卷之九十三 列傳第二十

皇子八

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次31
  1. 齊中親王
  2. 齊世親王
  3. 敦慶親王
  4. 載明親王
  5. 敦固親王
  6. 敦賀親王
  7. 源雅信
  8. 源重信
  9. 行中親王
  10. 齊邦親王
  11. 雅明親王
  12. 行明親王
  13. 【醍醐】十六子
  14. 源博雅
  15. 文獻太子保明
  16. 慶賴王
  17. 代明親王
  18. 源延光
  19. 重明親王
  20. 常明親王
  21. 式明親王
  22. 有明親王
  23. 時明親王
  24. 長明親王
  25. 章明親王
  26. 盛明親王
  27. 兼明親王
  28. 源高明
  29. 源自明
  30. 源允明
  31. 源為明

齊中親王

宇多天皇(うだてんのう)には十一人の皇子があった。皇后藤原氏は醍醐帝(だいごてい)、第四子敦慶親王(あつよししんのう)、敦固親王(あつかたしんのう)、第八子敦実親王(あつざねしんのう)を生んだ。女御橘義子(たちばなのぎし)は第二子斉中親王(さいちゅうしんのう)、第三子斉世親王(ときよしんのう)、斉邦親王(ときくにしんのう)を生んだ。尚侍藤原褒子(ふじわらのほうし)は載明親王(のりあきらしんのう)、雅明親王(まさあきらしんのう)、行明親王(ゆきあきらしんのう)を生んだ。行中親王(ゆきなかしんのう)については、生母が誰であるか伝わっていない。(注:『一代要記』と『皇胤紹運録』とでは、諸皇子の生まれた順序について異同があり、『尊卑分脈』は『紹運録』の説と一致する。ここではその生没年を推定し、両書を参照してこれを定めた。敦実親王が第八子であることは『扶桑略記』『拾遺往生伝』による。)

齊世親王

斉中親王(さいちゅうしんのう)は寛平三年十月に薨去した。(注:『一代要記』による。)

敦慶親王

斉世親王(ときよしんのう)は三品に叙され、兵部卿となった。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)上総太守にも任じられた。(注:『日本紀略』による。)右大臣菅原道真(すがわらのみちざね)の娘を娶ったが、道真が左遷されるに及び、事件が斉世にも及んだため、仁和寺に入って僧となった。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。仁和寺に入ったことは『日本紀略』による。)名を真寂(しんじゃく)と改めた。延長五年九月に薨去し、(注:『日本紀略』『一代要記』『尊卑分脈』による。)行年四十二歳であった。(注:『日本紀略』による。)円成寺宮と称され、(注:『尊卑分脈』による。)また法三宮とも称された。(注:『帝王編年記』による。)  その子英明(ひであきら)・庶明(もろあきら)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。英明は従四位上に叙され、蔵人頭に任じ、左近衛中将を兼ねた。(注:『尊卑分脈』による。)詩文に優れ、(注:『扶桑略記』『本朝文粋』による。)和歌にも優れ、(注:『作者部類』『皇胤紹運録』『後撰和歌集』による。)橘在列(たちばなのありつら)と度々唱和した。(注:『扶桑集』による。)かつて白髪(二毛)を詠んだ詩を作り、心情を述べて言った。「私は三十五歳、まだ体の衰えを感じなかった。今朝鏡に向かうと、白髪交じりの姿が映っていた。鏡を疑ってまだ信じられず、目をこすってもう一度髭を確かめた。憐れむべし、銀の毛抜きの下に、幾筋もの白い糸を抜き取った。秋を迎えて愁いは深まり、ここに至ってまた悲しみを重ねる。悲しみが極まって物事の道理を思えば、道理は確かに知られるものだ。十六歳で四品に叙され、十七歳で拾遺の職についた。延長の輝かしい御代に、久しく宮中の階に上ってきた。承平の平穏な暦のもと、しばしば警衛の旗を執った。かたじけなくも皇族の籍に入り、官位も相応のものを得た。顔回は周の賢者であったが、三十歳にも至らずに世を去った。潘岳は晋の名士であったが、早くも秋の興を詞に著した。彼らはみな私より若くして名を成した、遅れて白髪を見た私はむしろ喜ぶべきであろう。」(注:『本朝文粋』による。)庶明は官は従三位・中納言、左兵衛督を兼ねるに終わり、(注:『公卿補任』による。)広幡中納言と称された。(注:『尊卑分脈』による。)娘があり、村上帝の後宮に入った。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)

