卷之一百九 列傳第三十六
大伴室屋、大伴金村、大伴狹手彥、大伴咋ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
大伴室屋
¶大伴室屋(おおとものむろや)は、道臣命(みちのおみのみこと)の七世の孫である。(注:『姓氏録』による。ただし『公卿補任』は武以を七世孫としており、これによれば室屋は八世孫となる。どちらが正しいかは不明。)曾祖父は豊日命(とよひのみこと)である。(注:『公卿補任』による。)祖父は武日命(たけひのみこと)である。(注:『三代実録』貞観三年条と『公卿補任』による。本書では武日を健日に作るが、今は『日本書紀』に従う。)景行(けいこう)帝の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)に従って東国を平定した。(注:『日本書紀』および『三代実録』貞観三年条による。)日本武尊は靫部(ゆげいべ)を賜ってこれに報いた。(注:『日本書紀』による。)朝廷はさらにその功を褒め、讃岐国(さぬきのくに)を賜って私宅とさせた。(注:『三代実録』貞観三年条による。)父の武以(たけもち)は、(注:本書では健持あるいは武持に作り、『三代実録』もまた健持に作るが、今は『日本書紀』に従う。)仲哀(ちゅうあい)帝の元年に大連(おおむらじ)となった。大連の職はここに始まる。(注:『公卿補任』による。)帝の西征に従い、帝が崩じるに及んで皇后の命を奉じ、中臣烏賊津(なかとみのいかつ)らとともに百官を率いて宮を守った。室屋は、雄略(ゆうりゃく)帝の即位に際して大連となった。(注:『公卿補任』は允恭(いんぎょう)・安康(あんこう)の二朝についても大伴室屋を大連と記すが、これは誤りである。)帝が崩じるに及んで東漢掬(やまとのあやのつか)とともに遺詔を受け、皇太子を輔佐した。星川皇子(ほしかわのみこ)が反乱を起こすと、室屋は掬に「遺詔で戒められていたことが、今まさに至った」と告げ、皇太子を奉じて兵を発しこれを討ち平らげた。そして臣・連を率いて皇太子に璽(しるし)を奉った。これが清寧(せいねい)帝である。室屋は允恭・安康・雄略・清寧・顕宗(けんぞう)・仁賢(にんけん)・武烈(ぶれつ)の七朝に歴仕した。(注:『日本書紀』による。)雄略朝において、かつて天靫(あまゆき)を背負わされたことがあった。室屋は「衛門の開閉の任は、職としてすでに重く、一人でよく担えるものではありません。子の談(かたり)とともに、左右を分けて衛らせたく存じます」と奏上し、許された。これより、その子孫である大伴・佐伯の二氏が左右の開閉を掌ることとなった。室屋には御物宿禰(みもののすくね)と日談(ひかたり)という二人の子があった。(注:『姓氏録』による。本書では談を語に作るが、今は『日本書紀』に従う。)談は、雄略帝九年、詔を奉じて紀小弓(きのおゆみ)らとともに新羅(しらぎ)を討った。兵は敗れ、力戦して死んだ。従者の大伴津麻呂(おおとものつまろ)は談とはぐれ、軍中を捜し求めたが見つからなかった。問いただしてその戦死を知ると、奮い立って大声で「わが主はすでに死んだ。どうして自分だけ生き永らえられようか」と叫び、ついに敵中に赴いて死んだ。(注:『日本書紀』による。)談の子が金村(かなむら)である。
大伴金村
¶金村(かなむら)は仁賢(にんけん)朝に仕えた。仁賢帝が崩じたが、皇太子はまだ即位していなかった。大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)がひそかに不軌を図り、その子の鮪(しび)がたまたま太子の怒りを買った。金村は命を奉じて鮪を誅した。そして「真鳥は逆賊です。あわせて除くべきです」と請うた。太子は「天下はまさに乱れようとしている。世に稀な英雄でなければ、これを済うことはできない。これを安んじられる者は、おそらく連(むらじ)であろう」と言い、金村に兵を率いさせて真鳥の邸宅を包囲させ、火を放って攻めさせた。賊は戦わずして潰え、真鳥は誅に伏した。ここに金村は太子を奉じて即位させた。これが武烈(ぶれつ)帝である。帝は金村を大連とした。帝が崩じて世継ぎがなかったため、金村がまず倭彦王(やまとひこのおおきみ)を丹波(たんば)に迎えることを建議した。しかし倭彦王は逃げ隠れて出てこなかった。そこでまた男大跡王(おおどのおおきみ)を三国(みくに)に迎えてこれを立てた。これが継体(けいたい)帝である。金村は奏請して手白香皇女(たしらかのひめみこ)を納れ、皇后とした。安閑(あんかん)帝が三島(みしま)に行幸した際、金村はこれに従い、金村に命じて県主(あがたぬし)の飯粒(いいぼ)に良田を求めさせた。飯粒はそこで良田四十町を献上し、あわせてその子の鳥樹(とりき)を金村の家僮として差し出した。欽明(きんめい)帝元年、難波(なにわ)の祝津宮(はふりつのみや)に行幸し、群臣に新羅征伐について問うた。物部尾輿(もののべのおこし)は「新羅が怨みを蓄えているのは、実に任那(みまな)の四県を百済(くだら)に与えたことによるものです」と述べ、これを金村の失策として非難した。金村は恥じ恐れて住吉(すみよし)に退き、病と称して朝廷に出仕しなかった。帝は青海夫人勾子(あおみのふひとまがりこ)を遣わして慰問させた。金村は「私が病んでいるのは他でもありません。今、諸臣は皆『任那を失ったのは、その責めが私にある』と言っています。それゆえ恐れて出仕しないのです」と答え、鞍馬(くらうま)を勾子に贈った。勾子は帰って奏上した。帝は金村に詔して「卿は久しく忠誠を尽くしてきた。人々の口さがなさを気に病むな」と述べ、ますます優遇して二度と問い質さなかった。金村は仁賢・武烈・継体・安閑・宣化(せんか)・欽明の六帝に歴仕し、五朝にわたって大連を務めた。子に磐(いわ)、狭手彦(さでひこ)(注:『日本書紀』による。)、阿被布古(あべふこ)がおり、阿被布古は父の後を継いで大部連公(おおともべのむらじのきみ)となった。(注:『三代実録』貞観三年条による。)
