卷之二百廿六 列傳第一百五十三
方技
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
水江浦島子
¶異国の歴史書が方技(注:方術・技芸に携わる者)の伝を記すようになったのは、古くからのことである。仙術や道教の徒は、まとめて取り上げられたり個別に扱われたりしてきた。世俗を離れた者が自分一人の身を修めるだけなら差し支えないが、ひとたび君主がこれを好むようになれば、その害は言い尽くせないほどになる。ここに記すのは、それを戒めとして残すためである。我が国では仙術は伝わっておらず、丹薬を練る法についても師から受け継いだ者はいない。久米仙人(くめのせんにん)(注:久米陽勝)の一党がわずかに僧侶の伝記に混じって見えるのみである。浦島子(うらしまのこ)や白箸翁(しらはしのおきな)の類も、その一端をおぼろげにうかがえるにすぎない。こうした話は、あってもとくに国家の益にはならず、なくても政治の根幹を損なうことはない。ならば、ないに越したことはないとも言える。役小角(えんのおづぬ)は鬼神を使役し、まじないによって邪気を払い導いたが、その術は道教の徒にかなり近い。後世になると仏教の教えと結びつき、ついに盛んに行われるようになった。陰陽・暦道・天文・典薬といった分野については、すでに専門の官司が置かれている。それぞれの才能をもって天体の運行を推算し観測し、占いや鍼治療を行い、いずれも国家に貢献し、その技芸によって世に名を知られた者たちである。これらの人物もあわせてここに記し、方技伝とする。
役小角
¶水江浦島子(みずのえのうらしまのこ)は、丹波(たんば)国余社郡(よさのこおり)管川(つつかわ)の人である。雄略天皇二十二年七月、舟に乗って釣りをしていたところ、大きな亀を釣り上げた。その亀はたちまち美しい女性に姿を変えた。浦島子はこれを喜んで妻とし、ともに海に入って蓬莱山(ほうらいさん)に至った。(注:『日本書紀』による。)そこで仙境の楽しみを存分に味わい、歳月の移り変わりにも気づかなかった。しばらくすると、故郷を思う気持ちが芽生えた。女はその心を察し、浦島子に人間界へ帰るよう教えた。別れに際して玉手箱(たまくしげ)を封じて贈り、「もし再び会いたいと思うなら、決して開けて見てはいけません」と戒めた。浦島子が船に乗ると、たちまち澄江浦(すみのえのうら)に着き、昔の故郷を訪ねた。しかし村は移り里は変わり、知る人は誰一人いなかった。浦島子が彷徨っていると、たまたま洗濯をしている老婆に出会ったので、親族や旧知の者について尋ねた。老婆は「知りません。私は今年百七歳になりますが、かつて古老が伝えて言うのを聞いたことがあります。『昔、この地に浦島子という者がいて、澄江浦で釣りをしていた。ある日舟に乗って出ていったきり、とうとう帰ってこなかった』と」と答えた。浦島子は呆然として我を忘れ、そのまま玉手箱を開けて見てしまった。すると箱の中から紫の雲が立ちのぼり、たちまち顔かたちは衰え萎び、老翁の姿に変わってしまった。浦島子はその後も長らく茫然としていたが、やがて身を修め心を養い、山あいの岩窟に身を寄せ、その後どうなったかは分からない。(注:『釈日本紀』が引く『丹波国風土記』によれば、伊与部馬養(いよべのうまかい)が与謝郡司であったとき、浦島子の物語を文章に記し世に伝えたという。しかしその文章は現存しないため、今は『日本紀』に残る記述と『続浦島子伝』によった。)
白箸翁
¶役小角(えんのおづぬ)は、賀茂役公(かものえだちのきみ)の氏で、大和(やまと)国葛木上郡(かつらぎのかみのこおり)茅原村(ちはらむら)の人である。聡明で博学であり、とりわけ仏教を好み、呪術に長じていた。三十二歳のとき家を捨てて葛城山(かつらぎさん)に入り、岩窟に三十余年住んだ。松の実を食べ、藤や葛を身にまとった。(注:『元亨釈書』による。)鬼神を駆り使い、水を汲ませ薪を採らせた。すべて自分の思うままにし、命令に従わない者があれば呪文で縛りつけた。韓国広足(からくにのひろたり)はその門下で学んでいたが、小角の能力を妬み、妖しく人を惑わしていると讒言した。(注:『続日本紀』による。)文武天皇は小角を捕らえるよう詔した。小角は空を飛んで逃げ去り、役人は追い捕らえることができなかった。そこで母を捕らえたところ、小角は自ら出頭して捕われた。(注:『元亨釈書』による。)伊豆島(いずのしま)に流された。(注:『続日本紀』による。)のちに恩赦にあって都へ帰ることを許され、また鉄鉢に母を乗せて海を渡り、唐へ赴いたという。(注:『元亨釈書』。同書によれば、小角は金峰山(きんぷせん)と葛城山の間が険しく通行しがたいので、山の神に命じて石橋を架け道を通じさせようとした。神々は命を受け、夜ごとに岩石を運んだ。しかし長く経っても完成しなかった。小角がこれを督責すると、山の神は「葛城一言主神(かつらぎのひとことぬしのかみ)は容貌が醜いため、昼に働くことを嫌がり、夜になるのを待って役に就いています。それで遅れているのです」と訴えた。小角は怒って、これを深い谷に呪縛した。その神は宮中の女官に託宣して「私は逆賊を取り締まる神である。役小角は密かに国家をうかがっている。急いで取り締まらねば危険である」と告げた。文武天皇は勅して小角を捕らえ、伊豆へ流した。『続日本紀』によれば、小角が流されたのは韓国広足の讒言によるものであり、その事実は明確であるため、今はそれに従う。『本朝神仙伝』には「僧道照(どうしょう)が高麗(こうらい)へ行って説法したとき、聴衆の中に日本語を話す者がいた。それが小角であった。すでに百余年を経ていた」とある。道照は大いに驚き、座を下りて尋ねたが、まったく答えることなく、二度と姿を見せなかったという。『元亨釈書』の小角の賛にも、古い記録を引いて「道照が新羅(しらぎ)へ行って法華経を講じたとき、群れる虎が脇で聞いており、その中に人の言葉を話す者がいて『私は役小角である』と言った」とある。この話は年代が少し食い違うため、本文には採らない。道照は孝徳天皇の白雉四年に遣唐使に従って唐に入り、文武天皇四年に没している。『神仙伝』が「すでに百余年を経ていた」というのは、その誤りが甚だしいため採らない。)
大津守
