卷之第十八 本紀第十八

淳仁天皇 淡路廢帝

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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淳仁天皇

廃帝(はいてい)は、諱(いみな)を大炊(おおい)といい、天武天皇の孫で、崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい、舎人親王(とねりしんのう))の第七子である(注:一代要記には第二子とあるが、誤りである)。母は夫人(ぶにん)の当麻氏(たいまうじ)で、諸王の列に加えられた。

天平宝字元年三月、皇太子が廃された。四月、孝謙天皇は群臣を召して皇嗣を議した。右大臣・藤原豊成(ふじわらのとよなり)、中務卿・藤原永手(ふじわらのながて)らは塩焼王(しおやきおう)を推し、摂津大夫・文室珍努(ふんやのちぬ)、左大弁・大伴古麻呂(おおとものこまろ)らは池田王(いけだおう)を推した。大納言・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は「臣を知ることは君に及ぶ者なく、子を知ることは父に及ぶ者はありません。ただ天意の択(えら)ぶところに従うべきです」と言った。孝謙天皇は仰せられた。「宗室の長は舎人・新田部(にいたべ)の二親王のみであったので、道祖王(ふなどおう)を皇太子に立てた。しかし教誡に従わず、ついに淫行をほしいままにした。それゆえこれを廃した。今は舎人親王の子の中から択ぶのがよい。しかし舩王(ふなおう)は軽薄で身を修めず、池田王は孝行に欠けるところがあり、塩焼王は先帝(聖武天皇)がかつてその無礼を責められたことがある。ただ大炊王だけは、まだ年若く壮んではないが、過ちや悪しきことを聞かない。皇嗣に立てるのがよい。」そこで内舎人(うどねり)の藤原薩雄(ふじわらのさつお)を遣わし、中衛(ちゅうえ)二十人を率いて天皇を田村第(たむらのだい)に迎え、皇太子に立てた。

