卷之一百卅五 列傳第六十二
藤原實賴、藤原賴忠、藤原佐理、藤原師輔ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原實賴
¶藤原実頼(ふじわらのさねより)は、幼名を牛養(うしかい)といい、(注:大鏡)関白忠平(ただひら)の長子である。(注:大鏡、尊卑分脈)人となりは温雅であった。かつて高麗(こま)から人相見が来朝した際、実頼はまだ若く、身分の低い者の服を着て大勢の人の中に紛れていた。人相見は彼を指して「これは貴人である」と言った。(注:大鏡)延喜末年、阿波権守・右衛門佐に任じられた。これより官階を積み重ね、朱雀朝に至って大納言に任じられ、勅命により官奏に預かった。ほどなく右大臣を拝命した。三度上表して辞退したが、許されなかった。次いで蔵人所別当を兼ねた。天暦の初め、左大臣に転じ、後に皇太子傅を兼ね、正二位に叙された。天徳二年、輦車(れんしゃ)での宮門出入りを許された。(注:公卿補任、大鏡裏書)康保元年、従一位に進んだ。(注:公卿補任)二年、節会の日に列に加わらず直接昇殿することを許された。(注:日本紀略、大鏡裏書)四年、帝が崩御した。皇太子が即位すべきところ、病にかかり大極殿に出御できなかった。実頼は議を建て、初めて紫宸殿で即位の礼を行った。これが冷泉帝である。当時の人々はこれを称賛した。(注:古事談)帝は実頼に関白として機務を執るよう詔した。(注:日本紀略、公卿補任、大鏡裏書)牛車での宮門出入りを許された。(注:大鏡裏書)次いで太政大臣を拝命した。(注:日本紀略、公卿補任)安和元年、帝が病にかかり(注:日本紀略)、実頼に官奏を見るよう命じた。実頼も病んだため、三十人の得度者を賜った。円融帝が幼くして即位すると、実頼は摂政となった。(注:日本紀略、公卿補任)すべて父忠平の先例に倣ったものであった。天禄元年、病の床についた。その病が篤くなると、帝は天下に大赦を行って救おうとした。(注:日本紀略)薨去したのは七十一歳の時であった。(注:日本紀略、公卿補任、大鏡裏書)薨去の日には、身分の高い者も低い者もこぞって門前に集まり、声をあげて哀悼した。(注:愚管抄、古事談)詔により正一位を追贈され、尾張公に追封され、清慎(せいしん)と諡(おくりな)された。(注:日本紀略、公卿補任、大鏡裏書)世に小野宮殿と称された。(注:公卿補任、尊卑分脈)著書に水心記がある。(注:仁和寺書籍目録)実頼は物事に練達し明朗で、世の模範であった。自邸に住んでいた頃、南庭に出るときは必ず冠を着けた。人がその理由を怪しんで尋ねると、「稲荷山(いなりやま)が目の前に厳然としてあるのに、どうして敬わずにいられようか」と答えた。たまたま冠を忘れた時は、袖で頭を覆い、急いで駆け込んだ。その慎み深さはこのようであった。(注:大鏡)また門の脇に果物を積み、子供たちに自由に食べさせた。塀越しにその話す様子を聞き、世間の事情を知った。(注:古事談)その作った詩歌の多くが世に伝わっている。
¶長子敦敏(あつとし)は左近衛少将となったが、父より先に卒した。(注:長子以下、尊卑分脈)次に頼忠(よりただ)。次に斉敏(ただとし)。斉敏は参議従三位に至った。天廷元年、薨去した。(注:公卿補任、尊卑分脈)三人の子があり、高遠(たかとお)、懐平(かねひら)、実資(さねすけ)である。(注:尊卑分脈)高遠は正三位大宰大弐。長和二年、薨去した。懐平は長和年間に権中納言に至った。寛仁元年、薨去した。享年六十五。(注:日本紀略、尊卑分脈)実資には別に伝がある。
