく)の子である。(注:『続日本紀』『公卿補任』による。)壬申の乱では天武天皇に従い、小錦上を授けられ、兵政官大輔となった。(注:『日本書紀』による。)功績により封百戸を賜った。(注:『続日本紀』による。)持統天皇の朝で正広肆に進み、封を加増されて五百戸に至り、氏上となって資人八十人を許された。文武天皇四年、諸国司の政績を褒賞し、御行を正広参に叙し、大納言に任じた。(注:本書はどの国の国司であったかを記しておらず、今は考証できない。)大宝元年に薨じた。(注:『続日本紀』による。)享年五十六。(注:『公卿補任』による。)天皇は深く悼み惜しんで大射の儀を中止させた。直広壱藤原不比等(ふじわらのふひと)を遣わして邸に赴き詔を宣べさせ、正広弐右大臣を追贈し、直広肆榎井倭麻呂(えのいのやまとまろ)らを遣わして喪事を監護させた。(注:『続日本紀』による。)贈官の先例はこれをもって始まりとする。(注:『公卿補任』『拾芥抄』による。)勅により封の四分の一をその子に賜った。(注:『続日本紀』による。)子の御依(みより)は、(注:『大伴系図』による。)聖武・孝謙・光仁の三朝に仕え、出雲守従四位下に至った。(注:『続日本紀』による。)

多治比池守

多治比池守(たじひのいけもり)は、左大臣島(しま)の長子である。(注:『続日本紀』による。)持統天皇の朝で直広肆を授けられた。(注:『日本書紀』による。)文武天皇の朝で従四位下に改め授けられた。和銅元年、民部卿に任じられ、まもなく安倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)とともに平城京造営司の長官となり、位を重ねて従三位に進み、太宰帥(だざいのそち)となった。霊亀の初め、上言して「豊後・伊予二国の境には従来関所を置き、往来を許していない。しかし身分の上下には区別がなければならない。五位以上の者が使者として往来する場合は、この禁を限らないようにされたい。また薩摩・大隅二国が隼人を貢進する制度は、すでに八年を経ている。道は遠く隔たり、往来も不便である。父母が老いて病んでいたり、妻子が貧しく暮らしていたりする者もいる。六年で交替する定めにされたい。また帥以下の職員の事力については、和銅二年六月十七日の符により支給する綿を半減しているため、以来使役に堪える丁が乏しくなっている。すべての属官がこれに苦しんでいる。丁への綿の支給を停止し、事力の維持を図られたい」と述べた。いずれも許可された。養老元年、善政を褒賞され、綾・絹・絁・綿・布などを若干賜った。翌年、中納言に任じられ、まもなく大納言に転じ、正三位に進んだ。神亀の初め、封五十戸を加増され、長寿を寿ぐ杖(つえ)・絁・綿を賜り、従二位に進んだ。天平二年に薨じた。(注:『続日本紀』による。)使者を遣わして弔い、賻物を贈らせた。(注:『公卿補任』による。)

多治比家主

多治比家主(たじひのいえぬし)。子の家主(いえぬし)は、養老年間に出羽国司となり、上奏して「蝦夷は総勢五十二人、功績はすでに明らかであるのに、その恩賞はまだ及んでおりません。彼らは首を長くして待ち望み、久しく朝廷の恩恵を望んでおります。思いますに、香り高い餌の先には必ず深い淵の魚がかかり、手厚い禄を与えれば必ず忠節を尽くす臣が現れるものです。今、夷狄(いてき)はいまだ蒙昧ではありますが、はじめて朝命に馳せ参じております。長く慰撫しなければ、再び離散してしまうことを恐れます」と述べた。事情を具して裁可を求めたところ、勅によりそれぞれに応じて爵位を加賜された。天平年間、鋳銭長官となった。天平勝宝年間、天皇が東院に行幸された際、召し見えて従四位下を授けられた。天平宝字四年に卒した。(注:『続日本紀』による。)子の長野(ながの)は、(注:『公卿補任』による。)延暦年間、参議従三位に至った。(注:『続日本紀』による。)