天平宝字二年戊戌(ぼじゅつ)、秋八月一日庚子、天皇は禅(ゆず)りを受け、大極殿において即位した(注:一代要記には十八日に即位した、とあるが誤りである。また平城の甘樫宮(あまかしのみや)に都したともあるが、本書には見えないので記さない)。時に26歳(注:年齢は本書に皇太子に立てられたとき25歳とある記述、および水鏡・愚管抄・歴代皇紀による)。百官および僧綱(そうごう)は朝堂に参上して上表した。孝謙天皇に尊号を奉り、上台宝字称徳孝謙皇帝(じょうだいほうじしょうとくこうけんこうてい)と称した。皇太后を尊んで中台天平応真仁正皇太后(ちゅうだいてんぴょうおうしんにんしょうこうたいごう)と称した。孝謙天皇は詔して仰せられた。「朕は卿らの請うところを見るに、この大業はまことに峻(たか)く、慎み畏れることはなはだ深い。顧みれば寡薄(かはく)な身をもって、どうしてこの美名にふさわしかろうか。しかし上天は加護を降し、帳(とばり)の文字は太平を開き、厚地は祥(さいわ)いを薦め、蚕(かいこ)の文様は徳を表した。天意には逆らいがたく、うつむいて衆願に従うこととする。また皇太后に尊号を奉ることを見て、感激と喜びが胸に交わる。公卿の上表するところに従い、耆宿(きしゅく)・緇徒(しと、僧)の請うところによって、この維新の号を受けるのに、どうして旧を洗い清める令がなくてよかろうか。百官の名を改め、寛大の恩沢を施すべきである。天下の禁獄されている囚徒は、罪の軽重を問わず、みな放免せよ。」紫微内相(しびないしょう)の藤原仲麻呂は元のままとした(注:「紫微内相」以下は公卿補任による)。九日戊申、勅して仰せられた。「子がその父を尊ぶのは、礼家の称えるところである。策書に大いなる名を記すのは、古人の貴ぶところである。昔、先帝・聖武天皇は敬んで大誓を発し、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅の大像を造った。すでに銅を鎔(と)かして像は成ったが、塗る金が足りなかった。天はその至心の誠に感じ、地は勝宝の金を出した。ここにおいて国家に初めて竒珍(きちん)が現れた。開闢このかた、いまだかつてこのようなことは聞いたことがない。また賊臣が悪を懐いて社稷を危うくしようと謀っても、その威武を畏れて、みな自ら馴れ服した。聖武天皇の徳は、古(いにしえ)に比べてもなお余りあると言えよう。しかしこの大業を奉じ顕彰しなければ、どうして後世に示すことができようか。そこで旧典によって尊号を追い奉り、策(みことのり)して勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)と称え、諡(おくりな)して天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのみこと)と称える。この美名を万代に伝え、盛んな実(じつ)を千秋に揚げようと欲する。あまねく遠近に告げ、朕の意を知らしめよ。日並知皇子命(ひなみしのみこのみこと、草壁皇子)を追尊して、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)と称える。」十八日丁巳、明年の運(めぐりあわせ)が三合(さんごう)にあたるとして、文武百官と天下の百姓の老若に、摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)を念誦するよう勅使をもって命じた。十九日戊午、従三位・池田王を遣わし、斎王(さいおう)を定めたことを大神宮(伊勢神宮)に告げさせた(注:本書にはその名を載せない。一代要記を按ずるに、この月、山於女王(やまとのじょおう)を斎王としたとある)。また使者を遣わし、大神宮および諸国の神社に幣帛を奉り、即位を告げさせた。二十五日甲子、紫微内相・藤原仲麻呂、中納言・石川年足(いしかわのとしたり)らに勅して、「官制を改め易(か)えよ。太政官を乾政官(けんじょうかん)とし、太政大臣を太師(たいし)、左大臣を太傅(たいふ)、右大臣を太保(たいほ)、大納言を御史大夫(ぎょしたいふ)といい、紫微中台を坤宮官(こんぐうかん)とし、中衛大将を太尉(たいい)という」とした。この日、仲麻呂を太保とし、あわせて恵美(えみ)の姓を賜い、名を押勝(おしかつ)と改めさせた。九月十八日丁亥、小野田守(おののたもり)が渤海(ぼっかい)より至った(注:本書には田守が渤海に使いしたことを記さない。おそらく欠文であろう)。冬十月二十五日甲子、勅して仰せられた。「吏(り)は民の本である。しばしば遷り代われば、民は従うべきところを知らない。ただその任を長く保ってこそ、民はその徳に服して教化に従い、その業に安んじてその令を信じるのである。近年、国司の交替はいずれも四年を限りとしているが、これはかえって民を労するばかりで、教化を行き渡らせるには及ばない。孔子は『もし私を用いる者があれば、三年で成果をあげよう』と言った。大聖の徳をもってしてもなお三年を要するのに、まして凡庸な人においてをや。古(いにしえ)には三年ごとに功績を考え、三度の考課で黜陟(ちゅっちょく、進退を決めること)を行い、善を表して悪を簡(えら)び除き、臣や庶人にそれぞれその力を尽くさせたものである。今より以後は、六年を限りとし、送故迎新(古きを送り新しきを迎える)の費えを省くべきである。三年ごとに巡察使を遣わして政績を推し調べ、民の憂いを慰問させよ。二度の任期が満ちるのを待って、その状況に応じて黜陟せよ。これにより貪欲の風俗を改め、ことごとく清らかな風に変え、民が肩の荷を下ろして休み、倉廩(そうりん)が満ちることを願う。」十一月二十三日辛卯、乾政官院に出御し、大嘗(だいじょう)を行った。十二月十日戊申、渤海に遣わした使者・小野田守が奏上した。「安禄山(あんろくざん)が唐において乱を起こし、唐国は大いに乱れています。」そこで太宰府に勅して仰せられた。「安禄山という者は、狂った胡人(こじん)の狡猾な小僧にすぎない。天に逆らい上を犯すのだから、事は必ずうまくいかないであろう。彼が西方を図ることができなければ、かえって海東(日本)を掠(かす)めるやも知れぬ。古人は『蜂やさそりでさえなお毒があるのに、まして人においてをや』と言った。太宰府帥(そち)の舩王(ふなおう)、大弐・吉備朝臣真備(きびのあそみまきび)は、ともに碩学(せきがく)であり、名は当世に顕れ、朕の心にも留めている。重任を委ねるので、この事情を知り、あらかじめ備えをせよ。」

