卷之第十六 本紀第十六

聖武天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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聖武天皇

聖武天皇(しょうむてんのう)は(注:愚管抄には、帝の諱は未詳とある。皇胤紹運錄には、諱は首という。他の書には考証がなく、今はこれを採らない)、文武帝(もんむてい)の子である。母は夫人藤原氏(ふじわらし)。

大宝元年、お生まれになった。

元明帝(げんめいてい)の和銅七年六月、皇太子に立てられ、元服した。元明帝は退位しようとしたが、天皇がまだ幼かったため、位を元正帝(げんしょうてい)に譲った。

養老八年二月四日甲午、皇太子は禅譲を受け、大極殿(だいごくでん)において天皇の位にお即きになった。時に31歳(注:年齢は本書に崩年56歳とある記述、および一代要記・歴代皇紀による。愚管抄は25歳とするが、誤りである)。元正帝は詔を宣べて、「瑞亀を得たことにより、養老八年を改めて神亀元年(じんきがんねん)とし、天下に大赦する」と仰せられた。一品舎人親王(とねりしんのう)の封戸を五百戸増やし、知太政官事はもとのままとした。二品新田部親王(にいたべしんのう)に一品を授けた。右大臣長屋王(ながやおう)を左大臣とした。

神亀元年甲子(こうし)、春三月庚申朔、芳野宮(よしののみや)に行幸した。五日甲子、宮に還った。二十二日辛巳、夫人藤原氏を尊んで皇太夫人(こうたいぶにん)と称した。二十五日甲申、陸奥(むつ)から、「海道の蝦夷(えみし)が反乱し、大掾(だいじょう)佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)を殺した」との報告があった。夏四月庚寅朔、七道の諸国に命じて軍器・幕・釜などを造らせた。三日壬辰、佐伯児屋麻呂が戦死したことにより、従五位下を贈り、賻(ふ、弔慰の品)を賜った。七日丙申、式部卿藤原宇合(ふじわらのうまかい)を持節大将軍、宮内大輔高橋安麻呂(たかはしのやすまろ)を副将軍とし、蝦夷を征討させた。十四日癸卯、坂東九国の兵三万に命じて騎射を教習させ、軍陣を試み練らせた。帛(はく)・絁(あしぎぬ)・綿・布を陸奥の鎮所に運んだ。十八日丁未、月が熒惑(けいこく、火星)を犯した。五月二十四日壬午、従五位上小野牛養(おののうしかい)を鎮狄将軍とし、出羽(でわ)の蝦狄(えみし)を鎮撫させた。秋七月戊午朔、日食があった。丁未(注:今、干支を推算すると、この月には丁未の日はない。丁未は八月二十一日にあたる。おそらく本書の月の記載に欠落があるのであろう)、従五位上土師豊麻呂(はじのとよまろ)を遣新羅大使とした。冬十月五日辛卯、紀伊(きい)に行幸した。七日癸巳、玉垣勾頓宮(たまがきのわがのかりみや)に至った。八日甲午、玉津島頓宮(たまつしまのかりみや)に至った。十二日戊戌、離宮を岡の東に造った。十六日壬寅、「弱浜(わかのはま)を改めて明光浦(あかのうら)とし、守戸(しゅこ)を置け。春秋二季に玉津島の神を祭れ」と詔した。二十一日丁未、和泉(いずみ)の所石頓宮(ところしのかりみや)に還り至った。二十三日己酉、車駕は宮に還った。十一月八日甲子、太政官が奏上して言った。「上古は淳朴で、冬は穴に、夏は巣に住んでいましたが、後世の聖人はこれに代えて宮室を用いるようになりました。また京師(けいし、都)を設けて帝王の住まいとし、万国が朝(まみ)える場としました。壮麗でなければ、どうして徳を表すことができましょうか。板屋・草舎は中古の遺制であり、造営に手間がかかる一方で壊れやすく、いたずらに民の財を費やします。どうか有司に命じ、五位以上および造営の力のある庶人には、瓦で屋根を葺かせ、丹堊(たんあく、赤白の塗料)で塗らせるようお願いいたします。」これを裁可した。二十三日己卯、大嘗祭(だいじょうさい)を行った。乙酉晦、征夷持節大使藤原宇合・鎮狄将軍小野牛養らが都に還った。

二年乙丑(いっちゅう)、春正月丙辰朔、山背(やましろ)・備前(びぜん)が白い燕を献上した。二十四日己卯、彗星が華蓋(かがい、星座の名)に現れた。閏月三日戊子、月が填星(てんせい、土星)を犯した(注:本書ではこの記事を壬寅の日の後に置くが、今は干支から推算して順序を改めた)。十七日壬寅、宮中に六百人の僧を集めて大般若経を読ませ、天変を祓い除いた。二十二日丁未、詔して征夷将軍藤原宇合以下一千六百九十六人に勲位を叙し、それぞれ差をつけた。三月、甕原離宮(みかのはらのりきゅう)に行幸した(注:三月以下の記事は万葉集による)。夏五月二十二日甲辰、土師豊麻呂が新羅から帰国した。この月、芳野離宮に行幸した(注:この月以下の記事は万葉集による)。六月二十二日癸酉、太白(たいはく、金星)が昼間に見えた。秋七月十七日戊戌、七道の諸国に詔して仰せられた。「災いを除き祥(さいわ)いを祈るには、必ず神仏の加護に頼らねばならない。神を敬い仏を尊ぶには、清浄を第一とする。ところが聞くところによれば、諸国の神祇の社の中には、汚れや悪臭が多く、家畜まで放し飼いにしているという。神を敬う礼が、このようであってよいはずがない。国司の長官は、自ら幣帛(へいはく)を捧げ持ち、慎んで清掃を行い、常にこれを年中の務めとせよ。また諸寺院も努めて清掃し、僧尼に金光明経、あるいは最勝王経を読ませて、国家の平安を祈らせよ。」九月二十二日壬寅、詔して仰せられた。「朕が聞くところでは、いにしえの聖王は天下に君臨し、天の摂理に従って万物を育て養い、四季の巡りにかなって物事を成し遂げたという。陰陽が調和すれば風雨も時にかない、災害が除かれて吉兆が至る。それゆえによく万物が生い茂り栄え、盛んに称えられる第一の治世となったのである。朕は徳薄くしてこの偉大な帝業を継ぎ、戦々兢々として、夕べにも危うきがごとく慎んできた。一つの物もその処を失うことを恐れ、民の暮らしの安らかならんことを常に思ってきた。しかるに教えや政令が明らかでなく、真心が天に通じないためか、天は異変を示し、大地はしきりに震動する。仰いで思うに、これらの災いのとがめは、深く朕一人の責めに帰するものである。昔、殷(いん)の高宗(こうそう)は徳を修めて雉が鳴くという妖異を消し去り、宋の景公(けいこう)は仁を行って熒惑(火星)の異変を鎮めた。遠く前代の先例に鑑みれば、どうして敬い畏れることを忘れてよいだろうか。担当の役所に命じ、三千人を得度させて出家入道させよ。左右京および大倭(やまと)の諸寺では、七日間にわたって経を転読せよ。この冥福に頼って、災異が除かれることを願う。」冬十月十日庚申、難波宮(なにわのみや)に行幸した。己卯晦、太白と歳星(さいせい、木星)が昼間に見えた。十一月十日己丑、冬至であった。大安殿(だいあんでん)において朝賀を受け、親王および文武百官と宴を催した。十二月庚戌朔、日食があった。二十一日庚午、詔して仰せられた。「死者は生き返らせることができず、刑を受けた者はもとの身に戻すことができない。これは先例が重んじるところであり、どうして刑を慎む制度がないでよかろうか。今、都および天下諸国において、現に囚われている囚人については、死罪は流罪に減じ、流罪は徒罪に減じ、徒罪以下はすべて刑部(ぎょうぶ)の上奏に従うものとする。」

三年丙寅(へいいん)、春正月二日辛巳、京職(きょうしき)が白い鼠を、大倭が白い亀を献上した。夏六月五日辛亥、新羅(しらぎ)が使者を遣わして調(みつぎ)を貢いだ。十四日庚申、詔して仰せられた。「百姓の中には、あるいは長患いを病んで年を経ても治らない者、あるいは重病にかかって昼夜苦しんでいる者がいる。朕は民の父母たる身でありながら、どうして憐れまずにいられようか。京畿諸国に医薬を給し、病の軽重に応じて穀物を賜り、これを救恤せよ。担当の役所は心を配り、努めて朕の意にかなうようにせよ。」十五日辛酉、太上天皇(だいじょうてんのう、元正上皇)がご病気になったので、天下に放生を命じた。二十一日丁卯、太上天皇のために僧尼三十人を得度させた。秋七月十八日癸巳、太上天皇のご病気により、詔して天下に大赦し、疫病にかかった者に湯薬を給した。十九日甲午、僧尼二十二人を得度させた。二十日乙未、使者を遣わして石成(いわなり)・葛木(かつらぎ)・住吉(すみよし)・賀茂(かも)などの神社に幣帛を奉らせた。八月八日癸丑(注:本書は庚寅とするが、今、甲子から推算すると、この月は丙午朔で庚寅の日はない。日本紀略によってこれを訂正した)、仏像を造り経を写させ、薬師寺(やくしじ)で斎(とき)を設けて、太上天皇の病の平癒を祈った。九月十二日丁亥、天皇が朝廷に臨んで詔して仰せられた。「今年の秋は大いに実り、民の暮らしも豊かになった。天下とともにこの喜びを分かち合いたいと思う。今年の田租を免除する。」十五日庚寅、内裏で玉が生じた。朝野の文人に詩賦を献上させた。二十七日壬寅、文人百十二人に絁(あしぎぬ)・綿・布を賜り、それぞれ差をつけた。冬十月七日辛亥、播磨(はりま)の印南野(いなみの)に行幸した。十日甲寅、印南野の邑美頓宮(おうみのかりみや)に至った(注:本書は辛亥を辛酉とし、甲寅の条を欠く。今は日本紀略によってこれを訂正・補った。万葉集に載る笠金村(かさのかなむら)の歌には、九月十五日に印南野に行幸したとあるが、月日はいずれも誤りである)。十九日辛亥、還って難波宮に至った。癸酉晦、車駕は難波から帰った。十二月十二日乙卯、太白が填星を犯した。この年、尾張(おわり)は飢饉、遠江(とおとうみ)は水害にあった。三年間、穀物を貸し与えて救済した。

