卷之二百十八 列傳第一百卌五
歌人一
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
柿本人麻呂
¶紀貫之(きのつらゆき)は『古今和歌集』の序文で、「天地を動かし、鬼神を感じさせ、人の道を教え導き、夫婦の仲を和らげるものとして、和歌に勝るものはない」と述べている。そもそも和歌は人の心情に根ざし、言葉を長く連ねて表現するものであり、これはどの国においても変わらぬ普遍的なことである。その言葉を文飾したものとして、西方の国(中国)には詩があり、我が国には歌がある。言語や文字の表現形式は異なっていても、喜怒哀楽の情から発し、人の本性・情感の正しいところを表すという点では、両者に違いはない。そもそも「憙哉(うれしきかな)」という言葉は、世がいまだ開けなかった太古の昔にその端を発するという。また「八雲立つ」の歌が生まれたのは、速盞鳴尊(はやすさのおのみこと)に始まると伝えられている。それ以来、「難波津(なにわづ)」や「安積山(あさかやま)」の歌が詠まれ、和歌の模範として立てられてきた。これを絃楽に合わせて歌えば、風俗を変え移すことさえできるという。およそ市井の名もない男女から、朝廷の重臣に至るまで、心に感じるところがあれば、それを言葉に表さずにはいられないものである。「六義(りくぎ)」が備わって、褒め称える歌と諷刺する歌とが並び立ち、民の風俗を述べ、政治のありさまを察し、人々の思いを奮い起こし、恨みを述べることができるのも、まさにここにある。しかし後の世の弊害としては、ただ美辞麗句を飾り立てることのみに終始するようになった。妖しく艶めいた歌が色恋を取り持つ手立てとなり、なよやかな歌が教え諭す口実となって、思いを綴り言葉を練ることは、ますます巧みに、ますます緻密になっていった。そしてその一方で、正しく雅やかな調べは、ほとんど絶えかけてしまった。見識ある者は、浮ついた言葉が雲のように湧き起こり、艶めいた表現が泉のように溢れ出ることを嘆いた。実り豊かな秋の実を捨てて、はかない春の花ばかりを摘み取るようなものだと言われるのも、まことにもっともなことである。しかしながら、人に備わる本性や情感というものは、昔も今も変わることがない。であれば、その中にあって、この乱れを正し、素朴で純粋な歌風に立ち返らせ、よく人の本性・情感の正しさを得た者が、いないはずがあろうか。歴代の朝廷では勅撰集が編まれ、諸家にはそれぞれ家集があり、星のように連なり雲のように広がって、その盛んなることは実に輝かしい。よって歌人の伝を作る。
山部赤人
¶柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、その祖先が天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)に出るという(注:『新撰姓氏録』による)。人麻呂は持統天皇(じとうてんのう)・文武天皇(もんむてんのう)の二朝に仕えた(注:『万葉集』および『続本朝文粋』所載の藤原敦光(ふじわらのあつみつ)による人麻呂の画像讃にみえる。人麻呂の生きた時代については諸説が一致しない。『古今和歌集』の序には「奈良朝の柿本人麻呂」とある。僧顕昭(けんしょう)の注釈書には、藤原教長(ふじわらののりなが)・藤原清輔(ふじわらのきよすけ)がいずれも「奈良朝とは聖武天皇(しょうむてんのう)のことである」と述べたとある。藤原仲実(ふじわらのなかざね)の『古今和歌集目録』では平城天皇(へいぜいてんのう)の朝とし、人麻呂は大宝年間の人であるとする。今『万葉集』を調べると、人麻呂の歌が載るのは藤原京の時代までで、年代は大宝で止まっている。奈良朝に至っては赤人の歌は載るが人麻呂の歌はない。敦光の讃には「持統・文武の聖朝に仕え、高市皇子(たけちのみこ)・新田部皇子(にいたべのみこ)に見えた」とある。