卷之二百卅二 列傳第一百五十九
諸蕃一 新羅上
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶太古の時代、天上の神々は日本国内の統治に専心しており、まだ国外にまで力を及ぼす余裕はなかった。素盞嗚尊(すさのおのみこと)がその子である五十猛命(いたけるのみこと)を率いて朝鮮半島の地を行き来し、樹木の種を蒔き育てさせたのが始まりである。そして稲飯命(いないのみこと)は、実は新羅国王の祖先にあたる。崇神天皇の御代には任那(みまな)の人々が朝貢するようになり、これ以後、渡来する者は日々増えていった。仲哀天皇九年、神功皇后が新羅を征討し、その王を許して飼部(うまかいべ、貢納に従う身分)とした。ちょうどこの頃、新羅の周辺にあった高句麗・百済も相次いで服属し、いずれも西方の藩屏となることを願い出た。朝廷はこれを受けて内官家(うちつみやけ)を定め、任那に日本府を置いて三韓を統轄させた。その後、粛慎(みしはせ)や渤海もまた日本の徳を慕って帰服してきた。おおよそ諸国から使者が訪れる際、誠意をもって忠誠を示す者には手厚くもてなして懐柔し、書状の言葉が無礼な者は太宰府から追い返した。また偽りをもって往来する者には信義を説いてこれを絶った。これは逆らう者を退け、従う者を受け入れるという道理による。蝦夷(えみし)は東北の辺境に住み、たびたび辺境を侵した。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東方を征伐して以来、彼らは教化に服して帰順したが、その気性は依然として荒々しく、しばしば騒擾を引き起こした。そこで鎮狄・征夷の官職を置いて、その跳梁を禁じ、暴発に備えた。帰化して内に従おうとする者は、それぞれの土地に住まわせてその性質のままに暮らさせ、騒ぎを起こさせないようにした。一方、女真や蒙古のように武力を頼んで辺境を侵す者に対しては、たちまち掃討し、間を置かず討ち滅ぼして、その害毒をほしいままにはさせなかった。ああ、神聖なる朝廷が遠方の民を懐柔する制度と、罪ある者を懲らしめる意図とは、これによって窺い知ることができる。今、記録に照らして確認できるものを、ここにまとめて列伝とする。
¶新羅(しらぎ)〈上〉 新羅はもともと辰韓(しんかん)の地であった。その位置は筑紫(つくし)の西北、馬韓(ばかん)の東南にあたる。当初は六つの部族があり、闕川楊山村(けっせんようざんそん)・突山高墟村(とつざんこうきょそん)・觜山珍支村(しさんちんしそん)・茂山大樹村(もざんたいじゅそん)・金山加里村(きんざんかりそん)・明活山高那村(めいかつざんこうなそん)と称した。のちに秦(しん)の労役を逃れた人々が韓の地に移り住み、韓はその東の境界百里の土地を彼らに与えた。その後さらに秦を逃れて移り住む者が増え、土地も次第に広がって辰韓と雑居するようになった。彼らの言葉には秦人の言葉に似たところが多く、そのため秦韓(しんかん)とも呼ばれた。全部で十二国あり、常に馬韓の人がその主となっていたが、新羅もその一つであった。土地は五穀の栽培に適し、養蚕も盛んであった(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。その風習では死者を最も忌み嫌い、亡くなった者については父母・兄弟・夫婦であっても、これを避けて自らその姿を見ようとしなかった(注:『日本紀』による)。
¶高墟村(こうきょそん)の長は蘇伐公(そばつこう)といった。楊山(ようざん)の蘿井(らせい)の林の中で馬の嘶(いなな)く声を聞き、行って見てみると大きな卵を得た。割ってみると中に赤子がいたので、これを引き取って育てた。やがて成長するにつれて聡明さが際立ち、六部族はこれを尊んで君主に立てた。時に年十三、名を赫居世(かくきょせい)といった。初めに得た卵が瓢箪(ひょうたん)に似ていたことから、辰韓の言葉で瓢箪を「朴(ぼく)」ということにちなんでこれを姓とし、居西于(きょせいう)と称した。これは王というのと同じ意味である。国号を徐羅伐(じょらばつ)とし、都城を築いてこれを金城(きんじょう)と号した。卞韓(べんかん)が来降し、国勢は次第に盛んになった。この年は崇神天皇六十一年にあたる(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。垂仁天皇三年、新羅の王子天日鎗(あめのひぼこ)が朝廷に参上し、真珠・玉・刀剣などの品を献上して、そのまま留まり帰国しなかった(注:『日本紀』による)。
¶赫居世が死去すると、その子の南解(なんかい)が立った。次次雄(じじゆう)と号し、あるいは慈充(じじゅう)とも称したが、これは方言で「巫(みこ)」を意味し、神に仕える者として敬われたことによる。南解は臨終に際し、子の儒理(じゅり)と娘婿の昔脱解(せきだっかい)に遺言して、「私が死んだ後は、朴・昔の二つの姓のうち年長の者が代わって位を継ぐように」と告げた。儒理は脱解に位を譲ろうとしたが、脱解は「聖人や智者には歯が多いと聞く。試しに餅を噛んでみよう」と言った。儒理の歯型は密で長かったため、そこで儒理を王に立て、尼師今(にしきん)と号した。これは方言で「歯型」を意味する。以後は常に歯の多い長者が位を継ぎ、尼師今と称するようになった。昔脱解を大輔(たいほ)とし、六部の名を改めた。楊山部は梁部(りょうぶ)として李(り)姓を、高墟部は沙梁部(さりょうぶ)として崔(さい)姓を、大樹部は漸梁部(ぜんりょうぶ)として孫(そん)姓を、于珍部は本彼部(ほんひぶ)として鄭(てい)姓を、加利部は漢祇部(かんしぶ)として裴(はい)姓を、明活部は習比部(しゅうひぶ)として薛(せつ)姓を、それぞれ名乗らせた。六部の女子を二組に分け、儒理の二人の娘がそれぞれ一組を統率した。毎年七月十六日から、二人の娘はそれぞれ部内の女子を率い、毎日早朝から部の庭に集まって紡績を行い、夜半になって解散した。八月十五日になると、その仕事の多寡を比べ、負けた側は酒食を用意して勝った側をもてなした。互いに歌い舞ったこの行事を「嘉俳(かはい)」と呼んだ。このとき初めて官位十七等を設け、伊伐飡(いばつさん)・伊尺飡(いしゃくさん)・匝飡(そうさん)・波珍飡(はちんさん)・大阿飡(たいあさん)と称し、いずれも真骨(しんこつ、王族の血筋)の者に授けた。以下、阿飡(あさん、重阿飡から西重阿飡まで)・吉飡(きつさん)・沙飡(さん)・級伐飡(きゅうばつさん)・大奈麻(だいなま、重大奈麻から九重大奈麻まで)・奈麻(なま、重奈麻から七重奈麻まで)・大舍(だいしゃ)・舍知(しゃち)・吉士(きっし)・大鳥(だいちょう)・小鳥(しょうちょう)・造位(ぞうい)と続いた。
