卷之二百卅一 列傳第一百五十八

逆臣

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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蘇我馬子

弒逆(しいぎゃく、主君や父を殺害すること)は人も神も共に憤るところであり、天地の許すところではない。ひとたび弒逆を犯す臣下が現れれば、人は誰でもこれを誅殺してよい。首領を保ち、天寿を全うして死ぬことができれば、それは幸運というべきである。異国の史書を見れば、臣下がその主君を弒する例は、代々絶えることがない。だからこそ欧陽脩(おうようしゅう)は『唐書』にその実例を書き起こし、元の史臣は『遼史』『金史』の二史に論評を連ねた。これらは皆『春秋』の精神を根本とし、生きている者には肝を冷えさせ、死んだ者にも骨を震わせるほど、厳しく断罪するものである。わが朝は皇統が栄え隆盛を極め、風俗・教化も清らかで美しく、二千年の間、弒逆という不祥事の恐れは全くなかった。あえて弒逆を行った者は、眉輪王(まよわのおおきみ)と蘇我馬子(そがのうまこ)の二人だけである。これはひとえに、代々の天皇が朝に日を、夕べに月を敬い祀られた徳の現れではないだろうか。眉輪王については皇子伝に付して、事実に基づきありのままに記したので、その実情はおのずと明らかである。婉曲に書き上げたわけではないが、事実を尽くして汚すことのないよう努め、この逆臣伝を作った。

蘇我蝦夷

蘇我馬子(そがのうまこ)は、大臣(おおおみ)稲目(いなめ)の子である。生まれつき武略を好み、また弁舌の才もあり、仏法を深く敬っていた。敏達帝元年、大臣となった。十三年、鹿深臣(かふかのおみ)と佐伯連(さえきのむらじ)(注:『日本書紀』にはいずれも名が欠けている)が百済に赴き、弥勒の石像および仏像各一体を得て帰国した。馬子はこれを求め、鞍部司馬達等(くらつくりのしめだちと)と池辺氷田(いけべのひた)を四方に遣わし、修行者を訪ねさせた。二人は播磨に至り、還俗していた高麗人の恵便(えべん)を得たので、馬子はこれを尊んで師とした。また善信(ぜんしん)・禅蔵(ぜんぞう)・恵善(えぜん)の三尼を出家させ、とりわけ篤く崇敬した。氷田と達等に命じて衣食を供給させ、邸宅の東に仏堂を造り、弥勒の石像を安置した。三尼を招いて盛大に斎会(さいえ)を催した。達等は斎の飯の上に仏舎利を得て、これを献じた。馬子は試しに鉄の砧(きぬた)と鎚(つち)で打ち砕こうとしたが、砧と鎚の方が砕けてしまい、舎利は少しも損なわれなかった。また水に投げ入れると、思うままに浮いたり沈んだりした。馬子・氷田・達等は大いに驚き異とし、ますます篤く仏法を修めた。さらに石川の邸宅にも仏殿を造った。こうして仏法がこの世に行われ始めた。十四年二月、大野丘の北に塔を建て、盛大な斎会を催し、達等らが献じた舎利を塔の柱の頂に納めた。馬子が病にかかったので、これを占わせたところ、占い師は「父稲目が祀っていた仏の祟りである」と言った。馬子はその占いの結果を奏上した。天皇は詔してその仏を拝み祀らせた。当時、国内では疫病による死者が多く、物部守屋(もののべのもりや)は仏法を滅ぼすべきだと奏上し、自ら寺に赴いて仏像や塔・仏殿を焼き払い、馬子とその一党を辱め、三尼を捕らえて禁錮した。馬子は泣いた。六月、馬子は「臣の病は久しく癒えません。三宝の力によらなければ治すことができません」と奏上した。天皇は詔して三尼を馬子のもとに返させた。馬子は大いに喜び、三尼を礼遇し、新たに精舎を営んでそこに住まわせた。敏達帝が崩御すると、群臣は殯宮(もがりのみや)で誄(しのびごと、故人を悼む言葉)を述べた。馬子は刀を帯びて誄を述べたところ、守屋は「矢に当たった鳥雀のようだ」と笑った。馬子はこれを恨んだ。次に守屋の番になると、守屋は手足を震わせたので、馬子は「鈴を懸けるとよかろう」と笑った。これより両者の怨みと憤りは次第に深まっていった。用明帝が即位すると、馬子は引き続き大臣となった。二年四月、用明帝の病が重くなり、詔して仏法を尊びたいとした。守屋と中臣勝海(なかとみのかつみ)は固く反対した。馬子は「ただ詔に従うべきである。誰がこれに異を唱えるのか」と言い、皇弟とともに豊国法師(とよくにのほうし)を宮中に引き入れた。守屋は大いに怒り、兵を集めて備えた。大伴比羅夫(おおとものひらふ)は弓矢を手に取り、馬子の槻曲(つきくま)の邸宅を守った。用明帝が崩御すると、守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を天皇に立てようと謀った。馬子は皇后炊屋姫(かしきやひめ)の命を奉じ、佐伯丹経手(さえきのにふて)・土師磐村(はじのいわむら)・的真嚙(いくはのまくい)に命じて穴穂部皇子を殺させた。その後、諸皇子や群臣に働きかけて守屋を除く謀をめぐらし、共に兵を率いて守屋を包囲攻撃した。守屋の軍は強く、味方の軍は三度退いた。馬子は厩戸皇子(うまやどのみこ、聖徳太子)とともに誓いを立てて勝利を祈った。馬子は「もろもろの天王・大神王らよ、我らを助けて勝たせたまえ。さすれば必ず寺塔を建立し、三宝を興隆いたします」と誓った。誓い終えると、兵を励まして進み戦った。迹見赤檮(とみのいちい)が守屋を射殺した。乱が平定されると、馬子は飛鳥に法興寺(ほうこうじ)を建立し、推古帝四年に完成した。天皇は詔して馬子の子善徳(ぜんとく)を寺司に任じた。(注:『日本書紀』による。)

