卷之第十九 本紀第十九
稱德天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
稱德天皇
¶称徳天皇(しょうとくてんのう)は、初め皇位を廃帝(淳仁天皇)に伝え、尊号を受けていた。しかしまもなく廃帝は僧・道鏡を深く憎み、常にこれを言葉にした。天皇はこれを快く思わなかった。
¶天平宝字六年、保良宮より平城宮に還った。天皇は法華寺(ほっけじ)に居を移した。五位以上を朝堂に召し、詔を宣べて仰せられた。「岡宮天皇(おかのみやのすめらみこと、草壁皇子)の皇統は絶えようとしていた。朕は女子の身をもって、皇太后のご命令を奉じ、謹んで宝位を膺(う)け、政を行うこと日久しく、帝(淳仁天皇)を立てて嗣(よつぎ)とした。しかし帝は不恭不順にして、かえって怨仇(えんきゅう)をなすに至った。朕の言わないことを誣(し)いて言ったこととし、朕の行わないことをまた行ったこととした。朕がこのようなことを招いたのは、実にわが薄劣によるものである。深く自ら愧(は)じ赧(あか)らみ、まさに菩提心を発すべきである。よい機縁はここにあるので、出家して仏弟子となる。ただし朝廷の小事は今の帝がこれを行い、国家の大事、賞罰の二柄(にへい)は、朕みずからこれを決することとする。」(注:一代要記・歴代皇紀・元亨釈書はいずれも、法名を法基(ほうき)とする)
¶八年十月九日壬申、山村王(やまむらおう)を遣わして詔を宣べさせた。「近年、帝の徳に欠けるところがあり、大業を負い持つに堪えなかった。かつまた藤原仲麻呂と心を同じくし、朕の身を図(はか)ろうとして、ひそかに兵六千を発し、関に入って乱を作(な)そうと謀ったと聞いている。それゆえ廃して親王とし、淡路公の爵位を賜い、船親王(ふねしんのう)を隠岐に、池田親王(いけだしんのう)を土左に流す。」これより天皇は重ねて万機に臨んだ(注:「天皇」以下は本書の明年十一月の記事による。愚管抄・一代要記・帝王編年記はいずれも、明年正月一日に即位したとするが、何に拠るか分からない)。右大臣・藤原豊成はもとのままであった(注:公卿補任による)。十一日甲戌、勅した。「天下諸国で鷹・狗(いぬ)および鵜(う)を飼うことを禁じ、贅(にえ、供御)として肉・魚を進めることを停め、また中男作物(ちゅうなんさくもつ)に魚・肉・蒜(にんにく)などを用いることを停め、すべて他の物に易えよ。ただし神戸(かんべ)はこの限りではない。」十四日丁丑、詔を宣べて仰せられた。「百官の所司はみな『まさに皇太子を立てて、鴻基(こうき、大業の基)を定めるべきである』と言う。朕はこれを念わないわけではない。しかし衆の推すところは必ずしも克(よ)く終わるとは限らず、天が与えないものは、たとえ得ても必ず喪(うしな)う。人はみだりに授けることができず、力ずくで競い得ることもできない。天が授けるところには、おのずからその人がいる。ひたすら大宝を貪り、あえて嗣(よつぎ)を定めようとしているわけではない。天意の向かうところは、久しくすれば必ず彰(あきら)かになるであろう。」また勅して仰せられた。「衆は援(たす)け立てることで己の功を成そうとする。ひそかに儲位(ちょい、皇太子の位)を議し、心を通じ謀を合わせ、勧誘して党を樹てれば、事は成らず、家門は滅亡し、子孫は永く絶える。今より以後、忠貞明白にして、教えに遵(したが)い奉承すべきである。」十六日己卯、勅して仰せられた。「朕は忝(かたじけな)くも万邦に臨み、一物にも慮(おもんぱか)りを軫(いた)し、朝(あした)には治を思い、夕べには競競として慎んでいる。