卷之一百廿四 列傳第五十一

藤原冬嗣、藤原良門、藤原朝成、藤原良世ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次8
  1. 藤原冬嗣
  2. 藤原良門
  3. 藤原朝成
  4. 藤原良世
  5. 藤原長良
  6. 藤原良相
  7. 藤原良仁
  8. 藤原愛發

藤原冬嗣

藤原冬嗣(ふゆつぐ)は、右大臣藤原内麻呂(うちまろ)の次男である。器量は温和で強靭、識見と度量は広く優雅で、文武の才を兼ね備え、人に接するにも寛容であった。延暦末年、左右衛士尉(さゆうえじのじょう)を歴任した。大同年間、従五位下に叙せられ、春宮亮(とうぐうのすけ)となり、侍従を兼ね、従四位下中務大輔(なかつかさのたいふ)に進んだ。弘仁の初め、初めて蔵人頭(くろうどのとう)が置かれ、冬嗣は巨勢野足(こせの のたり)とともに頭に任じられた。春宮大夫・式部大輔を兼任し、従四位上に進み、参議を拝命し、左衛門督(さえもんのかみ)を兼ねる職に転じ、再び春宮大夫となった。一年余り後、父の喪に遭い職を退いた。まもなく、本官に復帰し、(注:本書の傍注が『国史』を引いて言うには、「冬嗣は服喪が解けた後、二度と参議には任じられなかった。しかし『日本後紀』は欠落が多く、今では考証できない。本書は参議に復職したとしているので、今はひとまずそれに従う」とある。)正四位下に叙せられ、左近衛大将を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)天皇がかつてその邸宅に行幸し、酒宴を開いて詩を賦し、大いに歓を尽くし、冬嗣を従三位に進め、その妻藤原美都子(みつこ)に従五位下を授けた。(注:『類聚国史』『日本紀略』による。)ほどなく近江守を兼ね、権中納言となり、陸奥出羽按察使(あぜち)を兼ね、大納言に転じた。弘仁十二年、右大臣を拝命し、なお大将を兼ね、たびたび昇進して正二位に至った。(注:『公卿補任』による。)天長の初め、天皇に意見書を三条にわたって奉った。その一に言う、「良吏を選ぶこと。臣が聞くところでは、『賢者を登用し重用することは、教化を行う上での大方針であり、官を審らかにして才能ある者に授けることは、国を治める上での要務である』という。今、諸国の国司は、あるいは治政を盛んにし、その徳風を広めようとしても、法律に拘束されて自由に振る舞えない。郡国が疲弊するのは、この理由による。伏してお願い申し上げるに、清廉で優れた人材を選び抜き、諸国の守・介に任じていただきたい。新たに任命された守・介については、特に引見を賜り、統治の方策を諭し、あわせて褒賞を与えていただきたい。そして政績が上がれば、褒賞と官位を加増し、公卿に欠員があれば、随時抜擢していただきたい。また規則に反しても道理にかなったことを行い、勤勉でやまない者については、寛大に扱い、法文にとらわれないようにしていただきたい」と。その二に言う、「巡察使を派遣すること。昔は八人の使者を分けて派遣し、風俗を巡視させ、国司の治績の良否を調べ、人民の苦しみを尋ねさせた。これは徳化を広め正義を示し、善行を挙げて不正を糾すためである。願わくは使者を適宜派遣し、その治績の良否を調べさせていただきたい」と。その三に言う、「時令に従うこと。君主が号令を発するには、必ず天の時にかなわねばならない。十二か月がその時にかなえば、陰陽が調和して万事が成就する。伏してお願い申し上げるに、政治や教化を施すにあたっては、時令に違わぬようにしていただきたい。そうすれば風雨は順調となり、災害も起こらないであろう」と。天皇はこれを嘉納した。(注:『類聚三代格』による。)左大臣に進んだ。天長三年、薨去した。享年五十二。正一位を追贈され、(注:『日本紀略』『公卿補任』による。)閑院大臣(かんいんのおとど)と称された。(注:『公卿補任』による。)