四年丁卯(ていぼう)、春正月甲戌朔、雨のため朝賀を取りやめた。三日丙子、大極殿において朝賀を受けた。左京職が白い雀を、河内(かわち)が嘉禾(かか、めでたい稲穂)を献上した。九日壬午、南苑(なんえん)で五位以上と宴を催し、帛(はく)を賜り、それぞれ差をつけた。二十二日乙未、月が心宿(しんしゅく)の大星を犯した。二月十三日丙辰、雷雨と大風があった(注:万葉集を按ずるに、この年の正月、諸王・臣下が春日野(かすがの)に遊んだ日に雷が鳴り、宮中に宿衛の者がいなかった。天皇は勅してこれを譴責し、授刀寮(じゅとうりょう)に禁足させたという。本書には正月の雷を記していないが、参考として付け加えておく)。十八日辛酉、中宮(ちゅうぐう)に僧尼九百人を集めて金剛般若経を読ませ、災異を祓い除いた。二十一日甲子、内安殿(うちのあんでん)に出御して文武百官を召し、詔して仰せられた。「近ごろ悪いしるしが相次いで現れ、災異がやまない。聞くところでは、当節の政治が道理にかない、民の心が愁い怨むところがあると、天地はとがめを告げ、鬼神は異変を現すという。朕の徳が明らかでなく、政に怠りや欠けるところがあるためであろうか。それとも百官の官人たちが、公務に勤めていないためであろうか。身は九重(きゅうちょう、宮中の奥)にあって、多くのことを詳しく知ることができない。諸司の長官に命じ、主典(さかん)以上の者を精しく選び、公務に心を尽くし清廉に勤めていると評判の者、あるいは心に姦計をいだき職務を果たさない者を、それぞれ名を挙げて奏聞せよ。善き者は考量して昇進させ、悪しき者はその実情に従って貶黜(へんちゅつ)せよ。隠し包み隠すことなく、朕の意にかなうようにせよ。」この日、使者を七道に遣わして国司の政績を巡察させた。二十三日丙寅、詔して仰せられた。「今は春の耕作の時にあたり、人々は田畑に赴いている。恵みの雨がほどよく行き渡り、春の農事はすでに始まった。九つの農事がまさに盛んになり、五穀が豊かに実ることを願い、この良き時節に従って、恩恵を民に及ぼしたい。都の六位以下から庶人に至るまで、戸ごとに塩と穀物を賜るべきである。」三月三日乙亥、諸司の長官が官人の勤惰・善悪を具(つぶさ)に記して奏上した。十三日乙酉、正殿に出御し、詔して職務にかなった官人に物を賜った。上等の者には絁を、中等の者は賜与の対象とせず、下等の者は貶黜した。二十二日甲午、南苑に出御し、衛府(えふ)の人々に対し、昼夜宮門を宿衛し、みだりにその部署を離れてはならないと勅した。そこで五衛府・授刀寮の医師以下衛士(えじ)に至るまで布を賜り、それぞれ差をつけた。二十五日丁酉、熒惑(火星)が東井(とうせい)の西の亭門に入った。夏五月壬申朔、日食があった。四日乙亥、甕原離宮に行幸した。六日丁丑、宮に還った。二十日辛卯、つむじ風が南苑の樹木を折り、その樹が雉に化した。秋九月三日壬申、井上内親王(いのえないしんのう)を遣わして太神宮(だいじんぐう、伊勢神宮)に仕えさせた。閏月二十九日丁卯、皇子がお生まれになった。冬十月五日癸酉、皇子の誕生により天下に恩赦し、百官に物を賜った。十一月二日己亥、太政官および八省がそれぞれ上表して皇子の誕生を賀し、あわせて玩好の品を献上した。この日、文武百官に宴を賜った。詔して仰せられた。「朕は神祇の助けにより、宗廟(そうびょう)の霊験をこうむって、久しく神器を保ち、このたび新たに皇子が誕生した。皇太子に立てるべきであり、百官に布告して、ことごとく知らしめよ。」八日乙巳、南島(なんとう)の人が来朝した。十二月二十日丁亥、七道の巡察使が復命した。その実情に従って国司らを黜陟(ちゅっちょく、降格・昇進)し、それぞれ差をつけた。この年、安房(あわ)は大風で作物が損なわれ、上総(かずさ)は山崩れで人が死んだ。これを救恤した。

五年戊辰(ぼしん)、春正月戊戌朔、雨のため朝賀を取りやめた。三日庚子、大極殿において朝賀を受けた。十七日甲寅、渤海郡王(ぼっかいぐんおう)大武芸(だいぶげい)が使者を遣わして方物(ほうぶつ、産物)を献上し、渤海(ぼっかい)との通交が初めて始まった。二月十六日壬午、従六位下引田虫麻呂(ひけたのむしまろ)を送渤海客使とした。夏四月丁卯朔、日食があった。二十五日辛卯、勅して仰せられた。「聞くところでは、諸国の郡司の部下に騎射・相撲や膂力(りょりょく、腕力)のある者がいると、すぐに王公卿相(おうこうけいしょう)の家に差し出しているという。詔して捜索させたところ、進上できる人がいなかった。今後はこのようなことをしてはならない。もし違反する者があれば、厳しく処罰せよ。国・郡ではあらかじめ選び調べておき、勅命が到れば、直ちに貢進せよ。」(注:公事根源には、神亀三年に諸国の相撲人を初めて召したとあるが、おそらく五年を誤って三年としたものであろう)。五月十六日辛亥、左右京で水害により七百余戸が損なわれたので、布・穀物・塩を賜った。二十日乙卯、太白が昼間に見えた。秋八月甲子朔(注:本書は甲午とし朔の字を欠くが、按ずるに、この月は甲子朔で甲午の日はない。今は前後の干支から推算してこれを訂正した)、詔して天下に鷹を飼うことを禁じた。内匠寮(たくみりょう)・中衛府(ちゅうえふ)を初めて置いた。四日丁卯、太白が天を経(よぎ)った(注:本書ではこの記事を丙戌の日の後に置くが、今は干支から推算して順序を改めた)。二十一日甲申、皇太子の病により、仏像を造り経を写させ、天下に大赦した。二十三日丙戌、使者を遣わして諸陵に幣帛を奉らせた。九月十三日丙午、皇太子が薨(こう)じた。壬戌晦、流星が宮中に落ちた。冬十一月癸巳、雷があった。十三日乙巳、冬至であった。南苑に出御し、五位以上と宴を催し、絁を賜り、それぞれ差をつけた。十二月二十八日己丑、金光明経六十四帙(ちつ)を諸国に頒(わか)ち与え、国ごとに転読させて、国家の平安を祈らせた。この年、進士(しんし)の試を初めて行った(注:この年以下は年中行事による。按ずるに、本書には進士の試を行ったという記載はなく、ただ三月三日の条に、天皇が池のほとりにお出ましになり、五位以上と宴を催し、文人を召して曲水(きょくすい)の詩を賦させたとある。年中行事の記述はおそらくこの一文によったものであろうが、詳細は未詳である)。

天平元年己巳(きし)、春正月十六日丁未、勅して、「孟春(もうしゅん、初春)の月は、万物が和み喜ぶ時である。京畿の官人以下に酒食の代金を給い、一日にわたって酺(ふ、酒宴)を許す」と仰せられた。二十一日壬子、五位以上で高齢のため朝賀に堪えない者に、使者を家に遣わして慰問し、物を賜るよう詔した。二月十二日癸酉、左大臣長屋王に死を賜った。二十一日壬午、長屋王の事件に連座した左右京の大辟(たいへき、死罪)以下の罪を特別に赦した。夏四月三日癸亥、勅して、「文武百官、天下の百姓のうち、異端の学を修め、妖術を行い、厭魅(えんみ)・呪詛(じゅそ)を行って民の害となる者は、首謀者を斬罪、従犯を流罪とする。もし山林に潜み隠れ、仏法を偽り説き、書符を封印し、薬を調合して毒を造り、あらゆる方法で怪しいことを行い、勅の禁令に違犯する者があれば、同じ罪に処す」と仰せられた。六月庚申朔、朝堂(ちょうどう)および畿内七道で仁王経(にんのうきょう)を講じさせた(注:公事根源には、この年四月八日に季御読経(きのみどきょう)を初めて行ったとあるが、本書には記載がなく、この説は元明紀の和銅元年の条にある)。二十日己卯、左右京職が亀を献上した。その背には文があり、「天王貴平知百年(てんおうきへいちひゃくねん)」とあった。二十一日庚辰、薩摩(さつま)の隼人(はやと)が調を貢いだ。二十六日乙酉、熒惑(火星)が太微(たいび)に入った。秋七月二十日己酉、大隅(おおすみ)の隼人が調を貢いだ。二十四日癸丑、月が東井(とうせい)に入った。八月五日癸亥、詔を宣べて、「瑞亀を得たことにより、年号を改めて天平(てんぴょう)とする(注:公卿補任には天平聖暦とある)。天下に大赦し、左右京の今年の田租を免除する。瑞を得た者、賀茂子虫(かものこむし)には位を授け物を賜る。唐僧道栄(どうえい)は子虫に教えて瑞を献じさせたので、従五位下に准じ、緋色の袈裟とあわせて物を賜る」と仰せられた。十日戊辰、夫人藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)を皇后に立てた。冬十月戊午朔、日食があった。十一月七日癸巳、京畿に班田司(はんでんし)を置いた。

