卷之一百六 列傳第三十三
建國功臣
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
可美真手命
¶可美真手命(うましまでのみこと)。(注:『先代旧事本紀』では宇摩志麻治命、あるいは味間見とする。)父は櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)という。(注:『旧事紀』によれば、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と同母の兄とする。しかし『日本書紀』を調べると、天照国照彦火明命は瓊瓊杵尊の同母兄弟であり、尾張連(おわりのむらじ)らの始祖とされるが、櫛玉饒速日という名は見えない。饒速日はただ天神の子とのみ称され、その出自は詳しく記されておらず、物部氏(もののべうじ)の遠祖とされるものの、天照らの号とは結びつけられていない。また『新撰姓氏録』に記す尾張連・物部連の出自もこれと符合する。したがって両者は別人であることが明らかである。『旧事紀』が両者を混同して一人としているのは、後世のこじつけとみられるため、ここでは採らない。)また神饒速日命(かみにぎはやひのみこと)とも号した。(注:『新撰姓氏録』による。)饒速日はかつて天磐船(あめのいわふね)に乗り、河内国(かわちのくに)の河上の哮峰(たけるがみね)に降り、さらに大倭(やまと)の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわやま)に至ったという。(注:『日本書紀』の記述に『旧事紀』を参照して補う。)饒速日はその地の豪族長髄彦(ながすねひこ)の妹、三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶った。(注:本書の注に、一名長髄媛、また鳥見屋媛ともいう。)そして可美真手が生まれ、これによりこの地に住むこととなった。長髄彦は饒速日を神人として仰ぎ、君として奉じた。
¶神武天皇が東征した際、長髄彦は全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で天皇の軍を迎え撃った。官軍は戦いに利あらず、天皇は軍を引いて退いた。さらに進んで菟田(うだ)に至り、首領の兄猾(えうかし)らを誅殺し、ついに長髄彦を討った。しかし戦いはなお思うようにいかなかった。そのとき空が曇り雹まじりの雨が降る中、金色の鵄(とび)が現れて天皇の弓に止まり、稲妻のように光り輝いた。賊軍はこれに目がくらみ、力戦できなくなった。長髄彦は使者を送って言った。「かつてこの地に天神の子が天降られ、櫛玉饒速日命と申された。私の妹を娶って子をもうけられたので、私は君としてお仕えしてきた。天神の子に二種あろうはずがない。それなのになぜまた天神の子と称してわが土地を奪おうとするのか」。天皇は答えた。「天神の子は多くいる。お前が君として仕えている者が真に天神の子であるならば、必ずその証があるはずだ」。長髄彦はそこで饒速日の天羽々矢(あまのはばや)と歩靫(かちゆき)を取り出して証とした。天皇は「偽りではない」と言い、天皇もまた天羽々矢と歩靫を証として示した。長髄彦はこれを見て畏れ敬った。しかしすでに戦端は開かれており、勢いはもはや止められなかった。長髄彦にはついに帰順する意志がなかった。饒速日はもとより天神の意が専ら天孫にあることを知っていたが、長髄彦は頑迷でどうしても諭すことができなかった。そこで饒速日は長髄彦を殺し、部下を率いて天皇に帰順した。天皇はこれを褒め称えた。これが物部氏の遠祖である。(注:以上『日本書紀』による。◎『先代旧事本紀』の記すところでは、饒速日尊はすでに大倭で亡くなっており、長髄彦は宇摩志麻治(うましまじ)を君として立てた。宇摩志麻治が長髄彦を殺し、部下を率いて帰順したところ、天皇はこれを嘉して神剣を授けたという。本書とはやや異なるので、参考として付記する。)