三年己亥、春正月三日庚午、渤海が来貢した(注:本書には高麗と書く。案ずるに、この時すでに高麗は滅び、渤海がその地を有していた。本書はその旧号を挙げて、渤海・高麗と交互に書いている。今は一律に渤海と書き、その実を示すこととする。以下もこれに倣う)。七日甲戌、雨のため節宴(せちえん)を停止した。三月一日丁卯、日食があった。夏五月九日甲戌、太上天皇孝謙は勅して仰せられた。「朕は煢昧(けいまい、孤独で暗愚なさま)をもって、謹んで聖烈を承(う)け継いだ。母として天下に臨み、子として万民を育てる。一物のわずかな違いを見ても、堯(ぎょう)の心にいまだ洽(あまね)からぬことを恨み、万方に罪ある者があると聞けば、湯王(とうおう)が自らを責めたことを思って恥じ入ること多い。今、大乱はすでに平定され、逆臣は遠くに竄(のが)れたが、それでもなお天災はしばしば現れ、水害はしきりに至っている。ひそかに恐れるのは、聴くことが黎元(れいげん、民)から隔てられ、人が冤罪を抱いていること、鑑(かがみ)が宇宙にあまねく及ばず、家々が鬱憂を懐いていることである。広く嘉言(かげん)を採り、あまねく良策を尋ねたいと願う。衆智に憑(よ)って国を益し、群明に頼って人を利したい。百官の五位以上、緇徒(しと)の師位以上に、それぞれ意見を書かせ、密封して表を奉らせよ。直言正対して、隠し憚ることのないように。朕は宰相とともに、可否を審らかに簡(えら)ぶ。いつわって聖徳を称え、いたずらに媚びて容(い)れられようとしてはならない。面前で述べることを肯(がえ)んぜず、退いて後に誹るようなことがあってはならない。あまねく遠近に告げ、朕の意を知らしめよ。」(注:本書は孝謙天皇に尊号を奉ったと書くが、太上天皇となったことは載せていない。宝字三年六月の宣命に「我が皇(すめら)聖太上天皇」の文があることから、今はこれに拠って太上天皇と書く)この日、諸国に常平倉(じょうへいそう)を置くよう勅した。六月二日丙申、僧・普照(ふしょう)の奏上により、路傍に果樹を植えさせ、旅人がその陰に憩って実を食べられるようにせよと勅した(注:「二日」以下は水鏡による。元亨釈書はこれを去年のこととする)。十六日庚戌、詔した。「亡き父・舎人親王を追尊して、崇道尽敬皇帝と称する。母の当麻夫人を尊んで太夫人とし、その兄弟姉妹を親王とする。」十八日壬子、新羅を討伐しようとし、太宰府に「行軍の式(規則)を造れ」と勅した。二十二日丙辰、勅して仰せられた。「国を治める要は、人を簡(えら)ぶことに勝るものはない。人を簡んで能に任じれば、民は安んじ国は富む。今、内外の官人は、かつて廉恥ということを知らず、志は貪り盗むことにある。これはどうして人の稟性(ひんせい、生まれつきの性質)であって、みな不良だというのであろうか。おそらくは宰相の訓導が力不足だからであろう。誘い教えを加え、それぞれに令名を立てさせ、維城(いじょう、皇室を守る垣)の典訓(てんくん)によって、政をなす規模を敍(の)べ、身を修める検括(けんかつ、取り締まり)を著すべきである。律令格式は当今の要務を録し、庶官の紀綱を具えている。いずれも国を安んじ民を治める道を窮め、世を済(すく)い教化を弼(たす)ける宜(よろ)しきを尽くすものである。しかし父兄がこれを識(し)らなければ、どうして子弟を導けようか。官吏がこれを行わなければ、どうして士民を教えられようか。もし仁義礼智信の善を修め、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・淫・盗の悪を戒め、あわせて前の二書(律令格式と維城典訓)を読む者があれば、これを挙げて察し、品に随って昇進させよ。今より以後、この類の者を除いては任用してはならない。史生(ししょう)以上は、悪を懲らし善を勧め、名を重んじ物を軽んじるようにさせよ。」この日、百官および師位の僧らは、それぞれ封事(ふうじ)を上って得失を陳べた。二十三日丁巳、諸国に放生池(ほうじょういけ)を置き、漁を捕ることを厳しく禁じるよう勅した(注:「二十三日」以下は類聚国史による)。秋八月六日己亥、太宰帥(だざいのそち)・船親王(ふねしんのう)を香椎廟(かしいびょう)に遣わし、新羅討伐を告げさせた。二十九日壬戌、太宰府で大風があった。九月十九日壬午、新羅征討のため、諸国に戦艦五百艘を造らせるよう勅した。冬十月、京畿(けいき)で大風があり、廬舍(いおり)が壊れた。十一月二日甲子、風害に遭った者の今年の田租を免じた。九日辛未、坂東八国に勅して仰せられた。「陸奥から急な援助の求めがあれば、国ごとに兵二千を差し発し、精幹な国司一人を選んで、これを率いて救援させよ。」この日、国分二寺の図を天下に頒布した。十六日戊寅、保良宮(ほらのみや)を造った。十月二日甲午、授刀衛(じゅとうえい)を置いた。