二年庚午(こうご)、春正月丙戌朔、雨のため朝賀を取りやめた。二日丁亥、大極殿において朝賀を受けた。三月十六日庚子、熒惑(火星)が昼間に見えた。二十七日辛亥、太政官が奏上して言った。「大学の生徒は、すでに年月を経ているのに、学業の習熟は浅く、なお広く達することが難しい状態です。これは実に家計が困窮し、資金を給することができないためであり、学問を好む志があっても、それを遂げることができないのです。願わくは、生まれつき聡明で才知に優れ、学芸に秀でた者を五人から十人ほど選び、もっぱら学問に専念させ、よく導くようにしたく存じます。そこで夏冬の衣服とあわせて食料を給していただきたく存じます。また陰陽・医術、および七曜(しちよう)の暦を頒(わか)つことなどは、国家の要となる道であり、廃絶させてはなりません。ところが諸博士は年齢がすでに老いており、教授を続けなければ、その業が絶えてしまうことを恐れます。吉田宜(よしだのよろし)・大津首(おおつのおびと)らに命じ、それぞれ弟子に教えてその業を習わせ、大学生に準じて衣食を給していただきたく存じます。また諸蕃(しょばん)の異域は風俗が異なり、通訳がなければ意思を通じることが困難です。粟田馬養(あわたのうまかい)・播磨乙安(はりまのおとやす)らに命じ、それぞれ弟子に漢語を習わせていただきたく存じます。」いずれもこれを許した。夏四月十六日庚午、「天下の婦女の衣服を改め、新しい様式を用いるように」と詔した。十七日辛未、皇后宮職(こうごうぐうしき)・施薬院(せやくいん)を初めて置いた。六月二十七日庚辰、旱魃(かんばつ)のため四畿内の水田・陸田を検校(けんこう、調査)した。神祇官(じんぎかん)の曹司(そうし、役所)が火災にあった。二十九日壬午、雷が神祇官の建物に落ち、火災となった。閏月十七日庚子、新田部親王を遣わし、神祇官を率いて雷震について占わせた。使者を遣わして畿内・七道の諸社に幣帛を奉らせた。二十七日庚戌、勅して、「近ごろ日照りの兆しがやや現れており、その年の穀物を損なうことが恐れられる。四畿内に使者を遣わし、百姓の生業(なりわい)を調べさせよ」と仰せられた。秋八月七日己丑、太白が太微に入った。辛亥晦、引田虫麻呂が渤海から帰国した。九月壬子朔、日食があった。二日癸丑、天皇が中宮に出御し、引田虫麻呂らが渤海の方物を献上した。二十五日丙子、使者を六陵(ろくりょう)に遣わして渤海の方物を奉らせた。二十八日己卯、諸国の防人(さきもり)を停止した。二十九日庚辰、詔して仰せられた。「都および諸国には盗賊が多く、あるいは人家を襲い掠め、あるいは海船を奪っており、百姓を蝕(むしば)み害することは、これより甚だしいものはない。しかるべき官司に命じ、厳しくこれを捕らえさせよ。また安芸(あき)・周防(すおう)の国の人々の中には、みだりに禍福を説き、多くの信徒を集め、怪しげな祠(ほこら)を祀り死者の霊を祭って、祈願を行う者がいる。また京の左の山原(やまはら)には、信徒を集める者がいて、怪しげな言葉で人々を惑わし、多いときには万人、少なくとも数千人を下らない。これは憲法(けんぽう、国の定め)に深く違反するものであり、害となることはとりわけ甚だしい。今後はこのようなことをさせてはならない。また囲いを造って禽獣を捕らえることは先朝が禁じたところであり、勝手に兵馬を動かすことは当今許されていない。しかるに諸国では囲いを造って兵を動かし、猪や鹿を殺しているというが、これは単に生き物を害するだけでなく、実に定めに違反するものである。諸道に頒布し、いずれも禁断させよ。」冬十月庚戌晦、使者を遣わして渤海の方物を諸国の名神社に頒ち与えた。十一月七日丁巳、雷雨と大風があった。

三年辛未(しんび)、春正月庚戌朔、美作(みまさか)が連理(れんり)の木を献上した。二十六日乙亥、神祇官の奏上により、「庭火(にわび)・御竈(みかまど)を四季に祭る」ことを永制と定めた。二月庚辰朔、日食があった。三月七日乙卯、諏方国(すわのくに)を廃して信濃国(しなののくに)に併合した。夏六月、紀伊(きい)の阿氐郡(あてぐん)で、海水が血のようになった。秋八月五日辛巳、勅して、「諸司の正典(しょうてん)以上の者は、それぞれ職務を任せられる知己の者を推挙せよ」と仰せられた。七日辛未、主典(さかん)以上三百九十六人が朝廷に参上して上表し、それぞれ名を具(つぶさ)にして奏聞した。十一日丁亥、諸司の推挙に依り、権式部卿藤原宇合・民部卿多治比県守(たじひのあがたもり)ら六人を擢んでて参議とするよう詔した。二十五日、詔して仰せられた。「天地の賜物の中で、豊年こそが最もめでたいものである。今年は実りが豊かで、朕は大いにこれを喜んでいる。天下とともにこの慶びを分かち合いたいと思う。京畿諸国の今年の田租の半分を免除する。ただし淡路(あわじ)・阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・隠岐(おき)などの国の租、および天平元年以前の未納分については、すべてこれを免除する。」冬十月庚戌、冬至であった(注:今、暦法から推算すると、十五日の庚申が冬至にあたり、庚戌はその五日前である。「戌」は「申」の誤りであろうが、たやすく改めがたいので、ひとまず本書のままとする)。南苑に出御した。五位以上と宴を催し、銭を賜り、それぞれ差をつけた。二十二日丁卯、畿内総管(そうかん)・諸道鎮撫使(ちんぶし)を初めて置き、一品新田部親王を大総管、従三位藤原宇合を副総管、従三位多治比県守を山陽道鎮撫使、従三位藤原麻呂(ふじわらのまろ)を山陰道鎮撫使、正四位下大伴道足(おおとものみちたり)を南海道鎮撫使とした。十二月二日丙子、甲斐(かい)が神馬(しんめ)を献上した。二十一日乙未、詔して仰せられた。「朕は四海に君臨し、万民をいつくしみ養ってきた。日が傾くまで食事を忘れ、夜は寝床で心を安んじられずにいる。このたび治部卿門部王(かどべのおおきみ)らの奏上を得た。それによれば、『甲斐国から進上された神馬は、黒い身に鬣(たてがみ)と尾を持つものです。謹んで符瑞図(ふずいず)を調べますと、「神馬とは河の精である」とあります。援神契(えんしんけい)には、「徳が山陵に及べば神馬が現れる」とあります。これはまことに大瑞に合致するものです』という。これはすなわち宗廟が賜り、社稷(しゃしょく)が授けたものである。朕は不徳の身でありながら、どうして独りでこれを受けられようか。天下とともに喜ぶことこそ、恒(つね)の典に適う道理である。天下に大赦し、孝子・順孫、高齢の者、鰥寡(かんか、やもめ)・惸独(けいどく、身寄りのない者)で自活できない者に施しを与えよ。馬を得た者には位を進め、甲斐国の今年の庸(よう)、および馬を出した郡の庸調(ようちょう)を免除する。」

四年壬申(じんしん)、春正月乙巳朔、天皇は初めて冕服(べんぷく、礼服)を着けて朝賀を受けた。左京職が白い雀を献上した。二十日甲子、従五位下角家主(つののいえぬし)を遣新羅使とした。二月甲戌朔、日食があった。夏五月十九日庚申、新羅が使者を遣わして朝貢した。二十三日甲子、使者を五畿内(ごきない)に遣わして雨を祈らせた。秋七月五日丙午、両京・四畿内および二監(にかん)に命じ、仏法によって雨乞いをさせた。日照りのため詔して天下に恩赦し、都および諸国に、天神地祇(てんじんちぎ)・名山大川に幣帛を奉らせた。また冤罪(えんざい)の獄を審らかに調べ、骼(かばね)・胔(しかばね)を覆い埋め、酒を禁じ屠殺を断ち、高齢の者および鰥寡惸独で自活できない者に施しを与えた。十五日丙辰、地震があった。八月四日甲戌、大風雨があった。十一日辛巳、角家主が新羅から帰国した。十七日丁亥、従四位上多治比広成(たじひのひろなり)を遣唐大使、従五位下中臣名代(なかとみのなしろ)を副使とし、正三位藤原房前(ふじわらのふささき)を東海・東山二道節度使(せつどし)、従三位多治比県守を山陰道節度使、藤原宇合を西海道節度使とした。二十七日丁酉、大風雨があり、民家、および仏寺の堂塔を破壊した。九月辛丑朔、和泉監(いずみげん)の百姓に施しを与えた。冬十月三日癸酉、造客館司(ぞうきゃっかんし)を初めて置いた。十一月二十七日丙寅、冬至であった。南苑に出御し、群臣と宴を催し、親王以下に絁を、高齢の者に綿を賜った。京畿二監の徒罪(ずざい)以下を特別に赦した。十二月十七日丙戌、河内の狭山下池(さやまのしものいけ)を掘削した。二十二日辛卯、地震があった。この年、日照りにより、穀物の実りが悪かった。