しかるに賊臣・仲麻呂は昏凶狂悖(こんきょうきょうはい)にして、逆を作して逋亡(ほぼう、逃亡)した。天網は高く張られ、みな誅戮(ちゅうりく)に伏した。朕は黎庶(れいしょ)を思い、旧悪を洗い滌(すす)ぎ、善に遷り自ら新たならしめようと思う。天下に大赦すべきである。ただし仲麻呂の党与、および常赦(じょうしゃ)で免れない者は、赦の限りではない。また近年、水害と旱害により豊作を得られず、民はあるいは飢乏し、軍役はなお興っている。天下の今年の租を免じるべきである。」二十一日甲申、勅した。「京師の禁獄されている囚徒、大辟(たいへき、死罪)以下を赦す。ただし逆賊・仲麻呂、および淡路公・船王・池田王の党与は、赦の限りではない。」癸巳晦(つごもり)、勅した。「定額(じょうがく)および額外(がくがい)の散位(さんい)らが労銭(ろうせん)を輸続(ゆぞく)することを停め、東海・東山の諸国に騎女(きにょ)を貢がせよ。」十一月十二日乙巳、西海道節度使を罷めた。二十日癸丑、使者を遣わして近江の名神に幣帛を奉らせ、賊を討った祈りに賽(むく)いさせた。十二月二十八日庚寅、勅して仰せられた。「朕は寡徳をもって万民に君臨しているが、善き教化はいまだ宣(の)べ及ばず、刑罰に処せられる者はなお多い。天下に大赦すべきである。常赦で原(ゆる)されない者も、赦の限りではない。もし死罪に入る者があれば、みな一等を減じよ。」この月、西方に雷のような音があり、大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)の境で、煙と雲が晦冥(かいめい)となり、七日間晴れなかった。海辺の砂石が集まって三つの島となり、民家を埋没させた。この年、兵乱と旱害が相継ぎ、米は一石が千銭であった。
¶天平神護元年乙巳、春正月一日癸巳、西宮前殿に出御して朝賀を受けた。七日己亥、詔して仰せられた。「朕は眇身(びょうしん、小さき身)をもって、忝くも宝祚(ほうそ)を承け、徳化はいまだ聞こえず、姦回(かんかい、よこしまな者)がしばしば現れた。疫癘(えきれい)がしきりに至り、年ごとに実らず、物を傷つけ所を失わせることは、深い堀に落ちるかのようであった。賊臣・仲麻呂は、外戚の近臣として先朝(聖武・孝謙朝)に用いられ、委任に堪えると思って、さらに猜疑することがなかった。どうして思いはかったであろうか、彼が禍害を包み蔵し、蠆毒(たいどく、さそりの毒)を天下に流行させ、人と神の怒りを犯し、怨気が天を感動させることになろうとは。幸いにも神霊が国を護り、風雨が軍を助けたことにより、十日と経たぬうちに、みな誅戮に伏した。今、元悪はすでに除かれ、ともに善に遷ることとなった。旧き穢れを洗い滌ぎ、万物とともに更に新たにする。天平宝字九年を改めて天平神護元年とすべきである。」(注:一代要記には十七日に改元したとあるが、誤りである)また詔を宣べて仰せられた。「そもそも群臣を褒賞するには、それぞれ分がある。あるいは平日の勤労をもってし、あるいは軍旅の功績をもってする。しかし今、位を進め官を授けるのは、常の制とは異にすべきである。治平の日にあたっては、誰もがその職を奉じないことはない。さきに国家に事があったとき、群臣は力を竭(つ)くし、身命を惜しまず、心を貞浄(ていじょう)に執って朝廷を護衛した。その功を録して、甄(あき)らかに推し奨(しょう)すべきである。今より後、黽勉(びんべん)して懈(おこた)ることなく、庸劣な者を教え導き、いよいよ勤恪(きんかく)を存(たも)て。」ここにおいて群臣の位を進め、五位以上に宴し、物を賜うこと差があった。