卷之一百二十 列傳第四十七
藤原永手、藤原真楯、藤原魚名、藤原豐成ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原永手
¶藤原永手(ふじわらのながて)は、中衛大将・房前(ふささき)の次男である。天平年間、従五位下に叙せられた。天平勝宝の初め、従四位下に進み、まもなく大和守となった。天平勝宝六年、従三位に昇り、式部卿・中務卿を歴任して兼務した。天平宝字元年、中納言となり、数年後に兵部卿を兼ねた。天平宝字八年、正三位に進み大納言に転じた。天平神護元年、勲二等を授けられ従二位に進んだ。同二年、右大臣を拝命した。詔にいう。「近江大津宮に天下を治められた天智天皇が藤原大臣(鎌足)を弔い、またその後に大臣の子を弔われた際、いずれも『子孫が清く明るい心をもって朝廷に仕えるならば、必ず厚く遇し、その家系を絶やすことのないように』と仰せられた。今、先帝の勅を思い、卿を右大臣に任ずる」と。天皇は永手の邸に行幸し、正二位を賜った。その妻・大野仲智(おおののなかち)には従四位下を賜った。その年のうちに左大臣に転じた。神護景雲二年、太宰府の綿二万屯を賜った。同三年、天皇は再び永手の邸に行幸し、従一位に進んだ。仲智および子の家依(いえより)・雄依(おより)らも、ともに一階級進んだ。まもなく稲十万束を賜った。天皇が病に伏せると、勅により永手に近衛・外衛・左右兵衛の事を統轄させた。当時、皇位の継承者はまだ定まっておらず、僧の道鏡(どうきょう)が身分不相応な野心をいだいていた。天皇が崩御するに及び、藤原百川(ももかわ)らが策を定め、遺詔を偽って光仁天皇を擁立したが、永手もこれに力を尽くした。天皇の即位により正一位に進み、山背国相楽郡出水郷の山二百町を賜り、さらに功封を賜った。宝亀二年二月、突然の病にかかった。当時天皇は難波に行幸しており、帰路、竹原井行宮に着いたとき、儀仗の幡竿が理由もなく折れた。人々は「執政の大臣が亡くなる前兆だ」と噂した。翌日、永手は薨去した。享年五十八。天皇は深く悼み惜しみ、中納言・文屋大市(ふんやのおおいち)と員外中納言・石川豊成(いしかわのとよなり)を遣わして弔問と贈り物をさせたが、その言葉は非常に哀切なものであった。功徳を褒め称え、この上ない哀悼と栄誉を極め、太政大臣を追贈し、使者を遣わして葬儀を監護させた。(注:『続日本紀』による。)永手は長岡に住んでいたため、長岡大臣と称された。(注:『尊卑分脈』『公卿補任』による。)子の家依は参議従三位。雄依は大蔵卿正四位下となったが(注:『続日本紀』による)、大伴継人(おおとものつぐひと)の一党に連座して隠岐に流された。(注:『日本紀略』による。)永手の弟に真楯(またて)・魚名(うおな)がいる。(注:『続日本紀』による。)
藤原真楯
¶藤原真楯(ふじわらのまたて)は、初め八束(やつか)と名乗った。天平年間、春宮大進となり、右衛士督・式部大輔に遷り、左衛門督を兼ね、次第に従四位下に進んで治部卿に改まった。真楯は度量が広く深く、大臣・補佐役たるべき才能を備えていた。官にあっては公正廉潔で、私心が及ぶことを慮り、聖武天皇は特に詔してこれに奏上・宣旨の任にあたらせた。物言いは明敏で、天皇の寵遇は非常に厚かった。従兄の仲麻呂(なかまろ)は真楯の才能を心中で妬んだ。真楯はこれを悟り、病と称して家に籠もり、もっぱら書籍に親しんだ。しばらくして大和守として外に出た。天平勝宝年間、摂津大夫に遷り、従四位上に準じ、参議を拝命した。天平宝字の初め、正四位下に進み中務卿を兼ねた。勅を奉じて仲麻呂とともに官号の改定にあたった。天平宝字四年、従三位に進み太宰帥となった。同六年、中納言に任じられ信部卿を兼ねた。まもなく正三位に進んだ。天平神護元年、勲二等を授けられた。同二年、大納言に転じ式部卿を兼ねた。薨去した時、享年五十二。勅旨大輔・藤原縄麻呂(なわまろ)と右少弁・大伴伯麻呂(はくまろ)を遣わして弔問させ、大臣の葬儀の格式を賜った。(注:『続日本紀』による。)
¶子の内麻呂(うちまろ)は、延暦年間、中納言に任じられた。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)大同の初め、大納言を拝命し近衛大将を兼ね、進んで右大臣従二位に至った。弘仁三年、薨去した。享年五十七。(注:『日本後紀』『公卿補任』による。)左大臣従一位を追贈され(注:『日本後紀』『尊卑分脈』による。○『公卿補任』では太政大臣を追贈したとする)、後長岡大臣と称された。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)内麻呂は若い頃から評判が高く、人徳と度量が温雅で、三代の天皇に仕えて、いずれも深く重んじられた。天皇から意見を問われると、決してその意向にへつらって迎合することがなかった。もし自分の考えと合わない場合でも、あえて天皇の意に逆らうような態度はとらなかった。およそ十数年にわたって政務の要職を執ったが、過失は一つもなかった。廃太子の他戸(おさべ)親王は人を害することを好み、乗ると必ず蹴ったり噛んだりする悪い馬を持っていた。かつて内麻呂にこれに乗らせ、その怪我をする様を見て楽しもうとした。ところが馬は頭を低くしたまま動かず、鞭で打たれても回転するだけであった。当時の人々はこれを見て、内麻呂を並外れた器量の人物だと評した。(注:『日本後紀』による。)内麻呂には十三人の子がおり、真夏(まなつ)・冬嗣(ふゆつぐ)・長岡(ながおか)・愛発(あらち)・大津(おおつ)・衛助(えいすけ)が最も名を知られた。(注:『尊卑分脈』による。)冬嗣・長岡には別に伝がある。
藤原魚名