¶白箸翁(しらはしのおきな)は、姓名も出身の里も分からない。貞観(じょうがん)の末年、常に市中を歩き回り、白箸を売ることを生業としていた。当時の人々は「白箸翁」と呼んだ。鬢髪(びんぱつ)は真っ白で、冠も履物も整っておらず、一枚の黒い衣を身にまとい、寒暑を問わず変わることがなかった。人がその年齢を尋ねると、いつも七十歳だと答えた。市中に占いを売る者がいて、年は八十ほどであったが、人に語って「私が子供の頃、すでにこの翁を知っていた。その服装や顔かたちは、今とまったく変わりがない」と言った。聞く者はその翁に何か異なる術があるのではと疑った。酒食を与える者があれば、量の多少を問わず、酔い飽きるまで飲み食いした。あるいは何日も食べないことがあっても、飢えた様子は見せなかった。奔放でありながら慎み深く、一定しない態度で、人々はその実体をつかむことができなかった。のちに市の門のそばで病を得て亡くなった。市の人々はこれを哀れみ、亡骸を東河(とうが)の東に葬った。それから二十余年後、ある僧が南山でこの翁に出会った。翁は石室に住み、香を焚いて経を誦していた。僧が「翁はお変わりありませんか」と尋ねると、翁は笑うだけで何も言わず、やがて立ち去り、行方は分からなくなった。僧はこのことを市の人々に語り、聞いた者はみな不思議に思った。(注:『本朝文粋』による。)
大津大浦
¶大津首(おおつのおびと)は、初め僧となり義法(ぎほう)と名乗った。慶雲(きょううん)年間、美努浄麻呂(みののきよまろ)に従って新羅へ渡り学んだ。一年余りで帰国した。占いに優れていた。和銅(わどう)年間、詔によって還俗させられ、今の名を賜り、従五位下を授けられた。まもなく従五位上に進んだ。(注:『続日本紀』による。)陰陽頭(おんみょうのかみ)となり、皇后宮亮(こうごうぐうのすけ)を兼ねた。(注:『懐風藻』による。)天平(てんぴょう)の初め、詔によって諸博士が弟子を教授することとなり、首(おびと)もその一人であった。(注:『続日本紀』による。)六十六歳で没した。(注:『懐風藻』による。)
藤原並藤
¶大津大浦(おおつのおおうら)は、代々陰陽の術を学ぶ家柄で、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に深く愛され信頼されていた。天平宝字(てんぴょうほうじ)の末年、仲麻呂が謀反を企て、その吉凶を大浦に尋ねた。大浦は禍が自分に及ぶことを恐れ、ひそかにその内情を密告した。まもなく仲麻呂は反乱を起こした。大浦はその功により従四位上を授けられた。姓を「連(むらじ)」に改め、さらに「宿禰(すくね)」を賜り、左兵衛佐(さひょうえのすけ)となり、美作守(みまさかのかみ)を兼ねた。神護(じんご)の初め、功田(こうでん)十五町を賜った。大浦はかつて和気王(わけのおおきみ)と親しく、たびたびその邸で酒を飲んでいた。和気王が謀反を企てたことに連座し、宿禰の姓を剥奪され、日向(ひゅうが)の員外介(いんがいのすけ)に左遷され、位階と封戸を奪われた。景雲(けいうん)年間、任を解かれ、所蔵していた天文・陰陽の書物を没収された。宝亀(ほうき)の初め、召し還されて姓と位を回復し、陰陽頭となり、安芸守(あきのかみ)を兼ねた。宝亀六年、在官のまま没した。(注:『続日本紀』による。)
伊岐是雄
¶藤原並藤(ふじわらのなみふじ)は、参議藤原浜成(ふじわらのはまなり)の曾孫であり、父の臣継(おみつぐ)は豊前介(ぶぜんのすけ)であった。並藤は陰陽・推歩(すいほ)(注:天体運行の推算)の学に優れ、あわせて天文・風角(ふうかく)・星占(ほしうら)にも通じていた。初め丹波権掾(たんばのごんのじょう)に任じられたが赴任せず、留まって陰陽助(おんみょうのすけ)となった。天長(てんちょう)・承和(じょうわ)の間、筑後(ちくご)・和泉(いずみ)・加賀(かが)の守を歴任し、陰陽頭となった。嘉祥(かしょう)年間、従五位上に叙せられた。仁寿(にんじゅ)三年、病が重くなった。天皇はその才学を重んじ、特に正五位下を授けた。六十二歳で没した。(注:『文徳実録』による。)
卜部平麻呂
¶伊岐是雄(いきのこれお)と卜部平麻呂(うらべのひらまろ)について記す。伊岐是雄は壱岐島(いきのしま)石田郡(いしだのこおり)の人である。もとの姓は卜部(うらべ)であったが、のちに今の姓を賜った。始祖忍見足屋命(おしみのたるやのみこと)以来、代々亀卜(きぼく)を職として伝え、子孫がこれを習い継いだが、是雄に至ってその術が最も精緻であり、当時の人々から重んじられた。嘉祥年間、東宮(とうぐう)の宮主(みやじ)となった。清和(せいわ)天皇の即位に際し、あらためて宮主に転じた。貞観年間、従五位下に叙せられ、丹波権掾に任じられた。卜部平麻呂という者は伊豆(いず)の人である。是雄と同時代の人で、幼いころから亀卜を習い、神祇官(じんぎかん)の卜部となった。占いの判断はしばしば驚くほど的中した。承和の初め、占いに優れていることから遣唐使の一員に選ばれた。帰国後、神祇大史(じんぎのだいし)となった。天安(てんあん)年間、権大祐(ごんのだいじょう)に転じ、宮主を兼ねた。貞観年間、参河権介(みかわのごんのすけ)に遷った。累進して従五位下となり、備後(びんご)・丹波の介を歴任した。元慶(がんぎょう)年間に没した。(注:『三代実録』による。)
滋岳川人
¶滋岳川人(しげおかのかわひと)は、もとの姓は刀岐直(ときのあたい)であった。(注:『文徳実録』による。)陰陽の学に博く通じ、宿曜(すくよう)・遁甲(とんこう)の術に長じていた。(注:『類聚国史』『今昔物語』を参照した。)未来の出来事を見通すことに優れ、人に災厄が及びそうなときは、川人があらかじめそれを察知した。その人が救いを求めれば、術によってこれを鎮め、必ず不思議な効験があった。(注:『今昔物語』による。)文徳(もんとく)朝、陰陽権允(おんみょうのごんのじょう)に抜擢され、陰陽博士を兼ねた。斉衡(さいこう)元年、滋岳朝臣(しげおかのあそん)の姓を賜り、まもなく陰陽権助(おんみょうのごんのすけ)となった。(注:『文徳実録』による。)貞観年間、従五位下に叙せられ、播磨権大掾(はりまのごんのだいじょう)を兼ねた。まもなく権介に転じた。のちに陰陽頭に任じられ、安芸権介を兼ねた。従五位上に進み、陰陽博士はもとのままであった。貞観十六年に没した。川人はたびたび勅命を受け、大和(やまと)国吉野郡(よしののこおり)の高山に至り、蝗害(こうがい)を払う祭りを執り行った。(注:『三代実録』による。)また後年の世の出来事を推し量って記録し世に伝え、これを『川人勘文(かわひとかんもん)』と呼んだ。(注:『続古事談』による。)著書には『世要動静経(せようどうじょうきょう)』『指掌宿曜経(ししょうすくようきょう)』『滋川新術遁甲書(しげかわしんじゅつとんこうしょ)』『金匱新経(きんきしんきょう)』(注:『類聚国史』『仁和寺書籍目録』による。)『宅肝経(たくかんきょう)』などの書があり、陰陽道の法則とされた。(注:『仁和寺書籍目録』による。)川人が用いた大乙式盤(たいいつしきばん)には神霊が宿るとされ、陰陽家が代々家宝として伝えた。(注:『左経記』による。)川人の後には弓削是雄(ゆげのこれお)が出て、是雄の後には賀茂忠行(かものただゆき)が出て、いずれも方術に優れ、その名声は互いに並び称された。(注:『今昔物語』による。)
