卷之九十四 列傳第廿一
皇子九
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
この巻の目次33
【村上】七子
¶村上天皇には九人の皇子がいた。皇后藤原氏は冷泉帝、第四子為平親王(ためひらしんのう)、円融帝を生んだ。女御荘子女王(しょうしじょおう)は第七子具平親王(ともひらしんのう)を生んだ。藤原芳子(ふじわらのほうし)は第六子昌平親王(まさひらしんのう)、第八子永平親王(ながひらしんのう)を生んだ。更衣藤原祐姫(ふじわらのすけひめ)は第一子広平親王(ひろひらしんのう)を生んだ。藤原正妃は第三子致平親王(むねひらしんのう)、第九子昭平親王(あきひらしんのう)を生んだ。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。昭平の生年を推測すると実際には第五子にあたるが、『日本紀略』や『尊卑分脈』では円融帝を第五子、昭平を第九子としている。これはおそらく、昭平が当時源姓を賜ったため他の皇子と同列に数えられず、親王となったのが最も遅かったことから第九子とされたのであろう。)
廣平親王
¶広平親王(ひろひらしんのう)は、応和三年(おうわ)に三品に叙せられ、兵部卿となり太宰帥を兼ねた。(注:『日本紀略』による。)天禄二年(てんろく)九月に薨去した。享年二十二。(注:『日本紀略』『一代要記』『大鏡裏書』による。『皇胤紹運録』『尊卑分脈』はいずれも薨去を二月とし、『栄華物語』系図は応和三年三月とするが、いずれも誤りである。)
致平親王
¶致平親王(むねひらしんのう)は、四品に叙せられ兵部卿となった。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)安和二年(あんな)、勅により帯剣を許された。(注:『日本紀略』による。)天元四年五月に薙髪した。(注:『日本紀略』『扶桑略記』『一代要記』による。『皇胤紹運録』『尊卑分脈』『諸門跡譜』はいずれも天元三年とする。)法名を梧円(ごえん)と改め、僧知弁(ちべん)について受戒し、(注:『皇胤紹運録』による。)園城寺明王院に住した。(注:『日本紀略』による。明王院の名は『皇胤紹運録』による。)のちには巌蔵(いわくら)にも住んだ。(注:『栄華物語』による。)長久二年二月に薨去し、(注:『皇胤紹運録』『扶桑略記』による。)享年八十九。(注:『扶桑略記』の天元四年時点で二十九歳とする記述による。本書には九十一とする説もあり、『尊卑分脈』は五十一とする。)明王院宮と称され、(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』による。)あるいは法三宮とも称された。(注:『皇胤紹運録』による。)子の成信(なりのぶ)・致信(むねのぶ)は、ともに源朝臣の姓を賜った。(注:『尊卑分脈』による。)成信は摂政藤原道長の養子となった。(注:『栄華物語』による。)致信は従四位上右近衛中将となった。(注:『尊卑分脈』による。『皇胤紹運録』は右中弁とする。)次男は出家して僧となった。(注:『皇胤紹運録』による。)
為平親王
¶為平親王(ためひらしんのう)は、村上帝と皇后から格別に愛され、常に宮中に置かれた。公卿たちはその御意を汲んで、皆こぞって仕えた。(注:『栄華物語』による。)康保元年(こうほう)、帯剣を許された。(注:『日本紀略』による。)その春、北野に赴き子日(ねのひ)の遊びを行い、鷹狩りに興じた。(注:『日本紀略』『大鏡裏書』による。)中納言藤原師氏(もろうじ)、参議藤原伊尹(これただ)、中宮権大夫藤原兼通(かねみち)、左近衛中将源重光(しげみつ)らが競って供奉した。(注:『栄華物語』による。師氏については『日本紀略』、伊尹については『大鏡裏書』による。)供の者を残らず引き連れ、弘徽殿(こきでん)から出発した。帝と皇后は藤壺に出向いてこれを見た。(注:『大鏡』による。)騎馬の一行が連なり、装束は鮮やかで美しく、(注:『大鏡裏書』による。)見物人が街路を埋め尽くした。(注:『大鏡』による。)帰還すると、獲物を献上して宴が催され、供の者にはそれぞれに応じて品が下賜され、皆存分に楽しんで終わった。(注:『大鏡裏書』による。)翌年、三品に叙せられた。(注:『日本紀略』による。)左大臣源高明(たかあきら)の娘を妃として迎えたが、慣例では親王は皆、妻の実家に赴いて婚儀を行うところ、帝は特に為平のために高明の娘を宮中に迎え入れ、皇后自らその儀を執り行った。(注:『栄華物語』による。)のちに式部卿に任じられ、(注:『日本紀略』『大鏡』による。)一品に至った。(注:『大鏡裏書』『帝王編年記』による。)帝は当初、為平を冷泉帝の後継者にしようと考えていたが、源氏と縁組したことで藤原氏一門に喜ばれず、帝はついに思い通りにすることができなかった。(注:『大鏡』『栄華物語』による。)為平はこれを察知し、外祖父の右大臣藤原師輔(もろすけ)が薨去し、皇后もまた病に伏すと、しきりに実家に退出することを願い出た。帝の病が重篤になると、左大臣藤原実頼(さねより)が誰を立てるべきかひそかに奏請した。帝は「朕は為平を立てたいと思うが、それは叶わぬ。そなたたちは守平(もりひら、のちの円融帝)を立てるがよい」と仰せられた。実頼は詔に従い、円融帝を立てて冷泉帝の皇太弟とした。為平と高明は常に不満を抱いて過ごした。(注:『栄華物語』による。)安和二年(あんな)、中務少輔橘繁延(たちばなのしげのぶ)・前相模介藤原千晴(ちはる)らが、帝を廃して為平を天子に立てようと謀った事件が起きた。事が発覚すると、その申し立ては高明にも及んだ。(注:『源平盛衰記』による。)高明は責めを負って太宰権帥に左遷された。(注:『日本紀略』『栄華物語』『愚管抄』による。)為平はその謀りごとを全く知らなかったとはいえ、深く憂い恐れ、髪を剃って世を遁れ自らの潔白を明らかにしようとしたが、子がまだ幼いために果たせなかった。(注:『栄華物語』による。)天元元年、輦車(てぐるま)に乗って宮中に入ることを許された。二年には牛車に乗って上東門から入ることを許された。(注:『日本紀略』による。)花山帝が即位すると、為平は娘の婉子(えんし)を女御として入れ、(注:『日本紀略』『栄華物語』による。)これによって昇殿を許され、(注:『日本紀略』による。)たびたび参内して帝に拝謁したが、それを非難する者は少なかった。(注:『大鏡』による。)寛弘七年十月、薙髪した。(注:『日本紀略』『大鏡裏書』による。)十一月、薨去した。享年五十九。(注:『日本紀略』『大鏡裏書』『尊卑分脈』による。)染殿式部卿宮と称された。(注:『皇胤紹運録』『小右記』による。)