¶藤原魚名(ふじわらのうおな)は、天平末年、従五位下に叙せられ侍従に補せられた。天平勝宝の初め、宇佐八幡大神のお告げがあり、都に遷座することになった。魚名は石川年足(いしかわのとしたり)とともに迎神使となり、神輿を奉じて入京した。天平宝字年間、備中守・上総守を歴任し、従四位下に進み宮内卿に遷った。天平神護二年、従三位を授けられた。神護景雲二年、参議を拝命し、まもなく大蔵卿・左京大夫を兼ねた。宝亀の初め、正三位を加えられ大納言に任じられ中務卿を兼ねた。同八年、従二位に進んだ。天皇が魚名の私邸に行幸し、その子・末茂(すえもち)に従五位下を授け、従者たちにも品物を賜った。まもなく近衛大将・太宰帥を兼ねた。翌年、内臣を拝命し、名称を忠臣と改めた。宝亀十年、内大臣となった。天応元年、正二位に叙せられ左大臣に転じ、太宰帥はそのまま兼ねた。延暦元年、事件に連座して大臣を罷免され、太宰府に赴くことになった。摂津まで来たところで病を得て進めなくなった。勅により摂津の別業に留まることを許され、医療を受けさせた。翌年夏、詔にいう。「太宰帥・藤原朝臣魚名は、老いと病が重なり、道中に留まっている。京師に帰らせ、その親族に世話をさせるがよい」と。七月、京師で薨去した。享年六十三。(注:『続日本紀』による。)河辺大臣(かわべのおとど)と称された。(注:『尊卑分脈』『一代要記』による。)天皇は詔して絁・布・米・塩および役丁を賜った。また詔にいう。「功労に応じて功績を叙するのは古来の典礼に明らかであり、過去に遡って罪を赦すのも以前からの決まりである。故太宰帥正二位・藤原朝臣魚名は、その祖父も父も、代々優れた功績を著してきた。ある者は忠義を尽くして君に仕え、ある者は徳の風を広めて時世を助けた。これを思うにつけても、忘れることができない。よって今、本来の官位を追贈し、その先祖の功に報いる」と。延暦元年六月十四日に下された詔勅や官符などは、すべて焼き捨てるべきである。(注:『続日本紀』による。)
¶魚名には五人の子があり、鷹取(たかとり)・鷲取(わしとり)・末茂(すえもち)・藤成(ふじなり)・真鷲(まわし)という。(注:『尊卑分脈』による。)鷹取は正四位下侍従にまで至ったが、父の事件に連座して石見介に左遷された。まもなく勅により呼び戻され、左京大夫となった。鷲取は従五位上中務大輔。末茂は中衛少将となったが、父の事件に連座して土佐介に左遷された。赦免されて伊予守に任じられた。再び事件に連座して日向介に貶められたが、また赦免された。内匠頭・従五位上にまで至った。(注:『続日本紀』による。)藤成は吃音があったが、才幹があった。内外の官を歴任し、どこでも職務によく通じていると評され、従四位下伊勢守にまで至った。(注:『類聚国史』による。)真鷲は従五位下に叙せられ、父に従って太宰府に赴いた。呼び戻されて大学頭となり、伯耆守・右少弁を歴任し、太宰大弐にまで至った。(注:『続日本紀』による。)
藤原豊成
¶藤原豊成(ふじわらのとよなり)は、右大臣・武智麻呂(むちまろ)の長男である。養老年間、内舎人となった。神亀の初め、従五位下に叙せられた。天平年間、次第に従四位下に進み、兵部卿として参議を拝命し、中務卿に遷り近衛大将を兼ねた。当時天皇はしばしば行幸に出ており、豊成はその都度京師の留守を務めた。従三位に準じ中納言に任じられ東海道鎮撫使を兼ね、従二位に進み大納言に転じた。天平勝宝元年、右大臣を拝命した。皇太子が廃されるに及び、豊成は従弟の永手とともに塩焼王(しおやきおう)を擁立しようとした。豊成の弟・仲麻呂はこれに従わず、結局大炊王(おおいおう)が立てられた。仲麻呂は内相となり、その勢力は天下に並ぶ者がなかった。豊成はもともと寛容篤実な人柄で、大いに世間の信望を得ていた。仲麻呂はその才名を妬み、機会があるごとに陥れようとした。橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が廃立を謀った事件が発覚すると、仲麻呂は豊成の子・乙縄(おとただ)が奈良麻呂と親しいことを口実に、賊に与したと誣告し、勅により豊成に乙縄を差し出させようとした。豊成はやむを得ず乙縄を捕らえて役人に引き渡した。さらに勅が下されていう。「豊成は君に仕えて不忠であり、臣として不義である。私的に賊の一党と関わりながら、内相(仲麻呂)を密かに憚り、大乱の企てを知りながら、あえて奏上しようとしなかった。事が発覚するに及んでも、なお追及しようとしなかった。もし数日遅れていれば、危うく皇統を損なうところであった。宰相たる者の任として、どうしてこのようなことが許されようか。よって右大臣を罷免し、太宰員外帥に左遷する」と。豊成は難波の別業に至り、病と称して赴任しなかった。仲麻呂が誅殺されるに至って、天皇はその冤罪を悟り、勅して官位を復し、帯刀の従者四十人を賜り、従一位を授けた。豊成は仲麻呂が死んで以降、内心穏やかでいられず、上表していう。「私どもの曾祖父・大織冠内大臣(鎌足)は、義を踏み忠を懐き、身をもって国に奉じました。朝廷はその類まれな功績によって、限りない恩賞を賜りました。その子である正一位太政大臣(不比等)は、誠意を尽くして固く辞退し、賜った二千戸のうち一部を割いて子孫に伝えました。私どもは代々の名門として、久しく栄誉と寵愛を受けてまいりましたが、思いもよらず逆賊仲麻呂が、身近な一族から出て、あれほどまでに凶悪な反逆を極めることになりました。今、私どもはすでに凶逆の同族でありながら、なお功封の余沢を受けております。どのような顔でこのような厚遇を受け続けられましょうか。伏してお願い申し上げます、先代より賜った功封をご返上し、いささかなりとも天下の非難を鎮めとうございます」と。天皇はこれを許した。天平神護元年、薨去した。享年六十二。(注:『続日本紀』による。)難波大臣、また横佩大臣(よこはぎのおとど)と称された。
¶豊成には四男一女があった。男子は良因(よしより)・継縄(つぐただ)・乙縄(おとただ)・縄麻呂(なわまろ)。継縄には別に伝がある。娘の中将姫(ちゅうじょうひめ)は尼となり当麻寺(たいまでら)に住んだ。良因は正五位下伯耆守。(注:『尊卑分脈』による。)乙縄(注:原文では「乙」が「弟」に作られている場合もある)は、初め正六位上に叙せられたが、叔父の仲麻呂に誣告され日向員外掾に左遷された。仲麻呂が誅殺されると、赦されて京師に呼び戻され、従五位下を授けられた。神護景雲の初め、大蔵大輔に補せられ、土佐・美作・下総の守、弾正尹を歴任し、従四位上刑部卿参議にまで至った。縄麻呂は、天平宝字年間、兵部少輔・備中守・礼部大輔を歴任し侍従を兼ね、従四位下を授けられた。天平神護の初め、勲三等を賜った。天皇が紀伊に行幸した際、御前騎兵将軍を務めた。まもなく民部卿となり、参議を拝命し、勅旨大輔・近江守を兼ねた。神護景雲二年、従三位を授けられ近江按察使となった。孝謙天皇が崩御すると、藤原永手らとともに策を定め、光仁天皇を擁立した。宝亀年間、中納言に任じられ皇太子傅を兼ね、近衛大将を兼ねる職に遷った。同十年、薨去した。享年五十二。天皇は深く悲しみ悼み、大和守・石川豊人(いしかわのとよひと)と治部大輔・藤原刷雄(よしお)を遣わして、従二位大納言を追贈し、葬儀の費用は官が支給し、あわせて鼓吹司の人夫を充てさせた。(注:『続日本紀』による。)
