卷之一百十九 列傳第四十六
文室淨三、文室綿麻呂、文室卷雄、文室秋津ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
文室淨三
¶文室浄三(ふんやのきよみ)は、長親王(ながしんのう)の子である。当初は諸王として智努(ちぬ)と名乗っていた(注:一本には智を珍に作る)。養老の初め、従四位下を授けられ(注:続日本紀)、左大舎人頭となった(注:公卿補任)。天平年間には木工頭となり、造宮卿を兼ね、新京の百姓に宅地を班給した。帝が城北の苑に行幸し、群臣に宴を賜り、造営の労をねぎらって、東絁六十匹・綿三百屯を賜った。累進して正四位上となり、従三位を受けた。勝宝四年、文室真人の姓を賜った。ほどなく摂津大夫となった。宝字の初め、参議に拝され、治部卿を兼ね、また出雲守を兼ねた。詔により直言を求められると、浄三は少僧都慈訓(じくん)とともに奏上して言った。「天下の諸寺では毎年正月に悔過(けか)の法要を行っておりますが、聖意にいささか背き、功徳にもなっておりません。なぜなら、修行して国を護るのは僧尼の本分であるのに、今では寺に入らぬまま七日分の官の供養を計上したり、あるいは欲深く両方から得ようとして二箇所に空名を連ねたりする者があり、三宝の名を汚し、施主の益にもなっておりません。伏してお願い申し上げますに、この官布の制度を停止し、あの貪欲な僧に望みを持たせぬようにしていただきたい。」四年、中納言に拝された。五年、正三位に進み、今の名(浄三)に改めた。ほどなく御史大夫に遷った。老臣を優遇して宮中で杖をつくことを許され、あわせて神祇伯を兼ねた。八年、従二位に進んだ。
¶かつて紀袁祁(きのおぎ)の娘の粳売(うるちめ)は、紀伊国日高郡(注:原文「冰高郡」)の内牟羅(うちむら)に嫁ぎ、身売(みうり)・狛売(こまめ)を生んだ。成長すると袁祁は身売を紀寺に寄食させたが、庚寅の年に至って戸籍に編入され奴婢の籍に入れられてしまった。その一族の益人(ますひと)らが訴え出たが、長年取り上げられなかった。勅により浄三がこれを調べることとなった。浄三は事情を書き連ねて上奏し、益麻呂ら十二人には紀朝臣の姓を、真玉女ら五十九人には内原直の姓を賜り、益麻呂を戸頭として京戸に編入した。ところが紀伊国の保(たもつ)らはこれを朝旨に反するものと疑った。孝謙帝は自ら浄三および恵美朝猟(えみのあさかり)に勅を下し、使者を紀寺に遣わして詔を宣べさせた。「益人ら七十六人は、皆良民に復すべし。」(注:本書の前後の文を検するに、益人はおそらく益麻呂と同一人物であろう)
¶この年、浄三は致仕を願い出た。詔で答えて言った。「卿が齢を重ねて懸車の年に至り、礼に依って致仕を願い出たと聞く。よくよくこのことを思うに、憂いと苦しみが交々胸に去来する。一つには功を遂げて身を退き、よく善き道を守ることを喜び、一つには気力衰えて田家に帰ろうとすることを憂える。古人も『止まるを知れば危うからず、足るを知れば辱められず』と言った。卿はまさにこれに当たる。切なる願いは拒みがたく、その願う所に依ることとする。よって几杖および新銭十万を賜り、もって勝れた流風を明らかにし、浮ついた世俗を励まそうと思う。」浄三はすでに致仕したが、勅により半俸を給され、ほどなく全俸に改められた。景雲年間、太宰府より綿六千屯を賜った(注:続日本紀)。
¶孝謙帝が崩じた際、皇太子の位はまだ定まっていなかった。吉備真備らは浄三を立てようとしたが、浄三は固く拒んでこれを免れた(注:日本紀略)。この年、薨じた。遺言により葬儀を簡素にし、鼓吹を用いさせなかった。子らはこれを守り、当時の人々はこれを称えた。勅により使者を遣わして弔問し賻物を賜った(注:続日本紀)。子は大原(注:続日本後紀・公卿補任)といい、桓武朝に三緒朝臣の姓を賜り(注:公卿補任)、従四位下に至り、勲三等を授けられた(注:続日本後紀・公卿補任)。また子に綿麻呂・秋津がいる(注:公卿補任)。
