卷之九十 列傳第十七

皇子五

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次27
  1. 【平城】三子
  2. 阿保親王
  3. 高岳廃太子
  4. 巨勢親王
  5. 【嵯峨】二十二子
  6. 業良親王
  7. 秀良親王
  8. 忠良親王
  9. 基良親王
  10. 淳王
  11. 源信
  12. 源弘
  13. 源常
  14. 源寛
  15. 源明
  16. 源定
  17. 源鎮
  18. 源生
  19. 源澄
  20. 源安
  21. 源清
  22. 源融
  23. 源勤
  24. 源啓
  25. 源勝
  26. 源賢
  27. 源継

【平城】三子

平城天皇(へいぜいてんのう)には三人の皇子があった。宮人の葛井藤子(ふじいのふじこ)は阿保親王(あぼしんのう)を生み、伊勢継子(いせのつぐこ)は第三子の廃太子高岳(たかおか)と第四子の巨勢親王(こせしんのう)を生んだ。(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』『歴代皇紀』はいずれも、長男を高岳、次を巨勢、次を阿保とする。今は『続日本後紀』『三代実録』に拠って順序を定めた。第二子については本史に記載がなく、考証のしようがない。また『紹運録』の一本には、阿保の次に万孝王・山田王を載せるが、今はこれを採らない。)

阿保親王

阿保親王は性格が謙虚で、文武の才を兼ね備え、腕力に優れ、弦楽・歌唱を得意とした。(注:『続日本後紀』による。)嵯峨天皇(さがてんのう)が即位すると四品に叙せられた。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)弘仁(こうにん)の変では連座して大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)に左遷された。天長(てんちょう)の初め、京に召し還された。仁明天皇(にんみょうてんのう)の即位に伴い三品に進んだ。承和(じょうわ)元年、治部卿(じぶきょう)となり、遠江国敷智郡(とおとうみのくにふちぐん)の荒田三十三町を賜った。ついで下野太守(しもつけのたいしゅ)となったが、治部卿はもとのままであった。三年、宮内卿(くないきょう)を兼ねるようになり、翌年には兵部卿(ひょうぶきょう)に遷った。七年、弾正尹(だんじょうのかみ)となり、九年には上総太守(かずさのたいしゅ)を兼ねた。この年の秋、東宮坊帯刀(とうぐうぼうたちはき)の伴健岑(とものこわみね)と但馬権守(たじまのごんのかみ)橘逸勢(たちばなのはやなり)らが謀反を企てたが、阿保はひそかに太皇太后橘氏(たいこうたいごうたちばなうじ)に上書してこの変事を奏上した。詔によって健岑らは捕らえられ流罪となった。十月、阿保は薨じた。享年五十一。葬儀に際しては参議和気真綱(わけのまつな)らを遣わし、変事を告げた功に報いて一品を贈り、家族を手厚く慰めた。(注:『続日本後紀』による。)  子に仲平(なかひら)・行平(ゆきひら)・守平(もりひら)・業平(なりひら)がいる。(注:『皇胤紹運録』は行平・守平・業平の順に載せるが、今は『三代実録』所載の阿保の上表文に拠った。)天長年間、阿保は上表し、高岳親王の先例を援用して、諸子に姓を賜るよう願い出た。詔により仲平・行平・守平・業平は在原朝臣(ありわらのあそん)の姓を賜った。(注:『三代実録』による。『公卿補任』は行平を第三子とする。『三代実録』および『大鏡裏書』は業平を第五子とする。『江家次第』『栄花物語』もまた業平を在五中将と称している。これによれば阿保の子はこれだけにとどまらないはずだが、今は考証のしようがない。『皇胤紹運録』は大江音人(おおえのおとんど)を阿保の長子とするが、その詳細は音人の伝に譲る。)仲平は蔵人(くろうど)となり、(注:『皇胤紹運録』による。)豊前・駿河の守を歴任し、刑部少輔(ぎょうぶのしょう)を兼ねた。(注:『続日本後紀』による。)守平は従四位上、民部大輔(みんぶのたいふ)・左京大夫(さきょうのだいぶ)・相模守(さがみのかみ)・信濃守(しなののかみ)を務めた。(注:『三代実録』による。)行平には別に伝があり、業平は歌人伝に見える。

高岳廃太子

廃太子高岳(たかおか)は(注:「岳」は一本に「丘」に作る。)、初め親王であった。大同三年、山城国久世郡(やましろのくにくせぐん)の地六町を賜った。(注:『日本後紀』による。)嵯峨天皇の即位に伴い皇太子に立てられたが、翌年、藤原仲成(ふじわらのなかなり)が誅されると、太子は廃されて親王に戻され、(注:『類聚国史』による。)その子女も王号を停められ、在原朝臣の姓を賜った。(注:『三代実録』による。)弘仁十三年、四品に叙せられ、(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)まもなく髪を落として僧となり、(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)名を真如(しんにょ)と改め、(注:『三代実録』による。)東寺(とうじ)に住み、(注:『続日本後紀』による。『元亨釈書』は東大寺とする。)真言宗を研究して阿闍梨(あじゃり)となった。(注:『三代実録』による。)承和二年、勅命により平城(へいぜい)の故都の水陸の地四十余町を賜った。(注:『続日本後紀』による。)貞観(じょうがん)の初め、高岳は上表して、「大同四年に上毛野叡努(かみつけののえいど)・石上内親王(いそのかみないしんのう)らに賜られた平城の水田五十五町余りを、不退寺・超昇寺の二寺に返還したい」と願い出て、許された。三年(注:一本に四年ともある。)、入唐して仏法を求め、唐にとどまること十余年、帰国しなかった。子の善淵(よしぶち)らは、その生死が知れないため、上表して封戸を返上したいと願ったが、許されなかった。元慶(がんぎょう)三年、陽成天皇(ようぜいてんのう)は勅によりその願いを聞き入れた。五年、学問僧の中瓘(ちゅうかん)が唐から書状を送り、「高岳は西域へ向かう途中、羅越国(らごつこく)に至って薨じた」と告げた。天皇はこれを深く痛惜する詔を下した。(注:『三代実録』による。『元亨釈書』には、高岳は入唐して各地の高僧を訪ねて回ったが満足できず、ついに杖を手に西へ旅立ったとある。東大寺の僧凝然(ぎょうねん)が著した『和漢合運暦』には、羅越国に至って虎の害に遭ったとある。)高岳は若くして早くから皇太子の地位に昇ったため、世人は彼を「蹲居太子(そんきょのたいし)」と呼び、識者はこれを不吉の兆しと見た。果たしてまもなく廃されることとなった。(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)  子の善淵・安貞(やすさだ)は、いずれも在原朝臣の姓を賜った。(注:『三代実録』による。)善淵は斉衡(さいこう)の末年、大舎人頭(おおとねりのかみ)・中務少輔(なかつかさのしょう)を歴任し、天安(てんあん)年間には治部大輔(じぶのたいふ)・紀伊守(きいのかみ)となった。(注:『文徳実録』による。)貞観年間には大和守(やまとのかみ)を拝し、内匠頭(たくみのかみ)・大蔵大輔(おおくらのたいふ)を歴任、山城権守(やましろのごんのかみ)となった。善淵は幼い頃、父のゆえをもって平城天皇に取り立てられ、その恩を深く感じていた。天皇が崩御した後は、常々陵墓のそばに精舎を建てて冥福を祈りたいと願っていたが、事がなかなか実現しないため、しばらく一人の僧に代わりに住まわせていた。それでも果たせずにいたため、ついに高岳がかつて住んでいた堂舎の旧跡に寺を築くことを奏請し、長年の志を遂げたいと願い出た。詔によりこれが許された。そこで平城の廃地を買い取り、開墾して田とし、修繕の費用に充てた。ところが役所はこれを法令の趣旨に反するとして没収し、勅旨田とした。これに至ってまた訴えを起こし、永久に私有の田として賜りたいと願い出て、詔によって許された。まもなく神祇伯(じんぎはく)に任じられ、従四位上に至り、再び大和守を拝した。十七年、卒去した。(注:『皇胤紹運録』には善淵が出家して名を遍明(へんみょう)と改めたとあるが、これは入唐したというのと同様、誤りである。)安貞は大宰少弐(だざいのしょうに)・肥後守(ひごのかみ)・摂津守(せっつのかみ)を歴任し、正五位下に至った。(注:『三代実録』による。)