¶可美真手はその伝来の十種の天瑞宝(あまつしるしのたから)を天皇に献上した。天皇は大いに喜び、格別の寵愛を加えた。やがて可美真手は天物部(あまつもののべ)を率いて賊を討ち、功績を立てた。元年正月、天皇が即位した際、可美真手はまず天瑞宝を奉り、神楯(かみたて)を立てて斎(いつ)き、また布都主神剣(ふつぬしのかみのつるぎ)を殿内に奉って十種の宝を蔵め、天皇のために鎮祭を行った。天皇はこれを喜び、殿内に宿直することを命じ、これにより足尼(すくね)の号を与えた。足尼の号はこのときに始まる。天皇が正殿に御した後、可美真手は内物部(うちのもののべ)を率いて矛や楯を立て、厳重に護衛した。この年の十一月、天皇と皇后のために天瑞宝を奉って御魂を鎮め、寿命長久を祈った。鎮魂祭(みたましずめのまつり)はここに始まったのである。翌年二月、天皇はその忠勲を褒める詔を下し、股肱の重任を委ね、子孫が代々その職を世襲することとした。
¶可美真手には二人の子、昧饒田命(うましにぎたのみこと)と彦湯支命(ひこゆきのみこと)がいた。(注:『新撰姓氏録』では、味饒田を味饒日、彦湯支を彦湯友とも記す。)彦湯支命は、一名を木開(このひらき)という。綏靖天皇(すいぜいてんのう)の御代、布都主剣(ふつぬしのつるぎ)の祭祀を司り、子孫が代々その職を継いだ。彦湯支の孫に大木食命(おおきぐいのみこと)があり、その子を大綜麻杵命(おおへそきのみこと)という。大綜麻杵の子を伊香色雄命(いかがしこおのみこと)という。(注:『先代旧事本紀』による。)崇神天皇七年、大物主神(おおものぬしのかみ)と大国魂神(おおくにたまのかみ)を祀ろうとした際、占いにより伊香色雄に神への供物を分け与えさせることとし、占いの結果は吉であった。これにより伊香色雄がその事を司った。(注:『日本書紀』による。)伊香色雄は布都大神(ふつのおおかみ)の社を大倭(やまと)の石上邑(いそのかみのむら)に遷し、殿内に蔵められていた十種の宝を用いてこれを祀り、石上大神(いそのかみのおおかみ)と号して国家鎮護の神とし、また物部氏の氏神とした。伊香色雄の子を大新河命(おおにいかわのみこと)、十千根命(とおちねのみこと)という。(注:『先代旧事本紀』による。◎本書は十市根と記すが、ここでは『日本書紀』に従う。)
¶物部十千根(もののべのとおちね)。十千根は垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代に大夫(まえつきみ)となり、武渟川別(たけぬなかわわけ)、彦国葺(ひこくにぶく)、中臣大鹿島(なかとみのおおかしま)、大伴武日(おおとものたけひ)らと並び名を連ねた。これより先、天皇はたびたび使者を遣わして出雲の神宝を検校させたが、真相を得た者がなかった。そこでまた十千根に検察を命じた。十千根は出雲に至って事実をつぶさに調べ上げ、帰って復命した。天皇はその報告に満足し、そのまま十千根に神宝を管理させることとした。(注:『日本書紀』による。)八十一年、物部連公(もののべのむらじのきみ)の姓を賜った。(注:『先代旧事本紀』による。◎『日本書紀』では二十六年の条にすでに物部十千根大連の名が見えるが、これは後から遡って書き加えたものであろうか。今のところ確かめようがない。)八十七年、大中姫(おおなかつひめ)が十千根を推挙し、石上の神宝を管理させた。これ以後、物部氏が代々これを管理することとなった。(注:『日本書紀』による。)