崇峻帝が即位すると、馬子は以前と変わらず大臣であった。天皇は馬子が驕り高ぶり権力を専らにするのを深く嫌っていた。五年十月、猪を献上する者があり、天皇はその猪を指して「朕には憎む者がいる。いつかこの猪の首を斬るように、その者を斬りたいものだ」と言い、宮中に多くの武具を備えさせた。馬子はこれを聞いて大いに恐れ、一党を招き集め、ひそかに弒逆を謀った。(注:原本の注によれば、天皇の寵愛が衰えたことを恨んだ嬪(ひん)の大伴小手子(おおとものおてこ)が、天皇の言葉と武具を備えた事実を馬子にひそかに告げたともいう。)馬子は東国からの調(みつぎ)を進上すると偽り、ひそかに東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて天皇を弑させた。(注:『日本書紀』による。)宮中の人々は大いに驚き騒いだが、馬子は人を遣わしてこれを取り押さえさせた。こうして人々は初めて馬子の仕業であったことを知ったが、あえてこれを口にする者はいなかった。馬子は駒を深く厚遇し、豊かな贈り物をし、常に自分の寝所に出入りさせていた。(注:『水鏡』『聖徳太子伝暦』の例による。)駒はひそかに馬子の娘河上娘(かわかみのいらつめ)と密通し、こっそり妻としていた。(注:『日本書紀』による。)やがてこの事が発覚すると、馬子は大いに怒り、駒を庭の樹に縛りつけ、髪を枝に結びつけて射殺そうとし、その罪を責めて「賊め、驕り高ぶった愚か者め、たやすく天皇を弑するとは」と言った。駒は大声で「私はただ大臣がいることを知るのみで、天皇がいることなど知らなかった」と叫んだ。馬子はますます怒り、自ら剣を取って駒の腹を刺し、ついにその首を斬った。(注:『水鏡』『聖徳太子伝暦』による。)推古帝の時代、馬子はいよいよ権勢をほしいままにした。馬子が病になると、男女千人がそのために出家した。かつて皇太子(聖徳太子)とともに勅を奉じて、天皇記・国記および臣・連・伴造(とものみやつこ)らの本紀を編纂した。三十二年、馬子は阿曇連(あずみのむらじ)(注:原本には名が欠けている)と阿倍麻呂(あべのまろ)に命じて、「葛城県(かつらぎのあがた)は、臣の先祖の故郷であります。この県の名にちなんで氏としております。それゆえ、常々この県を賜って封戸としたいと願っております」と奏上させた。天皇は詔して、「朕は蘇我氏の出であり、大臣は朕の伯父(叔父)にあたる。大臣の言うことに従わないことはなく、夜であれば夜明けを待たず、昼であれば日暮れを待たずに従ってきた。しかし朕の代になって、たちまちこの県を失えば、後世の人は必ず『女性が天下に臨み、愚かにも軽々しく県邑(けんゆう)を失った』と言うであろう。そうなれば、朕が謗りを受けるだけでなく、大臣もまた不忠の名を被ることになる」と言い、ついに聞き入れなかった。三十四年、馬子は死去し、桃原(もものはら)に葬られた。馬子は飛鳥河のほとりに邸宅を構え、池を掘り島を築いたことから、島大臣(しまのおおおみ)と呼ばれた。(注:『日本書紀』による。)子は蝦夷(えみし)・倉麻呂(くらまろ)。(注:『日本書紀』舒明紀の注に、倉麻呂はまた雄当(おまさ)ともいい、原本には雄正(おまさ)とも書かれている。)倉麻呂には石川麻呂(いしかわまろ)・日向(ひむか)・連子(むらじこ)・赤兄(あかえ)の四子があった。(注:『蘇我系図』による。)連子は大紫(だいし)の位で大臣となった。(注:『公卿補任』による。)石川麻呂・赤兄にはそれぞれ別に伝がある。