¶儒理が死去すると、昔脱解(せきだっかい)が位に立った。脱解は多婆那国(たばなこく)の王子であり、その国は東の海の中にあった。王妃が一つの大きな卵を産んだため、これを不吉として櫃(ひつ)に納め、海に投げ入れた。櫃は流れ流れて韓(かん)の阿珍浦(あちんほ)に漂着し、一人の老婆がこれを拾い上げた。開けてみると赤子がおり、引き取って育てた。成長すると身の丈九尺、知恵は人並み外れていた。櫃が流れ着いたとき鵠(くぐい、白鳥)が付き従って鳴いていたことから昔(せき)氏を名乗り、櫃を解いて出てきたことから脱解と名付けられた。南解はその賢さを聞いて娘を娶らせた。ここに至り、儒理が死去して脱解が位に立ち、尼師今と号した。脱解は金城の西で鶏の鳴く声を聞き、瓠公(ここう)を遣わして確かめさせた。瓠公が城の西の始林(しりん)に至ると、金の櫃が木の梢に掛かり、その下で白い鶏が鳴いていた。脱解が命じて櫃を開けさせると、一人の小さな男の子が現れた。脱解は喜んで左右の者に「これは天が私に世継ぎを授けてくださったのではないか」と語り、引き取って育て、閼智(あっち)と名付けた。閼智とは俗語で「幼子」を意味する。金の櫃から出てきたことから金(きん)氏を名乗らせた。始林の名を鶏林(けいりん)と改め、これがそのまま国号となった。脱解が死去すると、儒理の子の朴婆娑(ぼくばさ)が位に立った。その死後は子の朴祇摩(ぼくしま)が立ち、その死後は子がなかったため儒理の長子朴逸聖(ぼくいっせい)が立った。その死後は子の朴阿達羅(ぼくあだつら)が立ち、その死後は子がなかったため脱解の孫の昔伐休(せきばっきゅう)が立った。その死後は孫の昔奈解(せきなかい)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。
¶仲哀天皇九年四月、神功皇后(じんぐうこうごう)は詔を下して西征を命じた。九月、諸国に船舶を用意させ兵を訓練させ、吉日を占って出発した。皇后は自ら斧鉞(ふえつ)を執って三軍を指揮した。十月、和珥津(わにのつ)から出航した。大魚が船に寄り添って進み、帆は風を受けて順調に進んだ。櫂(かい)や櫓(ろ)の力を借りることなく、たちまち新羅に到着した。海の潮が激しく打ち寄せて新羅の都にまで及んだ。新羅の君臣は皆「国が海になってしまうのではないか」と言い合った。まもなく皇后の軍勢が海を覆い尽くすほどに到着した。旗指物は日に映えて輝き、鉦や太鼓の音は山や海に響き渡った。新羅王の波沙寐錦(はさむきん)は(注:別の伝えでは宇流助富利智干(うるそほりちかん)とする。『三国史記』『東国通鑑』を考えるに、波沙寐錦とは婆娑尼師今(ばさにしきん)のことと思われるが、婆娑が位に立ってからすでに久しく死去しており、この年は昔奈解(せきなかい)が位に立って五年目にあたる。ここでは『日本紀』の記述に従い、みだりに改めない)、恐れ惑って心を失っていたが、やがて我に返って「東の方に神の国があり、日本という。そこには聖なる君主がおり、天皇という。これはその神の軍勢に違いない。とても敵うものではない」と言った。そして自ら白い組紐で両手を後ろに縛り、国の図籍を封じて、官軍の船の前に降参し、頭を地に叩きつけて「今より後は、飼部(うまかいべ)となることを願います。天地とともに永くこの身を卑しい役に供します。船の舵を乾かすことなく毎年春秋に馬の梳(くし)と鞭を献上し、男女の貢物も、海路の遠さを厭うことなく必ずお届けします。もしこの誓いに背くようなことがあれば、東の太陽が西から昇り、阿利那禮(ありなれ)の川の水が逆流し、川の石が天に昇って星となるでしょう」と述べた。さらに誓って「もし春秋の朝貢を怠り、梳と鞭の貢納を廃するようなことがあれば、天の神・地の神がともにこの身を罰し滅ぼすでしょう」と言った。群臣の中にはこの王を誅殺すべきだという者もあったが、皇后はこれを聞き入れず、新羅王の縛めを解いて許し、飼部とした。国の重宝の蔵を封じ、図籍・文書を接収した。皇后は手にしていた矛を新羅王の門に立て、後世への印とした。この矛は今なお残っている(注:『日本紀』による。『八幡愚童訓』『太平記』には、皇后が弓の弭(はず)で石の上に「新羅王は日本の犬なり」と記したとあるが、思うに皇后の新羅征討は罪を問うための軍ではなく、ただ降伏と朝貢を求めるものにすぎなかった。国王をこれほどまでに辱めるはずはない。この二書の記述が何に基づくものかは分からない。おそらく後世、火酢芹命(ほのすせりのみこと)の子孫である隼人(はやと)たちが犬の吠える真似をして奉仕したという故事に付会して生まれた説であろう)。皇后が凱旋するにあたっては、大矢田宿禰(おおやたのすくね)を留めてその地を鎮撫させた(注:『姓氏録』による)。波沙寐錦は波珍干岐(はちんかんき)の微叱許智(みしこち)を人質として差し出し、金・銀・綾・羅・絹など八十艘分を官軍に従えて貢上した。これ以後これを恒例とし、毎年八十艘分の調賦を貢納するようになった(注:『日本紀』による)。
¶乙酉の年、新羅は汙禮斯伐(おれいしばつ)・毛麻利叱智(もまりしっち)・富羅母智(ふらぼち)らを遣わして朝貢し、あわせて微叱許智(みしこち)の帰国を願い出た。しかし許されないことを恐れ、ひそかに微叱許智に偽りの奏上をさせて、「使者の汙禮斯伐・毛麻利叱智らが私に、『我が王はそなたが長く帰らないのを理由に、妻子をことごとく奴婢としてしまった』と告げてきました。どうか一時本国へ戻り、事の真偽を確かめてから帰参したく存じます」と言わせた。皇太后はこれを聞き入れ、葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)に送らせた。一行は対馬に着き、鉏海水門(さひのうみのみなと)に停泊した。このとき新羅の使者毛麻利叱智らは、ひそかに微叱許智を一艘の舟に乗せて逃がした。そして藁人形を寝台に横たえ、病人のふりをして襲津彦に「微叱許智は病でまもなく死にそうです」と告げた。襲津彦が人を遣わして見させたところ、欺かれたことが分かった。毛麻利叱智ら三人を捕らえて一つの檻に入れ、焼き殺した。そのまま新羅に至って蹈鞴津(たたらのつ)に陣を敷き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として捕虜を得て帰った(注:『日本紀』による。『東国通鑑』を考えるに、履中天皇三年、新羅では金実聖(きんじっせい)が位に立ち、奈勿(なもつ)の子である未斯欣(みしきん)を人質として朝廷に送った。允恭天皇七年、奈勿の子の訥祇(とっし)が実聖を殺して自ら位に立った。訥祇は弟の未斯欣に会いたいと願い、朴堤上(ぼくていじょう)にわざと罪を得させて日本へ亡命させ、訥祇は表向き未斯欣と堤上の家族を捕らえた。ちょうどそのとき国家が新羅に事を起こそうとしていたので、朴堤上と未斯欣を道案内として海島まで従わせた。堤上はひそかに未斯欣を船に乗せて逃がし、自らは捕らえられて焼き殺された。堤上は婆娑(ばさ)の五世の孫である。この話は『日本紀』の記述と非常によく似ており、微叱許智と未斯欣の音も近い。ただし年代がかなり下るので、ひとまずここに注記して参考に供する)。奈解(なかい)が死去すると、伐休(ばっきゅう)の孫の昔賁(せきふん)が位に立った。その死後は弟の昔沾解(せきてんかい)が立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。