大伴狹手彥
¶狭手彦(さでひこ)。宣化(せんか)帝二年、新羅(しらぎ)が任那(みまな)に侵攻した。父の金村(かなむら)は詔を奉じて狭手彦とその兄の磐(いわ)を遣わし、任那を援けさせた。磐は筑紫(つくし)にとどまってその国政を統べ、三韓(さんかん)に備えた。狭手彦は任那に赴いてこれを鎮め、あわせて百済(くだら)を救った。欽明(きんめい)帝二十三年、大将軍となり、数万の兵を率いて高麗(こうらい)を討ち、百済の策を用いて大いにこれを破った。高麗王は垣を越えて逃げた。(注:本書の一説では、狭手彦は百済と兵を合わせ、高麗王陽春(ようしゅん)を比津留都(ひつるつ)で撃退したという。)狭手彦は勝ちに乗じてその王宮に入り、珍宝および七織帳(ななおりのとばり)・鉄屋(かなや)をことごとく獲て帰った。そして七織帳を天皇に献上した。あわせて甲二領、金飾りの刀二口、銅鏤鍾(どうるしょう)三口、五色の幡二竿、および美女媛(みめひめ)を(注:本書の注に、媛は名であるとある。)、その従女の吾田子(あたこ)とともに蘇我稲目(そがのいなめ)に贈った。鉄屋は長安寺(ちょうあんじ)に置いた。(注:『日本書紀』による。)当初、狭手彦が任那を鎮めるにあたり肥前(ひぜん)を発とうとした際、その妾である松浦佐用比売(まつらのさよひめ)は別れを惜しみ、高山に登ってその船を望み見た。悲しみに堪えかね、ついに領巾(ひれ)を脱いでこれを振った。見る者で涙を流さぬ者はなかった。これによりその山を領巾麾嶺(ひれふりのみね)と名付けた。(注:『万葉集』による。本書は使いを奉じて海を渡ったこととし、それがいつのことかは記していないが、僧仙覚の『万葉集鈔』は『肥前風土記』を引いて「松浦県(まつらのあがた)の東三十里に帔搖岑(ひれふりのみね)があり、絶頂に半町ほどの沼がある。昔、宣化天皇の時、大伴紗手比古(おおとものさでひこ)を遣わして任那を鎮めさせた。砂手比古がこの地を過ぎた際、篠原邑(しのはらのむら)に乙等比売(おとひめ)という国色の美女がおり、紗手比古はこれを娶った。別れに臨み、乙等比売はこの峰に登って望み、褶帔(ひれ)を挙げて招いた。これによって名付けられた」と記す。顕昭(けんしょう)の『袖中抄』もまた『童蒙抄』が引く『肥前風土記』を載せ、宣化帝の時代の事としている。今はこれによる。『袖中抄』はさらに『筑前風土記』を引いて「相伝えて松浦明神とはすなわち佐用姫のことである」と記す。あわせて記して考証に備える。)金村の孫が咋(くい)である。(注:『公卿補任』による。本書には父の名を載せておらず、今は考証のしようがない。)
大伴咋
¶咋(くい)。(注:『続日本紀』および『公卿補任』はともに咋子(くいこ)に作る。『日本書紀』は単に嚙(くい)あるいは咋に作る。思うに、子とは当時の通称であろう。中臣御食子連(なかとみのみけこのむらじ)を『日本書紀』では中臣連弥気(なかとみのむらじみけ)と記し、阿倍鳥(あべのとり)を鳥子とも記すのが、その証となろう。)蘇我馬子(そがのうまこ)が物部守屋(もののべのもりや)と兵を構えた際、咋は阿倍人(あべのひと)・平群神手(へぐりのかみて)らとともに軍を率い、志紀郡(しきのこおり)から進んで守屋の渋河(しぶかわ)の家を攻めた。崇峻(すしゅん)帝四年、任那(みまな)の回復が議せられ、咋は紀男麻呂(きのおまろ)・巨勢比良夫(こせのひらぶ)・狭臣(さおみ)・葛城烏奈良(かずらきのおなら)らとともに大将軍となった。それぞれの氏族の臣・連を裨将・部隊とし、兵二万を率いて筑紫(つくし)に出て駐留し、人を新羅(しらぎ)・任那に遣わしてその事情を探らせた。推古(すいこ)帝九年、詔があって咋を高麗(こうらい)に遣わし、任那を急ぎ救わせた。十四年、隋(ずい)の使者裴世清(はいせいせい)が到着し、その国書を進めた。阿倍鳥がその書を庭で受け取り、咋に伝えた。咋はこれを大門前の机上に置いて奏上した。十八年、新羅・任那が朝貢して参内した。咋は蘇我蝦夷(そがのえみし)らとともに庭に出てこれを迎え、その使命を受けて大臣の馬子に取り次いだ。(注:『日本書紀』による。)咋の位は大徳(だいとく)の冠に至った。(注:『続日本紀』による。ただし『日本書紀』推古帝三十一年の新羅征討の条には、小徳(しょうとく)の大伴連を副将軍としながらその名を欠いている。おそらくこの時、咋の位は小徳であり、その後大徳に進んだのであろう。)咋には三人の子があった。長徳(ちょうとく)(注:『日本書紀』および『続日本紀』はともにその父を記さない。『公卿補任』には「金村の曾孫、咋子連の子」とあり、今はこれによる。)、馬来田(まくた)(注:『日本書紀』および『続日本紀』は父を記さない。『日本書紀』に「馬来田は吹負(ふけい)の兄」とあり、今はこれによる。)、吹負(注:『続日本紀』による。本書では小吹負に作る。説は吹負の伝に見える。)である。長徳は字(あざな)を馬飼(うまかい)という。舒明(じょめい)帝四年、唐(とう)の使者高表仁(こうひょうじん)らが難波津(なにわづ)に来泊した際、朝廷は長徳を遣わし、(注:本書のこの条は大伴連馬養(おおとものむらじうまかい)と記す。馬養と馬飼は訓読が通じる。)飾り立てた船三十二隻でもって江口(えぐち)に出迎えさせた。大化(たいか)五年、右大臣を拝し、大紫(だいし)を授けられた。(注:『日本書紀』による。)吹負および長徳の子の御行(みゆき)・安麻呂(やすまろ)には、それぞれ別に伝がある。(注:『続日本紀』によれば、安麻呂はその第六子である。とすれば長徳の子はこれにとどまらないはずだが、今は考証のしようがない。)