八日庚子、勅した。「官軍が通過した近江の高島郡の調庸を二年、滋賀・浅井の二郡を一年免除する。あわせて没官物(もっかんぶつ)をもって、量りて賑恤(しんじゅつ)を加えよ。」二月三日甲子、授刀衛(じゅとうえい)を改めて近衛府とし、初めて内厩寮(ないきゅうりょう)を置いた。八日己巳、従三位・藤原蔵下麻呂を近衛大将とした。二十九日庚寅、左右京の粟を東西の市で糶(う)り、一斗百銭とした。この月、京師で米が高値となった。西海道の諸国に私米を運ばせた。三月二日癸巳、勅した。「近年、旱に遭い、百穀が実らない。朕はこれを甚だ愍(あわ)れむ。去年実らなかった国が、今年実りを得たならば、これを徴し納めさせよ。もし今年もまた実らない国があれば、秋の時節に至って勅の処分を待て。備前・備中・備後の三国は、長年亢旱にあい、荒廃はとりわけ深い。これにより負っている正税は、進め納めることができない。天平宝字八年以前の官稲の未納は、すべてこれを免じる。」四日乙未、参河・下総・常陸・上野・下野が旱にあったので、詔して今年の調庸の十分の七、八を免じた。五日丙申、勅した。「天下の人民がほしいままに墾田(こんでん)を行うことを禁じる。また王臣が私に兵器を貯えることを禁じる。すでに所有する物は、みな官に輸(おさ)めさせよ。」夏四月十六日丁丑、左右京の穀一千石を東西の市で糶った。五月二十六日丙辰、穀一千石を貧民に糶った。六月十日庚午、穀一千石、塩百石を貧民に糶った。秋七月十四日甲辰、左右京の穀三千三百石を諸司の官人に糶った。八月一日庚申、参議・兵部卿(ひょうぶきょう)・和気王(わけおう)が謀反して誅に伏した。参議・式部大輔(しきぶたいふ)・粟田道麻呂(あわたのみちまろ)、兵部大輔・大津大浦(おおつのおおうら)、式部員外少輔・石川永年(いしかわのながとし)は、その党に坐して遠くに竄(のが)された。九月八日丁酉、新銭を更に鋳造し、旧銭とあわせて通用させた。二十一日庚戌、紀伊への行幸を予定していたので、使者を遣わして大和・河内・和泉に行宮(あんぐう)を造らせた。冬十月一日己未、日食があった。十三日辛未、紀伊に行幸した。十八日丙子、玉津島(たまつしま)に至った。十九日丁丑、南浜の望海楼(ぼうかいろう)に御して、雅楽や雑伎を奏させ、かりそめに市鄽(してん、市の店)を置いて、従官および当国の百姓に交関(こうかん、取り引き)をさせた。二十三日辛巳、淡路公が薨じた。二十六日甲申、車駕は還って和泉の深日(ふけ)の行宮に至った。戊子晦、河内の弓削寺(ゆげでら)に至り、仏を礼して楽を奏した。閏月二日庚寅、大臣禅師・道鏡を太政大臣禅師とし、詔して文武百官に拝賀させた。この日、再び弓削寺に行幸した。三日辛卯、詔した。「河内・和泉の今年の調、および河内の大県(おおがた)・若江(わかえ)の二郡、和泉の三郡の田租を免じる。行宮の側近の高年の者には物を賜い、死罪以下を赦す。」この日、車駕は因幡宮(いなばのみや)に還った。十一月五日壬戌、使者を遣わして天下の神社を修造させた。十六日癸酉、大嘗を行った。二十七日甲申、右大臣・藤原豊成が薨じた。この年、左右京・和泉・山背・伊賀・尾張・参河・駿河・甲斐・相模・常陸・美濃・武蔵・上野・下野・能登・越中・丹波・伯耆・出雲・石見・隠岐・播磨・美作・備後・紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・壱岐・多褹島で飢饉があり、みな賑贍した。また西大寺を造り、金銅の四天王像を鋳造した(注:「また造り」以下は水鏡・帝王編年記・元亨釈書による。一代要記には、西大寺の造営は二年のこととある)。
