卷之一百十七 列傳第四十四

冤罪人

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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長屋王

長屋王(ながやおう)は、高市皇子(たけちのみこ)の長子である。(注:『公卿補任』『皇胤紹運録』による。)

慶雲(けいうん)の初め、正四位上に叙せられた。和銅二年、従三位に進んだ。養老二年、大納言に任じられた。五年、従二位に進み、右大臣を拝命し、帯刀資人(たちはきのしにん)十人を賜った。元明天皇(げんめいてんのう)が病に伏した際には、宮中に召されて後事を託された。まもなく稲十万束と四百斛を賜った。神亀元年、正二位に進み、左大臣に転じた。

天平元年二月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまひと)が讒言して、「長屋王は密かに邪法を学び、国家を傾けようとしている」と訴えた。すぐさま夜のうちに使者を遣わして三関(さんげん、伊勢・美濃・越前の関所)を固めさせ、式部卿(しきぶきょう)藤原宇合(ふじわらのうまかい)、衛門佐(えもんのすけ)佐味虫麻呂(さみのむしまろ)、左衛士佐(さえじのすけ)港島家道(みなとしまのいえみち)、右衛士佐紀佐比物(きのさひもつ)らに、六衛府の兵を率いて長屋王の邸を包囲させた。翌日、一品舎人親王(とねりしんのう)、新田部親王(にいたべしんのう)、大納言多治比池守(たじひのいけもり)、中納言藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、右中弁小野牛養(おののうしかい)、少納言巨勢宿奈麻呂(こせのすくなまろ)らを遣わして厳しく問い詰め、自害を命じた。(注:『続日本紀』による。)享年四十六。(注:『公卿補任』による。ただし『懐風藻』では五十四歳とあり、どちらが正しいかは分からない。また『後拾遺往生伝』には、長屋王は仏法を好み、袈裟千領を作って唐の高僧に施したとある。『今昔物語』には次のように言う。天平元年二月、元興寺で大法会を営み、長屋王が勅を奉じて諸僧を供養した。その席である沙弥が食事を乱りに乞うたため、王がその頭を打ち砕いた。人々は皆これを謗った。後に王を妬む者が「王は国家を傾けようとしている、法会の日にも不善を行った」と讒言したため、帝は大いに怒り、兵を遣わして王の邸を囲ませた。王は毒を仰いで死んだという。今『往生伝』を考えるに、沙弥を殺したのはおそらく下役の仕業であり、王を妬む者がそれを利用して讒言を作り上げたのであろう。)

夫人の二品吉備内親王(きびないしんのう)と、その子である従四位下膳夫王(かしわでのおう)、無位の桑田王(くわたのおう)、葛木王(かつらぎのおう)、鉤取王(かぎとりのおう)は、皆自ら縊れて死んだ。邸内の男女は捕らえられて左右の衛士府・兵衛府に繋がれ、使者を遣わして長屋王と夫人を生駒山(いこまやま)に葬らせた。勅には、「吉備内親王には罪がないので通例どおりに葬るべきであるが、鼓吹(こすい、葬送の楽)だけは停止せよ。その家令・帳内はいずれも放免せよ。長屋王は罪を犯して誅に伏したので罪人に准じるが、葬儀は質素の限りを尽くすように。外従五位下上毛野宿奈麻呂(かみつけののすくなまろ)ら七人は長屋王と交わりがあったため流罪に処す。その他は皆許す」とあった。左大弁石川石足(いしかわのいわたり)らを遣わし、長屋王邸に隣接する鈴鹿王(すずかのおう)の邸に赴かせて勅を宣べさせ、「長屋王の兄弟姉妹・子孫および妾で連座すべき者は、男女を問わずすべて赦免する」とした。これにより左右京の大辟(たいへき、死罪)以下の罪を大赦し、あわせて長屋王の事件に関連して徴発した百姓の雑徭(ぞうよう)を免除した。君足・東人は共に外従五位下に叙せられた。また長屋王の弟姉妹で存命の男女には、禄を賜る例に預からせるよう勅した。東人は後に右兵庫頭(うひょうごのかみ)となった。左兵庫少属(さひょうごのしょうさかん)に大伴子虫(おおとものこむし)という者があり、かつて長屋王に仕えて恩遇を受けたことがあった。十年後、東人がたまたま子虫と碁を囲みながら長屋王のことを話題にしたところ、子虫は憤って罵り、剣を抜いて東人を斬り殺した。(注:『続日本紀』による。本書では長屋王の官位について、天平宝字七年十月の条に「左大臣正二位」、宝亀五年十二月の条に「左大臣従一位」とある。おそらく従一位を追贈されたのであろうが、今は確かめようがない。)

長屋王は詩を賦し歌を詠み、当時の才人たちが多くその門に出入りした。(注:『懐風藻』『万葉集』による。)そもそも長屋王が罪を得た際、その息子たちは皆連座して死罪となるはずであったが、安宿王(あすかのおう)・黄文王(きぶみのおう)・山背王(やましろのおう)の三人だけは、藤原不比等(ふじわらのふひと)の外孫であったため死を免れた。安宿王は、天平年間に玄蕃頭(げんばのかみ)・治部卿(じぶきょう)を歴任した。天平勝宝年間には中務大輔(なかつかさのたいふ)となり、正四位下に至って播磨守(はりまのかみ)に遷り、内匠頭(たくみのかみ)を兼ねた。天平宝字元年、安宿王と黄文王は橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)に与したが、事が発覚し、妻子ともども佐渡に流された。黄文王は拷問の末、杖で打たれて死んだ。安宿王は宝亀四年に赦され、高階真人(たかしなのまひと)の姓を賜った。山背王は右大舎人頭(うおおとねりのかみ)・但馬守(たじまのかみ)を歴任し、二人の兄が奈良麻呂の事件に関与していたことを密告したことで、廃帝(はいてい、淳仁天皇)からその功を賞されて従三位を授けられ、藤原の姓と弟貞(おとさだ)の名を賜った。数年後、坤宮大弼(こんぐうのだいひつ)を兼ね、参議礼部卿(れいぶきょう)にまで至った。(注:『続日本紀』による。)