巨勢親王

巨勢親王は、弘仁の初め、伊賀・近江の稲各四千束を賜った。(注:『類聚国史』による。)元慶六年八月、薨じた。(注:『三代実録』による。)

【嵯峨】二十二子

嵯峨天皇(さがてんのう)には二十三人の皇子があった。皇后橘氏(たちばなうじ)は仁明天皇(にんみょうてんのう)(注:『続日本後紀』による。)と第三子秀良親王(ひでながしんのう)を生んだ。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。『帝王編年記』は秀良を高津内親王(たかつないしんのう)の所生とするが、これは誤りである。詳細は后妃伝を見よ。)妃高津内親王は第一子業良親王(なりよししんのう)を生んだ。(注:『三代実録』による。『三代実録』は業良を第二子とするが、『続日本後紀』によれば仁明天皇が第二子とされているので、業良が第一子であることは明らかである。また『皇胤紹運録』『源氏系図』はいずれも仁明天皇・秀良・業良の順に載せるが、これは生母の身分の尊卑によって記した順序であって、実際の年齢順ではない。おおよそ『紹運録』などの多くはこの例に倣っており、以下も同様である。)女御百済貴命(くだらのくにのきみ)は第四子忠良親王(ただよししんのう)を生み、(注:『続日本後紀』『日本紀略』による。)第五子基良親王(もとよししんのう)を生んだ。(注:『源氏系図』による。『皇胤紹運録』は基良を第四子とするが、『続日本後紀』『日本紀略』はいずれも忠良を四子とするため、『源氏系図』に従って五子とした。『皇胤紹運録』の皇子の順序は、まず親王を載せ、賜姓された者は年長であってもすべて後ろに列ねている。国史の諸書を考えるに、嵯峨天皇以後、親王は特に行第(生まれた順の呼び名)で呼ばれ、賜姓された者はこれに与らず、別に「第幾源氏」あるいは「源氏第幾郎」と呼ばれた。つまり賜姓された者は、もはや親王と同列に扱われなかったのである。そこで今は『紹運録』に一律に拠り、親王と賜姓者それぞれについて年齢順に並べ、食い違いがあって他書で考証できるものはこれを訂正した。)更衣秋篠高子(あきしののたかこ)は源清(みなもとのきよし)を生み、(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による。)山田近子(やまだのちかこ)は源啓(みなもとのけい)を生み、(注:『三代実録』『源氏系図』による。)飯高宅眉(いいたかのやかまゆ)は源常(みなもとのときわ)・(注:『文徳実録』『皇胤系図』による。)源明(みなもとのあきら)を生み、(注:『公卿補任』『源氏系図』による。)尚侍百済慶命(くだらのきょうみょう)は源定(みなもとのさだむ)・(注:『三代実録』『皇胤紹運録』による。)源鎮(みなもとのしずむ)を生み、(注:『一代要記』『源氏系図』による。)宮人笠継子(かさのつぐこ)は源生(みなもとのいく)を生んだ(注:『公卿補任』『一代要記』『帝王編年記』『皇胤紹運録』は大原全子(おおはらのまたこ)の所生とする。)。大原全子は源融(みなもとのとおる)・源勤(みなもとのつとむ)を生み、(注:『一代要記』『皇胤紹運録』『源氏系図』による。)広井氏は源信(みなもとのまこと)を生み、上毛野氏(かみつけのうじ)は源弘(みなもとのひろむ)を生み、(注:『三代実録』『皇胤紹運録』による。)安倍楊津(あべのやなぎつ)は源寛(みなもとのゆたか)を生み、田中氏は源澄(みなもとのすむ)を生み、(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。)粟田氏は源安(みなもとのやすし)を生み、(注:『文徳実録』による。)惟良氏(これよしうじ)は源勝(みなもとのまさる)を生み、(注:『三代実録』『帝王編年記』による。『皇胤紹運録』は大原氏の所生とする。)長岡氏は源賢(みなもとのかしこ)を生んだ。(注:『一代要記』『帝王編年記』による。)淳王(あつしのおおきみ)・源継(みなもとのつぐ)は、(注:『皇胤紹運録』による。)いずれも生母が伝わっていない。

業良親王

業良親王は、弘仁五年、備前国津高郡(びぜんのくにつたかぐん)の荒田四十九町を賜った。(注:『日本後紀』による。)貞観十年正月、薨じた。業良は早くから心の病を患い、位のないまま世を終えた。(注:『三代実録』による。)子の正内王(まさうちおう)は従四位下であった。(注:『三代実録』『類聚国史』による。)

秀良親王

秀良親王は、天長九年、三品に叙せられ、(注:『類聚国史』による。)没官(もっかん)の書籍千六百九十三巻を賜った。(注:『日本紀略』による。)仁明天皇の即位に伴い中務卿(なかつかさきょう)となり、のち弾正尹に改まった。承和元年、さらに没収されていたその外家橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の書籍四百八十余巻を賜った。二年、大宰帥(だざいのそち)に任じられ、弾正尹はもとのままであった。三年、信濃国小県郡(しなののくにちいさがたぐん)の公田十二町、近江・加賀の荒廃田二百七町、備前の空閑地三十四町を賜り、翌年には加賀国石川郡(いしかわぐん)の廃田四十九町を加えて賜った。七年、二品に進み、九年には上野太守(こうずけのたいしゅ)に任じられた。(注:『続日本後紀』による。)元慶年間、班田使(はんでんし)が誤ってその摂津の墾田を没収したため、秀良が訴えて奏上したところ、返還を賜った。(注:『三代実録』による。)寛平七年正月、薨じた。享年七十九。(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による。)