¶二年丙午、春正月八日甲子、大納言・藤原永手を右大臣とした。十四日庚午、両京畿内の里中の蹈歌(とうか)を禁じた(注:「十四日」以下は類聚三代格による)。夏四月二十二日丁未、勅した。「このごろ思うところがあった。三宝に帰依し、道を行じて懺悔する。罪を泣いて網を解くのは、先聖の仁の跡である。願わくは恩恕(おんじょ)を施し、瑕穢(かえ)をことごとく洗いたい。天下に大赦すべきである。ただし先後の逆党は、赦の限りではない。」甲寅晦、ある一人の男子が、自ら聖武天皇の皇子で石上志斐氏(いそのかみのしいうじ)の生んだ子であると称した。勘問(かんもん)したところ実がなかったので、詔して遠流に配した。五月十七日辛未、丹生川上(にうかわかみ)および畿内の群神に幣帛を奉り、雨を祈った。六月三日丁亥、日向・大隅・薩摩で大風があり、桑と麻がことごとく損なわれた。詔して柵戸(さくこ)の調庸を免じた。五日己丑、大隅の神が新しい島を造り、震動が止まず、民の多くが流亡した。賑恤した。二十六日庚戌、左右京および大和が、しきりに年々実らなかったので、勅して未納の租を免じた(注:一代要記には、この月大雪があったとあるが、本書には載せないので記さない)。秋七月二十三日丙子、使者を遣わして、伊勢大神寺に丈六(じょうろく)の仏像を造らせた。九月五日戊午、勅して仰せられた。「近ごろ伊勢・美濃などの国の奏に、『大風により官舎が多数損なわれ、命を落とした者もいる』とあるのを見た。昔、馬のことを問わなかったのは、先達の深い仁である。今、人が傷ついたことについて、朕は甚だ悽歎(せいたん)している。聞くところによれば、国司らは朝廷の委任にふさわしい働きをせず、私利を早くから著(あら)わにし、倉庫は磬(むな)しく懸(かか)り、稲穀は爛(ただ)れ紅(あか)くなっているという。すでにしばらくの労苦によって永く安逸を得るという心を忘れ、ついに雀鼠(じゃくそ)や風雨の患いを招いている。良き宰(つかさ)がその職に莅(のぞ)めば、どうしてこのようなことがあろうか。今より以後、永くこの弊を革(あらた)めよ。諸国に、一年のうちに官舎を修理した数を具(つぶ)さに録させ、朝集使に付けて毎年奏問させるべきである。国分二寺も、またこれに準じるべきである。神異にかこつけて、人の耳目を驚かすことがあってはならない。」十五日戊辰、勅した。「麦は絶えたるを継ぎ乏しきを救うもので、穀物の中でもとりわけ良いものである。天下の諸国に、百姓に大麦・小麦を植えるよう勧め課すべきである。」(注:「十五日」以下は類聚三代格による)二十三日丙子、巡察使を五畿六道に遣わし、民の疾苦を訪ねさせた。西海道は太宰府に勘撿(かんけん)させた。冬十月一日癸未、日食があった。二十日壬寅、隅寺(すみでら)の毗沙門(びしゃもん)像に現れた舎利を法華寺に置き、詔して百官の主典(さかん)以上に礼拝させ、太政大臣禅師・道鏡に法王(ほうおう)の位を授けた(注:水鏡はこれを神護景雲二年のこととし、法王を法皇に作っているが、誤りである)。大僧都・円興(えんこう)に法臣(ほうしん)の位を授け、僧・基真(きしん)を法参議大律師とした。また詔して、右大臣・藤原永手を左大臣とし、大納言・吉備真備を右大臣とした。二十一日癸卯、勅して仰せられた。「かねてより思うところがあり、菩提心を発して無上の道に帰依した。霊示があって、舎利三粒が緘器(かんき、封じた器)に見(あらわ)れた。数月にわたって感嘆し、その由来を知ることができなかった。