¶子の憲定(のりさだ)・頼定(よりさだ)・為定(ためさだ)・顕定(あきさだ)・教定(のりさだ)・敦定(あつさだ)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。(注:『尊卑分脈』による。)憲定は従三位右兵衛督となった。(注:『公卿補任』による。)この頃、恥を知る気風は日に日に衰え、子女が軽々しく出仕するようになり、公卿の娘であっても父の死後に出仕する者があり、甚だしきに至っては父がなお朝廷に仕えている間から、その子がすでに出仕している例もあって、世の論者はこれを見苦しいこととした。あるとき上東門院(彰子)が憲定に命じて、娘を差し出して給仕に充てさせようとした。憲定はこれを大いに難じ、皇太后宮大夫源俊賢(としかた)のもとへ赴いて相談した。俊賢は答えたが、(注:のちに改めて直接の命が下れば、その旨を奏上すべきであろうということであった。)憲定はさらに右大臣藤原実資(さねすけ)のもとを訪ねてこれを相談した。実資は憲定に確固たる考えがないことを大いによしとせず、「卿は自らの家のことなのだから源納言(俊賢)の言う通りにすればよい。何をわざわざ私に尋ねるのか」と答えた。(注:『小右記』による。)頼定は初め実定(さねさだ)と名乗り、(注:『尊卑分脈』による。)正三位参議・左兵衛督・検非違使別当となった。(注:『公卿補任』による。)顕定は従四位上(注:『皇胤紹運録』は従四位下とするが、ここでは『尊卑分脈』に従う。)、侍従・弾正大弼(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)、民部大輔となった。(注:『皇胤紹運録』による。)教定は従四位上弾正大弼となった。(注:大弼は少弼とする本もある。)敦定は従四位下侍従となった。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)娘には婉子女王(注:『日本紀略』『栄華物語』による。)、恭子女王(注:『日本紀略』『貴女抄』による。)がいる。婉子は花山帝の女御となった。(注:『日本紀略』『栄華物語』による。)恭子は寛和二年、伊勢斎宮となった。(注:『日本紀略』『貴女抄』による。)寛弘七年、父の喪により職を退き、都へ帰った。(注:『日本紀略』による。)
昌平親王
¶昌平親王(まさひらしんのう)は、天徳四年に親王となった。応和元年八月に薨去した。(注:『日本紀略』による。本書には享年六歳とあるが、兄弟の生年の順序から推測すると誤りと思われるため、採らない。)
具平親王
¶具平親王(ともひらしんのう)は、康保二年に親王となり、(注:『日本紀略』による。)三品に叙せられた。寛弘四年、帝が宮中に文人を召して詩を賦させた際、具平もこれに加わり、二品に進んだ。(注:『日本紀略』『大鏡裏書』による。)まもなく中務卿となった。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)六年七月、薨去した。享年四十六。(注:『日本紀略』による。『栄華物語』は七年の薨去とするが誤りである。)具平はかつて慶滋保胤(よししげのやすたね)に学び、紀斉名(きのただな)と並び称され、大江以言(おおえのもちとき)と親交があった。(注:『江談抄』『今鏡』による。)生まれつき聡明で、(注:『栄華物語』による。)文才があり和歌にも優れ、(注:『栄華物語』『今鏡』による。)音律にも巧みであった。(注:『源平盛衰記』による。)陰陽道・医術をはじめ諸々の技芸にも通じないものはなかった。(注:『栄華物語』による。)著書には『六帖』(注:『八雲御抄』による。)のほか、『真字伊勢物語』(注:現存する。)『弘決外典抄』がある。(注:身延山に所蔵される。)大江匡房(おおえのまさふさ)はかつて、「古今、父の業をよく継いだ子といえば、都在中(みやこのざいちゅう)、菅原淳茂(すがわらのあつしげ)、具平親王、菅原輔昭(すけあきら)くらいのものだ。その他には聞いたことがない」と語った。(注:『江談抄』による。)具平はかつて世を避ける志を持ったが、果たせなかった。一条帝はその多芸多才を愛し、宴会や節会のたびに必ず参加を促したが、具平は固く辞退した。(注:『栄華物語』による。)かつて帝の御製に和して詩を詠み、「忽ち君恩を戴きて還って自ら恥ず、風声は猶お減ず漢の東平」と詠んだ。(注:『本朝麗藻』による。)また、かつて藤原公任(きんとう)と柿本人麻呂・紀貫之の和歌の優劣を論じたことがある。具平は人麻呂の歌を優れているとしたが、公任は納得しなかった。後日、それぞれ十首ずつ挙げて競わせたところ、人麻呂の歌が勝ったのは八首であった。(注:『古事談』による。)薨去すると、朝廷は特に釈奠(せきてん)の宴を停止したが、(注:『日本紀略』『左経記』による。)これは一代の文宗を失ったためであった。(注:『左経記』による。)世には兼明親王(かねあきらしんのう)と並び称され、後中書王(のちのちゅうしょおう)と呼ばれ、また千種殿(ちぐさどの)とも称され、(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』による。)また六条宮とも称された。(注:『帝王編年記』『十訓抄』『今鏡』による。)子には師房(もろふさ)・頼成(よりなり)がいる。(注:頼は為とする本もある。)師房には別に伝がある。頼成は讃岐守藤原伊祐(これすけ)の養子となった。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)娘の嫥子女王(せんしじょおう)は、(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による。)資子内親王(しないしんのう)に養育された。(注:『栄華物語』による。)長和五年、伊勢斎宮となった。(注:『貴女抄』『日本紀略』『一代要記』による。)