藤原良継
¶藤原良継(ふじわらのよしつぐ)は、式部卿・宇合(うまかい)の次男であり、初め宿奈麻呂(すくなまろ)と名乗った。天平年間、兄・広嗣(ひろつぐ)の事件に連座して伊豆に流された。まもなく赦されて呼び戻され、少判事に補せられた。数年後、従五位下を授けられ、越前守・上総守を歴任した。天平宝字年間、従五位上に進み民部少輔となった。まもなく右中弁に補せられ、造宮大輔に改まり上野守を兼ねた。当時、恵美仲麻呂(えみのなかまろ)が政治を専断し、その三人の子はいずれも参議に任じられていたが、良継の位はその下にあり、内心恥辱と憤りを抱き、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)・石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)・大伴家持(おおとものやかもち)らとともに、仲麻呂を除こうと謀った。右大舎人の弓削男広(ゆげのおひろ)がこの計画を知り、仲麻呂に告げた。捕らえられて取り調べを受けると、良継は「私一人がこの謀反の首謀者であり、他の者に罪はない」と述べた。そこで大不敬の罪に問われ、姓を除かれ官位を奪われた。それから二年後、仲麻呂が反乱を起こし近江に逃げた。その日のうちに、良継に詔して数百の兵を率いて追討させた。この功により従四位下勲四等を授けられた。乱が平定されると正四位上に叙せられ、太宰帥となった。天平神護二年、従三位に進んだ。神護景雲年間、兵部卿として法華寺造営の長官を兼ねた。同四年、参議を拝命した。天皇が崩御し、後継者がいなかった。光仁天皇の即位にあたり、良継はその議定に加わり策を定めた。喪の儀にあたっては、騎兵司として宮闕の警護を務めた。まもなく式部卿に遷り、正三位に進み、名を良継と改めた(弘仁年間、中納言に叙されたとあるのは誤りで、原文のままとする)。宝亀二年、破格の待遇で内臣を拝命した。勅にいう。「内臣の職掌である官位・禄賜・職分雑物については、すべて大納言と同様にせよ。ただし食封は一千戸を給する」と。これ以降、思うままに政治を専断し、人事の任免も自らの意のままとなった。まもなく従二位に進んだ。宝亀八年、内大臣に昇った。その秋、病の床につくと、天皇はそのために氏神である鹿島神に正一位、香取神に正四位上を授けて、その病の平癒を祈らせた。まもなく薨去した。享年六十二。従一位を追贈され、中納言・物部宅嗣(もののべのやかつぐ)らを遣わして弔問させた。(注:『続日本紀』による。)子の宅美(いえみ、注:『尊卑分脈』による)は従五位上越前守。娘の乙牟漏(おとむろ)は桓武天皇の皇后となり、平城(へいぜい)・嵯峨(さが)の二天皇を生んだ。(注:『続日本紀』による。)平城天皇が即位すると、その外祖父にあたることから、良継に太政大臣正一位を、妻の安倍氏に正一位を追贈した。(注:『日本後紀』『日本紀略』による。)良継の弟に百川(ももかわ)がいる。
藤原百川
¶藤原百川(ふじわらのももかわ)は、初め雄田麻呂(おだまろ)と名乗った。幼い頃から器量があった。天平宝字年間、従五位下を授けられ式部少輔に補せられた。天平神護年間、山陽道巡察使となった。奏していう。「本道の郡の伝路は遠く、多くの民を苦しめております。どうか駅制に復して物資の輸送をさせてください。また長門国の豊浦郡・厚狭郡などでは養蚕を行わせるべきです。調銭の徴収をやめ、代わりに絁を納めさせてください」と。朝廷はついにその建議を採用した。まもなく左中弁侍従に任じられた。神護景雲年間、右兵衛督を兼ね武蔵守に任じられ、従四位下に進んだ。中務大輔に遷り、兵庫の副将軍を検校し、内豎大輔を兼ね、河内守・越前守を歴任し右大弁に転じた。歴任した職務のいずれにおいても、勤勉で規律正しいとの評判を得た。(注:『続日本紀』による。)当時、孝謙天皇は淫らな行いに耽っており、百川は国家が乱れようとしているのを見ても力及ばず救うことができず、常日頃から憤り嘆いていた。神護景雲四年、天皇の病が重くなったとき、ある尼が「治療の方術がある」と申し出た。百川はこれを抑えて取り次がなかったため、天皇はついに崩御した。皇位の継承者がまだ定まらない中、百川は白壁王(しらかべおう)を擁立しようとした。右大臣・吉備真備(きびのまきび)はこれに強く異論を唱えた。百川は兄の良継、従兄の左大臣永手と密かに相談し、遺詔を偽って、宣命使に読み上げさせていう。「白壁王は年長で、かつ功労がある。ゆえに先帝は皇太子に立てられた」と。真備は黙るしかなかった。百川はすぐに儀仗を整え、白壁王を迎えて即位させた。これが光仁天皇である。(注:『水鏡』および『日本紀略』引用の百川伝による。)宝亀二年、太宰帥となり、名を百川と改め参議を拝命した。百川は人柄が忠実で、加えて擁立の功績があった。天皇は深く彼を信頼し、腹心として重用した。(注:『続日本紀』による。)天皇が皇太子(他戸親王)を廃したのち、百川は山部親王(やまべしんのう、のちの桓武天皇)を立てるよう請うたが、議論が紛糾する中、百川は当初の主張を頑として曲げなかった。天皇が席を立って内に入ろうとすると、百川は声を荒げて「聖断を承らぬうちは、臣は決して退きません」と言い、御前に四十余日も立ち続けた。天皇はその誠意に心を動かされ、ついにその願いを許した。言葉が終わらぬうちに、百川は手を打って大いに歓喜し、急ぎ親王を迎え入れて皇太子に立てた。当時の人々は、百川が二心なく君に仕え、力を尽くして命を捧げたことは、古来比類がないと評した。(注:『水鏡』による。)まもなく従三位に進み式部卿となり近衛大将を兼ねた。内外の重要政務には、関わらないものがなかった。宝亀十年、天皇が病に伏せた。百川は憂いを顔に表し、医薬や祈祷に心力の限りを尽くした。天皇はますますこれを重んじた。この年、百川は薨去した。享年四十八。天皇は深く悼み惜しみ、使者を邸に遣わして詔を宣べさせ、従二位を追贈し、必要な費用は官が支給した。延暦二年、その功を追って褒め、右大臣を追贈した。(注:『続日本紀』による。)子は緒嗣(おつぐ)・継業(つぐなり)。緒嗣には別に伝がある。娘の旅子(たびこ)は桓武天皇の夫人となり、淳和天皇(じゅんなてんのう)を生んだ。淳和天皇の即位により、外祖父の恩によって百川に太政大臣正一位を、妻の藤原氏に正一位を追贈した。(注:『日本紀略』による。)継業は人柄が実直で威儀があり、弓を好み琴歌にも巧みであった。天長三年、外戚として従三位を授けられた。承和九年、薨去した。享年六十五。(注:『続日本後紀』による。)百川の弟に蔵下麻呂(くらじまろ)がいる。
