卷之一百十一 列傳第三十八

藤原鎌足、蘇我倉山田石川麻呂、巨勢德太古、多治比島ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次8
  1. 藤原鎌足
  2. 蘇我倉山田石川麻呂
  3. 巨勢德太古
  4. 多治比島
  5. 多治比水守
  6. 多治比廣足
  7. 石上麻呂
  8. 石上乙麻呂

藤原鎌足

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)。藤原鎌足は、またの名を鎌子といい、本姓は中臣氏である。父は御食子(みけこ)で、小徳冠の位にあった。(注:系図による。『大鏡』には鎌足は常陸国に生まれたとある。『元亨釈書』には和州高市郡の人とある。『日本書紀』の舒明紀に中臣連弥気という人物が見えるが、御食・弥気は読みが通じるので、おそらく同一人物であろう。)その先祖は天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の輔臣であった。天児屋根命の孫である天種子命(あめのたねこのみこと)は神武天皇に仕えて功があり、祭祀を司った。(注:『神皇正統記』『職員鈔』による。)天種子命の八世の孫である大鹿島命(おおかしまのみこと)(注:系図による)は垂仁天皇の朝で大夫となった。(注:『日本書紀』による。)天皇が天照大神を祀る社を伊勢に建てた際、大鹿島命はその祭主に任じられた。(注:『職員鈔』による。)大鹿島命の十一世の孫である常磐大連(ときわのおおむらじ)は、欽明天皇の朝で初めて中臣の姓を賜った。常磐は可多能祜大連(かたのこのおおむらじ)を生み、御食子はその可多能祜の子である。(注:系図による。)

鎌足は皇極天皇三年、神祇伯を拝命したが、病と称してこれに就かず、退いて三島に住んだ。孝徳天皇がまだ即位せず潜龍の身であった頃、鎌足と親しく交わっていた。あるとき天皇が足の病で朝廷に出られなかったため、鎌足は宮中に参じて宿直した。天皇はもとより鎌足の容貌と気概の犯し難さを重んじており、特別に厚くもてなした。寵妃の阿倍氏に命じて別殿を清め掃かせ、新しい寝具を設け、必要なものはすべて調えさせた。鎌足はこの厚遇に深く感激し、そばに仕える舎人を通じて天皇を推戴する意志を伝えた。天皇は大いに喜んだ。

このころ、蘇我入鹿(そがのいるか)は臣下にあるまじき心を抱き、皇位を狙っていた。鎌足は憤然として世を正し救おうとする志を持ち、密かに皇族の中から事を成しうる主君を見定め、ついに天智天皇(中大兄皇子)に心を寄せたが、なかなか胸中を打ち明ける機会がなかった。ある日、天智天皇に従って法興寺の槻(つき)の木の下で蹴鞠をしていたところ、天皇の履が鞠とともに脱げ落ちた。鎌足はひざまずいてこれを捧げ、天皇もひざまずいてお受けになった。これより二人は親しくなり、互いに心の内をすべて打ち明け、隠すところがなくなった。しかし度重なる会合が人の疑いを招くことを恐れ、南淵先生(みなぶちのせんせい)のもとで周公・孔子の道を学ぶことを口実に、たびたび行き来しては道すがら密かに謀り、意見が合わないことはなかった。

鎌足は言った。「大事を成す者には、必ず補佐する者がいなければなりません。大王(おおきみ)は蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)と婚姻を結んで誼を通じ、その後に事を謀るのがよいでしょう。成功への道はこれより近いものはありません。」天智天皇は大いに喜んでこれに従った。鎌足は石川麻呂のもとへ赴いてその娘を天皇に差し出すよう説いた。これにより石川麻呂は真心から天皇に仕えるようになった。鎌足はさらに佐伯子麻呂(さえきのこまろ)、葛城稚犬養綱田(かつらぎのわかいぬかいのつなた)を推挙した。

皇極天皇四年六月、三韓(さんかん)が朝貢した。天智天皇は石川麻呂に告げた。「三韓が調を進める日、卿は上表文を読み上げよ。私はその隙に入鹿を討ち誅そうと思う。卿はその意図を心得ておくように。」石川麻呂は承諾した。