忠良親王

忠良親王は、承和元年、四品を授けられた。三年、上総太守となり、五年には常陸太守(ひたちのたいしゅ)に遷り、七年には兵部卿(ひょうぶきょう)となった。嘉祥(かしょう)三年、三品に進んだ。(注:『続日本後紀』による。)文徳天皇(もんとくてんのう)の即位に伴い帯剣を許され、仁寿(にんじゅ)三年、再び上総太守となった。(注:『文徳実録』による。)清和天皇(せいわてんのう)の即位に伴い二品を加えられ、貞観二年、上野太守に遷ったが、兵部卿はもとのままであった。これより先、諸国の国司が鷹狩り用の鷹を飼うことを禁じる詔が下されていたが、忠良だけは特別に私有の鷹二聯(にれん)を用いて畿内の禁野の外で狩りをすることを許されていた。翌年、摂津国豊島郡(せっつのくにてしまぐん)の荒田五十七町を賜った。五年、式部卿(しきぶきょう)に転じたが、上野太守はもとのままであった。八年、勅により鷹各二聯を飼うことを許され、十三年には再び上野太守となり、十四年には大宰帥に任じられたが、式部卿はもとのままであった。(注:『三代実録』による。)のちに病のため上表して辞職を願ったが、(注:『菅家文草』による。)聞き入れられなかった。十八年二月、薨じた。(注:『三代実録』による。)享年五十八。(注:『日本紀略』『皇胤紹運録』による。)忠良は容姿が美しく、当時の人々はその死を深く惜しんだ。(注:『皇胤紹運録』による。)

基良親王

基良親王は、天長八年六月、薨じた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)

淳王

淳王(あつしのおおきみ)。(注:原文にはこれ以上の本文がなく、事跡の記載はない。)

源信

源信(みなもとのまこと)は、弘仁五年五月、まだ親王となっていなかった皇子・皇女に源朝臣(みなもとのあそん)の姓が賜られた際に(注:『三代実録』『類聚国史』による。)、その一人であった。詔にはこうあった。「朕は帝位を譲り受けて天位を継いだ。徳は身近な者たちを親しませるにも及ばず、教化は遠くにまで及んでいない。年月が幾度も改まるうちに、男女の子がしだいに多くなった。子としての道もわきまえぬうちに、かえって人の父となってしまった。むやみに封邑を重ねさせ、いたずらに国庫を費やすことになるのは心苦しい。そこで親王の号を除き、朝臣の姓を賜おうと思う。同じ戸籍に編入し、公務に従事させ、出仕の初めには六位に叙すこととする。ただし、すでに親王の号を得ている者については、改めることはしない。同じ母から後に生まれた子も、同様に扱うものとする。その他、申し出があった者については、朕が特別に裁可する。」公卿たちはこれに対して、「後世、陛下が皇統の枝葉を軽んじたとの議論が起こることを恐れます」と奏上したが、天皇はこれに応えなかった。(注:『類聚国史』による。)信は第一源氏となり、(注:『三代実録』『公卿補任』による。)皇子に源の姓が賜られたのはこれに始まる。(注:『三代実録』による。)信および弘(ひろむ)・常(ときわ)・貞姫(さだひめ)・潔姫(きよひめ)・全姫(またひめ)・善姫(よしひめ)は、もと右京の籍にあったが、翌年みな左京一条に籍を改めた。(注:『日本紀略』による。)信は生来おおらかで度量があり、その風格は並外れていた。書物を読むことを好み、あわせて草書・隷書に優れ、絵をよくし、とりわけ馬の絵を得意とした。天皇自ら音律を教え、その奥義を究めさせた。(注:『三代実録』による。)天長年間、従四位上に叙せられ、侍従を歴任し、(注:『三代実録』『類聚国史』による。)治部卿に遷って播磨権守(はりまのごんのかみ)を兼ね、参議を拝して左兵衛督(さひょうえのかみ)となった。(注:『三代実録』による。)承和の初め、たびたび昇進して正三位となり、左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)・左衛門督(さえもんのかみ)・近江守(おうみのかみ)・武蔵守(むさしのかみ)を歴任した。九年、中納言を拝した。(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)翌年、嵯峨天皇の一周忌にあたり、担当の役人があらかじめ次のように奏上した。「太上天皇(だいじょうてんのう)の一周忌の斎日は、ちょうど七月十五日壬寅にあたりますが、これは太上天皇ご自身の本命元辰(ほんみょうがんしん、その方の生まれ年の干支にあたる日)にあたります。朝廷の慣例を調べますと、三宮(太皇太后・皇太后・皇后)ご自身の本命の日には、凶事を行うことを忌むとされております。まして太皇太后陛下や当今陛下の本命の日であればなおさらです。そこで斎会の日取りを、十四日辛丑に移していただきたく存じます。」人々はみなこれを妥当と考え、太皇太后もこれを許した。ところが信および参議源弘らは、次のように奏上した。「臣らは先帝のご遺命を謹んで奉じ、その期日を違えぬようにと心がけております。今このような議論がなされておりますが、ひそかにご遺誥に背くのではないかと恐れます。と申しますのも、ご遺誥には『世俗の事にこだわるな』とあります。それならば、なぜ忌みにこだわる必要がありましょうか。また『葬送は三日を過ぎてはならない』ともあります。もし崩御の当時、葬送までの三日の間に寅の日があったとしたら、それも避けるのでしょうか。また後年の一周忌に寅の日が当たることがあれば、それもまた避けるのでしょうか。」このとき天皇は熱病を患っており、直接ご議論になることができなかったため、大納言藤原良房(ふじわらのよしふさ)に勅して公卿たちと議論させ、良房は次のように奏上した。「三宮ご自身の本命の日に凶事を行わないというのは、古くからの慣例であって、根拠がないわけではありません。謹んでご遺詔を考えますに、『世俗の事にこだわるな』とあるのは、おそらく世間のこまごまとした事柄を指しているのであって、朝廷の古くからの規範を指しているのではないでしょう。とすれば、崩御の当時、その三日のうちに避けるべき事情があれば、それは疑いなく避けるべきです。一周忌の斎会は、臣下の者たちが喪服をまとって行うものであり、およそその挙動はすべて不祥事に類するものですから、これを忌むのです。後年の国忌をこれと同列に論じることができましょうか。一つのことにとらわれるのは、通じた議論とは言えません。」信らはこれに対して反論できず、結局この提案は実行されなかった。(注:『続日本後紀』による。)嘉祥元年、大納言に転じた。(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)文徳天皇の即位に伴い従二位を授けられ、皇太子傅(こうたいしふ)を兼ねた。(注:『文徳実録』『三代実録』による。)斉衡元年、右近衛大将(うこんえのだいしょう)を兼ねた。(注:『三代実録』は仁寿年間のこととするが、今は『文徳実録』『公卿補任』に従う。)天安元年、左大臣を拝した。(注:『三代実録』は斉衡の初めとするが、今は『文徳実録』に従う。)上表して辞職を願ったが、許されなかった。(注:『文徳実録』による。)かつて文徳天皇は皇子惟喬親王(これたかしんのう)を愛し、皇太子を替えようとする意向を持っていた。ある日、くつろいだ様子で信に相談したところ、信は「皇太子に罪があれば廃するべきでしょう。しかしもし罪がないのであれば、他のことを論じるべきではありません。臣はこの詔を承ることはできません」と答えた。天皇はたいそう不機嫌になり、この話はそれで終わった。(注:『大鏡裏書』による。)