朕は聞いている、『麟鳳(りんぽう)五霊は王者の嘉瑞であり、至徳の世には史書に絶えず書かれる』と。しかしいまだ全身の舎利がこのように形を顕したことは見たことがない。感ずるところがあれば必ず通じるというのは、まことに由あることである。朕は虚薄をもって、年を歴(へ)るごとに兢懼(きょうく)してきた。撫育(ぶいく)は方(みち)に乖(そむ)き、氷や谷を踏むような思いで慎んできた。どうして思ったであろうか、至道は凝寂(ぎょうじゃく)にして情に応じて真を示し、円性(えんしょう)は湛然(たんぜん)として霊光を結んで質を表すことを。孤園(こおん、祇園精舎)の跡が絶えて久しく心を驚かせてきたが、双林(そうりん、沙羅双樹)の晩(く)れの容(すがた)が爛然として目に満ちるとは。玄珪緑字(げんけいりょくじ)も、どうしてこれと年を同じくできようか。西方の法が東に流れるのは、この日にあることを知った。みだりに希世(きせい)の霊宝を荷(にな)うことは、どうして衆庶の歓心と同じくせずにいられようか。文武百官の六位以下に、位一級を加えるべきである。」十一月七日己未、陸奥の磐城(いわき)・宮城の二郡の穀一万六千四百余斛をもって、貧民に賑給した。十二月十二日癸巳、西大寺に行幸した。二十八日己酉、大安寺の東塔に落雷があった。この年、河内・和泉・志摩・石見・淡路・多褹島で飢饉があり、賑給した(注:続日本紀による)。
¶神護景雲元年丁未、春正月八日己未、畿内七道に勅し、国分寺・金光明寺(こんこうみょうじ)において吉祥悔過(きちじょうけか)を七日間修めさせ、風雨が時に順(したが)い、五穀が成熟することを祈らせた。十八日己巳、詔して、諸王のうち年老いて功労のある者に爵位を賜った。二月四日甲申、東大寺に行幸した。七日丁亥、車駕は大学の釈奠(せきてん)に臨んだ。八日戊子、山階寺(やましなでら、興福寺)に行幸した。三月一日庚戌、日食があった。二日辛亥、元興寺(がんごうじ)に行幸した。三日壬子、西大寺の法院に行幸した。九日戊午、大安寺に行幸した。十四日癸亥、薬師寺に行幸した。夏四月十四日癸巳、東院の新殿が完成し、瑠璃瓦(るりがわら)で葺(ふ)き、藻繢(そうかい、彩色文様)を画いたので、当時の人はこれを玉宮(たまのみや)と呼んだ。二十四日癸卯、勅して仰せられた。「農は天下の本であり、吏は民の父母である。農桑(のうそう)を勧め課すのには、常の制があるべきである。近ごろ諸国は、年々実りが乏しい。ただ天の時に過(あやま)ちがあるばかりでなく、また人事の怠慢にもよる。国司・郡司のうち恪勤(かくごん)な者、および民間の良謹篤誠(りょうきんとくせい)な者を択(えら)んで、神祇を禱祀(とうし)させ、農業を勧め課させよ。その祈りに応(こた)えがあり、勧めに功があれば、特に褒賞を加える。」二十六日乙巳、飽浪宮(あくなみのみや)に行幸した。二十八日丁未、宮に還った。五月四日壬子、畿内に種子を貸した。秋七月十日丁巳、初めて内竪省(ないじゅしょう)を置いた。八月八日乙酉、参河国が「慶雲が現れました」と言上した。六百人の僧を西宮の寝殿に召して斎(とき)を設けた。十六日癸巳、詔して改元し、天下に大赦した。群臣の位を進め物を賜い、孝子・順孫・義夫・節婦を表彰し、高年の鰥寡孤独(かんかこどく)を賑恤し、天下の今年の田租の半分を免じた。九月一日戊申、日の上に五色の雲があった。二日己酉、西大寺の島院に行幸した。冬十月二十四日庚子、大極殿に出御し、六百人の僧を召して大般若経を転読させ、楽および蹋歌(とうか)を奏させた。この月、陸奥の伊治城(これはりのき)が完成した。この年、山背・志摩・尾張で飢饉があり、和泉では五穀が実らず、淡路では旱と飢饉があったので、それぞれ賑給した。美濃はここ数年亢旱で実らなかったので、未納の租を免じた。
