卷之二百廿五 列傳第一百五十二

隱逸

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次7
  1. 藤原高光
  2. 源成信
  3. 藤原重家
  4. 源顯基
  5. 藤原為業
  6. 藤原賴業
  7. 藤原為隆

藤原高光

士人がこの世に生まれ落ちれば、賢愚はそれぞれの天与の資質に従い、各人がその能力を発揮するものである。ならば、なぜ険しい岩穴に閉じこもり、漁師や樵として世に埋もれることを高潔とするのか。異国では王朝交代の時代に、二君に仕えることを恥じて節を高く保った者があり、史書はこれを称美している。しかし我が朝では皇統が神代より連綿と受け継がれ、万世にわたって変わることがないため、隠逸の士は取り立てて称えるべき対象とは言い難いように思われる。とはいえ、士の置かれる境遇は一様ではない。すぐれた才能や卓越した能力を持ちながら世に知られぬ者もあれば、忠義の心と節操を抱きながら讒言や佞人によって覆い隠された者もいる。志を曲げ己を屈して、権勢者の車の後塵を望み俸禄に恋々とするよりは、むしろ高く身を引いて隠棲し、富春江のほとりを耕し、蘇門山で嘯くほうがましではないか。それゆえ、身の処し方には損得や大小の違いがあるとはいえ、君子はみな『易経』蠱卦上九の教え(注:「王侯に仕えず、その事を高尚にす」の意)をもってこれを評価するのである。藤原藤房が諫言を容れられずに去ったのは、まさに象伝にいう「志すべし」との言葉通り、進退が道に適った例である。その事跡は本伝にあるので、ここには重ねて記さない。よって隠逸伝を作る。

源成信

藤原高光(ふじわらのたかみつ)は、右大臣師輔(もろすけ)の子である。文才に富み、和歌を得意とした。村上天皇の御代に従四位下(注:『歌仙伝』は従五位下とする)・右近衛少将にまで昇った(注:『尊卑分脈』『歌仙伝』による)。天皇がかつて飛香舎(ひぎょうしゃ)にお出ましになった際、高光を召して『文選』を読ませたところ、「三都賦」の序を暗誦してみせ、天皇は大いに感嘆されたという(注:『九暦』による)。高光は志が高く、栄達や富貴を望まなかった。世を逃れようとするに当たり、和歌を詠んだ。「隠ればかり へがたく見ゆる 世の中に うらやましくも すめる月かな」(注:『拾遺和歌集』による)。出家して横川(よかわ)に隠れ(注:『大鏡』による)、名を如覚(にょかく)と改めた(注:『尊卑分脈』による)。天皇はこれを深く惜しまれた。のちに多武峰(とうのみね)に住み、世に多武峰少将と称された(注:『尊卑分脈』『大鏡』『栄華物語』による)。正暦五年に没した(注:『多武峰略記』による)。

藤原重家

源成信(みなもとのなりのぶ)と藤原重家(ふじわらのしげいえ)について記す。源成信は致平親王(むねひらしんのう)の子である。一条天皇に仕え、従四位上・左近衛中将にまで昇った(注:『尊卑分脈』『古事談』『続古事談』による)。母は摂政藤原道長の妻の姉に当たり、そのため道長の養子として育てられた(注:『愚管抄』『栄華物語』による)。左近衛少将の藤原重家は左大臣顕光(あきみつ)の子で(注:『尊卑分脈』による)、成信と親しく交わり、二人とも姿かたちが美しかった。当時の人々は二人を「輝中将、光少将」と呼んだ。二人はまた朝廷の儀礼にも通じ、立ち居振る舞いは詳しく華やかであった(注:『愚管抄』『栄華物語』による)。ある日、二人が宿直をしていた際、四人の納言が政務を議する様を見ると、その裁断は明晰で、言葉は淀みなく流れるようであった。二人は退出したのちに嘆いて言った。「官にある者はこのようであるべきだ。我らの才はそこまで及ばないのに、栄達を競い望むのは士たる者の恥である。とても追いつけないのならば、世を避けて賢者に道を譲るのが潔いというものだ。」そして二人そろって園城寺(おんじょうじ)に入り剃髪した(注:『愚管抄』『古事談』『今鏡』『続古事談』による)。重家は法名を舜源(しゅんげん)といい、一乗院と号した(注:『愚管抄』『尊卑分脈』による)。二人とも年はまだ二十余りで、当時の人々はこれを惜しんだ(注:『今鏡』による)。