物部目
¶物部目(もののべのめ)は、十市根(とおちね)の玄孫である。(注:『先代旧事本紀』による。)曾祖父の膽咋(いくい)は、仲哀(ちゅうあい)帝の時代に大夫となり、帝の西征に従った。帝が崩じるに及んで皇后の命を奉じ、中臣烏賊津(なかとみのいかつ)らとともに百官を率いて宮を守った。(注:『日本書紀』による。曾祖父の記載は『先代旧事本紀』による。)祖父は五十琴(いこと)、父は伊莒弗(いこふつ)である。(注:『先代旧事本紀』による。)伊莒弗は履中(りちゅう)朝で執政を務めた。目は雄略(ゆうりゃく)帝の即位に際して大連となった。当時、歯田根命(はたのねのみこと)という者が、采女(うねめ)の山辺小島子(やまのべのおしまこ)と密通した。帝は目に勅してこれを捕らえて糾明させた。歯田根は罪に服し、刀と馬をそれぞれ八をもって贖おうと願い出た。そして歌って言った。「やまのめの、こしまこゆゑに、ひとのはふ、うまのやつぎは、をしけくもなし」。目はこれを奏上し、帝はこれを赦した。歯田根がその財を餌香市(えかのいち)のほとりの橘の木の下に露(あら)わに置いたことにより、餌香・長野邑(ながののむら)を目に賜った。十八年、目は物部菟代(もののべのうしろ)とともに詔を奉じて伊勢(いせ)の賊、朝日郎(あさけのいらつこ)を討った。朝日郎は官軍の来るのを聞いて伊賀(いが)の青墓(あおはか)で迎え撃ち、弓の巧みさを誇って重ねた札(よろい)を貫く矢を放ったので、軍中は恐れおののき、菟代はあえて進撃しなかった。二日にらみ合った後、目自ら大刀を執り、筑紫聞物部大斧手(つくしのききのもののべのおおおのて)に盾を持たせて並び進ませた。朝日郎は大斧手を射たが、矢は盾を貫き重ねた甲(よろい)を貫通して肌に一寸入った。大斧手は盾で目を庇った。目はすぐさま朝日郎を捕らえてこれを斬った。菟代は自らの臆病を恥じ、七日間戦果を報告しなかった。帝は側近に「菟代はなぜ復命しないのか」と問うた。讃岐田虫別(さぬきのたむしわけ)がその実情を申し上げた。帝はこれを聞いて怒り、菟代の領する名部(なしろべ)を奪って目に賜った。(注:『日本書紀』による。)子は荒山(あらやま)、荒山の子が尾輿(おこし)である。(注:『先代旧事本紀』および『公卿補任』による。)
物部尾輿
¶尾輿(おこし)。安閑(あんかん)帝元年、盧城部枳莒喩(いおきべのきこゆ)の娘、幡媛(はたひめ)が尾輿の瓔珞(ようらく)を盗み、春日皇后(かすがのきさき)に献上した。事が発覚し、枳莒喩は幡媛を采女として差し出し、あわせて安芸(あき)の過戸(すぎと)の盧城部屯倉(いおきべのみやけ)を献じて娘の罪を贖った。尾輿は事の由が自分にあるとして自ら安んじることができず、その十市部(とおちべ)・伊勢来狭狭(いせのくさか)・登伊(とい)・贄土師部(にえのはじべ)・筑紫国膽狭山部(つくしのくにのいさやまべ)を献じて謝罪した。(注:本書の注に、来狭狭・登伊は二つの邑の名であるとある。)欽明(きんめい)帝の即位に及んで大連となった。翌年九月、帝が難波(なにわ)の祝津宮(はふりつのみや)に行幸した際、群臣に「今まさに新羅(しらぎ)を討とうとしているが、どれほどの兵を用いるべきか」と問うた。尾輿らは「少数の兵で軽々しく征伐すべきではありません。かつて男大跡天皇(おおどのすめらみこと、継体帝)の時代、百済(くだら)が使者を遣わして任那(みまな)の四県を求めました。大連の大伴金村(おおとものかなむら)がたやすくその求めを聞き入れたため、新羅は久しく怨みを積んでいます。今は軽々しく討つべきではありません」と奏上した。帝はこれに従った。十三年、百済が金銅の釈迦仏像および経論を献上し、その功徳を称える上表文を奉った。帝は大いに喜び、使者に「私はいまだかつてこのような微妙な法を聞いたことがない」と告げた。そして群臣に「西蕃(せいばん)が献じた仏は、その相貌が端正厳かで、いまだ見たことがない。私は今これを礼拝すべきだろうか」と問うた。大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)は帝にこれを拝むよう勧めた。尾輿と中臣鎌子(なかとみのかまこ)は「わが国家は常に天地の社稷(しゃしょく)、百八十の神々を敬い、春夏秋冬に祭祀を行うことを事としてきました。今、異国の神を拝めば、国つ神の怒りを招くことを恐れます」と奏上した。帝は「願う者に授けるがよい」と言い、稲目に賜った。この後、疫病が流行し民が多く早世し、久しくしてますます激しくなった。尾輿と鎌子は再び「先に臣らの言を聞き入れなかったために、この禍を招いたのです。今、遠からず改めれば、必ず慶事があるでしょう。仏像を棄てて後の福を求めるべきです」と奏上した。帝はこれを聞き入れ、有司に詔して仏像を難波(なにわ)の堀江(ほりえ)に投げ入れさせ、伽藍を焼き払わせた。(注:『水鏡』『帝王編年紀』には「尾輿はほどなくして薨じた」とあるが、『水鏡』の記すところはやや妄誕に近い。今は採らない。)子の弓削守屋(ゆげのもりや)には、別に伝がある。