蘇我入鹿

蘇我蝦夷(そがのえみし)は、推古帝三十四年に大臣となった。(注:『公卿補任』による。)世に豊浦大臣(とゆらのおおおみ)と称された。(注:○『先代旧事本紀』には「宗我島大臣が豊浦大臣を生んだ、名は入鹿という」とあるが、これは誤りである。)推古帝が崩御すると、田村皇子(たむらのみこ)と山背大兄王(やましろのおおえのおう)がそれぞれ遺詔を受けたとされたが、葬儀に至っても皇位継承者は定まらなかった。蝦夷は独断でこれを決めようとしたが、群臣が互いに支持し合って一致しないことを懸念し、阿倍麻呂と謀り、朝廷の臣たちを自邸に招いて饗応し、麻呂に「今、国家には主がいない。早く定めなければ、変事が起こることを恐れる。誰を立てて後継者とすべきか」と言わせた。そして遺詔の内容を挙げて、各自の考えを述べさせた。群臣の中であえて答える者はなかった。再三問うたところ、群臣の中には田村皇子を推す者もあれば、山背王を推す者もあった。ただ蝦夷の弟倉麻呂だけは、「今日のこの場で軽々しく発言すべきではない。よくよく考えた上で意見を述べるべきである」と言った。蝦夷はそこで衆議が一致しないことを悟った。山背王は蝦夷の意中が田村皇子にあることを察し、あえて争おうとしなかった。ただ蝦夷の叔父摩理勢(まりせ)だけは、あくまで山背王の即位を望んだ。蝦夷はその抵抗に怒り、兵を遣わしてこれを殺した。そして群臣とともに田村皇子を推戴した。これが舒明帝である。蝦夷は以前と変わらず大臣となった。皇極帝元年、夏から秋にかけて大旱魃(だいかんばつ)が起こった。諸国の県邑では、牛馬を殺して神々を祭る所もあれば、市を頻繁に移す所、河伯(かはく、水神)に祈る所もあったが、いずれも効験はなかった。蝦夷はこれに対し、諸寺で大乗経を読ませ、また大寺の南庭に仏菩薩と四天王の像を安置し、自ら香炉を手にして雨を祈ったが、それでも効験はなかった。この年、北越の蝦夷(えみし、蝦夷地の人々)が朝廷に参内し、朝廷で食事を賜った。蝦夷(蘇我蝦夷)もまた自邸で彼らを饗応し、自ら労をねぎらったが、蝦夷の横暴な取り立てはますます甚だしくなった。葛城の高宮(たかみや)に祖廟を建て、八佾(はちいつ)の舞(注:天子にのみ許される八列の舞)を行い、歌を作ってこれを歌わせた。国内および百八十部の人民を大々的に徴発し、今来(いまき)の地にあらかじめ二つの墓を築かせた。一つは大陵(おおみささぎ)といい自分の墓とし、もう一つは小陵(こみささぎ)といい子の入鹿の墓とした。蝦夷は人に「死んだ後は民を煩わせないでほしい」と言っていたが、実際には上宮(かみつみや、聖徳太子の宮)の乳部(みぶ)の民を集めて工事に当たらせ、休みなく使役した。上宮の大娘姫王(おおいらつめのひめみこ)は憤慨して、「蘇我の臣は国政をほしいままにし、無礼なふるまいが多い。天に二つの太陽がなく、国に二人の王がないように、どうして思うままに我らの民を大きく使役してよいのか」と嘆いた。これより両家の間に怨みが生じた。二年、天変地異がしきりに起こった。蝦夷が外出しようとすると、巫覡(ふげき、みこ・かんなぎ)たちが木綿(ゆう)を樹の枝に結びつけて、蝦夷が橋を渡るのを待ち構え、我先にと神託を告げ立て、騒がしくて聞き取れないほどであった。十月、蝦夷は病のため朝廷に出仕せず、私的に紫冠(しかん)を子の入鹿に授けて大臣に准じさせ、次男(注:原本には名が欠けている)を物部大臣(もののべのおおおみ)と呼び、祖母である物部氏の財産を元手に、大いに威勢を張った。翌年、蝦夷の大津の邸宅で木菟(みみずく)が子を生み、剣池(つるぎのいけ)の蓮に一本の茎に二つの萼(がく)をつけたものがあった。蝦夷は「わが家がまさに栄える瑞兆である」と言い、これを金文字で書いて法興寺に納めた。この時、巫覡たちがまた神託を告げた。古老たちはこれを世が移り変わる前兆だと言った。父子ともに逆心をますます強め、やがて入鹿が敗れると、蝦夷もまた誅殺された。(注:『日本書紀』による。)