永平親王
¶永平親王(ながひらしんのう)は、康保三年に親王となった。天元二年、四品に叙せられ、(注:『日本紀略』による。『皇胤紹運録』は一品とするが誤りである。)兵部卿となった。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)村上帝が崩御し、生母の女御藤原氏も亡くなると、伯父の大納言済時(なりとき)の家で養育された。永平は容姿が美しかったが、性格はやや愚かであった。三条皇后(藤原娍子)がまだ幼くその家にいた頃、永平はこれを気に入り、済時は大いにこれを憂えた。冷泉帝の中宮(藤原超子)に子がなかったので、永平を養子にしようとした。済時は大いに喜び、后宮は才知に富み永平は幸運に恵まれると考え、急いで身支度を整えて送り出した。中宮は永平を大変可愛がったが、永平は参上するたびに何も言うことがなかった。中宮はこれをいぶかしく思った。あるとき中宮が病に伏すと、済時は永平に見舞いに行かせ、ひそかに言うべき言葉を教えた。永平が参上して教えられた通りに言うと、中宮は喜んだ。その後、正月の祝賀の折にも、また同じ言葉を繰り返した。中宮は呆然とし、侍女たちは皆思わず笑ってしまった。永平は「これは私の伯父がかつて教えてくれた言葉だ。今また同じことを言ったのに、なぜそれほど笑われるのか」と言い、帰って済時に「もう二度と中宮のもとへは参りたくない、死んでもいやだ」と告げた。(注:『栄華物語』による。)済時はかつて永平のために大饗を催し、あらかじめ「客がもし早く帰ろうとしたら、落ち着いて引き止めるように」と教えておいた。饗宴が終わり客が帰ろうとすると、永平はしきりに済時の顔色をうかがい、済時が目配せをすると、永平は恥じて赤面し、言葉が出なかったが、突然立ち上がって客を抱きかかえ、強く引き止めた。客の襟や袖はほとんど破れんばかりとなり、客は驚き呆れて去っていった。(注:『大鏡』による。)永延二年十月、薨去した。(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。)享年二十四。(注:『扶桑略記』による。)
昭平親王
¶昭平親王(あきひらしんのう)は、(注:昭は記につくる本もある。)天徳四年、源朝臣の姓を賜った。(注:『日本紀略』による。)安和元年、従四位上に叙せられ、(注:『尊卑分脈』による。)右兵衛督となった。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)貞元二年、親王となり四品に叙せられ、(注:『日本紀略』による。)常陸太守となった。(注:『尊卑分脈』による。)永観二年、薙髪して園城寺に住んだ。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)後に巌蔵(いわくら)に住み、(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』『栄華物語』による。)巌蔵宮と称された。(注:『帝王編年記』『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)長和二年六月、薨去した。享年六十。(注:『日本紀略』による。)
【冷泉】二子
¶冷泉帝には四人の皇子がいた。贈皇后藤原氏(藤原懐子)は花山帝を生んだ。贈皇后藤原氏(藤原超子)は三条帝、第三子為尊親王(ためたかしんのう)、第四子敦道親王(あつみちしんのう)を生んだ。(注:『皇胤紹運録』による。)
為尊親王
¶為尊親王(ためたかしんのう)は、幼くして母を亡くし、三条帝とともに外祖父の摂政藤原兼家(かねいえ)の邸で養育された。(注:『栄華物語』による。)幼い頃から容姿が美しく、その輝きは人の目を射るほどであった。(注:『大鏡』による。)永祚元年、四品に叙せられ、(注:『日本紀略』による。)弾正尹に任じられ、(注:『日本紀略』『栄華物語』による。)後に二品に進んだ。(注:『日本紀略』による。『一代要記』は三品とするが、おそらく誤りである。)長保四年六月、病により薙髪し、まもなく薨去した。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)享年二十五。為尊はたいそう好色で、摂政藤原伊尹(これただ)の娘と通じ、(注:『栄華物語』による。)ついに妃として迎え入れた。(注:『栄華物語』『大鏡』による。)また宮女和泉式部(いずみしきぶ)とも密通し、毎夜忍んで通っては淫蕩にふけったため、これがもとで病を得て起き上がれなくなった。帝はその訃報を聞いて、「早死にを望むかのようであったが、それを防ぐ手立てはなかったのだろうか」と嘆いた。(注:『栄華物語』による。)
敦道親王
¶敦道親王(あつみちしんのう)は、太宰帥に任じられた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)寛弘四年、宮中の内々の宴で詩を賦した際、敦道は具平親王とともにこれに加わり、まもなく三品に叙せられた。(注:『日本紀略』『大鏡裏書』による。)十月、薨去した。享年二十七。(注:『日本紀略』による。『一代要記』は十二月の薨去とする。)敦道は容姿が美しかったが、素行はよくなかった。初め関白藤原道隆(みちたか)の娘を妃に求めた。(注:『栄華物語』『大鏡』による。)この妃は性格が奔放で、文才があった。敦道が客を招くと、妃は簾を掲げてこれを覗き見た。文人が集まるたびに、妃は屏風越しに金銭を投げつけたり、その詩文を批評したりした。敦道は恥じてこの妃を離縁した。(注:『大鏡』による。)再び大納言藤原済時(なりとき)の娘を娶ったが、和泉式部と密通したため、これも離縁した。(注:『栄華物語』『大鏡』による。)
【華山】四子
¶花山帝には四人の皇子がいた。宮人平氏は第二子昭登親王(あきとしんのう)を生んだ。某氏は第一子清仁親王(きよひとしんのう)を生んだ。(注:『皇胤紹運録』『栄華物語』による。)僧深観(しんかん)・僧覚源(かくげん)については、いずれも生母が誰であるか分からない。(注:『皇胤紹運録』による。)
清仁親王