¶丁卯の年、使者を遣わして朝貢した。この頃、新羅は百済の貢物を奪い取った。そこで使者を拘束して責め、千熊長彦(ちくまのながひこ)に命じて新羅王のもとへ赴かせ、その罪を問い質させた(注:『日本紀』による。『東国通鑑』を考えるに、戊辰の年、王が新羅を攻めてこれを破ったとある。これに先立ち、葛耶古(かつやこ)が新羅に使いし、于老(うろう)がその接待にあたった。于老は戯れに「いずれそなたの王を塩焼きの奴とし、王妃を賎しい下女としてやろう」と言った。天皇はこれを聞いて大いに怒り、この年の四月、于朱道(うしゅどう)に命じて討伐させた。沾解(てんかい)は袖村(そでそん)へ逃れた。于老は沾解に「今日のこの戦は私が招いたものです。どうか私一人でこれに当たらせてください」と願い出て、官軍の陣営に赴き、「先日の言葉は戯れにすぎません。まさか軍を煩わせて討伐を賜るとは思いませんでした」と述べた。官軍は于老を捕らえ、薪を積んで焼き殺した。後に我が国の使者が新羅に至った際、于老の妻は新羅王に願い出てひそかにその使者をもてなし、酔ったところを焼き殺した。于老は奈解(なかい)の子で、伊飡(いさん)角干(かくかん)舒弗邯(じょふつかん)であった。また『日本紀』の別伝を考えるに、神功皇后が初めて新羅を平定した際、棋王(きおう)宇流助富利智干(うるそほりちかん)が出迎えて拝礼したが、皇后はこれを捕らえて海辺に至り、その足の筋を切って石の上を這わせたのち斬り、砂の中に埋めた。そして一人を留めて新羅の宰(さい、代官)とした。王妃はこの新羅の宰を誘い出して問い、王の屍が埋められた場所を詳しく知った。そこで国人と謀ってこの宰を殺し、王の屍を掘り出して改葬した。宰の屍を取って王の棺の下に埋め、「尊卑の順序として、当然このようにすべきだ」と言った。皇后はこれを怒り、大軍を興して新羅を殲滅しようとした。新羅の人々はこれを恐れ、共に王妃を殺して謝罪した。今この二書を併せて考えると、その内容は非常によく似ている。おそらく葛耶古は葛城襲津彦を指し、宇流助富利智干は角干于老のことであろう。しかし古書にはそれぞれ誤りが多く、詳しくは考証しがたい。今はひとまずここに注記し、参考に供する)。
¶己巳の年、荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍とし、百済の将軍木羅斤資(もくらこんし)及び久氐(くてい)らを率いて新羅を討ちこれを破った。比自鉢(ひじほつ)・南加羅(ありひしのから)・彔国(とくのくに)・安羅(あら)・多羅(たら)・卓淳(たくじゅん)・加羅(から)の七国を平定し、さらに西へ軍を進めて古奚津(こけいしん)に至り、南方の異民族である忱彌多禮(とむたれ)を討ち滅ぼした。百済王も兵を率いて合流し、このとき比利(ひり)・辟中(へきちゅう)・布彌支(ふみき)・半古(はんこ)の四つの村は、その勢いを見て自ら服属した(注:『日本紀』による)。沾解(てんかい)が死去したが子がなく、娘婿の金味鄒(きんみすう)が位に立った。味鄒は金閼智(きんあっち)の六代の孫にあたる(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。壬午の年、葛城襲津彦を遣わし、兵を率いて新羅の貢納の欠如を責めさせた(注:『日本紀』による。本書の別伝が引く『百済記』には、新羅が美女二人を着飾らせて襲津彦を出迎えさせたところ、襲津彦はこれを受け入れてしまい、もはや攻め討つ意志を失い、逆に新羅のために加羅国を罰したとある。皇太后は大いに怒り、木羅斤資らに命じて加羅を鎮め安んじさせたという。ここでは採らない)。
¶応神天皇七年、使者を遣わして朝貢した。十四年、弓月君(ゆづきのきみ)が百二十県の人口を率いて帰化しようとしたが、新羅がこれを阻んで通さなかったため、弓月君はやむなく百済を経由して渡来し、その従民はことごとく加羅(から)に留め置かれることとなった。天皇は襲津彦に詔してこれを召還させようとしたが、襲津彦もまた新羅に阻まれて帰ることができなかった(注:『日本紀』による)。味鄒(みすう)が死去し、助賁(じょふん)の子の昔儒礼(せきじゅれい)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。十六年、天皇は平群木菟(へぐりのつく)と的戸田(いくはのとだ)に詔して重兵を率いて新羅の国境まで進ませ、襲津彦が帰らない事情を問い質させた。新羅はその罪に服した。木菟は襲津彦らとともに弓月の人々を連れて帰国した(注:『日本紀』による)。儒礼が死去し、助賁の孫の昔基臨(せききりん)が位に立った(注:『東国通鑑』による。『三国史記』では助賁の長子とする)。三十一年、使者を遣わして調賦を貢納させた。船は摂津(せっつ)の武庫水門(むこのみなと)に停泊した。このとき諸国も船を造って参集し、武庫に大集結していた。新羅の船から出火し、諸国の船に延焼した。新羅はこれを恐れて船大工を貢上した(注:『日本紀』による)。基臨が死去し、于老(うろう)の子の昔訖解(せききつかい)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。仁徳天皇十一年、使者を遣わして朝貢した。その者たちを使役して茨田堤(まんだのつつみ)を築かせた。十七年、的戸田(いくはのとだ)の子孫を遣わして貢納の欠如を責めさせた。訖解はただちに絹千四百六十匹と雑多な調賦八十艘分を貢納した(注:『日本紀』による)。訖解が死去し、金味鄒の弟未仇(みきゅう)の子の金奈勿(きんなもつ)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。五十三年、田道(たじ)を遣わして新羅の貢納の欠如を責め、あわせて「もし服従しないならば兵を挙げてこれを討て」と詔した。田道が精鋭を率いて進むと、新羅も果たして兵を出してこれを防いだ。田道は陣を固めて出撃せず、新羅の物見の兵一人を捕らえて敵情を尋ねた。その者は「百衝(ひゃくしょう)という力の強い者がおり、常に右軍の先鋒を務めています。今もし左を攻めれば敗れるでしょう」と答えた。田道は精鋭の騎兵を選んでその左を突き、新羅軍は果たして崩れ潰えた。そこで兵を放って乗じ、数百人を討ち取り、四つの邑の民を捕虜として連れ帰った(注:『日本紀』による)。奈勿が死去し、金実聖(きんじっせい)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。