弓削是雄
¶弓削是雄(ゆげのこれお)は、播磨(はりま)国餝磨郡(しかまのこおり)の人である。その先祖は饒速日命(にぎはやひのみこと)から出ている。父の安人(やすひと)は正六位上に叙せられた。(注:『三代実録』による。)是雄は陰陽推算の術に通じ、占いの効験はまるで神のようであった。(注:『政事要略』が引く『善家集』による。)貞観の初め、陰陽師となった。貞観六年、父の安人らとともに本籍を改め、河内(かわち)国大県(おおあがた)に付籍した。(注:『三代実録』による。)その年、近江介(おうみのすけ)藤原有蔭(ふじわらのありかげ)が是雄を邸に招き、属星(ぞくしょう)(注:その人の生まれ年にあたる星)を祭らせた。当時、内豎(ないじゅ)である伴世継(とものよつぐ)という者が、有蔭の邸に宿泊していた。世継は凶夢を見たので、是雄に占わせた。是雄は式盤(しきばん)を廻して大いに驚き、「あなたがもし家に帰れば、必ず鬼に殺されるでしょう。決して家に入ってはなりません」と言った。世継は長らく旅にあったため、これを聞いて嘆息した。そして「私は家をひどく恋しく思い、帰らずにはいられません。何か防ぐ方法はないでしょうか」と尋ねた。是雄はさらに占って「あなたの家の寝室の艮(うしとら)(注:北東)の隅に鬼がいます。剣を帯び弓矢を持って、まっすぐ寝室に入り、弓を引き目をいからせて艮の方角に向かい、『早く出て行け。出て行かねば殺すぞ』と叫びなさい。そうすれば難を免れることができるでしょう」と言った。世継がその言葉のとおりにすると、一人の僧が匕首(あいくち)を持って現れ、頭を叩いて「私はあなたの妻と密通していました。最近あなたが帰ってくると聞き、殺そうとしていたのです。しかしあなたがすでに気づいていたので、自首したのです」と言った。世継はただちに妻を追い出し、僧を捕らえて獄に入れた。当時の人々は「(古代中国の占い師)管輅(かんろ)・郭璞(かくはく)の輩である」と称賛した。(注:『政事要略』『今昔物語』による。)まもなく陰陽允(おんみょうのじょう)となった。貞観十五年、また本籍を右京に移した。(注:『三代実録』による。)まもなく陰陽権助に転じ、播磨権少目(はりまのごんのしょうさかん)を兼ね、外従五位下(げのじゅごいのげ)に叙せられた。(注:『類聚国史』による。)元慶元年、姓を「連(むらじ)」に改め、「宿禰」を賜った。(注:『三代実録』による。)まもなく備前権掾(びぜんのごんのじょう)を兼ね、従五位下に進んだ。(注:『類聚国史』による。)仁和(にんな)の初め、陰陽頭となった。(注:『三代実録』による。)寛平(かんぴょう)の頃には、その名声はますます重くなった。三善清行(みよしのきよゆき)はその術に感服し、かつて「是雄の術は、死の中に生を求め、凶の中に吉を得るもので、万に一つも外れることがない」と嘆じたという。(注:『政事要略』による。)
賀茂忠行
¶賀茂忠行(かものただゆき)は、大外記(だいげき)峰雄(みねお)の子である。(注:『賀茂氏系図』、大外記の官職は『類聚符宣抄』による。)忠行は和漢の学問を兼ね備え、陰陽推歩の術に優れていた。式占(しきせん)は誤ることがなく、朝廷も民間もこれを信頼した。(注:『朝野群載』『今昔物語』による。)陰陽師となった。(注:『今昔物語』による。)近江掾(おうみのじょう)・丹波介(たんばのすけ)を歴任し、(注:『系図』、『作者部類』による。)正六位上を授けられた。天暦(てんりゃく)年間、子の保憲(やすのり)の奏請によって従五位下に叙せられた。(注:『系図』『本朝文粋』による。)天徳(てんとく)三年、天皇は忠行に試みに箱の中の物を占わせた。忠行は占文を献じて「火の色が中にあるが、燃え広がることはない。水晶が飾られているが、水気で衣を濡らすことはない。丸いものの母は一つだが、丸いものの子は百あまりもある。あたかも雁の列が連なるように、手にかけ身に添えるもので、桑林のように吐き吸いをし、串に玉を通して空に吊るしたようで、露をたたえて膝の底に垂れている(注:欠字や誤りがあるものと思われる)」と述べた。これは水晶の念珠(ねんじゅ)を朱色の糸で貫いたものであった。開けてみると果たしてそのとおりであった。(注:『朝野群載』による。)天暦年間、都に一人の僧がいて、怪異に遭遇した。忠行に占わせたところ、「某日、あなたの家に盗難があるでしょう。物を失うだけでなく、命を失うことにもなりかねません。用心すべきです」と言った。僧の家はもともと裕福であったので、これを聞いて大いに恐れた。その日になると物忌みをし、戸を閉ざして客を断った。日が暮れる頃、平貞盛(たいらのさだもり)が陸奥(むつ)から到着した。もとより親しい間柄であったので、宿を借りたいと申し出た。僧は事情を話して断った。貞盛は「師にもし危険があるのなら、私を留めて備えとすべきです。それなのにかえって断るとは、なんという失策でしょう」と言った。そこで結局泊めることになった。夜半、十余人の賊が刀や棒を携えてまっすぐ庭に入り込み、談笑し騒ぎ立て、まったく遠慮する様子がなかった。貞盛は起きて弓矢を取り、こっそり賊の中に紛れ込んだ。表向きは案内役のふりをして、財貨のある場所を指し示した。賊はまったく気づかず、先を争って進んだ。貞盛は真っ先に来た者一人を射殺した。暗闇の中で賊はその様子に気づかなかった。貞盛は「人が矢を放った。弦の音がひどく強い。われらは逃げそこなうかもしれない。早く逃げるべきだ」と叫んだ。ある賊が奮い立って「弱い矢に緩い弓など、恐れるに足りぬ。者ども、励め」と言った。貞盛はまたこれを射て倒した。賊たちは驚いて逃げ、貞盛は追って矢を放ち、さらに四人を倒し、一人を生け捕りにした。そこで残りの仲間を探し出し、すべて捕らえた。僧はついに難を免れた。(注:『今昔物語』による。)忠行には四人の子があり、保憲(やすのり)・保胤(やすたね)・保明(やすあきら)・保遠(やすとお)という。(注:『系図』による。)保胤は姓を慶滋(よししげ)と改め、文学伝に記す。(注:『本朝文粋』による。)保明は従四位上、文章博士(もんじょうはかせ)・能登守(のとのかみ)となった。(注:『系図』『作者部類』による。)保遠は正五位下、権陰陽博士・主計助(かずえのすけ)となった。(注:『系図』による。)
賀茂保憲