その日になり、天皇は大極殿に出御した。入鹿は人を疑うことの多い性質で、昼夜を問わず剣を帯びていた。鎌足は俳優(わざおぎ、道化役者)に入鹿を巧みに誘わせ、入鹿は笑って剣を解き、席についた。天智天皇は自ら長槍を執り、鎌足は弓矢を持って警備した。海犬養勝麻呂(あまのいぬかいのかつまろ)に命じて箱の中の二振りの剣を子麻呂と綱田に授け、入鹿を斬らせようとした。子麻呂は恐れのあまり、水で食事を流し込んでもすぐに吐き戻してしまった。鎌足はこれを叱咤して奮い立たせた。それでも子麻呂らはなお恐れをなして動こうとしなかった。天智天皇が自ら先に入鹿に斬りかかると、子麻呂らも相次いで進み出て、ついに入鹿を斬り殺した。その父の蝦夷(えみし)もまた誅殺された。

事が平定されると、皇極天皇は天智天皇に位を譲ろうとした。天智天皇はこれを鎌足に告げた。鎌足は言った。「古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は殿下の兄君です。いま殿下が順序を越えて皇位を継がれれば、謙譲の道理を失うおそれがあります。一方、軽皇子(かるのみこ)は殿下の叔父にあたられます。愚見では、軽皇子に位をお譲りになり、それによって民の望みに応えられるのがよいと存じます。」天智天皇はその言葉に従い、密かにこれを奏上した。かくして軽皇子が立てられ、これが孝徳天皇である。

孝徳天皇は鎌足を内臣(うちつおみ)とし、大錦冠を授け、封戸を千戸ほど加増した。(注:『日本書紀』による。『愚管抄』および「大織冠伝」にはいずれも二千戸とある。『続日本紀』天平宝字元年の条に、藤原仲麻呂が「淡海(おうみ)大津宮の帝は功田百町を私の曽祖父である藤原内大臣に賜った」と述べたとあり、その年の十二月、太政官の奏上に「大織藤原内大臣は乙巳の年の功により田百町を賜る」とある。乙巳の年とは大化元年のことである。仲麻呂が言う天智天皇から賜ったものと、文言は異なるが事柄としては同じことである。参考として付記しておく。)

天皇は詔して言った。「国家が安泰を得たのは、まことに公の力によるものである。軍事・国政の重要な事柄は、すべて公の裁量に任せる。」(注:『公卿補任』による。)鎌足は至って忠実な誠意を胸に抱き、諸官司の上に立った。人事の進退や制度の廃立について、その言葉が聞き入れられないことはなかった。白雉五年、紫冠を授けられ、封戸をさらに加増された。

天智天皇即位二年十月、鎌足は病に倒れた。天皇は自らその邸を訪ね、病状を見舞って言った。「天の道は仁ある者を助けるというが、これはなんと空しい言葉であろうか。善を積めばその報いがあるというのに、それもまだ現れていない。何か言いたいことがあれば、遠慮なく申すがよい。」鎌足は奏して言った。「臣は不才の身で、生きていても国政の役に立ちません。せめて死後は百姓を煩わせたくありません。葬儀は質素にしていただきたく存じます。」当時の人々はこの言葉を称賛した。

まもなく天皇は大海人皇子(おおあまのみこ)を邸に遣わして大織冠を授けさせ、大臣の位に任じた。(注:『日本書紀』による。)その位は左右の大臣の上に置かれた。(注:『公卿補任』『職員鈔』による。)藤原の姓を賜り、これにより藤原内大臣と称された。その翌日、鎌足は薨じた。天皇は再びその邸を訪れ、大錦上の位にあった蘇我赤兄(そがのあかえ)に恩詔を宣べさせ、金の香炉を賜った。(注:『日本書紀』の本文注に引く「日本世記」には、内大臣は五十歳で薨じ、山の南に殯(もがり)されたとある。碑には五十六歳とある。)