¶物部武諸隅命(もののべのたけもろすみのみこと)。大新河の子を武諸隅命という。(注:『先代旧事本紀』による。◎『日本書紀』の注では、一名を大母隅(おおほずみ)とする。本書は大母隅を武諸隅命の弟とする。)崇神天皇六十年、出雲に遣わされ、神宝を取って献上した。(注:『日本書紀』による。)武諸隅の子を多遅麻連公(たじまのむらじのきみ)という。多遅麻の子を印葉連公(いんばのむらじのきみ)、伊与連公(いよのむらじのきみ)、小神連公(おがみのむらじのきみ)、大別連公(おおわけのむらじのきみ)という。
¶そのほかの子孫も繁栄し、代々朝廷に仕えて栄えた。(注:『先代旧事本紀』による。)それぞれ居住地や職掌により分かれ、百八十の氏に分立したという。(注:『続日本紀』桓武天皇紀による。)
道臣命
¶道臣命(みちのおみのみこと)は、初め日臣命(ひのおみのみこと)といった。(注:『日本書紀』による。)高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の五世の孫であり、天押日命(あめのおしひのみこと)の後裔である。(注:『新撰姓氏録』による。)かつて彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)が日向(ひゅうが)の高千穂峰に天降った際、天押日は天磐靫(あめのいわゆき)を背負い、頭椎剣(かぶつちのつるぎ)を佩き、弓矢を持って大来目(おおくめ)を率いて先導した。(注:『日本書紀』の記述に『古事記』『万葉集』を参照して補う。)これにより大来目部(おおくめべ)を靫負部(ゆげいべ)とした。天靫負(あまのゆげい)の号はここに始まる。(注:『新撰姓氏録』による。)
¶日臣は神武天皇に従って東征し、熊野に至った。天皇が中州(なかつくに)へ進軍しようとしたが、山道は険しく途絶えて進むことができなかった。夜、天皇は天照大神の夢を見た。(注:『古事記』では高木大神の夢とする。)大神は「私が頭八咫烏(やたがらす)を遣わして道案内とさせよう」と告げた。目覚めると、果たして頭八咫烏がやって来た。天皇は「これはまさに夢のお告げの通りだ。皇祖天照大神が大業の成就を助けようとされているのだろう」と言った。そこで日臣は大来目を率いて山を切り開いて道を進み、烏の向かう方に従い、ついに菟田(うだ)の下県(しもつあがた)に到達した。天皇はその忠勇と道を切り開いた功を賞し、道臣(みちのおみ)という名を賜った。
¶天皇は菟田県の首領、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を召した。兄猾は参上せず、弟猾がすぐに軍営に参じてこう申し上げた。「私の兄兄猾は、天孫がお越しになると聞いて兵を起こし襲おうとしています。しかし官軍を見て恐れをなし、あえて敵対できずにおります。そこで密かに兵を伏せ、新しい宮殿と偽って造り、その内部に仕掛けを施しました。饗応にかこつけて害を加えようとしているのです。どうか早くお備えください」。天皇はすぐに道臣に命じて様子を探らせた。(注:『古事記』には、道臣命と大久米命(おおくめのみこと)の二人に探らせたとある。)道臣は賊の情勢を詳しく見極めると、激しく怒って声を荒げ、兄猾を責めて言った。「賊め、お前が作った屋敷には、お前自身が住むがよい」。そして剣に手をかけ弓を引き絞り、兄猾を屋敷に追い込んだ。兄猾は逃げることができず、仕掛けを踏んで押しつぶされて死んだ。天皇はその屍をさらに斬った。
¶天皇は八十梟帥(やそたける)らを討とうとし、丹生川上(にうのかわかみ)で諸神を祀った。このとき初めて厳瓫(いつへ)を設けた。天皇は道臣に「私は高皇産霊尊を祀ろうと思う。お前を斎主(いわいぬし)とする」と命じ、厳媛(いつひめ)の号を授けた。天皇は自ら兵を率い、国見丘(くにみのおか)で八十梟帥を討って斬った。この戦いにあたり、天皇は必勝を期して歌を詠んだ。「神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺の 細螺の 吾子よ吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ」。この歌の意味は大石を国見丘にたとえたものであるが、なお残党は平定されていなかった。天皇は密かに道臣に命じ、大来目を率いてこれを撃たせ、方略を授けた。