源顯基

源顕基(みなもとのあきもと)は、大納言俊賢(としかた)の長子である(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。若くして学問を好み、典籍への志が篤かった(注:『続往生伝』『元亨釈書』による)。寛弘八年、従五位下に叙せられた。長和年間には侍従となり、右兵衛佐に任じられ、のち左近衛少将に転じた(注:『公卿補任』による)。後一条天皇の即位当初、上東門院(じょうとうもんいん)が宮中に入って嘆いて言った。「亡き院が崩御されてまだ間もないのに、宮中の様子はもはや昔のようではありません。」天皇はこれを聞いて恥じ入った様子を見せられた。折しも顕基が宿直で詩歌を朗詠していたところ、上東門院はこれを聞いて感嘆し「昔のことを思い出させるのは、ただこれだけです」と褒めたたえ、天皇の心もこれによって晴れた(注:『十訓抄』による)。治安・万寿年間には蔵人頭に任じられ、左近衛中将に転じた。長元年間には参議に任じられ、従三位権中納言にまで昇った(注:『公卿補任』による)。天皇の恩顧はきわめて厚かったが、顕基には早くから世を退く志があった。常々「罪もなく配流の地で月を眺めてみたいものだ」と語っていた。後一条天皇が崩御すると、顕基は悲しみ慕って御棺を拝しに参内した。ちょうど灯明が供えられていなかったので、ひそかに嘆いて言った。「世の情の薄いことが、ここまでになるとは。昔から忠臣は二君に仕えぬものという。私はもう朝廷に立ちたくない。」そしてついに比叡山に登って剃髪し、名を円昭(えんしょう)と改めた。人々はみなこれを惜しんだ。のちに大原山に住み、経論を広く読み、修行に精進した(注:『古事談』『十訓抄』『続往生伝』『元亨釈書』による)。さらに醍醐に移り住んだ(注:『十訓抄』による)。永承二年、腫れ物を患い、喜んで言った。「あらゆる病の中で、死に至っても心神が乱れぬのは、ただ癰疽(ようそ)だけだと聞く。」ついに医薬を断って世を去った(注:『続往生伝』『元亨釈書』による。没年は『公卿補任』による)。子の資綱(すけつな)は和歌を得意とし、権中納言正二位にまで昇った(注:『公卿補任』『栄華物語』による)。

藤原為業

藤原為業(ためなり)は、権中納言長良(ながら)の子孫である。父の為忠(ためただ)は丹後守であった(注:『尊卑分脈』による)。為業は崇徳天皇の御代に仕え、蔵人に任じられた(注:『中右記』による)。その後、伊豆守・伊賀守を歴任し、皇太后宮大進となった(注:『尊卑分脈』による)。和歌を好み、故事を記すことに長じていた。世継の翁(よつぎのおきな)と夏山繁樹(なつやましげき)との問答という形式を設けて、おおよそ君臣の事跡を記し、文徳天皇に始まり後一条天皇に終わるその書を『世継物語』、またの名を『大鏡』と名づけた(注:本書の序、『尊卑分脈』『仁和寺書籍目録』による)。剃髪して大原山に隠れ住み、名を寂念(じゃくねん)と改めた(注:『尊卑分脈』『宝物集』による)。為業の弟には壱岐守頼業(よりなり)、長門守為隆(ためたか)がいる(注:『宝物集』『作者部類』は為経とするが、これは誤りである)。  頼業は、兄に先立って剃髪し、名を寂然(じゃくねん)といい、これも大原に住んだ。和歌を得意とし、西行と互いに歌を詠み交わした(注:『尊卑分脈』『寂然集』による)。為隆もまた僧となり、名を寂超(じゃくちょう)といった。三人の兄弟はともに山林に隠れ住み、詩歌を吟じることを楽しみとした(注:『宝物集』による)。世の人々はこれを「大原三寂(おおはらのさんじゃく)」と呼んだ(注:『尊卑分脈』による)。