¶清仁親王(きよひとしんのう)は、弟の昭登らとともに、花山帝が薙髪した後に生まれた子である。(注:『日本紀略』による。)帝は清仁を最も愛し、寛弘元年、左大臣藤原道長に託して、この二人の皇子を冷泉上皇の皇子たちに準じる扱いとするよう願い出て、勅により清仁を第五子、昭登を第六子とし、いずれも親王とした。(注:『日本紀略』による。道長に託したことは『栄華物語』、第五子・第六子とすることは『小右記』による。)八年、四品に叙せられ、勅により帯剣を許され、(注:『日本紀略』による。)弾正尹に任じられた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)長元三年七月、薨去した。(注:『日本紀略』『左経記』による。『尊卑分脈』は長元元年に薙髪したとするが、ここでは採らない。)子には延信王(のぶざねおう)・兼文王(かねふみおう)がいる。延信は万寿二年、源朝臣の姓を賜り、従四位上侍従・弾正大弼・神祇伯となった。その子康資王(やすすけおう)は、清仁の養子となり、右京大夫・神祇伯となった。(注:『尊卑分脈』による。)子孫は代々神祇伯を務め、(注:『尊卑分脈』『帝王編年記』『職原抄』による。)その家は白河家と称された。兼文王は正親正(おおぎみのかみ)の官にあった。その子兼長(かねなが)も父の職を継いだ。(注:『尊卑分脈』による。)
昭登親王
¶昭登親王(あきとしんのう)は、花山帝に愛されなかった。帝がかつて闘鶏を催した際、清仁を左方に、昭登を右方に置いたところ、対戦のたびに右方が勝ち、帝は不機嫌になって涙を流したという。その偏愛ぶりはこのようなものであった。(注:『栄華物語』による。)寛弘元年、親王となった。(注:『日本紀略』による。)八年、四品に叙せられた。(注:『小右記』『日本紀略』による。)まもなく中務卿となった。長元八年四月、薨去した。享年三十八。(注:『日本紀略』による。)
僧深觀
¶僧深観(しんかん)は、僧深覚(じんかく)について仏法を学び、東大寺別当・法務大僧都・石山寺座主となり、右山僧都と称された。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)
僧覺源
¶僧覚源(かくげん)は、僧明観(みょうかん)および仁海(にんがい)について学び、東大寺別当・法務権僧正・東寺一長者・醍醐座主となった。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)
【一條】一子
¶一条帝には三人の皇子がいた。皇后藤原氏(藤原定子)は第一子敦康親王(あつやすしんのう)を生んだ。中宮藤原氏(藤原彰子)は後一条帝、後朱雀帝を生んだ。(注:『皇胤紹運録』『日本紀略』による。)
敦康親王
¶敦康親王(あつやすしんのう)は、上東門院(藤原彰子)が女御として入内すると、帝は左大臣藤原道長に憚って、たやすく召し見ることをしなかった。長保二年、ようやく二歳になったとき、道長の願いにより、初めて参内して帝に拝謁した。(注:『栄華物語』による。二歳とするのは『日本紀略』『小右記』の長保元年生誕という記述による。)敦康は聡明で美貌であったため、帝は深くこれを愛し、上東門院に母親代わりとして養育させ、(注:『栄華物語』による。)牛車に乗って宮中に出入りすることを許した。(注:『日本紀略』による。)まもなく親王となった。寛弘七年、三品に叙せられ、(注:『日本紀略』『一代要記』による。)太宰帥となった。(注:『日本紀略』『栄華物語』による。)帝がちょうど一条院に御座のとき、敦康は別の対に居を移した。(注:『栄華物語』による。)帝が病に倒れると、敦康は湯薬の世話のため側近くに侍り、常にそばを離れなかった。(注:『大鏡』『栄華物語』による。)帝が三条帝に譲位するに際して、敦康を後継者にしようとしたが、(注:『栄華物語』『愚管抄』による。)その伯父にあたる准大臣藤原伊周(これちか)はすでに薨去し、中納言藤原隆家(たかいえ)がわずかに存命するのみで、外戚として補佐する臣がおらず、(注:『栄華物語』による。)また後一条・後朱雀の両帝はいずれも上東門院の生んだ子であったため、道長に憚って敦康を立てることは難しかった。(注:『栄華物語』による。あわせて『愚管抄』を参照。)当時、中納言藤原行成(ゆきなり)が敦康の勅別当であったため、帝はひそかに彼を召して意見を尋ねた。行成は「陛下は他に思い煩う必要はございません。二宮(後一条)をお立てになるべきです。もしそうなさらなければ、必ずや朝廷に禍いを残すことになりましょう」と答えた。帝はこれに従い、ついに後一条帝を立てた。(注:『愚管抄』による。)帝が崩御すると、敦康は南院に居を移した。(注:『栄華物語』による。)まもなく一品に進み、三宮に准じられ、食邑千戸を与えられた。(注:『日本紀略』による。)長和五年、式部卿に任じられた。左近衛大将藤原頼通(よりみち)は、敦康の評判がよいことからかねてより深く心を寄せており、自分の妻の妹を敦康の妃として送り、その家政を取り仕切った。そのため租税の納入に滞りはなく、上東門院もまた手厚く資を給したので、家産は常に不足することがなかった。あるとき小一条院が皇太子の地位を辞退したので、上東門院は道長を諭して敦康をその代わりに立てようとしたが、道長は帝の遺旨を理由にこれを拒んだ。(注:『栄華物語』による。)敦康はますます鬱々とした思いを募らせた。(注:『大鏡』による。)寛仁二年十二月、病により薙髪し、(注:『小右記』『左経記』による。)その日のうちに薨去した。(注:『日本紀略』『小右記』『左経記』『山槐記』による。『一代要記』『栄華物語』はいずれも十一月とするが誤りである。)享年二十。(注:『小右記』『山槐記』による。『日本紀略』は二十一歳とし、これは『栄華物語』の長徳四年生誕説と合致するが、『日本紀略』『小右記』の長保元年生誕という記述とは合わない。そのため採らない。また『一代要記』『大鏡』は二十九歳とし、『栄華物語』系図は十七歳とするが、いずれも誤りである。)翌年、元日の朝賀が停止された。(注:『小右記』『左経記』による。)娘の嫄子(げんし)は後朱雀帝の中宮となった。(注:『皇胤紹運録』『栄華物語』『今鏡』による。)
【三條】四子