四年庚子、春正月二日甲子、車駕(天皇)は太保(たいほ)・藤原恵美押勝(ふじわらのえみのおしかつ)の邸に行幸した。四日丙寅、太上天皇に従って内安殿(うちのあんでん)に出御した。太保・押勝を太師(たいし)とした。五日丁卯、渤海が来貢し、天皇は太上天皇に従って押勝の邸に行幸した。二十一日癸未、巡察使を七道に遣わした。文部少輔(もんぶしょうゆう)・藤原楓麻呂(ふじわらのかえでまろ)は東海道、仁部少輔・石川公成(いしかわのきみなり)は東山道、河内少掾・石上奥継(いそのかみのおきつぐ)は北陸道、尾張介・淡海三船(おうみのみふね)は山陰道、右少弁・布勢人主(ふせのひとぬし)は山陽道、典薬頭・馬夷麻呂(うまのえみまろ)は南海道、武部少輔・紀牛養(きのうしかい)は西海道を担当した(注:本書ではこの記事を丙寅の条の上に置いているが、今は甲子の条に推し定めて記す)。二月二十九日庚申、仁王会(にんのうえ)を宮中および東大寺で設けた。三月十六日丁丑、新銭を鋳造するよう勅した。金銭・銀銭をあわせて通用させた。夏閏四月二十三日壬午、大般若経を宮中で転読させた。五月十八日丁未、京師の六大寺で経を誦(じゅ)させた。十九日戊申、勅して仰せられた。「聞くところによれば、『近ごろ疾疫が流行し、民が飢え苦しんでいる』という。天下の高年、鰥寡孤独(かんかこどく)、廃疾の者、および疫にかかった者には、当道の巡察使は国司とともに、親しく患苦を問い賑給(しんごう)せよ。」六月七日乙丑、天平応真仁正皇太后が崩じた。癸卯、皇太后を葬った(注:今、干支を推算するに、この月は己未朔で、癸卯の日はない。錯誤があるのではないかと思われる)。