清和天皇の即位に伴い正二位に進んだ。貞観元年、詔により摂津の率野(いさちの)を遊猟の地として賜り、翌年には山城国宇治郡(やましろのくにうじぐん)の地二十五町を賜った。六年、大納言伴善男(とものよしお)はもとより信と仲が悪く、この頃匿名の投書をして、「源融(みなもとのとおる)・右衛門督(うえもんのかみ)源勤(みなもとのつとむ)らと共謀して謀反を企てている」と告発した。これによってその罪をでっち上げようとした。翌年春、信の家人であった清原春滝(きよはらのはるたき)を日向掾(ひゅうがのじょう)に、左馬少属(さまのしょうさかん)土師忠通(はじのただみち)を甲斐権掾(かいのごんのじょう)に、左衛門府生(さえもんのふしょう)日下部遠藤(くさかべのとおふじ)を肥後権大目(ひごのごんのだいさかん)に任じた。この三人はいずれも弓馬に優れた者たちであり、表向きは登用するように見せかけて、実際には信の腹心を奪い取ろうとしたのである。八年春、善男は子の中庸(なかつね)にひそかに応天門(おうてんもん)に火をつけさせ、(注:『三代実録』による。)これを信の仕業だと偽って告発した。(注:『大鏡裏書』『宇治拾遺物語』による。)そして右大臣藤原良相(ふじわらのよしみ)と謀り、信の邸を包囲しようとした。(注:『三代実録』『大鏡裏書』による。)参議藤原基経(ふじわらのもとつね)を呼んでこれを命じたところ、基経は「太政大臣(だいじょうだいじん、藤原良房)はこのことをご存じでしょうか」と尋ねた。良相が「太政大臣は仏を尊び慈悲深い人だから、きっとこれを決断できないだろう」と答えると、基経は「これは軽々しい事柄ではありません。どうしてその方の裁可を仰がずに済ませられましょうか」と言い、良房のもとに出向いてこのことを告げた。良房は驚愕し、急いで天皇に奏上して、「信は陛下の即位を助けた功があり、決して小さくありません。今にわかに誅されるとすれば、この老臣にはその罪がわかりません。もし信が必ず誅されるのであれば、どうかこの老臣を先に罪に伏させてください」と述べた。天皇はこれを聞いて大いに驚いた。(注:『大鏡裏書』による。)そこで参議大枝音人(おおえのおとんど)・左中弁藤原家宗(ふじわらのいえむね)らを遣わして信の邸に赴かせ、これを慰めさせた。事が急に起こったため、信は恐れおののき、なすすべもなく、召し使っていた者四十余人と駿馬十二匹を献上して、謀反の意志がないことを示そうとしたが、朝廷はこれを受け取らなかった。天皇はまもなく善男の悪事を知り、これを伊豆に流した。信はこれ以来思わぬ災難を大いに恐れ、門を閉ざして外出しなくなった。信はもともと鷹狩りや乗馬を好んだため、しばしば摂津へ出かけて狩りをし、憂さを晴らすことを許され、鷹三聯・鷂(はいたか)二聯を飼うことを勅許された。九年、上表して官職の辞退を願い出た。これに対して詔で次のように答えた。「そなたは文武の才を兼ね備え、朝廷にとって重要な、皇室に縁ある賢臣である。先帝(嵯峨天皇)もそなたの洒脱な性質をよくご存じで、あくせくと務めに励むことを求めなかった。まして朕が皇太子であった頃から長くその補導の任に尽力し、今日に至るまで、みなそなたの助けによるものである。先年、前学士大枝音人を遣わして朕の意を深く伝えさせたのは、その趣旨をよく理解してもらえたと思っていたからだ。それなのに今なぜこのように辞職を願い出て朕を煩わせるのか。そもそも音楽によって心を養い、鷹狩りを楽しんで老いを忘れるのは、そなた本来の性分によるものであって、朕もこれを咎めるつもりはない。昔、干木(かんぼく)が悠然と構え、魏の文侯(ぶんこう)がそれに敬意を払って枕を高くして眠ったという故事があるが、先例を忘れぬことこそ、今望まれるところである。よろしくいっそう誠意を尽くし、重ねてこのような辞職の願いを出さぬように。」また勅により、七年に没収していた山城国相楽郡(やましろのくにさがらかぐん)の旧鋳銭司(ちゅうせんし)の地二十町を返還したが、銅の採掘は従来どおりとした。十年閏十二月、為奈野(いなの)で狩りをした際、馬が泥にはまって落馬し、息も絶え絶えになった。左右の者が助け起こして邸に戻ったが、これがもとで病となり、数日後に薨じた。享年五十九。かつて北山のふもとに一室を造り、寝台を設けて棺を置き、四方の壁を閉ざして人畜を近づけさせなかった。薨じた際には、そのままここに葬られた。遺言によって質素な葬儀が行われ、殯(もがり)や納棺の時期についても人々はほとんど知らなかったという。翌年の元日、天皇は朝賀を受けず、宴も取りやめた。まもなく参議源生(みなもとのいく)・大学頭潔世王(だいがくのかみきよよおう)らを遣わして邸に赴かせ、詔を宣べて正一位を贈った。(注:『三代実録』による。)信は一条の北辺に住んでいたため、北辺大臣(きたべのおとど)と呼ばれた。(注:『公卿補任』『皇胤紹運録』『今昔物語集』による。『紹運録』の一本や『一代要記』には「北辺」を「山辺」に作るが、これは誤りである。)  子に叶(かのう)・平(たいら)・恭(やすし)・有(たもつ)・好(よしみ)・保(たもつ)・任(とう)・昌(まさ)、(注:『三代実録』による。あわせて『源氏系図』を参照した。)尋(ひろ)がいる。(注:『三代実録』による。本書にはその順序が詳らかでないため、ひとまずここに列ねた。)叶は従五位下。(注:『源氏系図』による。)平は従四位上、相模権守(さがみのごんのかみ)・大膳大夫(だいぜんのだいぶ)。恭は初め名を謹といい、貞観年間、雅楽頭(うたのかみ)となり、陸奥守(むつのかみ)に遷った際に、今の名に改めることを願い出た。元慶二年、蝦夷(えみし)が秋田城を焼いた際、出羽守(でわのかみ)藤原興世(ふじわらのおきよ)が救援を求めて奏上し、たびたび恭に勅して陸奥の兵を出させてこれを助けさせた。(注:『三代実録』による。)のちに民部大輔(みんぶのたいふ)となり、従四位下に至った。(注:『類聚国史』による。)有は従四位下、因幡守(いなばのかみ)・(注:『三代実録』『類聚国史』による。)尾張権守(おわりのごんのかみ)。好は従五位上、備前守(びぜんのかみ)。保は従五位下、若狭守(わかさのかみ)。(注:『類聚国史』による。)任は箏(そう)を弾くことに優れ、(注:『源氏系図』による。系図の一本には任を信の子の子の子とするが、これは誤りであろう。)従五位下に叙せられた。(注:『三代実録』による。)延喜(えんぎ)年間、武蔵権介(むさしのごんのすけ)となったが、任地を離れたのちに官舎を焼き、公物を奪い取り、国府において守の高向利春(たかむこのとしはる)を襲撃した。(注:『扶桑略記』による。本書には利春を襲った後の顛末が載っておらず、今は考証のしようがない。)昌は紀伊守(きいのかみ)。(注:『源氏系図』による。)尋は生まれつき愚鈍で、信はこれを見限って我が子として扱わなかった。のちに再び呼び戻したが、尋は期日どおりに来ず、そのうちに信は薨じてしまった。元慶年間、兄の平・恭・保らが奏上して、尋にも姓を賜り戸籍に編入するよう願い出たところ、詔により春朝臣(はるのあそん)の姓を賜った。(注:『三代実録』による。)