藤原蔵下麻呂
¶藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ)は、初め内舎人から出雲介となった。天平宝字年間、山陽道問民苦使となり、従五位下に進んだ。少納言・備前守を歴任した。恵美仲麻呂が近江に逃亡すると、蔵下麻呂は討賊将軍となり、力戦してこれを破った。事が平定されると、その功により従三位を授けられ、右兵衛督に抜擢された。廃帝(淳仁天皇)が淡路に移されると、蔵下麻呂がこれを護送した。天平神護元年、勲二等を授けられ、近衛大将となり左京大夫を兼ねた。神護景雲元年、伊予・土佐の按察使を兼ねた。光仁天皇の即位にあたっては、その擁立の議に加わった。兵部卿に遷り東宮大夫を兼ねた。まもなく太宰帥に任じられ、参議を拝命した。宝亀六年、在官のまま薨去した。享年四十二。(注:『続日本紀』による。)子は縄主(なわぬし)・綱継(つなつぐ)・浄本(きよもと)。縄主は、延暦から大同年間にかけて、次第に官を進め参議従三位に至り、太宰帥となった。弘仁年間、中納言に任じられ兵部卿を兼ねた。同八年、在官のまま薨去した。享年五十八。生来酒を好んだが、職務を怠ることはなかった。恩義に厚く、親族から慕われた。天長元年、従二位を追贈された。(注:『公卿補任』による。)綱継(注:本文では「綱紀」とも)は、延暦から弘仁年間にかけて、次第に清要の官を歴任した。天長の初め、蔵人頭に補せられ参議を拝命した。まもなく正四位下に進み、官を退いた。天皇は特に勅して子の吉野(よしの)に参議の位を授けさせた。承和八年、特別の待遇で正三位を授けられた。同十四年、薨去した。享年八十五。(注:『続日本後紀』による。○蔵人頭に補せられたことおよび子の吉野に参議を授けさせたことは、『公卿補任』による。)吉野には別に伝がある。浄本は従三位大蔵卿にまで至った。(注:『日本紀略』『尊卑分脈』による。)
藤原種継
¶藤原種継(ふじわらのたねつぐ)は、良継の弟・浄成(きよなり)の子である。(注:『尊卑分脈』による。)天平神護二年、従五位下に叙せられ、内外の官を次第に歴任した。延暦元年、参議に任じられ従三位に進み式部卿となった。まもなく中納言に任じられ正三位に叙せられた。天皇は深く彼を信任し、常にその側近として仕えさせた。内外の重要政務は、すべて種継の裁決に委ねられた。(注:『続日本紀』による。)当時、天皇はしきりに行幸を好み、政務を皇太子(のちの平城天皇)に委ねていた。皇太子は佐伯今毛人を参議に任じようとしたが、種継はこれを不可とし、上奏してその任命を取りやめさせた。皇太子はこれ以来種継を深く憎み、常に除こうとしていた。(注:『水鏡』による。)初め長岡への遷都にあたっては、種継が真っ先にこれを建議した。延暦四年、天皇が平城京に行幸した際、種継は右大臣・藤原是公(これきみ)とともに留守を務めた。(注:『続日本紀』による。)皇太子は、天皇が都におられぬ間、密かに人を遣わして種継の動静をうかがわせた。(注:『日本紀略』『水鏡』による。)このとき、新都はまだ造営中で諸官庁も整わず、職人や人夫が昼夜を分かたず働いていた。種継が松明を照らして視察・監督していたところ、賊が暗闇の中からこれを射た。(注:『続日本紀』による。)矢は二本とも体を貫いた。(注:『日本紀略』による。)天皇は変事を聞いて大いに驚いた。翌日都に戻ったときには、種継はすでに薨去していた。享年四十八。天皇は深く悼み惜しみ、正一位左大臣を追贈し、犯人の捜索を命じた。(注:『続日本紀』による。)左少弁・大伴継人(おおとものつぐひと)、近衛の伯耆桴麻呂(ほうきのふまろ)、中衛の牡鹿木積麻呂(おしかのこつみまろ)、および大伴竹良(たけよし)らが捕らえられた。勅により右大弁・石川名足(いしかわのなたり)が取り調べにあたった。桴麻呂がまず自白していう。「主税頭・大伴真麻呂(まさまろ)、大和大掾・大伴夫子(ふし)、春宮少進・佐伯高成(たかなり)、および竹良らが、私と木積麻呂を遣わして種継を射させたのです」と。継人・高成らも自白していう。「大伴家持がこの謀計の首謀者です。かつて皇太子に『大伴・佐伯両氏を結集して種継を除くべきです』と申し上げていました」と。残る一党を取り調べると、皆自白した。そこで首謀者の継人・高成・真麻呂・竹良らは死罪に処された。桴麻呂・木積麻呂は縛られ、種継の柩に罪状を告げたのち、山崎橋の南で斬られた。家持はすでに死去していたが、その官位は追って剥奪された。そのほか連座して流罪・処罰された者は非常に多かった。詔してその罪を明らかにし、百官に布告した。この日、皇太子は廃された。(注:『日本紀略』による。)大同四年、太政大臣を追贈され(注:『公卿補任』『一代要記』による)、弘福院大臣(こうふくいんのおとど)と称された。子は山人(やまひと)・仲成(なかなり)・藤生(ふじお)・鬘麻呂(かずらまろ)・世嗣(よつぐ)(注:『尊卑分脈』による。○『日本紀略』『公卿補任』では仲成を長男とし、『類聚国史』では鬘麻呂を次男、世嗣を四男とする。しかし山人・藤生らの順序については他に考証する資料がない。ここでは仮に『尊卑分脈』に従う)・湯守(ゆもり、注:『続日本紀』による)。山人は正五位下刑部卿。藤生は従五位下大隅守。(注:『尊卑分脈』による。)鬘麻呂は、桓武天皇の代に皇后宮大進・相模守を歴任し(注:『続日本紀』による)、従四位下に至った。人柄は暗愚で酒色に溺れていたが、ただ家柄の名望によって内外の官を歴任した。弘仁の初め、死去した。世嗣は、延暦年間、大学頭となった。天長年間、従四位上に至った。人柄は謙虚で、目下の者に尋ねることも恥じず、恭しく人に接した。のちに伊勢守となったが、兄(仲成)の訃報が届くと、百里の道を駆けつけ、まもなく死去した。(注:『類聚国史』による。)湯守は罪を得て除籍された。延暦六年、井手宿禰(いでのすくね)の姓を賜った。(注:『続日本紀』による。○本書には湯守の官職が記されておらず、今のところ考証のしようがない。)