載明親王

敦慶親王(あつよししんのう)は中務卿となり、(注:『日本紀略』『大鏡裏書』による。)式部卿に転じ、二品に叙された。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)和歌に優れた。(注:『後撰和歌集』による。)延長八年二月に薨去し、(注:『皇胤紹運録』『日本紀略』による。)行年四十四歳であった。(注:『日本紀略』による。)玉光宮と称された。(注:『皇胤紹運録』による。)子の後古(のちふる)・方古(かたふる)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。後古は従四位下・刑部卿となり、方古は従四位下となった。(注:『皇胤紹運録』および印本『尊卑分脈』による。)娘があり中務(なかつかさ)と称され、和歌に優れたことで知られた。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)

敦固親王

載明親王(のりあきらしんのう)については、これ以上の事跡は伝わっていない。

敦賀親王

敦固親王(あつかたしんのう)は延喜二年に元服し、天皇自筆の宣旨によって三品を授けられた。十年、帯剣を許された。(注:『日本紀略』による。)兵部卿に任じられ、(注:『西宮記』『日本紀略』『扶桑略記』による。)二品に進んだ。(注:『一代要記』『皇胤紹運録』による。)延長四年十二月に薨去した。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』は元年とし、『一代要記』は五月とするが、ここでは『西宮記』『扶桑略記』にある五年正月の薨去を奏する文書に従う。)子の宗室(むねむろ)・宗成(むねなり)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。宗室は従四位下、宗成は従四位下・侍従となった。次男は僧の寛忠(かんちゅう)である。(注:『皇胤紹運録』による。)

源雅信

敦実親王(あつざねしんのう)は寛平七年に親王となった。(注:『大鏡裏書』による。)延喜七年、宇多院において元服し、御礼参りをして三品を授けられた。まもなく中務卿となり、(注:『扶桑略記』による。)式部卿に遷り、(注:『日本紀略』『尊卑分脈』による。)一品に進んだ。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)天慶二年、輦車に乗って宮中に出入りすることを許され、(注:『日本紀略』『西宮記裏書』天慶二年記による。)また諸節会の日に列に並ばず随意に参内することも許された。(注:『西宮記裏書』天慶二年記による。)天暦四年、僧となり、(注:『皇胤紹運録』は二年とする。)名を覚真(かくしん)と改め、(注:『尊卑分脈』による。)仁和寺に住んだので、(注:『大鏡』による。)仁和寺宮と称され、(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)また六条宮とも称された。(注:『大鏡』による。『皇胤紹運録』は六条を八条に作る。)康保四年三月に薨去し、行年七十五歳であった。(注:『日本紀略』『大鏡裏書』による。『皇胤紹運録』『尊卑分脈』は三年二月の薨去とするが、どちらが正しいかは分からない。)香典の品は数百段にのぼった。(注:『日本紀略』による。)敦実は鷹狩りと馬を好み、(注:印本『尊卑分脈』による。)和歌に優れ、(注:『作者部類』による。)蹴鞠にも優れ、(注:印本『尊卑分脈』による。)音楽全般に通じ、とりわけ和琴を得意とした。(注:『体源抄』および印本『尊卑分脈』による。)子の雅信(まさのぶ)・重信(しげのぶ)・寛信(かんしん)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。その他の子は僧となった。寛信は正四位下・左京大夫となった。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。『大鏡裏書』は右京大夫に作る。)