藤原廣嗣

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、式部卿宇合の長子である。(注:『続日本紀』『松浦社本縁起』による。)生まれつき体格が逞しく、頭の上に一寸余りの肉の角があり、書物に広く通じ、あわせて仏教にも通じていた。武芸に抜きん出て、兵法を修練した。そのほか天文陰陽の書、管弦歌舞の技にも、ことごとく奥義を極め、才能をもって称された。(注:『松浦社本縁起』による。)天平年間、従五位下に叙せられて大養徳守(やまとのかみ)となり、太宰少弐(だざいのしょうに)に遷った。(注:『続日本紀』『松浦社本縁起』による。)このころ吉備真備(きびのまきび)は術数の研究に励み、好んで人の心を探っていたが、広嗣を見て人に、「この人は必ず世の患いとなるであろう」と語った。(注:『松浦社本縁起』による。)僧玄昉(げんぼう)は僧正となって内道場に居し、日ごとに寵愛と栄誉を増していったが、これは沙門としての本分に背くもので、当時の人々はこれを憎んだ。(注:『続日本紀』による。)玄昉はしばしば説法を唱えて藤原皇后の側近くに仕え、外にはかなり醜聞が聞こえていた。広嗣はこれを退けるよう帝に求めたが、帝は聞き入れなかった。(注:『今昔物語』『源平盛衰記』による。)広嗣の妻は美しい容姿の持ち主で、広嗣が任地に赴いた後も都に留まっていた。玄昉はこれを犯そうとした。妻がこのことを太宰府に伝えたところ、広嗣は大いに怒った。(注:『松浦社本縁起』による。本書には、広嗣が急ぎ都に帰ったところ、都の人々は皆恐れて「広嗣は天下の才人である、必ず異心を抱くに違いない」と言ったとあるが、今『続日本紀』を考えるに、広嗣が都に帰ったという記述はないので、これは採らない。)

天平十二年八月、広嗣は上表して政治の得失を指摘し、天地の災異を述べ、玄昉と真備を除くよう求めた。(注:『続日本紀』による。)その上表には次のようにあった。

「臣は聞いております、『天子に争臣七人あれば天下を失わず、諸侯に争臣五人あれば其の国を失わず』と。それゆえ三王(夏・殷・周の聖王)が国を治めた時代には、過ちがあってもそれに気づかずにいることを恐れ、五帝が世を治めた時代には、忠言が届かないことを懼れました。あるいは旌(はた)を掲げて善言を進めさせ、あるいは誹謗の木を立てて諫言を求めたのです。謹んで思いますに、陛下は神にして聖、文武を兼ね備え、舜(重華)や堯(放勛)のごとき徳をお持ちです。何の非難すべきところがありましょうか、黄河の水が澄むにも比すべき、まことに聖代に巡り会えた次第です。しかし聖人にも千慮の一失はございます。小人の道が伸びれば君子の道は消え、上下の意思が隔たれば民は安んじて暮らせません。そのうえ天が譴責を告げること、まことに丁寧(ねんごろ)であります。それなのに群臣は上下ともに、極言してこれを諫める者がおりません。臣たる者の道が、どうしてこのようであってよいものでしょうか。臣の家は、開闢このかた今日に至るまで、代々鼎食(ていしょく、高位高禄)の家柄であり、冠蓋(かんがい、貴顕の車馬)が相連なってまいりました。恩賞は呂氏・霍氏(前漢の外戚)にも勝り、栄寵は伊尹・周公にも類するものです。この覆い育てていただいた恩は、死んでも朽ちることがございません。荊軻(けいか)が一時の恩に感じて燕のために仇を討ち、張良が五代にわたる恩寵を思って韓のために秦を滅ぼそうとしたことすら、これに及びません。それゆえ、たとえ逆鱗に触れようとも、申し上げずにはいられないのです。

臣は聞いております、『君主が中庸を得なければ、これを不韙(ふい、不善)と言い、その時天は変異を示してねんごろに警告する。君主がもし過ちを改めて徳を修めれば、禍を転じて福となすことができる。それを知りながら改めなければ、天はこれを罰する』と。しかるに天平五年から十一年まで、あわせて六年の間、太白(金星)が天を経(よこぎ)る現象が続きました。劉向(りゅうきょう)の『五紀論』を按ずるに、『太白は少陰の星であり、その力が弱いために独り自由に運行することができない。それゆえ己未(つちのとひつじ)の度を境として、これを越えて天を経て運行することはない。もし天を経て運行すれば昼にも見えることとなり、その占いの意味するところは、兵乱、あるいは大臣、あるいは民の主にかかわり、強国では君主が弱まり、弱国では強臣が君主に勝るという兆しである』とあります。この兆しはまことに恐るべきものです。(注:「勝主上下」の句には脱文があるのではないかと思われる。また「攻」の字は文意が通らず、おそらく誤りであろう。)去る天平十一年十一月二十七日、太白が昼に現れ、心宿(しんしゅく)の度にあって、正午の頃、未の方角から申の方角にかけて見え、光芒がありました。これはまことに恐るべきことで、禗(し、注:誤字かと思われる)は申の日にあたります。心宿は天王すなわち天下の主を表すとされ、それゆえ多くの兵を配してわが身を守らねばなりません。五星がこの度にあって変異を示すことは、君主にとって忌むべきことです。魏晋の末世、君臣が牀を同じくしたような乱世においてすら、太白すなわち少陰の星が心宿の上にあって昼に現れたことはございませんでした。また天平十一年正月二十九日にも恐るべき災異がございましたが、これは太史(天文を司る役人)の知るところですので改めて述べません。二月二十九日の夜半には宮中(蕭牆の内)に地震がございましたが、これも太史の奏上に詳しいので繰り返しません。天平十二年二月には、陰の獣が木に登って陽の鳥(からす)の巣を奪うということがございました。『五行伝』に照らして考えれば、これは賊臣が君主の位を奪う兆しではないかと恐れられます。これが臣の愚見の第一でございます。