¶賀茂保憲(かものやすのり)は、幼い頃から並外れた才能があり、忠行はこれを異才だと見ていた。方術の奥義をすべて伝授された。成長すると名声を得た。(注:『今昔物語』による。)若くして暦博士(れきはかせ)となり、従五位下に叙せられ、席次は忠行の上に置かれたが、保憲はこれを親子の道に反すると考えた。天暦六年、上奏して「父より先に高い位を帯びることは、昔の人もこれを恥じ、今の私も恥じるところです。栄えある位を譲って親に及ぼすことは、賢者もこれを思い、愚かな私もまたこれを思います。父忠行は、心に古今の学を尋ね、和漢の学問を兼ね備えております。あらゆる書物の門を叩き、多くの学問の流れを渡って浅深を汲み取ってまいりました。学問を好む心は、年老いてなお篤いものがあります。私保憲は父の教えを受けてまだ日が浅く、ようやく推歩の術の一端を垣間見たにすぎませんが、公務に励んだ功績により、すでに三代の天皇のもとで栄爵をいただいております。しかし老いた父は齢を重ねながらも粗末な衣を改めることなく貧しい暮らしのままであり、年若い愚息の私は朱色の衣をひきずって朝廷を行き来しております。朝夕の孝養もままならず、進退にも困惑しております。柳が秋を経てますます脆くなるように、父は年老いてなお貧しい暮らしを重ねております。天子への忠誠を尽くす年月は長くとも、私事において父を孝養する日は短いのです。今、天皇はすでに孝によって天下を治めておられます。臣下たる私がどうして孝の心を忘れることができましょうか。願わくは天のお慈悲をもって哀れみをお垂れいただき、この朝廷に仕える者としての名を、老いた父に譲らせてくださいますよう。そうすれば、父は栄えある位に登り、五位の号を誇ることができ、子である私は最初の身分に戻ったとしても、万戸の諸侯に勝るものがございます。父を思う志に耐えられず、ここに申し上げる次第です」(注:『朝野群載』による。)と述べた上表文を奏上した。天皇は特に忠行に従五位下を授けた。(注:『系図』による。)天徳の初め、陰陽頭に任じられ、(注:『扶桑略記』による。)天文博士を兼ねた。(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。)安和(あんな)年間、主計頭(かずえのかみ)となり、穀倉院別当(こくそういんのべっとう)を補された。(注:『二中歴』による。)正五位下に進み、天文博士はもとのままであった。(注:『類聚符宣抄』による。)天延(てんえん)年間、暦の作成の功により従四位下を授けられた。(注:『朝野群載』による。)まもなく従四位上に叙せられた。貞元(じょうげん)二年に没した。子は光栄(みつよし)・光国(みつくに)・光輔(みつすけ)である。(注:『系図』による。)一人の娘があり、才知に恵まれ和歌に優れ、家集が世に伝わっている。(注:『続往生伝』『保憲女集』による。)
¶賀茂光栄(かものみつよし)は、家学を継いで暦博士となった。(注:『系図』による。ある写本では天文博士とする。)安倍晴明(あべのせいめい)と並び称された。(注:『続往生伝』による。)かつて晴明と優劣を争ったことがあった。晴明は「師(忠行・保憲)が世におられたとき、常に私をあなたより上に置いていた。それに諸家の書物の集成も私の家に伝わっている」と言った。光栄は「愛憎は親疎によるものではない。諸家の集成のような書物なら、私の家にも伝わっている。暦道に至っては、私だけがこれを会得しており、あなたの知らぬところである」と言い返した。世間では「晴明は方術に長じているが、学識では光栄に及ばない」と評された。(注:『続古事談』による。)寛弘(かんこう)八年、敦康親王(あつやすしんのう)の住居の天井の上で音がして、瓦礫を投げつけたようであった。親王はこれを怪異と考え、光栄に占わせた。光栄は「占文は非常に凶であり、君上にとって不利です。三十日の間に異変があるでしょう」と言った。まもなく天皇は病を得て、間もなく崩御した。藤原行成(ふじわらのゆきなり)は「光栄の占いは、まるで手のひらを指し示すように的確であり、神業と言うべきである」と嘆じた。(注:『権記』による。)大炊助(おおいのすけ)・右京権大夫(うきょうのごんのだいぶ)を歴任し、従四位上に叙せられた。長和(ちょうわ)年間に没した。(注:『系図』による。)
¶子孫は代々陰陽・暦学によって仕えた。(注:『系図』『今昔物語』による。)家に伝わる書物に『暦林(れきりん)』十巻がある。(注:『仁和寺書籍目録』による。)忠行は天文・暦道の両方に通じ、そのすべてを保憲に伝えた。保憲はそれによって両方の職を兼ねた。のちに保憲は暦道を光栄に、天文を安倍晴明に伝え、二つの家業に分かれたという。(注:『帝王編年記』『職原鈔』による。)
安倍晴明
¶安倍晴明(あべのせいめい)は、右大臣安倍御主人(あべのみうし)の後裔である。父の益材(ますき)は大膳大夫(だいぜんのだいぶ)であった。(注:『尊卑分脈』による。)晴明は初め賀茂忠行およびその子保憲に師事し、陰陽推算の術を学んだ。式神(しきがみ)を使役し、天文に通じ雑占にも明るかった。その占いは神のごとく的中した。(注:『今昔物語』。忠行および子の保憲に師事したことは『職原鈔』『安倍系図』による。)次第に昇進し、従四位下に叙せられ、天文博士・大膳大夫・左京大夫・播磨守を歴任した。(注:『系図』による。)花山(かざん)天皇が譲位した夜、ひそかに宮中を抜け出したが、そばに仕える女官たちさえこれを知らなかった。その夜、晴明は暑さを避けて庭にいたところ、天を仰ぎ見て天体に異変があるのを認め、大いに驚いて朝廷へ駆けつけた。すると天皇は果たして宮中にいなかった。(注:『大鏡』『元亨釈書』による。)長徳(ちょうとく)年間、ある術士が左大臣藤原道長(ふじわらのみちなが)に「某日、お宅に怪異があるでしょう」と告げた。その日になると道長は門を閉ざして客を断り、ただ鎮守府将軍源頼光(みなもとのよりみつ)、医師丹波忠明(たんばのただあき)、(注:頼光を底本は義家・忠明とするが、これらは誤りであろう。『元亨釈書』は重雅とするが、これも誤りである。)僧正勧修(かんしゅう)、そして晴明だけを招いた。ちょうど大和国から瓜が献上された。道長は疑って食べようとしなかった。晴明は「この瓜には毒があります」と言った。勧修が呪文を唱えると、瓜が跳ね回って止まらなくなった。忠明が針でこれを刺すと、瓜はようやく動かなくなった。頼光が刀を抜いてこれを切ると、中に小蛇がいて、針がその目に刺さり、刀がその首を断っていた。(注:『古今著聞集』による。)道長の家では一匹の犬を飼っており、外出のたびに必ずついてきた。ある日、法成寺(ほうじょうじ)へ向かおうとすると、犬が前をさえぎって吠え、衣をくわえて引っ張った。