源弘

源弘(みなもとのひろむ)は第二源氏となった。(注:『三代実録』『公卿補任』による。)天長五年、従四位下に叙せられ、七年には宮内卿(くないきょう)となり、九年には播磨権守(はりまのごんのかみ)を兼ねた。(注:『三代実録』による。)十年、信濃守(しなののかみ)に遷り、承和の初め、刑部卿(ぎょうぶきょう)に任じられて美作守(みまさかのかみ)を兼ね、治部卿(じぶきょう)に遷った。九年、参議を拝したが、他の官はもとのままであった。十二年、尾張守を兼ねるようになり、十三年には左大弁(さだいべん)を兼ね、(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)山城国の班田使長官(はんでんしのちょうかん)となった。(注:『続日本後紀』による。)翌年、従三位を授けられた。嘉祥元年、中納言となった。(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)仁寿元年、正三位に進み、(注:『文徳実録』『三代実録』による。)貞観元年、大納言に遷った。五年正月、薨じた。享年五十二。(注:『三代実録』『公卿補任』による。)広幡大納言(ひろはたのだいなごん)と称された。(注:『皇胤紹運録』『公卿補任』『一代要記』による。『帝王編年記』は「広八幡」に作るが、これは誤りである。)弘は幼い頃から聡明で、経書や史書を読むことを好み、とりわけ隷書を得意とした。人柄はおおらかで思いやりがあり、政治のあり方をよく理解し、物事の判断は的確であった。かつて天皇が諸皇子の中で学問を最も好むのは弘であるとして、特別に経籍を賜ったため、弘の家には他の子たちに倍する蔵書があったという。生来音楽を好み、退勤するたびに琴や書物を友として楽しんだ。(注:『三代実録』による。)  子に同(あつむ)・撰(せん)・雙(そう)・弼(ひつ)・道(みち)・希(まれ)・悦(えつ)・憗(ぎん)・就(なる)・昭(あきら)・近(ちかし)がいる。(注:『源氏系図』による。)同は侍従・大学頭・中務少輔(なかつかさのしょう)・刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)を歴任した。撰は従五位下(注:系図には従五位上とある。)、左兵庫頭(さひょうごのかみ)・周防介(すおうのすけ)。雙は従五位上、備後権守(びんごのごんのかみ)・越前権介(えちぜんのごんのすけ)。弼は従五位上、宮内大輔(くないのたいふ)、大和権守を兼ねた。道は従五位下、侍従・下野守(しもつけのかみ)・信濃守。(注:『三代実録』による。)希は寛平(かんぴょう)年間、侍従・蔵人頭(くろうどのとう)を歴任し、修理大夫(しゅりのだいぶ)・左近衛中将・伊予守(いよのかみ)・播磨守を兼ね、参議を拝した。(注:『公卿補任』『職事補任』による。)「周防の租穀を割いて、鋳銭の材料の代金に充てたい」と願い出て、奏上が許可された。まもなく左大弁を兼ね、昌泰(しょうたい)年間には従三位中納言に至り、民部卿を兼ねた。悦は従三位東宮亮(とうぐうのすけ)・大宰大弐(だざいのだいに)・参議・宮内卿となり、左大弁・近江守・伊予守などを兼ねた。(注:『公卿補任』による。)憗は従五位下。就は従五位上、大蔵少輔(おおくらのしょう)・上野介(こうずけのすけ)。昭は蔵人、加賀守。近は従五位上、甲斐権守・鋳銭長官。(注:『源氏系図』による。)

源常

源常(みなもとのときわ)は第三源氏となった。(注:『文徳実録』『公卿補任』による。)生来落ち着きがあり、風格は爽やかで秀でており、諸子の中でもとりわけ寵愛を受けた。天長の初め、勅により帯剣を許され、五年には従四位下に叙せられ、七年には兵部卿となり、八年には従三位を授けられた。翌年、破格の昇進で中納言を拝したが、兵部卿はもとのままであった。(注:『文徳実録』による。)仁明天皇の即位に伴い正三位に進み、(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)山城国綴喜郡(やましろのくにつづきぐん)の間地五町を賜った。(注:『続日本後紀』による。)承和の初め、左近衛大将を兼ねて大納言となり、七年には右大臣を拝して皇太子傅を兼ねた。(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)八年、従二位に進み、翌年、皇太子が廃されて道康親王(みちやすしんのう、後の文徳天皇)が皇太子に立てられると、常はそのまま傅を兼ねた。(注:『続日本後紀』による。)十一年、左大臣に転じた。(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)上表して封戸の削減を願い出たが許されず、なおも強く願い続けたところ、丁重な返答とともにこれが聞き入れられた。大将の辞退もたびたび願い出たが、これは許されなかった。(注:『続日本後紀』による。)文徳天皇の即位に伴い正二位に進み、斉衡元年六月、薨じた。(注:『文徳実録』による。)享年四十三。(注:『一代要記』『歴代皇紀』は四十四とし、『源氏系図』は四十一とするが、今は『姓氏録』弘仁六年の記事に「年四」とあることに基づき、『文徳実録』『日本紀略』に従った。)正一位を贈られた。遺言により葬儀の監護を辞退したが、それでも贈位は行われた。(注:『文徳実録』による。)東三条左大臣(ひがしさんじょうのさだいじん)と称された。(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)常は官にあって、容儀は落ち着き、言動は穏やかで、才能のある者を推挙し、讒言をなす者を退けることに努めた。当時の人々は彼を丞相(じょうしょう)の器量ありと評した。(注:『文徳実録』による。)かつて勅を奉じて『日本後紀』の編纂に参加した。(注:『類聚国史』所載の『日本後紀』序による。)  子に興(おき)・穎(えい)・直(なおし)・相(すけ)・備(そなう)がいる。(注:『源氏系図』による。)興は容姿がよく、外見は雄々しく峻厳でありながら、内面は寛容で柔和であった。従四位上に至り、(注:『三代実録』による。)侍従、(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)右近衛中将、(注:『文徳実録』『三代実録』による。)蔵人頭を歴任し、(注:『源氏系図』『職事補任』による。)相模・阿波などの守を兼ねた。(注:『三代実録』による。)穎は従四位下。(注:『三代実録』『類聚国史』による。)侍従、(注:『文徳実録』による。)民部少輔・信濃守・大和守などを歴任し、但馬権守を兼ねた。(注:『三代実録』による。)直は侍従・蔵人頭・右近衛権中将(うこんえのごんのちゅうじょう)・山城権守・肥後権守・相模守・美濃守・備中守などを歴任し、参議を拝して、(注:『三代実録』『公卿補任』による。侍従・蔵人頭・肥後権守は『補任』による。)従三位に至り、民部卿・讃岐権守を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)相は従五位下、周防介。(注:『三代実録』による。)備は従五位下。(注:『源氏系図』による。)