讖記(しんき、予言の書)に申します、『異国の教えが盛んになれば国は滅びる。近頃仏法が次第に衰えつつあることは、まことに恐るべきことである。なぜなら、正しい教えが結集された日、十地の菩薩や四果を得た聖者たちが一堂に会し、誓いを立てて告げたという。この結集より後は、一言一字たりとも増減してはならない、増やせばその教えは正しい音を失い、減らせばその戒律は乱れる、と』。仏の内律の教えでは、正五位に相当する色の衣を着ることを禁じておりますのに、今、僧正玄昉は常に紫の袈裟を着けており、これは一つに正法に背くものであって、多くの僧尼を邪道に染めさせることになります、これでよいものでしょうか。また、如来の三乗の教えの中には、そもそも僧侶を流罪に処すという制度は存在いたしません。僧尼に罪があれば、ただ苦役を科すのみです。それなのに今、玄昉は私に邪な律を定めて僧尼を流罪にしており、内には媚びへつらう心を抱きながら、外には権勢をひけらかしております。仏法の賊としてこれほどのものはございません。また、出家した者は国家を離れることが牢獄を出るようなものであり、(注:「牢」の字の上には一字脱けているようである。)妻子を捨てることは枷や鎖を身に着けたようなものです。それゆえ奴婢や牛馬を養ったり、酒を売ったり肉を食したり、耕作や商売をしたりすることは許されません。それなのに今、玄昉は奴婢を養い、邸宅を造営し、財宝を蓄え、酒を醸し肉を食し、農業や商売までも行っており、まったく俗人と変わりません。仏法が滅びゆく兆しがますます広がり、外道の跡が急に興ってきております、まことに悲しむべきことです。また、出家した者は一切衆生の大導師でありますから、その威儀を厳しく律し、三界(欲界・色界・無色界)の衆生を導かねばなりません。また僧正とは仏法の綱紀を担う者であり、仏法の興廃はこの一人の僧にかかっております。ところがこの僧には頭陀(ずだ)や安居(あんご)などのさまざまな威儀の実践がなく、香や花で身を飾り、女色を愛でること、まったく俗人と変わりません。戒律もなく煩悩のままであり、そもそも十地の菩薩というものは肉眼で見ることのできるものではなく、坐禅静慮の境地は淫欲の入り込む余地のあるものではございません。それなのに玄昉は、自ら十地の菩薩に出会ったなどと詐り、坐禅の道を体得したなどと偽って言っております。昔、大天(だいてん)という僧が正しい教えを汚したと聞きますが、今、玄昉が仏法の綱紀を絶やそうとしているのを見るにつけ、ついには丈六の金色の仏の眼から涙を流させるに至りました。身分の卑しい女を弥勒菩薩の化身などと偽り称することも、仏法が滅びる兆しでなくて何でございましょうか。これが臣の愚見の第二でございます。

『金光明最勝王経』に説いてこうあります、『諸天に護持されることによってこそ天子と呼ばれるのであり、三十三天の主はその力を分けて人の王を助けている。もし王が非法を行い、悪人に親しむならば、三十三天の神々は皆怒りの心を生じる。天の主が守護の心を持たなくなれば、他の天もまた皆これを見捨て、国の重臣たる大臣は不慮の死を遂げ、(注:「朽横」の句は誤りがあるのではないかと思われる。)悪鬼が国に入り込んで疫病がまん延することになる。もし諂い狂う者があれば、国の位を失うことになるだろう』と。このために王の政治が損なわれることは、あたかも象が花園に踏み入るようなものです。近年、賢臣や良将が次々と亡くなり、百姓は死に絶えて散り散りになり、里や社は廃墟と化し、疫病が流行して、平穏な年がほとんどない有様です。ああ、国の興廃を決する機はまさに今この時にかかっております、恐れずにいられましょうか。これが臣の愚見の第三でございます。

わが聖朝が国を為すにあたっては、日本国を光り輝かせ、唐の長安と並び立って光を放ち、万邦を包み込み、唐に対しても雄を争う存在でございます。ところが唐の王は常々、『天に二つの太陽はなく、地に二人の主はいない。唐がなければ日本があり、日本がなければ唐があるのみで、どうして東帝・西帝という二つの帝が並び立つことがあろうか』と申しており、ついに姦心を抱いてわが上国(日本)の隙をうかがう年月が既に長うございます。取るに足らぬ新羅もまた虎狼のような心を持ち、会稽(かいけい)の恥を含み、句践(こうせん)のごとき怨みを蓄えて、あれこれ祈願しながらわが国家に禍をなそうと企ててきた日もまた久しゅうございます。北の蝦夷(えみし)、西の隼人(はやと)のごとき異俗の民も、その性は荒々しく乱れやすく、野心を持って懐き従いません。昔から、中国に聖人が現れれば後から服従し、朝廷に変事があれば真っ先に叛くのがその習わしであり、その風俗として、子は父の敵に報い、孫は祖父の怨みに報いると申します。ただ陛下の威武を畏れ、聖朝の文教に服しているために、爪牙を毛の中に隠し、羽翼を鱗の下に潜めているに過ぎません。たとえ朝廷に食事もままならぬほどの急務があり、辺境の城に烽火の警急があったとしても、彼らが父祖代々の怨みを忘れ、子孫の心を捨て去るなどということがございましょうか。近頃は賢臣は既に没し、良将も多く世を去り、四方の憐れむべき事情もあまねく聞こえ、天下の八方にも共に知れ渡っております。今なすべき務めは、五種の武具を練り整え、四海に威を振るうことでございます。(注:この間には脱文や誤りがあるのではないかと思われる。)よく賢者を崇め、士を選び、万邦を撫で慰め、無用の租税を割き除き、諸事を簡素にし、傾きかけた八柱(国家を支える柱)を復し、絶えかけた四維(国家の綱紀)を張り直すべきです。そうすれば遠国は治まり近国は安んじ、民は豊かに国は富みます。太平の基となり、中華も夷狄も共に喜び、康哉(こうさい、太平を讃える歌)の歌が朝野を挙げて同じ声で歌われることになりましょう。どうして武備を廃し備えを棄て、将士を解散させ、徐偃王(じょえんおう)のような見せかけの仁義を修め、楚の詐りの謀(はかりごと)に従うようなことがあってよいでしょうか。兵法に申します、『天下は安泰であっても、戦を忘れれば必ず危うくなる』と。相手が攻めて来ないことを頼みにするのではなく、こちらに備えがあることを頼みにして待つべきです。しかるに今、兵士を解散させ、軍馬を売り払い、弓馬の訓練の場である射田(いでん)を止めるなど、このような措置は決してよいこととは思われません。これが臣の愚見の第四でございます。