物部麤鹿火
¶物部麤鹿火(もののべのあらかい)。(注:『古事記』は荒甲(あらかい)に作る。今は『日本書紀』に従う。)伊莒弗(いこふつ)の玄孫である。父は麻佐良(まさら)という。(注:『先代旧事本紀』による。)麤鹿火は仁賢(にんけん)・武烈(ぶれつ)・継体(けいたい)・安閑(あんかん)・宣化(せんか)の五朝に歴仕し、大連となった。(注:本書の継体紀には「元年、物部麤鹿火は大連となり、もとの如し」とあるが、その最初の任官については見当たらない。『公卿補任』もまた「初任の年月は未詳」としている。)継体帝の即位に際しては、これを定める功があった。六年、百済(くだら)が任那(みまな)の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県を求める上表をなし、哆唎の国守である穂積押山(ほづみのおしやま)もまたこれを求めた。大連の大伴金村(おおとものかなむら)がこれを主として議し、朝廷はこれを許した。麤鹿火を宣勅使とし、難波宮(なにわのみや)に遣わそうとした。麤鹿火の妻はこれを固く止めて「昔、住吉(すみよし)の神が高麗(こうらい)・百済・新羅(しらぎ)・任那を胎中天皇(たいちゅうてんのう、応神帝)に授けられました。それゆえ太后の気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)は武内宿禰(たけのうちのすくね)と議り、国ごとに官家(みやけ)を置いて海外の藩屏(はんぺい)としたのです。今、旧制に背いてその領域を削れば、永く後世の謗りを残すことになりましょう」と言った。麤鹿火は「お前の言うことはまことにその通りだ。ただ勅旨に逆らうことを恐れるのだ」と答えた。妻は「病と称してお断りなさいませ」と言った。麤鹿火は病と称して赴かず、代わりの宣勅使が差し向けられた。使いはすでに出発していた。当時、安閑帝はまだ皇子であったが、これを聞いて驚き、日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして先の勅を追い返させた。百済の使者は「天皇が便宜を計り、すでに我らに賜ると勅されました。皇子がどうして勝手に勅旨を改められましょうか。仰せはきっと虚偽でしょう。たとえ本当だとしても、杖で人を殴るのに、杖の細い先と太い元とどちらが痛いか、それと同じことです」と言い、去っていった。当時の人々は「金村と押山は賂(まいない)を受けてこれを求めたのだ」と噂した。二十一年、近江毛野(おうみのけな)が任那に赴き、新羅に侵された地を回復しようとした。筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)が反乱を起こし、火(ひ)・豊(とよ)の二国に拠った。毛野は進むことができず、帝は大伴金村、および麤鹿火、許勢男人(こせのおひと)らに「誰を将とすべきか」と問うた。金村らは「正直仁勇にして兵事に通じた者として、今、麤鹿火の右に出る者はおりません」と奏上した。帝はこれを是とした。八月、麤鹿火に磐井討伐を命じた。帝は自ら斧鉞(ふえつ)を執って授け、「長門(ながと)より東は朕が制し、筑紫より西は汝が制せよ。賞罰を専断し、いちいち奏請するには及ばない」と言った。翌年十一月、麤鹿火は筑紫の御井郡(みいのこおり)で磐井と戦い、これを斬った。残党はことごとく平定された。(注:『古事記』は麤鹿火と金村がともに兵を率いてこれを討ったとしており、本書とは異なる。)宣化帝元年、官にあって薨じた。(注:『日本書紀』による。)
紀小弓
¶紀小弓(きのおゆみ)。雄略(ゆうりゃく)帝九年、詔を奉じて蘇我馬子(そがのうまこ)・大伴談(おおとものかたり)・小鹿火(おかい)とともに軍を率いて新羅(しらぎ)を討った。小弓は出発に臨み、大伴室屋(おおとものむろや)を通じて「私は臆病非力ではありますが、あえて命に従わないことはございません。ただ、妻を新たに亡くし、私の世話をする者がおりません。願わくは公よりこのことを奏上していただきたい」と申し出た。帝はこれを聞いて憐れみ、采女(うねめ)の大海(おおあま)を賜った。小弓らは新羅に入り、その近郡を次々に討ち破った。新羅王は夜、太鼓の音を聞いて官軍がすでにすべての領地を得たと知り、わずか数百騎とともに逃げ、兵はみな乱れ走った。小弓は敗走する敵を追ってその将を斬った。領地はことごとく平定され、小弓は談らとともにさらにこれを攻めた。この夜、談および紀岡前来目(きのおかさきのくめ)は、ともに力戦して死んだ。しばらくして敵は退いたが、小弓は陣中で薨じた。大海は小弓の遺骸を収めて帰り、大伴室屋に頼んで墓地を奏請した。帝は室屋に「大将軍紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)は、龍のように驤(あ)がり虎のように視て、あまねく八方を眺め、逆賊を掃討して四海を鎮めた。しかるに身は万里の彼方で労し、命は三韓(さんかん)に墜ちた。大伴卿と紀卿は同国にして隣り合う間柄である。よろしく哀悼の情を尽くし、喪を見守る者としてこれを助けよ」と勅した。室屋は勅旨を承って土師小鳥(はじのおとり)に命じ、田身輪邑(たむわのむら)に塚墓を作ってこれを葬らせた。大海は感激し喜んで、韓奴(からやつこ)六人を室屋に贈った。(注:『日本書紀』による。)小弓の子が大磐(おおいわ)である。