源寛

源寛(みなもとのゆたか)は(注:本来第四源氏にあたるはずだが、『公卿補任』には記載がなく、他に考証する術もない。)、幼い頃から学問に打ち込んだ。天皇は文章を好み、才能ある者を愛して重んじ、その才を発揮させようと励ましていた。元服してすぐに正六位上に叙せられ、及第して文章生(もんじょうしょう)となった。(注:『三代実録』による。)承和三年、従四位上に進み、六年には加賀守を拝し、(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)阿波守に遷った。(注:『続日本後紀』は「阿波」を「加賀」に作るが、今は『三代実録』貞観十八年五月の記事に従う。)十一年、神祇伯を兼ね、十四年には右京大夫(うきょうのだいぶ)に任じられ、(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)まもなく刑部卿となった。(注:『三代実録』による。)仁寿二年、備中守を兼ね、(注:『文徳実録』『三代実録』による。)斉衡二年、正四位上に進んだ。(注:『文徳実録』による。『三代実録』は正四位下とするが誤りである。)貞観五年、宮内卿に任じられ、十二年には伊予守に遷った。十八年五月、卒去した。享年六十四。寛は生来まじめで実直な性格であり、みだりに人と交わることをせず、また政治にも関心を持たなかったため、官位はあまり大きく上がらなかった。(注:『三代実録』による。)子に矜(きょう)・宥(ゆう)がいる。(注:『源氏系図』による。)矜は従五位上、加賀権介。宥は従五位下、長門介(ながとのすけ)。(注:『三代実録』による。)

源明

源明(みなもとのあきら)は第五源氏となった。(注:『公卿補任』による。)生来聡明で、天皇はことのほか重んじ、読書を勧めたところ、大学生の山田春城(やまだのはるき)とともに学業を修めた。ついには諸子百家の書を広く読破するに至った。天長九年、大学頭となった。(注:『文徳実録』による。)承和年間、加賀・近江・播磨などの守を兼ね、左京大夫に任じられ、刑部卿に遷り、越中守を兼ねるようになった。嘉祥元年、阿波守に遷り、二年には参議を拝したが、(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)他の官はもとのままであった。(注:『続日本後紀』による。)天皇が崩御すると、明は深く悲しみのあまり学問を捨てて出家し、名を素然(そねん)と改めた。(注:『文徳実録』による。)横川(よかわ)に住み、(注:『皇胤紹運録』『公卿補任』による。)横川宰相入道(よかわのさいしょうにゅうどう)と呼ばれた。(注:『公卿補任』『源氏系図』による。)仁寿二年十二月、横川で没した。(注:『文徳実録』による。「横川」は『公卿補任』による。)享年三十九。(注:『姓氏録』弘仁六年の記事に基づく。『源氏系図』は五十、『公卿補任』は九十とするが、いずれも誤りである。)  子に舒(じょ)・建(けん)・穎(えい)がいる。(注:『源氏系図』による。『三代実録』には「建」を「遠」に作る箇所もあり、系図もその誤りを踏襲して建と遠を別人としているが、今はこれを訂正した。また常の子にも穎がいるので、同名であるはずがなく、どちらかに誤りがあると思われる。)舒は貞観・元慶年間、蔵人頭・参議を歴任し、左大弁・左近衛中将・近江権守・検校山城班田使(けんぎょうやましろはんでんし)・右衛門督・讃岐守などの官を兼ね、正四位下に至った。(注:『三代実録』による。蔵人頭は『公卿補任』による。)建は従五位上を歴任し、大蔵大輔・相模介となった。(注:『三代実録』による。従五位上は『類聚国史』による。)穎は従五位下。(注:『源氏系図』による。)

源定

源定(みなもとのさだむ)は第六源氏となった。(注:『三代実録』『公卿補任』による。)生まれつき利発で、天皇は淳和天皇(じゅんなてんのう)にその子とさせた。淳和天皇はこれを愛し、実子以上に大事にして、寵姫の永原氏(ながはらうじ)を母代わりとした。そのため当時の人々は定に二組の父母がいると言った。天長四年、淳和天皇は上表して、以前の詔にこだわらず特別に親王の号を賜りたいと願い出て、定を格別に扱おうとしたが、聞き入れられなかった。(注:『三代実録』による。)翌年、源朝臣の姓を賜り、(注:『公卿補任』による。)九年、抜擢されて従二位を授けられ、美作守となった。(注:『文徳実録』による。)十年、参議を拝し、(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)治部卿を兼ねた。(注:『公卿補任』は九年のこととし、『三代実録』は十一年のこととするが、今は『続日本後紀』に従う。)承和元年、中務卿に遷り、五年には播磨守を兼ねた。(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)七年、淳和天皇が崩御すると、定は上表して職を辞することを願い出た。勅により参議を解かれ、(注:『続日本後紀』は「あわせて中務卿も罷めた」とするが、今は『三代実録』『公卿補任』に従う。)特別に食封(じきふ)百戸を賜った。十四年、再び参議を拝し、翌年には尾張守を兼ねた。(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)嘉祥二年、中納言を拝したが、母の喪に服すため職を辞した後、喪中にもかかわらず職務に復帰させられた。(注:『三代実録』による。)文徳天皇の即位に伴い勅により帯剣を許され、正三位に進んだ。(注:『文徳実録』による。)仁寿三年、左兵衛督を兼ねた。(注:『公卿補任』は仁寿二年に右兵衛督を兼ねて中務卿を解かれ、三年に左兵衛督になったとするが、今は『三代実録』に従う。)天安元年、疥癬(かいせん)を患い、(注:『文徳実録』による。)上表して左兵衛督を辞した。(注:『三代実録』『文徳実録』による。)二年、右近衛大将を兼ね、貞観元年には大納言に任じられた。三年、詔により私的に鷹・鷂各二聯を飼い、山城・河内・和泉・摂津などの禁野の外で狩りをすることを許された。五年正月、薨じた。享年四十九。伊予守豊前王(ぶぜんおう)・従五位下田口統範(たぐちのむねのり)らを遣わして邸に赴かせ、詔を宣べて従二位を贈った。(注:『三代実録』による。)四条大納言(しじょうのだいなごん)、また楊梅大納言(やまもものだいなごん)、(注:『公卿補任』『源氏系図』による。)賀陽院大納言(かやのいんのだいなごん)とも称された。(注:『公卿補任』による。)定は深い宮中で育ったため、世間の苦労を知らず、家の事は一切問おうとしなかった。性格は温雅で音楽を好み、常に庭に鐘や太鼓を並べ、朝廷から退出するたびに音楽を奏でて楽しんだ。(注:『三代実録』による。)子に包(つつむ)・宥(ゆう)、(注:『源氏系図』による。寛の第二子にも宥がいるので、同名であるはずがなく、どちらかに誤りがあると思われる。)至(いたる)、(注:『尊卑分脈』は「致」に作るが、今は『三代実録』『源氏系図』に従う。)精(せい)・唱(しょう)がいる。包は蔵人・文章生、(注:『源氏系図』による。)民部大輔・信濃守。(注:『三代実録』による。)宥は蔵人、(注:『源氏系図』による。)従四位上に至り、侍従・右兵衛佐(うひょうえのすけ)・中務大輔・右京大夫を歴任し、相模守を兼ねた。(注:『三代実録』による。)精は雅楽頭を歴任し、大宰少弐に任じられた。仁和(にんな)年間、鵜(う)の貢納が期限に遅れたため、杖罪百に処せられるべきところ、刑部省(ぎょうぶしょう)が奏上して銅九斤を贖罪として納めさせた。(注:『三代実録』『類聚国史』による。)唱は侍従・中務少輔、(注:『三代実録』による。)右大弁。(注:『源氏系図』による。)