道首名

道首名(みちのおびとな)は、位は追大壱であった。文武天皇の朝で律令の編纂に参与した。和銅の初め、勅を奉じて大安寺で僧尼令を講説した。和銅年間、位を進めて従五位下に叙され、遣新羅大使となり、帰国して筑後守となった。養老二年、正五位下に進み、卒した。(注:『続日本紀』による。)享年五十六。(注:『懐風藻』による。)首名は若い頃から律令を修め、吏務に習熟していた。筑後守として肥後の政務も兼ね治めた際には、産業を奨励し、耕作を教え督励し、野菜や果樹を植え、鶏や豚を飼うことに至るまで、細かく事の宜しきを尽くした。自ら常に見回り、教えに従わない者がいれば直ちに譴責したので、老いも若きもこれを怨み罵ったが、収穫の時になると、皆喜んで従わない者はなかった。また堤や池を築いて灌漑を広げた。肥後の味生池(あじうのいけ)や筑後各地の堤池はみなこれである。人々はその利益を蒙り、今に至るまで満ち足りている。それゆえ吏務を語る者は、皆首名を第一と称える。卒したとき、百姓は彼を祀った。(注:『続日本紀』による。)貞観年間、詔によりその政績を追褒され、従四位下を追贈された。(注:『三代実録』による。)宝亀年間、正五位下の佐伯国益(さえきのくにます)という者がおり、東山道に使いして損田を検分し、清廉勤勉の誉れがあって河内守となった。卒したとき、位一階を追贈され、その家に稲千束を賜った。延暦年間、神人為奈麻呂(かんとのいなまろ)が摂津国能勢郡の郡領となり、同時に近江国蒲生郡の大領佐々貴山由気比(ささきやまのゆけひ)、丹波国天田郡の大領丹波広麻呂(たんばのひろまろ)、豊後国海部郡の大領海部常山(あまべのつねやま)が、皆その職にあって怠らず、民を助けるに道があったので、詔によりそれぞれ外従五位下を授けられた。常陸国信太郡の大領物部志太大成(もののべのしだのおおなり)は、家財を出して百姓の急を救ったので、外従五位上を褒め授けられた。新治郡の大領新治大直(にいはりのおおなお)は、外従五位下に進んだ。播磨国明石郡の大領葛江馬養(かつらぎのうまかい)、下総国猨島郡の主帳孔王部山麻呂(あなほべのやままろ)は、ともに外正六位上とされた。あるいは官にあって怠らず大いに功績を著し、あるいは私財を分かち施して貧しい者を救った。事が朝廷に聞こえてこれを褒めたのである。(注:『続日本紀』による。)

石川年足

石川年足(いしかわのとしたり)は、大紫蘇我連子(そがのむらじこ)の曾孫である。祖父の安麻呂(やすまろ)は少納言小華下であった。父の石足(いそたり)は文才があった。(注:文才については『懐風藻』による。)和銅・養老の間、河内守・左大弁・太宰大弐を歴任した。天平元年、権参議となり、従三位に至った。年足は性格が清廉勤勉で読書を好み、政治の要諦に最も通じていた。仕官の初めに少判事に補せられ、しばしば地方の官を歴任した。天平年間、従五位下に叙され、出雲守となった。在官数年、百姓はこれに安んじた。天皇はこれを嘉して絁・布及び正税三万束を賜り、東海道巡察使とした。陸奥守に遷り、正五位上に進み、春宮員外亮に任ぜられ、左中弁を兼ね、従四位下に進んで春官大夫(しゅんかんのだいぶ)となった。これより先、詔により諸国に金光明寺・法華寺を造らせていたが、担当者が怠慢で長らく完成しなかった。そこで年足と従五位下阿倍小島(あべのおしま)、布勢宅主(ふせのやかぬし)らを分遣して検察させた。天平勝宝元年、従四位上に進み、式部卿として紫微大弼を兼ね、参議を拝した。この年、宇佐の大神が人に憑いて託宣し、京師に至りたいと告げた。この事が朝廷に聞こえ、年足は藤原魚名(ふじわらのうおな)らとともに神を迎える使いとなった。一月余りして神輿を奉じて京師に入った。五年、従三位に叙され、大宰帥となった。天平宝字元年、神祇伯に改められ、兵部卿を兼ね、中納言に任じられ、正三位に進み、文部卿を兼ね、勲十二等を賜り、勅を奉じて恵美仲麻呂(えみのなかまろ)らとともに官号を改め、それぞれ意見を上申するよう命じられた。年足は上表して「臣が聞くところ、官を治める根本は律令に固く拠り、政をなす要は格式によるべきものです。今、法の禁令は文書に著されておりますが、これを補う式の法はいまだ制定されておりません。伏して願わくは別式を作り、律令と併せ行われますように」と述べた。ついに別式二十巻を作り、その条目はそれぞれ本司ごとに分けられた。この書は施行されなかったが、当時はかなりその法が併用された。まもなく御史大夫となった。遷都に際して稲四万束を賜った。天平宝字六年に薨じた。享年七十五。摂津大夫佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、信部大輔大伴家持(おおとものやかもち)を遣わして弔い、賻物を贈らせた。(注:『続日本紀』による。)子は名足(なたり)。