¶允恭天皇三年、天皇が病に伏し、新羅に医師を求めた。実性(じっせい)は金波鎮(きんはちん)・漢紀武(かんきぶ)を遣わして来させた(注:漢祇部の人で姓は金、位は波珍飡、名は某という。ここでは旧来の記述に従い、みだりに改めない)。まもなく天皇の病は癒え、厚く賞を与えて帰国させた(注:『日本紀』『古事記』による)。実性は金奈勿(きんなもつ)の子の訥祇(とっし)に殺され、金訥祇が自ら位に立って麻立干(まりつかん)と称した(注:『三国史記』『東国通鑑』には、麻立干とは「橛(くい)」の意であるという。徐居正(じょきょせい)は、橛とは位を表す称号であると述べている)。四十二年、允恭天皇が崩御した。この頃新羅は長らく朝貢を怠っていたが、天皇の崩御を聞いて大いに驚き、ただちに使者を遣わして調賦八十艘分と楽人八十人を貢上させ、対馬に至って大いに哭泣した。難波津(なにわつ)に着くと、皆喪服をまとい、貢物や楽器を捧げ持ち、あるいは泣き、あるいは歌いながら殯宮(もがりのみや)に哀悼を捧げた。御陵の造営が終わると帰国した。その使者の中に、都の耳成山(みみなしやま)と畝傍山(うねびやま)の美しさを愛でる者がいて、琴引坂(ことびきさか)に至り、二つの山を振り返って「うねめはや(宇泥咩巴椰)、みみはや(彌彌巴椰)」と口にした(注:これはまだ日本の言葉に習熟していなかったため、畝傍山を訛って「うねめ」と言い、耳成山を訛って「みみ」と言ったものである、と『日本紀』にある)。このとき倭の飼部(うまかいべ)がこの言葉を聞き、采女(うねめ)に通じたのではないかと疑い、そのまま朝廷に奏上した(注:「畝傍」の字は「うねめ」と読み、「采女」と訓が通じるためである)。そこで使者たちをことごとく捕らえて取り調べた。使者は「都の二つの山を愛でて申したまでで、実際に采女を犯したことはありません」と申し開きをした。そこで釈放して帰らせた。訥祇はこれを聞いて大いに恨み、以後貢物の船の数を減らした(注:『日本紀』による)。訥祇が死去し、子の金慈悲(きんじひ)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。
¶雄略天皇が即位して八年になっても、新羅は朝貢しなかった。慈悲(じひ)は天皇の軍が討伐に来ることを恐れ、高句麗(こうくり)と誼(よしみ)を結んだ。高句麗は兵百人を派遣して新羅の守りを助けた。後に高句麗の兵士が休暇を得て帰国する際、新羅の人を馬の口取りとして使い、道々「そなたの国はいずれ我が国に併合されるであろう」と語った。新羅の兵卒はこれを聞き、病と偽ってしばらく遅れて逃げ帰り、この言葉を詳しく報告した。慈悲は高句麗が自国を狙っていることを知り、ひそかに国中に「どこにいても家の中の雄鶏をすべて殺せ」と命じた(注:『日本紀』による。『旧唐書』を考えるに、高句麗の人は頭に折れた鳳のような冠をかぶり、その形は弁(かんむり)に似て、士人は二枚の鳥の羽を挿していたという。新羅がひそかに触れ回ったのは、この高句麗人の姿を指してのことであろう)。国人はその意図を悟り、国内にいた高句麗人をことごとく殺した。ただ一人だけ逃げ延びた者がいた。高句麗はただちに兵を発し、まっすぐ新羅に攻め入って筑足流城(ちくそくるのさし)を包囲し、歌い舞って楽しんだ。金慈悲は夜、城の四方から聞こえる歌舞の声を聞いて、人を任那(みまな)に遣わして救援を求めた。日本府の行軍元帥である膳斑鳩(かしわでのいかるが)・吉備小梨(きびのおなし)・難波赤目子(なにわのあかめこ)がこれを救援に向かった。膳斑鳩は高句麗軍と十数日にわたって対峙し、奇策を用いてこれを大破した。新羅と高句麗、二国の怨みはこれより生じたのである(注:本書の注に、二国とは新羅と高句麗を指すとある)。斑鳩は慈悲に「そなたはこの上なく弱い国でこの上なく強い国に立ち向かった。もし官軍の助けがなければ、この国はもはやそなたのものではなかったであろう。今より後、どうして天朝に背くことができようか」と語った。九年、天皇は自ら新羅を親征しようとしたが、ちょうど神が「行ってはならない」と告げたため、これを取り止めた。そこで紀小弓(きのおゆみ)・蘇我韓子(そがのからこ)・大伴談連(おおとものかたりのむらじ)・小鹿火宿禰(おかひのすくね)に詔して将軍とし、新羅を討たせた。紀小弓らが天皇に暇乞いをすると、天皇は自ら車の轂(こしき)を押して労い、送り出した。小弓らは新羅に至り、郡県を次々に討ち破った。進んで彔地(とくち)に至ると、慈悲は数百騎とともに夜のうちに逃げ、小弓はこれを追って敵将を斬った。彔地はすでに平定されたが、残された民衆が屯集して降伏しなかった。小弓は大伴談連とともに兵を合わせてこれを攻めた。談は戦死し、小弓もまた病を得て亡くなった。諸将の意見が合わず、小鹿火が小弓の柩を守って帰国した(注:『日本紀』による)。金慈悲が死去し、子の金炤智(きんしょうち)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。二十三年、吉備尾代(きびのおしろ)が征新羅将軍となった。吉備国まで進んだところで天皇が崩御し、率いていた蝦夷が反乱を起こした。尾代はこれを討ち滅ぼし、そのまま新羅征討を行わずに帰った。清寧天皇三年、使者を遣わして朝貢した(注:『日本紀』による)。
