卷之第十三 本紀第十三

文武天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文武天皇

文武天皇は、幼名を珂瑠(かる)といった(注:幼名は釈日本紀が引く王子枝別記による。珂の字はもと阿に作っていたが、愚管抄・一代要記・皇代記・歴代皇紀・皇胤紹運録はいずれも、諱を軽(かる)とする。万葉集にもまた軽皇子と書かれている。軽と珂瑠は音訓が通じ合う。阿と珂は字形が似ているために誤ったものと思われる。今これを訂正した)。天武天皇の孫で、岡宮天皇と追称された草壁皇子の子である。母は元明天皇で、天武天皇の十一年にお生まれになった(注:生年は懐風藻・水鏡などの諸書、および崩年25歳とある記述による)。

天皇は生まれつき寛容で仁愛に富み、怒りを顔色に表すことがなく、経書や史書に広く通じ、とりわけ弓術に優れていた。

持統天皇の十一年、皇太子に立てられた。

元年丁酉、秋八月一日甲子、天皇は譲位を受け、藤原宮において即位した(注:藤原宮については愚管抄・神皇正統記による)。時に15歳(注:年齢は水鏡・一代要記・愚管抄・皇代記による)。右大臣・多治比島(たじひのしま)は以前のまま留任した(注:公卿補任による)。十七日庚辰、詔して今年の田租と雑徭、および庸の半分を免除し、高齢者を手厚くいたわった。親王以下百官に物を身分に応じて賜った。諸国に命じて毎年放生(ほうじょう、捕らえた生き物を放つ法会)を行わせた。二十日癸未、藤原宮子娘(ふじわらのみやこのいらつめ)を夫人とし、紀竈門娘(きのかまどのいらつめ)・石川刀子娘(いしかわのとじのいらつめ)を嬪(ひん)とした(注:本書では「妃」とするが、今これを訂正した。詳細は后妃伝に見える)。二十九日壬辰、王族と五位以上の者に、それぞれ食封(じきふ)を賜った。九月三日丙申、京師でめでたい稲穂が実り、近江は白いスッポンを、丹波は白い鹿を献上した。冬十月十九日壬午、陸奥の蝦夷(えみし)が特産物を貢いだ。二十八日辛卯、新羅が朝貢した。十二月十八日庚辰、越後の蝦狄(かんぞく)に物を身分に応じて賜った。閏月七日己亥、播磨・備前・備中・周防・淡路・阿波・讃岐・伊予で飢饉が起こり、これを救済した。二十八日庚申、正月に往来して拝賀の礼を行うことを禁じた。もし犯す者があれば、浄御原朝(きよみはらのみかど、天武朝)の制度によって処罰することとした。ただし祖父・兄、および氏上(うじのかみ)への拝賀だけは許した。

二年戊戌、春正月一日壬戌、天皇は大極殿において朝賀を受けた。百官および新羅の朝貢使が拝賀した。十七日戊寅、新羅からの貢物を諸社に供えた。十九日庚辰、新羅からの貢物を大内陵(おおうちのみささぎ、天武天皇陵)に献じた。二月五日丙申、車駕(天皇の乗物)は宇智郡(うちのこおり)に行幸した。十二日癸卯、百官の職事(しきじ)以上、および才伎(さいぎ、技能者)の長上(ちょうじょう)に禄を身分に応じて賜った。十五日丙午、武官に禄を身分に応じて賜った。三月五日乙丑、因幡(いなば)が銅鉱を献上した。十日庚午、詔してこう命じた。「諸国司らは、郡司を選任するにあたって、偏った縁故によることのないようにせよ。郡司は在任中、法を守り違えることのないようにせよ。」二十一日辛巳、賀茂祭の日に、大勢で騎射を行うことを禁じた。夏四月十三日壬寅、務広弐(むこうに)の文博士(ふみのはかせ)・刑部真木(おさかべのまき)らを南島に遣わして国を探させ、あわせて武器を支給した。二十九日戊午、馬を吉野の水分峰(みくまりのみね)の神に奉って雨を祈った。五月一日庚申、幣帛を諸社に奉って雨を祈った。五日甲子、京畿の名山大川に雨を祈った。十六日乙亥、使者を諸国に遣わし、田畑を巡視させた。二十五日甲申、太宰府に勅して、「大野・基肄(きい)・鞠智(くくち)の三城を修繕せよ」と命じた。六月十四日壬寅、越後の蝦狄が特産物を献上した。二十八日丙辰、馬を諸社に奉って雨を祈った。秋七月一日己未、日食があった。七日乙丑、初めて笞刑(ちけい、鞭打ちの刑)の法を定め、公私の奴婢を取り締まった。また博打や遊興にふける者を禁じた。十七日乙亥、下野・備前が赤い烏を、伊予が白い雉(注:原文は判読に迷う字であるが、文脈から白い雉と解した)を献上した。八月二十日丁未、高安城(たかやすのき)を修理した。二十六日己丑(注:原文は誤字と思われる)、朝廷の儀礼を定めた。九月七日甲子、下総で大風があった。十日丁卯、当耆皇女(たきのひめみこ)を遣わし、伊勢の斎宮に仕えさせた。二十五日壬午、周防(すおう)が銅鉱を献上した。冬十月二十三日己酉、陸奥の蝦夷が特産物を献上した。十一月一日丁巳、日食があった。五日辛酉、伊勢が白い雉を献上した。七日癸亥、使者を諸国に遣わし、大祓(おおはらえ)を行わせた。二十三日己卯、大嘗祭を行った。十二月五日辛卯、対馬島に命じて金鉱を精錬させた。二十一日丁未、越後に命じて石船柵(いわふねのき)を修理させた。二十九日乙卯、多気大神宮(たけのだいじんぐう)を度会郡(わたらいのこおり)に遷した。この年、近江・紀伊・越後で疫病が流行し、医薬を給付した。