石川名足

石川名足(いしかわのなたり)。名足は、天平宝字年間、下野・伊勢・備前の守を務めた。神護年間、備前守として上奏して「藤野郡は土地が痩せ、人々は殊に貧しく寒さに苦しんでおります。課役を割り当てるたびに、たちまち事が滞ります。この郡は山陽道の駅路に接し、西海道の幹線道にも連なっています。人は少なく役は多く、とても支えきれません。請うらくは、久郡の香灯郷(こうとうごう)、赤坂郡の珂磨(かま)・佐伯(さえき)の二郷、上道郡の物理(もどろき)・肩背(かたせ)・沙石(いさご)の三郷を割いて、藤野郡に隷属させたく存じます」と述べた。これに従った。景雲の初め、陸奥鎮守副将軍を兼ね、陸奥国伊治城(これはりじょう)が完成すると、正五位上を褒め授けられた。まもなく大和守に遷り、のち陸奥守となった。宝亀年間、民部大輔・太宰大弐・右大弁を歴任し、参議を拝した。延暦年間、播磨守を兼ね、従三位となり、左大弁となり、中納言に任じられ、兵部卿・皇后宮大夫・左京大夫・大和守を兼ねた。薨じたとき、享年六十一であった。名足は記憶力に優れ弁舌が達者で、物事の裁断に滞りがなかった。しかし性格はかなり偏狭で気短であり、人の過ちを咎めることを好み、議論が合わないと口を極めて罵った。そのため、諸司で官の裁可を求める者は、名足の応対に当たると、多くは言いたいことを言い尽くさずに退出した。(注:『続日本紀』による。)かつて勅を奉じて文武天皇から孝謙天皇に至る実録の編修に加わった。(注:『類聚国史』による。)年足の弟は豊成(とよなり)。

石川豐成

石川豐成(いしかわのとよなり)。豊成は、天平勝宝年間に右少弁・東山道巡察使に補せられた。天平宝字の初め、京畿内問民苦使(きんきないもんみんくし)となり、左中弁に補せられた。六年、従四位下を授けられ、右大弁に転じ、尾張守を兼ね、参議を拝した。神護の初め、太宰帥となり、従三位に進み叙された。上言して「賊を防ぎ辺境を守るには、もともと東国の兵を基本とし、多くの兵で威を示すには筑紫の兵だけに頼るべきではありません。今、筑前など六国の兵士を割いて防人とし、その残りを交替で上番させておりますが、屈強な者でないため、防備が難しくなっております。願わくは東国の防人を、旧のように配備されますように」と述べた。勅して「陸奥の城柵を修理するのに東国の労役を多く興しており、事情はこれとあれと相通じ、それぞれ適宜に取り計らうべきである。今聞くところ、東国の防人の多くが筑紫に留まっているという。よく調べて、まずこれを配備に充てよ。六国から徴発した数を調べ、その不足分を計算し、東国の人を選んで徴発し、三千の不足を埋めよ。これによって東国の労は軽くなり、西辺の兵は充足するであろう」とした。この年、畿内七道の巡察使に命じたが、西海道だけは大宰府に検察させ、まもなく宮内卿となった。宝亀の初め、右京大夫を兼ね、正三位を授けられ、中納言に任じられた。三年に薨じた。勅により使者を遣わして弔い、賻物を贈らせた。(注:『続日本紀』による。)