秋七月一日戊子、日食があった。八月十八日乙亥、小治田宮(おはりだのみや)に移り御した。九月十六日癸卯、新羅が使者を遣わして朝貢してきたが、その礼を失していたので、これを卻(しりぞ)けた。冬十一月六日壬辰、日南至(にちなんし、冬至)であった。勅して仰せられた。「先年、逆徒は家ごとに羅網(らもう)を掛けられるような有様であった。今年の巡察では、人々は憲章を畏れている。古人は『盗人が財主を窺うのには、そうなる由来がある』と言っている。身を撫でて自ら訟(せ)め、責めは元首(君主)に帰する。静かにこれを念うに、憂う心は灼(や)けるようである。書経にも『徳は善政にあり、政は民を養うにある』と言っているではないか。今、陽気は初めて萌(きざ)し、日南至はすでに至り、地維(ちい)は物を育て、天道は更(あらた)めて生ずる。地を承けて仁を施し、天に順って恵みを降すべきである。この黔庶(けんしょ、民)をして、時とともに新たならしめよう。天下に大赦する。」十二月十二日戊辰、勅した。「大皇太后・皇太后の墓は、ともに山陵と称し、国忌(こくき)を置け。」この年、上野(こうずけ)で飢饉があった。伊勢・志摩・近江・美濃・若狭・伯耆(ほうき)・石見(いわみ)・播磨・備中・備後・安芸・周防・紀伊・淡路・讃岐・伊予で疫病が流行した。それぞれ賑給(しんごう)した。

五年辛丑、春正月一日丁亥、新宮がまだ完成していなかったので朝賀を廃した。七日癸巳、太史局(たいしきょく)の奏上により、小治田岡本宮(おはりだのおかもとのみや)に遷り御した。十一日丁酉、小治田宮より還り、武部曹司(たけべのぞうし)に御した。この月、下野(しもつけ)の薬師寺・筑紫の観世音寺に戒壇(かいだん)を築くよう勅した(注:「この月」以下は元亨釈書・帝王編年記による)。三月二十四日己酉、茅原王(ちはらおう)を多褹島(たねのしま)に流した。夏六月十七日庚午、大和介・日置真卯(へきのまう)の廉勤を賞し、稲一千束を賜った。秋七月一日癸未、日食があった。二日甲申、巡察使の奏上により、筑紫の七国に甲(よろい)・刀・弓矢を造らせ、不虞(ふぐ、不測の事態)に備えさせた。十九日辛丑、遠江(とおとうみ)の荒玉河(あらたまがわ)の堤が決壊したので、これを修築した。八月一日癸丑、勅して仰せられた。「近ごろ七道の巡察使の奏状を見るに、いまだ一国たりとも守領(しゅりょう)の政が公平にかなっている所はない。貪り濁った人が多く、清白の吏は少ない。朕が聞くところでは、賢哲でない者を授ければ万事ことごとく邪(よこしま)になり、その才に任せれば庶務はことごとく理(おさ)まるという。ただ国司という一職は、みずから百姓を管し、風俗を奨導し、黎民(れいみん)を慈しみ撫でるものであるから、とりわけ精しく簡ぶ必要があり、必ずその職にふさわしい者でなければならない。しかるに家にあって孝なく、国にあって忠なく、利を見て義を遺(わす)れ、財に臨んで恥を忘れ、上との交わりは礼に違い、下との接し方は諂(へつら)いが多く、政を施して不仁であり、民のために苦酷である者がいる。辺要の地に差し遣わされれば、病が重いと偽って称し、要職に任用されれば、われ先にと自ら拝そうと競う。教義を聞かず、典章に従うこともない。意を措(お)き心を属(つ)けるのはただ利のみを視ることで、憲法を巧みに弄(もてあそ)び、次第に皇化を汚している。このような輩は、風を壊し俗を乱す者である。たとえ周公のような才があっても、もとより見るに足りない。田園に還し退けて、耕作に勤めさせるべきである。もし過ちを悔いて自ら新たにする者があれば、必ず褒賞を加える。迷いの道から返らない者は、終身これを貶黜(へんちゅつ)する。あまねく遠近に告げ、衆庶に諭し知らしめよ。」十二日甲子、太上天皇に従って薬師寺に行幸し、仏を礼した。還って授刀督(じゅとうのかみ)・藤原御楯(ふじわらのみたて)の邸に御し、宴飲した。冬十月十三日甲子、保良宮(ほらのみや)に行幸した。十九日庚午、車駕は近江按察使(あぜち)・藤原御楯の邸に臨んだ。ついで太師・押勝の邸に臨み、宴飲して従官に物を賜うこと差があった。二十二日癸酉、右虎賁衛督(うこほんえいのかみ)・仲石伴(なかのいわとも)を遣唐大使、上総守・石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)を副使、武蔵介・高麗大山(こまのおおやま)を遣渤海使とした。二十八日己卯、平城宮の修理のため、しばらく保良宮に御した。詔した。「近江および左右京・大和・和泉・山背の今年の田租を免じ、近江には曲赦(きょくしゃ、特別の恩赦)を行う。」十一月十七日丁酉、従四位下・藤原恵美朝猟(ふじわらのえみのあさかり)を東海道節度使、従三位・百済敬福(くだらのきょうふく)を南海道使、正四位下・吉備真備を西海道使とし、船三百九十四艘、兵四万七百を点(かぞ)え、いずれも三年間の田租を免じて、騎射・陣法を習わせ、あわせて兵器を造らせた。この年、五穀が実らず、飢え死ぬ者が多かった(注:「この年」以下は宝字七年の詔による)。