道長は不審に思い、寺の門をくぐらなかった。晴明を呼んで問うと、晴明は「あなたを呪咀(じゅそ)する者があり、ここに呪いの品を埋めています」と言い、ある場所を指し示した。掘ってみると封をした土器が出てきて、中に朱で書かれた一文字があった。晴明は「世にこの術を知る者はいない。きっと道満法師(どうまんほうし)(注:「満」は「摩」とも書く)の仕業であろう」と言った。そして紙を結んで鳥の形を作り、呪文を唱えて投げると、それは鷺(さぎ)に姿を変えて飛び去った。人を後をつけさせると、万里小路(までのこうじ)の河原院(かわらのいん)のそばの民家に止まった。人々がその家の主人を捕らえて連れてくると、果たして道満であった。取り調べて事実を確かめ、道満を播磨国へ追放した。(注:『宇治拾遺物語』『東斎随筆』『十訓抄』による。)また、園城寺(おんじょうじ)の僧智興(ちこう)が病篤く死にかかったとき、その弟子たちが晴明を招いて病気平癒を祈らせた。晴明は「師の病は治りません。私に秘法の符があり、それを他人に移すことができます」と言った。僧の証空(しょうくう)が身代わりになることを願い出た。晴明が符を書いて祈ると、智興はたちまち治り、証空が急に病を得た。(注:『元亨釈書』による。)かつて陣座(じんのざ)を通りかかったとき、蔵人(くろうど)の某が烏に糞をかけられたのを見て、「烏は式神です。この人には必ず式神の祟りがあるでしょう」と言い、その人に「あなたの命は今夜を過ぎることはないでしょう」と告げた。その人は涙を流して救いを求めた。晴明はその家についていき、夜通しそばに付き添って呪文を唱えた。夜明けになると門を叩く者があった。尋ねてみると、呪いをかけていた本人が自ら来て事実を白状し、大声を上げて急に死んだ。某はついに難を免れた。(注:『宇治拾遺物語』による。)晴明の妻は式神を恐れたので、これを一条戻橋(いちじょうもどりばし)のそばに置いておき、用事があるときだけ呼び出して使った。(注:『源平盛衰記』による。)その門戸には人がいないのに、いつも自然に開閉した。当時、播磨の人で智徳(ちとく)という者がおり、これもまた方術に長じており、晴明の術を試そうとした。術を習う者のふりをして晴明の家を訪れ、二人の童子を従えていた。晴明は「あれは私の術を試そうとしているのだ。あの二人の童子はおそらく式神であろう」と考えた。そこで心の中で呪文を念じ手で印を結び、ひそかに二人の童子を隠したうえで、「今日は用事があるので、他日にお越しください」と言った。智徳が帰り、しばらくして再び来て「私は二人の童子を見失ってしまいました。あなたが隠したのではありませんか」と言った。晴明は笑って「私は知らない」と答えた。智徳が何度も頭を下げて謝るので、晴明は「あなたは私を試そうとしておきながら、私が気づいていないと思っていたのか。私をずいぶん浅く見くびったものだ」と言い、呪文を唱えると、二人の童子がたちまち現れた。智徳は感服して「昔から式神を使うことは容易だが、他人の式神を隠すことは難しいとされている。あなたはまさに神業と言うべきだ」と言い、ついに晴明に師事した。(注:『今昔物語』による。)かつて天徳年間、節刀(せっとう)が火災に遭い、その形を知る者がいなかった。天皇の詔によって晴明に問うたところ、晴明は木の模型を作って献上した。(注:『中右記』寛治八年の記事による。)著書に『金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)』があり、また『簠簋袖裏伝(ほきしゅうりでん)』とも呼ばれる。(注:本書による。)また『占事略決(せんじりゃくけつ)』一巻がある。(注:『仁和寺書籍目録』による。)子に吉平(よしひら)・吉昌(よしまさ)がいる。(注:『系図』によれば吉昌を長子とする。)吉平はよく家業を伝えた。長和五年、抜擢されて従四位下に叙せられ、当時の栄誉とされた。(注:『小右記』による。)主計頭・陰陽博士を歴任した。(注:『尊卑分脈』による。)吉平が丹波雅忠(たんばのまさただ)と酒を飲み、杯を満たして酌み交わしていたとき、吉平は「今にも地震が起きて杯の中の酒がこぼれるでしょう」と言った。言い終わらないうちに地震が起きた。(注:『古今著聞集』による。)吉昌は但馬権守(たじまのごんのかみ)・主税助(ちからのすけ)・陰陽頭を歴任し、(注:『尊卑分脈』『系図』による。)天文博士を務めた。(注:『小右記』『尊卑分脈』『系図』による。)長和四年、その功労により特に勅命で正五位下に叙せられた。(注:『朝野群載』による。)寛仁(かんにん)年間に没した。(注:『小右記』による。)晴明の五世の孫が泰親(やすちか)である。
安倍泰親
¶安倍泰親(あべのやすちか)は、家学に優れ、占いの判断に誤りがなかった。世間では「指御子(さしのみこ)」と呼んだ。これは、その推算がまるで手のひらを指し示すように的確であることを言ったものである。(注:『平家物語』による。)かつて雷が泰親の家に落ち、その背に触れたことがあった。衣が焦げるほどであったが、体にはまったく傷を負わなかった。(注:『玉海』『平家物語』による。)ただ雷の毒に当たった感覚があったので、地黄酒(じおうしゅ)を調合して飲んだところ、その日のうちに治った。人々はこれを伝えて不思議なことだとした。(注:『顕広王記』による。)祇園社(ぎおんしゃ)がかつて火災に遭ったことがあった。泰親はそのとき陰陽博士であり、これを占って「六月壬子(みずのえね)の日、内裏に災いがあるでしょう」と言った。その日になると、果たして土御門内裏(つちみかどのだいり)が火事になった。人々はこれを神業とした。(注:『続古事談』による。)治承(じしょう)三年十一月、京の都で大地震があり、しばらく揺れが続いた。泰親は馬を走らせて奏上し、「この凶兆は容易ならぬもので、その報いは近いうちに現れるでしょう」と言った。言い終わらないうちに涙を流した。周りの者はみな「今、天下は治まっており、何を心配することがあろうか」と言い合い、互いにその狂ったような取り乱しぶりを笑った。しかし十日も経たないうちに、平清盛(たいらのきよもり)が数千騎を率いて福原(ふくはら)から都に戻り、関白基房(もとふさ)を流罪にし、朝廷の官人数十人の官職を剥奪した。それでもなお満足せず、法皇(ほうおう)を鳥羽殿(とばどの)に幽閉した。ちょうど大きな鼬(いたち)が現れ、ぐるぐる回りながら悲しげに鳴き、法皇に向かって跳びはねてから去っていった。法皇はこれを不吉に思い、泰親に尋ねた。泰親は「三日のうちに慶事があるでしょう。しかしその後には憂い事があるでしょう」と答えた。法皇はまだこれを信じなかった。清盛の子宗盛(むねもり)は父の横暴を憂え、懸命にいさめたので、法皇は八条烏丸(はちじょうからすま)へ移され、警護もいくらか緩んで、心もようやく安らいだ。しかしまもなく以仁王(もちひとおう)が挙兵し、成功せずに命を落とした。当時の人々はその術の的中ぶりに感服した。(注:『平家物語』による。)