¶継体天皇七年、汶得至(もんとくし)を使者として遣わし朝貢した(注:『日本紀』による)。金炤智(きんしょうち)が死去し、金奈勿(きんなもつ)の曽孫にあたる金智大路(きんちだいろ)が位に立った。新羅は赫居世(かくきょせい)の建国以来、徐羅伐(じょらばつ)と号したり、鶏林(けいりん)・斯羅(しら)・斯盧(しろ)と号したりして国号が定まっていなかった。また君主も居西于(きょせいう)・次次雄(じじゆう)・尼師今(にしきん)・麻立干(まりつかん)などと自称していたが、この時に至って国号を新羅と定め、初めて「王」と称するようになった。智大路が死去すると諡(おくりな)を智証(ちしょう)といった。新羅で諡を用いるのはこれに始まる。子の金原宗(きんげんそう)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。二十一年、これより先、新羅は任那を攻めて南加羅(ありひしのから)・彔己吞(とくことん)を奪っていた。この時に至り、近江毛野(おうみのけな)に詔して兵六万を率いさせ新羅を攻めさせ、南加羅・彔己吞などの侵略された地を取り戻させようとした。ちょうどこの頃、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)が反乱を起こし、新羅はひそかに磐井に助力していた。磐井は火(ひ)・豊(とよ)の二国に拠り、高句麗・百済などの貢物を掠奪し、海路を遮断したため、毛野は先に進むことができなかった。二十三年、加羅の多沙津(たさのつ)を百済に与えた。加羅王の阿利斯(ありし)はこれを恨み、新羅と誼を結んで金原宗の娘を娶ったが、その従者は皆新羅の服を身につけていた。阿利斯はこれに怒り、ことごとく追い払った。金原宗も怒って娘を返すよう求めたが、阿利斯はこれに応じなかった。金原宗は加羅を攻めて八城を落とした。そこで再び近江毛野に詔して「新羅に勅諭し、加羅・彔己吞の地を返還させよ」と命じた。毛野は安羅(あら)に至り、新羅王を召し出した。新羅はたび重なる蕃国の官家の破壊によって大いに危惧の念を抱いており、小臣の夫智奈麻禮(ふちなまれ)・奚奈麻禮(けいなまれ)らを遣わして詔旨を聞かせた。このとき任那王の己能末多干岐(このまたかんき)が朝廷に参上し、新羅がたびたび境界を越えて我が蕃国を侵略していると奏上した。そこで毛野に詔して新羅に宣諭させ、任那から奪った地を返還させようとした。毛野は熊川(ゆうせん)に至り、新羅・百済両国の王を召し出した。新羅王の佐利遅(さりち)は(注:『三国史記』『東国通鑑』によれば新羅王の名は金原宗とあるが、ここでは本書に従い改めない)、久遅布礼(くちふれ)を遣わして詔を受けさせた。毛野は新羅王が自ら来なかったことを責め、その使者を送り返した。新羅は改めて上臣干岐(じょうしんかんき)の伊叱夫礼智(いしふれち)を遣わし、三千の兵を率いて詔旨を聞かせた。多多羅原(たたらのはら)に三月にわたって滞留していると、伊叱夫礼智の部下は食糧が乏しくなり、乞食に出る者もあった。毛野の従者である母樹御狩(おもきのみかり)がある人家に身を潜め、その者が通り過ぎるのを待って戟(ほこ)の手で撃った。乞食に出た者は「詔を待つこと三月、いまだに勅を聞くことができない。これは我らの上臣を誘い出して殺そうとしているのだ」と言った。そのままこれを伊叱夫礼智に告げた。伊叱夫礼智は殺されて辱めを受けることを恐れ、ついに多多羅など四つの村を掠奪して立ち去った(注:『日本紀』による。本書の別伝には金官(きんかん)・背戊(はいぼ)・安多(あんた)・委陀(いだ)の四村とある)。金原宗が死去し、諡を法興(ほうこう)といった。弟の立宗(りっそう)の子である金彡麥宗(きんさんばくそう)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。
¶欽明天皇元年、使者を遣わして朝貢した。十二年、百済の兵と合流して高句麗を攻めた。百済がまず平壌(へいじょう)を攻め破り、漢城(かんじょう)の六郡の地を奪い取った。新羅はその勝ちに乗じて、高硯(こうけん)より内側の十郡の地を奪い取った(注:『日本紀』『東国通鑑』による)。十三年、百済は平壌・漢城を放棄した。新羅はこれによって牛頭方(ぎゅうとうほう)・尼頭方(にとうほう)を奪い、漢城に入って居住した。十五年、百済王の明(めい)が函山城(かんざんじょう)を攻めて焼いた(注:『東国通鑑』では管山城(かんざんじょう)とする)。百済の王子余昌(よしょう)が再び兵を率いて攻め、久陀牟羅塞(くだむらのさし)に陣を敷いた。百済王明が兵を率いて追いついた。新羅は明が来たと聞き、国中の兵を大いに発してその背後を断ち、大いにこれを破った。奴卒(どそつ)の苦都(くと)が(注:本書の注に、また谷智(こくち)ともいい、『東国通鑑』では稗将(ひしょう)高干都力(こうかんとりょく)とする)百済王明を捕らえ、その他にも討ち取り捕らえた者は非常に多かった。余昌は身一つで逃れ、新羅はその勢いに乗じて追い詰めようとしたが、ある将が「それはいけません。日本の天皇は任那の一件で我が国を憎むこと久しく、今もし百済の官家までも滅ぼせば、必ず後の禍を招くことになりましょう」と言ったため、これを取り止めた。十一年、於至己智奈末(おちこちなま)を遣わして調賦を献上させ、通例を超えるもてなしを賜った。於至己智は大いに喜んで帰り、「調賦の使者は国家にとって重要な役目でありながら、世間ではこれを軽んじております。しかしその進退のうちに、百姓の命運が実にかかっているのです。もし人選を誤れば、国の命令を辱めるだけでは済みません。禍乱の起こる原因は、必ずやこれによるものでしょう。今より後は、その人選を重んずるべきです」と述べた。彡麦宗(さんばくそう)はこれを嘉(よみ)した。二十二年、久礼叱(くれいしつ)及伐干(きゅうばつかん)を遣わして調賦を献上させたが(注:及伐干とは及伐飡(きゅうばつさん)のことである)、司賓(しひん、接待役)のもてなしはいつもより粗略であった。久礼叱は怒り、暇乞いもせず帰ってしまった。この年、改めて奴氐(ぬてい)大舎(だいしゃ)を遣わして先の調賦を献上させた。接待役の額田部(ぬかたべ)某は奴氐の席を百済の下に置いた。奴氐は怒って客館に入ろうとせず、そのまま帰って穴門(あなと)に至った。ちょうどそのとき穴門の客館を修繕していたので、奴氐が「何のために修繕しているのか」と尋ねると、工匠の河内押勝(かわちのおしかつ)は「西方の無礼な使者を詰問するために整えているのだ」と偽って答えた。奴氐は急いで帰路につき、この言葉を本国に伝えた。そこで新羅は阿羅波斯山(あらのはしやま)に城を築いて備えた。二十三年、任那を攻め取った(注:『東国通鑑』には大伽耶(たいかや)を滅ぼしたとある。詳しくは「任那伝」に記す)。大将軍紀男麻呂(きのおまろ)に哆唎(たり)へ、副将軍河辺瓊缶(かわべのにえ)に居曽山(こそやま)へそれぞれ出陣を命じ、任那を滅ぼした罪を問い質させた。男麻呂の軍が任那に至り、薦隼部登弭(こもはやひとのとみ)を百済に遣わして軍事の打ち合わせをさせたが、登弭がその文書を途中で落とし、新羅がこれを手に入れて軍の計画を詳しく知り、にわかに兵を発して攻めてきた。男麻呂はこれを撃ち破り、軍をまとめて百済に入った。河辺瓊缶は単身で軽々しく進んだため、ついに捕虜となった。調伊企儺(つきのいきな)もまた捕らえられたが、屈することなく死んだ。秋、新羅は使者を遣わして調賦を献上した。使者は朝廷が新羅の任那滅亡に怒っていることを知り、恐れて帰国を願い出ることができず、そのまま河内(かわち)の更荒郡(さらのこおり)に編入されて民となった。冬にも使者を遣わして貢納したが、その使者もまた留められて帰らず、摂津(せっつ)の三島郡(みしまのこおり)に編入されて民となった。三十二年、坂田耳子郎君(さかたのみみこのいらつきみ)を新羅に遣わした。夏、天皇が崩御し、新羅を討って任那を再興するようにとの詔が遺された。新羅の使者の未叱号失消(みしこしっしょう)らが国喪を弔いに来て、殯宮に哀悼を捧げた(注:『日本紀』による)。