藤原仲成
¶藤原仲成(ふじわらのなかなり)は、桓武・平城両朝にわたって次第に官を進め、従四位上北陸道観察使、右兵衛督を兼ねるに至り(注:『日本紀略』『公卿補任』による。○観察使については『公卿補任』による)、参議に任じられた。(注:『公卿補任』による。)性格は粗暴で酒に溺れ、序列も顧みず、気に入らないことがあれば人を打ちのめすことも辞さなかった。(注:『日本後紀』『日本紀略』による。)妹の薬子(くすこ)が内侍として寵愛を独占していたことから、仲成はその勢いを頼んで驕り高ぶった。位の高い年配の者たちも多くその侮辱を受け、道行く人々も目を逸らすほどであった。嵯峨天皇が即位すると、薬子は上皇(平城上皇)に「復位して遷都なさいませ」と勧め、仲成は密かにその企てを助けた。上皇はその言葉に惑わされてこれを聞き入れ(注:『日本後紀』『日本紀略』『水鏡』による)、仲成を造宮使とした。(注:『日本紀略』による。)人々は皆恐れおののいた。天皇(嵯峨天皇)は薬子の官職を剥奪し、仲成を右兵衛府に幽閉して、左近衛将監・紀清成(きのきよなり)と右近衛将曹・住吉豊継(すみよしのとよつぐ)に命じて射殺させた。かつて仲成は民部大輔・笠江人(かさのえひと)の娘を妻としたが、その叔母に容姿の美しい者がいて、仲成はこれを強姦しようとした。叔母は逃げて佐味親王(さみしんのう)の邸に匿われた。仲成はその邸に押し入り、大いに乱暴を働いた。誅殺されるに及んで、これを聞いた人々は皆胸のすく思いをした。(注:『日本後紀』『日本紀略』による。)
大中臣清麻呂
¶大中臣清麻呂(おおなかとみのきよまろ)は、もとの姓を中臣といい、祭主・可多能祜(かたのこ)大連の四世の孫である。曾祖父の国子(くにこ)は、舒明天皇の時代に小徳の冠位を持ち、以前は太政官の職と祭官の職を兼ねていた。祖父の国足(くにたり)は、孝徳天皇の時代に祭主となった。父の意美麻呂(おみまろ)も、また祭主となった。(注:『大中臣系図』および『尊卑分脈』を参照。○『公卿補任』の一説や『大鏡』『吉田系図』では意美麻呂を鎌足の子とするが、『大中臣系図』『藤原系図』では、可多能祜の三人の子は長男が御食子(みけこ)、次が国子、次が糠手子(ぬかてこ)であり、御食子が鎌足を生み、国子が国足を生み、国足が意美麻呂を生んだとする。『公卿補任』の本説もこれと同じであるため、今はこれに従う。)天智天皇の時代、鎌足とともに藤原朝臣の姓を賜った。(注:『大中臣系図』による。)文武天皇はその神事に奉仕することを理由に、もとの姓に復すよう詔した。和銅年間、中納言に任じられ神祇伯を兼ね、正四位上に至った。(注:『続日本紀』による。)清麻呂は代々続けて祭主となった。天平年間、神祇大佑となり式部大丞を兼ねた。(注:『系図』による。)従五位下に叙せられ、次第に神祇大副に遷った。母の喪に服したが、解任は許されず、まもなく尾張守に遷った。(注:『続日本紀』。母の喪に服したことは『大中臣系図』による。○『系図』にいう、天平十九年、中臣益人(なかとみのますひと)を神祇大副とし、清麻呂は尾張守に遷った。当時太上天皇が病に伏せ、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)が、この病は祭主の清麻呂を外任に遷したことによるのではないかと奏上した。そこで益人を相模守とした。しかし本史を調べても益人が相模守になったとは記されておらず、また清麻呂は天平勝宝六年に再び神祇大副となっている。『系図』の記載は信用しがたく、今後の考証を待つ。)天平勝宝年間、従五位上に進み、再び神祇大副となり、左中弁・文部大輔に補せられた。天平宝字の初め、次第に正五位上に進んだ。同六年、従四位下に叙せられ、内裏に侍って勅旨を伝宣した。この年、参議を拝命し、まもなく左大弁となり摂津大夫を兼ねた。(注:『続日本紀』による。)同八年、神祇伯に改まり(注:『大中臣系図』による)、正四位下に進んだ。(注:『公卿補任』による。)天平神護元年、勲四等を加えられ、大嘗祭の事に奉仕した。詔にいう。「神祇伯・中臣清麻呂は、その心はその名の通り清く、慎み深く勤勉恭謹であり、久しく神祇に奉仕してきた。朕はこれを喜ばしく思う。特に従三位を授ける」と。神護景雲二年、中納言を拝命した。翌年六月、詔にいう。「神語に大中臣という言葉があり、中臣清麻呂は再び神祇官となり、奉仕に落ち度がなかった。よって大中臣朝臣の姓を賜う」と。宝亀元年、正三位に進み大納言を拝命した。同二年、東宮傅を兼ねた。左大臣・藤原永手が病に伏せると、清麻呂にその職務を代行させた。まもなく右大臣を拝命し、従二位に叙せられ(注:『続日本紀』による)、そのまま祭主の職も務めた。(注:『大中臣系図』による。)大嘗祭にあたっては神寿詞を奏上した。絁六十匹を賜った。天皇の車駕がその邸に行幸し、正二位を授けられ、妻には正五位下、多治比古奈禰(たじひのこなね)には正五位上を授けられた。(注:『続日本紀』による。)清麻呂は老衰のため伊勢大神宮に参ることができなくなり、祭主の職を子の老(おゆ)に譲ることを願い出た。(注:『大中臣系図』による。)これにより子の老を神祇大副とした。(注:『続日本紀』『系図』による。)その後さらに上表して官職を辞することを願い出たが、優詔によって許されなかった。唐からの客人を私邸でもてなし、綿三千屯を賜った。まもなく備前国邑久郡の荒れ地百余町を賜った。桓武天皇が即位すると、また辞職を願い出て、これは許された。杖と几を賜った。清麻呂は数代の天皇に仕え、国家の重鎮であった。朝廷の儀礼や国の典礼に精通していた。官にあって政務を執り、老いてもなお怠ることがなかった。延暦七年、薨去した。享年八十七。(注:『続日本紀』による。)もともと中臣・忌部の両氏は、ともに祭祀の典礼を司り、世に並び称されていた。しかし忌部氏の子孫は衰え、中臣氏だけが代々その職を継いだという。(注:『古語拾遺』による。)子は継麻呂(つぐまろ)・諸魚(もろな)。