¶道臣は忍坂(おさか)に窟室(いわむろ)を掘り、賊をおびき寄せて宴を設けた。屈強な兵士を選んで賊と席を交え、「酒が回ったら私が立って歌う。お前たちは私の歌声を聞いたらすぐに斬りかかれ」と警めた。やがて賊の群れが酔いつぶれると、道臣は立ち上がって歌った。「忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 入り居りとも みつみつし 来目の子等が 頭椎い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ」。屈強な兵士たちは歌声とともに頭椎剣を抜き、一斉に襲いかかって斬り殺し、一人として生き残る者はなかった。全軍は大いに喜び、天を仰いで笑った。そこでまた歌った。「今はよ 今はよ ああしやを 今だにも吾子よ 今だにも吾子よ」。後世、来目部(くめべ)の歌が終わると大笑いする風習があるのは、これに由来する。またこうも歌った。「夷を一人 百な人 人は云へども 抵抗もせず」。これらの歌はいずれも天皇の密命を受けて歌われたものである。道臣はこうして諷歌(そえうた)と倒語(さかしまごと)を用いてその功を成し遂げた。倒語の用いられる始まりはここにある。(注:『古事記』には、天皇が忍坂の大室に到った際、尾の生えた土雲(つちぐも)の八十建(やそたける)が従わなかったので、天皇は饗宴を設けて八十建をもてなし、膳夫(かしわで)らにそれぞれ刀を持たせ、「歌を聞いたら斬れ」と諭した。やがて歌って「意佐加能……」と詠むと、膳夫らは一斉に刀を抜いて殺したとあり、その歌はここに記したものと同じである。)
¶天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位すると、道臣は来目部を率いて宮門を護衛した。(注:『先代旧事本紀』『古語拾遺』による。)翌年、天皇は論功行賞を行い、築坂邑(つきさかのむら)に宅地を賜って格別に寵遇した。大来目を畝傍山(うねびやま)の西に住まわせ、後にその地を来目邑(くめのむら)と呼んだ。(注:『日本書紀』による。)天皇は道臣の忠勇を褒める詔を下し、代々軍事を司らせることとした。(注:『先代旧事本紀』による。)
椎根津彥
¶椎根津彦(しいねつひこ)。(注:『古事記』では椎を槁と記す。)一名を神知津彦(かみしりつひこ)という。(注:『新撰姓氏録』による。)初名を珍彦(うずひこ)といった。神武天皇が東征して速吸門(はやすいのと)に至ったとき、漁師が小舟に乗ってやって来た。(注:『古事記』には、槁根津彦が亀に乗って釣りをしながら遠吸門(とおのすいのと)で出会ったとある。)天皇が「お前は何者か」と問うと、「私はこの国の神で、名を珍彦と申します。曲浦(わだのうら)で魚を釣っておりましたところ、天神の御子がお越しと聞き、それでお迎えに参りました」と答えた。天皇はさらに「お前は我らの道案内ができるか」と問うと、「できます」と答えた。そこで椎の竿を渡してその先を持たせ、御船に引き入れ、海路の案内を命じた。特に椎根津彦という名を賜った。