五年癸酉(きゆう)、春正月庚子朔、越前(えちぜん)が白鳥を献上した。七日丙午、雷と風があった。九日戊申、熒惑(火星)が軒轅(けんえん)に入った。閏三月二日己巳、去年の日照りにより五穀の実りが悪かったため、和泉監・紀伊・淡路・阿波などの国に勅して、今年の大税(たいぜい)を貸し与えさせた。二十一日戊子、貧窮した諸王二百十三人を殿前に召し、それぞれ米と塩を賜り、その怠惰を責めて生業に励むよう詔した。この春、大倭・河内・遠江・淡路・讃岐の飢饉に施しを与えた。夏五月二十六日辛卯、皇后のご病気により、天下に大赦するよう勅した。六月九日甲辰、太白が東井に入った。秋七月乙丑朔、日食があった。六日庚午、大膳(だいぜん)に命じて盂蘭盆(うらぼん)の供物を初めて備えさせ、これを恒例の典としてとどめた(注:日本紀を按ずるに、斉明帝(さいめいてい)三年七月に飛鳥寺(あすかでら)で盂蘭盆会を行ったとあるが、その後は見当たらない。公事根源・濫觴抄(らんしょうしょう)ではこの年をその始まりとしており、今はこれに拠った)。八月十七日辛亥、天皇が朝廷に臨み、初めて庶政(しょせい)をお聞きになった。九月二十三日丁亥、遠江の女子が一度に三人の男子を産んだので、穀物と乳母を賜った。この年、左右京および諸国が飢饉と疫病にみまわれ、施しと貸与を行った。

六年甲戌(こうじゅつ)、春正月癸亥朔、但馬(たじま)・安芸・長門(ながと)が連理の木を献上した。十七日己卯、大納言藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)を右大臣とした。二月癸巳朔、朱雀門(すざくもん)に出御して歌垣(うたがき)を観覧し、都の士女に自由に見物させ、歌垣に奉仕した男女に禄を賜り、それぞれ差をつけた。三月十日辛未、難波宮に行幸した。十七日戊寅、竹原井頓宮(たかはらいのかりみや)に至った。十九日庚辰、車駕は宮に還った。夏四月七日戊戌、大地震があった。山が崩れ川がふさがり、多くの民が圧死した。十二日癸卯、使者を畿内七道に遣わして神社の破損を検分させた。十七日戊申、詔して仰せられた。「地震が尋常でなく、山陵を驚かし動かすことを恐れる。諸王・真人(まひと)を遣わし、土師宿禰(はじのすくね)一人を率いさせて、八陵(はちりょう)、および功のあった諸王の墓を検分させよ。」また詔して、「地震の災いは、おそらく政事(まつりごと)に関わりがあるためであろう。すべての諸寮(しょりょう)は職務を勤めることに努めよ。今後、もし改め励まなければ、その様子に従って、必ず貶黜を加える」と仰せられた。二十一日壬子、使者を京畿に遣わして民の苦しみを尋ねさせた。秋七月七日丙寅、相撲の戯れを観覧した。この夕べ、南苑に出御した。文人に命じて七夕の詩を賦させ、物を賜り、それぞれ差をつけた(注:七夕の宴はここに至って初めて見える。後世の乞巧奠(きっこうでん)はすなわちこれであり、それゆえこれ以後は記さない。公事根源では天平勝宝七年に乞巧奠を初めて修したとするが、本書には記載がないので、これを採らない)。十二日辛未、詔して仰せられた。「朕は万民をいつくしみ育て、いくらか歳月を経たが、風俗の教化はなお行き渡らず、牢獄はいまだ空にならない。夜を徹して眠りを忘れ、憂え労するのはこのためである。近ごろ天にしきりに異変が現れ、大地はたびたび震動する。これはまことに朕の教え導きが明らかでないために、民が多く罪に陥ったためであり、責めは朕一人にあり、万民に関わるものではない。寛大な赦しを心にとどめて長寿の境地に至らしめ、過ちや汚れを洗い流して自ら新たになることを許すべきである。天下に大赦してよい。」九月二十四日壬午、大地震があった。冬十月四日辛卯、都の死罪を特別に赦した。十二月戊子朔、日食があった。

七年乙亥(いつがい)、春二月十七日癸卯、新羅が使者を遣わして来朝した。二十七日癸丑、中納言多治比県守を遣わして新羅の使者を応接させた。新羅が勝手に国号を改めたことをもって、その使者を責め退けさせた。三月十日丙寅、遣唐大使多治比広成が唐から帰国した。夏五月四日己未、多くの星が入り乱れ、運行が常ならぬ様子を見せた。二十日乙亥、畿内・七道の外散位(げさんい)および勲位の定額を制定し、国ごとに差をつけた。二十三日戊寅、勅して、「朕は徳薄い身でありながら万民に臨み治めており、もとより政事の要領に暗く、いまだ安らかに治めることができていない。このごろ災異がしきりに起こり、悪いしるしが相次いで現れる。戦々兢々として、責めは朕にある。刑を緩め窮乏する者を憐れみ、寛大な施しを行うべきである。天下に大赦してよい」と仰せられた。二十四日己卯、大般若経を宮中および大安寺(だいあんじ)・薬師寺・元興寺(がんごうじ)・興福寺(こうふくじ)の四寺で転読させ、災いを消し国家の安泰を祈らせた。六月五日己丑、寺院を併合する令を廃した。秋七月二十六日己卯、大隅・薩摩の隼人が朝貢した。八月二日乙酉、太白と辰星(しんせい、水星)が互いに犯し合った。十二日乙未、太宰府(だざいふ)で疫病による死者が多かったため、管内の神祇に幣帛を奉り、府の大寺および諸寺に金剛般若経を読ませるよう勅した。あわせて使者を遣わして疫病にかかった民に施しを与え、湯薬を加えさせた。また長門以内の諸国に禳祭(じょうさい、災いを払う祭り)を行わせた。二十三日丙午、太宰府が「管内諸国で疫病の瘡(かさ)が大いに流行しています。今年の貢調(こうちょう)を停止していただきたく存じます」と言上した。これを許した。九月壬午晦、一品新田部親王が薨じた。冬十一月十四日乙丑、知太政官事一品舎人親王が薨じた。閏月壬午朔、日食があった。十七日戊戌、災異がしばしば現れ、疫病がやまないため、「天下に大赦する」と詔した。十九日庚子、改めて鋳銭司(じゅせんし)を置いた。二十一日壬寅、天皇が朝廷に臨み、諸国の朝集使(ちょうしゅうし)に勅して仰せられた。「朕は卿らを選んで国司に任じたが、法令の条章を遵奉する者はわずか一、二人にすぎない。あるいは虚飾によって名誉を求め、あるいは公に背いて私利を営む者がいる。そのため国内は疲弊し、百姓は困窮している。今後、勤勉に法を奉じる者は褒賞し、怠慢で実のない者は貶黜する。この意をよく知り、それぞれ努力せよ。」この年、穀物の実りが悪く、夏から冬にかけて天下は豌豆瘡(えんどうそう、疱瘡)を患い、若くして死ぬ者が多かった。

八年丙子(へいし)、春二月二十八日戊寅、従五位下阿倍継麻呂(あべのつぐまろ)を遣新羅大使とした。三月辛巳朔、甕原離宮に行幸した。五日乙酉、宮に還った。夏五月庚辰朔、日食があった。六月二十七日乙亥、芳野離宮に行幸した。秋七月十三日庚寅、宮に還った。十四日辛卯、太上天皇のご病気により、「僧百人を得度させよ。都下の四大寺で七日間、行道(ぎょうどう)せよ。天下の百姓・僧尼で病のある者に薬糧を、高齢の者に穀物を給せよ。鰥寡惸独に施しを与えよ」と詔した。この月、遣唐副使中臣名代が唐から帰国した。冬十月二十二日戊辰、詔して仰せられた。「聞くところでは、近年、太宰府の管轄する諸国では公事(くじ)がやや繁多で、労役が少なくないという。加えて去年の冬の疫瘡(えきそう)により、男女は困憊(こんぱい)し、農事が廃れて五穀の実りも豊かでない。今年の田租を免除する。」二十七日癸酉、太白が月に入った。十月十九日甲午、秋の収穫が実らなかったことにより、京畿および二監の田租を免除するよう詔した。