紀大磐
¶紀大磐(きのおおいわ)。(注:本書では大を生に作ることもある。)父の訃報を聞くと、直ちに新羅(しらぎ)に赴き、小鹿火(おかい)が掌っていた兵馬船官およびその他の小官を奪い取り、自ら軍政を専らにした。小鹿火はこれを深く恨み、蘇我韓子(そがのからこ)に「大磐宿禰(おおいわのすくね)が私に『いずれまた韓子宿禰の掌る官を奪うつもりだ』と言っている。これに備えたい」と告げた。これによって韓子ともまた不和となった。百済(くだら)王は諸将が互いに不和であることを聞き、これを和解させようとして、国境を視察させるという口実で彼らを召した。諸将は皆赴いた。河を渡ろうとした際、大磐が馬に水を飲ませていると、韓子が後ろからその鞍橋(くらぼね)を射た。大磐は驚いて振り返り、韓子を射た。韓子は水に落ちて死んだ。諸将は途中から引き返した。小鹿火は小弓(おゆみ)の喪を護って帰る途中、角国(つののくに)にとどまり、倭子連(やまとこのむらじ)を遣わして八咫鏡(やたのかがみ)を大伴室屋(おおとものむろや)に納め、「私は紀卿と肩を並べて朝廷に仕えることに堪えません。永くこの地に居りたく存じます」と請うた。室屋がこれを奏上し、許された。これにより角臣(つののおみ)を姓とした。顕宗(けんぞう)帝三年、大磐はついに任那(みまな)に拠り、高麗(こうらい)と通じ、西方の三韓(さんかん)の王たろうとした。そして役所を開き、自ら神聖と称した。また任那人の左魯那奇(さろなき)・他甲肖(たこうしょう)らの策を用いて、百済人の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を爾林(にりん)で殺した。帯山城(たいさんじょう)を築いて東の道を扼(おさ)え、百済の糧道を絶った。百済王は怒り、領軍(りょうぐん)の古爾解(こにげ)・内頭(ないとう)の莫古解(まくこげ)らを遣わして帯山城を攻めさせた。大磐は城を出て迎え撃ち、その気迫はますます盛んで、一人で百人に当たるほどであり、向かうところ敵はみな靡き敗れた。しかしやがて兵は尽き力は屈し、事が成らないことを悟って逃げ帰った。(注:『日本書紀』による。)その後の消息は分からない。
近江毛野
¶近江毛野(おうみのけな)。継体(けいたい)帝二十一年、勅を奉じて兵六万を率い、任那(みまな)に赴いて新羅(しらぎ)を討ち、侵された南加羅(ありひしのから)・彔(とく)・己吞(ことん)の地を回復して任那に合わせようとした。これより先、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)は久しく異心を抱いていたが、事が成就しないことを恐れて何年も躊躇し、隙をうかがって事を起こそうとしていた。この時、新羅は密かに磐井に賂(まいない)を贈り、毛野の軍を阻ませようとした。磐井は火(ひ)・豊(とよ)の二国に拠って海路を断ち、諸国から朝貢の船を誘い引き込んだ。また毛野の軍を遮って「かつては私と同輩で肩を並べ腕を組み、器を共にし食を共にした仲ではないか。どうして急に使者と称して、私に拝伏させようとするのか」と罵り、兵を交えて戦った。この事が聞こえると、物部麤鹿火(もののべのあらかい)を遣わしてこれを討たせる詔が下り、磐井は誅に伏した。二十三年三月、毛野に安羅(あら)に赴いて新羅に勅を宣べ、南加羅・彔・己吞の地を返還させるよう詔した。毛野は安羅に至り、新羅・百済(くだら)はそれぞれ臣を遣わして命を聞かせた。四月、任那王の己能末多干岐(このまたかんき)が来朝し、新羅に侵されたことを訴えて救援を求めた。朝廷は使者を差し向けて己能末多干岐を護送させ、毛野に両国を和解させるよう詔した。毛野は熊川(ゆのえ)に陣を構えた。(注:本書の注に、一説では任那の九斯牟羅県(くしむらのあがた)に陣を構えたとある。)新羅・百済の二王を召したが、二王は使者を遣わすのみで、自ら来ることはなかった。毛野は大いに怒り、二人の使者を「小をもって大に事えるのが天の道である。二国の王はどうして自ら来て勅を受けず、あえて人を遣わすのか。今、たとえお前たちの主が来て請うたとしても、私は勅を宣べることを承知せず、必ずこれを退けるだろう」と責めた。二人の使者は恐れて帰り、それぞれ自国の王に告げた。新羅はそこで上臣(じょうしん)の伊叱夫礼智干岐(いしぶれちかんき)を遣わし、兵三千を率いて勅を承ることを請わせた。毛野はその兵勢の盛んなのを望み見て退き、任那の己叱己利城(こしこりのさし)に入った。伊叱夫礼智干岐は多多羅原(たたらのはら)に陣取り、しばしば勅を承ることを請うたが、三か月経っても去らなかった。毛野はこれを許さなかった。伊叱夫礼智干岐は糧食がすでに尽き、士卒は集落に食を乞うた。ここにおいて伊叱夫礼智干岐は四つの邑をほしいままに略奪し、人畜をことごとく駆り立てて帰った。当時の人々はこれを毛野の咎とした。翌年、任那の聘使(へいし)が「毛野は久斯牟羅(くしむら)に居を構え、二年も滞在して怠惰にして政務を見ません」と奏上した。またこう言った。「日本人と任那人は、子のことで常に争い訴えるが、昔からうまく裁くことができませんでした。毛野は誓湯(うけいゆ)を設け、訴える者をその中に投げ入れて『真実を言う者は爛れず、偽りを言う者は必ず爛れる』としたため、これによって無実の横死者が多く出ました。毛野はまた吉備韓子(きびのからこ)の那多利(なたり)・斯布利(しふり)を殺しました。(注:本書の注に、大日本人が蕃女(異国の女)に生ませた子を韓子というとある。)