¶戊午(つちのえうま)の年、天皇は軍を進めて菟田に至ったが、八十梟帥や兄磯城(えしき)らの兵がそれぞれ要害を占めていた。このとき天皇は夢のお告げにより、天香山(あめのかぐやま)の土を取って天平瓫(あめのひらか)と厳瓫(いつへ)を作り、神々を祀って賊を平らげようとした。しかし賊軍が満ち塞がり、道を通ることができなかった。そこで椎根津彦にぼろ布の蓑笠を着せて老翁の姿に変装させ、弟猾には箕(み)をかぶせて老婆の姿に変装させ、こう命じた。「お前たち二人は天香山に登り、密かにその頂の土を取って来るように。事業が成るか否かは、これで占うことになる。しっかり努めよ」。椎根津彦は出発にあたって自ら祈って言った。「我が天皇がこの国を平定できるならば、行く道は自ずと通じるだろう。もしできないならば、賊は必ず行く手を阻むだろう」。言い終えるとまっすぐに出発した。賊たちはこれを見て醜い老人だと笑い、道を避けて通してしまい、二人はついに土を持ち帰ることができた。
¶天皇は大いに喜び、平瓫と厳瓫を作って神を祀り、その後自ら兵を率いて出撃した。まず八十梟帥を斬り、大軍を挙げてついに磯城(しき)を征討した。弟磯城(おとしき)は帰順したが、兄磯城らはあくまで降伏しようとしなかった。そこで椎根津彦は策を献じてこう言った。「今、まず我が方の女軍を忍坂道(おさかのみち)から出しましょう。敵は必ず精鋭を出して迎え撃つでしょう。その間に私は別に屈強な兵を率いて墨坂(すみさか)に向かい、菟田川(うだがわ)の水を用いて燃え盛る炭火を消し止めます。そして不意を突けば、必ず打ち破ることができましょう」。天皇はこれを了承した。そこで女軍を出して敵に当たらせると、賊は大軍がすでに至ったと思い込み、全力でこれに対抗した。そこへ男軍が墨坂の背後から出て挟み撃ちにし、これを打ち破って兄磯城らを斬った。天皇の即位に際し、その功により倭国造(やまとのくにのみやつこ)に任じられた。(注:『日本書紀』による。)
弟猾
¶弟猾(おとうかし)は菟田県(うだのあがた)の人である。兄の兄猾(えうかし)とともに県の首領であった。戊午の年、神武天皇が菟田の下県に至り、使者を遣わして招いた。しかし兄猾は参上せず、密かに謀反を企てた。(注:『古事記』には、まず八咫烏を遣わして二人に「今、天神の御子がこの地に行幸されたが、お前たちはお仕えできるか」と問わせたところ、兄猾は鳴鏑(なりかぶら)でこれを射たとある。)
¶弟猾はすぐに参上し、その事情を詳しく申し上げた。天皇は道臣に命じて兄猾を誅殺させた。弟猾は牛肉と酒を献上して官軍をねぎらった。天皇はそこで歌を詠んだが、これがいわゆる来目歌(くめうた)である。当時、賊の群れはまだ平定されず、要害に拠って道が通じなかった。天皇はこれを憂えていた。夜、天神が夢に現れて告げた。「天香山の土を取って天平瓫八十枚と厳瓫を作り、天神地祇を敬い祀れ。また厳粛に呪詛を行え。そうすれば賊は自ずと平らぐだろう」。天皇はこれを不思議に思い、夢のお告げに従おうとしたところ、折しも弟猾が申し上げた。「磯城邑(しきのむら)の磯城八十梟帥、高尾張邑(たかおわりのむら)の赤銅八十梟帥は(注:『先代旧事本紀』では銅を鯛と記す)、いずれも戦おうとしており、私はひそかに憂えております。今、天香山の埴土(はにつち)を取って天平瓫を作り、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)を祀った上で賊を撃てば、容易に除くことができましょう」。天皇は大いに喜び、弟猾と椎根津彦を天香山に遣わして土を取らせた。このとき賊兵が道を塞いでいたが、弟猾らは姿を変えて密かに進み、ついに土を得て帰った。天皇の即位に際し、その功により猛田邑(たけだのむら)を封じられ、猛田県主(たけだのあがたぬし)となった。(注:『日本書紀』による。)
弟磯城
¶弟磯城(おとしき)は、名を黒速(くろはや)といい、倭(やまと)の磯城邑(しきのむら)の人である。兄を兄磯城(えしき)という。神武天皇の東征に際し、兄磯城は磐余邑(いわれのむら)で兵を挙げてこれを阻もうとした。天皇は軍を率いて磯城を攻め、まず使者を遣わして兄磯城を召したが、兄磯城は命に従わなかった。さらに頭八咫烏を遣わして召させた。頭八咫烏はその陣営に至り、「天神の御子がお前を召しておられる。いざわ、いざわ」と呼びかけたが、兄磯城はなお従わず、怒って弓を引き頭八咫烏を射た。烏はこれを避けて難を逃れた。