藤原岳守

藤原岳守(ふじわらのおかもり)は、従四位下三成(みつなり)の長子である。若くして大学に学び、史伝に通じ、草書・隷書を善くし、資質は寛容で穏やかであり、賢愚を問わず心を傾けて人と接した。天長年間、東宮であった仁明天皇に近侍し、応対や立ち居振る舞いが物静かで上品であったため、深く重んじられ内舎人となった。まもなく父の喪に服し、悲しみのあまり礼を過ぎるほどであった。仁明天皇の即位後、右近衛将監に任じられ、まもなく内蔵助に遷った。承和年間、従五位下に叙され、讃岐介を兼ね、左馬頭・左少弁を歴任したが、耳が不自由で聴き取りにくいことを理由に固く辞退した。太宰少弐として都を離れていたとき、たまたま元稹(げんしん)・白居易(はくきょい)の詩文集を手に入れて天皇に献上した。天皇は大いにこれを喜び、位を一階進めた。(注:『文徳実録』による。)数年後、都に入り左近衛少将となり、位を重ねて従四位下に進み、再び左馬頭となり、右近衛中将に抜擢され、美作守を兼ねた。嘉祥の初め、近江守に遷った。(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)すぐれた政績があり、百姓は喜んで従った。やがて任を退いて帰京すると、もはや栄進を望む心はなかった。世の論者はこれを高く評価した。仁寿元年に卒した。(注:『文徳実録』による。)子の滋柯(しげえ)は近江掾となった。(注:『尊卑分脈』による。)

清原有雄

清原有雄(きよはらのありお)は、崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい、注:草壁皇子への追号)の舎人の家系から出ている。(注:『皇胤紹運録』による。)父の貞代王(さだよおう)は従五位下大監物であった。有雄は品格と節操があり、政務に通じていた。式部卿葛原親王(かずらわらしんのう)に推薦されて正親佑(おおきみのすけ)となった。承和年間、従五位上に進み叙され、越前守となり、玄蕃頭・中務大輔を歴任し、摂津守に遷った。国内は安らかに治まり、民は喜んで従い、食糧も豊かで政治の教化は大いに行き渡った。嘉祥二年、治績が最も優れているとして従四位下を授けられ、肥後守に遷った。上奏して王氏から改姓することを願い出て、清原真人(きよはらのまひと)の姓を賜った。斉衡元年、従四位上に進み、在官のまま卒した。百姓はこれを追慕した。(注:『文徳実録』による。)

丹墀門成

丹墀門成(たじひのかどなり)は、父を豊長(とよなが)といい、内蔵助であった。門成は、弘仁の初め、少判事・大和大掾を歴任した。天長三年、従五位下を授けられた。まもなく丹波介となったが、その地の土民は粗暴で、古くから治めにくい地として知られていた。門成は性格が剛直で、厳しい政治で臨んだ。役所の前には笞や杖が積み重ねられるほどであった。数年のうちに、管内は大いに治まった。(注:『文徳実録』による。)承和年間、弾正少弼となり、刑部大輔に遷り、武蔵権守に任じられた。一年余りで正官となった。(注:『続日本後紀』による。)管轄は広く遠く、盗賊が横行していたが、門成が任に臨むと、まもなく風俗は引き締まり、悪党どもは影をひそめた。大和守に遷ると、権門豪族を厳しく取り締まり、憚るところがなかった。国内は穏やかに治まり、百姓はこれを敬い慕った。仁寿三年、正五位下に叙され、在官のまま卒した。門成は学問はなかったが、吏務に長け、赴任した先では必ず名声を挙げ、当時の人々はこれを称えた。(注:『文徳実録』による。)

春枝王

春枝王(はるえだおう)は、左京の人で、忍壁親王(おさかべしんのう)の子孫である。(注:『続日本紀』による。)父の仲嗣王(なかつぐおう)は従五位下であった。春枝は若くして嵯峨天皇に仕え、人となりは謙虚で吏務の才があり、篤く仏道を信仰した。承和の初め、越後介となり、政績は大いに著しかった。十年、新たに大喪(天皇崩御)に遭ったため、民を治める者を厳選することとなった。春枝はその選に入り、従五位下に叙され、能登守に任じられた。田野は荒れ果て、百姓は疲弊していたが、春枝は心を尽くして治め、在任数年で民は息を吹き返し、国内は大いに安定した。仁寿年間、中務少輔・正親正を歴任した。斉衡年間、従五位上に進み、下総守となったが、病のため赴任せず、隠居して病を養った。詔により節禄・位禄などを、現任の者と同様に支給された。三年に卒した。享年五十九。(注:『文徳実録』による。)子の岑王(みねおう)は、承和年間、清瀧真人(きよたきのまひと)の姓を賜った。(注:『続日本後紀』による。)