冬嗣は施薬院(せやくいん)を設置し、身寄りのない貧しい親族を扶養した。また勧学院(かんがくいん)を設置し、子弟に教育を授けた。封戸(ふこ)一千戸を割き、田地を買い足してこれに充てた。冬嗣の死後、民の年貢の納入が滞り、院の運営費用が続かなくなった。承和年間、子の良房(よしふさ)が一族の緒嗣(おつぐ)らとともに、上奏してこれを訴えた。天皇は詔してその願いを聞き入れた。(注:『続日本後紀』による。)冬嗣はかつて勅を奉じて『弘仁格(こうにんきゃく)』を撰し、(注:『類聚三代格』による。)また『内裏式(だいりしき)』を撰した。(注:本書の序による。)さらに国史の監修にあたったが、完成しないうちに薨去した。(注:『類聚国史』による。)文徳(もんとく)天皇が即位すると、外祖父にあたることから、太政大臣を追贈された。夫人の美都子は正一位を追贈された。詔に言う、「徳を貴び親を重んずることは、先王の立派な典則であり、亡き人を悼み終わりを飾ることは、国家の通例の制度である。朕の外祖父、左大臣正一位藤原朝臣(冬嗣)は、風格が優れて高く、器量は深く重々しかった。徳は当代随一と称され、位は朝廷の重鎮にあり、この上ない忠義をもって国に報い、世は変わってもその名は新たである。その遺した恩愛は人々の間に残り、その身は亡くなってもその徳は盛んである。朕の外祖母、尚侍(ないしのかみ)従三位藤原氏は、家を治めて国の模範となり、孝をもって忠を率い、その婦道の規範は蘋藻(ひんそう)の礼(注:質素な供物を捧げる祭祀の礼)にもまして篤く、母としての徳は周の大姒(たいじ)にもまさっていた。春の花は早くに散っても、その残り香を楽しむにはなお余りあり、石火は瞬く間に消えても、その余焔は今なお照り続けている。朕はこの世に身を置きながら、黄泉の国に思いを馳せる。この上ない哀しみのうちに、亡き肉親を懐かしむ。まして国の定めには常法があり、その位階を尊ぶべきことは当然である。よろしく寵愛の印を加え、その墓所を飾り輝かせるべきである」と。(注:『文徳実録』による。)子には長良(ながら)・良房・良相(よしみ)・良門(よしかど)・良仁(よしひと)・良世(よしよ)がいる。良房には別に伝がある。(注:『尊卑分脈』による。)

藤原良門

藤原良門は、内舎人(うどねり)従四位上であったが、醍醐(だいご)天皇の外曾祖父にあたることから、太政大臣正一位を追贈された。(注:『尊卑分脈』による。醍醐天皇の外曾祖父であることは『扶桑略記』による。)子に利基(としもと)・高藤(たかふじ)がいる。利基は、仁和年間、左馬頭(さまのかみ)従四位上であった。(注:『三代実録』による。)利基の子の兼輔(かねすけ)は、延長年間に従三位権中納言に至り、承平三年に薨去し、堤中納言(つつみのちゅうなごん)と称された。(注:『尊卑分脈』による。)高藤は、寛平・昌泰の間、次々と要職を歴任し、(注:『公卿補任』による。)正三位内大臣に至った。薨去したのは六十三歳のときで、(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。)勧修寺内大臣(かじゅうじのないだいじん)と称され、(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)また小一条(こいちじょう)とも称された。(注:『尊卑分脈』による。)醍醐天皇の外祖父にあたることから、太政大臣正一位を追贈された。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』『日本紀略』による。醍醐天皇の外祖父であることは『扶桑略記』による。)子に定国(さだくに)・定方(さだかた)がいる。定国は、醍醐朝でたびたび昇進して中納言に転じ、従三位に叙せられ、右近衛大将を兼ね、大納言に至った。延歴六年に薨去し、泉大将(いずみのだいしょう)と称された。定方は、延長年間、従二位右大臣に至った。承平二年に薨去した。従一位を追贈され、三条右大臣(さんじょうのうだいじん)と称された。(注:『公卿補任』による。)子に朝忠(あさただ)・朝成(あさひら)がいる。朝忠は、従三位権中納言であった。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)