玄昉の掌には天に通じる理(すじ)があり、まっすぐに中指に達しているといいます。伝え聞くところによれば、唐の人相見が『これは天子となるべき相である』と申したとのことです。玄昉はひそかにこの言葉を頼みとして皇位を狙い、陛下の目を惑わし、後宮を欺いております。皇室を守るべき藩屏の一族を讒言によって離間させ、朝廷から城郭のような固い守りを失わせ、国家の棟梁たる家々を放逐して、陛下の左右から忠良の臣を絶やしております。しばしば酷薄な政治を行って天下の恨みを陛下に集めさせ、大規模な労役を興して万民を疲弊させ、武備を廃して国家に戦を忘れさせ、決死の徒を大切に養い、万金の資を惜しみません。その所業はことごとく、かつて文種(ぶんしゅ)が呉を滅ぼした九つの術策と同じでございます。従五位上守右衛士督兼中宮亮近江守下道朝臣真備(しもつみちのあそんまきび、吉備真備)は、辺鄙の生まれの取るに足らぬ小人でありますが、海外に遊学して特に権謀術数を学び、知恵もあり勇もあり、弁も権謀も備えております。口では山甫(さんぽ、周の賢臣)の遺風を語りながら、心では趙高(ちょうこう、秦の奸臣)の権謀を慕っております。いわゆる姦雄の徒であり、国を覆す弁舌の持ち主です。この者もまた玄昉の左腕となっております。陛下は明徳の君であられますが、臣はこの二人の悪を熟々と見て、あえてこのように名指しするのでございます。陛下がこれを慈しみ育て、その恩寵は同輩を超えるほどでありますにもかかわらず、その進退振る舞いはあたかも飢えた虎のようでございます。この二人の悪事を先に知りながら、彼らには必ず大きな野望があるはずです。もし早く取り除かなければ、後になって臍を噛むような後悔を残すことになりましょう。太公望(たいこうぼう)は申しました、『渭水(いすい)も凍らぬうちに小さな流れのうちに塞がねば大河となり、木の葉も二枚のうちに取り除かねば、いずれ斧や柄を用いねばならなくなる』と。日月の光を見ることは、目が明るいということにはならず、雷鳴を聞くことは、耳が聡いということにはなりません。いわゆる上智の人というものは、高殿の上に居ながらにして日月の運行の順序を知り、瓶の中の水を見て天下の寒暑を知るものです。臣は尚方剣(しょうほうけん、天子より賜る剣)を賜り、この二人の悪を討ち取り、苛酷な政治を取り除いて、傾きかけた国運を助けたく願います。かつて楚の荘王が申無畏(しんぶい)を誅して呉王に謝したのは楚の故事であり、漢の景帝が晁錯(ちょうそ)を戮して七国に応えたのは漢の帝の上策でございました。これが臣の愚見の第五でございます。

臣は聞いております、『鴟鴞(しきょう、ふくろう)でさえ山で鳴きながら、なお自らの巣が壊されることを惜しむ』と。まして我が国家の宗廟社稷は、日月と光を競い合い、天地とその始終を等しくするものでございます。それなのに玄昉のような姦賊、吉備真備のような凶悪の輩に謀られようとしているとは、なんと哀しいことでございましょうか。忠臣義士たる者、いったいどのような顔をして天を戴き地を踏んでいられましょうか。かつて朱雲(しゅうん)という高潔な士が、朝廷で師傅を辱めるべきだと訴えて欄干を折りましたが、それは罪ではなく、漢の成帝はその明徳によってこれを許しました。どうか陛下におかれても、この愚かな臣の言葉に光を当てていただきとうございます。臣の愚かな忠義とは、いわゆる草刈りや木こりの言葉のようなものでございますが、聖人はなおそうした言葉の中からも取捨選択されるものであり、そうしていただければ天下にとってこれに勝る幸いはございません。」

この上表は朝廷に差し出されたが、顧みられることはなかった。(注:『松浦社本縁起』による。)