僧登照
¶僧登照(とうしょう)は、人相を見ることに優れているとして知られ、人の立ち居振る舞いを観察した。声を聞いてその人の貧富や寿命の長短を知り、あるいは笛の音を聞いただけで生死を知ることさえあった。京の都の一条に住んでいたので、人相を見てもらいに訪れる者が後を絶たなかった。(注:『今昔物語』による。)かつて天台座主(てんだいざす)院源(いんげん)を訪ねたことがあった。院源が「弟子の良因(りょういん)はいつ阿闍梨(あじゃり)に補任されるだろうか」と尋ねると、登照は「決してそのようなことはないでしょう」と答えた。院源は笑って「あなたの言うことは信じがたい。彼は才識にかけて並ぶ者がなく、必ず僧位を極めるであろう」と言った。登照は退出したのち人に「良因には年季が足りない。どうして阿闍梨に補任されようか」と語った。のちに果たしてその言葉のとおりになった。ある日、藤原道長の家を訪れた。道長は横になって語り合っていたが、そこへ子の頼通(よりみち)が来て挨拶した。登照はひそかに道長に「あなたの子息はすでに大臣の位に登っておられますが、今なお尊い位が加わる相があります」と言った。道長は驚いて起き上がり、「私はまさに摂政関白の座を彼に譲ろうと思っていたところだ」と言った。(注:『古事談』による。)かつて頼通とその弟教通(のりみち)の人相を見て、「お二方とも寿命は八十歳に至り、ともに三代にわたって丞相(じょうしょう)(注:大臣)となるでしょう」と言った。また藤原伊周(これちか)には流罪となる相があると言ったが、のちにいずれもその言葉のとおりになった。(注:『平家物語』『源平盛衰記』による。)東大寺の学僧蔵満(ぞうまん)が都へ赴く途中、道で登照に出会った。蔵満は喜んで「私は幸いにもあなたに出会えました。どうか一生の吉凶を占ってください」と言った。登照は「あなたは学問に精通して身を立てておりますが、寿命はわずか四十を出ません。もし本業を捨てて悟りを求める心を起こし、修行に励めば、あるいは寿命を延ばすことができるかもしれません。それ以外のことは私の知るところではありません」と答えた。蔵満はその言葉に従い、のちについに天寿を全うした。(注:『今昔物語』『元亨釈書』による。)登照がかつて朱雀門(すざくもん)を通りかかったとき、数人の男女が門の下で休んでいた。登照がこれを見ると、みな暴死の相があった。そこで「もし狂人が剣を振り回すようなことがあっても、被害に遭うのはせいぜい二、三人であって、全員が暴死するはずはない。思うに、この門が倒れて圧死するのだろう」と考え、人々に告げて避けさせた。まもなく門が倒れ、避けなかった二、三人は皆圧死した。(注:『今昔物語』による。)丹波守貞嗣(たんばのかみさだつぐ)が北山に参詣しようとしたとき、登照は「あなたの顔色は非常に悪く、鬼神に取り憑かれる恐れがあります。急いで家にお帰りなさい」と言った。貞嗣は「気分に変わりはない」と答えた。しかしまもなく貞嗣は気を失い、息を吹き返して家に帰ったが、三日後に亡くなった。(注:『続古事談』による。)伴簾平(とものすだれひら)という者がおり、登照と同時代の人で、これもまた人相見として世に知られていた。(注:『古事談』『続古事談』による。)
吉田宜
¶吉田宜(よしだのよろし)は、塩乗津彦命(しおのりつひこのみこと)の後裔である。塩乗津彦は任那(みまな)へ赴き三巳汶(さんきもん)の地を治め、その子孫はそのまま留まり住んだ。(注:『続日本後紀』承和四年の記事、『新撰姓氏録』による。)八世の孫にあたる達率吉大尚(たちそちきちだいしょう)とその弟の少尚(しょうしょう)は、日本の文化を慕って来朝した。代々医術を伝え、あわせて文芸にも通じていた。子孫は奈良の京の田村里(たむらのさと)に家を構え、(注:『続日本後紀』承和四年の記事による。)宜(よろし)はその子孫である。(注:『文徳実録』嘉祥三年の記事による。)初め僧となり恵俊(えしゅん)と名乗った。文武天皇はその才芸を称え、還俗させて吉宜(きちのよろし)の姓名を賜り、広肆(こうし)(注:官職名)の任に就かせた。(注:『続日本紀』による。)宜は学問を好み、とりわけ医術に精通していた。(注:『文徳実録』嘉祥三年の記事による。)従五位上に進んだ。養老(ようろう)年間、医術科に抜擢され、絁(あしぎぬ)・糸・布・鍬を賜った。神亀(じんき)の初め、従五位下吉智首(きちのちしゅ)とともに、吉田連(よしだのむらじ)の姓を賜った。(注:『続日本紀』による。)「田」の字は地名の田村から取ったものである。(注:『新撰姓氏録』による。智首と智須は音が通じ、『新撰姓氏録』に載る智須はおそらく同一人物であろう。)医博士となった。天平の初め、初めて陰陽・医道・天文・暦数の各博士に弟子を教授させることとなり、宜はその筆頭であった。まもなく図書頭(ずしょのかみ)となり、正五位下に進み、典薬頭(てんやくのかみ)を兼ねた。(注:『続日本紀』による。)のちに相模介(さがみのすけ)となった。(注:『文徳実録』嘉祥三年の記事による。)七十歳で没した。(注:『懐風藻』による。)子の古麻呂(こまろ)は、(注:『文徳実録』嘉祥三年の記事による。)延暦(えんりゃく)年間、内薬正(ないやくのかみ)・侍医(じい)となり、(注:『続日本紀』による。)正五位下に至った。古麻呂の子が書主(ふみぬし)である。(注:『文徳実録』嘉祥三年の記事による。)
興世書主
¶興世書主(おきよのふみぬし)は、人柄が恭しく謹み深く、立ち居振る舞いを整えることに優れていた。嵯峨(さが)天皇がまだ皇子であった頃、その才を大いに認められ重んじられた。延暦末年、尾張少目(おわりのしょうさかん)となった。大同(だいどう)・弘仁(こうにん)年間、縫殿内匠少允(ぬいどののうちのたくみのしょうじょう)・左兵衛権大尉(さひょうえのごんのだいじょう)を歴任し、左衛門大尉(さえもんのだいじょう)に転じ、検非違使(けびいし)の職務を行い、まもなく右近衛将監(うこんえのしょうげん)に遷った。書主は和琴(わごん)に優れていたので、大歌所別当(おおうたどころのべっとう)となった。当時、新羅の人で沙良真熊(さらのまくま)という者がおり、新羅琴(しらぎごと)に優れていた。書主はこれに師事して習い、ついにその技を極めた。外従五位下に叙せられ、織部正(おりべのかみ)に任じられた。地方に出て和泉守(いずみのかみ)となり、政績を上げた。累進して従五位上となり、備前守(びぜんのかみ)に遷り、これもまた清廉で公平と称された。天長年間、左京亮(さきょうのすけ)となり、まもなく筑後守(ちくごのかみ)に任じられたが、病のため赴任せず、再び左京亮に任じられた。(注:『文徳実録』による。)承和年間、一族の越中介(えっちゅうのすけ)高世(たかよ)らとともに、姓を改めることを願い出た。これにより興世朝臣(おきよのあそん)の姓を賜った。まもなく信濃守(しなののかみ)・木工頭(もくのかみ)を歴任し、累進して従四位下となった。(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)嘉祥三年、治部大輔(じぶのたいふ)に遷った。この年、七十三歳で没した。(注:『文徳実録』による。)