文室綿麻呂
¶文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)は、延暦年間に従五位下に叙せられ、右大舎人助・近衛将監少将を経て、出羽権守を兼ね、播磨守に改任され、侍従・中務大輔を除された。大同年間には若狭兵衛督(注:原文「若兵衛督」)・右京大夫・左大舎人頭を歴任し、なお播磨守を兼ねた。三山朝臣の姓を改め賜り、左兵衛督に遷り、大膳大夫を兼ね、さらに文室朝臣の姓を賜った(注:本書には文室真人に作るが誤りであり、今『三代実録』によってこれを正す)。兵部大輔を除された。弘仁元年、再び播磨守となった(注:公卿補任)。
¶平城太上天皇の変に際しては太上皇に近侍していたが、嵯峨帝に召されて京師に帰り、左衛士府に拘束された。大納言坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が兵を率いて太上皇を迎え撃つに当たり、田村麻呂は綿麻呂が武技に練達し辺境の事情に通じていることから、参軍を許すよう請うた。これにより正四位上を授けられ、参議に拝され、田村麻呂とともに美濃道を扼した(注:日本後紀・類聚国史・日本紀略)。乱が平定されると大蔵卿を加えられ、陸奥出羽按察使を兼ねた。征夷将軍となり蝦夷を討って功があり、従三位に進んだ。詔に言う。「陸奥の夷賊は、代々にわたり久しく境を騒がし、百姓を殺し略奪してきた。正四位上文室朝臣綿麻呂らを遣わしてこれを討ち平らげさせた。今その功労を量り、爵位を進める。」(注:日本後紀・日本紀略)左衛門督を兼ね(注:公卿補任。日本後紀には右衛門督に作る)、再び征東将軍となり(注:日本紀略)、勲四等を授けられた。備前守・右京大夫を歴任し、右近衛大将に陞り、兵部卿を兼ねた(注:公卿補任)。中納言に任じられ、十四年に薨じた。享年五十九(注:日本紀略・公卿補任)。子は巻雄。
文室卷雄
¶文室巻雄(ふんやのまきお)は、幼くして勇力があり、騎射に巧みであった。文徳帝が東宮であった時、帯刀舎人となった。仁寿・天安の間、宮内外の官を歴任した。貞観年間、左近衛少将に任じられた。元慶年間、従四位上に進んだ。相模守となったが赴任せず、守の職を解くよう願い出て、一子をその代わりに外官に任じてほしいと申し出た。詔によりその子房典(ふさつね)を近江少掾とした。巻雄の宿衛の勤めぶりは、当時並ぶ者がなかった。宮中の警固に直接仕え、日夜その場を離れなかった。かつて戯れに車を牽く牛の額に飛び乗り、車の後ろに躍り立ったこともあった。少将であった時、東宮の屋根の上を狐が走ったことがあり、巻雄は屋根に登ってこれを追いつめ斬った。その身のこなしの敏捷さはこのようであった。仁安三年、卒した。享年七十八(注:三代実録)。
文室秋津
¶文室秋津(ふんやのあきつ)は、弘仁年間に右近衛将監(注:原文「右近備將監」)となり、蔵人に補された。累進して右馬助・左近衛将監(注:公卿補任)・甲斐守・武蔵介を歴任した。天長年間、左兵衛権佐に補され、左近衛中将に遷った(注:続日本後紀)。因幡守を兼ね、従四位下を授けられ、蔵人頭に補された。六年、参議に拝された(注:公卿補任には七年に作る)。ほどなく右大弁を兼ね武蔵守となり、左大弁に転じ、春宮大夫を兼ねた(注:続日本後紀)。承和の初め、検非違使別当に補された。検非違使別当の職はこれをもって始まりとする(注:公卿補任)。表を上って大弁・中将などの職を解くことを願い出て、これにより大弁を罷めて右近衛中将・右衛門督を兼ねた。秋津は非違を監察することに甚だ名声があり、また武芸にも通じ、世の人はその将としての器量を認めていた。ただ酒癖があり、数杯飲むと必ず悲しんで泣くため、これによってかなり譏りを受けた。丹後守を兼ね遷り、正四位下に至った。九年、伴健岑(とものこわみね)の一党とされて冷泉院に幽閉され、出雲権守に左遷された。十年、配所で卒した。享年五十七(注:続日本後紀)。浄三の弟は大市。