人民はこれを怨み嘆いています。」帝はそこで使者を遣わして毛野を召した。毛野は帰還すれば咎められることを恐れ、その従者である馬飼御狩(うまかいのみかり)を遣わして「私はいまだ王事を成し遂げておりません。今、都に帰れば、行きは骨折り帰りは手ぶらとなり、恥じ入って身の置き所もありません。伏してお願い申し上げます、国命を成し遂げるまでお待ちいただき、その上で入朝して罪を謝したく存じます」と奏上させた。折しも調吉士老(つきのきしおゆ)が使者として任那にあり、毛野はまた彼が自分より先に帰ってその状況を詳しく奏上することを恐れ、調吉士を遣わして兵を率いて伊斯枳牟羅城(いしきむらのさし)を守らせた。阿利斯等(ありしと)は(注:本書の注に、阿利斯等はおそらく己能末多干岐であろうとある。)、毛野が細事にばかり専念して和解に意を用いないのを知り、しきりに帰朝を勧めたが、毛野は聞き入れなかった。そこで任那は背き離反し、毛野を撃とうとして新羅・百済に使者を遣わして援兵を求めた。毛野はこれを聞き、背評(へこおり)で迎え撃ったが、死傷者は半数に及んだ。百済・新羅は兵を合わせて城を囲んだ。毛野は城に籠って自ら守った。二国の兵はついに五つの城を抜いて去った。十月、調吉士が任那から帰り、毛野が驕り恨んで意のままに振る舞い、加羅(から)を苦しめ乱したと奏上した。帝は目頬子(めづらこ)を遣わして毛野を召した。毛野は対馬(つしま)に至って病に罹り死んだ。近江(おうみ)に葬られた。(注:『日本書紀』による。)
紀男麻呂
¶紀男麻呂(きのおまろ)。欽明(きんめい)帝二十三年、新羅(しらぎ)が任那(みまな)に侵攻した。男麻呂は命を受けて大将軍となり、兵を率いて哆唎(たり)に出た。副将の河辺瓊缶(かわべのにえ)は曽山(そやま)に出て駐留し、新羅が任那を攻めた事情を詰問した。調伊企儺(つきのいきな)・薦集部登弭(こもつかべのとみ)・倭国造手彦(やまとのくにのみやつこてひこ)らがこれに従い、ついに任那に至った。まず登弭を百済(くだら)に遣わし、軍事の計画を取り決めさせた。登弭は道中で印書と弓矢を落とし、新羅がこれを得た。新羅はその計略を知り、大軍を起こして来戦した。男麻呂の軍は敗れて降伏を乞うた。男麻呂は軍を引き返して百済の陣営に入り、軍中に令して「勝っても敗れた時のことを忘れず、安らかにあっても危うい時を慮る、これは古の善い教えである。今、国境にあって、豺狼(さいろう、山犬と狼)のような敵と入り交じっているのだから、どうして軽々しく変事を思わずにいられようか。太平の世であってもなお刀剣を手放さないのが、君子の武備であり、やめるべきではない。よく警戒し、この命令を守ることに努めよ」と告げた。士卒は皆心服してこれに従った。この年の冬、新羅は使者を遣わして朝貢した。用明(ようめい)帝の崩御に際しては、蘇我馬子(そがのうまこ)に従って兵を率い物部守屋(もののべのもりや)を攻めた。崇峻(すしゅん)帝四年、男麻呂は巨勢比良夫(こせのひらぶ)らとともに大将軍となり、兵二万を率いて筑紫(つくし)に出て駐留し、再び任那のことを問うた。当初、新羅が来襲した際、瓊缶は一人で転戦して進み、向かうところみな勝利したので、新羅は白旗を掲げて降伏した。瓊缶はその意味を悟らず、さらに白旗を掲げて進んだ。新羅の将は「将軍河辺臣は降伏しようとしているのだ」と言い、進軍して迎え撃った。瓊缶の先鋒は多くの死傷者を出し、手彦は自ら救いがたいことを悟って軍を見捨てて逃げた。新羅の将は追って城の堀まで至り、戟(ほこ)を振るって攻撃した。手彦の馬は駿足で、堀を飛び越えて難を免れた。ここにおいて瓊缶は急いで兵を引き、野営に退いたが、士卒は軽んじ侮って命令に従う者がなかった。新羅の将はついに陣営に攻め入り、瓊缶とその妻の坂本甘美媛(さかもとのうましひめ)を捕虜とした。新羅の将は瓊缶に「お前自身と妻とどちらが大事か」と問うた。瓊缶は「どうして一人の女を惜しんで禍を招くことがありましょうか」と答え、ついに妻を差し出すことを許した。新羅の将はその面前で甘美媛と情を通じた。後に甘美媛は帰ることができた。瓊缶は再び連れ添おうとしたが、媛は恥じ恨んで「先に、あなたは軽々しく私を見捨てました。今どうして顔を合わせられましょうか」と言い、ついに口をきかなかった。(注:『日本書紀』による。)
日羅
¶日羅(にちら)は、火葦北国造(ひのあしきたのくにのみやつこ)阿利斯登(ありしと)の子である。阿利斯登は、宣化(せんか)帝の時代、使いを奉じて海外に赴いた。(注:本書はその国名を載せていない。)日羅は、当初百済(くだら)に居り、官は達率(だっそつ)であった。敏達(びだつ)帝十二年、詔を下して「わが先皇の御代、新羅(しらぎ)は内官家(うちのみやけ)の国を滅ぼした。先皇は任那(みまな)の回復を謀ったが、果たせぬまま崩じられた。私は先の志を成し遂げたいと思う。聞くところによれば、葦北国造阿利斯登の子である達率日羅が、今、百済にいるという。賢くて勇気があるという。私はこの人物を得て、ともにこれを図りたい」と述べた。そこで紀国造押勝(きのくにのみやつこおしかつ)・吉備海部羽島(きびのあまべのはしま)を遣わして日羅を召させた。百済はその才を惜しみ、帰らせようとしなかった。再び羽島を遣わしてこれを召した。羽島は到着すると、先に日羅に会おうとして、ひそかにその家に赴いた。日羅は迎えてその手を執り、座に招いた。ひそかに「私がひそかに聞くところでは、百済は私が天朝に至って留まって帰らないことを恐れており、それゆえ詔に応じようとしないのです」と語った。