藤原朝成

藤原朝成は、体つきが醜く肥え太っており、飲食の量は人並み外れて多かった。常に自分の立ち居振る舞いが不自由なことを憂え、医者を招いて治療を求めた。医者は「食事を控えめにし、味の薄いものを食べるに越したことはありません。今はちょうど暑い時期ですので、水飯(すいはん)(注:湯漬け・水漬けの飯)を召し上がるのがよいでしょう」と言った。朝成はこれに従い、医者に自分の食事の様子を見させた。すると水飯を七、八杯続けて食べ、さらに魚鮓(なれずし)を十数切れも食べた。医者は驚いて「これでは水飯であっても治療になりません」と言い、逃げ去ってしまった。(注:『今昔物語』『古今著聞集』による。)かつて従兄の朝忠とともに参内したとき、村上(むらかみ)天皇はその容貌を見て、心中これを卑しんだ。天皇が「あれは誰か」と尋ねると、朝忠は「私の弟の朝成でございます」と答えた。天皇が「何が得意か」と尋ねると、朝忠は「学問を好み、笙(しょう)を吹くのが得意です」と答えた。そこで笙を授けて試させたところ、その曲調は精妙で、天皇はその才能を認め、これによって寵愛を受けるようになった。(注:『続古事談』による。)天禄の初め、昇進を重ねて中納言となった。(注:『公卿補任』による。)朝成は、若い頃から才能と評判があったが、(注:『今昔物語』による。)藤原伊尹(これただ)と参議の地位を争い、伊尹は登用すべきでないと主張した。大納言に欠員が出たとき、朝成はその職に就こうと望んだ。当時、伊尹は摂政の地位にあったので、朝成は自らその邸を訪れ、抜擢を懇願した。伊尹は日頃から朝成を恨んでいたので、すぐには顔を出さず、しばらくしてから出てきて言った、「そなたは初め私と同じ地位にありながら、常に私を追い越して昇進しようとし、あれこれと私の邪魔をしてきた。今日のこの件は、用いるかどうかは私が決めることだ」と。朝成は大いに恥じ入り、憤然として家に帰り、憂鬱のあまり病気になり、(注:『古事談』による。)ほどなくして薨去した。(注:『続古事談』による。○『大鏡』によれば、蔵人頭に欠員が出たとき、藤原伊尹が次に補任される順であった。朝成もまたこれに就こうと望み、その意向を伊尹に懇願したところ、伊尹はこれを承知した。ところが後になって約束を破ったため、朝成は深くこれを恨み、これによって二人の間に不和が生じた。後に、ある出来事がもとで伊尹の家僮(かどう)(注:従者)を辱めたところ、伊尹は怒り、朝成は自ら出向いて謝罪した。『公卿補任』『一代要記』を按ずるに、伊尹朝臣は同じ日に蔵人頭に補任されており、両者が頭の地位を争ったというのは誤りである。)

藤原良世

藤原良世は、代々にわたって重ねて要職を歴任した。寛平年間、右大臣を拝命し、氏長者(うじのちょうじゃ)となった。従二位に叙せられ、牛車(ぎっしゃ)での参内を許された。(注:『公卿補任』による。)左大臣に進み、後に致仕(ちし)(注:官を辞して引退すること)し、(注:『公卿補任』による。)世に致仕大臣(ちじのおとど)と称された。(注:『公卿補任』による。)昌泰三年、従一位を追贈された。(注:『日本紀略』による。)子に邦基(くにもと)・恒佐(つねすけ)がいる。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)邦基は中納言であった。(注:『公卿補任』による。)恒佐は正三位右大臣であった。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)

藤原長良

藤原長良は、志と行いが高潔で、諸弟と親しみ睦まじく、その友愛は天性のもので、士大夫と接するにも寛容であった。身分の貴賤を問わず、人々はこれを敬い慕った。(注:『文徳実録』による。)弘仁の末、昇殿を許された。(注:『公卿補任』による。)当時、仁明(にんみょう)天皇はまだ皇太子の地位にあったが、長良は特に親しく可愛がられた。花咲く朝や月の美しい夕べには、遊宴や弓場での催しに、対等な相手として交わることを許された。長良はいっそう衣冠を整え、いまだかつて礼儀を失うことがなかった。天長年間、従五位下に叙せられた。翌年、侍従となった。左兵衛権佐(さひょうえのごんのすけ)・左衛門佐(さえもんのすけ)を歴任した。(注:『文徳実録』による。)仁明天皇が即位すると、従四位下に進んだ。左右馬頭(さうまのかみ)を歴任し、左兵衛督(さひょうえのかみ)に転じた。承和十一年、参議となり、左衛門督に転じた。(注:『続日本後紀』『文徳実録』による。)讃岐・伊勢の守を兼任した。(注:『続日本後紀』による。)嘉祥三年、仁明天皇が崩御した。長良は追慕して悲しみ泣き、魚肉を口にしなかった。文徳天皇が即位すると、従三位に叙せられた。斉衡の初め、権中納言となった。斉衡三年、従二位に叙せられた。この年、薨去した。享年五十五。(注:『文徳実録』による。)