藤原賴忠
¶藤原頼忠(よりただ)。頼忠は天禄年間に権大納言に任じられ、左近衛大将を兼ね、右大臣を拝命した。摂政伊尹(これただ)が薨去すると、代わって氏長者となった。天廷の初め、氏長者の地位を解かれ、帝は改めて関白兼通(かねみち)にこれを命じた。(注:公卿補任)兼通はもとより頼忠と気が合い、機務の大小を問わずその都度相談した。(注:栄花物語)貞元元年、頼忠に一上(いちのかみ)として行う政務を執るよう詔した。二年、左大臣に転じ、正二位に叙され、なお大将・蔵人所別当を兼ねた。(注:公卿補任)頼忠はもとより世の人望があり、兼通もまた常々頼忠を挙げて自らに代えようと考えていた。(注:栄花物語)この冬、兼通は病身を輿に乗せて参内し、除目を行った。奏して言うには、「頼忠は関白の器です。臣は職を辞してこれに譲ることを願います」と。帝はその言葉に従い、即日頼忠を関白とした。(注:愚管抄)また氏長者ともなった。大将を辞し、内舎人二人、左右近衛各四人を賜り、随身とした。そこで内舎人も辞退し、代わりに左右近衛府生各一人を加えて賜り、勅命により帯剣を許され、輦車での宮門出入りを許された。天元の初め、太政大臣を拝命し、牛車を許された。四年、従一位に進み、花山朝でも元の職を領した。一条帝の即位に至って関白を罷めた。永祚元年、薨去した。享年六十六。正一位を追贈され、駿河公に追封され、廉義(れんぎ)と諡された。(注:公卿補任)その邸は三条の北にあった。(注:大鏡)それゆえ三条大臣と称された。(注:大鏡、公卿補任)頼忠は性質が質素倹約で、関白であった頃も常に布の袴を着けて参内した。(注:大鏡)子の公任(きんとう)には別に伝がある。(注:尊卑分脈)頼任は従四位上・土佐守。(注:尊卑分脈)敦敏の子は佐理(すけまさ)である。(注:尊卑分脈、大鏡)
藤原佐理
¶藤原佐理。佐理は書をよくし、兼明親王(かねあきらしんのう)、藤原行成(ゆきなり)と並び称された。(注:江談抄)天徳・天元の間に官を重ねて参議に至り、従三位に叙された。正暦年間、太宰大弐として都を出、正三位に進んだ。(注:公卿補任)在任数年にして、宇佐(うさ)の神人と争いを起こし、祠官がこれを朝廷に訴えたため、大弐を罷免され(注:日本紀略)、都に帰った。伊予(いよ)の海岸に停泊した際、風波が険しく、数日出航できずにいた。ある夜、夢に三島明神が現れ、社の額を書くよう頼んだ。佐理は謹んで承諾した。目覚めるとすぐに風は静まり波も穏やかになったので、岸に上がって斎戒し、額を書いて去った。これより書の名声はますます世に高まった。(注:大鏡)次いで兵部卿となった。薨去したのは五十五歳の時である。(注:日本紀略、公卿補任)娘は懐平に嫁ぎ、これもまた書をよくし、かなり父の風格があった。(注:大鏡、栄花物語)実頼の弟は師輔(もろすけ)である。(注:大鏡、尊卑分脈)
藤原師輔