大中臣淵魚
¶大中臣淵魚(おおなかとみのふちな)は、大同四年、父の位階により従五位下に叙せられた。弘仁から天長年間にかけて神祇大副を歴任し、神祇伯となり従四位上に至った。人柄は謹厳緻密で、祭祀の事に精通し、祭主を務めること二十八年に及んだ。承和十年、官を退いて家に籠もり、世事から離れ、悠々自適に余生を過ごした。嘉祥三年、死去した。享年七十七。(注:『続日本後紀』による。)
大中臣正棟
¶大中臣正棟(おおなかとみのまさむね)は、諸魚の孫である。父の治知麻呂(はるちまろ)は従五位上備中守。正棟は幼くして聡明で、天性きわめて孝行深かった。父の喪にあっては、悲しみのあまり体をひどく損なうほどであったが、喪が明けると学問に励んだ。有能で機敏だと評判であった。弘仁の末、内舎人に抜擢された。まもなく二人の兄を相次いで亡くした。正棟はもともと俗世を離れる志があり、しばしば家の不幸に遭ったことで物事に触れて深く心を動かされ、ついに髪を剃って僧となり、名を壱演(いちえん)と改め、金剛般若経を篤く信奉し、飽くことなく研鑽を積んだ。さらに真如親王(しんにょしんのう)から真言密教を授かった。これ以来、修行と学識が大いに進み、行くも留まるも意のままで、一所に留まることがなかった。かつて小舟に乗り、波に任せて漂っていたところ、河陽橋のほとりに至り、そのまま水辺に仮住まいすることになった。ある老婆が、家を壱演に譲っていうには、「この土地は代々商売の場所として、魚や塩の商いで利益をあげてきました。どうかここに寺を建てて住んでいただきたい」と。壱演が基礎を築こうとして地を掘ったところ、古い仏像が出土した。天皇はこれを聞いて不思議に思い、木工寮に勅して堂宇を造営させ、相応寺という寺額を賜った。壱演は黒い土を集めて方丈の壇を築き、仏像を安置した。すると壇上が忽然と白く変わり、まるで粉を塗ったようになった。これを見た者は皆感嘆した。壱演は呪法を行い、よく病を治したので、天皇は深く彼を重んじた。貞観年間、権僧正を授けられた。上表して固く辞退したが、許されなかった。その後病を患い、船に乗って水に浮かんでいるうちに、静かに息を引き取った。諡は慈済(じさい)。(注:『三代実録』による。)
大中臣国雄
¶大中臣国雄(おおなかとみのくにお)は、正棟の兄である式部少丞・良檝(よしかじ)の子である。(注:『大中臣系図』による。)幼くして聡明で、同輩をはるかに凌いでいた。八歳で父を亡くし、叔父の壱演に仕えた。成長するにつれて志操があり、生来静寂を愛し、読書を好み、広く物事に通じることを志した。壱演は彼を僧にしようとして、名を定進(じょうしん)と改めさせ、経史を学ぶよう勧めた。国雄はその言葉に従い、書物を背負って師を尋ね歩き、熱心に学んでよく記憶し、ついに九経・三史・老荘などの書に通じ、問われればどんなことにも即座に答えた。秀才に挙げられ、文章得業生となった。まだ試験を受けないうちに、従五位下を授けられた。(注:『系図裏書』引用の『延喜本系』による。)祭主・神祇大副にまで至った。(注:『系図』による。)
和気清麻呂
¶和気清麻呂(わけのきよまろ)は、備前国藤野郡の人である。(注:『続日本紀』による。○『宇佐託宣集』では右京の人とする。今、『姓氏録』を調べても和気氏は右京皇別に載せられているが、これはおそらくいずれも清麻呂の本籍によって、京戸に加えられて以後のことであろう。)その先祖は鐸石別命(ぬでしわけのみこと)に出る。鐸石別命の曾孫・弟彦王(おとひこおう)は、応神天皇の時代に軍功により吉備国磐梨県(いわなしのあがた)を賜り、そこに住み着いた。(注:『日本紀』『姓氏録』による。○『日本後紀』『宇佐託宣集』では磐梨県を藤原県に作る。『続日本紀』にいう、神亀三年、備前藤原郡を藤野郡と改めた。神護景雲三年、藤野郡をもって和気郡とした。延暦七年、和気郡の河西を割いて磐梨郡を建てた。これによれば磐梨と藤原は実は同じ地であろう。)清麻呂はもとの姓を磐梨別公(いわなしわけのきみ)といい、のちに藤野別真人(ふじのわけのまひと)と改めた。(注:『日本後紀』『宇佐託宣集』による。)従六位上に叙せられ右兵衛少尉となった。天平神護年間、勲六等を授けられ、姓を吉備藤野和気真人(きびのふじのわけのまひと)と改め賜り、従五位下に進み(注:『続日本紀』による)、近衛将監に遷り封戸五十戸を賜った。神護景雲三年、さらに姓を輔治能真人(ふじのまひと)と改め賜り、因幡員外介となった。清麻呂は人柄が剛直であった。天皇はもともと宇佐八幡神を敬うこと生きた人に仕えるようであり、そのお告げには何事も従わないことがなかった。寵愛する僧の道鏡を法王としたとき、太宰主神・中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が天皇の意向に迎合して偽りの奏上をした。「八幡神のお告げに『道鏡を皇位に即けさせれば、天下は太平になる』とあります」と。そこで天皇は清麻呂を御座所に召していう。「昨夜の夢に、八幡神の使いが来て『大神が汝の姉である尼の法均(ほうきん)に申したいことがある』と言った。そなたが法均に代わって行くがよい」と。出発にあたり、道鏡は目をいからせ剣に手をかけて清麻呂に言った。「大神は私を皇位に即けようとしている。使者を求める理由はまさにこのためだ。そなたが宇佐に行き、神のお告げを奉じて、私の望みを叶えさせるならば、そなたに太政大臣を授け、国政を委ねよう。もし私の言葉に背くならば、重い刑罰を科す」と。(注:『続日本紀』を用い、『宇佐託宣集』も参照。)当時、路豊永(みちのとよなが)という者がいて、清麻呂に言った。「道鏡が天位に即いたなら、私はどんな顔をして仕えられようか。私はいっそ数人の同志とともに、伯夷(はくい)にならって身を退こう」と。清麻呂は死を覚悟して出発し、神宮に参ってお告げを請うた。