陽成(ようぜい)天皇が即位すると、外祖父にあたることから左大臣正一位を追贈し、詔して言った、「徳をたたえ勲功を記すことは、時代が変わってもその礼を加えるものであり、死者の終わりを飾り遠い祖先を偲ぶことは、その身は亡くなっても恩恵が及ぶものである。まして天の愛は深く、道理は一族を篤く思う心に切実であり、人の道は重く、情は親族の睦みを大切にする。外祖父、故中納言従二位藤原朝臣は、識見と度量が穏やかで優雅であり、その余慶は死後にまで及んでいる。外祖母藤原氏は、家門にあって婦人としての訓えを伝え、蘋藻の礼をますます恭しく守り、松蘿(しょうら)の義(注:夫婦・親族が寄り添う情愛のたとえ)は互いに照り輝いていた。並び輝く光は惜しまれることなく、たちまち西の峰にその影を落とし、流れる水は驚くほど速く過ぎ去るように、ついにその魂は東の岱山(たいざん)(注:人の死後の魂が赴くとされる山)へと遊行してしまった。玉樹の早く散ったことを悲しみ、その孫の栄えを見ることができなかったが、瓊蘭(けいらん)の遺した香りを訪ねれば、その子の貴さに従うのがよかろう。外祖父には左大臣正一位を、外祖母には正一位を追贈すべきである。死してなお魂に知るところがあるならば、この哀悼の追贈を喜んでほしい」と。(注:本書のこの詔文は欠落があるため、今は『都氏文集』によってこれを補った。)元慶三年、太政大臣を追贈された。(注:『三代実録』による。)子に国経(くにつね)・基経(もとつね)がいる。基経には別に伝がある。国経は正三位大納言であった。(注:『公卿補任』による。)

藤原良相

藤原良相は、若い頃大学に学び、器量は広く大らかで、弁舌の才があった。承和の初め、宮中に召されて仕え、たびたび昇進して左近衛少将となった。(注:『三代実録』による。)橘逸勢(たちばなの はやなり)らの謀反事件が発覚すると、良相は近衛の兵四十人を率いて皇太子の直曹(じきそう)(注:宿直の詰所)を取り囲んで守り、帯刀した兵仗を没収した。(注:『続日本紀』による。)ほどなく阿波守を兼ね、従四位下を授けられ、中将に転じた。嘉祥年間、参議を拝命し、右大弁(うだいべん)を兼ねた。(注:『続日本後紀』『三代実録』による。)ほどなく陸奥出羽按察使を領し、春宮大夫を兼ねた。仁寿元年、従三位を授けられ、権中納言となった。斉衡の初め、大納言に転じ、右近衛大将を兼ねた。天安元年、右大臣を拝命した。(注:『文徳実録』『三代実録』による。)上表して辞退したが、許されなかった。(注:『文徳実録』による。)貞観元年、正二位に進んだ。貞観四年、地震があり、天皇は詔して政治の得失を述べるよう求めた。良相は上表して次のように述べた。