¶藤原師輔。師輔は若い頃から清顕(注:清華の家柄の顕職)を歴任し、承平・天慶の間に官を重ねて権中納言となった。(注:公卿補任)勤子内親王(きんしないしんのう)を妃とした。(注:一代要記)平将門(たいらのまさかど)が反乱を起こした際、征東大将軍藤原忠文(ただふみ)がまだ戦端を開かないうちに将門は誅殺され、朝廷は論功行賞を行った。当時師輔は兄実頼と同席しており、実頼は「忠文には実際のところ功がなく、賞すべきではない」と論じた。師輔は「そうではありません。罪を疑わしい時は軽きに従い、賞を疑わしい時は重きに従うものです。彼はすでに命を受けて京を出た以上、賞さないわけにはいきません」と言った。実頼は頑としてその意見を変えなかったが、当時の世論は師輔の言葉を年長者らしい見識だとした。(注:古事談、十訓抄。源平盛衰記も参照)大納言に転じ、右近衛大将を兼ね、従二位に叙された。天暦元年、右大臣を拝命し、正二位に進んだ。(注:公卿補任)勤子内親王が薨去すると、雅子内親王(がしないしんのう)を妃とした。まもなく内親王もまた薨去した。さらに康子内親王(やすこないしんのう)を妃とした。(注:一代要記)天徳四年、師輔は病の床についた。帝はその剃髪の志があると聞き、使者を遣わして見舞わせた。師輔は自ら起き上がることができず、かねてよりの志を訴えた。帝は重ねて諭して、「あなたの病は篤いといっても、養生の仕方さえよければ、どうして最後まで治らないことがあろうか。東宮はまだ幼く、輔導する人がいない。あなたはどうして平然として直ちに剃髪しようとするのか」と言った。師輔は重ねて願い出て、ついに剃髪した。(注:扶桑略記)やがて薨去した。享年五十三。(注:日本紀略、扶桑略記、公卿補任、尊卑分脈)世に九条殿と称され、あるいは坊城とも称された。(注:公卿補任、尊卑分脈)かつて新撰年中行事、除目鈔を撰した。その日記は九暦と呼ばれる。(注:仁和寺書籍目録)遺誡一篇を作り、子孫を教え、これが世に行われた。(注:拾芥抄)師輔は寛大で温厚であり、多くの人を受け入れることができた。長らく訪ねてこなかった者でも、訪ねてくれば初めと変わらぬ態度で接した。それゆえ父の代からの家臣・賓客の多くが彼のもとに帰ってきた。(注:栄花物語)子は伊尹(これただ)、兼通(かねみち)、兼家(かねいえ)、高光(たかみつ)、為光(ためみつ)、公季(きんすえ)である。(注:尊卑分脈)兼家には別に伝があり、高光は隠逸伝にある。
藤原伊尹
¶藤原伊尹。伊尹は天禄元年、右大臣を拝命した。伯父実頼が薨去すると、代わって摂政となり、(注:日本紀略、公卿補任、栄花物語)氏長者となった。(注:尊卑分脈)たびたび上表して摂政を辞退したが、許されなかった。(注:日本紀略)二年、太政大臣を拝命し、正二位に進み、(注:公卿補任)直廬(じきろ)にて除目を見ることを許された。(注:日本紀略)三年、病が篤くなり、八十人の得度者を賜り、(注:公卿補任)大赦令を下してその病を救おうとした。(注:日本紀略)上表して致仕を願い出た。摂政を停められたが、他の官はそのままであった。十一月に薨去した。享年四十九。正一位を追贈され、参河公に追封され、謙徳(けんとく)と諡された。(注:日本紀略、公卿補任)食封・資人は生前のままとされ、(注:日本紀略)一条摂政と称された。(注:公卿補任、尊卑分脈)性格は豪奢を好み、かつて大饗(だいきょう)の日に臨んだ際、寝殿の壁の色がわずかに黒ずんでいるのを見て、たちまち陸奥紙(みちのくがみ)でこれを張り替えさせた。師輔はかつて子孫に遺誡を残し、倹約を示していた。伊尹はこれを守ることができず、当時の世論はこれを非難した。伊尹は才能と容貌に優れ、和歌を巧みにした。(注:本朝文粋)村上帝は大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)ら五人に命じて後撰集を撰ばせ、(注:八雲御抄)伊尹は帝の宸翰(しんかん)の宣旨を受け、和歌所別当を務めた。