藤原賴業

佐藤義清(さとうのりきよ)(注:義清は諸書に則清、あるいは憲清・範清とも作る。憲・範はいずれも則と訓読が同じであるため、ここでは『台記』『尊卑分脈』に拠る)は、鎮守府将軍藤原秀郷(ひでさと)の九世の孫であり(注:『尊卑分脈』『東鑑』『西行物語』による)、左衛門尉康清(やすきよ)の子である。代々武勇をもって知られた家柄であった(注:『尊卑分脈』『台記』『西行物語』による)。義清は勇敢で弓術に優れ、兵法にも通じていた(注:『西行物語』による)。鳥羽上皇に仕えて北面の武士となり、左兵衛尉に任じられた(注:『尊卑分脈』『西行物語』による)。和歌をこよなく愛し、その造詣はきわめて高かった。上皇はその才を愛し、深く親しく遇した。しかし義清は栄達や利益を喜ばず、常に世を避けようとする志を抱いていた。上皇が検非違使に任じようとの意向を示されたが、義清はその職が罪人を逮捕するため、のちに陰の禍いを招きやすいとして固辞した。折しも鳥羽の新宮が完成し、上皇が当代の名だたる人々に命じて障子絵に添える和歌を詠ませたところ、義清はその日のうちに十首を進上した。これが大いに上皇の意にかない、御剣の朝日丸(あさひまる)を賜った。宮中でもほうびを賜り、親戚もこれを祝った。しかし義清は喜ばず、あるとき一族の左衛門尉憲康(のりやす)とともに鳥羽殿に参内した帰り道、別れ際に「明日もまた一緒に参内しよう」と約束した。義清は約束の時刻通りに出向いたが、憲康の家からは外にまで聞こえるほどの泣き声がしていた。不審に思って尋ねてみると、憲康は前夜に急死していたのであった。義清はこれに慄然とし、出家の志はいよいよ固くなって、事情を述べて辞官を願い出た。上皇はその才を惜しんで許さなかった。あるとき義清が外出から家に帰ると、まだ四歳になったばかりの娘が笑いながら出迎え、着物の裾を引いて戯れかかってきた。義清はその様子をひどく不憫に思ったが、やがて猛省して言った。「私が世を捨てる妨げとなるものは、これに勝るものはない。愛執を断つのは、まさにここから始めるべきだ。」そこで娘を蹴って寝台から落とした。娘は慕って泣きやまなかったが、義清は強いて心を鬼にして顧みず、家人はみな驚き怪しんだ。その夜、義清はついに妻子を捨てて嵯峨に赴き、僧となった(注:『西行物語』による)。名を西行(さいぎょう)といい、また円位(えんい)とも号した(注:『尊卑分脈』『源平盛衰記』による)。時に年二十三であった。義清は名門の生まれで才能に恵まれ、良き時世に巡り合いながら、ある朝突然すべてを捨て去り、未練の色を見せなかった。当時の人々はこれに感嘆した(注:『台記』による)。その妻もまた尼となり、高野山麓の天野(あまの)に住んで、堅く修行に励んだ(注:『撰集抄』による)。西行は常々「出家した身に家はない、生涯にわたって修行に励むべきだ」と語っていた。こうして東は関東から西は九州に至るまで、赴かない地はなかった。心にかなう場所を得ると、詩歌を口ずさんで気ままに過ごした(注:『西行物語』による)。伊勢の二見浦(ふたみのうら)に庵を結び(注:『千載和歌集』『西行談抄』による)、草を敷いて敷物とし、岩に穴をうがって岩屋とし、歌会のたびに扇や花籠を文台の代わりに用いた。常々みずから嘆いて「人の一生はいくばくもなく、来世はすぐそこまで来ている」と言っていた(注:『西行談抄』による)。あるとき遠江(とおとうみ)の天竜の渡しを過ぎようとしたとき、船頭が乗客が多すぎるとして西行を叱って下船させようとしたが、西行はこれに従わなかった。