菅原峰嗣
¶菅原峰嗣(すがわらのみねつぐ)は、左京の人で、もとの姓は出雲朝臣(いずものあそん)であった。父の広貞(ひろさだ)は医術に精通し、正五位下、信濃権守(しなののごんのかみ)であった。(注:『三代実録』による。)平城(へいぜい)天皇の勅を受け、安倍真直(あべのまなお)らとともに『大同類聚方(だいどうるいじゅほう)』百巻を編纂した。(注:『日本紀略』『仁和寺書籍目録』による。)峰嗣は淳和(じゅんな)天皇にまだ皇子であった頃から仕え、父の業を継ぐことを願い出て、医得業生(いのとくごうしょう)に補された。試験を受けて及第し、医得業生の制度はこれより始まった。左兵衛医師(さひょうえのいし)となった。天長の初め、医博士に遷り、内薬佐(ないやくのすけ)・侍医を兼ねた。まもなく摂津大目(せっつのだいさかん)を兼ね、博士の職を物部広泉(もののべのひろいずみ)に譲り、主膳正(しゅぜんのかみ)に遷り、他の官職はもとのままであった。淳和天皇が譲位したのち、皇子時代からの旧誼を思い起こして側近に召し使い、その寵遇は人並み外れたものであった。尾張・美濃の権介に遷ったが、赴任しなかった。嘉祥年間、越後守(えちごのかみ)となった。太皇太后への医薬奉仕によって播磨介(はりまのすけ)に転じ、近隣の国々に比べて格別の待遇を受けた。累進して従五位上となり、典薬頭となった。貞観五年、老齢を理由に辞職を願い出た。摂津権守(せっつのごんのかみ)として地方に出て、豊島郡(てしまのこおり)の山荘に退居した。薬草を育てて閑居する間、世俗と交わることなく、土師氏(はじうじ)と同祖であることから今の姓に改めた。峰嗣は家の名声を落とすことなく、処方する薬は多くの効果をあげた。かつて勅命を受け、当時の名医たちとともに『金蘭方(きんらんほう)』を編纂し、また鍼灸の法について注釈を加えた。後進の医家たちはこれを規範とした。(注:『三代実録』による。)
菅原梶成
¶菅原梶成(すがわらのかじなり)は、右京の人である。医術に熟達し、とりわけ処方に優れていた。朝廷はその医学の経典への造詣の深さを買い、疑問の点について尋ねさせようとした。(注:『文徳実録』による。)承和の初め、遣唐使の知乗船事(ちじょうせんじ)として唐へ赴いた。承和六年、帰国した。海上で暴風に遭い、南方の海へ漂着し、賊に襲われ略奪を受けて、死者も数人出た。梶成らは力を尽くして戦い、かろうじて難を免れた。五尺の鉾一本、片蓋横佩(へんがいおうはい)一振り、矢一本を手に入れたが、いずれも中国の武具とは似ても似つかぬものであった。壊れた船の材木を寄せ集めて小船を造り、それに乗って大隅(おおすみ)に漂着した。(注:『続日本後紀』による。壊れた船の材木を寄せ集めたことは『文徳実録』による。)大宰府がこのことを朝廷に奏上すると、勅符が大宰府に下され、「遣唐使の知乗船事菅原梶成らは、一艘の小船に分乗し、大隅国の海辺に漂着した。梶成らは異国へ流されながらも、九死に一生を得た。その苦難を思うと、まことに手厚くいたわるべきである」と述べられた。都に到着するまで、これまでどおり慰労し、それ相応の布や絹を与えるようにとのことであった。梶成は都に入り、手に入れた武器を献上した。(注:『続日本後紀』による。)承和十年、鍼博士(はりのはかせ)となり、侍医に転じた。仁寿三年、外従五位下に叙せられ、その後没した。(注:『文徳実録』による。)
物部廣泉
¶物部広泉(もののべのひろいずみ)は、伊勢(いせ)国風早郡(かざはやのこおり)の人である。のちに都に本籍を移し、若くして医術を学び、多くの医書を読んだ。初め医博士となり、典薬允(てんやくのじょう)を兼ね、侍医に累進し、伊予(いよ)・讃岐(さぬき)の掾を歴任した。(注:『三代実録』による。)承和の末、内薬正を兼ねた。(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)累進して従五位下となった。(注:『三代実録』による。)仁寿・斉衡年間、次侍従(じじじゅう)となり、姓を「首(おびと)」に改め、「朝臣」を賜った。(注:『文徳実録』による。)貞観の初め、累進して正五位下となり、参河権守(みかわのごんのかみ)・内薬正となり、侍医はもとのままであった。七十六歳で没した。広泉は医術において当時並ぶ者がなく、また自らの養生にも優れ、年老いても髭眉は白く、皮膚はつやがあり、体力もなお強壮であった。『摂養要決(せつようようけつ)』二十巻を著した。(注:『三代実録』による。)
丹波雅忠
¶丹波雅忠(たんばのまさただ)は、阿智使主(あちのおみ)の子孫である。代々丹波に居住し、曾祖父の康頼(やすより)は丹波宿禰の姓を賜った。医術に優れ、右衛門佐(うえもんのすけ)に任じられ、針医博士(しんいはかせ)を兼ねた。永観(えいかん)年間、『医心方(いしんぽう)』三十巻を著してこれを献上した。祖父の重雅(しげまさ)は典薬頭・侍医となり、丹波権守を兼ねた。父の忠明(ただあき)もまた典薬頭・侍医となり、丹波介を兼ね、勅命により姓を「宿禰」に改め、「朝臣」を賜った。(注:『丹波系図』による。)雅忠は父祖の業を継ぎ、医学得業生となった。長元(ちょうげん)七年、試験を受けた。曾祖父康頼以来、試験は長らく行われていなかったが、ここに至って再び行われるようになった。(注:『左経記』による。)翌年、権医博士となった。長久(ちょうきゅう)の初め、備後介(びんごのすけ)を兼ねた。(注:『除目大成鈔』による。)永承(えいしょう)年間、掃部頭(かもんのかみ)に任じられた。そのとき天皇が病に伏し、雅忠が薬を進めて効き目があったので、その功により従四位下を授けられた。(注:『扶桑略記』『百錬抄』による。)侍医となり、正四位下に叙せられた。永保(えいほう)年間、丹波介となった。応徳(おうとく)の初め、権守に遷った。