(注:本朝文粋) 子は親賢(ちかかた)、惟賢(これかた)、挙賢(たかかた)、義孝(よしたか)、義懐(よしちか)、周挙(ちかたか)、光昭(みつあき)、娘に懐子(かんし)がいる。親賢・惟賢はいずれも右兵衛佐を務めた。(注:尊卑分脈)挙賢は左近衛少将となった。義孝は右近衛少将であった。当時の人々は挙賢を前少将、義孝を後少将と称した。兄弟はいずれも容姿が美しかったが、兄はやや弟に及ばなかった。それゆえ兄弟は仲が良くなかった。(注:大鏡)同時に痘瘡(天然痘)を患い、朝と夕の間に相次いで亡くなった。義孝は幼い頃から仏道を好み、(注:大鏡、栄花物語)肉食を断つに至った。(注:大鏡、往生極楽記、元亨釈書)義懐には別に伝がある。周挙・光昭はいずれも少将を務めた。懐子は冷泉帝の女御となり、花山帝を生んだ。(注:尊卑分脈)義孝の子行成(ゆきなり)には別に伝がある。
藤原兼通
¶藤原兼通。兼通は天慶九年、周防権守に任じられた。天暦の末、左近衛少将に遷った。(注:公卿補任)天徳四年、皇太子の外舅(がいしゅう)として東宮亮を兼ねた。康保四年、蔵人頭に補された。ある事で帝の意に逆らい東宮亮を停められ、弟の兼家がこれに代わった。冷泉帝が即位すると、蔵人頭を停められ、兼家がまた代わってこれを務めた。(注:公卿補任。愚管抄も参照)安和二年、参議に任じられた。次いで従三位に叙された。(注:公卿補任)兼家は昇進が早く、大納言に遷り、右近衛大将を兼ねた。(注:公卿補任、愚管抄)兼通はこれによって不満を抱き、しばしば朝参を欠いた。帝もまた彼への待遇をやや薄くした。(注:大鏡)天禄三年、権中納言に任じられた。(注:公卿補任)兼通は摂関の地位を望んでいたが、常に兼家が自分の昇進を妨げることを恐れていた。かつて村上朝の頃、ひそかに中宮のもとに赴き、手書きを書かせて、「今後摂関に欠員が生じたときは、必ず兄弟の順に従ってこれに及ぶべきである」と記した。中宮は兼通の妹であった。兼通はその文書を懐に入れ、片時も身から離さなかった。兄伊尹の病が篤くなると、兼通はその存命が長くないと見て、機会を見てその文書を差し出そうとした。折しも帝が鬼間(おにのま)に出御しており、兼通は進んでこれを奉ろうとした。帝は諸々の外戚の中でも兼通には冷淡であったので、彼が近づいて来るのを見て立ち上がり奥に入ろうとした。兼通はついていって「臣に奏上したいことがございます」と言った。帝は再び座に戻った。そこで兼通はその文書を奉った。帝は母后の筆跡を見て、悲しみの色を浮かべた。ついにその遺命に背きがたく、まず兼通に内覧を許した。(注:大鏡。愚管抄も参照)中納言から抜擢して、直ちに内大臣に任じた。(注:公卿補任、大鏡、愚管抄)天延二年、氏長者となり、太政大臣を拝命し、従二位に叙され、輦車を許され、万機を関白した。内舎人二人、左右近衛各四人を随身として賜った。三年、従一位に叙され、牛車を許された。(注:公卿補任)貞元元年、内裏で火事があり、帝は兼通の堀河第に行幸した。屋敷は壮麗で、内裏になぞらえられるほどであった。当時の人々はこれを「今内裏」と呼んだ。(注:栄花物語)二年の春、病を得て、上表して辞職を願ったが、許されなかった。(注:日本紀略)はじめ兼通の長女媓子(こうし)は女御となり、皇后に冊立された。