船頭は怒って鞭で打ち据え、血が顔中に流れたが、西行は少しも怒った様子を見せず、落ち着いて船を下りた。従僧はこれに憤ったが、西行は言った。「私が仏法のためにここまでになったのだ。辱めを受けて死んでも悔いはない。もしこの覚悟がないのなら、剃髪しない方がましだ。お前はまだ世を捨てきれていない、私の弟子としてふさわしくない。」そう言ってその従僧を去らせた(注:『西行物語』による)。神護寺(じんごじ)の僧文覚(もんがく)は西行を快く思わず、こう言っていた。「僧というものは仏道の修行を本分とする。あの男は何をしているのか、四方をめぐり歩き、日がな一日詩歌にふけっている。まことに仏門の賊である。私がもし会うことがあれば、必ずその頭を打ち割ってやろう。」ところが西行が高雄(たかお)を訪れ、文覚と語り合うと、文覚はすっかり打ち解けて喜んだ。 弟子たちが文覚に「師は以前あれほど西行を辱めるとおっしゃっていたのに、今このようになさるのはなぜですか」と尋ねると、文覚は「お前たちは西行の姿かたちを見なかったのか。とても私が殴れるような相手ではない、かえって私の方が殴られるところだった」と答えた(注:『清案抄』による)。また西行が鎌倉を通りかかった際、道で源頼朝(みなもとのよりとも)に出会った。頼朝は人をやって名を尋ねさせ、これを召し見た。和歌や弓馬の術について尋ねたところ、西行は辞退して言った。「弓馬の術はわずかに家業を継いだ程度で、世を逃れる日に、秀郷以来伝わった書物はすべて焼き捨ててしまいました。和歌についても、時に感じ物に触れてわずかに詠むことができるだけで、その微妙な奥義には元より通じておりません。お答えできることはございません。」頼朝がなおも強く請うたので、一晩中弓馬について語り明かし、頼朝は側近に命じてこれを筆記させた。翌日、西行は暇乞いをして立ち去ろうとした。頼朝はしきりに引き止めたが聞き入れず、銀作りの猫を贈った。西行はこれを受け取って門を出たが、たまたま門のそばで子供が遊んでいるのを見かけると、これを与えて立ち去った。嘉禎(かてい)年間、北条泰時(やすとき)は海野幸氏(うんのゆきうじ)が弓術に精通していることから、これを北条時頼(ときより)に伝授させた。幸氏は西行が頼朝に語ったという言葉を挙げてこれを教えた。当時の武将たち、三浦義村(みうらよしむら)らはみなこれを称賛し、弓馬の家の法則として定めた(注:『東鑑』による)。建久元年二月十六日、京都で没した(注:『西行物語』は建久九年とし、『兼載雑談』は三年とする。ここでは『俊成家集』に従う)。享年七十三(注:諸書とも没年を記していないため、ここでは『台記』『百錬抄』、および義清が保延六年に二十三歳で出家したという記述から推定した)。かつて桜の花を詠んだ和歌に「願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」というものがあるが、ついにその言葉通りになった(注:『続古今集』『俊成家集』『西行物語』による)。仏教については顕教・密教の両方に通じていた。僧の慈円(じえん)が教えを請うたところ、西行は答えて「密教の奥義を窺おうとするならば、まず和歌を学ぶべきです。そうでなければ、ついにその奥深さに至ることはできません」と述べた(注:『沙石集』による)。後鳥羽上皇はかつて「西行の才知は天性のもので、常人が学んで得られるものではない」と語られた(注:『後鳥羽院御口伝』による)。その歌集を『山家集』といい、また『御裳濯川歌合(みもすそがわうたあわせ)』『撰集抄』があり、いずれも世に広く行われている。