¶二年戊申、春正月十日乙卯、播磨が白鹿(はくろく)を献じた。二月二十八日癸卯、筑前の怡土城(いとのき)が完成した。三月一日乙巳、日食があった。十日甲寅、左右京・五畿内の天平神護二年の未納の租を免じた。十四日戊午、雹(ひょう)が降った。夏五月三日丙午、勅して仰せられた。「国に入って諱(いみな)を問うのは、礼にこれがある。近ごろ諸司が上奏した名籍(みょうじゃく)を見るに、あるいは国主・国継の名を避けず、あるいは真人(まひと)・朝臣(あそみ)を字(あざな)に取り、また仏・菩薩および聖賢の号を用いている。見聞するたびに、心が安らかでない。このような類は、ただちに改め換えて、礼典に従うよう務めるべきである。」二十三日丙寅、旱のため、畿内の群神に幣帛を奉った。六月二十一日癸巳、武蔵が白雉(はくち)を献じたので、勅して仰せられた。「朕は虚薄をもって、誤って洪基(こうき)を奉り、四方に君臨して万類を子のように育てている。善政はいまだ行き渡らず、その重責をいつも兢(おそ)れる思いでいる。淳風はあるいは虧(か)け、常に馭(ぎょ)しがたい馬を御するように念(おも)いを駭(おどろ)かせている。今、武蔵の人・飛鳥部吉志五百国(あすかべのきしのいおくに)が、久良(くらき)郡で白雉を獲て献じた。群卿に下してこれを議させたところ、奏して言った。『雉は良臣一心忠貞の応(しるし)であり、白は聖朝重光照臨の符(しるし)です。国号を武蔵というのは、すでに武を戢(おさ)め文を崇める祥(さいわい)を呈しています。郡を久良と称するのは、これ宝暦(ほうれき)延長の表(しるし)を明らかにするものです。姓は吉志、これすなわち兆民(ちょうみん)が子のように来帰する心を標すものです。名は五百国、まことに五百の朝貢の験(しるし)を彰すものです。』朕はこの嘉貺(かきょう、めでたい賜り物)に対越(たいえつ)し、かえって寡徳を愧じる。昔、隆盛の周では刑罰を措(お)いて用いず、越裳(えつしょう)がついに白雉を致し、豊碕(とよさき、允恭朝)で升平(しょうへい)であったときも、長門(ながと)もまた白雉を献じたという。永くこの休徴(きゅうちょう、めでたい徴し)を言うならば、まことに恵みを施すべきである。武蔵の天平神護二年以前の未納の租を除き、久良郡の今年の田租の三分の一を免じる。国司・郡司には位一級を叙し、五百国には位を授け物を賜う。」秋七月十一日壬午、日向が白亀(はくき)を献じた。十九日庚寅、太宰府が「肥後の八代郡の正倉院の北で、蝦蟇(がま)が陣列し、広さ七丈ばかりで、南に向かって去った」と言上した。辛丑晦、勅して孔子を崇め、文宣王(ぶんせんおう)の諡(おくりな)を用いることとした。八月一日壬寅、日食があった。八日己酉、参河が白烏(はくう)を献じた。十九日庚申、下総が「毛野川(けぬのかわ)を疏(さら)えたい」と上言したので、これを許した。九月十一日辛巳、詔して仰せられた。「近ごろ参河が白烏を献じ、日向が赤い目の白亀と、青馬白鬣尾(せいばはくりょうび)を献じた。いずれも所司に付けて図牒(ずちょう)を勘(かんが)えさせたところ、ともに大瑞(たいずい)に合するという。朕は菲薄(ひはく)をもって、しきりに鴻貺(こうきょう)を荷(にな)っている。先典に従うことを思い、恵沢を覃(およ)ぼすこととする。肥後・日向の今年の庸(よう)を免じ、瑞を出した郡は特に調庸を免じ、獲た者には位を授け物を賜う。」冬十月二十日庚申、長谷寺(はせでら)に行幸した。二十二日壬戌、宮に還った。十一月二日壬申、美作が白鼠(はくそ)を献じた。十二月四日甲辰、法参議・基真が罪あって、飛驒に竄(のが)された。この年、壱岐島で飢饉があり、賑給した。