¶三条帝には四人の皇子がいた。第一子小一条院敦明(あつあきら)、第二子敦儀親王(あつのりしんのう)、第三子敦平親王(あつひらしんのう)、第四子師明親王(もろあきらしんのう)は、いずれも皇后藤原氏(藤原娍子)の生んだ子である。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)
小一條院敦明
¶小一条院(こいちじょういん)は、名を敦明(あつあきら)といい、弟の敦儀・敦平・師明とともに、三条帝がまだ東宮であった時代に生まれた子である。(注:『栄華物語』による。)寛弘八年十月、三人の弟とともに親王となり、(注:『日本紀略』『一代要記』による。)三品に叙せられ、兵部卿に任じられた。(注:『一代要記』による。)左大臣藤原顕光(あきみつ)の娘延子(えんし)を妃に迎え、そのため顕光の堀河第に住んだ。(注:『栄華物語』による。)三条帝が後一条帝に譲位しようとした際、左大臣道長は後一条帝の弟にあたる敦良親王(あつながしんのう)を皇太子に立てようとした。帝はこれを聞き入れず、敦明を立てるつもりであった。敦明はこれを聞いて不安になり、固く辞退しようとして、母后藤原氏(娍子)のもとへ行き、「もし今日皇太子の位を得ても、明日にはすぐに堀河第へ帰るつもりです」と告げた。母后は大いにこれを憂え、ちょうど中納言藤原懐平(かねひら)が参上して挨拶をした折に、「この子はほとんど病んで気が狂れたようなありさまで、無理に立てればわが家門にとって不利になるのではないかと恐れる。私は中務宮に代えたいと思う。そなたは右大将に相談してくるがよい」と言った。中務宮とは敦明の同母弟の敦儀親王のことであり、右大将とは懐平の弟の実資(さねすけ)のことである。懐平が赴いてこれを相談すると、実資は大いに驚き、可否を明らかにせず、「これは愚臣の及ぶところではありません」とだけ申し上げた。やがて朝廷では東宮に仕える官人を任命する議が起こったが、内外の臣下で候補に名の挙がった者は、皆道長に憚って固く辞退した。(注:『小右記』による。)長和五年正月、帝はついに譲位し、敦明を新帝(後一条帝)の皇太子に立てた。(注:『日本紀略』『一代要記』『栄華物語』『大鏡』による。)このとき敦明は二十三歳で、新帝より十四歳年長であった。道長はこれを快く思わなかった。(注:『栄華物語』『大鏡』による。)翌年、三条法皇が崩御すると、朝廷に仕える臣下は皆道長を恐れて、東宮のもとへ挨拶に赴く者がいなくなった。東宮の官人から下働きの卑しい者に至るまで、皆後々の禍いを恐れて、その職務を務めようとしなかった。庭には雑草が生い茂り、門前には雀を捕る網を張れるほどに人の訪れが絶えた。敦明はますます不快になり、ついに病と称して皇太子の位を退く計画を立てるに至った。ある人が敦明に「皇太后(彰子)と道長殿が謀って、早く殿下を廃し敦良親王を立てようとしている」と告げた。また別の人は「道長殿はまさに娘を殿下に差し出そうとしている」とも言った。敦明は疑い恐れ、位を辞する決意を固め、道長の子の能信(よしのぶ)を召して、「私が東宮にあるのは、先帝(三条帝)のお定めになったことである。謹んでその御意向に従い、違えることのないようにせねばならない。しかし今上はまさに壮年であり、私が年長のまま無理に東宮の位にとどまるより、退いて心静かな身となり、自らに適うようにするほうがよい。ただし急に退位すれば、日々の給仕にも事欠くことになろう。もし院号を賜り、受領の吏を置いていただけるならば、それが私の願いである。それゆえそなたに頼み、私のこの言葉をそなたの父に伝えてほしい」と告げた。能信は退出してこれを道長に告げると、道長は大いに喜び、大納言源俊賢(としかた)と相談した。俊賢は喜んで、「もし日を選んで事を行おうとすれば、その間に東宮が地位を守ろうとする策を巡らすかもしれません。速やかに行うべきです」と言った。道長はただちに上東門院に奏上し、子息や朝廷の官人を引き連れて赴いたが、その供の行列は延々と続き、いつもの日とは大いに様子が異なっていた。見る者は誰もその理由を知らなかった。当初、道長は「太子に会えば、太子はきっと日頃の憤りを訴えるだろう」と思っていたが、いざ参上すると太子は悄然として、わずか数語を述べたのみであった。道長はそのまま太子に位を辞させ、東宮の御殿はただちに取り壊され、后妃や女房たちは皆すすり泣いた。このとき道長は内外の出入りを厳しく禁じ、女性であっても通ることを許されなかった。母后はただならぬ事態を疑い、侍女を遣わして様子を見させたところ、すでに廃位が決まった後で、これを知って大いに驚き嘆き、悲しみに堪えられず、道長がその場に居ることも知らずに「皇太子に何の罪があって、にわかにこのような事態に至ったのか」と言った。道長はこれを聞いて憐れみながらも苦笑した。(注:『大鏡』による。『栄華物語』には、道長が太子の辞位の意向を聞いて「そのようなことになれば先帝の血筋が絶えてしまう。これは正気を失った者のすることだ、太子がそのようなはずはない」と語り、にわかには信じなかったとある。やがて太子から何度も召し出しがあり、やむを得ず参上して拝謁した。太子はそこで事情を打ち明けた。道長は「私どもは先帝より畏れ多くも御委任を受け、殿下をお仕えしております。決してその御命令を怠ることはございません。ただ主上がまだ幼く、政務が繁多であるため、参上の礼を十分に尽くせずにおります。殿下にはどうかそれをお許しいただきたい。国家の安泰は殿下があってこそのものであり、どうしてこのような穏やかならぬお言葉をお出しになるのですか。殿下がたとえご自身を軽んじられても、一品宮はどうなりましょうか」と答えたという。一品宮とは太子の妹にあたる禎子(ていし)のことで、道長の娘である中宮妍子(けんし)が生んだ子である。太子は不満げに「どうしても願いが叶わないなら、私には出家する覚悟がある」と言い、道長はやむを得ず上東門院に奏上した、とある。しかしこの記述は、もっぱら道長を美化しようとする筆致であり、あまりに取り繕われていてその実態が見えない。そのため採らない。)こうして敦明には小一条院の号が与えられ、封戸はそれまでのままとされ、年官・年爵・受領の吏を給わり、(注:『日本紀略』『小右記』による。)太上天皇の例とすべて同じ待遇とされた。