「謹んで思いますに、皇帝陛下の御徳は雲や虹よりも高く、その明らかさは日月と並び立つほどでありながら、なお広く意見を求める道を開き、直言をも咎めない詔をお下しになりました。私の身は山の神ではなく、地位は三公(さんこう)を汚す身でありながら、忠言を献ずる誠意ばかりが積もり、その効を十分に申し上げることができません。おおよそ、国の内外、大小の政治が治まって乱れないのは、ただ人を得て任用しているからにほかなりません。もし人を得なければ、たとえ厳格な法令があったとしても、それはかえって乱れの原因となり、決して治世の備えとはなりません。『詩経』に『人材が去ってしまえば、国は疲弊する』とあり、『書経』に『すべては人を知ることにある。人を知ればこそ賢明に人を用いることができる』とあります。私は愚かではございますが、深くこの言葉を信じております。政治に携わって以来、常にこのことに心を留めてまいりました。しかし趙・魏・滕・薛(ちょう・ぎ・とう・せつ)(注:中国古代の小国の名。人材登用の難しさのたとえ)のような任用は誤りやすく、絳侯(こうこう)や嗇夫(しょくふ)(注:中国古代の人物・官職名。人物評価の難しさのたとえ)のような人物の才は見分けがたいものです。すなわち、人の心は山川よりも険しいものであるとわかります。帝であってもこれを難しいとされるのですから、いかんともし難いことです。ただ、明経(みょうぎょう)・秀才の試験に及第した者は、とりわけ国家にとって才能と人望のある人材です。よろしく古今の朝廷の事の本質を明らかにすべきです。また、一切智智(いっさいちち)(注:仏教用語。あらゆる智慧に通じること)の法を教えることには際限がありません。おおよそ僧綱(そうごう)(注:僧尼を統轄する僧官)や、かつて八省の維摩会(ゆいまえ)の講師を務めた者は、皆世俗の利害得失に通じているべきです。また、右大弁南淵朝臣年名(みなぶちの あそん としな)は、身は進士の出であり、官職は内外の要職を経て、いくらか政治の要諦に通じ、既に枢要の地位におります。山城守紀朝臣今守(きの あそん いまもり)は、歴任した国々でその名声が必ず広まり、これを論ずれば良吏であり、自ずと先駆けとなる人物です。伊予守豊前王(ぶぜんおう)は、才学が早くから世に現れ、経験も長く積んでおり、これといった目立った功績はなくとも、老成した人物と言うにふさわしいです。大宰大弐藤原朝臣冬緒(ふゆお)は、名声はほぼ行き渡り、識見も次第に優れ、実務の才があるとの評判もあり、なお愛すべきところがあります。大和守弘宗王(ひろむねおう)は、かなりの治績の評判があり、多くの国を治めてきました。自らを賢しとする弊害から、あるいは法網にかかることもありますが、国を治めることについて論ずれば、その才がないわけではありません。そうであれば、これらの者たちにも、同様に意見を述べさせるのがよろしいでしょう。すでに樵夫(しょうふ)(注:身分の低い者。謙遜の表現)にまで意見を求めるとおっしゃっているのですから、まして見識のある者たちに求めないはずがございましょうか。私は誤って重責を担い、身の置きどころもございませんが、ただ管見を献じ、御聴聞を煩わせることを恥じ入るばかりです」と。

貞観八年、たびたび上表して辞職を願い出たが、寛大な詔によって許されなかった。(注:『三代実録』による。)この年、左大将を罷免された。(注:『公卿補任』による。)翌年二月、また上表して次のように述べた、「私が聞くところでは、『満ち欠けには節度があり、それゆえ天の道は永く存在し続け、損益は時に従うものであり、それゆえ人の事はこれによって害を免れる』とあります。私は誤って浅薄な身でありながら、たびたび過分な寵愛を受けてまいりました。高い地位にありながら、常に謙譲の心を持つよう努めてまいりました。私が受けるべき封戸は、前後合わせて二千戸でしたが、先帝はその私の心中を察し、千戸を返上することをお許しくださいました。私はこのところ病に伏し長らく癒えず、封爵の返上を願っておりますが、九重の宮中は遠く、なかなか哀れみをもってお察しいただけません。ただ嘆くばかりで、なお心苦しく思っております。ひそかに聞くところでは、『このところ諸国や京の地では、昨年の日照りと凶作の弊害を受け、人々の暮らしは苦しく、穀物の価格が高騰している。そのうえ諸国からの収入も少なく、百官の俸禄も乏しい。国庫はすでに空となり、一年の費用も支えられない』とのことです。私は身に余る大臣の地位にありながら、これを補う術もございません。恥じ入り恐れ入るばかりで、いたずらに禄を食む身であることを恥じております。この厚い封戸を顧みるにつけ、自らこれを減らすことを考えております。これもまた、古人の『余りある者から損して足りない者を補う』という道義に、いささかなりとも近づきたいと願うからです。私は幸いにも陛下の限りないご恩を受け、およそ子弟や近親の者たちは、おおむね皆官職や爵位を賜ることができ、その扶養を仰いで不自由することはございません。まして大将の職を罷免されて以来、費用も減り、賜っていた千戸のうち、私にはなお余裕がございます。伏してお願い申し上げますに、この五百戸を謹んで返上し、国費の万分の一なりとも補いたく存じます。そうすれば、詩人が禾(いね)を取ることを非難した誹りを免れ、鬼神も謙譲の徳に福を授けてくれることでしょう」と。

この年の十月、宿直の部屋で病を得た。ほどなく薨去した。享年五十五。遺言により質素な葬儀を命じた。(注:『三代実録』による。)西三条大臣(にしさんじょうのおとど)と称された。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)天皇は三日間政務を執らず、詔して正一位を追贈した。(注:『三代実録』による。)