¶三年己酉、春正月一日庚午、雨のため朝賀を廃した。二日辛未、大極殿に出御して朝賀を受けた。三日壬申、法王・道鏡が西宮前殿に居し、大臣以下が拝賀した。七日丙子、天皇は法王宮に御して、五位以上に宴した。八日丁丑、東内(とうない)に御し、初めて吉祥悔過を行った。十七日丙戌、東院に御し、群臣に宴を賜った。二月三日壬寅、左大臣・藤原永手の邸に行幸した。十六日乙卯、大神宮および天下の諸社に神服(かんみそ)を奉った。二十四日癸亥、右大臣・吉備真備の邸に行幸した。三月二十八日丙申、天下に大赦した。夏四月二十四日辛酉、西大寺に行幸した。五月十六日癸未、伊勢が白鳩(はくきゅう)を献じた。二十五日壬辰、不破内親王(ふわないしんのう)が巫蠱(ふこ、呪詛)の罪に坐して、京外に放たれた。冰上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)を土左に流した。秋七月十五日庚辰、畿内の風伯(ふうはく、風の神)に幣帛を奉った。八月一日丙申、日食があった。九日甲辰、尾張で大水があり、貧民に穀物を賑給した。二十五日己丑、従五位下・和気清麻呂(わけのきよまろ)が、道鏡に逆らったため、大隅に流された。冬十月一日乙未、詔を宣べて群臣に紫綾(しあや)の帯を賜い、両端に金泥で「恕」の字を書いた。十五日己酉、飽浪宮に行幸した。十七日辛亥、ついで由義宮(ゆげのみや)に行幸した。二十一日乙卯、龍華寺(りゅうげじ)にかりそめに肆鄽(してん、店)を建て、車駕はこれに臨んで観た。甲子晦、詔して由義宮を西京(さいきょう)とし、河内国を河内職(かわちしき)とし、死罪以下を曲赦(きょくしゃ)した。十一月九日癸酉、車駕は宮に還った。二十七日辛卯、伊予が白鹿を献じた。この年、志摩・下総で飢饉があり、賑給した。
¶四年庚戌、春正月十五日戊寅、仁王会を宮中で設けた。二十一日甲申、太宰府管内で大風があり廬舍が壊れたので、賑恤した。二月二十七日庚申、由義宮に行幸した。三月四日丁卯、新羅の使者を太宰府で饗応して還した。二十八日辛卯、歌垣(うたがき)を観た。夏四月五日丁酉、詔して由義寺の塔を造らせた。六日戊戌、車駕は宮に還った。二十六日戊戌、これより先、藤原仲麻呂の乱に際し、天皇は発願して、三層の小塔百万基を造ることとしていた。ここに至って塔が完成し、諸寺に分けて置いた。五月十日壬申、勅して仰せられた。「去年は伊予が白鹿を献じ、今年は太宰府が白雀(はくじゃく)を進めた。乾坤(けんこん)が祉(さいわい)を降し、符瑞(ふずい)が駢(なら)び至るのは、瑞鳥がめでたい姿を呈し、珠のような毛が賜りものを表すことに由るもので、まことに宗社が徳を積み、その余慶が覃(およ)んだものである。どうして朕の庸虚(ようきょ、凡庸で空しい身)が、あえてこの応にふさわしかろうか。天の休(さいわい)を奉じてますます慎み、霊貺(れいきょう)を荷ってさらに兢(おそ)れる。ただ徳を同じくする公卿、政を佐(たす)ける良吏とともに、政の至道を弘め、敬んで上玄(じょうげん、天)に答えるべきである。前例に准じて、量って恵政を施すべきである。瑞を獲た者には位を授け物を賜う。伊予・肥後の神護慶雲三年以前の正税の未納を免じ、また瑞を出した郡の田租の三分の一を出(免)じる。」六月一日壬辰、勅して天下に大赦した。