長岑高名

長岑高名(ながみねのたかな)は、右京の人で、幼くして大学に入り、二十一歳で文章生に補せられ、式部・民部両省の少録、少内記を歴任したが、貧しさのため地方官への転出を願い出た。天長元年、安房掾に任じられた。数年後、都に入って左右の少史を歴任し、左大史に転じた。(注:『文徳実録』による。)承和の初め、遣唐使判官となり、(注:『続日本後紀』による。)従六位上から外従五位下に進み、大膳亮・美作権介を兼ねた。(注:『文徳実録』による。○正六位上であったとするのは『続日本後紀』による。)大使藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)に従って唐に赴く道中、位を一階進めた。常嗣は船中の雑事をすべて高名に委ねた。当時、副使小野篁(おののたかむら)は太宰府まで来て、病と称して行かなかった。そのため高名は唐に至って大使に従って昇殿することができた。帰国後、位を一階進められ、伊勢権介に任じられ、正五位下に進んだ。特旨により召されて嵯峨院別当となった。山城・阿波の守を歴任し、伊勢守に遷り、(注:『文徳実録』による。)斎宮権頭を兼ね、(注:『続日本後紀』による。)播磨守に任じられた。斉衡年間、位を重ねて正四位下に進み、右京権大夫に任じられた。高名は清廉実直で公務に励み、前後七か国の国守を務め、政治は厳格公正を旨とし、百姓を煩わせることがなかった。常に子孫を戒めて「私はもとより清貧であり、家には一斗の蓄えもない。目を瞑る日には、必ず質素な葬儀にせよ」と言っていた。天安元年、在官のまま卒した。享年六十四。(注:『文徳実録』による。)

山田古嗣

山田古嗣(やまだのふるつぐ)は、左京の人である。父の益人(ますひと)は外従五位下勲六等、越前介であった。古嗣は生まれつき篤く孝行で、清廉謹直、口数が少なかった。幼くして母を失い、継母によく仕えた。かつて書物を読んで「樹静かならんと欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親在さず」の一節に至ると、涙を止めることができず、書物を涙で濡らした。のちに父の喪に服し、悲しみのあまり礼を過ぎるほどであった。天長年間、陸奥按察使記事となり、都に入って少内記・少外記を歴任し、大外記に転じた。公卿は常にこれに諮問した。古嗣は文人を推薦し、多くが登用された。(注:『文徳実録』による。)承和年間、位を重ねて従五位下に進み、(注:『続日本後紀』による。)阿波介となり、政治に評判があった。それまで阿波・美馬の両郡は毎年のように旱害に見舞われていたが、古嗣が任に着くと堤を築いて水を蓄え、灌漑に備えたので、民はその恩恵を受けた。仁寿年間、都に入って左京亮となり、従五位上に進み、相模権介に任じられ、在官のまま卒した。享年五十六。(注:『文徳実録』による。)

藤原高房

藤原高房(ふじわらのたかふさ)は、参議藤嗣(ふじつぐ)の子である。身長六尺、腕力は人並み外れていた。義気に富み、小事にはこだわらなかった。弘仁の末、右京少進となった。天長三年、式部大丞に遷った。翌年、従五位下を授けられ、美濃介に任じられた。威厳と恩恵を併せ用い、不正な口利きは通らなかった。奸悪を暴いて隠れた悪事を摘発したので、盗賊は息をひそめた。安八郡には堤や水路があったが、堤防が決壊していた。土地の人々は、この堤には神がいて水をせき止めることを望まず、逆らう者は死ぬと言い伝えており、そのため前任の国守もこれを憚って修復しなかった。高房は民を動員してこれを修復させて言った、「もし民のためになるならば、死んでも悔いはない」と。これにより灌漑が通じるようになり、後世までその恩恵を受けた。席田郡には巫女がおり、妖しい術を使って人の心臓を蝕むと称していた。その一味は広がり、民は害を被っていた。役人たちは恐れてその地域に立ち入ろうとしなかった。高房は単騎で駆け入り、これを捕らえて罪に問い、妖害はついに絶えた。備後・肥後・越前の守を歴任し、赴任先ではいずれも評判が高かった。仁寿二年に卒した。享年五十八。(注:『文徳実録』による。)子の山陰(やまかげ)には別に伝がある。