九年丁丑(ていちゅう)、春正月二十二日丙申、持節大使藤原麻呂(ふじわらのまろ)、副使佐伯豊人(さえきのとよひと)らを陸奥に遣わし、男勝村(おがちむら)を開いて出羽柵(でわのき)へ通じる道を開かせるよう詔した。二月十五日己未、遣新羅使が帰国し、「新羅は常の礼を失い、我が使命を受けようとしませんでした」と奏上した。そこで群臣を召して意見を述べさせた。三月三日丁丑、「国ごとに仏像三軀(く)を造り、大般若経一部を写させよ」と詔した。夏四月乙巳朔、使者を遣わして伊勢神宮・大神社(おおみわのやしろ)、筑紫(つくし)の住吉・八幡(はちまん)の二社、香椎宮(かしいのみや)に幣帛を奉らせ、新羅の無礼な有様を告げさせた。十九日癸亥、太宰府管内の諸国で疫瘡が流行し、百姓に多くの死者が出たため、「管内の諸社に幣帛を奉り、貧民に施しを与え、湯薬を給せよ」と詔した。五月甲戌朔、日食があった。宮中に僧六百人を召して大般若経を読ませた。十九日壬辰、詔して仰せられた。「四月以来、日照りと疫病がともに起こり、田の苗が枯れ萎びている。そこで山川に祈祷し、神祇を祭って奠(まつ)ってきたが、いまだ効験を得ていない。朕は不徳の身であり、実にこの災いを招いたのである。寛大な仁政を布(し)いて民の患いを救いたいと思う。国・郡に命じ、冤罪の獄を審らかに調べ、骼・胔を覆い埋め、酒を禁じ屠殺を断ち、高齢の者・篤癃(とくりゅう、重い病人)に施しを与えよ。あまねく文武の職事以上に物を賜る。天下に大赦する。」六月甲辰朔、百官が疫病にかかったため朝賀を取りやめた。秋七月二十三日乙未、右大臣藤原武智麻呂の病により、天下に大赦した。二十五日丁酉、武智麻呂を左大臣とした。この日、薨じた。八月二日癸卯、天下の僧尼に、「毎月最勝王経を読み、斎日(さいにち)には殺生を禁じる」よう命じた。十三日甲寅、詔して仰せられた。「春以来、災いの気が激しく起こっている。朝野の貴賤を問わず、死亡する者が実に多い。これはまことに朕の不徳がこの災殃(さいおう)を招いたものである。天を仰いで恥じ恐れ、あえて安らかにしていることができない。百姓を優遇し、生活を成り立たせるようにすべきである。天下の今年の租賦(そふ)、および公私の未納分を免除する。諸国の神祇のうち、よく風を興し雨をもたらしながら、いまだ幣帛にあずかっていない神社は、みな供幣(くへい)の例に加える。」十五日丙辰、宮中に僧七百人を召し、大般若経・最勝王経を転読させて、国家の安寧を祈らせた。九月二十八日己亥、従三位鈴鹿王(すずかおう)を知太政官事とし、京畿二監の僧二千三百七十六人に綿と塩を賜り、それぞれ差をつけた。この秋、大倭・伊賀(いが)・駿河(するが)・伊豆(いず)・若狭(わかさ)・長門が飢饉と疫病にみまわれたので、施しを与えた。冬十月二日壬寅、左右京の徭銭(ようせん)の徴収を停止した。七日丁未、額外散位(がくがいさんい)が続労銭(ぞくろうせん)を納めることを停止した。十九日己未、地震があった。二十六日丙寅、大極殿で金光明経・最勝王経を講じさせた。十一月三日癸酉、使者を天下に遣わして諸社を修造させた。二十二日壬辰、中宮で群臣と宴を催し、物を賜り、それぞれ差をつけた。十二月二十七日丙寅、大倭国を改めて大養徳国(おおやまとのくに)とした。この年、春から秋にかけて疫瘡が大いに発生した。筑紫に始まり、ついに天下に遍く広がり、人が多く死亡した。

十年戊寅(ぼいん)、春正月庚午朔、信濃(しなの)が神馬を献上した。十三日壬午、阿倍内親王(あべないしんのう)を皇太子に立て、天下に大赦した。大納言橘諸兄(たちばなのもろえ)を右大臣とした。十七日丙戌、松林(まつばやし)に行幸し、文武百官と宴を催して、禄を齎(もたら)し与え、それぞれ差をつけた。この月、太宰府が「新羅の使者が来た」と奏上した。三月二十八日丙申、山階寺(やましなでら)に封千戸、鵤寺(いかるがでら)に二百戸、隅院(すみのいん)に百戸を施した。夏四月十七日乙卯、畿内七道に最勝王経を三日間転読させ、国家の隆盛と安泰を祈らせるよう詔した。五月三日庚午、諸国の健児(こんでい)を停止した。二十四日辛卯、右大臣橘諸兄・神祇伯中臣名代らを伊勢に遣わし、神宝を大神宮に奉らせた。六月二十四日辛酉、使者を太宰府に遣わし、新羅の使者を放ち帰らせた。秋七月七日癸酉、大蔵省(おおくらしょう)に出御して相撲を観覧した。また西池宮(にしのいけのみや)に出御し、文人に命じて詩を賦させ、物を賜り、それぞれ差をつけた。八月二十六日辛卯、天下の諸国に命じて国・郡の図を献上させた。九月丙申朔、日食があった。六日辛丑、地震があった。冬十月三日丁卯、京畿二監の今年の田租を免除した。二十五日己丑、巡察使を七道に遣わし、政績と民の風俗を採訪させた。

十一年己卯(きぼう)、春正月甲午朔、出雲(いずも)が赤烏(せきう)を、越中(えっちゅう)が白鳥を献上した。二月二十六日戊子、皇后のご病気により、天下に大赦した。常赦(じょうしゃ、通常の恩赦)では赦されない罪も、ことごとく赦し除いた。三月二日甲午、甕原離宮に行幸した。五日丁酉、宮に還った。二十一日癸丑、対馬島(つしまのしま)が神馬を献上したことにより、孝子順孫、高齢の者、鰥寡惸独で自活できない者に施しを与えるよう詔した。二十三日乙卯、天皇は太上天皇に従って甕原離宮に行幸した。二十六日戊午、宮に還った。夏五月二十三日甲寅、詔して仰せられた。「諸国の郡司は無駄に員数が多く、任用しても益がなく、百姓を侵し貪ることが実に甚だしい。旧来の員数を減らし、その数を改め定めよ。」辛酉晦、「諸国の今年の出挙(すいこ)の正税(しょうぜい)の利息を免除する」と詔した。秋七月十四日甲辰、「天下の諸寺に、五穀成熟経(ごこくじょうじゅくきょう)を転読させ、七日七夜にわたって悔過(けか)を行わせよ。風雨が調和し、その年の穀物が実ることを祈らせよ」と詔した。九月庚寅朔、日食があった。冬十二月十日戊辰、渤海が使者を遣わして方物を献上した。

十二年庚辰(こうしん)、春正月戊子朔、飛驒(ひだ)が白狐(はくこ)・白雉を献上した。十三日庚子、外従五位下大伴犬養(おおとものいぬかい)を遣渤海大使とした。二月七日甲子、難波宮に行幸した。十九日丙子、車駕は宮に還った。三月十五日辛丑、外従五位下紀必登(きのひつと)を遣新羅大使とした。夏五月十日乙未、車駕は右大臣橘諸兄の相楽(さがらか)の別業(べつぎょう、別邸)に行幸した。十二日丁酉、宮に還った。六月十五日庚午、勅して仰せられた。「朕は八荒(はっこう、天下の隅々)に君臨し、あまねく万民を治めている。薄氷を踏むように朽ちた綱を馭(ぎょ)するがごとく慎み、いつくしみ育てる思いは深い。衣を求めては寝食を忘れ、民が溝に落ちるかのごとき苦しみを我が事として案じてきた。常に、いかにして天の意に応えるべきかを思う。人民が安らかで平穏な楽しみを得て、よく明命(めいめい)にかなえば、国家は安寧泰平の栄えをもたらすであろう。あまねく寛大な仁を施し、罪に問われた者もその身命を保って寿命を全うできるようにし、広く大いなる恩を布いて、窮乏する者たちも寒さと貧しさから脱して安らぎを得られるようにしたい。天下に大赦し、流罪となった穂積老(ほづみのおゆ)・多治比祖人(たじひのおやひと)らの入京を許すべきである。」十九日甲戌、天下の国ごとに法華経十部を写させ、七重塔を造らせた。秋八月二十日甲戌、和泉監を廃して河内国に併合した。九月三日丁亥、太宰少弐藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が反乱を起こした。従四位上大野東人(おおののあずまひと)を大将軍、従五位上紀飯麻呂(きのいいまろ)を副将軍として、これを討たせた。十日乙未、治部卿三原王(みはらのおおきみ)を伊勢に遣わし、幣帛を太神宮に奉らせた。十五日己亥、畿内七道に勅して、「近ごろ筑紫に不軌(ふき)の臣がいるため、軍に命じて討伐させている。聖なる加護を頼み、百姓を安んじたいと願う。国ごとに観世音像を造り、観世音経を写させよ」と仰せられた。冬十月五日戊午、大伴犬養が渤海から帰国した。九日壬戌、大野東人に、賊の平定を八幡神(はちまんしん)に祈るよう詔した。十五日戊辰、紀必登が新羅から帰国した。二十九日壬午、伊勢に行幸した。十一月二日乙酉、伊勢の関宮(せきのみや)に至り、十日間滞在した。三日丙戌、少納言大井王(おおいのおおきみ)を遣わし、幣帛を太神宮に奉らせた。四日丁亥、和遅野(わじの)で狩りをした。五日戊子、藤原広嗣が誅に伏した。十二日乙未、車駕は関宮を発った。十四日丁酉、進んで鈴鹿郡(すずかぐん)の赤坂頓宮(あかさかのかりみや)に至った。二十六日己酉、美濃(みの)の当伎郡(たぎぐん)に至った。十二月二日甲寅、宮処寺(みやこでら)および曳常泉(ひきつねのいずみ)に行幸した。四日丙辰、車駕は国々の城を巡り観た。六日戊午、近江(おうみ)の坂田郡(さかたぐん)の横川頓宮(よこかわのかりみや)に至った。都を遷そうとして、右大臣橘諸兄に命じ、山背(やましろ)の相楽郡(さがらかぐん)恭仁郷(くにのさと)を経略(けいりゃく、視察・整備)させた。十三日乙丑、志賀山寺(しがのやまでら)に行幸して仏を礼拝した。十四日丙寅、車駕は相楽郡の玉井頓宮(たまいのかりみや)に至った。十五日丁卯、恭仁宮(くにのみや)に行幸し、初めて京都を造営した。太上天皇・皇后も続いて至った。