諸書を調べると、元明天皇(げんめいてんのう)の和銅三年に都を平城京に遷しており、平城すなわち奈良で、これより光仁天皇(こうにんてんのう)に至るまでを奈良七代と称する。とすれば、いわゆる奈良朝が具体的にどの天皇の時代を指すのかは明らかでない。目録の説くように大宝年間の人であるとすれば『万葉集』の記述と合致し、思うに人麻呂は持統天皇より前に生まれ、元明天皇の初めに没したのであろう。貫之の序の説については藤原定家(ふじわらのさだいえ)・藤原為家(ふじわらのためいえ)・僧顕昭らがいずれも疑いを呈しており、詳しくは彼らの手記に見える。よって今は前の二書に従う)。官位については詳らかでない(注:考えるに、『万葉集』には人麻呂が死に臨んで作った歌が載り、その題辞に「柿本朝臣人麻呂、石見国(いわみのくに)にて死に臨む」とある。『古今和歌集』の紀貫之の序には「正三位柿本人麻呂」とあり、紀淑望(きのよしもち)の序には「先師柿本大夫」とある。今、律令を調べると「六位以下の死を『死』と称する」とある。『古今集』所収の壬生忠岑(みぶのただみね)の長歌には人麻呂を評して「身分は低い」とある。とすれば人麻呂の位が低かったことが知られる。いわゆる「正三位」というのは、書き写す際に「六」を「三」と誤ったのではないか。源親房(みなもとのちかふさ)の『古今集註』や『歌仙伝』もこれを疑っており、淑望の序にあるのは尊んで呼んだ称にすぎないのであろう。いずれも確かな根拠とはし難い)。和歌を巧みに作り、世に「歌聖」と称された。その神妙な発想は高く振るい、古今に並ぶ者のない存在であった(注:『古今和歌集』の序による)。長皇子(ながのみこ)・新田部皇子・高市皇子ら諸皇子と交遊した(注:『万葉集』および人麻呂の画像讃による)。紀伊(きい)・伊勢(いせ)・雷丘(いかづちのおか)・吉野(よしの)への行幸に供奉し、近江(おうみ)・石見・筑紫(つくし)など諸国を巡遊し、通り過ぎたところではどこでも歌を詠まないことはなかった(注:考えるに、僧顕昭の『人麻呂勘文』には次のようにある。「人麻呂の家集に収める歌は三百余首あるが、そのうち誤って他人の歌を載せているものが十四首ある。また『万葉集』所載の詠み人知らずの歌も多く紛れ込んでいる。さらに『古今和歌集』『拾遺集』『大和物語』に載る人麻呂の歌を『万葉集』や家集と併せて考えると、載っていたりいなかったりで、大いに疑わしい。『万葉集鈔』の序に載る、天平勝宝五年に人麻呂が橘諸兄(たちばなのもろえ)と問答したという話は、人麻呂の生きた年代とはかけ離れており、思うに家集は天平勝宝以後の人が編んだもので、体裁も雑然としており、人麻呂自身が編纂したものではない。」勘文はさらに言う。「『拾遺集』には人麻呂が唐に在って作った歌が載るが、『万葉集』を調べると、これは柿本人麻呂の歌ではない。天平八年に遣新羅使が筑紫に至って作った歌であり、思うに同姓同名の別人がいたのであろう。『袋草子』が引く遣唐使大伴佐手麻呂(おおとものさてまろ)の記には『山城国の史生(ししょう)上道人麻呂(かみつみちのひとまろ)と、副使で陸奥介の玉手人麻呂(たまでのひとまろ)とが、天平勝宝元年四月に船出し、二年九月に帰国した』とある。家集にも唐にあって作った歌を載せるが、これもまた誤りである。」今『続日本紀』を調べても、上道人麻呂・玉手人麻呂が新羅に使いしたことは載っておらず、他に考証すべき材料もない)。晩年は石見国に住み、そこで生涯を終えた(注:『万葉集』による)。墓は大和国(やまとのくに)添郡(そうのこおり)にある(注:僧顕昭の『人麻呂勘文』および鴨長明(かものちょうめい)の『無名抄』による。考えるに、勘文で藤原清輔は次のように述べている。「かつて大和国を通った折、古老から聞いた話では、添郡の石上寺(いそのかみでら)のそばに祠があり、春道社(はるみちのやしろ)と号し、その祠のそばの寺は柿本寺(かきのもとでら)といい、人麻呂が建てたものだという。