兼家の長女超子(ちょうし)は冷泉上皇の女御となり、さらに次女詮子(せんし)を帝に侍らせようとした。兼通は「私の娘はすでに中宮となっているのに、彼はさらに自分の娘を進めようというのか」と言った。これにより両者の間の確執はますます深まった。兼家の東三条第は兼通の堀河第と隣接しており、客がたまたま兼家を訪ねることがあると、兼通は陰でこれを罵った。客はこれを恐れ、夜を待って訪ねる者もいた。超子が三条帝を生むに及んで、兼通はますます不満を募らせ、「院の女御が皇子を育て、大将(兼家)がこれを助け、これからさらに後々の栄達を図ろうとしている」と言った。帝に「兼家は院の皇子を奉じ、思いがけない幸運を望んでおり、陛下に不利益になるのではないかと恐れます。先んじてこれを退けるべきです」と申し上げた。右大臣藤原頼忠は兼通と親しく、兼通は頼忠を推挙して自分の後任にしようと考え、まず源兼明(みなもとのかねあきら)に左大臣を辞めさせて改めて親王とし、頼忠にこれを任じさせた。(注:栄花物語)冬になって、兼通の病が重くなった。兼家はこれを聞き、もはや助からないと考え、参内して自分がその職を継ぐことを奏上しようとした。急いで身支度を整えて出発し、先払いをして道を開かせ、すでに兼通の邸の近くまで来ていた。ある人が邸に入って「東三条殿がまさにお越しになります」と報告した。兼通は見舞いに来たものと思い、席を整えて待った。ところが兼家はその門を通り過ぎて入らず、まっすぐ参内して帝に拝謁した。兼通は大いに怒り、勃然として起き上がった。四人に助けられ、病をおして参内した。兼家はちょうど帝の前で奏請している最中であったが、兼通が来たのを見て驚き慌てふためき、他の場所に身を避けた。兼通は顔色を著しく悪くして帝に「臣は本日、最後の除目を行うことを願います。左大臣頼忠こそがその人であり、関白とすべきです」と申し上げた。そして兼家が軽率で先を争うふるまいをしたと弾劾し、現に任じられている官職を剥奪して、治部卿に左遷した。帝はその意に逆らうことができず、すべてこれを聞き入れた。(注:大鏡。愚管抄も参照)兼通は公卿たちを顧みて「誰か大将になりたい者はいるか。なりたければ自ら願い出よ」と呼びかけた。座にいた者は互いに顔を見合わせ、誰も敢えて言い出す者はなかった。中納言藤原済時(なりとき)が進み出て願い出た。兼通はこれを許した。(注:愚管抄)兼通は関白を辞した後、帝は特に厚遇して人に官位を任じ与える権を賜り、准三宮とした。(注:公卿補任、日本紀略)天下に大赦を行い、老人に禄を賜って、その病を救おうとした。(注:日本紀略)薨去したのは五十三歳の時であった。(注:日本紀略、公卿補任、尊卑分脈)遺言により喪儀と贈位を辞退した。朝廷は三日間政務を停止した。(注:日本紀略)正一位を追贈され、遠江公に追封され、忠義(ちゅうぎ)と諡された。(注:日本紀略、公卿補任)食封・資人は生前と同じとされ、(注:日本紀略)堀河殿と称された。(注:大鏡、尊卑分脈)子は顕光(あきみつ)、時光(ときみつ)、朝光(あさみつ)である。(注:公卿補任、尊卑分脈)
藤原顯光