十三年辛巳(しんし)、春正月癸未朔、初めて恭仁宮において朝賀を受けた。宮の垣はまだできておらず、帷帳(いちょう)で囲っていた。十一日癸巳、使者を遣わして大神宮および七道の諸社に幣帛を奉らせ、新京への遷都を告げさせた。二十二日甲辰、藤原広嗣の与党の処罰が行われ、それぞれ差をつけた。二月七日戊午、詔して仰せられた。「馬や牛は人に代わって労役に服し、民を養ってくれるものである。それゆえ以前から明確な制度があり、屠殺を許していない。ところが今聞くところでは、百姓の中になお屠殺する者がいるという。もし違反する者があれば、蔭贖(いんぞく、身分による減免)を問わず、まず杖百(じょうひゃく)の刑を決してから、その罪を科せ。また国司・郡司らが、公事によらず人を集めて田猟を行い、民の生業を妨げ、実に損害が多いと聞く。今後、厳しく禁断せよ。さらに違反する者があれば、必ず重く処罰する。」三月壬午朔、日食があった。二十日辛丑、摂津職(せっつしき)が、「近ごろ鸛(こうのとり)百余羽が宮殿に集まり、毎日辰の刻に来て未の刻まで去りません」と言上した。そこで使者を遣わして鎮謝(ちんしゃ、祭って謝すること)させた。二十四日乙巳、天下の国ごとに、「金光明・四天王護国の寺、および法華滅罪の寺を置け」と詔した。閏月二十四日甲戌、秘錦冠(ひきんかん)・仏経などを八幡神宮に奉り、日ごろの祈願に報いた。夏五月六日乙卯、河南(かなん)に行幸して狩猟を観覧した。秋七月十日戊午、太上天皇が新宮にお遷りになり、天皇は河上(かわかみ)でこれをお迎えした。十三日辛酉、新宮で群臣と宴を催し、女楽(じょがく)・高麗楽(こまがく)を奏させた。五位以上に禄を賜り、それぞれ差をつけた。八月二十八日丙午、平城(へいじょう)の二市(にし)を恭仁京(くにきょう)に移した。九月四日辛亥、遷都により、左右京の百姓の調租、四畿内の田租を免除した。八日乙卯、「天下に大赦し、大養徳・伊賀・伊勢・美濃・近江・山背など行宮(あんぐう)に供奉した諸郡の今年の調を免除する」と勅した。十二日己未、木工頭智努王(むくのかみちぬのおおきみ)・民部卿藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)らを遣わし、京都の百姓に宅地を頒ち与えさせた。賀世山(かせやま)の西の道より東を左京、西を右京とした。丁丑晦、宇治(うじ)および山科(やましな)に行幸した。冬十月二日己卯、宮に還った。十六日癸巳、賀世山の東の川橋が完成した。十一月二十一日戊辰、新京を名づけて大養徳恭仁大宮(おおやまとくにのおおみや)と称するよう勅した。十二月十日丙戌、安房(あわ)を上総(かずさ)に、能登(のと)を越中に併合した。この年、佐渡(さど)は長雨により作物が損なわれたので、田租・庸調を免除した。

十四年壬午(じんご)、春正月丁未朔、大極殿がまだできていなかったので、仮に四阿殿(あずまやでん)を造って朝賀を受けた。五日辛亥、太宰府を廃し、官物(かんもつ)を筑前国司(ちくぜんのこくし)に付した。二十三日己巳、陸奥から、「赤い雪が降った」との報告があった。二月三日戊寅、太宰府が「新羅の使者が来朝した」と言上した(注:上の文にすでに太宰府を廃したとあるのに、ここで太宰府というのは、おそらく筑前国司が事務を摂ったものであろう。ひとまず本書の旧文のままとする)。五日庚辰、宮室がまだできていなかったので、右大弁紀飯麻呂を太宰に遣わし、新羅の使者を饗応して帰らせた。三月二十四日己巳、地震があった。夏五月三日丙午、使者を畿内に遣わし、水害を被った百姓の生業を検校させた。十日癸丑、越智山陵(おちのみささぎ)が崩壊した。十三日丙辰、知太政官事鈴鹿王らを遣わしてこれを修営させた。十七日庚申、使者を遣わして山陵に物を奉らせた。六月五日戊寅の夜、都で飯が雨のように降った。秋七月癸卯朔、日食があった。八月二日甲戌、京畿七道の諸国司らに、孝子・順孫・義夫・節婦・力田(りきでん、農事に励む者)の人名を記録して上申させた。十一日癸未、造宮卿智努王らに勅して、近江(おうみ)の紫香楽(しがらき)に離宮を造らせた。十二日甲申、石原宮(いわらのみや)に行幸した。十三日乙酉、恭仁宮城の西南に大橋を造った。二十七日己亥、紫香楽宮に行幸した。九月壬寅朔、刺松原(さすのまつばら)に行幸した。四日乙巳、車駕は恭仁宮に還った。十二日辛丑、大風雨があった。十七日戊午、巡察使を七道に遣わした。冬十月十七日戊子、正四位上塩焼王(しおやきおう)を伊豆(いず)の三島(みしま)に流した(注:「正四位上」を本書は「従四位下」とするが、本書を検すると、これより先にすでに「正四位上」と記しているので、これを訂正した)。十一月五日丙午、左右京畿内の今年の田租を免除した。十一日壬子、大隅から、「空中に太鼓のような音があり、大地が激しく震動しました」との報告があった。二十五日丙寅、使者を遣わしてこれを検分させた。十二月十六日丁亥、地震があった。庚子晦、紫香楽宮に行幸した。この年、参議藤原豊成(ふじわらのとよなり)に中衛大将(ちゅうえのだいしょう)を兼ねさせた(注:この年以下は、本書の天平神護元年十一月の記事、公卿補任、歴代皇紀に拠れば、いずれも十二年正月の出来事とされているが、今はひとまず本書に従う。按ずるに、本書には神亀五年に中衛府の大将一人を初めて置いたとあるが、誰を大将としたかは記していない。万葉集・公卿補任によれば、これより先、藤原房前が中衛大将であったという。しかしその年月は明らかでないため記さない。詳しくは房前の伝を参照)。

十五年癸未(きび)、春正月二日壬寅、車駕は紫香楽から帰った。三日癸卯、大極殿において朝賀を受けた。十二日壬子、石原宮の楼(ろう)に出御し、百官および位を有する人々を饗応した。十三日癸丑、僧を金光明寺に集め、金光明・最勝王経を読ませた。十四日甲寅、太宰府が初めて腹赤魚(はらかのうお)を供した(注:十四日以下の記事は、公事根源・年中行事が引く官曹事類・筑後国風土記による。公事根源には、景行帝(けいこうてい)の時代、筑紫の宇土郡(うとぐん)の人が魚を得て帝に献上したとあり、これに至って正月に初めて腹赤を供するようになった、後世、元日の節会(せちえ)で腹赤の贄(にえ)を奏することが恒例となった、とある)。二月十一日辛巳、佐渡を越後(えちご)に併合した。二十五日乙未、月が熒惑(火星)を掩(おお)った。二十七日丁酉、月が太白を掩った。夏四月三日壬申、紫香楽に行幸した。十六日乙酉、宮に還った。この月、新羅の使者が筑前に至ったが、その無礼を責めて退けた。五月三日辛丑、三月から雨が降らず、この月に至った。宮中の諸社に幣帛を奉って雨を祈った。五日癸卯、右大臣橘諸兄を左大臣とした。二十八日丙寅、備前(びぜん)から、邑久郡(おくぐん)の海に大魚五十二尾が漂着し、その声が鹿の鳴き声のようであったとの報告があった。六月二十四日辛卯、酉(とり)の刻から戌(いぬ)の刻にかけて宇治川が涸れ、通行人が着物の裾を掲(かか)げて歩いて渡った。秋七月戊戌朔、日食があった。五日壬寅、出雲から、「楯縫(たてぬい)・出雲の二郡で大雷雨があり、山が崩れて廬舎(ろしゃ)を壊し、田畑を埋めました」との報告があった。庚寅、地震があった(注:今按ずるに、この月には庚の日がない。おそらく甲寅の誤りであろう。甲寅は十七日にあたる)。二十六日癸亥、紫香楽宮に行幸した。この月、上総(かずさ)で大風雨があった。八月丁卯朔、鴨川(かもがわ)に行幸し、名を改めて宮川(みやがわ)とした。冬十月十六日辛巳、金銅盧舎那仏(こんどうるしゃなぶつ)の大像を造るよう詔した。十一月二日丁酉、車駕は恭仁宮に還った。十二月二十六日辛卯、筑紫鎮西府(ちんぜいふ)を初めて置いた。従四位下石川加美(いしかわのかみ)を将軍、外従五位下大伴百世(おおとものももよ)を副将軍とした。これより先、平城の大極殿を取り壊して恭仁宮に遷したが、四年かけてようやく完成し、費やした費用は巨額であった。ここに至って、さらに紫香楽宮を造営し、恭仁宮の造営を停止した。