鎌足には二人の子がいた。長男は僧の定慧(じょうえ)で、唐に渡って留学した。(注:『元亨釈書』の定慧伝には、孝徳天皇の妃が懐妊六か月のときにこれを鎌足に賜り、生まれた男子が定慧であるという。『源平盛衰記』には天智天皇が妃を鎌足に賜って定慧が生まれたとあるが、いずれも確かな根拠がなく、ここでは採用しない。)次男は不比等(ふひと)で、別に伝がある。

鎌足は初め摂津の阿威山(あいやま)に葬られた。定慧は唐から帰国すると、大和の多武峰(とうのみね)に改葬し、その肖像を作って祀った。後世、国家に大きな変事が起ころうとするときには、その像が破裂し、朝廷は使者を遣わして祈らせたという。(注:「談峰縁起」による。その縁起には、初め鎌足は天智天皇と大和国倉橋山(くらはしやま)の藤の花の下で語らい、入鹿を誅する謀をめぐらしたため、その地を談峰(かたらいのみね)と名づけたという。鎌足はかつて定慧に語った。「談峰の地は、東は伊勢山に連なり、西は金剛山に対し、南は金峰山を界とし、北は大神山(おおみわやま)に隣り、その霊験のあらたかさは唐の五台山に劣らない。私が世を去った後は、ここに墓所を定めよ。さすればわが子孫は繁栄するであろう。」定慧は唐から帰国してこの言葉を思い出し、ついにその寺を廟楽寺(みょうらくじ)と改めたという。按ずるに、「談峰縁起」の作者は誰であるか分からない。ある説では藤原兼良(ふじわらのかねよし)の撰とする。そこに記された事跡は『日本書紀』とほぼ同じであるが、時に異なる点もあり、多くは怪しく根拠のない話に及んでいる。おそらく後人が『日本書紀』の文をかすめ取り、それに付会して作ったものであろう。そのためここでは採用しない。)

蘇我倉山田石川麻呂

蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)は、大臣蘇我馬子(そがのうまこ)の孫であり、倉麻呂(くらまろ)の子である。(注:系図による。)皇極天皇四年、中臣鎌足と謀を合わせ、蘇我入鹿を誅した。孝徳天皇が即位すると、右大臣を拝命した。阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)は左大臣を拝命し、二人はともに金の策(むち)を賜った。(注:『日本書紀』による。)左右大臣を置くのは、これに始まる。(注:『公卿補任』による。)倉梯麻呂の先祖は大彦命(おおひこのみこと)から出ている。(注:『姓氏録』による。)名を内麻呂(うちまろ)といい、また大鳥大臣とも称された。(注:『公卿補任』による。)

石川麻呂には異母弟の日向(ひむか)、字を身刺(むざし)という者がいた。大化五年、日向は石川麻呂を皇太子に讒言して言った。「私の兄石川麻呂は、殿下が海辺に遊びに出られるのをうかがい、凶逆を企てております。」皇太子はこれを信じ、天皇に奏上した。天皇は大伴狛(おおとものこま)、三国麻呂(みくにのまろ)、穂積嚙(ほづみのくい)らを遣わし、謀反の事実を糾問させた。石川麻呂は言った。「私は自ら宮中に参上して申し開きをしよう。」狛らがこれを奏上すると、天皇は兵を遣わしてその邸を包囲させた。

石川麻呂は二人の子、法師(ほうし)と赤狛(あかこま)(注:本文の注に名は奏(そう)とある)、道茅渟(みちのちぬ)を連れて倭(やまと)へ逃れた。これより先、長男の興志(こごし)は山田で仏寺を営んでいた。変事を聞いて今来(いまき)で石川麻呂を出迎え、寺の中へ導き入れた。興志は追手の兵に抵抗しようとしたが、石川麻呂はこれを許さなかった。それでも興志はなお兵を集め、小墾田宮(おはりだのみや)を焼き払おうとした。石川麻呂はその企てを聞いて言った。「お前は死ぬのが嫌なのか。」興志は「いいえ」と答えた。