¶藤原顕光。顕光は応和・寛仁の間に官を重ねて従一位左大臣に至り、(注:公卿補任)薨去したのは七十八歳の時であった。(注:日本紀略、公卿補任)堀河または広幡と称された。(注:尊卑分脈)顕光の娘延子(えんし)は小一条宮に入内し、深い寵愛を受けた。後に左大臣道長(みちなが)の娘が続いて入内すると、父の権勢を頼んでその寵を奪った。(注:栄花物語、大鏡)延子は寵を失い実家に帰った。(注:栄花物語)顕光は怨み憤り、一夜にして髪が白くなった。(注:十訓抄)延子はついに憂いのために亡くなった。(注:栄花物語、大鏡)顕光は僧道満(どうまん)に道長を呪詛させたが、(注:十訓抄)死後に祟りをなしたとされ、世の人は「悪霊左府」と呼んだ。(注:大鏡、宝物集)
¶時光は従二位中納言で、町尻(まちじり)と称された。(注:尊卑分脈)
藤原朝光
¶藤原朝光。朝光は円融帝の時に特別な恩寵を受け、(注:大鏡)兄の顕光を超えて権中納言となった。大納言に転じ、左近衛大将を兼ねた。(注:大鏡、公卿補任)長徳元年、薨去した。(注:公卿補任、尊卑分脈)閑院大将と称された。(注:大鏡、公卿補任)朝光は容姿が美しく、(注:大鏡)かつて思いつきで額を透かせた冠(注:透額冠、すかしびたいのかんむり)を着け、後の人々がこれに倣った。(注:東斎随筆)はじめ朝光は重明親王(しげあきらしんのう)の娘を娶り、容姿に優れ、幾人かの子をもうけた。当時大納言源延光(のぶみつ)の妻が新たに寡婦となり、化粧道具や財産がたいへん豊かであった。朝光はこれを手に入れようと、些細な過失を探し出して自分の妻を退け、改めてこの女性を娶った。彼女は朝光より年上で、顔にしわがあり髪も白く、額には傷があった。しかし夫に媚びることには実に熱心であった。侍女三十人ほどを抱え、皆容姿に優れ、美しく着飾らせて左右に並ばせた。銀の鍋二十ほどを常に用意して薬を煎じ、必要に応じて供進させた。寒い夜には綿入りの敷物を敷いて座らせ、臥所に入れば侍女たちにそれぞれ火熨斗(ひのし)を持たせて暖めさせた。朝光は大いにこの妻を寵愛したが、これは世の批判にさらされ、名声はかなり衰えた。(注:大鏡)子の朝経(あさつね)は高位に至った。(注:公卿補任、尊卑分脈)
藤原為光
¶藤原為光。為光は天禄年間に官を重ねて参議となった。数年後、従三位に叙され、権中納言に任じられた。貞元三年、大納言に転じた。一条帝の即位に及んで、右大臣を拝命した。永延元年、従一位に叙された。正暦二年、太政大臣を拝命し、(注:公卿補任、尊卑分脈)輦車を許された。(注:公卿補任、一代要記)翌年、薨去した。享年五十二。正一位を追贈され、相模公に追封され、恒徳(こうとく)と諡された。(注:公卿補任、日本紀略、尊卑分脈)食封・資人は生前と同様とされた。(注:日本紀略)後一条太政大臣と称された。(注:公卿補任、一代要記)はじめ為光の娘忯子(しし)は花山帝の女御となり、深い寵愛を受けた。ちょうど懐妊していた時、八月に病で亡くなった。(注:大鏡、栄花物語)為光は悲しみに耐えられず、これより専ら仏道に帰依し、日頃から修行に励み、まったく僧侶のような暮らしをし、法住寺を創建してそこに住んだ。(注:栄花物語)それゆえ法住寺相国とも称された。(注:大鏡、尊卑分脈)その日記は法住寺相国記と呼ばれる。