(注:『日本紀略』『大鏡裏書』による。)敦明はこれによってかなり心を落ち着けた。(注:『栄華物語』による。)慣例では皇太子を立てる際には必ず壺切御剣(つぼきりのぎょけん)を伝えることになっていたが、敦明が立てられた際にはこれを理由をつけて遅らせ、人々はその地位が長く続かないことを察していた。(注:『左経記』『大鏡裏書』による。)当時、道長の娘たちはすでに宮中に入っており、家に残る娘も時期を待って入内する見込みであったが、ただ五女の寛子(かんし)だけは行き先が定まっていなかった。道長はなお凡庸な人物に嫁がせることを望まず、ついに敦明の妃として差し出し、あわせて世間の非難をかわそうとした。付き従う女房は二十人にのぼり、多くは公卿の子女から選ばれた。下男下女はあわせて八十人であった。敦明自ら赴いて婚儀を行ったが、寛子は実家に留まったままであった。敦明が訪れるたびに、道長は必ず朝廷の諸臣を選んで宴に侍らせた。当時、道長の子息たちはすでに高い地位にあり、皆自ら酒食を取り仕切り、灯火をかかげて丁重に案内し、供の者に至るまで皆十分な恩恵にあずかり、その望みを満たさない者はなかった。人々は、廃太子となった今の境遇のほうが、天子となるよりもはるかに勝るとまで言った。延子とその父顕光はこれを聞いて憂憤のあまり病を得て薨去した。ほどなく寛子もまた病で薨去したが、これは顕光と延子の怨霊のしわざであるといわれた。敦明はまた寛子の侍女であった源氏を気に入って寵愛し、西院に移り住んで瑠璃女御(るりのにょうご)と称された。その後さらに右大臣藤原頼宗(よりむね)の娘を妃に迎えた。(注:『栄華物語』による。寛子については『尊卑分脈』、侍女を源氏と記すのは『皇胤紹運録』による。)長久二年八月、薙髪し、(注:『扶桑略記』『百錬抄』による。)法名を妙覚(みょうかく)といった。(注:『一代要記』『歴代皇紀』による。)四年、延暦寺に赴いて受戒し、天寂(てんじゃく)と号した。(注:『歴代皇紀』による。)永承六年正月、薨去した。享年五十八。(注:『紹運要略』『扶桑略記』『百錬抄』『一代要記』による。)
¶子には敦貞(あつさだ)・敦昌(あつまさ)・敦元(あつもと)・敦賢(あつかた)がおり、皆三条帝の皇子に准じて親王とされた。(注:『日本紀略』による。敦賢については『尊卑分脈』『皇胤紹運録』による。)基平(もとひら)・信宗(のぶむね)・顕宗(あきむね)・当宗(まさむね)は源朝臣の姓を賜った。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)基平は参議、位は従二位に至った。(注:『公卿補任』による。)信宗は正四位下、民部大輔・左近衛中将(注:左は右につくる本もある。)・備中守となった。他の子は出家して僧となった。(注:『皇胤紹運録』による。)娘の嘉子内親王(かしないしんのう)は、永承元年、伊勢斎宮となった。(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による。)斉子女王(せいしじょおう)は、承保元年、賀茂斎院となり、(注:『斎院記』『一代要記』『帝王編年記』による。)寛治三年、母の喪により職を退いた。(注:『斎院記』による。母の喪については『栄華物語』による。)春日斎院と称された。(注:『皇胤紹運録』『斎院記』による。)
敦貞親王
¶敦貞親王(あつさだしんのう)は、寛仁三年、親王となった。(注:『小右記』『日本紀略』による。)三品に叙せられ、中務卿に任じられ、式部卿に転じた。康平四年二月、薨去した。享年四十八。子には宗家王(むねいえおう)・敦輔王(あつすけおう)がいる。宗家は権大納言藤原信家(のぶいえ)の養子となった。敦輔は敦平親王の養子として出て、神祇伯・従四位上となった。(注:印本の『尊卑分脈』による。)他の子は出家して僧となった。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)
敦昌親王
¶敦昌親王(あつまさしんのう)は、長元二年、弟の敦元とともに親王となった。(注:『日本紀略』による。)後に出家して園城寺に入った。(注:『栄華物語』による。『皇胤紹運録』『尊卑分脈』はいずれも敦昌を敦元の上に記しながら、その事蹟を載せていない。その敦元の項には、師僧永円について出家し、名を明行と改めて三井寺に住み、一身阿闍梨に補せられて平等院と号したとある。しかし敦元は十歳で早世しており、出家するには至っていない。実際に出家して園城寺に住んだのは敦昌であるから、これは明らかな誤りであり、そのためここに注記しておく。)
敦元朔王
¶敦元親王(あつもとしんのう)は、長元五年七月、薨去した。享年十歳。(注:『日本紀略』による。『栄華物語』系図は十一歳とする。)
敦賢親王
¶敦賢親王(あつかたしんのう)は、式部卿となった。(注:『扶桑略記』『皇胤紹運録』による。)承暦元年七月、薨去し、(注:『扶桑略記』による。『水左記』は八月とする。)享年三十九。(注:『水左記』『扶桑略記』による。)子は出家して僧となった。(注:『皇胤紹運録』による。)娘の淳子女王(じゅんしじょおう)は、延久五年、伊勢斎宮となった。(注:『貴女抄』『一代要記』による。)
敦儀親王
¶敦儀親王(あつのりしんのう)は、長和二年、三品に叙せられ、(注:『日本紀略』『小右記』による。)中務卿に任じられた。(注:『一代要記』による。『栄華物語』は寛弘年間の任官とするが誤りである。)後に式部卿に転じた。(注:『一代要記』『日本紀略』『帝王編年記』『大鏡』による。)長元三年九月、薙髪して巌蔵(いわくら)に赴いた。(注:『日本紀略』による。)天喜二年七月、薨去した。享年五十八。(注:『一代要記』による。)
敦平親王