九月、広嗣は兵を挙げ、遠珂郡(おかのこおり)に陣営を築いて、弓弩の兵を蓄え、烽火台を設けた。朝廷は大将軍大野東人(おおののあずまひと)、副将軍紀飯麻呂(きのいいまろ)らを遣わしてこれを討たせ、勅を下して広嗣の罪状を天下に公にし、勅符数千通を作って諸国にばらまき、民にどちらに従うべきかを知らしめた。また賞の規定を立て、広嗣を斬った者に恩賞を与えると募った。東人らが進軍して豊前(ぶぜん)に入ろうとしたところ、広嗣配下の京都郡(みやこのこおり)鎮長士長谷常人(はせのつねひと)、企救郡(きくのこおり)板櫃鎮(いたびつのちん)大長三田塩籠(みたのしおこ)、小長凡河内田道(おおしこうちのたみち)がこれを阻んだ。常人と田道は敗れて死んだ。塩籠は矢を二本受けて逃走したが、百姓の豊国秋山(とよくにのあきやま)らがこれを斬った。登美(とみ)・板櫃・京都の三陣営の兵千七百六十七人が生け捕りにされた。京都郡の大領(たいりょう)楉田勢麻呂(すはたのせまろ)は五百騎を率い、仲津郡(なかつのこおり)擬少領膳東人(かしわでのあずまひと)は八十人を、下毛郡(しもつけのこおり)擬少領勇山伎美麻呂(いさやまのきみまろ)、築城郡(ついきのこおり)擬領佐伯豊石(さえきのとよいし)は七十人を率いて出迎えて降伏した。十月、広嗣は自ら大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)・筑前(ちくぜん)・豊後(ぶんご)の兵一万を率いて鞍手道(くらてみち)から進み、弟の綱手(つなて)は筑後(ちくご)・肥前(ひぜん)の兵五千を率いて豊後道から、多胡古麻呂(たごのこまろ)は田河道(たがわみち)から進んで、官軍を迎え撃とうとした。広嗣はまず板櫃川(いたびつがわ)に至り、隼人の軍を先鋒として、筏を組んで渡河しようとした。佐伯常人(さえきのつねひと)、安倍安麻呂(あべのやすまろ)は陣営を出て弩を発して射た。広嗣の兵は川の西岸に退いて陣を布き、常人らは川の東岸に陣を布いて、味方の隼人らに「逆賊広嗣に従って官軍に抗う者は、罪が妻子・親族にまで及ぶぞ」と呼びかけさせた。広嗣の兵は矢を放つことができなかった。常人らが広嗣を十度呼んだが応じなかった。しばらくして広嗣が馬を馳せて来て、「勅使が来たと聞くが、誰であるか」と尋ねた。常人が「勅使は衛門督佐伯大夫(さえきのたいふ)、式部少輔安倍大夫(あべのたいふ)である」と答えると、広嗣は馬を下りて再拝し、「広嗣はあえて朝命に逆らうつもりはない。ただ朝廷の乱臣二人を誅していただきたいだけである。もし朝廷に逆らう者があれば、天神地祇が直ちに罰し殺すであろう」と言った。常人らが「それならばなぜ兵を挙げたのか」と問うと、広嗣は言葉に詰まり、馬に乗って去った。隼人三人が川を泳いで渡って来たので、官軍の隼人がこれを助け上げた。さらに隼人二十人と兵十騎ほどが相次いで降り、武器も獲得され、広嗣の軍は総崩れとなった。(注:『続日本紀』による。)広嗣は自らが飼っていた千里の馬に乗って西へ逃げた。(注:『異本平家物語』による。諸書には綱手・古麻呂の軍が敗れたことは記されておらず、ただ広嗣が敗走し、他の軍勢も広嗣の敗北を知って風になびくように散っていったとあるのみである。おそらく記述が欠けているのであろう。また『松浦社本縁起』には次のようにある。広嗣は任地に赴いた当初、いななく馬の声を聞いてその駿足ぶりを見抜き、高値で買い求めた。その馬は骨相が並外れて奇異で、堅い草や柴を食べさせ、試みに厩の中に杭を植えてみたところ、数日のうちに馬は四肢を縮めてその杭の上に立ったという。それ以来、広嗣は午前中に政務を終えると馬で都に向かい、午後に宮中に出仕して政務を受け、夕方には任地の府に帰るということを日課としていた。ある日、備中(びっちゅう)の板倉橋で、傍らにいた姿かたちの並外れた一人の男が広嗣に「私は丹波国氷上郡(ひかみのこおり)の者で、矢田弘麻呂(やたのひろまろ)と申します。手綱取りをお務めしたく存じます」と申し出た。広嗣がこれを許すと、その後の都への往来は決して遅れることがなかったという。『古今著聞集』にも、広嗣が駿馬に乗って一晩のうちに都との間を往復したという話が載っているが、いずれも荒唐無稽なことなので採らない。)ついに広嗣は船に乗って肥前を出発し、値嘉島(ちかのしま)に至った。東風を得て四日進むと、孤島が見えた。船頭が「これは耽羅島(たんらとう、済州島)である」と言った。一昼夜漂流しているうちに、にわかに西風が起こって船が進まなくなった。広嗣は駅鈴(えきれい)を手に捧げて、「私は大忠臣である。神霊は私を見捨てるというのか。どうか神よ、私をお救いください」と言い、鈴を海に投げ入れたが、風波はますます激しくなり、船はもとの値嘉島へと吹き戻された。軍の長であった野村は、進士安倍黒麻呂(あべのくろまろ)に捕らえられた。東人らは勝利を朝廷に奏上した。十二月、広嗣を斬るよう詔が下されたが、その詔書が届く前に、東人は松浦郡(まつらのこおり)で広嗣・綱手を誅殺した。(注:『今昔物語』には、広嗣は馬に乗ったまま海に入って溺死し、その屍が海に漂着したので、東人がその首を斬って都に伝えたとある。『尊卑分脈』には次のようにある。広嗣少将が西の府で謀反を起こした際、大野東人が率いる官軍と合戦して敗れた。その間に広嗣は自らの刀で自分の首を刎ねた。後にその首が空中に昇った際、多くの官軍を殺したという。この首は空中で赤い鏡のようになり、これを見た者は皆死んだという。)明くる年の正月、広嗣に与した残党や生け捕りにされた者たちの罪を裁き、杖罪・徒罪・流罪・死罪、および身柄を没収された者を合わせて三百人近くに及んだ。(注:『続日本紀』による。)その後、広嗣はしばしば祟りをなしたと伝えられる。(注:『源平盛衰記』『松浦社本縁起』による。)天平十七年、勅により玄昉を筑紫に遣わし、観世音寺を造らせた。その翌年、玄昉は死んだが、世間ではこれを広嗣の祟りによるものだと伝えている。(注:『東大寺要録』には、六月己亥の日、僧玄昉が突然空中数丈の高さに上がり、地に落ちて死んだが、血も骨も残らなかったとある。『尊卑分脈』には、太宰府観音寺の供養の日、玄昉僧正が導師を務め、腰輿(ようよ、輿の一種)に乗った際、大空の彼方から声が聞こえてきて、その身が消え失せてしまったという。後日、その首が興福寺の唐院に落ちてきたという。)天平勝宝の初め、吉備真備は筑前守に左遷され、さらに肥前守に改められた。(注:『続日本紀』による。)真備は広嗣の墓に至ってこれを祭った。(注:『今昔物語』『松浦社本縁起』による。)ついに祠を建てて鏡尊廟(きょうそんびょう)と号し、知識無怨寺(ちしきむおんじ)を創建して、毎年時節ごとに祭祀を行った。(注:『松浦社本縁起』による。鏡尊廟は、『水鏡』では鏡宮と記す。)