源鎮

源鎮(みなもとのしずむ)は、承和二年、従四位上に叙せられた。(注:『類聚国史』による。)四年、神護寺(じんごじ)に入って僧となり、(注:『続日本後紀』による。)白雲禅師(はくうんぜんじ)と称された。(注:『尊卑分脈』『源氏系図』『一代要記』による。)

源生

源生(みなもとのいく)は第八源氏となった。(注:『公卿補任』による。)承和五年、従四位上に叙せられ、十年には加賀守となった。(注:『続日本後紀』による。)嘉祥三年、山城守に遷り、(注:『公卿補任』による。)仁寿元年には左京大夫に任じられた。斉衡年間、美作守を兼ね、(注:『文徳実録』による。)治部卿に遷った。(注:『公卿補任』による。)天安二年、正四位下を授けられ、貞観の初め、大蔵卿(おおくらきょう)に遷った。三年、筑前守となり、まもなく讃岐権守を兼ねた。六年、参議を拝し、九年には相模守を兼ね、まもなく右衛門督を兼ねた。十四年、病のため右衛門督を辞し、剃髪した。八月、卒去した。(注:『三代実録』による。)享年五十二。(注:『公卿補任』による。)二子に加(か)・見(けん)がいる。(注:『源氏系図』による。)加は正五位下、侍従・加賀権守・備前権守。見は従五位下。(注:『三代実録』『類聚国史』による。)

源澄

源澄(みなもとのすむ)は、母が田中氏(たなかうじ)であることから、世に田中君(たなかのきみ)と称された。子に治(おさむ)・蔭(かげ)・堪(かん)・潤(じゅん)がいる。治は従四位上、侍従・大舎人頭・因幡権守。(注:『源氏系図』による。侍従・因幡権守は『三代実録』による。)蔭は従五位下に叙せられた。陽成天皇(ようぜいてんのう)の乳母紀金子(きのかねこ)を娶り、子の益(まする)をもうけた。益はある日殿上に仕えていたところ、格殺(かくさつ、その場で打ち殺されること)にあったが、その事情は秘され、詳細は知られていない。(注:『三代実録』による。)堪は蔵人。潤は従五位下、武蔵権介。(注:『源氏系図』による。)

源安

源安(みなもとのやすし)は、弓術を習い、書を学ぶことを好まなかった。(注:『文徳実録』による。)承和十二年、従四位上に叙せられ、嘉祥三年には備中守となった。(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)仁寿三年四月、卒去した。享年三十三。(注:『文徳実録』による。)子に来(らい)がいる。(注:『源氏系図』による。)従五位下。(注:『三代実録』『類聚国史』『源氏系図』による。)

源清

源清(みなもとのきよし)は、正四位下に叙せられた。のちに僧となり、秋篠禅師(あきしのぜんじ)と称された。(注:『皇胤紹運録』『源氏系図』『一代要記』による。『江談抄(ごうだんしょう)』には橘広相(たちばなのひろみ)が嵯峨天皇の隠れた御子に会った話が載っており、また「隠君子(いんくんし)とはだれかとの問いに、大江匡房(おおえのまさふさ)が『嵯峨源氏の一族であろう』と答えた」とある。また『玉海(ぎょくかい)』治承四年八月の条には、大外記清原頼業(きよはらのよりなり)の語ったこととして、「貞観年間に大極殿(だいごくでん)が火災に遭った際、人々が『遷都すべきだ』と言ったところ、嵯峨の隠君子がこれを聞き、『桓武天皇はこの地が長く都たるにふさわしいと見定められたからこそ新たに宮室を営まれたのであり、今改めて造り直すべきではない』と言い、遷都の議は取りやめになった」とあり、これによれば隠君子が生きていた頃は帝の代からさほど遠くなかったことになる。『江談抄』の説にも採るべき点があるが、彼が帝の子であるという明確な文献は見当たらないため、ひとまず疑いを残し、後の考証を待つこととする。)