¶敏達天皇三年、使者を遣わして貢納した。四年、新羅がいまだ任那を再興しないため、難波磐金(なにわのいわかね)を遣わして(注:本書では金子(かねこ)とし、あるいは単に金(かね)とも記す。ここでは推古天皇六年の記述に従う)新羅に使いさせた。この年、使者を遣わして調賦を貢納させたが、通例より多かった。またこれとは別に多多羅(たたら)・須奈羅(すなら)・和陀(わだ)・発鬼(ほちき)の四つの邑の調を献上した(注:『日本紀』による)。五年、彡麦宗が死去し、諡を真興(しんこう)といい、子の金輪(きんりん)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。八年、枳叱政奈末(きしっしょうなま)を遣わし、調賦及び仏像を献上した(注:『日本紀』による)。この年、金輪が死去し、諡を真智(しんち)といい、兄の銅輪(どうりん)の子である金伯浄(きんはくじょう)が位に立った(注:『東国通鑑』による)。九年、安刀末(あんとうまつ)・失消奈末(しっしょうなま)を遣わして朝貢したが、受け取らずに送り返した。十一年、再び安刀末・失消奈末を遣わして朝貢したが、またも受け取らなかった。十二年、使者を遣わして貢納した。十三年、難波木蓮子(なにわのいたび)を新羅に遣わした。崇峻天皇四年、紀男麻呂・巨勢比羅夫(こせのひらふ)(注:『聖徳太子伝』では巨勢臣猿(こせのおみさる)とする)・大伴嚙(おおとものくい)・葛城鳥奈良(かつらぎのとりなら)を将軍とし、二万余りの兵を率いて新羅を征討させた。筑紫まで進んだところで、まず難波磐金を新羅に遣わし、任那の再興を告げさせた。翌年、天皇が弑逆(しいぎゃく)に遭って崩御したため、軍を発することができず、筑紫に留まった(注:『日本紀』による)。
¶推古天皇五年、再び難波磐金を新羅に遣わした。六年、孔雀一羽を献上した。八年、新羅が任那を攻めた(注:新羅はすでに任那を滅ぼしていたのに、ここで再び任那を攻めたというのは疑わしい。おそらく朝廷が兵威をもって迫ったため、新羅は任那の旧地を取り戻されることを恐れたのであろう。今は詳らかにできない)。そこで境部(さかいべ)某を大将軍、穂積(ほづみ)某を副将軍とし、一万余りの兵を率いて新羅を攻め、五つの城を落とした。金伯浄は白旗を掲げて官軍の陣営に赴き、多多羅・素奈羅・弗知鬼(ほちき)・委陀・南迦羅・阿羅羅の六城を割いて降伏したいと願い出た。境部らは急使を送って上奏し、難波神(なにわのかみ)を新羅に遣わして情勢を調べさせた。伯浄もまた使者を遣わして「天には神があり、地には天皇がおられます。この他に何を恐れることがありましょうか。今より後、両国は和親し、二度と互いに攻めることはいたしません。船の舵を乾かすことなく、毎年朝貢いたします」と奏請した。そこで詔して軍を退かせた。しかし新羅はまた任那を侵した。九年、間諜の迦摩多(かまた)が対馬に到り、捕らえて上野(こうずけ)に流し、新羅討伐について詔議した。十年、来目皇子(くめのみこ)を征新羅大将軍とし、二万五千の兵を率いて筑紫まで進み、船や軍糧を整えさせた。翌年、来目は病で薨去し、当麻皇子(たいまのみこ)がこれに代わった。ところがその妃の舎人姫(とねりひめ)が急に薨去したため、遠征は果たされなかった。十六年、新羅人の帰化する者が多かった。十八年、沙彔部(されべ)(注:『三国史記』『東国通鑑』によれば、沙彔部はおそらく沙梁部(されりょうぶ)の訛りであろう)奈末竹世士(なまちくせいし)を遣わして貢納させた。十九年、沙彔部奈末北叱智(ほくしっち)を遣わして朝貢させた。二十四年、奈末竹世士を遣わして仏像を貢上させた。二十九年、奈伊弥買(ないみばい)を遣わして表を奉り朝貢させた。新羅が表を奉るのはこれに始まる。三十一年、奈末智洗爾(ちせんじ)を遣わして朝貢させ、あわせて仏像・金塔・舎利・大小の幡(はた)を献上した。この年、新羅は任那を攻めて再びこれを奪った。詔して新羅討伐を議した。そこで難波磐金を新羅に、吉士倉下(きしのくらじ)を任那に遣わした。伯浄は八人の大夫を遣わして「任那は小国であり、天皇の附庸国であります。伯浄がどうしてこれを自らのものにできましょうか」と申し開きをし、奈末智洗遅(ちせんち)と任那人の達率(だつそつ)奈末遅(なまち)を遣わして両国の調賦を貢納させた。この使者がまだ到着しないうちに、大徳境部雄摩呂(さかいべのおまろ)・小徳中臣国(なかとみのくに)らが数万の軍勢を率いて新羅を討った。伯浄は恐れおののき、表を奉って謝罪した。詔してこれを許した。もともと磐金が新羅に赴いた際、新羅は飾り立てた船一艘で港に出迎えて労った。磐金が「これはどこの国の船か」と問うと、「新羅の船です」と答えた。磐金が「どうして任那の船がないのか」と言うと、その場でさらに一艘を加えた。これより出迎えの船は二艘とすることが始まった(注:『日本紀』による)。舒明天皇四年、伯浄が死去し、諡を真平(しんぺい)といったが、子がなかった。国人はその長女の徳曼(とくまん)を王に立てた(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。使者を遣わし、入唐使の三田耜(みたすき)や唐の使者高表仁(こうひょうじん)らを送らせた。十年、使者を遣わして朝貢した。十一年、使者を遣わして入唐学問僧の恵雲(えうん)らの帰国を送らせた。使者に冠位一級を賜った。十二年、使者を遣わして朝貢させ、あわせて入唐学生の高向(たかむこ)・玄理(げんり)らの帰国を送らせた。使者に爵位一級を賜った。皇極天皇元年、草壁真跡(くさかべのまと)を新羅に遣わした。徳曼は即位を賀す使者と大喪を弔う使者の二人を遣わして朝廷に参上させた(注:『日本紀』による)。