甘南備高直

甘南備高直(かんなびのたかなお)。父の清野(きよの)は、宝亀年間、大学大允として遣唐判官となった。(注:『続日本後紀』による。)延暦年間、肥前守、(注:『続日本紀』による。)兵部少輔、武蔵介を歴任した。高直は身長六尺二寸、若くして文章生となり、文章を善くし、琴や書を得意とした。大同・弘仁の間、太宰少監・西海道観察使判官・左近衛将監を歴任し、従五位下に叙され、位を重ねて陸奥・上野の介を歴任した。天長年間、常陸守に遷り、恵み深い政治を行った。たまたま採訪使が前任者の犯した罪を調べた際、高直も連座して政務を停止された。役人や民はその徳による教化に感じ入り、競って資財を贈った。高直はもとより嵯峨上皇の厚い信任を受けており、まもなく摂津守に任じられた。承和の初め、位を重ねて従四位下に進んだ。母の喪に服し、悲しみのあまり礼を過ぎ、ほとんど命を落としかけるほどであった。三年に卒した。享年六十二。(注:『続日本後紀』による。)

紀夏井

紀夏井(きのなつい)は、左京の人で、(注:『三代実録』による。)大納言古佐美(こさみ)の曾孫である。(注:『紀氏系図』による。)父の善岑(よしみね)は美濃守従四位下であった。夏井は人柄が温雅で才能があり、眉目は涼やかに整い、身長六尺三寸であった。承和の初め、隷書を善くしたことから、文章博士の職に就くのを待たれ、参議小野篁(おののたかむら)について筆法を学んだ。篁は感嘆して「紀三郎は真書の聖と称してよい」と言った。文徳天皇は即位すると、詔してこれを召し見た。衣服や履物は粗末で、左右の者は皆これを笑ったが、天皇は「これは疲れた駿馬である。お前たちの知るところではない」と言い、ついに格別の寵愛を受けた。嘉祥三年、権少内記となった。斉衡元年、美濃少掾を兼ねたが、異母兄の大枝(おおえ)にこれを譲った。翌年、大内記に転じ、従五位下を授けられ、右少弁に遷った。天皇はその清貧で住む家もないことから、邸宅を一区賜った。夏井は志操忠実で、時に諫言をなしたので、天皇はますますこれを重んじた。まもなく従五位上に進み、播磨介を兼ね、また式部少輔を兼ね、まもなく右中弁となった。性格は聡明で、事に臨んで滞ることがなく、天皇の恩寵は厚く、任用はますます重くなり、内外の政務の多くを助け益した。天皇が崩じると、讃岐守として都を離れたが、政治の教化が大いに行われ、役人も民もこれに安んじ、欺くことを忍びないほどであった。任期が満ちて帰ろうとすると、百姓は相率いて役所に押しかけ、留任を願い出た。さらに二年間留まった。民は豊かになり、倉庫は満ちた。そこで管内に新たに大倉を造り、総計四十棟、すべて籾のまま蓄えて非常の備えとした。任を去るとき、役人も民も贈り物をしたが、一切受け取らなかった。都に帰った後、贈り物はその家まで送り届けられたが、夏井は紙と筆だけを留め、残りはすべて送り返した。貞観七年、肥後守に任じられると、母の石川氏はこれを聞いて泣いた。理由を問うと、「聞くところによれば、肥後の風習では、国司が清廉であればあるほど、その身は無事では済まないという。我が子はきっと任期を全うできないだろう」と言った。夏井には異母弟の豊城(とよき)がおり、人となりは放縦で、たびたび厳しく戒められていた。豊城はこれを苦にして、大納言伴善男(とものよしお)に身を寄せた。善男が失脚するに及び、豊城は善男の一味とされた。夏井はこれに連座して土佐に流されることになり、密かに嘆いて「およそ法律にいう首謀者と従犯の罪には、必ず軽重の差があるはずだ。私は従犯の兄であり、これもまた連座である。それなのに首謀者と同じ遠流とは、何の区別もないではないか」と言った。それでも使者に従って都を出た。肥後の民は道をふさいで泣き、讃岐の国境を過ぎるときには、老若の百姓が道に出迎え、泣き声が数十里にわたって続いた。数年後、母が亡くなり、喪に服すること礼を過ぎるほどであった。草堂を建てて遺骨を納め、朝夕、生前と変わらぬように仕えた。日頃から仏教を篤く信仰し、毎日大般若経五十巻を読んで三年の喪を終えた。