源重信

源雅信(みなもとのまさのぶ)は承平から安和の間に従四位下に叙され、侍従となり、蔵人頭を経て参議を拝し、左衛門督を兼ねた。天禄年間には大納言に任じられ、陸奥出羽按察使を兼ね、正三位に至った。貞元二年、従一位に進み、右大臣を拝して皇太子傅を兼ねた。その後左大臣に転じた。永延の初め、従一位を授けられ、輦車・牛車の使用を許された。(注:『公卿補任』による。)正暦四年、病が重くなったため辞職し、剃髪した。(注:『公卿補任』『権記』による。)法名は覚実(かくじつ)。(注:『尊卑分脈』による。)薨去し、行年七十四歳。(注:『尊卑分脈』『公卿補任』『権記』による。)詔により正一位を追贈され、一条左大臣と称され、また鷹司とも称された。(注:『尊卑分脈』『公卿補任』『諡号雑記』による。)雅信は人柄が高潔で世俗のことに頓着しなかったが、公務には忠実に励んだ。(注:『大鏡』による。)三代の朝廷にわたって台閣の要職を務め、加えて摂政藤原道長の舅であったこともあって、位望はきわめて重かった。薨去に際しては朝野の人々がその死を惜しんだ。(注:『権記』による。道長の舅であったことは『大鏡』による。)若い頃、人相見の平時望(たいらのときもち)がその人相を見て「位は一品を極め、官は左大臣に至るであろう」と言い、後に果たしてその言葉の通りとなった。(注:『古事談』『江談抄』による。)和歌と蹴鞠に優れ、また音楽にも巧みで、喉の使い方を転じて新しい節を作るのを得意とした。(注:『大鏡』による。)子の時中(ときなか)もまた音楽に通じ、舞と蹴鞠に優れ、(注:『尊卑分脈』による。)官を重ねて大納言に至り、従二位となった。(注:『公卿補任』による。)

行中親王

源重信(みなもとのしげのぶ)は承平から天暦の間に従四位下に叙され、侍従となり、左兵衛督・修理大夫を兼ね歴任した。天徳四年、参議に任じられ、応和の初めには備中守を兼ねた。(注:『公卿補任』による。)重信は性質が温順謹厳で、村上帝から特別に寵愛された。当時、父の敦実は仁和寺に住んでいたが、重信は父のもとへ機嫌伺いに赴くたびに、必ず往きと帰りで違う道を通り、宮中の建物を見て回って、破損している箇所があればその都度修繕させた。その心配りの細やかさはこのようであった。(注:『大鏡』による。)応和三年、従三位に叙された。天延から天元の間に官を重ねて大納言に至り、皇太后宮大夫を兼ね、勅命により帯剣を許され、正二位に進んだ。永観の初め、陸奥出羽按察使を兼ねた。正暦年間、右大臣を拝し、左大臣に遷り、皇太子傅を兼ねた。長徳元年に薨去し、行年七十四歳。勅使を邸宅に遣わして正一位を追贈された。(注:『公卿補任』による。)六条左大臣と称された。(注:『諡号雑記』『尊卑分脈』による。)子の道方(みちかた)は、官は正二位・権中納言に終わった。(注:『尊卑分脈』『公卿補任』による。)

齊邦親王

行中親王(ゆきなかしんのう)は延喜九年正月、仁和寺で薨去し、(注:『日本紀略』『一代要記』による。仁和寺であったことは『扶桑略記』による。)行年十三歳であった。(注:『日本紀略』による。)

雅明親王

斉邦親王(ときくにしんのう)は、宇多法皇が出家した後に生まれた皇子で、醍醐帝の猶子となった。(注:『日本紀略』『皇胤紹運録』による。)延喜二十一年、親王となった。(注:『日本紀略』『大鏡裏書』による。)延長年間、醍醐帝が法皇(宇多)に従って大井川に行幸した際、雅明(まさあきら)に萬歳楽を舞わせたところ、時に七歳でありながら容姿は美しく、拍子もよく調和していた。帝は大いに感心して褒め称え、身に着けていた半臂を脱いで与え、勅命により帯剣を許した。(注:『西宮記』『大鏡裏書』による。)延長七年、十日に薨去し、行年十歳であった。(注:『日本紀略』『大鏡裏書』による。)

行明親王

雅明親王(まさあきらしんのう)は、帝(宇多)が出家した後に生まれた皇子で、醍醐帝の猶子となった。(注:『皇胤紹運録』による。)延長五年、親王となり、(注:『日本紀略』『一代要記』による。)四品を授けられた。(注:『尊卑分脈』による。)上総太守に任じられた。天暦二年五月に薨去し、(注:『日本紀略』『一代要記』による。)行年二十三歳であった。(注:『一代要記』による。)子の重熙(しげひろ)は源朝臣の姓を賜り、従四位下を授けられた。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)