文室大市
¶文室大市(ふんやのおおいち)(注:本書には大市を邑珍に作ることもある)は、天平年間に従四位下を授けられ、刑部卿となった。内匠頭に遷った。勝宝年間、従四位上に進み、浄三と同じく姓を賜った。ほどなく大蔵卿となった。この頃、皇族の傍系の一族で罪に陥る者が多く、大市は内心安んじられず、髪を剃って僧となり、身の安全を図った。宝字年間、再び出仕し、正四位下を授けられた。弾正尹・刑部卿(注:原文「節部卿」)を歴任し、民部卿に遷った。神護元年、従三位に進んだ。二年、出雲按察使となり、参議に拝され、中務卿を兼ねた。景雲年間、太宰府より綿四千屯を賜った(注:続日本紀)。孝謙帝が崩じるに及び、吉備真備らは大市を立てようと謀ったが、議が決まった時には藤原百川らが急ぎ光仁帝を擁立して即位させたため、立つことができなかった(注:日本紀略引く百川伝)。
¶宝亀元年、正三位に進み、中納言となった。二年、大納言に拝され、弾正尹を兼ね、従二位に進み、治部卿を兼ねるに遷った。三年、上表して言った。「臣は愚かな資質でありながら、幸いにも聖明の御代に遇い、紫の衣に金の帯を着け、要職を担わせていただいております。栄誉を貪り恩顧に背く恐れ深く、過ちを重ねてまいりました。伏して思いますに、陛下の御徳は仁厚に満ち、旧き邦を新たに命じ直され、皇室を守る城のような御恩は千年に及び、終わりの誉れは一度限りのものでございます。今、臣はすでに老い衰え、余命もいくばくもなく、病もようやく篤くなり、尽きる時を知りません。伏してお願い申し上げますに、優れた人材に道を譲り、老いの身を丘園に賜り、足るを知って残る年を送り、初心に立ち返って最期の日を待ちたく存じます。そうすれば、上には物を成し遂げる徳があり、下には禄を無為に食む譏りもなくなりましょう。老いを憐れみ病を思いやることは、国の良き道でございます。伏して天恩をもって、この老い衰えた身をねんごろに慰めていただきたく存じます。前途の迫るのに堪えず、謹んで朝堂に参り、表を奉って申し上げます。」優詔をもって許されなかった。再び中務卿を兼ねた。重ねて致仕を願い出た。詔に言う。「卿は懸車の年に及び、老いを告げて退くことを願い出た。足るを知り止まるを知ることは、古の道義に適う。引き留めようと思うが、老臣を優遇する道に反することを恐れる。体力の健やかな限り、時節ごとに朝参せよ。」よって御杖を賜った。十一年、薨じた。享年七十七(注:続日本紀)。
船王
¶船王(ふねのおおきみ)は、崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)の舎人(とねり)の子である。神亀四年、直ちに従四位下に叙せられた。天平の末、従四位上に進み、弾正尹となった。宝字の初め、皇太子が廃されると、詔により宗室の中から儲君となるべき者を議させた。船王は「帷薄(いはく)修まらず」(身辺の行状が正しくない)として立てられなかった(注:本書に載る勅文はこの通りであるが、これは藤原仲麻呂が孝謙帝に寵愛され、愛憎によって事が生じたものと考えられる。例えば池田王を「孝行に欠ける」と責めたのも同類であって、その虚実は知り難く、読む者は推し量るべきである)。