夏井は多芸で、とりわけ囲碁を善くした。当時、伴少勝雄(とものすくないかつお)という者がおり、碁を善くしていた。延暦年間、その技をもって遣唐使の一員に選ばれた。夏井の父善岑が美濃守であったとき、少勝雄は介として仕えており、夏井はその時十余歳であった。少勝雄から囲碁を習い、一、二年のうちにほとんど師を上回るほどになった。また占いも善くした。文徳天皇が宮中の女官と「藏鉤(ぞうこう、注:鉤を隠して当てる遊戯)」の遊びをしたとき、密かに夏井に占わせた。夏井は筮竹(ぜいちく)を並べて卦を立てて「小さな女が青い衣を着て、頭に白い花を挿しています。鉤はその左手にあります」と言った。天皇が探ってみると果たしてその通りで、大いに喜んだ。また医薬にも精通し、土佐にいた頃、自ら山や沢に赴いて薬草を採り、調合して民間に施したところ、多くに効き目があった。ある人が中風にかかり、髪を振り乱して狂ったように走り回っていたが、夏井が一さじの薬を与えると、たちまち治った。その効き目はおおむねこのようなものであった。(注:『三代実録』による。)

南淵永河

南淵永河(みなぶちのながかわ)は、右兵衛佐槻本老(つきもとのおゆ)の孫である。もとの姓は坂田で、父の奈氐麻呂(なでまろ)は散位従四位下であった。永河は、嵯峨天皇がまだ即位前であった頃、朝野鹿取(あさののかとり)らとともに侍読(じどく)として書を講じた。大同の初め、少外記となった。天皇が即位すると、民部少丞に遷り、従五位下を授けられ、但馬介に任じられ、民部・治部の少輔を歴任し、位を重ねて右近衛少将に遷った。まもなく左右の中弁を歴任し、治部大輔に遷り、従四位下に叙され、内蔵頭に任じられ、特に勅により冷泉院別当となり、越前守を兼ねた。兄の正五位下弘貞(ひろさだ)とともに父の遺志を述べて、今の姓(南淵)を賜った。承和年間、太宰大弐となり、政治は仁愛を根本とし、民はこれを仰ぎ慕った。都に入って刑部卿を拝し、播磨・近江の守を歴任し、正四位下に進んだ。まもなく致仕した。仁寿の初め、朝廷はその老練を重んじ、格別に下野守を授けたが、赴任しなかった。ほどなく因幡権守に転じた。天安元年に卒した。享年八十一。(注:『文徳実録』による。)

子の年名(としな)は、天長の末、文章生に補せられ、少内記となった。仁明・文徳・清和・陽成の四朝に仕え、内外の官職を歴任し、(注:『公卿補任』による。)大納言正三位に至った。薨じたとき享年七十。小野に山荘を持ち、かつて老人たちを集めて尚歯会(しょうしかい、注:高齢者を敬い集う宴)を催し、後にこれに倣う者が多かった。(注:『古今著聞集』による。)

小野恒柯

小野恒柯(おののつねしな)は、右京の人である。父の滝雄(たきお)は出羽守正五位下であった。恒柯は若くして学問を好み、文才があり、とりわけ草書・隷書を得意とした。承和年間、少内記となり、大内記に転じ、美作掾・近江大掾を歴任し、はじめ太宰少弐となった。仁寿年間、右少弁となった。一年余りして播磨守に任じられた。政治は簡明を貴び、事を明らかに開いて示すことはなかった。性格は誇り高く傲慢で、振る舞いは自分の思うままにし、飾ることがなかった。書の巧みさは当代随一で、世の人々がこれを手本とし、その評価は非常に高かった。その筆跡を手に入れた者は、これを大切にしないことはなかった。貞観の初め、従五位上に進み、享年五十三で卒した。(注:『三代実録』による。)