(注:『除目大成鈔』による。)典薬頭・右衛門佐に至った。(注:『系図』による。)承暦(じょうりゃく)年間、高麗(こうらい)王の妃が病に倒れたとき、王は商船に牒(ちょう)を託して大宰府に送り、手厚い礼物をもって雅忠を招こうとした。朝廷はこれを許さず、大宰府に返牒を送らせ、その中に「(名医の)扁鵲(へんじゃく)がどうして鶏林(けいりん)(注:朝鮮)の雲の彼方まで赴くことがあろうか」という一節があった。(注:『類聚本朝文粋』『朝野群載』『十訓抄』による。)これより世間では雅忠を「日本の扁鵲」と称するようになった。寛治(かんじ)二年、六十八歳で没した。(注:『歴代皇紀』による。)かつて後朱雀(ごすざく)天皇が瘡(かさ)を患ったとき、典薬頭和気相成(わけのすけなり)は「膿と水が止まれば治るでしょう」と診断した。雅忠はまだ弱冠の頃であったが、退出したのち人に「おそらく治らないだろう」と語った。果たして天皇は崩御した。雅忠はかつて夢に童子が現れ、「あなたの曾祖父康頼は懇ろに誠を尽くして私に祈った。私はそれ以来長く医書を守護してきた。今まさに災いが起ころうとしているので、あなたに警告する」と告げるのを見た。雅忠は驚いて目を覚まし、そのための備えをした。まもなく火災があったが、医書はついに焼失を免れた。(注:『続古事談』による。)子に忠康(ただやす)・重康(しげやす)がいる。忠康もまた典薬頭となり、穀倉院別当を兼ねた。重康は図書頭・施薬院使(せやくいんし)となり、侍医を務めた。子孫は代々医術によって仕えた。(注:『系図』による。)
百濟河成
¶百済河成(くだらのかわなり)は、もとの姓は余(よ)氏で、その先祖は百済の人である。(注:『続日本後紀』による。)武芸に優れ、強弓をよく引き、あわせて絵画にも優れていた。大同年間、左近衛(さこんえ)となった。(注:「左近衛」の下、底本には脱字があるようである。)たびたび天皇に召し出された。描いた古人の肖像や草木などは精妙で生きているようであり、あるとき宮中にいて、人に従者を呼ばせようとしたが、その者は顔かたちを知らないと言って辞退した。河成はすぐに紙を取り出してその顔を描き、その者はその絵を頼りに従者を見つけ出した。世に絵を語る者は、これを手本とした。弘仁十四年、美作権少目(みまさかのごんのしょうさかん)に任じられた。しばらくして外従五位下に叙せられた。承和年間、備中(びっちゅう)・播磨の介を歴任した。(注:『文徳実録』による。)右京大属(うきょうのだいさかん)福成(ふくなり)らとともに、百済朝臣(くだらのあそん)の姓を賜った。まもなく従五位下に進み、安芸介(あきのすけ)に遷った。(注:『続日本後紀』による。)当時の人々はこれを名誉なこととした。仁寿三年に没した。(注:『文徳実録』による。)
巨勢金岡
¶巨勢金岡(こせのかなおか)は、貞観年間、神泉苑(しんせんえん)の監(げん)となった。(注:『菅家文草』による。)のちに隼人正(はやとのかみ)となり、従五位下を授けられた。(注:『官職秘抄』、寺社雑事記所載の『巨勢氏系図』による。)絵画に優れ、当時第一人者と称された。元慶四年、釈奠(せきてん)(注:孔子を祀る儀式)に用いる先聖先師の像を描き、これは代々用いられた。(注:『台記』、『江家次第注』が引く延久四年の記事による。)宇多(うだ)天皇は源直方(みなもとのなおかた)・藤原興基(ふじわらのおきもと)らに命じて、弘仁以後の詩に優れた儒者を選ばせ、金岡に清涼殿(せいりょうでん)の東西の障子を描かせ、また紫宸殿(ししんでん)の賢聖障子(けんじょうのしょうじ)を描かせた。(注:『扶桑略記』による。)何よりも馬の絵を最も得意とし、世に伝え称された。天皇が仁和寺(にんなじ)にいたとき、馬の絵を殿の壁に描いた。すると何かが夜ごとに近くの田の稲を食い荒らすことがあったが、人々はその正体を知らなかった。のちに描かれた馬の蹄に泥がついているのを見つけ、試しにその瞳を削り取ったところ、被害が止んだという。(注:『古今著聞集』による。)二人の子に公望(きんもち)・公忠(きんただ)がいる。公望の子は深江(ふかえ)、深江の子は弘高(ひろたか)である。(注:「弘」は「広」とも書く。)代々家業を受け継ぎ、みな絵に優れていた。屏風絵を売る者があり、深江がこれを購入したが、弘高はさほど感心しなかった。深江が「お前はこの原野の絵が描けるか」と尋ねると、弘高は「描けません」と答えた。「ではこの巌や渓谷の絵は描けるか」と尋ねると、「描けません」と答えた。深江はゆっくりと「これはお前の叔父の公忠が描いたものだ。叔父は絵を描くたびに必ず紙の裏に署名をする」と言った。試しに見てみると果たしてそのとおりであった。当時の人々はその鑑識眼を称賛した。のちに絵画を語る者は、巨勢氏を宗家とした。公望・公忠はともに妙手と称され、深江はこれに次ぎ、弘高以下は評価がやや衰えた。金岡は山を十五層にまで描き分け、遠近・濃淡すべてその趣を極めたが、弘高は五層を超えることができなかった。(注:『花鳥余情』が引く雅兼記による。)筆を下ろすにあたっては、まず下絵を起こし、配置や点綴に落ち着かないところがあれば、一晩中思案してから初めて彩色を施した。ひとたび作品を世に出せば名声を得て、その描いた屏風や障子は、当時の親王や摂関家がこぞって伝え宝とした。大饗(たいきょう)の折や臨時の客でなければ、これを用いることはなかった。具平親王(ともひらしんのう)は関白道隆(みちたか)に「布張りの障子のようなものに、弘高をわずらわせるべきではない」と語った。当時これほどまでに重んじられていたのである。弘高は仏道を篤く信仰し、病が重くなると髪を剃って僧となった。のちにいくらか回復すると、天皇はその画才を惜しんで髪を蓄えるよう勅した。近江守某の東山の別荘に住み、邸の側に堂があった。弘高はそこに地獄の絵を描き、見る者は身をすくめた。今の長楽寺(ちょうらくじ)がそれである。(注:『今昔物語』による。)晩年にはさらに地獄変相図を描き、鬼が鉾で罪人を刺す様子は、その勢いがひどく凄まじいものであった。弘高は「私の命もこれで尽きるのだろうか」と嘆いた。まもなく亡くなった。当時、飛鳥常則(あすかのつねのり)という者がおり、これもまた公望と並んで画名を知られていた。(注:『古今著聞集』による。)左衛門志(さえもんのさかん)となり、絵所(えどころ)を直接取り仕切った。応和(おうわ)年間、勅命を受けて白沢王(はくたくおう)が鬼を斬る図を清涼殿西廂(せいりょうでんのにしびさし)南壁に描いた。(注:『河海抄』が引く御記による。「斬鬼」の二字は『禁秘鈔』による。)これがいわゆる「鬼の間(おにのま)」である。(注:『禁秘鈔』による。)