そこで石川麻呂は興志と山田寺の僧たちに諭して言った。「そもそも人の臣たる者、人の子たる者が、どうして君に逆らい、父への孝を失うことがあろうか。私がこの伽藍を造ったのも、自分の身のためではなく、ただ天の恵みが末永く続くことを祈るためである。いま身刺の讒言によって身に覚えのない罪に陥り、ここに逃げてきたのは、心静かに死につくためである。日頃からの忠誠は、死んでも変わることはない。」そして仏殿の扉を開き、誓って言った。「願わくは生まれ変わるたびごとに、君に対して怨みを抱くことがありませんように。」そしてついに首をくくって死んだ。妻と三人の息子、一人の娘も共に死んだ。その他にも殉じて死んだ者が多くいた。

この日、大伴狛と蘇我日向は兵を率いて石川麻呂を追った。黒山(くろやま)に至ったとき、ちょうど土師身(はじのむ)と采女使主麻呂(うねめのおみまろ)が山寺から馳せてきて告げた。「石川麻呂はすでに妻子ともども首をくくって死にました。」そこで狛らは丹比坂(たじひさか)から引き返した。

翌日、大伴狛(木麻呂)、日向、穂積嚙は兵を率いて山田寺を包囲し、物部二田鹽(もののべのふつたのしお)に命じて石川麻呂の首を斬らせた。鹽は刀を抜いて先にその肉を裂き、それを掲げて衆人に示し、怒号しながら首を斬った。石川麻呂の事件に連座して斬られた者は、田口筑紫(たぐちのつくし)、耳梨道徳(みみなしのどうとく)、高田醜雄(たかたのしこお)、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)、秦吾寺(はたのあでら)など十四人、絞首刑になった者が九人、流罪になった者が十五人であった。

やがて石川麻呂の家財を没収し、その資産を調べたところ、良い書物にはすべて「皇太子の書」と記され、貴重な宝物にはすべて「皇太子の物」と記されていた。ここに至って皇太子は初めてその冤罪を悟り、恥じ悔いて嘆き悲しんだ。そこで日向を筑紫大宰帥(つくしのだざいのそち)に任じたが、実際にはこれは左遷であった。当時の人々はこれを「隠流(かくれながし)」と呼んだ。(注:『日本書紀』による。)

巨勢德太古

巨勢徳太古(こせのとこたこ)。(注:『日本書紀』によれば、あるいは徳陀(とこだ)とも、また徳太(とこた)とも書く。)雄柄宿禰(おがらのすくね)の七世の孫である。曽祖父の男人(おひと)は継体天皇の朝で大臣となった。(注:『公卿補任』による。)

皇極天皇二年、徳太古は小徳の位にあり、蘇我入鹿に与して、斑鳩宮(いかるがのみや)に山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲った。入鹿が誅殺されると、その一党は兵を集めて乱を起こそうと謀った。徳太古は天智天皇の命を受けてこれを説き、逆らうことと従うことの道理を諭したところ、賊の一党は潰え散った。

孝徳天皇の朝で小紫の位を授けられ、大化五年には大紫に進んだ。(注:『続日本紀』廃帝紀には、難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)の朝の大臣・大繡(だいしゅう)徳太古とあるが、『日本書紀』にはその大繡への昇進は記されていない。)左大臣となった。

白雉元年、新羅からの朝貢使である知万沙飡(ちまさそん)らが唐の服を着て筑紫に着いた。朝廷はその風俗をほしいままに変えたことを憎み、譴責して送り返した。徳太古は奏上して言った。「いま新羅を討たなければ、後に必ず悔いを残すことになりましょう。願わくは難波津から筑紫の海に至るまで、多くの戦艦を浮かべて威勢を盛んにし、新羅を召してその罪を問えば、彼らは必ず恐れ服するでしょう。」しかしこの議は結局実行されなかった。(注:『日本書紀』による。)

斉明天皇四年、薨じた。享年六十六。(注:『公卿補任』による。)

子の黒麻呂(くろまろ)は中納言・小錦中に至った。黒麻呂には二人の子があり、邑治(おうじ)(注:本文にはあるいは祖父(そぶ)とも書かれるが、音読みが通じる)と、小邑治(しょうおうじ)(注:『続日本紀』による)という。