六年壬寅、春正月一日庚辰、宮室がまだ完成していなかったので朝賀を廃した。二日辛巳、日食があった。二十八日丁未、太宰府に命じ、綿襖冑(めんおうちゅう)二万二百五十具を造らせた。二月六日乙卯、綿甲冑(めんかっちゅう)一千領を造り、鎮国衛府(ちんこくえいふ)に充てた。夏四月八日丁巳、河内の狭山池(さやまいけ)の堤を修めた。五月九日丁亥、美濃・飛驒・信濃で地震があった。被災者に穀物を賜い、一家に二斛(こく)とした。二十三日辛丑、車駕は平城宮に還り、中宮院(ちゅうぐういん)に御した。太上天皇は法華寺に御した。六月三日庚戌、太上天皇は五位以上を朝堂に召し、「みずから国家の大事を決する」と詔を宣べた。二十一日戊辰、河内の長瀬(ながせ)の堤を修めた。秋八月十一日丁巳、左右京尹(きょういん)・藤原恵美訓儒麻呂(ふじわらのえみのくすまろ)、文部大輔・中臣浄麻呂(なかとみのきよまろ)らに中宮院に侍(はべ)らせ、勅旨を伝え宣べさせた。冬十月一日丙午、伊吉益麻呂(いきのますまろ)らが渤海より至った(注:本書を按ずるに、大使・高麗大山は舟中で病にかかって卒し、それゆえ副使の益麻呂が使命を奉じて還ったのである)。十一月三日丁丑、御史大夫・文室浄三(ふんやのきよみ)らを遣わし、大神宮に幣帛を奉らせた。十六日庚寅、参議・藤原巨勢麻呂(ふじわらのこせまろ)らを遣わし、香椎廟に幣帛を奉らせ、新羅征討のため軍旅を調え習わせることを告げさせた。二十六日庚子、天下の神祇に幣帛および弓矢を奉った。二十八日壬寅、使者を遣わし、天下の群神に幣帛を奉らせた。この年、尾張・参河(みかわ)・遠江・下総・美濃・能登・備中・備後・讃岐で旱魃(かんばつ)があった。京畿および伊勢・尾張・遠江・近江・美濃・若狭・越前・石見・備前で飢饉があった。陸奥で疫病が流行した。それぞれ賑給した。