勅を宣べる日には、威容を示してこれを促すのがよいと言った。羽島はその計に従い、百済はやむを得ずこれに応じた。そこで恩率(おんそつ)徳爾(とくに)・余怒(よぬ)・可奴知(かぬち)、参官(さんかん)である柂師(かじとり)の徳率次干徳(そつしかんとく)、水手(かこ)ら若干名に護送させた。吉備児島屯倉(きびのこじまのみやけ)に到着すると、朝廷は大伴糠手子(おおとものぬかてこ)を遣わしてこれを労い、さらに大夫らを遣わして難波館(なにわのむろつみ)で慰労させた。日羅は甲を身につけ馬に乗って門に至って下り、ゆっくりと庁前に進み、跪いて拝し「亡き北葦北国造刑部靫部阿利斯登(けいぶのゆげいべありしと)の子、臣達率日羅、天皇の詔を奉じ、恐れながら参りました」と述べた。そして甲を脱いでこれを差し出した。そこで何斗桑市(かとくわのいち)に館を営んでこれに住まわせ、その望むままにさせた。糠手子・阿倍目(あべのめ)・物部贄子(もののべのにえこ)を遣わして国政について尋ねさせた。日羅は「そもそも天下を治める要諦は、民を愛し養うことにあります。どうして急に兵を興し、かえって損失を招くようなことをするのですか。私が今のために考えるところでは、朝臣・連・二造(注:本書の注に、二造とは国造(くにのみやつこ)・伴造(とものみやつこ)であるとある。)から下は百姓に至るまで、それぞれ自由にさせ、家ごとに給し人ごとに足らせ、欠乏するところがないようにすべきです。これを三年行えば、食は足り兵は足りて、民を悦ばせることができましょう。民は水火をも避けず、ともに国難を憂えるようになりましょう。その後に多くの船艦を造り、海の要所に並べ置いて外国の使者に見せつけ、彼らに恐れをなさせるのです。そして使いに堪える者を選んで百済に遣わし、その国王を召すべきです。もし来なければ、その太佐平(たいさへい)や王子らを召し、彼ら自身に敬い畏れる心を生じさせた上で、その罪を問うべきです」と奏上した。また「百済人は船三百艘をもって筑紫の地を乞おうと謀っています。もし本当にそうなれば、表向きはこれを与えるふりをするのがよいでしょう。彼らは必ず女子供を率いてこの地に実際に住み着こうとするでしょう。国家はあらかじめ壱岐(いき)・対馬(つしま)に兵を伏せ、その到着を待って討ち取るべきです。決して欺かれてはなりません。また要害の地に塁壁を築いてこれに備えるべきです」と奏上した。ここにおいて、恩率参官(おんそつさんかん)は帰国しようとする際、密かに徳爾・余怒に「私が思うに、筑紫まで行ったところで、お前たちがひそかに日羅を殺せ。私はこれを詳しく王に申し上げ、お前たちに高い位を授けよう。恩は妻子にまで及び、栄誉は後世にまで残るだろう」と語った。徳爾らはついに血鹿(ちか)を発った。日羅は再び難波館に移った。徳爾らは昼夜隙をうかがい、これを刺そうとした。日羅の身には炎のような光があり、徳爾らは恐れてあえて手を下せなかった。ある夜、その光が急に消えたので、そこで刺し殺した。日羅は息を吹き返して「これは私が使っていた奴らの仕業であり、新羅の仕業ではない」と言い終えて息絶えた。この時、新羅の使者もまた都におり、それゆえこう言ったのである。帝はそこで贄子・糠手子に詔して小郡(おごおり)の西の丘に収め葬らせ、妻子および水手らを石川(いしかわ)に移させた。糠手子は「彼らを一か所に集めて住まわせれば、変事が起きることを恐れます」と議り、そこで妻子は石川の百済村(くだらのむら)に、水手らは石川の大伴村(おおとものむら)に分けて住まわせた。徳爾らは下百済(しもつくだら)の阿田村(あたのむら)に幽閉され、その事情を糾問された。徳爾らは罪に服して「恩率参官が教えてこれをさせたのです」と言った。そこで獄に下された。ここにおいて日羅の一族を葦北(あしきた)から召し、徳爾らを彼らに賜って、その処分に任せた。葦北君(あしきたのきみ)らはことごとくこれを殺し、屍を彌売島(みめしま)に投げ捨てた。そして日羅の喪を持ち帰って葬った。後に海辺の人々の間で語り伝えられるところでは、恩率は風に遭って船が転覆し、参官の船もまた漂流したが、かろうじて逃れて帰ることができたという。(注:『日本書紀』による。)
阿部比羅夫
¶阿部比羅夫(あべのひらふ)は、あるいは阿倍引田臣(あべのひけたのおみ)とも称する。(注:本書の斉明紀にはしばしば阿倍臣とのみ記してその名を欠く。ただし四年の条には「越国守(こしのくにのかみ)阿倍引田臣比羅夫が粛慎(みしはせ)を討った」とあり、五年の条には「阿倍臣を遣わして舟師を率い蝦夷国(えみしのくに)を討たせ、軍を還すに及んで陸奥(みちのく)と越国の国司にそれぞれ位二階を授けた」とある。そして本書の注が引く一説には、阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦って帰ったことが記されており、これらを互いに考え合わせると、おそらく別人ではないのであろう。また崇峻紀に載る、北陸に阿倍臣を遣わしたという記事について、『聖徳太子伝暦』はこれを枚吹(ひらふき)としている。枚吹と比羅夫は音と訓が相通じるので、これもまた証とすることができる。よってこれを同一人物と定める。)崇峻(すしゅん)帝二年、勅を受けて北陸道諸国の境を視察した。斉明(さいめい)帝の時代、越(こし)の国守となった。四年、勅を承って舟師百八十艘を率いて蝦夷(えみし)を討った。齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)二郡の蝦夷は降伏を願い出た。