邑治は、持統天皇の朝で監物(けんもつ)となったが、事に坐して官を罷免された。(注:『日本書紀』による。)後に参河守(みかわのかみ)に任じられ、務大肆(むだいし)を授けられた。大宝元年、粟田真人(あわたのまひと)に従って遣唐使の大位となり、後に播磨守(はりまのかみ)に任じられ、右大弁となった。養老二年、中納言に任じられ、まもなく摂津の摂官(せっかん)を兼ねた。神亀元年、正三位に進んだ。この年、薨じた。

小邑治は従五位上の位にあった。子の界麻呂(かいまろ)(注:界は開とも書く)は邑治の養子となり、その家督を継いだ。聖武・孝謙両天皇の朝で、たびたび昇進して従三位に至り、参議・紫微大弼(しびのだいひつ)となり、兵部卿を兼ねた。天平宝字二年、官名の改定に参与した。同五年、薨じた。(注:『続日本紀』による。)

多治比島

多治比島(たじひのしま)(注:『日本書紀』天武紀では多治比を丹比と書くが、音読みが通じる)は、上殖葉皇子(かみつうえはのみこ)の曽孫であり、多治比古王(たじひこのおう)の第四子である。(注:『続日本紀』『三代実録』による。第四子であることは『公卿補任』による。○『続日本紀』『公卿補任』では多治比王と書くが、ここでは『三代実録』に従う。)

多治比古王が誕生した夜、産湯を使わせたとき、多治比の花が飛んできて釜の中に浮かんだため、これにちなんで瑞祥の名とした。多治比古王が姓を賜りたいと願い出たところ、多治比公(たじひのきみ)の姓を賜った。名を姓としたのは、その旧縁を残すためである。(注:『三代実録』貞観八年の条による。)

天武天皇の朝で、島は筑紫大宰(つくしのおおみこともち)となり、公の姓を真人(まひと)に改められた。持統天皇の朝で、直広弐(じきこうに)から直広壱(じきこういち)に進み、封戸百戸を加増され、それまでと合わせて二百戸となった。持統天皇四年、正広参(しょうこうさん)に進み、右大臣を拝命し、封戸三百戸を加増され、それまでと合わせて五百戸となった。数年後、致仕(ちし、辞職)を願い出て、輿(こし)と杖を賜り、身の回りの世話をする資人(しじん)百二十人を許された。(注:『日本書紀』による。)

文武天皇の朝で左大臣となった。高齢を優遇され、霊寿の杖と輿を賜った。大宝元年、正二位を授けられた。同年七月、薨じた。享年七十八。(注:七十八歳であることは『公卿補任』による。)天皇は詔して三品(さんぼん)の刑部親王(おさかべしんのう)と正三位の石上麻呂(いそのかみのまろ)を遣わし、その邸で弔慰させた。

五人の子があり、池守(いけもり)、県守(あがたもり)、水守(みずもり)、広成(ひろなり)、広足(ひろたり)という。池守と県守には、それぞれ別に伝がある。

多治比水守

多治比水守(たじひのみずもり)。水守は大宝年間に尾張守(おわりのかみ)となった。当時、太上天皇(持統天皇)が参河(みかわ)へ行幸されようとして尾張に至った際、水守に封戸十戸を賜り、河内守(かわちのかみ)に転任させた。和銅の初め、近江守(おうみのかみ)となり、従四位下に至って政績があった。田十町、穀二百斛(こく)、衣一襲(かさね)を賜り、都に入って右京大夫となり、宮内卿に任じられた。和銅四年、卒した。(注:『続日本紀』による。)子の土作(つちつくり)(注:『公卿補任』による)は、参議・従四位上に至った。(注:『続日本紀』による。)

多治比廣足

多治比広足(たじひのひろたり)。広足は天平年間に、上総守(かずさのかみ)、刑部卿(ぎょうぶきょう)、兵部卿を歴任した。天平勝宝元年、中納言を拝命した。同二年、従三位を授けられた。天平宝字の初め、甥の犢養(こうしかい)、礼麻呂(いやまろ)、鷹主(たかぬし)が橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)に与した。勅が下されて言った。「広足は年老いてぼんやりし、甥たちを教え導くことができず、みな賊徒となってしまった。このような者が、どうして宰輔(さいほ、大臣)の地位にとどまれようか。官を辞して散位(さんい)として邸に帰るべきである。」天平宝字四年、薨じた。(注:『続日本紀』による。)