良相は文学を好む者を大切にし、貧しい大学生がいれば、折にふれ綿や絹を贈った。冬には多くの衣服や夜具を作らせ、四つの学堂で夜を過ごす学生たちに与え、季節の節目ごとに文才のある学生を招いて詩を作らせ、褒美として物を与えた。仁明天皇がかつて五石散(ごせきさん)(注:中国伝来の丹薬。服用すると発熱を伴うとされた)を煎じ、近臣に賜ってこれを試させたことがあった。皆おそれて飲む者がいなかったが、良相だけは杯を取って一息に飲み干した。天皇はその至誠に感心した。大臣の職に就いてからは、専ら政務に心を尽くし、志は国を正し民を救うことにあった。当時、鷹狩りや漁猟は一切禁止した。山川や沼沢の利益は民と共にするようにしたが、これらは皆良相が建議したことである。性質は親族に篤く睦まじく、また仏法を篤く信じた。勧学院の南に延命院を建て、藤原氏の学生で病に苦しみ生計の資のない者を養った。京の東側にある六条の邸宅を、それぞれ崇親院(すうしんいん)とし、一族の子女で自活できない者を収容して養い、いずれも封戸を割いて荘田に組み入れ、その生活の費用に充てた。崇親院に小堂を建てて仏像を安置し、住む者に毎朝観音を念誦させ、自ら願文を作った。妻の大江氏を亡くしてからは再婚せず、ついに生涯、肉や魚を絶った。臨終に際して、子どもたちに告げて言った、「今日は興福寺の維摩会の初講の日である。もし私がこの日に亡くなるようなことがあれば、あの法会と因縁がないとどうして言えようか」と。そして侍者に命じて助け起こさせ、仏の印を結んで息を引き取った。

子に忠方(ただかた)・常行(つねゆき)がおり、二人とも才能と行いによって称えられた。常行は、貞観年間、正三位大納言に至り、右近衛大将、陸奥出羽按察使を兼ねた。貞観十七年、薨去した。(注:『三代実録』による。)朝廷は一日政務を停止し、従二位を追贈した。(注:『日本紀略』による。)忠方は隷書を得意とし、官は従五位下阿波権守に至った。(注:『尊卑分脈』による。)

藤原良仁

藤原良仁は、人となりは淡泊で上品であり、立ち居振る舞いは颯爽としてはきはきとし、容姿も美しかった。若い頃大学に学び、読書に励んで疲れを忘れるほどであった。文徳天皇がまだ皇太子であった頃、召されて蔵人となった。東宮亮に転じ、従五位上を授けられた。文徳天皇が即位すると、正五位上に進み、中宮亮となり、たびたび昇進して右近衛中将・大舎人頭(おおとねりのかみ)となった。後にある事件に連座し、越前(えちぜん)権守に左遷された。その後、中宮大夫として朝廷に復帰した。良仁は、家柄が高く華やかで、身につける衣服の美しさは際立って鮮やかであった。馬をたいそう愛し、公務の合間には、いつもこれを愛玩した。生まれつき孝行心が篤く、母の喪に服したときには、泣き叫んで血を吐き、気を失っては生き返るということを繰り返し、ついに病を得た。貞観二年、卒去した。享年四十二。(注:『三代実録』による。)冬嗣の弟に愛発(あいかつ)がいる。(注:『続日本後紀』『尊卑分脈』による。)

藤原愛發

藤原愛発は、大同年間、文章生(もんじょうしょう)となった。弘仁年間、民部少輔(みんぶのしょうふ)・右中弁(うちゅうべん)となった。天長三年、参議を拝命し、たびたび清要の職を歴任した。天長九年、従三位を授けられ、中納言に転じ、民部卿を兼ねた。(注:『続日本後紀』『公卿補任』による。)愛発は、人となりは穏やかで柔和であり、みだりに怒りを表すことがなかった。その政治の手腕は、物事に通じ熟達していると評された。承和七年、正三位に叙せられ、大納言に転じた。承和九年、伴健岑(とものこわみね)らの謀反事件が起こり、この事件に連座して、院中に幽閉された。その後、京の外に追放され、山城国久世郡(やましろのくにくせぐん)の別荘に居を移した。翌年、薨去した。享年五十七。(注:『続日本後紀』による。)