三年己亥、春正月二十六日壬午、京の女性が一度に四子を出産した。絁(あしぎぬ、粗い絹)・綿・布・稲、および乳母を賜った。二十七日癸未、難波宮に行幸した。二月二十二日丁未、車駕は宮に還った。二十三日戊申、詔して「供奉した騎兵の今年の調役を免除する」と命じた。三月九日甲子、河内国錦部郡(にしごりのこおり)が白い鳩を献上した。詔して、「その郡の今年の租役を免除する。瑞祥を得た者には三年間、課役を免除する。畿内の徒罪以下の罪を赦す」と命じた。二十七日壬午、巡察使を畿内に分かち遣わし、不正を検察させた。夏四月二十五日己酉、越後の蝦夷に位階を賜った。五月二十四日丁丑、役小角(えんのおづぬ)を伊豆島に流罪とした。六月十五日戊戌、山田寺に封戸三百戸を施し、期限を三十年とした。この月、天皇は大安寺に行幸し、五百人の僧を集めて盛大な供養を行った(注:「この月」以下は大安寺縁起による。同縁起によれば、天皇は丈六(じょうろく)の仏像を造ることを誓願し、夢の中で仏前に大鏡を懸けるお告げを受けたため、僧を招いて供養したというが、年月は記されていない。水鏡はこれを本年六月の出来事とするので、今それに従った)。秋七月十九日辛未、多褹(たね、種子島)・夜久(やく、屋久島)・菴美(あまみ、奄美)・度感(とかん)などの人々が朝廷の使者に従って来朝し、特産物を貢いだ。度感島との交通はこれに始まる。位を授け、物を身分に応じて賜った。二十一日癸酉、浄広弐(じょうこうに)・弓削皇子(ゆげのみこ)が薨じた。八月八日己丑、南島からの貢物を伊勢大神宮および諸社に奉った。十一日壬辰、百官に物を身分に応じて賜った。二十一日壬寅、伊予が白い燕を献上した。九月十五日丙寅、再び高安城を修理した。二十日辛未、詔して、正大弐(しょうだいに)以下無位以上の者に、弓矢・甲冑・矛・兵馬を備えさせた。また京畿にもこれを蓄えるよう勅した。冬十月十三日甲午、越智(おち)・山科(やましな)の二陵を造営することにより、天下に大赦を行った。ただし十悪(じゅうあく)、および強盗・窃盗の二罪は赦しの対象外とした。二十日辛丑、浄広肆(じょうこうし)・衣縫王(いぬいのおおきみ)・直大壱(じきだいいち)・当麻国見(たいまのくにみ)らを越智に、浄広肆・大石王(おおいしのおおきみ)・直大弐・粟田真人(あわたのまひと)らを山科に遣わして山陵を修造させた。二十七日戊申、巡察使を諸国に遣わした。十一月一日辛亥、日食があった。四日甲寅、文博士・刑部真木らが南島から帰還した。十二月四日甲申、太宰府に命じて三野(みの)・稲積(いなつみ)の二城を修理させた。二十日庚子、初めて鋳銭司(じゅせんし)を置いた(注:日本紀によれば、持統天皇八年三月に大宅麻呂(おおやけのまろ)・台八島(うてなのやしま)・黄文本実(きぶみのもとざね)を鋳銭司としたとあるが、ここに「初めて置いた」というのは、その事情が明らかでない)。