¶廃帝(淳仁天皇)が即位すると、従三位に進んだ。この年、渤海に遣わした使者が帰国し、唐の混乱を奏上した。船王はこの時太宰帥であり、詔を受けて大弐吉備真備とともに沿岸の防備を議し、便宜を奏上して言った。「府官の見るところ、不安な点が四つあります。警固式によれば、博多・大津および壱岐・対馬などの要害の地には船百隻以上を置いて不測の事態に備えるべきですが、今は用いる船がなく、肝要な備えを欠いております。これが一つ目です。太宰府は三方を海に囲まれ、諸外国と接する要地です。しかるに東国からの防人を廃止して以来、辺境の守りは日に日に廃れ、万一異変があった時、どうして対応し、どうして威を示せましょうか。これが二つ目です。管内の防人は、城を築く作業を一時止め、武芸を講じ、戦陣の訓練をするべきです。しかし大弐吉備朝臣真備は『耕作と軍事を兼ねるのは古人も善しとした。五十日を教習に、十日を築城に充てるべきだ』と論じております。行うべきことではありますが、府の役人の中には同意しない者もおります。これが三つ目です。天平四年八月、勅により『筑紫の兵士は調と庸を全て免除し、白丁の者は調を免じ庸を課す』とされました。当時は民が安んじ兵は強く、これで辺境を鎮めるに十分でした。しかし今は管内が疲弊し、百姓は困窮しており、優遇して租税を免じなければ自ら立ち行きません。これが四つ目です。」勅によりこれに従うこととされたが、東国から防人を遣わすことだけは許されなかった。
¶翌年、親王に陞り、三品を授けられた。香椎廟に使者として遣わされ、新羅を討伐する旨を告げた。ほどなく信部卿となり、二品に進んだ。帝(淳仁天皇)が廃されるに及び、恵美仲麻呂と通謀したとして責められ、諸王に降格され、隠岐に流された。子の葦田王(あしだのおおきみ)、孫の他田王(おさだのおおきみ)・津守王(つもりのおおきみ)・豊浦王(とゆらのおおきみ)・宮子王(みやこのおおきみ)も連座し、三長真人の姓を授けられて丹後に流された。宝亀二年、皇族の籍に復した(注:続日本紀)。兄の子に和気王がいる。
和氣王
¶和気王(わけのおおきみ)は、三原王(みはらのおおきみ)の子であり、当初は諸王であった。勝宝年間、岡真人の姓を賜り、因幡掾となった。宝字年間、舎人親王の追尊に伴って皇族の籍に復し、従四位下を授けられた。内匠頭・刑部卿(注:原文「節部卿」)・伊予守を歴任した。八年、恵美仲麻呂が謀反を起こした際、和気は変事を上奏した。賊が平定されると従三位に叙せられ、参議に拝され、兵部卿を兼ねた。太上天皇の勅を受け、山村王らとともに兵を率いて中宮院を囲み、帝(淳仁天皇)を退去させた。ほどなく丹波守を兼ね、勲二等を授けられ、功田五十町を賜った。
¶当時、皇嗣はまだ定まっておらず、王は密かに帝位を望む心を抱いていた。紀益女(きのますめ)という者が巫女の術で寵を得ており、王は厚く賄賂を贈って親しくした。また参議粟田道麻呂(あわたのみちまろ)、兵部大輔大津大浦(おおつのおおうら)、式部員外少輔石川永年(いしかわのながとし)らとも親しく交わり、しばしばその邸で酒宴を開いた。神護元年七月、道麻呂が和気の邸に来て密談した際、佩刀が門の屏に触れて折れた。王は太刀を贈ってこれに代えたが、人々がこれを怪しみ、謀は次第に漏れていった。和気は禍が及ぶことを恐れ、その夜のうちに逃げ隠れた。勅によりこれを捜索させ、率河社(いさがわのやしろ)の中で捕らえた。伊豆に流すことになったが、山背国相楽郡(さがらかぐん)に至って絞殺され、狛野(こまの)に葬られた。紀益女は綴喜郡(つづきぐん)松井村で絞殺された。和気の子である大伴王(おおともおう)・長岡王(ながおかおう)・名草王(なぐさおう)・山階王(やましなおう)・釆女王(うねめおう)は、死罪を免れたが皇族の籍を除かれた。道麻呂は飛騨員外介に貶され、道麻呂と怨恨のあった上道斐大都(かみつみちのひだいち)がその守に任じられた。斐大都は任地に着くと、ついに道麻呂を幽閉して殺した。また大津大浦は日向守に貶され、石川永年は隠岐員外介に貶されて、後に自ら首をくくって死んだ。宝亀二年に至り、和気の子女は皆皇族の籍に復した。大伴王は天応元年、従五位下を授けられた。延暦年間、大監物・主馬頭となった(注:続日本紀)。