橘奈良麻呂

橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、左大臣諸兄(もろえ)の子である。天平年間、帝が諸兄の相楽(さがらか)の別荘に行幸した際、奈良麻呂は従五位下を授けられた。大学頭(だいがくのかみ)・摂津大夫(せっつのだいぶ)・民部大輔(みんぶのたいふ)を歴任し、次第に従四位下に進んだ。天平勝宝元年、従四位上に叙せられて侍従となり、参議を拝命し、但馬(たじま)・因幡(いなば)按察使(あぜち)を兼ね、伯耆(ほうき)・出雲(いずも)・石見(いわみ)などの非違を検校し、正四位下に進んだ。天平宝字元年、左大弁を兼ねた。

このころ帝はまさに恵美仲麻呂(えみのなかまろ、藤原仲麻呂)を寵愛しており、仲麻呂は紫微内相(しびないしょう)となって、その寵愛を頼みに権力をほしいままにしていた。奈良麻呂はその所業を憎み、ひそかにこれを除こうと図って、廃太子道祖王(ふなどのおう)や、塩焼王(しおやきのおう)・安宿王・黄文王・小野東人・大伴古麻呂(おおとものこまろ)らと共に、皇位の廃立を謀った。

そもそも天平勝宝の末、太上天皇(聖武太上天皇)が病に伏していたとき、諸兄の従者であった佐味宮守(さみのみやもり)が、「大臣(諸兄)は酒を飲んで無礼な発言をし、いささか謀反の気配がある」と密告したことがあった。太上天皇はこれを寛大に扱って問わなかった。諸兄はこのことを知ると、まもなく官職を辞した。その後、帝は越前守佐伯美濃麻呂(さえきのみのまろ)を召してこの件を尋ねたところ、美濃麻呂は「臣はまだ聞いたことがありません。佐伯全成(さえきのまたなり)ならあるいは知っているかもしれません」と答えた。そこで全成を取り調べようとしたが、太后がこれを固く止めたため、この件はうやむやになった。

このような経緯のあった後、黄文王の弟山背王が、「橘奈良麻呂が姦謀を企て、田村宮(たむらのみや)を包囲しようとしている。大伴古麻呂もその詳細を知っているので、召し出して尋問すべきである」と密告した。このとき古麻呂は小野東人に、「内相(仲麻呂)を襲おうとする者がいるが、お前は従うか」と尋ね、東人は「仰せのままに従います」と答えた。答本忠節(とうほんのちゅうせつ)という者がこの話をひそかに聞き、右大臣藤原豊成(ふじわらのとよなり)、右大弁巨勢堺麻呂(こせのさかいまろ)に告げた。堺麻呂は密かにこれを奏上した。中衛舎人上道斐太都(かみつみちのひたつ)は仲麻呂にこう告げた。「小野東人が私にこう申しました。『皇太子および内相を殺そうと謀る王臣がいるが、お前はこれに従えるか』と。私が『その王臣とは誰のことか』と尋ねると、『黄文王・安宿王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂で、仲間はたいへん多い』と答えました。私がさらに『その謀はどのようなものか』と尋ねると、『謀は二つある。一つは精兵四百を率いて田村宮を包囲すること。二つは陸奥将軍大伴古麻呂が陸奥に赴く途中、美濃関に至って病と偽り、一、二の親しい者に会いたいと申し出て許しを得たならば、すぐさま関を閉ざすことである』と答えました。しばらくして、私は偽ってこれに従うふりをいたしました」と。仲麻呂はこれを聞くと、その夜二更(午後十時頃)、詳しく事の次第を奏上し、諸門の警備を固めた。高麗福信(こまのふくしん)らが兵を率いて東人・忠節らを逮捕し、左衛士府に繋いだ。別に兵を遣わして道祖王の邸を包囲させた。翌日、公卿を遣わして厳しく尋問させたが、東人らはなかなか自白しなかった。その日の夕方、仲麻呂は宮中に伺候し、塩焼王・安宿王・黄文王・奈良麻呂・古麻呂を召して、太后の詔を宣べて言った。「そなたらが謀反を企てていると告げる者がある。思うにそなたらは私にとって親戚であり、位も禄も軽くはないはずである。今、何を怨んで謀反を起こそうとするのか。それゆえ今は罪を問わないので、慎んで自らを絶つようなことのないように」と。五人は南門を退出し、頭を下げて恩に謝した。