四年庚子、春二月十九日己亥、越後・佐渡に命じて石船柵を修理させた。二十二日壬寅、巡察使を東山道に遣わした。二十七日丁未、重ねて王臣と京畿に勅して、兵器を備えさせた。三月十五日甲子、王臣に詔して令の条文を読み習わせた。また律の条文を選定させた。十七日丙寅、諸国の牧地(牧場)を定めた。夏五月十三日辛酉、直広肆(じきこうし)・佐伯麻呂(さえきのまろ)を遣新羅大使とし、勤大肆(ごんだいし)・佐味賀佐麻呂(さみのかさまろ)を小使とした。六月三日庚辰、竺志総領(つくしのそうりょう、太宰府の長官)に勅して、刑部真木らを略奪した薩末(さつま)・肝衝(きもつき)らの者を罰させた。十七日甲午、浄大参(じょうだいさん)・刑部親王(おさかべしんのう)、直広壱・藤原不比等らに勅して、重ねて律令を選定させた。秋八月三日戊申、宇尼備(うねび)の賀久山(かぐやま)にある陵墓、および吉野宮の樹木が、理由もなく枯れた。十日乙卯、長門が白い亀を献上した。二十二日丁卯、天下に大赦を行った。ただし十悪の盗人は赦しの対象外とした。高齢者に物を賜った。また巡察使の奏上によって、諸国司の善政を褒めた。阿倍御主人(あべのみうし)・大伴御行(おおとものみゆき)・船秦勝(ふねのはたかつ)・漆部道麻呂(ぬりべのみちまろ)らは、位階を進め、封戸を身分に応じて賜った。二十六日辛未、右大臣・多治比島が左大臣となった(注:「二十六日」以下は公卿補任による。本書ではこの年の正月にすでに「左大臣」と記しているが、これはあるいは後から遡って書き記したものであろうか)。冬十月八日壬子、初めて製衣冠司(せいいかんし)を置き、京畿の九十歳以上の僧尼に絁・綿・布を賜った。十九日癸亥、佐伯麻呂らが新羅から帰還し、孔雀や珍しい品々を献上した。二十六日庚午、使者を遣わして周防で船を造らせた。十一月二十一日乙未、使者を遣わして天下の盗賊を逮捕させた。二十八日壬寅、大倭(やまと)の女性が一度に三子を出産し、絁・綿・布・稲、および乳母を賜った。十二月、大倭で疫病が流行し、医薬を給付した。