比羅夫はそこで渟代・津軽(つがる)の郡領を定め、渡島(わたりしま)の蝦夷らを集めて大いに饗応して帰った。またあわせて粛慎(みしはせ)を討ち、生きた羆(ひぐま)二頭と羆の皮七十枚を獲て、帰ってこれを献上した。翌年、再び蝦夷を討ち、飽田(あぎた)・渟代・津軽の三郡、および膽振鉏(いぶりさえ)の蝦夷三人を集め、降伏した虜三十五人を饗応してこれに物を賜った。船一隻と五色の綵帛(いろぎぬ)をもって、その土地の神を祭った。肉入籠(ししりこ)まで進んだ際、問菟(といぬ)の蝦夷である膽鹿島(いかしま)・菟穂名(うほな)が(注:膽鹿島・菟穂名は二人の人名である。)、「後方羊蹄(しりべし)を政所(まんどころ)とするのがよいでしょう」と進言し、比羅夫はこれに従った。そこで郡領を置き、そして粛慎を討ち、虜四十九人を得て帰った。(注:「そして粛慎を討ち」以下は、本書の注が引く一説による。)比羅夫と陸奥国司にそれぞれ位二階を賜った。六年、戦艦二百を率いて粛慎を討った。陸奥(みちのく)の蝦夷を率いて大河のほとりに至ると、渡島の蝦夷千余人が河に向かって陣を構えていた。蝦夷二人が陣営を出て「粛慎の舟師が多数来て、我らを殺そうとしています。どうか河を渡ってそちらに属したく存じます」と呼びかけた。比羅夫は船を遣わしてこれを召し、賊の伏せる場所とその船数を尋ねた。蝦夷はその場所を指し示し、「船は二十余艘です」と言った。そこで使いを遣わして賊を召したが、賊は応じようとしなかった。そこで綵帛(いろぎぬ)と兵器・鉄を海辺に積んでこれを餌にした。賊は羽を旗のように結び、舟師を近づけて来たが、やがて和睦を乞うた。比羅夫はこれを聞き入れず、その柵を攻めた。能登馬身龍(のとのうまみたつ)は賊に害された。比羅夫はついに賊を破り、五十余人を捕虜とした。天智(てんじ)帝の称制の際、前将軍の阿曇比羅夫(あずみのひらふ)らとともに百済(くだら)を救った。当時、大華下(だいかげ)の位にあった。後将軍として、ほどなく前将軍の上毛野稚子(かみつけののわかこ)らとともに新羅(しらぎ)を討ったが、唐(とう)の兵と戦って利あらず、百済の諸将は王師に従って投降した。(注:『日本書紀』による。)比羅夫は筑紫大宰帥(つくしのおおみこともちのかみ)となり、大錦上(だいきんじょう)に進んだ。子は宿奈麻呂(すくなまろ)である。
阿部宿奈麻呂
¶阿部宿奈麻呂(あべのすくなまろ)。(注:『続日本紀』による。『日本書紀』では宿奈を少に作るが、音が通じる。)当初は引田朝臣(ひけたのあそみ)と称した。持統(じとう)朝、直広肆(じきこうし)から直大肆(じきだいし)に進み、食封(じきふ)五十戸を賜った。(注:『日本書紀』による。)大宝(たいほう)年間、造大殿垣司(ぞうだいでんえんし)となった。慶雲(けいうん)元年、姓を改めて阿倍朝臣(あべのあそみ)を賜った。二年、中納言に任じられた。和銅(わどう)元年、再び中納言に任じられた。(注:先に中納言を罷めたことについて、本書には考証すべき記録がない。)帝は親王・公卿を御前に召し、その公平さと百官の先頭に立つ働きを褒め、宿奈麻呂に正四位上を授けた。ほどなく造平城宮司(ぞうへいじょうきゅうし)の長官となった。翌年、従三位に叙された。養老(ようろう)の初め、正三位に進み、大納言に至った。四年、薨じた。(注:『続日本紀』による。)
朴市秦田來津
¶朴市秦田来津(えちのはたのたくつ)。(注:本書によれば、大化(たいか)元年、古人皇子(ふるひとのみこ)が反乱を起こして誅せられた際、田来津はこれに与していたという。おそらくその後に勅を受けて、再び朝廷に仕えたのであろう。)天智(てんじ)帝が称制した辛酉(かのととり)の年、狭井檳榔(さいのあじまさ)とともに兵五千を率いて百済(くだら)の王子豊璋(ほうしょう)を護送した。当時、小山下(しょうせんげ)の位にあった。豊璋とともに州柔(つぬ)にいた。豊璋とその臣の福信(ふくしん)は田来津らに「今、州柔の土地は痩せていて、田畑からも遠く隔たっている。ここは防戦の場であって、農耕の地ではない。長くとどまれば士卒は飢えるだろう。避城(へさし)に移るに越したことはない。避城は西北に古連旦涇(これただけい)の水を帯び、東南に深い泥の巨堰(きょえん)の要害があり、田畑は四方を巡り灌漑の便がよく、まさに三韓(さんかん)随一の肥沃な地である。地勢は低いが、そこに移り住むべきだ」と言った。田来津は「今、避城は敵からきわめて近い。一夜で到達できる距離である。ひとたび不測の事態が起これば、悔いても及ばない。そもそも飢えは後のことであり、滅亡は先に来るものだ。今、敵がたやすく攻めて来ないのは、州柔が山が険しく谷が深く、守りやすく攻めがたいからである。もし低地に居を構えれば、どうして今日まで持ちこたえられただろうか」と言った。豊璋はこれを聞き入れず、ついに避城に移った。癸亥(みずのとい)の年、新羅(しらぎ)は南の辺境の四州を焼き、安徳(あとく)などの要地を奪い取った。そこで百済王は避城に居ることができなくなり、再び州柔に戻った。まさに田来津の予測した通りであった。この年、新羅は唐(とう)の軍とともに来て州柔を包囲し、味方の軍がこれを救おうとしたが、大敗し、溺死する者がきわめて多かった。田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって激しく怒り、自ら数十人を斬り殺して死んだ。(注:『日本書紀』による。)