【醍醐】十六子

醍醐天皇(だいごてんのう)には十八人の皇子があった。皇后藤原氏は第二子文献太子保明(やすあきら)、朱雀帝(すざくてい)、村上帝(むらかみてい)を生んだ。女御源氏は第五子常明親王(つねあきらしんのう)、第六子式明親王(のりあきらしんのう)、第七子有明親王(ありあきらしんのう)を生んだ。更衣源氏は第一子克明親王(かつあきらしんのう)を生んだ。藤原氏は第三子代明親王(よあきらしんのう)を生んだ。源氏は第四子重明親王(しげあきらしんのう)を生んだ。別の源氏は第八子時明親王(ときあきらしんのう)、第十五子盛明親王(もりあきらしんのう)、源高明(みなもとのたかあきら)を生んだ。藤原氏は長明親王(ながあきらしんのう)、兼明親王(かねあきらしんのう)、源自明(みなもとのよりあきら)を生んだ。別の藤原氏は第十三子章明親王(あきあきらしんのう)を生んだ。さらに別の藤原氏は源為明(みなもとのためあきら)を生んだ。(注:以上は『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。第何子と記したのは『日本紀略』による。)宮人の源氏は源允明(みなもとのちかあきら)を生んだ。(注:『皇胤系図』による。『日本紀略』『皇胤紹運録』『尊卑分脈』など諸書の記述では、第十子は雅明、第十二子は行明とされているが、いずれも宇多帝の出家後に生まれ、醍醐帝がこれを猶子としたものである。ここではその実際の事情に従い、宇多天皇の皇子の伝にこれを収めたので、ここでは重ねて載せない。その他の皇子の生まれた順序については、当時のもとの呼び方に従った。また『紹運録』によれば、帝の子に白髪の童形で「嵯峨隠君子」と号する者がいるというが、嵯峨隠君子の事跡についてはすでに嵯峨天皇の皇子の伝に注記したので、ここでは取り上げない。)

源博雅

克明親王(かつあきらしんのう)は、初め名を将順(まさより)といい、延喜四年に親王となり、(注:『日本紀略』『一代要記』による。)三品を授けられ、兵部卿に任じられた。(注:『日本紀略』による。『一代要記』は式部卿とするが誤りである。)五年九月に薨去した。(注:『日本紀略』による。)子の博雅(ひろまさ)・正雅(まさまさ)・清雅(きよまさ)・助雅(すけまさ)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。(注:『尊卑分脈』は清雅を正雅の兄とするが、どちらが正しいかは分からない。)正雅は従四位下・土佐権守、清雅は従四位下・侍従、助雅は従四位下・右京大夫となった。(注:『皇胤紹運録』による。)