祠の前の小塚を人麻呂の墓と呼ぶ。清輔が実際に行って見たところ、いわゆる柿本寺は礎石がわずかに残るのみであった。人麻呂の墓は高さ四尺ほどで、そこで卒塔婆(そとば)を建て、『柿本朝臣人麻呂墓』と刻んだ。」顕昭は、人麻呂は石見国で没したのに、その墓が大和国にあるのは、思うに後の人が疑って改葬したものであろう、平惟仲(たいらのこれなか)が大宰府で没し、遺骸を山城国(やましろのくに)白河(しらかわ)に移したのと同じ例であろう、と述べている。今考えるに、『無名抄』には、人麻呂の墓は泊瀬(はつせ)にあり、土地の人は歌塚と呼んでいるとあるが、泊瀬は添郡にあり、顕昭の説と合致する。また、もう一つの墓が播磨国(はりまのくに)大倉谷(おおくらだに)のそばにあると『増鏡』に見え、世間では石見国高角山(たかつのやま)にあるとも伝えられている。さらに、『万葉集』に載る人麻呂が妻を悼んだ長歌によれば、人麻呂には子があったというが、その名は詳らかでない)。
在原業平
¶山部赤人(やまべのあかひと)は(注:『万葉集』による。『古今和歌集』の紀淑望の序では「山辺赤人」と書かれ、顕昭の注釈書や源親房の『古今集註』もこれに従い、さらに『新撰姓氏録』を引いて「山辺氏は垂仁天皇(すいにんてんのう)に出る」とする。しかし『姓氏録』にいう山辺氏は姓(かばね)が「公(きみ)」であり、『続日本紀』にいう山辺氏は姓が「真人(まひと)」である。これに対し本書には「山部宿禰赤人」と書かれている。山部宿禰については、『日本書紀』顕宗天皇(けんぞうてんのう)元年に久米都小楯(くめべのおだて)が「山部連(やまべのむらじ)」の姓を賜り、『続日本紀』天武天皇(てんむてんのう)十三年に姓を「宿禰(すくね)」に改め賜ったとある。これによれば、山部氏と山辺氏はもともと別の氏族であり、古今集の序以下の諸説はいずれも誤りである)、和歌によって世に知られ、柿本人麻呂と名を並べ、「山柿(さんし)」と称された(注:『万葉集』、大伴家持(おおとものやかもち)および大伴池主(おおとものいけぬし)の歌の序、『続本朝文粋』の和歌類林序による)。論者は、人麻呂を赤人の上に立てることは難しいけれども、赤人を人麻呂の下に立てることもまた難しい、とする。後世には「和歌の仙」と称された(注:『古今和歌集』の二つの序による)。神亀年間の初め、紀伊国への行幸に供奉した。天平年間には、吉野の離宮に供奉し、勅命に応じて歌を作った。かつて春日(かすが)に詣で神岳(かみおか)に至り、伊予国(いよのくに)の温泉に浴し、辛荷島(からにのしま)・敏馬浦(みぬめのうら)に遊び、また東国に遊んで富士山(ふじさん)を望むなど、その折々に作った歌は世に称賛された(注:『万葉集』による)。
大友黑主
¶在原業平(ありわらのなりひら)は、阿保親王(あぼしんのう)の第五子である。天長年間、兄の行平(ゆきひら)とともに「在原」の姓を賜った(注:『三代実録』による)。世に「在五中将(ざいごちゅうじょう)」と称された(注:『更級日記』による)。容姿は優雅で美しく、性格は奔放で物事にとらわれず、和歌を巧みに詠んだ(注:『三代実録』による。考えるに、紀貫之の序、すなわち『古今和歌集』の序では、業平および僧正遍昭(へんじょう)・文屋康秀(ふんやのやすひで)・僧喜撰(きせん)・小野小町(おののこまち)・大友黒主(おおとものくろぬし)の六人を挙げて評しており、後世これを「六歌仙」と称する。源親房の『古今集序註』では「六歌撰」と書かれているが、この書はおそらく偽作であり、「仙」と「撰」の字も異なっている。「六歌仙」という呼び名がいつ始まったかは詳らかでないが、ひとまずここに付記しておく)。論者は「業平の歌は、心情が言葉を超えて溢れ、言葉では言い尽くせないところがある。