冰上鹽燒
¶冰上塩焼(ひかみのしおやき)は、一品新田部親王(にいたべしんのう)の子である。当初は諸王であった。天平年間、従四位下を授けられ、正四位下に進み、中務卿となった。事件に連座して平城の獄に下され、伊豆三島に流された。四年を経て召還され、翌年爵位を回復した。宝字元年、公卿を召して皇太子を議させたところ、皆「塩焼王を立てるべきです」と言った。しかし帝は「先帝は無礼をもって責められた方であるから、立てるべきではない」と言い、急遽大炊王(おおいのおおきみ)を皇太子に立てた。その後まもなく塩焼王は正四位上に進み、大蔵卿となった。橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は密かに、廃太子道祖王(ふなどのおおきみ)・黄文王(きぶみのおおきみ)・安宿王(あすかべのおおきみ)、および塩焼王の中から一人を選んで帝に立てようと謀ったが、事が発覚し、ある者は杖で打たれて死に、ある者は遠流に処された。詔に言う。「塩焼王はこの四王の列にあったが、謀議には加わっておらず、また告発も受けていないので連座させない。道祖王は本来遠流に処すべきであるが、父の新田部親王はその心が清明で朝廷によく仕えたので、その家系を絶やすには忍びず、罪を免じる。今後は明らかに正しく朝廷に仕えるように。」二年、従三位に進み、冰上真人の姓を賜った。翌年、詔して「意見を申し出よ」とされると、塩焼は奏上して言った。「臣が見ますに、三世王以下で春秋の禄を給される者は、皇族に対する厚遇によるものです。しかるに今、出勤日数を計算するにあたり、臣下と変わらぬ扱いを受けております。どうか令の定めに従って優遇し、出勤日数を検することのないようお願いいたします。」奏上は許可された。累進して礼部卿・信部卿の二卿を歴任した。六年、参議に拝され、美作守を兼ね、中納言に陞った。八年、文部卿を兼ねた。恵美仲麻呂が反乱を起こした際、塩焼を帝として奉じたが、仲麻呂が誅殺されると、塩焼もまた斬られた(注:続日本紀)。二子は志計志麻呂・川継。
冰上志計志麻呂
¶冰上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)は、当初、塩焼が不破内親王(ふわないしんのう)を妻とし、志計志麻呂および川継(かわつぐ)を生んだ。塩焼が敗死した後、この二子は母が高貴な身分であったため罪を免れた。景雲三年、丹比乙女(たじひのおとめ)が「県犬養姉女(あがたのいぬかいのあねめ)が内親王とともに志計志麻呂を立てようと謀った」と誣告した。これにより内親王は皇族の籍を削られ、京外に追放された。志計志麻呂は土佐に配流された(注:続日本紀)。
冰上川繼
¶冰上川継(ひかみのかわつぐ)は、従五位下に叙せられた。延暦元年正月、因幡守となった。その資人(しじん)である大和乙人(やまとのおとひと)が私かに武器を帯びて宮中に乱入し、担当の役人に捕らえられて尋問されると、供述して言った。「川継は今月十日夜、北門から侵入して事を起こそうと謀っております。その際、私を使者として仲間の宇治王(うじのおおきみ)に招集の日時を伝えさせました。」勅により川継が召された。川継は使者が来たと聞くと、密かに裏門から出て逃げた。ただちに三関を固め、数日にわたって大々的に捜索し、大和国葛上郡(かつらぎのかみぐん)で捕らえた。詔に言う。「冰上川継は密かに反乱を謀り、事はすでに発覚した。法に照らせば極刑に処すべきであり、その母(不破内親王)は反逆の罪に問われ、近親者もまた重罪に処すべきである。