藤原為隆

鴨長明(かものちょうめい)は菊大夫(きくだゆう)と称し、代々鴨社(かもしゃ)の神職を務める家柄であった。祖父の季継(すえつぐ)、父の長継(ながつぐ)は、いずれも禰宜(ねぎ)を務めた(注:『鴨氏系図』による)。長明は管弦に通じ、和歌を得意とした(注:『十訓抄』による)。応保年間に従五位下に叙せられた(注:系図による)。後鳥羽上皇に召されて和歌所の寄人(よりゅうど)となった(注:『十訓抄』による)。上皇の勅命により、当代の和歌の名手たちが肥大・枯細・艶雅の三体の和歌を献じてその才を試されたことがあったが、多くの者がこれを難しいとする中、長明と摂政藤原良経(よしつね)、僧慈円(じえん)ら六人だけが勅命に応えた(注:『無名抄』による)。長明はかつて父祖の跡を継いで神社の役職に補せられることを願い出たが、許されなかった。これ以来、長明は不満を抱いて楽しまず、門を閉ざして人との交わりを絶ち、その思いを「葵歌(あおいうた)」に託して詠んだ(注:『新古今和歌集』『十訓抄』を参照)。ついに剃髪して僧となり、名を蓮胤(れんいん)と改めた(注:『東鑑』による)。大原山に入ったのは五十歳のときであった(注:『方丈記』による)。建暦年間に鎌倉へ赴いたところ、将軍源実朝(さねとも)はかねてその名を聞いており、たびたび招いて面会した(注:『東鑑』による)。ほどなくして京都に戻ると、工夫を凝らして庵を作った。広さは一丈四方、高さは七尺を超えず、柱や梁、屋根の廂(ひさし)にはすべて鉤(かぎ)や鎖を用いて、開け閉めができるようにした。気に入らなければ他所へ移せるようにし、荷車二台に積める程度のものとして、やがて日野の外山(とやま)に入って山居した。所有するものは仏像と書物数巻、それに箏(そう)や琵琶があるのみで、その他には何も蓄えなかった。山に登り水のほとりに臨んで、木の実や草を摘んで自活した。『方丈記』を著し、その清廉で気概に満ちた心境がおおよそその中にうかがわれ、世に広く語り伝えられている(注:『方丈記』による)。のちに上皇は再び長明を和歌所に召し入れようとされたが、長明は和歌を奉ってこれを辞退した(注:『十訓抄』による)。長明の遺跡には石の床があり、世に方丈石と呼ばれている。かつて藤原俊成(としなり)が『千載和歌集』を撰進した際、長明の歌はわずか一首しか採られなかった。長明はこれを喜んで、こう語った。「私は歌人の家柄の出でもなく、また特にすぐれた才があるわけでもない。それなのに勅撰集の中に一首でも採録されたのは、この上ない栄誉ではないか。」ある人がこれに応えて言った。「あなたの言うことにはもっともな理がある。他の人にはこうは言えまい。私がこの集を見るに、平凡な歌人でも多くは十数首、少なくとも四、五首は収められている。私はあなたが内心では不満に思っているのだろうと考え、初めはあなたの言葉を信じなかったが、あなたが繰り返しそう言ってやまないのを見て、今ではあなたが本当に喜んでいるのだと分かった。このような心構えでいれば、やがてこの道において神の助けを得ることになるだろう。」その後、長明の名声は日ごとに高まり、果たしてその言葉の通りになった(注:『無名抄』による)。『新古今和歌集』が撰ばれるに当たっては、当時和歌を進上した者の歌は千首、百首にも及び、撰者によって削られたものも多かったが、長明はただ十二首を進上し、そのすべてが採用されたという(注:『兼載雑談』による)。著書には『瑩玉集(えいぎょくしゅう)』『無名抄(むみょうしょう)』『発心集(ほっしんしゅう)』『文字鎖(もじくさり)』『四季物語』『方丈記』があり、世に広く行われている。