大宝元年辛丑、春正月一日乙亥、天皇は大極殿において朝賀を受けた。儀仗と護衛は厳しく整い、外国からの使節も列座した。文物の美はここに至って完備した(注:元日の朝賀については孝徳紀大化二年の条に説明がある。この年になってその儀礼が完備したため、以後は記さない)。四日戊寅、大安殿において祥瑞の奏上を受けた。告朔(こうさく、月初めの儀式)の儀に準じて行った。十八日壬辰、大納言・大伴御行が薨じたことにより、大射(たいしゃ、正月の弓の儀式)を中止した。二十三日丁酉、民部尚書(みんぶのかみ)・粟田真人を遣唐執節使(けんとうしつせつし)とし、左大弁・高橋笠間(たかはしのかさま)を大使、右兵衛率(うひょうえのそつ)・坂合部大分(さかいべのおおきだ)を副使とした。二月四日丁未、初めて下物職(げもつしき)を置いた。十四日丁巳、初めて釈奠(せきてん、孔子を祭る儀式)を行った。十六日己未、泉内親王(いずみのひめみこ)を遣わして伊勢の斎宮に仕えさせた。二十日癸亥、吉野離宮に行幸した。二十七日庚午、宮に還った。三月十五日戊子、追大肆(ついだいし)・凡海麤鎌(おおしあまのあらかま)を陸奥に遣わして金を精錬させた。二十一日甲午、対馬島が金を貢いだ。年号を建てて大宝と改め、初めて新しい令によって官名・位号を改めた。位階を授けるのに冠を賜る制度をやめ、位記(いき、辞令書)に改めた。服の色の制度を定めた。中納言を廃止し、大納言・阿倍御主人を右大臣とした。諸王・群臣は、それぞれ爵位を進めた。二十六日己亥、丹波で三日間地震があった。夏四月一日甲辰、日食があった。七日庚戌、右大弁・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)らに勅して、初めて新しい令を講義させた。諸王・百官にこれを習わせた。十五日戊午、幣帛を諸社に奉り、名山大川に雨を祈った。田領(でんりょう)を廃止し、国司の巡察に委ねた。五月五日丁丑、天皇は走馬(そうめ、競馬)を観覧した(注:日本紀によれば、端午の節句の宴は天智天皇の四年に初めて見える。本書はこの年に「走馬を観る」と記し、聖武天皇紀以後にはしばしば「狩猟の騎馬を観る」「騎射を観る」と記す。おそらく騎射の慣行はここに始まったため、以後は記さないのであろう)。二十七日己亥、初めて勤位(ごんい)以下の位号を改めた。六月一日壬寅、道首名(みちのおびとな)に命じて僧尼令を大安寺で講義させた。二日癸卯、初めて内舎人(うどねり)九十人を任じた。八日己酉、勅して、「およそ庶務は、すべて新しい令に依るべきである。国司・郡司は大税を貯蔵するにあたって、必ず法の定めどおりにせよ。もし怠り欠くことがあれば、事情に応じて処罰する」と命じた。この日、使者を遣わして七道に布告し、あわせて新しい印の様式を頒布した。十六日丁巳、王族と侍臣を西の高殿に招いて宴を催した。二十五日丙寅、四畿内に雨を祈らせ、今年の調(みつぎ)を免除した。二十九日庚午、太上天皇(持統上皇)が吉野離宮に行幸した。秋七月十日辛巳、宮に還った。二十一日壬辰、勅して、「親王以下、その官位に応じて食封を賜る」とした。また壬申の乱の功臣を論じて位を叙し、食封を身分に応じて賜った。この日、左大臣・多治比島が薨じた。八月三日癸卯、律令が完成し、三品・刑部親王、正三位・藤原不比等以下に、物を身分に応じて賜った。八日戊申、明法博士(みょうぼうはかせ)を東海・東山・南海・北陸・山陰・山陽の六道に遣わして、新しい令を講義させた。九日己酉、皇族で年齢に達した者は、官職の有無にかかわらず、禄廩(ろくりん、俸禄)の制度を定めた。十四日甲寅、播磨・淡路・紀伊が、「大風で海水があふれ、田畑が損なわれた」と報告した。使者を遣わして巡視し救済した。行宮(あんぐう)と御船を河内・摂津・紀伊で造らせた。二十日辛酉、参河・遠江・相模・近江・信濃・越前・佐渡・但馬・伯耆・出雲・備前・安芸・周防・長門・紀伊・讃岐・伊予でイナゴの害があり、大風で家屋が壊れ稲が損なわれた。二十六日丙寅、高安城を廃止し、諸国に命じて衛士を増員させ、衛門府に配属させた。九月九日戊寅、使者を諸国に遣わし、百姓を救済した。十八日丁亥、天皇は紀伊に行幸した。冬十月八日丁未、ついに武漏(むろ)温泉に至った。九日戊申、従った官人および国司・郡司らに位を進め衣衾(いきん)を賜り、高齢者には稲を賜り、今年の租調を免除し、その郡を特別に赦した。十九日戊午、車駕は宮に還った(注:万葉集には、十月に太上天皇が紀伊に行幸したとある。本書によれば九月に天皇が紀伊に行幸し、この時に還宮したとあり、太上天皇の行幸を記す文はない。「太上」の二字は誤って加わった文字ではないかと思われるため、これを採らない)。二十日己未、供奉した騎士の今年の調庸、および担夫(たんぷ、荷役の人夫)の田租を免除した。十一月四日壬申、天下に大赦を行った。八日丙子、初めて造大幣司(ぞうだいへいし)を任じた。九日丁丑、弾正台(だんじょうだい)に命じて畿内を巡察させた。十二月十日戊申、諸王・卿に帒(たい、袋物)の様式を賜った。