文獻太子保明

源博雅(みなもとのひろまさ)は音楽を好み、(注:『小右記』『古今著聞集』による。)琴・笛・琵琶・篳篥、いずれもその妙技を極めた。(注:『体源抄』による。琵琶については『江談抄』『今昔物語』による。)『長竹譜』を著した。(注:『仁和寺書籍目録』『体源抄』による。)かつて月夜に朱雀門で笛を吹いていたところ、その時また別に笛を吹きにやって来る者があり、その音色は澄み渡って美しかったが、何者であるかは分からなかった。それ以来、月夜には必ず互いに会うようになった。しばらくして博雅はその者の笛が良材であることを知り、互いに交換して吹くこととなったが、その後その者はついに戻らず、博雅の方でもそれについて何も言わなかった。博雅の死後、その笛は宮中の御物庫に入り、「葉二(はふたつ)」と呼ばれるものがそれである。(注:『十訓抄』『体源抄』による。)あるとき盗賊が博雅の家に押し入り、博雅は寝台の下に身を隠した。盗賊は部屋の中の物を奪ったが、篳篥一管だけを残していった。博雅はそれを取って吹いたところ、盗賊はこれを聞いて悔い改め、奪った物をすべて返して立ち去った。(注:『古今著聞集』『体源抄』による。)官は皇太后宮権大夫に至り、(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。『日本紀略』『皇胤紹運録』は太皇太后宮権大夫とし、『尊卑分脈』は右近衛中将を経たとする。)従三位を授けられた。天元三年九月に薨去し、(注:『日本紀略』『公卿補任』による。)行年六十三歳であった。(注:『公卿補任』による。)博雅と同時代に蝉丸(せみまる)という者があり、敦慶親王(あつよししんのう)の雑色であった。親王は琵琶に精通し、蝉丸はこれを好んで常にその側に仕え、ついにその妙技を極めた。(注:『今昔物語』による。)後に逢坂に隠棲した。琵琶の秘曲に流泉・啄木の二曲があり、世にこれを知る者はまれであった。博雅は蝉丸がこれを伝え持っていると聞き、これを学ぼうとした。人を遣わして京へ移り住むよう勧めたが、蝉丸は答えなかった。博雅は毎夜その庵を訪れて様子をうかがったが、このように三年経ってもその曲を聞くことができなかった。あるとき秋の夜、月が明るく、博雅は「今夜こそ彼は必ず秘曲を弾くだろう」と思い、また出向いた。すると蝉丸は琵琶の弦を弾きながら独り言を言った。「この世にはやはり私と同じ志を持つ者がいたのだなあ。ともにこの良夜を賞でたいものだ。」博雅はそこへ進み出て言った。「私は源博雅です。」そこで自分のひたむきな思いを述べたところ、蝉丸はついに二曲を博雅に授けた。その篤い志はこのようなものであった。(注:『江談抄』『今昔物語』による。)

子に信貞(のぶさだ)・信明(のぶあきら)・信義(のぶよし)・至光(しこう)がいる。信貞は従五位上・左兵衛佐。信明は従五位上・大蔵大輔。信義は雅楽頭。至光は蔵人・伯耆守となった。(注:『尊卑分脈』による。)信明と信義はともに琵琶に優れ、信義はとりわけ勝っていた。一条帝が二人に琵琶を弾かせるため、名器である玄象(げんじょう)と牧馬(ぼくば)を取り出させた。信義が牧馬を弾くと玄象より優れて聞こえたが、楽器を交換して弾かせると、今度は玄象の方が牧馬より優れて聞こえた。当時の人々は「楽器に優劣があるのではなく、弾く人の巧拙によるのだ」と評した。(注:『古今著聞集』による。)信義はまた笛にも優れ、民部卿の親王がその双調の曲を聴いて、(注:『皇胤紹運録』を見るに、当時民部卿に任じられた親王は見当たらず、誰を指すのかは詳らかでない。)大いに感嘆し、「双調君」と呼んだ。世間の人々もこれを伝え唱えて、同じく「双調君」と称した。(注:『古今著聞集』による。)

慶賴王

文献太子保明(やすあきら)は、初め名を祟象(たかかた)といい、親王となった。延喜四年二月、皇太子に立てられた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)十一年、名を保明と改めた。延長元年三月、病にかかった。詔により天下に大赦を行い、これを禳(はら)おうとした。(注:『日本紀略』による。)しかしその日のうちに薨去し、(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。『一代要記』『歴代皇紀』は延喜二十二年とするが誤りである。)行年二十一歳であった。(注:『日本紀略』『扶桑略記』『大鏡裏書』による。)葬送に際し、勅使を宮中に遣わして弔祭させ、諡(おくりな)を文献彦命(ぶんけんひこのみこと)とした。(注:『日本紀略』による。「命」の字は立太子の次第の文書によって補った。『皇胤紹運録』『尊卑分脈』『大鏡裏書』はいずれも諡を文彦とするが、『紀略』には文献彦、立太子次第には文献彦命と書かれており、してみれば「文献」がその諡である。「彦」「命」というのは当時の美称であって、諡に添えたものである。『紀略』に「命」の字がないのは省略した文であろう。諸書が文彦を以て諡号とするのは誤りである。ここでは『醍醐帝雑事記』に従って「文献太子」と表題し、伝の本文には文献彦命の号を詳しく載せて、事実を示すこととした。)帝はかつて人相見を召して保明や諸大臣の人相を見させたことがあり、保明を指して「第一の座にある人は、骨相が世に超えており、恐らく長生きはできないであろう」と言った。その言葉は果たして的中したという。(注:『古事談』『源氏物語』『河海抄』による。)子に慶頼王(よしよりおう)がいる。(注:『日本紀略』『皇胤紹運録』による。)