七年癸卯、春正月三日丙午、渤海が来貢した。十五日戊午、詔した。「聞くところによれば、去る天平宝字五年、五穀が実らず、飢えて死ぬ者が多かったという。その五年以前の公私の未納(逋負、ほふ)は、みな免除すべきである。」十七日庚申、渤海使が「唐国の乱はいまだ息(や)みません」と奏上した。太宰府に勅して仰せられた。「唐国は喪乱(そうらん)にあり、使命が通じがたい。唐人の沈惟岳(しんいがく)らは、安んじて優遇し給養せよ。もし故郷を懐かしんで帰ることを願う者があれば、船を給して発遣せよ。」二十一日甲子、内射(うちのいい、宮中での弓射の儀)を行った。二月十日癸未、新羅が使者を遣わして調(みつぎ)を貢いだが、これを卻けた。夏四月一日甲戌、京師の米価が騰貴していたので、左右京の穀を糶(う)った。五月二十八日庚午、旱(ひでり)のため、四畿内の諸神に幣帛を奉った。秋八月一日辛未、勅して仰せられた。「聞くところによれば、『去年は霖雨(りんう、長雨)、今年は亢旱(こうかん、ひでり)にあい、五穀が実らず、米価が高騰し、百姓は飢饉して疾疫で死亡している(注:本書を按ずるに、去年は旱と書くのみで、霖雨とは書かない。おそらく欠文であろう)』という。朕はこのことを念うたびに、情はまことに傷み惻(いた)む。京畿七道の諸国の今年の田租を免ずべきである。」十八日戊子、山陽・南海などの道の諸国が旱にあったので、両道の節度使を停止した。この日、儀鳳暦(ぎほうれき)を廃し、大衍暦(たいえんれき)を行った。九月一日庚子、勅して仰せられた。「疫病による死者が多数にのぼり、水害と旱害が時ならず起こり、神火(落雷などの火災)がしばしば起こって官物を耗損させている。これは国司・郡司らが神に仕えて不恭(ふきょう)であった咎(とが)である。また一旬(いっしゅん、十日)の亢旱で焦げ枯れる憂いを招き、数日の霖雨で流亡の嗟(なげ)きを抱くことになる。これは国司・郡司らが民を使うのに時を失し、堤堰(ていえん)を修めない過ちである。今より以後、このような者があれば、目(さかん)以上は、みなその職を遷し替え、長くその職に居させて百姓を労し騒がせることのないようにせよ。さらに良材を簡んで、速やかに登用すべきである。拙(つたな)い者を田に帰らせ、賢者を官に在らしめ、それぞれその職を修めさせ、民の憂いとなることのないようにせよ。」四日癸卯、僧・道鏡(どうきょう)を少僧都(しょうそうず)とした。冬十月四日癸酉、山背(やましろ)に行幸した。この年、大和・河内・摂津・尾張・近江・美濃・信濃・陸奥・出羽・越前・能登・丹波・丹後・播磨・備前・備中・備後・淡路・阿波・讃岐・伊予で飢饉があった。摂津・山背・伊賀・壱岐で疫病が流行した。それぞれ賑給した。但馬・伯耆・出雲・石見では穀物の収穫が実らなかったので、使者を遣わして損害を調べさせた。