橘良基

橘良基(たちばなのよしもと)は、左京の人である。(注:『三代実録』による。)左大臣諸兄(もろえ)の子孫である。祖父の常主(つねぬし)は参議であった。(注:『三代実録』。『公卿補任』も参照。)父の安吉雄(やすきお)は摂津守であった。良基は幼くして学問に篤く、早くから気概があり、政治の要諦に明るく通じ、清廉で身を正しく持していた。仁寿三年、左京少進に任じられた。数年後、民部少丞に遷った。天安の初め、太宰大弐正躬王(まさみおう)が属官を厳選し、良基を少監に望んだが、良基は望むところでないとして赴任を承知しなかった。天皇は怒り、その官を奪った。貞観元年、木工少允として起用され、式部少丞に招かれ、まもなく大丞に転じた。六年、従五位下を授けられ、伊予権介に任じられ、政治には能吏の評判があった。十一年、従五位上に叙され、常陸介に遷った。任期が満ちても、後任者が引き留めて赴任させなかった。十六年、朝議は良基に落ち度がないとして、位を重ねて越前守に抜擢した。元慶年間、正五位下に進み、丹波守に任じられ、政務の手腕で称えられた。従四位下に進み、信濃守に遷った。農耕を奨励し、租税を軽くしたので、家には余剰の蓄えができ、戸口は増え栄え、その治績は当代随一であった。しかしながら気性は出世を求めることに向き、控えめに身を守ることができなかった。また性格が強情で、人に譲ることがなかった。自分が嫌う者に対しては、たとえ同僚であっても容赦しなかった。仁和元年、管内の筑摩郡の民辛犬甘秋子(からいぬかいのあきこ)という者が、恨みを持つ坂名井子(さかないこ)・縄麻呂(なわまろ)らに住居を放火され、家族八人が焼死する事件が起きた。秋子は太政官に訴え出た。使者を遣わして取り調べたところ、縄麻呂らは罪を認めたので、縄麻呂らを禁固して都へ送らせた。ところが良基は故意に縄麻呂らを放置し、逆に秋子を捕らえ、縄麻呂らに他の物で秋子を殴打させ傷つけさせた。秋子が冤罪を訴えたため、太政官は符を下して秋子を釈放し、良基を譴責して「すでに勅使を遣わして取り調べさせたのに、もし食い違いがあれば、国には定まった法典がある。それなのに国司が勝手にその事を改めて行うとは、役人としての道が、どうしてこのようなものであってよいだろうか」と述べた。詔して少監物布勢敏行(ふせのとしゆき)に取り調べさせた。敏行が戻って復命するに、良基は詔の趣旨に逆らって抗弁したという。そこで良基を召して刑部省に下し、裁断が終わらぬうちに卒した。享年六十三。

良基はもとより清貧で、家には蓄えがなかった。中納言在原行平(ありわらのゆきひら)が絹布を贈って葬儀を執り行わせた。良基は五か国の守を歴任したが、任期を終えて帰るたびに、財貨を持ち帰らなかった。子孫には身を潔白に保つよう教えた。子の在公(ありきみ)がかつて国を治める術を尋ねたところ、答えて「たとえ百の術があろうとも、一つの清廉には及ばない」と言った。その節操はこのようなものであった。(注:『三代実録』による。)子の澄清(すみきよ)は、延喜年間、従三位中納言に至った。(注:『公卿補任』による。)澄清の子の忠正(ただまさ)は、従五位下に叙された。(注:『橘氏系図』による。)これより先、親王及び源・藤原・橘の各氏には、それぞれ氏長者(うじのちょうじゃ)の号があり、(注:『職原抄』による。)その氏で第一の人物がこれに就いた。(注:『江家次第』『職員抄』による。)ただ橘氏だけは衰微し、長者の号はあっても、学館院の所領を管掌するにとどまった。(注:『職原抄』による。)橘氏の叙爵はこれによって定められ挙げられた。(注:『江家次第』『西宮記』『職原抄』による。)いわゆる「是定(これさだ)」とは、ふさわしい人物を選んでこれに命じることである。(注:『職原抄』による。)摂津守藤原中正(なかまさ)の妻は澄清の娘であり、娘を生んで摂政兼家(かねいえ)に仕えさせ、大納言道隆(みちたか)を生んだ。それゆえ、道隆に是定となるよう詔した。(注:『公事根源』による。)これ以後、橘氏の叙爵は、すべて藤原氏に属することとなった。(注:『職原抄』『公事根源』による。)