翌日、中納言藤原永手(ふじわらのながて)らを遣わして再び尋問させた。東人らは次のように自白した。「安宿王・黄文王・奈良麻呂・古麻呂・多治比犢養(たじひのこかい)・多治比礼麻呂(たじひのいやまろ)・大伴池主(おおとものいけぬし)・多治比鷹主(たじひのたかぬし)・大伴兄人(おおとものえひと)らが、夜に三度会合した。最初は奈良麻呂の邸で、次は図書寮の傍らで、その後は太政官院の庭で行われた。会合には非常に多くの者が集まり、顔もよく見分けられないほどであった。天地四方を拝み、塩水をすすって誓いを立て、『七月二日の宵の初めに兵を挙げ、内相の邸を囲んでこれを殺す。そのまま大殿を包囲して皇太子を廃し、皇太后を脅して鈴璽(れいじ、天皇位の印である駅鈴と御璽)を奪う。右大臣を召して号令の役に立て、その後帝を廃する。四人の王の中から選んで君に立てる』と述べた」と。そこで安宿王以下を分けて繋ぎ、尋問した。安宿王は次のように述べた。「先月二十九日の黄昏時、黄文王が来て『奈良麻呂が会って話したいことがある』と言うので、共に出向いた。太政官院に着くと、二十人ほどがいた。一人が進み出て会釈をしたので見ると奈良麻呂であった。白い衣を着た者がいて、それは小野東人であった。皆が『時が移った、立って拝礼せよ』と言うので、安宿が何を拝むのか尋ねると、『天地を拝む』と言われた。安宿は騙されて赴いたのであり、まったく事情を知らぬまま、皆に従って拝礼しただけである」と。黄文王・奈良麻呂・古麻呂・犢養の自白もほぼ同様であった。

勅使が奈良麻呂を詰問して、「どうして謀反を起こしたのか」と尋ねると、奈良麻呂は「内相は不道な行いが甚だ多いので、先に兵を挙げ、まずその身柄を確保してから事情を申し述べようとしたのです」と答えた。「何を不道と言うのか」と問われると、「東大寺の造営で人民は苦しみ、諸氏もまた憂えています。またそれに加えて、奈良(の都)を治める施策が課され、その罪科が人々の憂いとなっています」と答えた。勅使は「諸氏とはどの氏のことか。寺の造営はそなたの父(諸兄)が政務に当たっていた時に始まったことである。今になって人民の憂いだと言うのは筋が通らない」と言うと、奈良麻呂は言葉に詰まった。

また賀茂角足(かものつのたり)という者があり、田村宮の図面を作って、押し入る場所を指図していた。佐伯古比奈(さえきのこひな)の自白にはまた次のようにあった。「乱を起こす当日、角足は高麗福信・奈貴王(なきのおう)・坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)・巨勢苗麻呂(こせのなえまろ)・牡鹿島足(おしかのしまたり)らを額田部(ぬかたべ)の邸に招いて酒宴を催し、彼らが変事に駆けつけられないようにしようと謀った」と。そこで関係者は皆獄に下された。諸衛府に手分けして命じ、その一党を捕らえさせた。出雲守百済敬福(くだらのきょうふく)、太宰帥船王(ふねのおう)ら五人に諸衛府を率いさせて獄を守らせ、拷問して取り調べさせた。黄文王は名を多夫礼(たぶれ)と改めさせられ、道祖王は麻度比(まとい)と名づけられた。古麻呂・犢養・東人・角足は姓を乃呂志(のろし)と改めさせられ、いずれも杖で打たれて死んだ。安宿王は妻子とともに佐渡に流された。信濃守佐伯大成(さえきのおおなり)、土佐守大伴古慈悲(おおとものこじひ)は、それぞれ任国に流された。その他の者は獄中で死んだ者もあれば、流罪に処された者もあった。(注:『公卿補任』によれば奈良麻呂は誅殺されたとある。一説には流罪に処されたともいう。本書には奈良麻呂を流罪あるいは殺害したとする明確な記述がない。後に南院で下された宣詔によれば、奈良麻呂はおそらく遠流に処されたのであろう。しかしなお疑わしい点があるので、ここには明記しない。)

遠江守多治比国人(たじひのくにひと)を召して尋問したところ、その自白は東人らのものと同様であったので、伊豆に流された。佐伯全成はこのとき陸奥守であったので、現地に赴いて尋問した。全成は次のように自白した。「去る天平十七年、先帝(聖武天皇)が難波(なにわ)に行幸された際、御寝食の調子が優れなかった。奈良麻呂は全成に、『陛下は枕席も安まらず、いよいよ危篤の状態に至られた。それなのになお皇嗣が立てられていないのは、変事が起こることを恐れさせる。多治比国人・多治比犢養・小野東人を率いて、黄文王を君に立て、百姓の望みに応えたいと思う。大伴・佐伯の両氏族がこの挙に加われば、向かうところ敵なしであろう。今、天下は憂い苦しみ、住まいも定まらぬまま、路頭で泣き叫び、怨み嘆く者が実に多い。これによってこの謀を定めれば、事は必ず成るだろう。従ってくれるか』と言った。全成は『私の先祖は、清廉慎重にお仕えしてきました。私は愚かとはいえ、どうして先人の生き方に背けましょうか。たとえ事が成就したとしても、なおよろしくないでしょう。まして必ず成るとは限りません』と答えた。奈良麻呂は『天下の愁い怨みを見て、たまたま思うところを述べたまでのことだ』と言った。大嘗祭(だいじょうさい)の年、奈良麻呂は『先年の計画を今こそ実行しようと思う。どうか』と言ったので、全成は『朝廷は私に高い爵位と重い禄を賜っています。どうしてあえて天に背いて悪逆を謀りましょうか。先年既にあなたの申し出を拒みました。今さらどうして事を起こしましょうか』と答えた。奈良麻呂は『そなたは私と心を同じくする友であるからこそ、この大事を告げたのだ。くれぐれもこの話を漏らさないように』と言った。また去年四月、全成が金を携えて都に上った際、奈良麻呂は『大伴古麻呂に会ったか』と尋ね、全成が『まだ会っていません』と答えると、奈良麻呂は全成を伴って辨官(べんかん)の曹司(役所)に赴き、古麻呂に会わせた。奈良麻呂は『帝の御体は優れず、既に長い年月が経っている。時勢をよく見極めれば、乱はもう間近に迫っている。もし他の氏族の者が王に立てられれば、我々は滅びるだろう。大伴・佐伯の一族を率いて黄文王を君に立て、万世の基としたい』と言った。古麻呂は『右大臣・大納言らは勢いを頼んで権力を握っている。たとえそなたが君を立てたところで、人々がどうして服従しようか』と言った。全成も『この事は道理に外れている。たとえ成功したとしても、どうして良い評判を得られようか』と言い、その場を去った。奈良麻呂だけがその場に留まったが、全成はその後の話を聞いていない」と。全成はこう語り終えると自ら首をくくって死んだ。