しかし山陵の土もまだ乾いておらず、刑を論じるには忍びない。川継は死罪を免じ、遠流に処すこととする。不破内親王および川継の姉妹は淡路に配流する。川継は伊豆三島に流し、妻の藤原法豊(ふじわらののりとよ)も同じく流罪とする。妻の父藤原浜成(ふじわらのはまなり)は官職二つを剥奪する。一党である従四位下三方王(みかたのおおきみ)・正五位下山上船主(やまのうえのふなぬし)は皆左遷する。左大弁大伴家持(おおとものやかもち)・右衛士督坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)は解任する。正四位下伊勢老人(いせのおきな)・従五位下大原美気(おおはらのみけ)・藤原継彦(ふじわらのつぐひこ)は京外に移す。」およそ連座した者は三十五人であった。川継の姻戚・知友もまた京外に追放された。まもなく、三方王とその妻弓削女王(ゆげのひめみこ)、および山上船主が、天皇を呪詛したとして罪に問われたが、詔により死罪を減じ、遠流に処された(注:続日本紀)。
山村王
¶山村王(やまむらのおおきみ)は、久米皇子(くめのみこ)の後裔である(注:『公卿補任』には久米皇子の子とするが誤り)。天平の末、従五位下に叙せられた。宝字年間、紀伊守となり、少納言に遷った。恵美仲麻呂の反乱に際して功があり、従三位を授けられ、左兵衛督となった。帝(淳仁天皇)が廃されるに及び、兵を率いて中宮院を囲み、太上天皇の詔を宣べた。神護の初め、勲二等を賜り、大和守を兼ね、功田五十町を賜り、参議に拝され、治部卿を加えられた。景雲元年、薨じた。享年四十六。
¶延暦年間、近江国が上申して言った。「王の姓を除かれて百姓となった者は、およそ五戸百一口おります。戸主の槻村(つきむら)・井上(いのうえ)・大岡(おおおか)・大魚(おおうお)・動神(いかつかみ)らは、皆山村王の孫にあたります。山村王は養老五年にこの地に編入され、子孫が代を重ねて七、八世に及び、分かれて数戸となりました。令の規定によれば六世以下は嫡流を除き課役を科すべきものですが、嫡流の戸は京戸に移し、他は姓を与えて課役を科していただきたく存じます。」そこで担当の役所に命じて皇親の籍を調べさせたが、山村王の名は見当たらなかった。そのため一般百姓の例に従い、真人の姓は賜らなかった(注:続日本紀)。
平高棟
¶平高棟(たいらのたかむね)は、葛原親王(かずらわらしんのう)の長子である。身の丈六尺、美しい鬚髯(ひげ)を蓄えていた。幼くして聡明で、書物を読むことを好んだ。当初は諸王であった。弘仁年間、従四位下に叙せられ、侍従となった。天長の初め、大学頭・中務大輔・兵部大輔を歴任した。二年、平朝臣の姓を賜った。大蔵卿・刑部卿を歴任した。承和年間、累進して従三位となった。仁寿元年、参議に拝された。三年、父の喪に服して解職し、哀しみのあまり礼を超えるほどであった。一月余りで喪を止められ、本官のまま復職させられた。斉衡年間、春宮大夫となった。天安二年、権中納言となり、正三位に進んだ。貞観の初め、陸奥出羽按察使を兼ねた。鎮守府が上申して言うには、「辺境の役人は郷里から遠く離れており、公廨(くげ)以外に頼る糧がありません。未納の分があってもそのまま放置されております。太宰府の例に准じて、未納があっても正税をもって支給し、永く恒例とすることをお願いいたします。」これが許可された。数年後、大納言に転じた。老齢を理由に辞職を願い出たが、優詔により許されなかった。九年、薨じた。享年六十四。
¶高棟は生まれつき質朴で、華美を好まず、常に寛容であることに努めた。晩年は仏教を篤く信仰し、常に経典を誦した。かつて山城国葛野郡(かどのぐん)の別荘を喜捨して道場とした。詔により平等寺の額を賜った。大納言に拝されて以来、封戸の租賦の多くを仏事に供した。子は季長(すえなが)・惟範(これのり)(注:三代実録)。