二年壬寅、春正月一日己巳、天皇は大極殿において朝賀を受けた。親王および大納言以上の者は、初めて礼服を着用した。諸王・臣下以下は朝服を着用した。十五日癸未、群臣を西閣(にしのつぼね)に招いて宴を催し、音楽を奏でさせ物を賜った。二月一日戊戌、初めて新しい律を天下に頒布した。二十二日己未、歌斐(かい、甲斐)が梓弓(あずさゆみ)五百張を献上し、これを太宰府に充てた。三月八日乙亥、初めて度量(ものさしと枡)の制度を天下に頒布した。十二日己卯、大祓を大安殿で行い、これを鎮めた。天皇は新宮の正殿において斎戒し、幣帛を天下の諸社に頒布した。十七日甲申、大倭に命じて二槻離宮(ふたつきのりきゅう)を修理させ、越中の四郡を割いて越後に属させた。二十三日庚寅、美濃国多伎郡(たきのこおり)の民七百十六人を近江国蒲生郡(がもうのこおり)に移した。二十七日甲午、信濃が梓弓一千二十張を献上し、これを太宰府に充てた。夏四月三日庚子、重ねて賀茂祭の日の騎射を禁じた。ただし本国(山城)の人はこの禁令の対象外とした。八日乙巳、飛騨が神馬を献上した。天下に大赦を行った。国司の目(さかん)以上の者に位を進め物を賜った。百姓には三年間、課役を免除した。親王以下、畿内で位を持つ者に物を賜った。諸国の今年の田租を免除し、庸を半分減じた。十日丁未、秦広庭(はたのひろにわ)が杠合樹(こうごうじゅ)の八尋(やひろ)の鉾根(ほこね)を献上した。使者を伊勢に遣わして大神宮に奉った。十三日庚戌、詔して諸国の国造(くにのみやつこ)の氏を定めた。十五日壬子、筑紫の七国および越後に命じて采女(うねめ)・兵衛(ひょうえ)を貢がせた。ただし陸奥には貢がせなかった。五月二十一日丁亥、勅して、従三位・大伴安麻呂(おおとものやすまろ)、正四位下・粟田真人、従四位上・高向麻呂(たかむこのまろ)、従四位下・下毛野古麻呂・小野毛野(おののけの)に、朝政に参議させた。六月六日壬寅、大倭国吉野・宇智の二郡の百姓の課役を免除した。晦日(みそか)乙丑、これより先、遣唐使・粟田真人らは風波に遭い筑紫に留まっていたが、この日ついに出発した。秋七月四日己巳、勅して親王が馬に乗ったまま宮門に入ることを禁じた。十日乙亥、内外の文武官に詔して、新しい令を講習させた。美濃国大野郡の人が八蹄(やづめ)の馬を献上し、稲一千束を賜った。十一日丙子、吉野離宮に行幸した。晦日乙未、初めて律を講義した。この日、天下を赦した。八月一日丙申、薩摩・多褹(たね)の隼人(はやと)が反乱を起こした。兵を発してこれを討ち、ついに戸籍を検して役人を置いた。五日庚子、駿河・下総で大風があった。八日、日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓が振動した。使者を遣わしてこれを祭った。九月一日乙丑、日食があった。十四日戊寅、薩摩の隼人を討伐した将兵に、勲位を身分に応じて授けた。十九日癸未、使者を伊賀・伊勢・美濃・尾張・参河に遣わして行宮を造営させた。二十三日丁亥、天下に大赦を行った。冬十月三日丁酉、幣帛を太宰府管内の九社に奉り、隼人平定の御礼とした。唱更国(はやひとのくに、薩摩)の国司らが要害の地に柵を建て、兵を置くことを願い出たので、これを許した(注:本書の注に、「唱更とは今の薩摩国である」とある)。十日甲辰、太上天皇が参河に行幸し、諸国の今年の田租を免除した(注:上文の四月にも「諸国の今年の田租を免除する」とあり、ここでも同様に記している。おそらく先に免除したのは飛騨に近い諸国であり、ここで免除したのは車駕が通過した諸国であろう)。十一日乙巳、近江がめでたい稲穂を献上した。畝を異にしながら穂を同じくするものであった。十四日戊申、律令を天下に頒布した。二十一日乙卯、詔して、「上は曾祖父から下は玄孫に至るまで、代々孝行と従順を尽くした家には、戸を挙げて課役を免除する。その門閭(もんりょ、家の門構え)に旌(はた)を立てて表彰し、義家(ぎか、模範となる家)とせよ」と命じた。十一月二十五日戊子、太上天皇が参河から帰還し、通過した国の国司・郡司および百姓に、爵位を授け物を賜った。供奉した騎士の調を免除した。十二月二日甲午、勅して、「九月九日と十二月三日は先帝の忌日であるから、諸司は政務を休むように」と命じた。六日戊戌、星が昼間に見えた。十日壬寅、初めて美濃の岐蘇山道(きそさんどう、木曽路)を開いた。十三日乙巳、太上天皇が体調を崩した。天下に大赦を行い、百人の僧を得度させた。四畿内に金光明経(こんこうみょうきょう)を講義させた。二十二日甲寅、太上天皇(持統天皇)が崩じた。二十五日丁巳、四つの大寺で斎会を設けた。二十九日辛酉、西殿に殯(もがり)した。この年、因幡・伯耆・隠岐でイナゴの害があった。越後・上野で疫病が流行し、医薬を給付した。駿河・伊豆・下総・備中・阿波で飢饉が起こり、使者を遣わして救済した。