その後、帝は南院に出御し、諸司および京畿の百姓の村長以上の者たちを召し集めて、次のように詔した。「神祇のご加護により、謀反の一党はその罪に服した。法によれば死罪に当たるべきところであるが、特に一等を減じ、姓名を改めさせたうえで遠流に処す。この事件に巻き込まれて誤って加担した百姓については、出羽国小勝柵戸(おがちのさくこ)に移す」と。景雲四年、帝が病に伏し、大赦が行われた。奈良麻呂の事件に連座した者二百六十二人は、それぞれ本籍地に編入されたが、都に入ることだけは許されなかった。(注:『続日本紀』による。)

奈良麻呂の子に清友(きよとも)・入居(いりい)がいる。(注:『尊卑分脈』による。)清友は娘をもうけ、これが檀林皇后(だんりんこうごう、橘嘉智子)となった。仁明天皇(にんみょうてんのう)が即位するに及んで、奈良麻呂に従三位が追贈された。その詔には、「無位の橘朝臣奈良麻呂は、禍福の巡りは測りがたいものであるが、既に幽界の扉を閉ざしてしまった。その福禄が長く続かなかったことを憐れみ、忠貞の志が遂げられなかったことを悲しむ。よろしく寛大な典礼をもって、その墓所を飾るべきである」とあった。後に大納言を追贈され、さらに太政大臣正一位を追贈された。(注:『続日本後紀』による。)清友については別に伝がある。入居は、延暦年間に正五位下に叙せられ、右兵衛佐(うひょうえのすけ)・右中弁・播磨守・左京大夫を歴任した。(注:『日本後紀』による。)その子が逸勢(はやなり)である。

橘逸勢

橘逸勢(たちばなのはやなり)。逸勢は人となり奔放で細かいことにこだわらず、隷書を書くことに最も優れていた。(注:『文徳実録』による。)宮門の額の文字には、その筆によるものが多かった。(注:『文徳実録』『古今著聞集』による。)延暦の末、遣唐使に従って唐に入り、人々から橘秀才と呼ばれた。帰国後、従五位下に叙せられたが、老いと病のため官職に就かず家に籠っていた。(注:『文徳実録』による。従五位下に叙せられたことは『続日本後紀』による。)承和七年、召し出されて但馬権守(たじまのごんのかみ)となった。

嵯峨上皇が病に伏した際、東宮帯刀(たちはき)伴健岑(とものこわみね)は、「上皇の崩御も遠くなく、国家の危機はもう間もなくやってくる」と考え、逸勢と謀って皇太子恒貞親王(つねさだしんのう)を東国に移そうとし、ひそかに阿保親王(あぼしんのう)にそのことを語った。まもなく上皇が崩御すると、阿保親王は書状を封じて嵯峨太皇太后に奏上した。太后は中納言藤原良房(ふじわらのよしふさ)を召してこれを伝奏させた。そこで六衛府に宮門を守らせ、右近衛少将藤原富士麻呂(ふじわらのふじまろ)らを遣わして勇敢な兵士を率いさせ、健岑と逸勢の二人の邸を囲んでこれを捕らえた。主馬署(しゅめしょ)の長であった伴水上(とものみなかみ)も併せて捕らえられた。また右近衛将曹伴武守(とものたけもり)、帯刀伴甲雄(とものかぶとお)を召し出してその武器を取り上げ、それぞれ左近衛府・左衛門府・左兵衛府に繋いだ。右兵衛督(うひょうえのかみ)藤原永名(ふじわらのながな)、右衛門少尉時枝(ときえだ)らは、逸勢の近親であったことから自ら武器を差し出して処分を待った。大納言藤原愛発(ふじわらのちかなり)、中納言藤原吉野(ふじわらのよしの)らも、その一党とみなされて院中に留め置かれた。左大弁正躬王(まさみおう)らが尋問を行った。(注:『続日本後紀』による。)逸勢は罪を認めなかった。(注:『文徳実録』による。)姓を非人(ひじん)と改めさせられ、死一等を減じられて伊豆に流された。(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)道中、遠江(とおとうみ)の板築駅(いたつきのうまや)まで来たところで、旅宿にて死んだ。(注:『文徳実録』による。)一月余り後、次のような詔が下された。「伊豆国に配流された罪人非人逸勢の孫珍令(ちんりょう)は、年がまだ幼く、まだ生計を立てる術も知らない。それなのに逸勢が去る月の十三日に身罷ったとあっては、いったい誰を頼みとすればよいのか。罪人の子孫とはいえ、なお一人の者が行き場を失うことを憐れむ。改めて呼び戻し、もとの故郷に住まわせるべきである」と。嘉祥二年、その子である龍剣(たつつるぎ)・実山(じつさん)らに本姓を賜り、都に入ることを許した。(注:『続日本後紀』による。)翌年、逸勢に正五位下を追贈し、遺骨を都に戻して葬らせた。仁寿三年、さらに従四位下を追贈した。(注:『文徳実録』による。)

小野東人

小野東人(おののあずまひと)は、天平年間に左兵衛佐(さひょうえのすけ)であった。天平十三年、藤原広嗣の事件に連座して平城京の獄に下され、東西の市でそれぞれ五十の杖罰を受けたうえで、伊豆三島(いずのみしま)に流された。数年後、赦されて都に戻り、治部少輔(じぶのしょう)となった。天平勝宝年間には備前守(びぜんのかみ)となり、天平宝字元年には従五位上に至った。しかし橘奈良麻呂に与し、事が発覚するに及んで捕らえられて左衛士府に繋がれ、拷問の末、杖で打たれて死んだ。