¶敦平親王(あつひらしんのう)は、長和二年、三品に叙せられた。(注:『日本紀略』『小右記』による。)兵部卿・中務卿を歴任した。長元三年、式部卿に転じた。(注:『一代要記』による。中務卿については『栄華物語』『大鏡』による。)参議藤原兼隆(かねたか)の娘を妃に迎えた。(注:『小右記』『栄華物語』『大鏡』による。)これより先、中宮藤原氏(威子)が出産のため兼隆の邸に退出していたことがあった。(注:『日本紀略』『栄華物語』による。)万寿四年、宮中に戻った。(注:『小右記』『日本紀略』による。)帝は兼隆の労に報いようとして、敦平を兄の敦儀よりも上位とし、二品に叙した。これにより親王たちの席次はこの時をもって定まり、以後変わることがなかった。長元四年正月、朝廷の叙位に際し、敦平は前太宰大弐藤原惟憲(これのり)の願いにより、(注:『小右記』による。)良国王(よしくにおう)を誤って推挙し、四位に叙させてしまった。(注:『小右記』『日本紀略』による。)良国はもとは太宰大監大蔵種材(たねき)の子であったが、(注:『日本紀略』による。『左経記』は対馬守雅規(まさのり)の子とする。)かつて私怨によって大隅守菅野重忠(すがののしげただ)を殺害し、逃亡して姓名を変え王氏を名乗っていたのである。この事が発覚すると、外記を敦平の邸に遣わして事情を問いただした。(注:『小右記』『左経記』『日本紀略』による。)三月、勅により良国が捕らえられ、(注:『小右記』『左経記』による。)敦平は式部省の職務を停止された。九月、職務に復することを許された。(注:『日本紀略』『小右記』『左経記』による。)永承四年、病により薙髪した。(注:『一代要記』による。)三月、薨去した。享年五十一。(注:『扶桑略記』『一代要記』による。)娘の敬子女王(けいしじょおう)は伊勢斎宮となった。(注:『貴女抄』『一代要記』による。)
師明親王
¶師明親王(もろあきらしんのう)は、初め母后がまだ師明を身ごもっていたとき、異国の僧が現れて胎に宿ったことを告げる夢を見た。(注:『古今著聞集』による。)生まれたときには、神々しい光が部屋を照らしたという。(注:『皇胤紹運録』『古今著聞集』『諸門跡譜』による。)小一条院と同時に親王となった。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)三条帝が崩御すると出家しようとしたが果たせず、そのうちに小一条院の養子となった。元服を控えたころ、小一条院が兄の敦平親王を冷遇するさまを見て、自らも頼るには足りないと考え、ひそかに仁和寺に身を投じた。(注:『栄華物語』による。) 僧済信(さいしん)に師事して剃髪し、性信(しょうしん)と名を改めた。(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』『仁和寺御伝』による。)生まれつき聡明で、典籍を広く読み、穀断ちをして修行に励み、(注:『諸門跡譜』による。)祈祷の験があることでも知られた。(注:『孔雀経御修法記』『古今著聞集』による。)治暦四年、輦車・牛車での参内を許され、(注:『扶桑略記』『歴代皇紀』『仁和寺御伝』による。)三宮に准じられた。(注:『皇胤紹運録』『諸門跡譜』による。)承保二年、封戸二十戸を賜った。(注:『仁和寺御伝』による。『孔雀経御修法記』は永保三年に封戸五十戸を賜ったとし、あるいは延久六年に別封二十五戸を賜ったともいい、承保二年の賜封を記す文はない。いずれが正しいかは分からない。)永保三年、直ちに二品を授けられた。僧が二品に叙せられたのは、これが初めてである。(注:『歴代皇紀』『釈家官班記』『孔雀経御修法記』による。『皇胤紹運録』『諸門跡譜』は三品とするが誤りである。)応徳二年九月、薨去した。享年八十一。大御室(おおみむろ)と称された。(注:『山槐記』『仁和寺御伝』『諸門跡譜』による。)師明は仁和寺にあって、佳節や良き日のたびに遠近から僧俗を集め、和漢の学を語り詩歌を詠んで共に楽しんだ。その会は正月七日の承陽会に始まり、九月十三夜の継華会に至るまで、年に九回に及び、ついに恒例の行事となったという。(注:『真俗文談記』による。)
【後三條】四子
¶後三条帝には五人の皇子がいた。贈皇后藤原氏(藤原茂子)は白河帝を生んだ。女御源氏(源基子)は第一子皇太弟実仁(さねひと)、第三子輔仁親王(すけひとしんのう)を生んだ。(注:『皇胤紹運録』による。)宮人藤原氏はある皇子を生んだ。(注:『栄華物語』による。)侍従内侍は藤原有佐(ありすけ)を生んだ。(注:『今鏡』『尊卑分脈』による。)
實仁皇太弟
¶皇太弟実仁(さねひと)は、母が帝の寵愛を受けていたことから、格別に可愛がられた。(注:『栄華物語』による。)延久三年、親王となった。(注:『扶桑略記』『一代要記』による。)四年十二月、帝が白河帝に譲位すると、実仁は皇太弟に立てられた。(注:『扶桑略記』『百錬抄』による。)永保元年八月、元服した。(注:『今鏡』『扶桑略記』『百錬抄』『一代要記』による。)応徳二年十一月、瘡(かさ)を患って薨去した。享年十五。(注:『扶桑略記』『歴代皇紀』による。『源平盛衰記』は二月の薨去とする。)
輔仁親王
¶輔仁親王(すけひとしんのう)は、承保二年、親王となった。(注:『今鏡』『一代要記』による。)輔仁は才能に恵まれ、詩歌に優れ、その名声はほとんど兼明親王・具平親王の両中書王に次ぐものとされ、人々は皆これを重んじた。(注:『今鏡』による。あわせて『中右記』を参照。)伶人豊原公里(とよはらのきみさと)に笙を学び、公里が秘蔵していた黒漆塗りの笙を譲り受けた。(注:『体源抄』が引く『続教訓抄』による。)後三条帝は崩御に臨み、白河帝に「東宮(白河帝の弟実仁)が即位したならば、輔仁を皇太弟に立てるように」と遺詔した。しかし皇太弟実仁は早くに薨去し、白河帝は遺詔にそむいて善仁親王(のちの堀河帝)を皇太子に立てた。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)輔仁は不満を抱き、仁和寺の花園に退いて住み、琴や歌に心を慰めた。白河帝は食邑をいくつか賜ってこれを慰め、折々に参内して会うようにと勅した。輔仁は詩を献じて「琴有り酒有り山中の楽しみ、喜び無く憂い無き世上の情」と詠んだ。世の人々は皆その風雅を慕った。官位を持たず山林を愛する者たちが多く輔仁のもとに集まって仕え、世に三宮百大夫と呼ばれた。(注:『源平盛衰記』による。本書には「花有り獣有り山中の友、愁い無く歎き無き世上の情」とあるが、ここでは『新撰朗詠集』に拠った。)鳥羽帝がまだ生まれておらず堀河帝が病に伏していた頃、天下の人心は輔仁に帰していた。(注:『台記』による。)後に塩小路烏丸第に居を移した。(注:『中右記』による。)輔仁は醍醐寺の僧仁寛(にんかん)を護持僧としていた。