¶長子誠信(さねのぶ)は幼名を松雄といい、(注:長子以下、栄花物語)性格は酒を好んだ。弟の斉信(ただのぶ)には優れた評判があり、誠信は世の人望において及ばなかった。(注:大鏡)一条帝の即位後、誠信は次第に昇進して参議となった。長徳三年、従三位に叙され、左衛門督を兼ねた。長保年間、中納言に欠員が生じると、(注:公卿補任)誠信はこれを補されようと考え、ひそかに斉信に「この官は私が望んでいるものだ。弟は望むな」と言った。斉信はこれを承諾した。左大臣道長は日頃から斉信の才能を重んじており、ひそかに彼に諭して「お前は中納言になりたくないか。私が奏上して授けよう」と言った。斉信は「これは兄が望んでいるものです。私は先んじることを望みません」と辞退した。道長は「兄はその器ではない。お前がもし望まなければ、この昇進の機会は結局他人のものとなろう」と言った。斉信は「私はただ兄のために避けているだけです。もし他の者が補されるべきであれば、どうして拝命しないことがありましょうか」と言った。道長はついに斉信を中納言とした。誠信はこれを自分を欺いたものと思い、除目の日から飲食を断ち、拳を握りしめ、うつむいたり仰いだりして怒り罵り、「私は斉信と道長に妨げられたのだ」と言った。憤り悶えること七日にして薨去した。爪が手の甲を貫いていたという。(注:大鏡)斉信には別に伝がある。斉信の弟道信(みちのぶ)は、伯父兼家の養子に出た。道信(注:原文「通信」)の弟公信(きんのぶ)は、官が中納言に至った。(注:尊卑分脈)
藤原公季
¶藤原公季(きんすえ)は、生まれてすぐに父を失った。村上帝の中宮は公季の姉であり、幼くして孤児となったことを哀れみ、宮中に引き取って養育した。帝もまた深く目をかけ、衣食は皇子に准じたが、ただ用いる食器だけはその格式をやや落とした。臣下の身で宮中で養育された者は、古来いまだかつてなく、当時の人々はこれを異例のこととした。(注:大鏡)康保四年、元服した。即日、正五位下に叙され、官を重ねた。寛和年間、権中納言に任じられた。長徳年間、大納言に転じ、陸奥出羽按察使・左近衛大将を兼ね、(注:公卿補任)内大臣を拝命した。寛仁元年、右大臣に転じ、(注:日本紀略、公卿補任)輦車での宮門出入りを許され、皇太弟傅を兼ねた。治安元年、従一位に叙され、太政大臣を拝命し、牛車を許された。次いで随身八人を賜った。(注:公卿補任)長元二年、薨去した。享年七十三。正一位を追贈され、(注:日本紀略、扶桑略記、愚管抄)甲斐公に追封され、(注:日本紀略、左経記)仁義(じんぎ)と諡された。(注:日本紀略、扶桑略記、左経記、愚管抄)閑院家の祖となった。(注:尊卑分脈)子は実成(さねなり)。
藤原實成
¶藤原実成は、官を重ねて中納言・太宰権帥に至った。(注:公卿補任)長暦二年、事件に連座して除名された。(注:扶桑略記、百錬抄、一代要記、公卿補任)翌年、元の位に復した。(注:扶桑略記。○一代要記、公卿補任では、いずれも長久元年のこととする)人相を見ることに長けていた。右馬頭藤原顕信(あきのぶ)が実成に婚姻を申し込んだ。実成は顕信に出家の相があるとして、これを許さなかった。後に顕信の兄能信(よしのぶ)に「あなたの弟はまもなく出家するでしょう。その兆しはすでに現れています」と言った。それにより年齢を尋ねると、「十九です」と答えた。実成は「その時期は今年でしょう」と言った。この年、顕信は突然官を棄てて僧になった。(注:大鏡)実成は寛徳元年、薨去した。享年七十。(注:公卿補任)世に閑院帥と称された。(注:扶桑略記)子は公成(きんなり)。
藤原公成