¶孝徳天皇大化元年・二年と、たびたび朝貢した。小徳高向玄理(たかむこのげんり)を遣わして新羅から人質を徴し、あわせて任那の調を廃止するよう詔した(注:『日本紀』による。前年、百済の使者が任那の調の使者を兼ねていたため、これを責めて送り返した。この時に至って任那の調を廃止したのは、朝廷が任那の独立が不可能であることを知り、結局新羅にこれを領有させることにしたため、代わりに人質を徴したのであろう)。三年、徳曼(とくまん)が死去し、諡を善徳(ぜんとく)といい、金伯浄の弟である国飯(こくはん)の娘の勝曼(しょうまん)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。上臣大阿飡(たいあさん)の金春秋(きんしゅんじゅう)を遣わし、高向玄理に従わせて人質として入らせ、孔雀と鸚鵡(おうむ)各一羽を献上した。春秋は容姿が美しく、談笑にも巧みであった。四年、朝貢した。五年、小花下三輪色夫(みわのしこぶ)・大山上掃部角麻呂(かにもりのつぬまろ)を新羅に遣わし、沙彔部沙飡(さん)の金多遂(きんたすい)がこれに代わって朝廷に人質として入った。侍郎二人・丞一人・達官郎一人・中客五人・才伎十人・訳語一人・雑傔十六人、及び僧一人、合わせて三十七人がこれに従った。白雉元年、朝貢した。翌年、調賦を貢納する使者の沙飡知万(ちまん)が筑紫に至ったが、皆唐の国の服を着ていた。朝廷はその者たちが勝手に風俗を移して服を改めたことを咎め、叱責して送り返した。大臣の巨勢徳太古(こせのとこだ)は「今この機を逃して討たなければ、後に必ず悔いを残すことになりましょう。どうか難波から筑紫にかけて舟船を盛んに並べ、兵備を厳重にして国威を示し、その使者を譴責してください。そうすれば軍を労することなく自ら服従するでしょう」と奏請したが、天皇はこれを聞き入れなかった。三年・四年ともに朝貢した。五年秋、使者を遣わして入唐使の吉士長丹(きしのながに)らの帰国を送らせた。冬、天皇が崩御した。巨勢稲持(こせのいなもち)を新羅に遣わして天皇の喪を知らせた。十二月、使者を遣わして先帝の喪を弔わせた(注:『日本紀』による)。この年、勝曼が死去し、諡を真徳(しんとく)といい、伊飡(いさん)の金春秋が位に立った。春秋は金輪(きんりん)の孫である。かつて百済の将軍允忠(いんちゅう)が新羅の大耶城(だいやじょう)を攻め落とした際、春秋の娘婿である金品釈(きんひんせき)は妻子を手にかけたのち自害した。春秋はこの怨みを百済に報いようとし、徳曼に願い出て自ら高句麗に使いし、大対盧(だいたいろ)の蓋金(がいきん)(注:またの名を蘇蓋文(そがいぶん)ともいう)に援軍を乞うた。高句麗はこれを六十日にわたって抑留し、春秋はようやく脱出して帰ることができた。これによって百済を深く仇敵とし、高句麗を怨むようになり、唐と深く結んでこの二国に対する志を遂げようとして、たびたび唐に援軍を求めた。ちょうどそのころ百済と高句麗は誼を通じており、両国の兵がともに新羅を攻めた。春秋はさらに使者を唐に遣わして援軍を乞うた。唐の皇帝李世民(りせいみん)は軍を興して高句麗を討ち、新羅は三万の兵をもってこれを助けた。しかし唐の皇帝はついに志を果たせず軍を退いた。春秋は自ら唐に赴き、卑(へりくだ)った言葉と手厚い礼をもって、百済が朝貢の道を塞いでいることを訴えた。唐の皇帝はこれに応じて二十万の軍の派遣を約束し、春秋はさらに服装を改め唐の制度による服を受けることを願い出て、子の文汪(ぶんおう)を唐に留めて侍衛とすることも願い出た。唐の皇帝はいずれも許した。この時に至り、勝曼が死去して春秋が位に立った。当時、百済の君臣は淫らで奢侈にふけり、国事を顧みなかった。春秋の百済併呑の計画はますます急を告げていた(注:『東国通鑑』、及び『日本紀』の一説が引く高麗の僧道顕(どうけん)の『日本世記』による)。
¶斉明天皇元年、春秋は使者を遣わして朝貢し、級飡(きゅうさん)の弥武(びぶ)を人質とした。弥武はまもなく死去した。翌年、朝貢した。三年、金春秋に詔して学問僧智達(ちたつ)、及び間人御廐(はしひとのみうまや)らを唐へ送らせようとしたが、春秋はこの詔を奉じなかった。翌年、僧智達らは新羅の船に乗って入唐した。六年、春秋は子の仁問(にんもん)を唐に遣わして援軍を乞うた。唐の将軍蘇定方(そていほう)は十三万の兵を率い、新羅とともに百済を攻めてこれを滅ぼした(注:『日本紀』及び本書の注、『東国通鑑』による)。斉明天皇は諸国に詔して軍船や武具を造修させた。七年春、天皇は自ら水軍を率いて新羅を征討しようとしたが、その秋、朝倉行宮(あさくらのかりみや)で崩御した。皇太子は喪服のまま軍政を執った。前将軍の大花下阿曇比羅夫(あずみのひらふ)、小花下河辺百枝(かわべのももえ)ら四人の将軍を遣わし、百済を救援し新羅を討たせた(注:『日本紀』による)。この年、金春秋が死去し、諡を武烈(ぶれつ)といい、太宗(たいそう)と称された。子の金法敏(きんほうびん)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。癸亥の年、前将軍上毛野稚子(かみつけののわくご)、中将軍巨勢訳語(こせのおさ)、後将軍阿部比羅夫(あべのひらふ)らを遣わし、二万七千の兵を率いて新羅を攻めさせ、沙鼻岐(さびき)・奴江(ぬえ)の二城を奪った。このとき百済王の扶余豊(ふよほう)がその佐平(さへい)福信(ふくしん)を殺し、国内は再び大いに乱れた。法敏はそこで唐の将軍孫仁師(そんじんし)とともに州柔(つぬ)を攻め進んだ(注:『東国通鑑』では周留城(しゅるじょう)とする)。日本の官軍がこれを救援し、唐軍と白村江(はくすきのえ)で戦った(注:『唐書』『東国通鑑』ではいずれも白江口(はっこうこう)とする)。官軍は陣立てが乱れ、唐の兵に挟み撃ちにされた。官軍は大敗し、扶余豊は高麗へ逃れ、百済はついに滅んだ。丁卯の年、金法敏は使者を遣わして、斉明天皇の葬儀に参列させた(注:『日本紀』による)。
¶天智天皇元年秋、沙飡(さん)の金東厳(きんとうごん)らを遣わして調を貢納させ、勅して新羅王に調賦の船一艘・絹五十匹・綿五十斤・韋(かわ)百枚を賜り、あわせてその上臣である大角干(だいかくかん)の金庾信(きんゆしん)にも船一艘を賜り、東厳らに託して届けさせた。この年、法敏は唐の将軍李勣(りせき)らと合流して高句麗を攻めこれを滅ぼした。新羅の僧道行(どうぎょう)が草薙剣(くさなぎのつるぎ)を盗んで新羅に逃げようとしたが、途中で風雨が激しく暗くなり、進めずに引き返した(注:『日本紀』による)。そもそも三国(高句麗・百済・新羅)の中で、新羅は最も小さく弱い国であった。後に任那を少しずつ蚕食し、ついには唐の軍勢の力によって百済・高句麗を滅ぼした。唐はこの二国を郡県として直轄したが、新羅はその多くをひそかに奪い取って領有し、国土は次第に広がっていった(注:『文献通考』『東国通鑑』による)。二年、沙飡督儒(とくじゅ)を遣わして調を貢納させた。四年夏、使者を遣わして調を貢納させ、水牛一頭・山鶏一羽を献上した。秋、沙飡金万物(きんまんぶつ)を遣わして調を貢納させた。