源融

源融(みなもとのとおる)は第十二源氏となった。(注:『公卿補任』による。)天皇は仁明天皇にその子とさせた。承和五年、皇太子が元服した日に、宮中で共に元服し、正四位下に叙せられ、宸筆(しんぴつ)の位記を賜った。五年、侍従となった。(注:『続日本紀』による。)八年、相模守に任じられ、(注:『公卿補任』による。)十四年、近江守に転じ、(注:『公卿補任』『続日本後紀』による。)まもなく美作守となった。嘉祥元年、右近衛中将を兼ね、三年には従三位に進み、(注:『続日本後紀』による。)右衛門督に任じられた。(注:『公卿補任』による。)斉衡元年、伊勢守に遷り、(注:『文徳実録』による。)三年には参議を拝したが、他の官はもとのままであった。(注:『公卿補任』による。)貞観の初め、正三位に進み、たびたび近江守を兼ねた。この年、詔により大和国宇陀野(うだの)での狩猟を許された。五年、左衛門督を兼ねるようになり、六年には中納言に任じられて陸奥出羽按察使(むついではのあぜち)を兼ね、勅により鷹三聯・鷂二聯を飼うことを許された。十二年、大納言に遷り、十四年には近い縁者に功労があったことから、詔により左大臣を拝した。十五年、従二位に進み、皇太子傅を兼ねた。上表して封戸千戸を返上したいと願い出たが、(注:『三代実録』による。)丁重な返答とともに許されなかった。(注:『三代実録』『菅家文草』による。)元慶元年、陽成天皇の即位に伴い正二位を授けられ、(注:『三代実録』『公卿補任』による。)たびたび上表して辞職を願ったが、許されなかった。八年、天皇(陽成天皇)が譲位して宮を出た際、諸親王以下、文武百官が行列を整え、光孝天皇(こうこうてんのう)を藩邸にお迎えした。太政大臣藤原基経はまず先に赴いてご機嫌をうかがい、剣を外して邸に入った。融はこのとき兵部卿本康親王(もとやすしんのう)とともに、剣を帯びたまま天皇の側に控えていたが、互いに顔を見合わせて大いに驚き、それぞれ剣を外した。(注:融がこれより前にすでに帯剣を許されていたと思われるが、諸書に記載がなく、今は考証のしようがない。)天皇はそこで勅により三人に帯剣を許した。融は貞観十八年の冬から門を閉ざして朝廷に出仕していなかったが、この年の六月に至って初めて出仕し政務を執った。(注:『三代実録』による。陽成天皇の即位後、融が朝廷に出仕しなかった理由については、本史に記載がなく、考証のしようがない。光孝天皇を迎え立てるにあたって藩邸に侍り、これをきっかけに詔によって政務に復帰したのであろう。)宇多天皇の即位に伴い従一位に進み、寛平六年には輦車(れんしゃ)に乗ったまま宮中に出入りすることを許された。(注:『公卿補任』による。)七年八月、薨じた。享年七十四。(注:『扶桑略記』『公卿補任』による。『一代要記』は七十三、『歴代皇紀』は七十二とする。)正一位を贈られた。(注:『公卿補任』による。)融は宇治(うじ)に別荘を構え、陽成・宇多・朱雀(すざく)の三代の天皇がかつてここに行幸された。のちに摂政藤原道家(ふじわらのみちいえ)がこれを譲り受けようと望み、その子の頼通(よりみち)の代に至って寺に改められ、平等院(びょうどういん)と名づけられた。(注:『花鳥余情(かちょうよじょう)』引用の『李部王記(りほうおうき)』による。)また嵯峨に山荘を営み、棲霞観(せいかかん)と名づけた。清和天皇が退位した後、しばしばここに移り住んだ。(注:『三代実録』による。)また東六条(ひがしろくじょう)に河原院(かわらのいん)を営んで住んだ。(注:『顕昭古今和歌集抄(けんしょうこきんわかしゅうしょう)』による。)楼閣や庭の石組みは、贅を尽くして巧みに作られていた。(注:『続古事談』による。)魚や貝を捕らせて池に放ち、毎月難波(なにわ)の海水二十斛(こく)を汲ませ、日々これを煮て塩をつくり、陸奥の塩竈(しおがま)の浦の景勝をまねさせた。(注:『顕昭古今和歌集抄』による。)世に河原左大臣(かわらのさだいじん)と称された。(注:『古今和歌集』『十訓抄』による。)薨じた後、その邸は宇多法皇に献上された。(注:『顕昭古今和歌集抄』『続古事談』による。)  子に湛(たん)・昇(のぼる)・泊(はく)・望(のぞむ)・副(そう)がいる。(注:『源氏系図』による。『尊卑分脈』は湛を清の子とし、『源氏系図』は昇を泊の弟とするが、いずれも誤りであり、今は『公卿補任』に従う。)湛は従三位大納言に至り、陸奥出羽按察使を兼ねた。昇は正三位大納言、民部卿を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)昇には是茂(これしげ)という子があり、光孝天皇がこれを養子として源朝臣の姓を賜った。(注:『公卿補任』『源氏系図』による。)天慶(てんぎょう)の初め、権中納言に任じられて民部卿を兼ね、位は従三位に至った。四年、薨じた。(注:『公卿補任』による。)泊は侍従。望は従五位上、土佐権守。(注:『三代実録』による。)副は(注:『扶桑略記』『本朝文粋』はいずれも「嗣」に作るが、今は『朝野群載』『源氏系図』に従う。)従四位下、兵部大輔。(注:『扶桑略記』『源氏系図』による。)生来酒を好み、亭子院(ていじのいん)における八人の飲み仲間の一人であった。(注:『扶桑略記』『朝野群載』による。)

源勤

源勤(みなもとのつとむ)は第十三源氏となった。(注:『公卿補任』による。)承和十四年、従四位上に叙せられ、(注:『続日本後紀』による。)山城守となった。(注:『公卿補任』による。)仁寿元年、阿波守に任じられ、斉衡年間には右近衛中将に任じられ、伊予守に遷ったが中将はもとのままであった。天安二年、宮内卿となった。(注:『文徳実録』による。)文徳天皇が崩御すると、勘解由次官(かげゆのすけ)藤原宜(ふじわらのよろし)とともに左右の馬寮(めりょう)を監護し、右兵衛督に任じられた。(注:『三代実録』による。)貞観年間、相模守となり、参議を拝して右衛門督・近江守を兼ねるようになった。(注:『三代実録』『公卿補任』による。)十七年、従三位に進み、元慶の初め、播磨権守を兼ねた。五年五月、薨じた。(注:『三代実録』による。)享年五十八。西七条宰相(にししちじょうのさいしょう)と称された。(注:『源氏系図』『公卿補任』による。)子に温(おん)・激(げき)・浣(かん)・凝(ぎょう)がいる。(注:『源氏系図』による。)温は侍従、伊勢介。(注:『三代実録』による。『源氏系図』は伊予守とするが誤りである。)激は従五位下。浣は従四位上、右馬頭(うまのかみ)。凝は筑前守。(注:『源氏系図』による。)

源啓

源啓(みなもとのけい)は、母の寵愛のゆえに大切に育てられ、勅により兄の常が養育することとなった。常はこれを実子同然に扱い、援助も手厚かった。学識ある大学生を招いて師とし、書を読ませた。啓はとりわけ文章を好み、弓術に優れ、人柄は謹厳で、兄弟たちもみな彼を敬い推していた。(注:『三代実録』による。)仁寿元年、正六位上に叙せられ、(注:『文徳実録』による。)従四位上に進んだ。斉衡年間、越中守を拝し、(注:『三代実録』『文徳実録』による。)貞観元年には加賀守に遷り、五年には相模守に任じられ、十一年には越前守に遷ったが、いずれも実際には赴任しなかった。生来仏教を深く信仰し、甥の直(なおし)と共に出家しようと約束していたが、果たせぬうちに病に倒れ、ついに出家した。八月、卒去した。享年四十一。(注:『三代実録』による。)子に記(き)・尋(じん)がいて、いずれも従五位下であった。(注:『源氏系図』による。『類聚国史』には「元慶元年十一月戊午、正六位下源紀に従五位下を授く」とあり、これによれば「記」は「紀」の誤りかと思われる。また信の子にも尋がいるので、同名であるはずがなく、これも誤りがあるのではないかと思われる。)

源勝

源勝(みなもとのまさる)は、天長十年、摂津国百済郡(せっつのくにくだらぐん)の荒田二十七町を賜った。嘉祥二年、従四位上に叙せられた。(注:『続日本後紀』による。)官を辞して僧となり、名を由蓮(ゆれん)と改め、(注:『三代実録』による。)竹田禅師(たけだぜんじ)と称された。(注:『皇胤紹運録』『源氏系図』による。)生来聡明で、仏典を広く読み、あわせて老荘の学も好み、とりわけ工夫に長け、手がけたことはみな精妙を極めた。仁和二年七月、卒去した。(注:『三代実録』による。)子に良(りょう)がいて、(注:『源氏系図』による。)従五位下であった。(注:『三代実録』による。)

源賢

源賢(みなもとのかしこ)。(注:原文にはこれ以上の本文がなく、事跡の記載はない。)

源継

源継(みなもとのつぐ)は、従三位に叙せられた。(注:『皇胤紹運録』『源氏系図』による。)