三年癸卯、春正月一日癸亥、朝賀を中止した。王・卿・百官は大行天皇(たいこうてんのう、持統天皇)の殯宮(もがりのみや)を拝した。二日甲子、正六位下・藤原房前(ふじわらのふささき)を東海道に、従六位上・多治比三宅麻呂(たじひのみやけまろ)を東山道に、従七位上・高向大足(たかむこのおおたり)を北陸道に、従七位下・波多余射(はたのより)を山陰道に、正八位上・穂積老(ほづみのおゆ)を山陽道に、従七位上・小野馬養(おののうまかい)を南海道に、正七位上・大伴大沼田(おおとものおおぬた)を西海道に遣わし、政績を巡察させ、冤罪を訴え出させた。五日丁卯、大行天皇のために、大安・薬師・元興(がんごう)・弘福(ぐふく)の四寺で斎会を設けた。九日辛未、新羅の使者が来て、その国王の喪に赴いた。二十日壬午、三品・刑部親王を知太政官事(ちだいじょうかんじ)とした。二月三日乙未(注:本書は誤字と思われるが、今は前後の干支から推算して訂正した)、詔して律令選定の功を賞した。下毛野古麻呂・伊吉博徳(いきのはかとこ)らに田および封戸を身分に応じて賜った。十一日癸卯、大行天皇のために、四大寺および四天王・山田など三十三寺で斎会を設けた。三月十日辛未、四大寺に詔して大般若経を読ませ、百人の僧を得度させた。夏四月二日癸巳、大行天皇のために、西殿で斎会を設けた。閏月一日辛酉、天下に大赦を行った。右大臣・阿倍御主人が薨じた。秋七月五日甲午、災異がしきりに現れ、穀物の実りが悪かったことから、詔して、「京畿および太宰府管内諸国の調を半分減じ、天下の庸を免除する」と命じた。また詔して、「五位以上の者は、賢良方正の士を推挙せよ」と命じた。十三日壬寅、金光明経を四大寺で読ませた。十七日丙午、近江の山が燃えた。使者を遣わして名山大川に雨を祈らせた。九月二十二日庚戌、従五位下・波多広足(はたのひろたり)を遣新羅大使とした。冬十一月十六日癸卯、太政官が処分を下した。「巡察使が上申した諸国郡司らのうち、治績のある者は式部省が令によって推挙し、過失のある者は刑部省が律によって処断せよ。」十二月二十六日壬午、持統天皇を葬った。この年、相模・上野・信濃で疫病が流行し、医薬を給付した(注:一代要記・帝王編年記には、この年初めて東西の市を置いたとあるが、何によったものかは明らかでない)。

慶雲元年甲辰、春正月七日癸巳、大納言・石上麻呂(いそのかみのまろ)を右大臣とした。二十五日辛亥、初めて百官の跪伏(きふく、ひざまずき伏す礼)の礼を廃止した。二月一日丙辰、日食があった。夏四月九日甲子、諸国の印を鋳造した。十五日庚午、信濃が献上した弓一千四百張を太宰府に充てた。五月十日甲午、備前が神馬を献上した。慶雲(めでたい雲)が西楼の上に現れた。詔して天下に大赦を行い、改元した(注:水鏡には、「五月五日、大極殿の西楼上に慶雲が現れた」とある。一代要記には、「五日に慶雲が現れ、十日に改元した」とある)。高齢者や病人を救済し、壬寅の年以前の大税、および神馬を献上した郡の今年の調を免除した。親王・諸王・百官・使部(しぶ)以上に禄を身分に応じて賜った。六月三日丁巳、諸国の兵士団に勅して、十番に分けて武芸を教習させた。十一日乙丑、河内の女性が一度に三子を出産し、絁・綿・布を賜った。十五日己巳、阿波が連理の木を献上した。二十二日丙子、幣帛を諸社に奉って雨を祈った。秋七月一日甲申、粟田真人らが唐から帰還した。三日丙戌、左京職が白い燕を、下総が白い鳥を献上した。九日壬辰、使者を遣わして諸社に雨を祈らせた。十九日壬寅、詔して京の八十歳以上の高齢者を救済した。二十一日甲辰、幣帛を住吉社に奉った。八月三日丙辰、波多広足が新羅から帰還した。二十八日辛巳、周防で大風があり、作物が損なわれた。冬十月五日丁巳、詔して、日照りと洪水で実りが悪かったことから、今年の田租と徭役を免除した。九日辛酉、正六位上・幡文通(はたのふみみち)を遣新羅大使とした。十一月八日庚寅、使者を伊勢に遣わし、幣帛・鳳凰鏡・窠子錦(かしのにしき)を大神宮に奉った。十一日癸巳、持統天皇のために諸寺で斎会を設けた(注:本書では庚寅の条が癸巳の下に置かれているが、今は干支の順によって並べ直した)。二十日壬寅、初めて藤原宮の地を定めた。宮地に取り込まれた民家一千五百五戸に、布を身分に応じて賜った(注:皇代略記・皇年代略記はいずれも、大宝二年に遷都したとする。またある説では、慶雲九年に初めて平城宮を造り、三年三月に遷都したともいう。今、本書によれば、この年初めて藤原宮の地を定めたとあるだけで、遷都のことは記されていない。和銅三年に元明天皇が平城に遷都したのであって、この二書は誤りである)。十二月十日辛酉、幣帛を諸社に奉った。二十日辛未、大宰府が「大風で作物が損なわれた」と報告した。この年、伊賀・伊豆・信濃で疫病が流行し、いずれも医薬を給付した。武蔵・讃岐で飢饉が起こった。備中・備後・安芸・阿波で苗が損なわれた。いずれも救済した。伊勢・伊賀でイナゴの害があった。