石上麻呂

石上麻呂(いそのかみのまろ)。本姓は物部連(もののべのむらじ)。大連目(おおむらじめ)の後裔で、衛部宇麻呂(えふのうまろ)の子である。(注:『続日本紀』による。○本文では宇麻呂を宇麻乃(うまの)と書き、『先代旧事本紀』では馬古(うまこ)とする。今『公卿補任』を考え合わせてこれを定めた。また『先代旧事本紀』によれば、馬古は孝徳天皇の時、大華上(だいかじょう)の位と氏の印・大刀・食封千煙(せんえん)を授けられ、神宮を奉斎したというが、『日本書紀』や他の書物には見えず、今は確かめようがない。)

壬申の乱で、天皇(大友皇子)が敗走した際、大臣以下の者はみな散り散りになったが、麻呂だけはこれに従った。天武天皇の朝で大乙上(だいおつじょう)を授けられ、遣新羅大使となった。翌年帰国し、小錦下(しょうきんげ)を授けられ、直広参(じきこうさん)に進んだ。(注:『日本書紀』による。)姓を今の石上の姓に改め賜った。(注:『姓氏録』による。)

持統天皇の朝で筑紫に赴いて新城(にいき)を監督した。まもなく直広壱(じきこういち)に進み、資人五十人を許された。(注:『日本書紀』による。)さらに直大壱(じきだいいち)に進んだ。文武天皇の朝で筑紫総領(つくしのそうりょう)となり、まもなく中納言を拝命した。大宝元年、正三位を授けられ、大納言となって太宰帥(だざいのそち)を兼ねた。(注:『源氏物語』の注釈書「河海抄」には、太宰帥を兼ねるのはこれに始まるとあるが、これは誤りである。)

慶雲元年、右大臣を拝命し、封戸二千百七十戸を加増された。和銅元年、たびたび昇進して正二位となり、左大臣に転じた。都を平城京に遷したとき、麻呂は難波京の留守を務めた。養老元年、薨じた。(注:『続日本紀』による。)享年七十八。(注:『公卿補任』による。)

天皇は深く悼み、朝廷の政務を停止し、式部卿の長屋王(ながやおう)と左大弁の多治比三宅麻呂(たじひのみやけまろ)を遣わして邸で弔慰させ、従一位を追贈した。人々は麻呂を慕い、その死を惜しまぬ者はなかった。また、その家に絁(あしぎぬ)百匹、糸四百絇(く)、綿千斤、布二百端を賜った。子は乙麻呂(おとまろ)。(注:『続日本紀』による。)

石上乙麻呂

物部乙麻呂(もののべのおとまろ)。乙麻呂は天平年間に丹波守(たんばのかみ)となり、左大弁に昇進した。久米若女(くめのわかめ)と密通した罪に坐し、土佐に流された。後に召し返され、西海道巡察使(さいかいどうじゅんさつし)、常陸守(ひたちのかみ)、右大弁を歴任し、中務卿(なかつかさきょう)に転じた。天平二十年、従三位を授けられた。天平勝宝元年、中納言を拝命した。同二年、薨じた。(注:『続日本紀』による。)

乙麻呂は人となり才知にすぐれ、物腰は穏やかで奥ゆかしく、経書に深く心を寄せ、あわせて詩文を愛した。(注:『懐風藻』による。)とりわけ和歌を好んだ。(注:『万葉集』による。)その配流の地にあっては、淵に臨み沢のほとりで詩を吟じ、心情を文藻に写して「銜悲集(かんぴしゅう)」二巻を著し、世に伝わった。天平年間、遣唐使を選ぶにあたって乙麻呂の右に出る者はなく、そのため大使に任じられ、人々はみな喜んで従おうとしたが、結局実現しなかった。(注:『懐風藻』による。)

宅嗣(やかつぐ)には、別に伝がある。