蘇我入鹿(そがのいるか)は、名を鞍作(くらつくり)といい、また林臣(はやしのおみ)とも称された。人となりは荒々しく残忍であった。皇極帝の在位中、入鹿は国政を専らにし、その威勢と権力は父蝦夷を上回り、上下の者はみな震え恐れ、その厳しく苛烈なさまを憚った。蘇我氏はかねてより上宮の諸皇子と不和であり、入鹿は彼らを除いて古人大兄(ふるひとのおおえ)を天皇に立てようとした。古人大兄は舒明帝の子で、その母は馬子の娘である。二年、小徳巨勢徳太古(こせのとこだこ)と大仁土師娑婆(はじのさば)を遣わし、斑鳩(いかるが)の山背大兄王を襲わせた。王らは膽駒山(いこまやま)に逃げ隠れた。入鹿はこれを聞いて急いで兵を発し、高向国押(たかむこのくにおし)に命じて追撃させた。国押は「私は帝の御所を守る身であり、外に出ることはできません」と辞退した。そこで入鹿は自ら出向こうとした。古人大兄が急いでやって来て、「大臣はどこへ行かれるのか」と尋ねると、入鹿はその事情を告げた。古人大兄は、「鼠は穴に潜んでいれば生き、穴を失えば死ぬ」と言った。入鹿はそこで自ら行くのをやめ、軍勢を遣わして山背大兄王らを攻め殺させた。蝦夷はこれを聞いて怒り罵り、「ああ、入鹿の至って愚かなことよ。ほしいままに乱暴な振る舞いをして、これでは危ういではないか」と言った。翌年の冬、入鹿は甘檮岡(あまかしのおか)に三つの邸宅を造営し、蝦夷の家を宮門(みかど)と称し、自分の家を谷宮門(はざまのみかど)と称し、その子らを王子(みこ)と呼ばせた。邸宅の外には柵と門を構え、その脇に武器庫を作り、門ごとに水槽を一つずつ備え、木鉤(きこう、木製の鳶口のような道具)を数十用意して、火災に備えた。常に力士に刀を持たせて護衛させた。この頃、蝦夷は長直(ながのあたい)に命じて、大丹穂山(おおにおのやま)に氏寺の鉾削寺(ほこぬきでら)を建てさせ、また畝傍山(うねびやま)の東に邸宅を造らせ、城を築き池を巡らし、武器庫を建てて矢を蓄えさせた。外出のたびに五十人の兵士に身を取り巻かせて従わせた。屈強の若者たちを集めて東方儐従(やまとのわきさらい)と名づけた。また諸氏族の者を召し出して側近くに侍らせ、祖子孺者(おやこわらわ)と名づけた。漢直(あやのあたい)らは常に二つの門を守っていた。天智帝(中大兄皇子)はかねてより入鹿を深く憎んでおり、ついに藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と謀って入鹿を誅殺し、その遺骸を蝦夷の邸宅に送り届けた。これを受けて漢直らは一族を集めて蝦夷のために備えようとした。天智帝は将軍巨勢徳太古を遣わし、君臣の大義を説いて諭させた。高向国押は漢直らに、「我らは君の御子(入鹿)のために誅殺されようとしており、大臣(蝦夷)もまた戦いを避けられないだろう。今さら誰のために戦うというのか」と言い、武器を捨てて立ち去った。人々もこれに従って散り散りに逃げ去った。蝦夷は誅殺される間際に、天皇記・国記・宝物を取り出し、自ら焼き払った。船恵尺(ふねのえさか)はその燃え残った国記を拾い、天智帝に献上した。天智帝は蝦夷・入鹿の親族が遺骸を収めて葬り、哭泣(こくきゅう)することを許した。(注:『日本書紀』による。)