十六年甲申(こうしん)、春正月丙申朔、朝賀を取りやめた。閏月乙丑朔、「百官を朝堂(ちょうどう)に召し、恭仁・難波の二京のいずれが便利かを議論させよ」と詔した。四日戊辰、従三位巨勢奈氐麻呂(こせのなでまろ)らを遣わし、市(いち)に赴いて民の言葉を採訪させた。十日乙亥、難波宮に行幸した。十三日丁丑、安積親王(あさかしんのう)が薨じた。二月十日甲辰、和泉宮(いずみのみや)に行幸した。十三日丁未、車駕は難波宮に還った。二十一日乙卯、恭仁京の百姓で難波に移りたい者があれば、これを許した。二十二日丙辰、安曇江(あずみえ)に行幸した。二十四日戊午、紫香楽宮に行幸した。二十六日庚申、難波宮を都と定めるよう勅した。三月十四日丁丑、僧二百人を召し、紫香楽宮で大般若経を転読させた。十五日戊寅、僧三百人を召し、難波宮で大般若経を読ませた。夏四月十三日丙午、紫香楽宮の西北の山が焼け、城下の男女数千人がこれを撲滅した。そこで布を人ごとに一端(いったん)ずつ賜った。二十一日甲寅、造兵司(ぞうへいし)・鍛冶司(かじし)の二司を廃した。五月、肥後(ひご)で雷雨と地震があり、山が崩れ水があふれて、人が多く圧死・溺死した。これに施しを与えた。六月二十一日壬子、雨水があった。秋七月二日癸亥、太上天皇が智努離宮(ちぬのりきゅう)に行幸した。七日戊辰、太上天皇が仁岐河(にきがわ)に行幸した。八日己巳、車駕は難波宮に還った。九月十五日甲戌、巡察使を畿内七道に遣わした。二十七日丙戌、三十二条を巡察使に頒ち与え、あわせて勅して仰せられた。「近ごろ聞くところでは、国司・郡司の官人が法令を奉じず、勝手に利益を求めているという。公民は年ごとに疲弊し、私利をむさぼる者の家は日ごとに栄えている。朕の股肱(ここう、手足となる臣)たる者が、どうしてこのようであってよいだろうか。今後、頒布した条文に依り、四考(しこう、四年ごとの勤務評定)が終わるごとに、必ず訪察して奏上せよ。すぐさま善悪に従って、その人を黜陟せよ。こうしてついに涇渭(けいい、清濁)を分けて流れを異にせしめ、賢者と愚者がそれぞれの処を得るようにせよ。もし巡察使に諂(へつら)い曲がった心があり、昇進・降格の判断を誤る者があれば、法律に基づいて明らかに勧め諭せ。偏りなく党派を組まず、清らかな気風で風俗を正した者は、通常の班位から抜擢して栄えある官職に任じよ。担当の役所に告げ、朕の意を知らしめよ。」冬十月十一日庚子、太上天皇が珍努(ちぬ)および竹原井離宮に行幸した。十三日壬寅、太上天皇は難波宮に還った。十一月十三日壬申、甲賀寺(こうかでら)で盧舎那仏像を造り始めた。この日、初めて骨柱(こつちゅう、心柱)を建てた。天皇が親しく臨席し、自らその綱を引いた。十四日癸酉、太上天皇が甲賀宮(こうかのみや)に行幸した。十七日丙子、太上天皇が難波から至った(注:このとき、すでに難波に遷都していたのだから、「難波から至った」と記すのは理屈に合わない。おそらく脱字や誤りがあるのであろうが、詳細は未詳である)。十二月二日庚寅、彗星が将軍星(しょうぐんせい)に現れた。四日壬辰、天下の諸国に薬師悔過(やくしけか)を七日間修めさせた。八日丙申、百人を得度させ、金鐘寺(こんしゅじ)および朱雀路(すざくろ)で一万の灯明を灯した。

十七年乙酉(いつゆう)、春正月己未朔、朝賀を取りやめた。新京は宮の垣がまだできておらず、帷帳で囲っていた。五位以上と宴を催し、禄を賜り、それぞれ差をつけた。夏四月戊子朔、市(いち)の西の山が焼けた。三日庚寅、寺の東の山が焼けた。八日乙未、伊勢の真木山(まきやま)が焼けた。山背・伊賀・近江などの国に命じてこれを撲滅させた。十一日戊戌、宮城の東の山が焼け、三日間消えなかった。十五日壬寅、流罪となった塩焼王を召し還した。二十七日甲寅、巡察使の奏上により、諸国の去年の田租を免除し、天下に大赦するよう詔した。この日、地震があり、三日間やまなかった。美濃(みの)がとりわけ甚だしかった。五月二日己未、都の諸寺で最勝王経を七日間読ませた。この日、太政官が諸司を召して都をどこに定めるかを議した。六日癸亥、車駕は恭仁宮に還った。百姓は道の左に拝謁し、万歳を称えた。八日乙丑、大安・薬師・元興・興福の四寺に、大集経(だいじっきょう)を読ませ、諸社に幣帛を奉って雨を祈らせるよう勅した。九日丙寅、近江国の民一千人を徴発し、甲賀宮周辺の山火事を消させた。十日丁卯、平城宮で大般若経を読ませた。戊午朔からこの日に至るまで、毎日地震があった。十一日戊辰、幣帛を諸陵に奉らせた。車駕は平城(へいじょう)に行幸し、中宮院(ちゅうぐういん)に居した。諸司百官はそれぞれ本来の役所に帰った。十六日癸酉、地震があった。十八日乙亥、また震動した。天皇は自ら松林の倉廩(そうりん)に臨み、従官に穀物を賜り、それぞれ差をつけた。この月、地震が尋常でなく、あちこちで地が裂け水が湧き出た。六月四日庚寅、使者を遣わして幣帛を大神宮に奉らせた。五日辛卯、太宰府を再び置いた。秋七月五日庚申、雨を祈った。十七日壬申、地震があった。十八日癸酉、また震動した。八月十五日庚子、大安殿(だいあんでん)で無遮大会(むしゃだいえ)を設けた。二十四日己酉、地震があった。二十八日癸丑、難波宮に行幸した。甲寅晦、地震があった。九月二日丙辰、また震動した。四日戊午、知太政官事兼式部卿鈴鹿王が薨じた。十五日己巳、天下の屠殺を三年間禁じた。十七日辛未、勅して、「朕はこのごろ枕席が安まらず、体調不良がやや十日余りに及んでいる。思うに、治世の道に過ちがあり、民が多く罪に陥っているためであろう。天下に大赦し、常赦では赦されない罪もことごとく赦す。高齢の者で八十歳以上、および鰥寡惸独・篤癃で自活できない者に施しを与える」と仰せられた。十九日癸酉、天皇のご容体がすぐれなかった。平城・恭仁の留守に勅して宮中を固く守らせた。ことごとく孫王(そんおう)を難波宮に呼び寄せ、使者を遣わして平城宮の鈴印(れいいん)を収めさせた。また京畿の諸寺・名山に薬師悔過の法を行わせ、賀茂(かも)・松尾(まつのお)などの社に幣帛を奉って祈らせた。諸国の鷹と鵜を放ち、三千八百人を得度させた。二十日甲戌、使者を遣わして幣帛を八幡社に奉らせた。京畿諸国に大般若経百部を写させ、薬師像七軀を造らせ、薬師経七巻を写させた。二十三日丁丑、僧六百人を平城の中宮に集め、大般若経を読ませた。二十六日庚辰、車駕は平城に還った。冬十月二十八日辛亥、河内から、「白亀を得た」との報告があった。十一月二日乙卯、僧玄昉(げんぼう)を筑紫に配し、観世音寺(かんぜおんじ)の造営を検分させた。十二月十五日戊戌、恭仁宮の兵器を平城に移した。

十八年丙戌(へいじゅつ)、春正月癸丑朔、朝賀を取りやめた。十四日丙寅、地震があった。二十八日庚辰、右京の女子が一度に三人の女子を産んだので、稲を賜った。二十九日辛巳、地震があった。壬午晦、また震動した。三月七日己未、河内が白亀を献上したことにより、天下の六位以下に爵(しゃく)一級を、孝子順孫・義夫節婦、および力田の者に二級を授けた。十五日丁卯、勅して仰せられた。「三宝(さんぽう)を興し隆(さか)んにすることは、国家の福田(ふくでん)である。万民を撫で育むことは、先王の盛んな典であった。それゆえ宝(たから)の基を永久に固め、皇胤(こういん)が長く継承され、天下が安寧で、民が利益を得られるように、仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)を講じさせる。その教えを聞けば、慈しみを第一とする。天下に恩赦を行うべきである。」夏四月五日丙戌、左大臣橘諸兄に太宰帥(だざいのそち)を兼ねさせ、中納言藤原豊成に東海道鎮撫使を、参議式部卿藤原仲麻呂に東山道鎮撫使を、中納言巨勢奈氐麻呂に北陸・山陰両道鎮撫使を、参議大伴牛養(おおとものうしかい)に山陽道鎮撫使を、参議紀麻呂(きのまろ)に南海道鎮撫使を、それぞれ兼ねさせた。五月九日庚申、諸寺が民の田園を私的に買い取り、永く寺の所領とすることを禁じた。六月五日丙戌、地震があった。秋七月辛亥朔、使者を畿内に遣わして雨を祈らせた。九月三日壬子、県女王(あがたのおおきみ)を遣わして伊勢の斎宮(さいぐう)に仕えさせた。十三日壬戌、地震があった。戊寅晦、恭仁の大極殿を国分寺(こくぶんじ)に施した。閏月十三日辛卯、地震があった。冬十月六日甲寅、天皇・皇后は太上天皇に従って金鐘寺(こんしゅじ)に行幸し、盧遮那仏像(るしゃなぶつぞう)の造立を慶(よろこ)んだ。この月、日向(ひゅうが)から、「風雨により蚕(かいこ)が損なわれた」との報告があり、そこで調庸を免除した。十二月十日丁巳、七道の鎮撫使を廃止し、改めて京畿諸国の兵士を差し点じた。この年、渤海および鉄利(てつり)の人一千百余人が徳を慕って来朝した。出羽に安置し、衣糧を給して放ち帰らせた。