¶烏はさらに弟磯城の家に至り、「天神の御子がお前を召しておられる。いざわ、いざわ」と呼びかけた。弟磯城は驚いて顔色を改めて言った。「私は天神がお越しになったと聞き、朝夕恐れ慎んでおりました。ありがたいことです、あなたのお呼びかけは」。そして葉盤(ひらで)八枚を作り、食事を盛って饗応した。やがて烏とともに参上し、天皇に申し上げた。「私の兄兄磯城は天神の御子がお越しになったと聞き、八十梟帥を集めて決戦しようとしております。どうか早くお図りください」。
¶天皇は諸将を集めて「兄磯城が命に従わないが、どうしたものか」と問うた。諸将は「彼は狡猾な賊です。まず弟磯城に道理を説かせ、それでも帰順しなければ兵を差し向けても遅くはありません」と答えた。天皇は弟磯城に命じて利害を説き明かさせたが、兄磯城は聞き入れなかった。そこで椎根津彦の策を用いて兄磯城を襲い破り、これを斬った。天皇の即位に際し、弟磯城の功を記録して磯城県主(しきのあがたぬし)とした。
熊野高倉下
¶このとき頭八咫烏(やたがらす)もまた恩賞にあずかった。(注:『日本書紀』による。)頭八咫烏は名を鴨建津身命(かもたけつみのみこと)といい、神魂命(かみむすひのみこと)の孫である。大烏の姿に化して飛翔し道案内を務めたことから、八咫烏の号を得た。(注:『新撰姓氏録』による。)その子孫は賀茂県主(かものあがたぬし)となった。(注:『古語拾遺』による。)文武天皇(もんむてんのう)慶雲二年、大倭国宇太郡(やまとのくにうだのこおり)に社を建ててこれを祀った。(注:『続日本紀』による。)
¶熊野高倉下(くまののたかくらじ)。(注:『先代旧事本紀』の記すところでは、初名を天香語山命(あめのかごやまのみこと)といい、一名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)という。宇摩志麻治(うましまじ)の異母兄とされる。しかし本書および『新撰姓氏録』によれば、天香語山命は天火明命(あめのほあかりのみこと)の子であり、尾張連(おわりのむらじ)の遠祖であるとされる。『先代旧事本紀』はすでに天火明と饒速日を混同して一人としているため、これもまた後世のこじつけであろう。ここでは採らない。)紀伊国熊野邑(きいのくにくまののむら)の人である。神武天皇が東征して熊野に至り、丹敷戸畔(にしきとべ)を誅殺した。このとき妖神の毒気に当たり、皆迷い倒れて起き上がれる者がなかった。(注:『古事記』に大熊の毛皮をまとった者の記述があるが、これがここにいう妖神であろう。)
¶高倉下は天照大神の夢を見た。(注:『古事記』では天照大神と高木神の夢とする。)大神は武甕雷神(たけみかづちのかみ)に「葦原中国(あしはらのなかつくに)はなお騒がしい声が聞こえる。お前が行って征伐せよ」と告げた。武甕雷は「私が自ら赴かずとも、私の平国剣(くにむけのつるぎ)(注:『古事記』では刀と記す。以下同じ)を降せば、国は自ずと平らぐでしょう」と答えた。大神は「よかろう」と言った。武甕雷はそこで高倉下に「私に剣がある。名を韴霊(ふつのみたま)という。今これをお前の倉に置いておくので、取り出して天孫に献上せよ」と告げた。高倉下は謹んで承ったが、やがて目が覚めた。翌朝、倉に入って見ると、果たして剣が逆さに突き立っていた。すぐに軍営に至ってこれを献上した。ちょうど天皇は眠っていたが、剣が届くとたちまち目を覚まし、皆もまもなく起き上がって、妖神はことごとく倒れ伏した。(注:『日本書紀』による。『先代旧事本紀』には、天皇はこれを嘉して側近の臣としたとある。)韴霊は一名を佐士布都神(さじふつのかみ)といい、また甕布都神(みかふつのかみ)ともいう。後にこれを石上神宮(いそのかみじんぐう)に納めたという。(注:『古事記』による。)