八年甲辰、春三月十九日丙辰、淡路がしきりに旱にあったので、種子を給した。二十二日己未、勅して仰せられた。「急を周(すく)う言葉は、義として昔の聖人が著したところである。飢えを救う恵みは、道としてかねてより修められてきた。近年、水害と旱害があり、民はやや餒乏(だいぼう、飢えとぼしいこと)している。東西の市頭(いちがしら)には、食を乞う者が多い。これらが居所を失っていることを思うと、情は納隍(のうこう、堀に落ちた者を救うような切なる思い)にいたむ。ところが聞くところによれば、糺政台(きゅうせいだい)の少疏(しょうそ)・正八位上の土師島村(はじのしまむら)が、蓄えていた食糧を出して、困窮し死にかけた者十余人を養い助けたという。その事は小さいとはいえ、義として褒めるべきである。よって位一階を授ける。今より以後、このような者があれば、所司はこれを検察し、実を録して官に告げよ。」この春、摂津・出雲・石見・播磨・備前・備中・備後で飢饉があり、志摩で疫病が流行した。それぞれ賑給した。夏四月十六日癸未、旱のため、畿内の神社に幣帛を奉らせた。この夏、美作(みまさか)・阿波・讃岐・伊予で飢饉があり、淡路で疫病が流行した。それぞれ賑恤した。秋七月十七日壬子、東海道節度使を罷めた。八月三日戊辰、節部省(せつぶしょう)の倉が火災にあった。十四日己卯、使者を大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐に遣わし、池を作らせた。九月二日丙申、太師・押勝を、四畿内・三関(さんげん)・近江・丹波・播磨などの国の兵事を都督する使とした。十一日乙巳、押勝が謀反した。近江に走ってこれに拠り、道祖王の兄・冰上塩焼(ひかみのしおやき)を立てて帝と称させた。従五位下・藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ)に勅し、兵を率いてこれを討伐させた。この日、参議・吉備真備を中衛大将に兼ねさせた(注:「この日」以下は本書の宝亀六年十月の記事による。ただし年のみで月日を記さないため、今は公卿補任に従う)。十三日丁未、使者を遣わして大神宮に幣帛を奉らせた。十四日戊申、太宰員外帥(だざいのいんがいのそち)・藤原豊成を、再び右大臣とした。十八日壬子、押勝・塩焼が誅に伏し、残党はことごとく平定された。二十日甲寅、太上天皇は詔を下した。「僧・道鏡を大臣禅師(だいじんぜんじ)とし、職分封戸(しきぶんふこ)は大臣に一準(いちじゅん、同等)とする。」二十二日丙辰、太上天皇は「押勝が改めた官名は、すべてもとに復せ」と勅した。この秋、石見で疫病があり、多褹島(たねのしま)で飢饉があった。それぞれ賑贍(しんせん)した。山陽・南海の二道で旱害と疫病があった。冬十月二日乙丑、放鷹司(ほうようし)を廃し、放生司(ほうじょうし)を置いた。

九日壬申、太上天皇は兵部卿(ひょうぶきょう)・和気王(わけおう)、左兵衛督(さひょうえのかみ)・山村王(やまむらおう)、外衛大将・百済敬福らを遣わし、兵数百を率いて中宮院を囲ませ、天皇を廃して淡路公(あわじこう)とした。天皇は惶遽(こうきょ、あわてふためくこと)して、衣も履(くつ)も間に合わなかった。使者はこれを促した。侍衛は奔り散り、従う者はわずか二、三人であった。徒歩で図書寮(ずしょりょう)の西北に至り、生母の当麻氏とともに小子門(おうこもん)に至って、駅馬(はゆま)に乗せられた。右兵衛督・藤原蔵下麻呂に配所まで衛送させ、一院に幽閉した。太上天皇は重ねて朝政に莅(のぞ)んだ。

明くる年二月、淡路守(あわじのかみ)・佐伯助(さえきのたすく)に勅して仰せられた。「聞くところによれば、配流された罪人が、しだいに逃亡を企てているという。事にもし実があるならば、どうして早く奏上しないのか。汝は行って監察し、その動静を報告せよ。」また詔を宣べて仰せられた。「廷臣の中には、あるいは淡路に心を通わせ、復位を謀る者がいる。しかし彼(淡路公)は人となり昏愚(こんぐ)で不善であり、天下を治めさせるには足りない。逆賊に党(くみ)し、あやうく国家を覆すところであった。どうしてこの人物を再び四海に臨ませてよかろうか。姦謀を杜絶(とぜつ)し、詔旨を遵守すべきである。」これより守衛はますます厳しくなった。十月二十二日庚辰、天皇は憂憤に堪えず、垣を踰(こ)えて逃れた。佐伯助らは兵を率いてこれを邀(むか)え撃った。明くる日、院中で崩じた(注:一代要記には九月に崩じたとあるが、誤りである)。御年33歳(注:年齢は本書に皇太子に立てられたとき25歳とある記述、および皇代記・神皇正統記による)。

宝亀三年八月、光仁天皇は従五位下・三方王(みかたおう)らを淡路に遣わし、改葬させた。斎(とき)を設けて僧を得度させ、永く功徳を修めた。九年三月、勅した。「墓を山陵と称する。生母の当麻氏の墓は御墓(みはか)と称する。守陵一戸を置く。」(注:延喜式・水鏡はともに、廃帝陵は淡路三原郡にある、とする)