(注:『源平盛衰記』による。)永久元年、密告の書が届き、仁寛とその弟子勝覚(しょうかく)が謀反を企て、童子の千手丸(せんじゅまる)に天皇の乗り物を襲わせようとしていると告げてきた。検非違使盛重(もりしげ)を遣わしてこれを捕らえ、(注:『百錬抄』『源平盛衰記』による。)取り調べたところ、童子は「仁寛はいつも三宮(輔仁)のために帝位に登ることを祈願し、私を遣わして帝を狙わせようとした」と述べた。朝議は死一等を減じ、仁寛と千手丸を流罪とした。輔仁は実際にはこの企てを全く知らなかったが、それでも心穏やかでいられず、門を閉ざして外に出なかった。三年、白河法皇が出行の途中でその邸を通りかかり、詔して門を開かせた。(注:『百錬抄』による。)元永二年十一月、痰の病により薙髪し、まもなく薨去した。享年四十七。(注:『歴代皇紀』『中右記』による。病により薙髪したことは『長秋記』による。『諸門跡譜』には仁操少僧都の項に「三品輔仁親王」と記すが、輔仁が三品であったことは他に見えないため、これは採らない。)右大臣藤原宗忠(むねただ)はこれを弔って、「風月の遊びはこれで廃れてしまった」と述べたという。輔仁の人柄が人々に惜しまれたことはこれほどであった。(注:『中右記』による。)子には有仁(ありひと)がおり、(注:『公卿補任』『皇胤紹運録』による。)他の子は皆出家して僧となった。娘には守子女王(しゅしじょおう)・怡子女王(いしじょおう)がいる。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)守子は保安四年、伊勢斎宮となり、(注:『斎宮記』による。)伏見斎宮と称された。(注:『皇胤紹運録』、ある本の源氏系図、『今鏡』『貴女抄』による。)怡子は長承二年、賀茂斎院となり、北小路斎院と称された。(注:『貴女抄』『斎院記』による。)
源有仁
¶源有仁(ありひと)は、幼い頃から才能があり、(注:『今鏡』による。)容姿は極めて美しく、白河上皇は深くこれを愛し、(注:『今鏡』『台記』による。)またその父輔仁親王の心を慰めようとした。(注:『源平盛衰記』による。)上皇は御前で有仁に加冠し、(注:『今鏡』『源平盛衰記』による。)養子とした。行幸のたびに車に陪乗させた。(注:『今鏡』による。)鳥羽帝にまだ皇嗣がなかった頃、上皇は有仁に心を寄せていたが、まもなく崇徳帝が生まれると、(注:『台記』による。)有仁に源朝臣の姓を賜り、従三位に叙し、右近衛権中将に任じた。このとき十七歳であった。(注:『公卿補任』による。)皇族が源姓を賜って直ちに三位に叙せられるのは、嵯峨天皇の皇子源定(みなもとのさだむ)を除いては、かつて例のないことであった。(注:『台記』『今鏡』による。あわせて『源平盛衰記』を参照。)その年、権中納言に任じられた。保安元年、抜擢されて権大納言を拝した。翌年、右近衛大将を兼ねた。(注:『公卿補任』『今鏡』による。)当時の人々はこれを羨み、宮大将と呼んだ。(注:『今鏡』による。)正三位に進んだ。三年、内大臣を拝し、正二位に進んだ。天承元年、右大臣に任じられ、従一位を加えられた。保延元年、左近衛大将に転じた。二年、左大臣を拝した。(注:『公卿補任』による。)有仁は持病のため、多くの場合職務に就くことができなかった。(注:『台記』による。)久安三年、ついに職を辞して薙髪し、(注:『台記』『公卿補任』による。)法名を成覚(じょうかく)といった。まもなく薨去した。享年四十五。(注:『公卿補任』による。)世には花園左大臣と称された。(注:『皇胤紹運録』『今鏡』『源平盛衰記』による。) 有仁は文章博士菅原敦正(あつまさ)に学び、(注:『十訓抄』による。)詩歌に優れ音律に通じ、とりわけ書に巧みで、寺院の扁額の多くは有仁の筆によるものであった。(注:『今鏡』による。)生まれつき身なりを整えることを好み、立ち居振る舞いはことごとく礼にかなっていた。(注:『台記』による。)衣服の仕立ては、丈の長短や幅の広狭に至るまで、精緻を尽くさぬものはなかった。これより前、世の風俗は質素を尊び、衣冠の用は身を覆うことを目的とするに過ぎなかった。白河帝は人主として尊い身でありながら、その衣冠を側近が整える際に手間取ると、帝は怒ってこれを打ち据えることさえあった。鳥羽帝の代になると、しだいに華美な装いが好まれるようになり、有仁の家人を蔵人に任じて御服を掌らせるようになった。(注:『今鏡』による。)これによって、上下を問わずおのずとこの風が定着した。(注:『神皇正統記』による。)衣冠の好尚は一変し、その精妙な仕立ての多くは有仁の家から生み出された。(注:『今鏡』による。)長承年間、前関白藤原忠実(ただざね)は鳥羽上皇の妃の父として権勢が朝廷に響き渡っていたが、子の関白忠通(ただみち)らを率いて新年の賀に参内した際、居並ぶ公卿は皆礼を尽くすことが過剰で、まるで家臣のような有様であったのに対し、ただ有仁だけは終始落ち着いて微笑み、静かに座を立つのみであった。当時の世評はこれを大いに称賛した。(注:『愚管抄』による。)有仁が薙髪した日、帝はそのために釈奠の宴を停止した。左大臣藤原頼長(よりなが)は深くこれを惜しんだ。これより先、彗星が東方に現れたことがあり、頼長はこれを有仁が世を去る前兆であったのだろうと語ったという。有仁の人柄が人々に重んじられたことはこれほどであった。(注:『台記』による。)有仁には跡継ぎがなく、常々「私が具平親王の子孫を見るに、その才能は凡人に及ばない。もし私に不肖の子があったとしても、いっそいないほうがましであろう」と語っていた。(注:『今鏡』による。)著書には『春玉秘抄』『園記』『春翫記』がある。(注:『仁和寺書籍目録』による。)
皇子某
¶某皇子は、早くに亡くなった。(注:『栄華物語』による。)
藤原有佐
¶藤原有佐(ふじわらのありすけ)は、生まれたとき、後三条帝が自ら「有佐」の二字を扇に書き、それを名として賜った。(注:『今鏡』による。)讃岐守藤原顕綱(あきつな)に命じてその子として養わせた。(注:『今鏡』『東斎随筆』による。)その後、朝廷の内外の職を歴任し、(注:『尊卑分脈』による。)皇后宮亮・近江守などを務めた。(注:『今鏡』『東斎随筆』による。皇后宮亮については『尊卑分脈』による。)