たとえるなら萎れて散った花のようなもので、色艶こそ少なくなっても、なお香りが残っている」と評した(注:『古今和歌集』の序による)。貞観年間、右馬頭(うまのかみ)に任じられ、勅命を受けて鴻臚館(こうろかん)に赴き、渤海(ぼっかい)からの使者をねぎらった。右近衛権中将(うこんえのごんのちゅうじょう)となった。元慶年間には、相模(さがみ)・美濃(みの)の権守(ごんのかみ)を歴任兼帯した。五十六歳で没した(注:『三代実録』による)。かつて武蔵国(むさしのくに)に遊び、隅田川(すみだがわ)に至った折、水鳥を見てその名を尋ねたところ、「都鳥(みやこどり)」であるとの答えを得た。そこで物悲しい思いにかられ、和歌を詠んだ。
¶「名にし負はば(奈仁志於波婆)、いざ事とはむ(伊邪古登登波牟)、都鳥(美夜古杼里)、我が思ふ人は(和我於毛布比斗波)、有りや無しやと(阿利也奈志也登)」
¶世にこの歌は絶唱と伝えられている(注:『古今和歌集』による。『伊勢物語』には業平の事跡が数多く載っているが、『三代実録』などの正史には見えないため、ここでは採らない)。後世の人々は加茂(かも)の岩本(いわもと)に祠を建てた(注:『徒然草』および『兼載雑談』による)。二人の子、棟梁(むねやな)と滋春(しげはる)は、いずれも和歌を巧みにした(注:『作者部類』による)。滋春は人々から「在次君(ざいじのきみ)」と呼ばれ(注:『皇胤紹運録』および『古今集目録』による)、『大和物語』を著した(注:『皇胤紹運録』による)。
¶大友黒主(おおとものくろぬし)は、近江国(おうみのくに)の人である(注:『天台座主記』による。『作者部類』では「大友」を「大伴」と書くが、考えるに『和名抄』に近江国滋賀郡(しがぐん)に大友郷があるので、今は本書の表記に従う)。代々大友郷に住み、それにちなんで氏とした(注:『続日本紀』による。本書には氏を名乗った経緯は載っていないが、近江国の人である大友村主(おおとものすぐり)・人主(ひとぬし)が稲と田を西大寺に納めた文書によれば、代々大友に住んでいたことが知られる)。その郷が滋賀郡に属していたことから、世に「滋賀黒主(しがのくろぬし)」と称された。園城寺(おんじょうじ)がその郡内にあったことから、黒主はその地の主とされた(注:顕昭の注釈書および源親房の『古今集註』による)。黒主は和歌を巧みにすることで名を著した(注:『古今和歌集』の序による)。郡の大領(だいりょう)となり、従八位上に叙せられた。貞観年間、園城寺は延暦寺(えんりゃくじ)の別院とされ、黒主はその神祠の別当となった(注:『天台座主記』による)。延喜年間、法皇(ほうおう)がたびたび石山寺(いしやまでら)に行幸した。国司はこれが民を疲弊させることを憂えていた。法皇はこのことを聞き及び、再び行幸するに際して、他国に課役を課して献上させ、その費用に充てた。国司は大いに恐れ、そこで打出浜(うちでのはま)に亭を造り、菊の花を植え、黒主一人にお帰りの行幸を待たせた。法皇が不思議に思って尋ねると、黒主は次の和歌を献じた。
¶「ささら浪(佐佐羅奈美)、間もなく岸を(麻毛奈久岐之乎)、濯ふめり(阿良布米利)、渚清くは(奈岐佐幾與久波)、君止まれとか(岐美斗麻禮登加)。」
¶法皇は大いに喜び、褒美の品を賜って還御した(注:『大和物語』および『石山縁起』による)。仁和(にんな)・昌泰(しょうたい)の大嘗会(だいじょうえ)において、黒主は風俗歌を献じた(注:『古今和歌集』および『続後拾遺和歌集』による)。論者は、黒主の歌は古の猿丸大夫(さるまるだゆう)に次ぐものであるとする。趣向には脱俗の面白みがあるが、体裁は卑俗で、たとえるなら田舎の農夫が花の前で休んでいるようなものだという(注:『古今和歌集』の序による)。後世の人々は郡内に祠を建てて祀り、「黒主明神」と称した(注:鴨長明の『無名抄』による)。