十九年丁亥(ていがい)、春正月丁丑朔、朝賀を取りやめた。南苑に出御し、侍臣と宴を催した。勅して、「朕は寝食の調子がすぐれず、それが年月にわたって続いている。我が身を省み他者を思いやれば、どうして憐れみいつくしむ心がないでいられようか。天下に大赦し、憂い苦しむ者を救済すべきである」と仰せられた。二月二十日丁卯、去年の日照りにより穀物の実りが悪かったことから、大臣以下、諸司の才長上(さいちょうじょう)以上に税・布・塩を賜り、それぞれ差をつけるよう詔した。二十二日戊辰、大養徳・河内・摂津・伊勢・志摩(しま)・近江・丹波(たんば)・出雲・播磨・美作・備前・備中(びっちゅう)・紀伊・淡路・讃岐の飢饉に施しを与えた。三月十六日辛卯、大養徳国を改めて、再び大倭国とした。夏四月十四日己未、紀伊の日照りと疫病に施しを与えた。五月十二日丁亥、地震があった。十五日庚寅、南苑で仁王経を講じさせ、天下の諸国にもこれを講じさせた。十八日癸巳、近江・讃岐の飢饉に施しを与えた。六月十五日己未、羅城門(らじょうもん)で雩(う、雨乞い)を行った。秋七月七日辛巳、詔して仰せられた。「去る六月以来、都は日照りが続いている。そこで名山に幣帛を奉り、諸社に雨を祈ってきたが、真心を尽くしても効験がなく、苗や作物は焦げ萎れている。これはおそらく朕の政治や教えが、いまだ民を治めるに至っていないためであろう。左右京の今年の田租を免除する。」冬十月癸卯朔、日食があった。十二月十四日乙卯、太上天皇のご病気により、天下に大赦した。

二十年戊子(ぼし)、春正月壬申朔、朝賀を取りやめた。三月八日戊寅、勅して仰せられた。「朕は徳薄くして四海に君臨し、朝早くから夜遅くまで、万民を憂え労してきた。それでもなお教化が行き渡らず、禁を犯す者が多い。これは教え導くことが明らかでないためであり、民の咎(とが)ではない。あらゆる罪は朕一人にある。ことごとく過ちや汚れを洗い流し、改めて自ら新たになることを許すべきである。天下に大赦してよい。」夏四月二十一日庚申、太上天皇が崩御した。二十二日辛酉、天下に三日間の哀悼を行うよう勅した。二十八日丁卯、元正天皇を葬り、天下に喪服を着けるよう勅した。六月五日癸卯、百官・諸国が喪服を脱いだ。秋七月十八日丙戌、法華経一千部を写し、元正帝の冥福を祈った。八月五日癸卯、釈奠(せきてん)の儀式・器物・服装を改め定めた。二十一日己未、車駕は散位葛井広成(ふじいのひろなり)の家に行幸した。冬十月二十八日乙丑、京畿七道の田租を免除するよう詔した。十二月十八日甲寅、使者を遣わして佐保山陵(さほのみささぎ)を鎮め祭らせ、僧尼それぞれ千人を得度させた。この年、河内・出雲・近江・播磨が飢饉にみまわれたので、施しを与えた。

天平感宝元年己丑(きちゅう)、春正月丙寅朔、朝賀を取りやめた。天下の諸寺に七日間の悔過を行わせ、金光明経を転読させ、天下の殺生を禁じた。四日己巳、近年の日照りにより五穀の実りが悪かったため、文武官および諸家司(しょかし)に米を給した。二月二十一日丙辰、匿名の投書がしばしばあったことから、詔を下して「百官および大学の生徒を教誡せよ」と仰せられた。二十二日丁巳、陸奥が初めて黄金を貢いだ。畿内・七道の諸社に幣帛を奉ってこれを告げさせた。三月乙丑朔、日食があった。この春、上総は飢饉、下総は日照りと蝗害による飢饉、石見(いわみ)は疫病にみまわれたので、施しを与えた。夏四月甲午朔、天皇が東大寺(とうだいじ)に行幸し、北に向かって盧舎那仏像に対面した。皇后・皇太子が侍し、群臣・百官・士庶(しじょ)が殿(でん)の後ろに列した。左大臣橘諸兄を遣わし、陸奥から黄金が出たことを仏に告げさせた。また詔を宣べて王親(おうしん)・百官・万民に布告した。二日乙未、天下に大赦した。五日戊戌、民部卿紀麻路(きのまろ)らを伊勢に遣わし、幣帛を大神宮に奉らせた。十四日丁未、東大寺に行幸し、盧舎那仏の前殿に出御した。左大臣従一位橘諸兄に正一位を、大納言藤原豊成を右大臣とするよう詔した。この日、改元した。五月二十七日庚寅、鰥寡孤独(かんかこどく)・疾疹(しっしん)の徒で自活できない者に、穀物一人あたり五斗を給した。孝子・順孫、義夫・節婦を表彰して終身その課役を免じ、力田で無位の者には位一階を授け、天下の今年の田租、陸奥の三年間の調庸を免除した。閏月九日壬寅、宮中で一千人を得度させた。十日癸卯、詔して仰せられた。「朕は徳薄い身でありながら、謹んで皇位を受け継ぎ、常に天地の覆い育む恩を損ない、万民の頼るところを欠くことを恐れて、いたずらに憂え労するばかりで、政事はなお欠けるところがあるかのようである。神がとがめを下されるのは、実に朕自身によるものである。近ごろは炎暑の時節にあたり、寝食の調子もすぐれず、百官は恐れかしこまり、左右の者は心を尽くしてくれている。今、天の心によく従い、災いの気を消し除きたいと思う。そこで過去を改める道を求め、我が身にある咎(とが)を深く謝したい。汗のように広くゆきわたる恩恵を流し、洗い清める政(まつりごと)を施すべきである。天下に大赦してよい。ただし父母を殺した者、および仏の尊像を毀損した者は、この限りではない。」二十三日丙辰、天皇は薬師寺(やくしじ)にお遷りになった。秋七月二日甲午、皇太子に位を譲った。

天皇は篤く仏法を崇め、僧行基(ぎょうき)らを敬い信じて、自らを三宝奴(さんぽうぬ)と称し、また沙弥勝満(しゃみしょうまん)と称した。

天平勝宝六年四月、東大寺に行幸し、壇に登って唐僧鑑真(がんじん)から菩薩戒(ぼさつかい)を受けた。皇后および孝謙帝(こうけんてい)もともに戒を受けた(注:天平勝宝以下の記事は日本高僧伝による。元亨釈書には、天平二十一年正月、帝が平城の中島宮(なかじまのみや)で行基を招いて菩薩戒を受けたとあり、鑑真から受戒したことを去年の出来事とする。しかし諸書を考えるに、元亨釈書の記述はおそらく誤りであろう)。

天平勝宝八歳(てんぴょうしょうほうはっさい)五月三日乙卯、寝殿において崩御した。御年56歳(注:年齢は本書に大宝元年生誕とある記述、および歴代皇紀による)。佐保山陵に葬った(注:延喜式には「山」の下に「南」の字がある)。葬儀には師子座(ししざ)・香天子座(こうてんしざ)・金輪幢(こんりんどう)・大小の宝幢(ほうどう)・香幢(こうどう)・花鬘(けまん)・蓋(がい)・繖(さん)などを用い、ことごとく仏に奉る儀礼と同じくし、笛を吹く者に行道の曲を奏させた。天皇はかつて都を巡幸した際、道すがら牢獄を通りかかり、悲痛な声を聞いて、心に深く憐れみを覚えられた。使者を遣わしてその罪の軽重を改めて調べさせ、恩を垂れて死罪以下をことごとく免じ、あわせて衣服を賜って自ら新たになることを許した。天皇は出家して仏に帰依したため、諡(おくりな)を奉らなかった(注:水鏡には、天皇は位を譲って落飾(らくしょく、剃髪)したとある。愚管抄・一代要記には、天皇が出家したとある。今、本書の孝謙紀を考えるに、出家についての記述はあるが、落飾についての記述はなく、水鏡が何によったものかは明らかでない)。

天平宝字二年に至り、追って勝宝感神聖武天皇(しょうほうかんじんしょうむてんのう)と尊称し、天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのみこと)と諡した。後に聖武天皇と称するようになった。