二年乙巳、春正月十五日丙申、文武の百官を朝堂に招いて宴を催した。三月四日癸未、倉橋離宮(くらはしのりきゅう)に行幸した。夏四月三日壬子、詔してこう述べた。「朕は薄徳の身をもって、王公の上に立っている。徳をもって上天を感じさせ、仁愛を万民に及ぼすことができず、そのため陰陽の運行が乱れ、水害や日照りが時を違え、穀物の実りが悪く、民には飢えた顔色の者が多い。このことを思うたびに、心を痛めている。五つの大寺に金光明経を読ませ、民の苦しみを救うようにせよ。天下の今年の挙税(こぜい、貸付利息)の利は徴収せず、あわせて庸を半分減じよ。」五日甲寅、使者を遣わして天下諸国を巡察させた。十七日丙寅、勅して大納言の定員を二人に減らし、改めて中納言三人を置いた。五月八日丙戌、知太政官事・忍壁親王(おさかべしんのう)が薨じた。二十五日癸卯、幡文通が新羅から帰還した。六月二十七日乙亥、幣帛を諸社に奉って雨を祈った。二十八日丙子、太政官が奏上した。「このところ日照りが続き、田畑が枯れ焦げております。長く雨乞いを行っておりますが、まだ恵みの雨には浴しておりません。京畿の清らかな行いの僧らに雨を祈らせ、市場を閉じ、南門を塞ぐことをお許しください。」これに従った。秋七月二十九日丙午、大倭で大風があった。八月十一日戊午、詔してこう述べた。「陰陽の運行は度を失い、炎暑と日照りが十日余りも続いている。百姓は飢え荒み、あるいは罪の網にかかる者もある。天下に大赦を行い、民とともに新たに出直そう。死罪以下、罪の軽重を問わず、すべて赦免する。老人・病人・寡婦・独居の者で自ら生計を立てられない者には、程度に応じて救済を加えよ。ただし八虐(はちぎゃく、常赦で赦されない重罪)は、この赦しの対象外とする。諸国の調を半分免除する。」九月五日壬午、二品・穂積親王(ほづみしんのう)を知太政官事とした。二十六日癸卯、越前が赤い烏を献上した。国司、および瑞祥を出した郡の郡司に位を一階進め、百姓には一年間課役を免除し、瑞祥を得た者には従八位下を授け、あわせて絁・綿・布・鍬を身分に応じて賜った。冬十月二十六日壬申、使者を東海・東山・北陸・山陰・南海の五道に遣わし、高齢者・病人・寡婦・独居の者を救済し、今年の調を半分免除した。晦日丙子、新羅が調を貢いだ。十一月四日庚辰、詔して、「親王・諸臣に食封を身分に応じて加える。五位の食封は停止し、位禄(いろく)に替える」と命じた。十二月十九日乙丑、重ねて天下の婦女の制を定めた。神部(かんべ)を除いては、斎宮(さいぐう)・宮人および老女は、みな髻髪(けいはつ、髪を結い上げる形)とした。この年、諸国二十カ国で飢饉と疫病があり、医薬を給付し救済した。