(注:『日本後紀』『日本紀略』『宇佐託宣集』による。)神が乗り移って告げていう。「わが国は開闢以来、君臣の分は定まっている。臣下をもって君とすることは、いまだかつてない。天皇の位は必ず皇統の者が継ぐべきである。道理に背く者は、速やかに排除すべきである」と。清麻呂は都に戻り、そのままを奏上した。道鏡は激怒し、清麻呂の本官を解いて因幡員外介に左遷した。まだ赴任しないうちに、その姉の法均が神の教えを偽ったとして朝廷を欺いた罪を追及し、姓名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改めさせ、大隅に流した。(注:『続日本紀』による。)道鏡は人を遣わして道中で清麻呂を殺そうとしたが、にわかに雷雨が来て空が暗くなり、命を受けた者はためらった。折しも赦免の勅使が到着し、参議・藤原百川は清麻呂の忠烈を哀れみ、備後国の封戸二十戸を割いて彼に与えた。(注:『日本後紀』『日本紀略』『宇佐託宣集』による。)翌年三月、清麻呂は流罪の地から上書していう。「私が聞くところによれば、『臣下たる者の礼は、二心なく忠を尽くすことにある。天皇の命に従う道は、肝を潰すような危険からも逃げないことにある。名を後世に残し、功業を無窮に伝えるのは、忠臣が危機に臨んで命を捧げ、義士が身を捨てて節義を守る所以である』とのことです。私、清麻呂は再び宇佐大神宮への使者を仰せつかり、国家の大事についてお伺いを立てました。大神のお告げは、西方(道鏡側)の望む命令には沿いませんでした(注:『続日本紀』によれば、清麻呂が使いをしたのは一度だけであり、「再び」とあるのは詳細不明である)。ひそかに思いますに、信義とは国の宝であり、どうして我が身惜しさに国の宝を失うことができましょうか。また至尊なる天皇と神とは、誰があえてその正しい旨に背くことができましょうか。それゆえ復命の日に、あえて真実を申し上げました。大神と西方が不和であることは、今日に始まったことではなく、そのことは以前の奏上に詳しく述べてあります。私は神のお告げに基づいて、詳細版と簡略版の二種類の文書を作成し、簡略版は西方に差し上げ、詳細版は御所に献上いたしました。また、さきに阿曾麻呂が私に『大神が不和であるのは、以前からのことである』と語っておりました。もし前後の奏上を照らし合わせれば、水と泥のようにその違いは自ずと明らかであり、神の威光がこのような結果を招いたのです。今、私が罪を恐れて申し上げなければ、臣民の道に外れることになりかねませんので、あえて簡潔に申し述べます。去年の勅に『昨夜の夢に、大神の使いが来て「法均尼に会って申し伝えたいことがある」と言った』とありました。天皇のお考えでは、これは必ず皇位継承に関わることであろうと、清麻呂を法均の代わりにお告げを受ける役に選ばれました。私は畏れ多く身震いする思いで、自らを顧みてもこの任は分不相応であり、どうして耐えられましょうかと思いました。仏と神に帰依し、心に誠実さを結び、重い使命を薄氷を踏むように担い、覚束ない足で深い淵に臨むように歩みました。そして祈っていうに、『私は神に召された者であり、至尊の天皇に代わって耳目となる者です。伏してお願い申し上げます、はっきりと霊験をお示しになり、聖旨に明確にお答えください』と。大神は韓島勝(からしまのすぐり)と曾咩(そめ)に乗り移り、私に戒めていう、『私の言葉を西方に聞かせてはならない』と。私は『国家の大事について、私一人で奏上するわけにはまいりません』と申し上げ、まずお告げの内容を記した文書を差し出し、続いて二通の奏上文を作成しました。一通は神宮の前に納め、もう一通は使者に託して献上しました。その中には大事が二条、加えて小事が一条ありました。大事とは、一つ、『穢れた者を追放すべきこと』。二つ、『皇位は人が鏡を握るように、正しく傾いてはならないこと』。小事とは、『官職は同じ殿舎にあっても地位を異にすべきである。ひそかに思いますに、神明でなければ誰がこれを言えましょうか。もし従わなければ、神意に背くことを恐れます』ということでした。また私が獄中で人々の話を聞いたところ、『大神のお告げに「私は今この大隅へ遷ろうとしている。速やかに祠を建てるべきである」とあった』とのことです。海中に造られた島の神々なども、まだ拠り所を得ておらず、やはり祠を建てるべきです。今回のお告げは、道理にかなったことです。それゆえあえて心の内を書き記し、謹んで奏上いたします」と。(注:『宇佐託宣集』による。)この年、光仁天皇が即位し、道鏡を下野に追放し、清麻呂の姓名を元に戻して呼び戻した。翌年、元の官位に復し、播磨員外介となった。(注:『続日本紀』による。○和気氏に伝わる清麻呂伝によれば、清麻呂が流罪にされたとき、脚が萎えて立つことができなかった。この時に至って八幡宮に参ろうとし、病を押して道を進むと、豊前国宇佐郡楉田村を通りかかった際、およそ三百頭の猪が道を挟んで十里ほども先導した。宮に参拝すると、立ち座りが元通りになった。神が乗り移って告げ、神剣二振りを賜り、神封として綿八万余屯を賜った。そこで宮司以下、国中の百姓が実際にこれを目にして、驚嘆しない者はなかったという。)豊前守に遷った。これより先、宇佐八幡の官司らはしばしば神のお告げにかこつけて偽りを作り出していたが、これまでの国司は誰一人として問いただすことがなかった。清麻呂は太宰府の監典・主典各一人、卜部三人とともに神宮に参り、亀卜によって神語の真偽を占い、太宰府に処分を行うよう求めた。(注:『宇佐託宣集』による。)まもなく清麻呂と広虫(ひろむし、清麻呂の姉)はともに和気朝臣の姓を賜った。(注:『続日本紀』による。)清麻呂の先祖の墓は備前にあったが、流罪となった後、人がその木を伐ってしまった。赦されて戻ると、上疏してその事情を訴えた。詔して清麻呂を美作・備前両国の国造とし、高祖父の佐波良(さわら)以下、代々の先祖にも国造の位を追贈した。(注:『日本後紀』『宇佐託宣集』による。)天応元年、従四位下に進んだ。延暦年間、摂津大夫となり、従四位上に叙せられ、民部大輔・中宮大夫を兼ねた。奏していう。「河内と摂津の境で、川を掘り堤を築き、荒陵の南から河内川の水を導いて西へ海に通じさせれば、肥沃な土地が広がり、開墾できるようになります」と。