新羅王に絹五十匹・絁(あしぎぬ)五十匹・綿千斤・韋百枚を賜った。天皇大友(おおとも)の元年、金押宝(きんおうほう)を遣わして調を貢納させた。天武天皇元年夏、韓阿飡(かんあさん)金承元(きんしょうげん)・阿飡金祗山(きんぎさん)・大舎霜雪(そうせつ)を遣わして即位を賀し、一吉飡(いつきつさん)金薩儒(きんさつじゅ)・韓奈麻金池山(きんちさん)を遣わして天智天皇の喪を弔わせた。特に即位を賀す使者だけを都に上らせ、その他は筑紫から引き返させた。秋、韓奈麻金利益(きんりやく)を遣わして高麗の朝貢使である大兄碩干(だいけいせきかん)らを送らせた。三年、王子金忠元(きんちゅうげん)・大監級飡金此蘇(きんしそ)・大監奈末金天沖(きんてんちゅう)・弟監大奈麻朴武麻(ぼくぶま)・弟監大舎金洛水(きんらくすい)を遣わして調を貢納させ、奈麻金風那(きんふうな)・金孝福(きんこうふく)に金忠元を送らせた。また級飡朴勤修(ぼくきんしゅう)・大奈麻金美賀(きんびが)に高麗の朝貢使を送らせた。小錦上大伴国麻呂(おおとものくにまろ)を遣わして返礼の使者とした。四年、沙飡金清平(きんせいへい)を遣わして政(まつりごと)を請わせ、級飡金好儒(きんこうじゅ)・弟監大舎金欽吉(きんきんきつ)に調を貢納させ、大奈麻金揚原(きんようげん)に高麗の朝貢使を送らせた。五年、阿飡朴刺破(ぼくしは)らが血鹿島(ちかのしま)に漂着し、金清平らに付き従って送り返された。六年、奈麻加良井山(からいさん)・金紅世(きんこうせい)が筑紫に至り、国王が級飡金消勿(きんしょうもち)・大奈麻金世世(きんせせ)を遣わして調を貢納させようとしたところ、海上で暴風に遭い、船はことごとく四散し行方が知れなくなったと伝えた。翌年春、奈麻甘勿那(かんもつな)を遣わして高麗の朝貢使である上部大相桓父(かんぶ)らを送らせた。冬、阿飡金頃那(きんけいな)・沙飡薩蔂生(さつるいせい)を遣わして金・銀・鉄の鼎、金銀の刀、旗、錦、絹布、皮、馬、犬、騾馬(らば)、駱駝を貢納させ、別に皇后・皇太子にも金・銀・刀・旗を献上させた。八年夏、奈麻考那(こうな)を遣わして高麗の朝貢使を送らせた。冬、沙飡金若弼(きんじゃくひつ)・大奈麻金原升(きんげんしょう)を遣わして調を貢納させた。九年、沙彔部一吉飡金忠平(きんちゅうへい)・大奈麻金壱世(きんいつせい)を遣わして金・銀・銅・鉄・錦・絹・鹿皮・細布を貢納させ、また別に金・銀・霞(か)・幡(はた)の皮を天皇及び皇后・皇太子に献上させ、あわせて国喪を告げに来させた(注:『日本紀』による)。この年、法敏が死去し、諡を文武(ぶんぶ)といった。子の金政明(きんせいめい)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。十年、大奈麻金釈起(きんしゃくき)を遣わして高麗の使者を送らせた。十一年、沙飡金主山(きんしゅざん)・大奈末金長志(きんちょうし)を遣わして調を貢納させた。十二年、大奈末金物儒(きんもつじゅ)に入唐学生の土師甥(はじのおい)らを送らせた。十三年、高向麻呂(たかむこのまろ)らが新羅に使いして帰国した。金政明は馬・犬・鸚鵡・鵲(かささぎ)及び宝器数種を献上した。冬、波飡金智祥(きんちしょう)・大阿飡金健勲(きんけんくん)らを遣わして政を請わせ、金・銀・霞錦(かきん)・綾羅・虎豹の皮・彫金の器・薬物、及び良馬・騾馬・犬を貢納させ、智祥らはさらに別に金・銀・羅綾・屏風など各六十種を献上し、また皇后・皇太子及び諸親王にも別に品々を献上した。
¶持統天皇元年、直広肆田中法麻呂(たなかののりまろ)・追大弐守君苅田(もりのきみのかりた)を新羅に遣わし、国喪を告げた。秋、王子金霜林(きんそうりん)・級飡金薩摹(きんさつも)・金仁述(きんじんじゅつ)・大舎蘇陽信(そようしん)を遣わして国政を奏上させ、調賦を貢納させた。霜林らは別に献上した品もいくつかあった。太宰府は霜林らに国喪を告げ、皆喪服をまとって東に向かい、三拝三哭した。三年、級飡金道那(きんどうな)らを遣わして天武天皇の喪を弔わせた。土師根麻呂(はじのねまろ)に命じて金道那らに次のように問わせた。「太政官卿は勅を奉じて道那らに問う。去年、田中法麻呂が大行天皇(先の天皇)の喪を告げに行った際、そなたの国では『古例では蘇判(そはん)の位の者を用います』と言った(注:『三国史記』には、匝飡(そうさん)はまた蘇判ともいい、第三等の位であるという)。勅を奉じるならば、まさに古例に復すべきである、と。しかし法麻呂は先例に反するとして詔命を宣べずに帰った。以前の事例を言えば、白雉五年、巨勢稲持を遣わして大行天皇の喪を告げた際は、翳飡(えいさん)の金春秋が勅を奉じた(注:『三国史記』『東国通鑑』には翳飡という位はない。この時金春秋は伊飡であった。伊飡はあるいは翳飡ともいうのであろうか)。しかるに蘇判の位を用いるというのは、そなたらの偽りである。先に近江宮御宇天皇(天智天皇)の喪の際は、一吉飡金薩儒を遣わして弔わせたのに、今になって追って級飡を遣わすというのも、また前例に反する。そなたの国は我が遠い皇祖の代より、船の艫(とも)を接するほどに絶えず往来し、船の舵を乾かすことなく代々朝貢してきた。それを今、調賦を減らしながら別献と称して数を装い偽るのは、旧来の典礼を乱すものである。それゆえ調賦及び別献の品は、すべて封をして送り返す。そなた道那らは帰ってそなたの王に告げよ。『天朝は広く慈しみをもってこれまでの過ちを深くは咎めない。今後は前の過ちを悔い改め、将来を慎むように』と」。四年春、新羅の級飡北助智(ほくじょち)・韓奈麻許満(きょまん)らが帰化した。秋、大奈末金高訓(きんこうくん)を遣わして筑紫の人大伴部博麻(おおとものべのはかま)、及び入唐学問僧智宗(ちそう)らを送らせた。六年、級飡朴億徳(ぼくおくとく)・金森薩(きんしんさつ)を遣わして調を貢納させた(注:『日本紀』による)。この年、政明が死去し、諡を神文(じんもん)といった。子の理洪(りこう)が位に立った(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。翌年、沙飡金江南(きんこうなん)・韓奈麻金陽原(きんようげん)を遣わして王の喪を告げに来させ、直広肆息長老(おきながのおゆ)・勤大弐大伴子君(おおとものこきみ)に命じて弔問させ、あわせて賻物(ふもつ、弔いの贈り物)を贈らせた。九年春、王子金良琳(きんりょうりん)・補命薩飡朴強国(ぼくきょうこく)(注:『三国史記』には、沙飡はまた薩飡ともいうとある)・韓奈麻金周漢(きんしゅうかん)・金忠仙(きんちゅうせん)らを遣わして国政を奏上させ、調賦を貢納させた(注:『日本紀』による)。