三年丙午、春正月十七日壬辰、大射の禄法を定めた。閏正月五日庚戌、京畿および紀伊・因幡・参河・駿河で疫病が流行し、医薬を給付した。この日、盗賊を捜索して捕らえた。十三日戊午、新羅の調を伊勢神宮および七道の諸社に奉った。二十日乙丑、天下で疾病が流行したため、神祇に祈禱した。二月十六日庚寅、河内・摂津・出雲・安芸・紀伊・讃岐・伊予で飢饉が起こり、これを救済した。詔して群臣の食封を定め、七カ条の制を下した。二十三日丁酉、内野(うちの)に行幸した。二十六日庚子、京畿の盗賊を捜索して捕らえた。三月十三日丙辰、右京の女性が一度に三子を出産した。衣服・食糧、および乳母を賜った。十四日丁巳、詔してこう述べた。「そもそも礼というものは、天地の常なる道理であり、人倫の鋳型である。道徳仁義は、礼によって広まる。教訓と風俗の是正は、礼を待って成る。近ごろ諸司の立ち居振る舞いは、多く礼節に反している。加えて男女の区別がなく、集会にも節度がない。また聞くところによれば、京城の内外には穢れた臭いが多いという。これはひとえに担当の役所が検察を怠っているためである。今後は、両省・五府から官吏と衛士を遣わして厳しく取り締まらせ、事情に応じて処断せよ。処罰しがたい場合は、事情を記録して奏上せよ。」また詔してこう述べた。「冠を着けて仕える者は耕作に代わる俸禄を受け、秩禄を有する者は農地の妨げとならぬようにすべきである。これゆえに召公(しょうこう)は甘棠(かんとう)の木の下で憩い、公儀(こうぎ)は自邸の葵を抜いたのである。近ごろ王公諸臣は多く山や沢を独占し、競って貪欲を抱いている。柴刈りの民が来ると、たちまちその道具を奪う者もいる。加えて賜った土地は実際には一、二畝(せ)に過ぎないのに、これにかこつけて不当に占有し、峰を越え谷をまたいで勝手に境界を定めている。今後は二度とこのようなことをしてはならない。」夏四月晦日壬寅、河内・出雲・備前・安芸・淡路・讃岐・伊予で飢饉と疫病があった。使者を遣わして救済した。五月十五日丁巳、河内が白い鳩を献上した。献上した者に絁・糸・鍬・正税三百束を賜った。六月一日癸酉、日食があった。四日丙子、京畿の名山大川に雨を祈った。秋七月二十四日乙丑、丹波・但馬の山が燃えた。使者を遣わして神祇に幣帛を奉りこれを鎮めさせた。大倭の狭嶺山(さみねやま)も燃えた。二十八日己巳、周防が白い鹿を献上した。東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海の六道で飢饉があり、使者を遣わして救済した。太宰府が、「九国三島で日照りが続き、大風が木を根こそぎにして作物を損なった」と報告した。使者を遣わして巡察させ、被害の甚だしい者の調役を免除した。八月三日甲戌、越前が「山が燃えた」と報告した。使者を遣わして管内の神に幣帛を奉りこれを鎮めさせた。二十一日壬辰、従五位下・美弩浄麻呂(みののきよまろ)を遣新羅大使とした。二十九日庚子、三品・田形内親王(たがたのひめみこ)を遣わして大神宮に仕えさせた。九月十五日丙辰、使者を七道に遣わし、初めて田租の法を定めた。二十五日丙寅、難波に行幸した。冬十月十二日壬午、宮に還った。摂津・山背の国造らに、それぞれ位を一階進めた。十五日乙酉、供奉した諸国の騎兵の庸調と田租を免除した。十二月一日辛未、日食があった。九日己卯、勅して天下に脛裳(はばき)を脱がせ、白い袴を着用させた。この年、諸国で疾病が流行し、百姓の多くが死んだ。初めて土牛(どぎゅう)を作り、大儺(たいな、疫病払いの儀式)を行った。

四年丁未、春二月六日乙亥(注:本書は「正月」とするが、今甲子から推算すると、正月は庚子朔であり、乙亥・戊子・甲午の日はない。二月は庚午朔であり、干支がすべて合致するため、これを訂正した)、諸国で疫病が流行したため、使者を遣わして大祓を行わせた。十九日戊子、群臣に詔して遷都について議論させた。二十五日甲午、天皇は大極殿に出御し、詔して成選人(せいせんにん、選考を経た者)らに位を授けた。夏四月十三日庚辰、日並知皇子尊(ひなみしのみこのみこと、草壁皇子)の薨去した日にあたることから、初めて国忌(こっき、国家的な忌日)を定めた。十五日壬午、詔して大納言・藤原不比等の封戸を増やし、また親王以下四位以上、および内親王・諸王・嬪(ひん)・命婦(みょうぶ)らの封戸を身分に応じて増やした。二十九日丙申、天下で飢饉と疫病があった。これを救済した。幣帛を諸社に奉り、京畿および諸国の仏寺で経を読ませた。五月十六日癸丑、美濃の女性が一度に三子を出産した。穀物と乳母を賜った。二十一日戊午、畿内で長雨が続き苗が損なわれた。使者を遣わして貸付による救済を行った。二十八日乙丑、美弩浄麻呂が新羅から帰還した。六月一日丁卯、日食があった。十五日辛巳、天皇が崩じた。御年25歳(注:年齢は懐風藻・水鏡・一代要記・神皇正統記・愚管抄による)。遺詔して、「哀悼の儀は三日間、喪服は一カ月間とせよ」と命じた。諡(おくりな)を倭根子天之真宗豊祖父天皇(やまとねこあめのまむねとよおおじのすめらみこと)といった(注:「天之真宗」は本書の前後の文による。歴代皇紀・一代要記では天津足根大父天皇(あまつたらしねおおじのすめらみこと)とする)。飛鳥岡で火葬し、檜隈安古山陵(ひのくまのあこのやまのみささぎ)に葬った(注:延喜式には、「檜前安古岡上陵」とある)。追って文武天皇と諡した。