この奏上は認められ、清麻呂が遣わされてその事業を担当した。また奏していう。「備前国和気郡河西の百姓百七十余人が申し出て、『私どもはもと赤坂・上道の二郡に属する東海道沿いの民でした。神護二年、割かれて和気郡に編入されました。ところが今、郡の役所は藤野郷にあり、間に大河があって、雨のたびに公私ともに往来が難しく、河西では公務に支障をきたすことがしばしばです。どうか河東は元通り和気郡とし、河西には磐梨郡を建て、藤野の駅家は河西に置いて水害を避け、あわせて労役の負担を均等にしてください』と願い出ております」と。これは許可された。まもなく正四位下に進んだ。(注:『続日本紀』による。)当時、長岡の新都を造営していたが、十年経ってもまだ完成せず、費用も莫大であった。清麻呂は密かに奏上して、狩猟にかこつけて葛野(かどの)の地を視察し、遷都を進言した。(注:『日本後紀』による。)延暦十五年、従三位に進んだ。(注:『公卿補任』による。)まもなく辞職を願い出たが許されず、功田二十町を賜り、子孫に伝えさせた。同十八年、薨去した。享年六十七。正三位を追贈された。清麻呂は多くの事に通じ、特に故実に明るく、『民部省例』二十巻を撰した。また中宮の命を奉じて『和氏譜』を撰し献上した。天皇はこれを大変喜んだ。かつて備前に田百町を開墾し、永く困窮者への施しの資とした。地元の民はこれに頼った。(注:『日本後紀』『宇佐託宣集』による。)子は広世(ひろよ)・真綱(まつな)・仲世(なかよ、注:『系図』による。○仲世については『文徳実録』による)。
和気広世
¶和気広世(わけのひろよ)は、初め文章生に補せられた。延暦年間、事件に連座して禁錮の処分を受けたが、赦されて少判事となった。従五位下を授けられ式部少輔となり(注:『日本後紀』『宇佐託宣集』による)、帯剣を許され(注:『日本紀略』による)、大学別当となり、私有の田二十町を納めて勧学のための費用にすることを願い出た。明経科を四科に定め、諸儒を大学に集めて陰陽・薬経・大素などの書を講じ論じさせた。大学の南にある私邸に弘文院を設け、書籍数千巻を蔵した。開墾田四十町を永く学料に充て、父(清麻呂)の遺志を果たした。(注:『日本後紀』『宇佐託宣集』による。)
和気真綱
¶和気真綱(わけのまつな)は、若い頃から大学に学び、史書や伝記に広く通じた。二十歳前後で文章生に補せられた。弘仁から天長年間にかけて、内外の官を次第に歴任した。承和七年、参議となった。同十三年、死去した。享年六十四。真綱は生まれつき篤実で、忠孝を兼ね備えていた。職務にあたっては、決して不正にへつらうことがなかった。法隆寺の僧・善愷(ぜんがい)が少納言・登美直名(とみのなおな)の犯法を訴え出たとき、太政官は事実に基づいて裁こうとしたが、ある者が直名を援護し、逆に善愷が違法な訴えを許容したのだと誣告した。勅により明法博士に裁定させることになった。人々は皆恐れて避け、あえて正論を述べようとしなかった。真綱は慨然として言った。「塵埃の立つ道では、行く人は目を覆う。不正な裁きの場では、一人正しくあることに何の益があろうか。いっそ職を辞して、志を高く保つに越したことはない」と。そこで官を辞して門を閉ざし、世事との交わりを絶った。まもなく死去し、平素から仏道に帰依していた。天台宗・真言宗の両宗が確立したのは、広世・真綱の力によるものである。(注:『続日本後紀』による。)そもそも清麻呂は宇佐へ使いした際、帰京後に伽藍を建て、仏像・経論を安置して神の威光を助けようとした。しかし流罪に遭い、実現できなかった。延暦年間、私的に河内に神願寺を創建した。天皇は勅してこれを定額寺とした。のちに真綱が河内守となり、弟の仲世らとともに願い出て、高雄寺の地と交換し、神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改称し、僧十四人を選び、密教の修行僧十四人に、守護国界主経・調和風雨成熟五穀経などを昼夜絶えることなく転読させた。延暦七年、得度を許可された。毎年一人を得度させることとし、一代限りとした。備前の水田二十町を功田として賜り、四代にわたって伝えさせた。(注:『類聚国史』による。)真綱は少将であったとき、自らの俸禄を割いて財を出し、摂津の良い田を買って兵士たちを養った。当時の人々はこれに頼った。(注:『続日本後紀』による。)子の貞典(さだのり)は摂津守・美作守となった。観光(かんこう)は佐渡守となった。(注:『系図』による。)
¶貞典の子・時雨(ときさめ)は、医学に専心し、あわせて鍼術にも精通した。承平年間、試験に及第して医博士となった。天暦年間、典薬頭となった。康保二年、死去した。享年六十七。和気氏が医業を家業としたのは、この時雨に始まる。(注:『系図』による。)
和気仲世
¶和気仲世(わけのなかよ)は、十九歳で文章生に挙げられた。大同の初め、大学大允となり、最終的に従四位上播磨守で終わった。生来非常に孝行深く、公務に忠実謹厳で、寝るときも決して宮闕の方角に足を向けなかった。初め近江介となったが、得た俸禄はすべて貧民に施した。弾正大弼となったとき、弾正台に南門がなかったので、「中院の西門を移して弾正台の門としてください」と奏上した。私財を投じて近江国高島郡の田五町を買い、台の食費に充て、播磨守となってからも同様にした。清廉に治め、民はその恩恵を懐いた。仁寿二年、死去した。百姓はこれを慕った。子の貞臣(さだおみ)は字を和仁(わじん)といい(注:『系図』では真綱の子とする)、幼くして母を亡くし、悲しみのあまり体を損なうほどであった。叔父の真綱は深くこれを哀れんだ。二十歳前後で治部卿・安倍吉人(あべのよしひと)に師事して老荘を学び、吉人はその才能を高く評価した。人柄は聡明素朴で、雑芸には関心を持たず、ただ囲碁だけを好んだ。のちに大学に入り、熱心に研鑽を積んだ。承和年間、秀才に挙げられ、文章得業生に補せられたが、対策の試験には及第しなかった。数年後、大学大允を拝命し、大内記に遷り、従五位下に至った。三十七歳で在官のまま死去した。当時の人々はこれを惜しんだ。(注:『文徳実録』による。○文章得業生については『続日本紀』による。)