¶藤原公成は、幼名を犬といった。(注:大鏡)容姿が美しく、立ち居振る舞いも落ち着いていた。(注:栄花物語)公季は彼を養子とし、格別に鍾愛して、常に同じ車に乗って参内した。ある時公成が遅れると、公季は一人で先に進むことはせず、必ず彼が来るのを待ってから参内した。(注:大鏡)官は従二位権中納言に至った。子の実季(さねすえ)は正二位大納言。(注:公卿補任)世に後閑院と号した。(注:尊卑分脈)鳥羽帝の外祖父であることから、太政大臣正一位を追贈された。(注:朝野群載、尊卑分脈)
藤原在衡
¶藤原在衡(ありひら)は、中納言山蔭(やまかげ)の孫で、僧如無(にょむ)の子である。伯父の但馬介有頼(ありより)が養って嗣子とした。(注:公卿補任、尊卑分脈。○但馬介は、尊卑分脈では守に作るが、今は公卿補任に従う)延喜八年、大学に入り、文選・范史を試みたが、誤りがあって及第しなかった。十二年、省試を受け、まもなく文章生となった。十七年、任官して伊予・備前の掾となった。翌年、対策に及第し、(注:朝野群載)少内記蔵人となった。延長年間、従五位下に叙され、刑部少輔に任じられ、特別に昇殿を許された。次いで大学頭となり、式部権少輔に任じられた。(注:公卿補任、朝野群載)天慶四年、参議に任じられた。村上帝の即位後、従三位に叙され、権中納言に任じられ、正三位に進み、大納言に転じた。(注:公卿補任)天徳四年、内裏で火災があり、宮殿はことごとく焼失した。在衡はその改造の事を監督した。(注:朝野群載)翌年、その功により従二位に叙された。(注:公卿補任)安和二年、粟田山荘(あわたさんそう)で尚歯会(しょうしかい)を催した。(注:日本紀略、百錬抄、扶桑略記)会に集まった者はそれぞれ朝服を脱ぎ、直衣・指貫を着けた。(注:日本紀略)世はこれを盛事とした。(注:日本紀略、百錬抄)太政大臣実頼は、和漢尚歯会の障子絵をこれに贈った。(注:本朝文粋)たまたま左大臣源高明(たかあきら)が讒言を受けて左遷されたとき、在衡はこれを聞いて嘆き惜しんだ。家臣が慶んで「大臣に欠員が生じれば、次はあなたの番です」と言うと、在衡は大いに怒ってこれを追い払った。(注:続古事談)やがて師尹(もろただ)に代わって右大臣となった。(注:公卿補任)翌年、左大臣に転じた。この冬、病のため致仕した。まもなく薨去した。享年七十九。(注:公卿補任、一代要記。○扶桑略記では八十とするが誤りである)従一位を追贈され、粟田左大臣と称され、(注:公卿補任)また万里小路(までのこうじ)とも称された。(注:歴代皇紀)在衡は在職中一度も朝参を欠かしたことがなかった。ある日、風雨が激しく荒れ狂った際、左衛門の吉上(きちじょう)たちが互いに「勤勉なこと在衡のようであっても、この日ばかりは朝参に苦労するだろう」と話し合っていた。話し終わらないうちに、蓑笠を着けてやって来る者があり、見ればそれは在衡であった。当時の人々はこれを感嘆して称賛した。(注:古事談、続古事談)在衡はあらかじめ帝が読む書物を知っており、参内するたびに、車の中に必ずその書物を載せていた。帝から下問があれば、明快に答えることができた。それゆえ才学は人より格別に優れているわけではなかったが、深く評価された。(注:古事談、続古事談、十訓抄。○十訓抄・東斎随筆には、いずれも在衡が若い頃鞍馬寺に参詣し、夢で毘沙門天に出会い、あらかじめ自分の寿命や官爵を知ったという話を載せているが、かなり荒唐無稽であるため採用しない)子の国光(くにみつ)は治部卿。国光の子忠輔(ただすけ)は、(注:公卿補任、尊卑分脈)安和の初め、文章得業生として身を起こし、官階を重ね、(注:公卿補任)正三位権中納言に至った。(注:公卿補任、尊卑分脈)