平季長
¶平季長(たいらのすえなが)は、貞観年間、式部丞として渤海の客使を接待した。元慶年間、兵部少輔(注:原文「兵郡少輔」)となり、伊勢権介を兼ねた。左近衛権少将に遷り、陸奥守を兼ねた。近衛の兵四人を随身として賜った。仁和二年、右中弁となった(注:三代実録)。ほどなく左中弁に転じ、山城国の民の苦しみを問う使者となった。奏上して言った。「諸郡司の解状によれば、『諸院・諸宮および諸王・臣家が、百姓の戸田を争い、あるいは浮浪の財物を奪い取っており、国司の許可も郡司への通知もなく管内に乱入し、次々に圧迫し略奪しています。権勢を専らにして理非をわきまえません。田園はこのために荒廃し、財産はこのために失われております。』とのことです。どうかこれを差し止めるようお裁きいただきたく存じます。案内を調べますに、訴訟はすべて下級の役所から始めるべきものです。もし順序を越えて訴え出た場合には、法に科条が定められております。今、愚かな百姓はこの道理を知らず、訴える者は甲の宮に取り入ってその威を借り、訴えられた者は乙の家にすり寄ってその勢いを頼りますが、国司・郡司にはこれを禁止する力がありません。どうか今後は、財物・田宅を争う者のうち、王臣の勢いを借りて国司・郡司を経ない者については、身分の別なく、蔭贖(いんぞく、身分による減刑)の別なく杖一百に処し、争いの対象となった物は全て官に没収していただきたく存じます。諸院・諸宮・王臣家でこれを許容した者については、別当ならびに家司を勅に違う罪に問うていただきたく存じます。このようにすれば、窮乏した民は生き返り、権勢のある家は害を為さなくなりましょう。」勅によりその願いの通りとされた(注:類聚三代格)。従四位下右大弁に至った。寛平九年、卒した(注:日本紀略)。
平惟範
¶平惟範(たいらのこれのり)は、文才があり、詩に巧みであった(注:雑言奉和)。宇多帝の勅により弘仁以後の詩を撰した(注:扶桑略記)。延喜二年、参議に任じられた(注:公卿補任)。藤原時平(ふじわらのときひら)とともに延喜格を撰した(注:本書序)。功労を重ねて従三位中納言に至り、右近衛大将を兼ねた。九年、薨じた。享年五十五。子は時望(ときもち)、従三位大納言(注:公卿補任)。
豐前王
¶豊前王(とよさきのおおきみ)は、崇道尽敬皇帝の舎人の四世の孫であり、父は木工頭栄井王(さかいのおおきみ)である。豊前は若くして博学をもって知られた。天長年間、大学助に任じられ、氏部大丞に遷った。父の喪に服して解職したが、まもなく本官に復した。諸陵助・太宰大監を歴任し、従五位下に叙せられた。承和・斉衡の間、備中・参河・安芸・伊予などの守を歴任し、左京権大夫に任じられた。天安年間、母の喪に服して解官し、喪が明けると民部大輔に任じられた。貞観の初め、累進して従四位下となり、伊予守に遷った。四年、詔により参議以上の者に時の政治の得失を論じさせた際、右大臣藤原良相(ふじわらのよしみ)は豊前が老練であることから、特に意見を申し出るよう命じた。これより先、諸王は二世から四世に至るまで冬夏の衣服を賜っており、人数に制限がなかった。年月を経るうちに皇族が繁殖し、際限なく増え続けていた。豊前は上疏して言った。「諸王に衣服を給する制度は、人数が定まっておらず、いたずらに国費を費やして限りがありません。どうか当時の在籍人数をもって定員とし、欠員に応じて補うこととし、みだりにこれを超えさせぬようお願いいたします。」これに従うこととされた。豊前は生まれつき素っ気なく傲慢で、人物を批評することを好み、言葉は誇張が多く、放縦で拘束されることがなかった。そのため多くの人から軽んじられた。六年、従四位上に進んだ。翌年、卒した。享年六十一(注:三代実録)。