十日辛丑、これより先、天皇は由義宮より至って、不予(ふよ、病気)が月を歴(へ)ていた。そこで左大臣・藤原永手に勅し、近衛・外衛・左右兵衛の事を摂知(せっち)させ、右大臣・吉備真備に中衛・左右衛士の事を知らしめた。二十三日甲寅、疫神を京師の四隅および畿内の十の境界で祭った。この月、彗星が北斗に入り、七月に至って滅した。この夏、京師で飢饉と疫病があり、志摩で大風、美濃で霖雨があった。対馬島で飢饉があり、賑贍した。秋七月十五日乙亥、勅して仰せられた。「朕は重任を荷負(かふ)し、薄氷を履み深淵に臨むがごとくである。上は天に先んじて時を奉ずることができず、下は民を子のように養うことができない。膳(ぜん)を撤し身を菲(うす)くして、日ごとに慎みを重ねている。殺生を禁じる令は国に設けられ、罪を宥(ゆる)す典は朝(ちょう)に班(し)かれている。それでもなお疫気は生を損ない、変異は物を驚かせ、永くこれを言えば胸の痛みは尽きず、なすべき術を知らない。ただ仏教のみが、苦しみを脱し災いを除くことができる。それゆえかの覚(さと)りの風を仰ぎ、この祲霧(しんむ、不吉な霧)を払おうと思う。京師の大小の寺に、七日を限って大般若経を転読させよ。あまねく天下に告げ、葷酒肉(くんしゅにく)を断たせよ。諸国の諸寺も、同じくこの経を読ませよ。内外の文武の官属も、またこの制に同じくせよ。」十八日戊寅、常陸が白烏を献じ、筑前が白雉を献じた。この月、出羽で水害があり、但馬で疫病、土左で飢饉があったので、賑恤した。八月一日庚寅、日食があった。参議・外衛大将・藤原継縄(ふじわらのつぐただ)を伊勢に遣わし、幣帛および馬を大神宮に奉らせた。また使者を遣わし、若狭彦神・八幡神宮に馬を奉らせた。二日辛卯、使者を遣わし、越前の気比神(けひのかみ)、能登の気多神(けたのかみ)に幣帛を奉らせた。雅楽頭(うたのかみ)・伊刀王(いとおう)を住吉に遣わし、神の教えを受けさせた。四日癸巳、天皇は西宮の寝殿で崩じた。御年53歳(注:愚管抄・神皇正統記には57歳とあるが、誤りである)。左大臣・藤原永手らは相議して、大納言・白壁王(しらかべおう)を皇太子に立てた。添下郡(そうのしものこおり)佐貴郷(さきのさと)の高野山陵(たかののみささぎ)に葬り、高野天皇(たかののすめらみこと)と称した。この春、巫覡(ふげき、みこ・かんなぎ)らが「西大寺の東塔の礎石が妖(あやし)いことをなしている」と言った。そこで柴を積んで酒を灌(そそ)ぎ焼き砕いて、道路に棄てた。ちょうど天皇が不予であったので、これを占って「石が祟(たた)りをなしている」と言い、そこで浄地にこれを移して、厭禳(えんじょう、祈祷による厄払い)を行った。その後、天皇は由義宮に行幸したが、聖躬(せいきゅう)の不予を覚え、ただちに平城宮に還った。百余日を経ても、みずから政務を視ることなく、群臣は謁見することができなかった。典蔵(てんぞう)・吉備由利(きびのゆり)のみが臥内(がだい、寝所)に出入りし、奏上すべき事を伝えた(注:続日本紀による)。
¶天皇はことに仏道を崇め、刑獄を恤(あわれ)むことに努めた。勝宝の頃は、政(まつりごと)は倹約と称された。仲麻呂が誅されてより、道鏡が権を擅(ほしいまま)にし、みだりに力役(りきえき)を興して伽藍(がらん)の造営に努め、公私ともに彫喪(ちょうそう、疲弊)し、国用は不足し、政刑は日ごとに峻(きび)しくなり、殺戮がみだりに加えられた。当初の政に比べれば、頗(すこぶ)る冤罪や濫(みだ)りな処罰が多かったという。後世、前の御代を孝謙天皇と称し、後の御代を称徳天皇と称した。