代明親王

慶頼王(よしよりおう)は延長元年四月、皇太子に立てられた。(注:『日本紀略』『一代要記』立坊次第による。)三年六月、職曹司(しきのぞうし)で薨去し、行年五歳であった。(注:『日本紀略』『扶桑略記』による。)帝は文章博士の橘公統(たちばなのきみむね)、大学博士の山辺修道(やまべのながみち)、(注:姓は『二中暦』による。)助教の秦維興(はたのこれおき)らに命じて、東宮の属官が服すべき喪の期間について議論させた。衆議はまとまらなかった。さらに公統を召して、皇太子が幼くして亡くなった場合の諡の先例を尋ねたところ、公統は昔、晋の愍懐太子の子である尚(しょう)に「沖太孫」の諡を贈った故事を奏上したが、これもまた行われなかった。(注:『扶桑略記』による。)そもそも保明は左大臣藤原時平の娘を妃に迎え、慶頼王と熙子女王を儲けていた。(注:『日本紀略』による。)ところが父子ともに長生きできなかったため、当時の人々はこれを菅原道真の霊の祟りであると噂した。(注:『日本紀略』『北野縁起』による。)熙子女王は朱雀帝の女御となった。(注:『皇胤紹運録』『日本紀略』による。)

源延光

代明親王(よあきらしんのう)は、初め名を将観(まさみ)といい、(注:『日本紀略』『一代要記』による。)四品に叙され、(注:『公卿補任』『日本紀略』『帝王編年記』による。『皇胤紹運録』は三品とするが誤りである。)常陸太守となり、(注:『花鳥余情』による。)中務卿に任じられた。承平七年三月に薨去した。(注:『日本紀略』による。)子の重光(しげみつ)・保光(やすみつ)・延光(のぶみつ)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による。)重光は中納言・左衛門督・検非違使別当を歴任し、正三位・権大納言に至った。保光は天暦年間、詔によって詩を試され、従四位上を授けられた。まもなく文章生に及第・補任され、官は従二位・中納言に終わり、桃園中納言と称された。(注:『公卿補任』による。)娘の荘子女王(しょうしじょおう)は村上帝の女御となった。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。)

重明親王

源延光(みなもとののぶみつ)は天慶年間、昇殿を許され、従四位下に叙され、後に侍従となり、蔵人頭を補せられ、右近衛権中将となり、備中・伊予権守を兼ねた。康保三年、参議を拝した。天禄から天延の間に従三位に叙され、中納言に任じられ、権大納言に進んだ。貞元元年に薨去し、行年五十歳、世に「琵琶大納言」と称された。(注:『公卿補任』による。)かつて延光が蔵人頭であった頃、村上帝から格別の寵遇を受けていた。帝が崩御するに及び、延光は哀しみ慕う思いが尽きず、喪服を着たまま生涯を終えた。夢の中で帝が現れ御製の詩を賜ったということまであったという。(注:『十訓抄』による。)

常明親王

重明親王(しげあきらしんのう)は、初め名を将保(まさやす)といった。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)延喜八年、親王となり、(注:『一代要記』による。)まもなく四品に叙された。(注:『朝野群載』による。)延長六年、上野太守に任じられた。八年、弾正尹となった。(注:『西宮記』引く『吏部王記』による。)承平年間、太宰帥を兼ねた。(注:『朝野群載』による。)七年、中務卿に任じられた。(注:『吏部王記』による。)天慶六年、三品に進んだ。(注:『西宮記』『北山抄』『日本紀略』『扶桑略記』『一代要記』による。天慶六年であることは『西宮記』『北山抄』による。『皇胤紹運録』は二品とするが、おそらく誤りである。)天暦年間、式部卿に遷った。(注:『扶桑略記』『一代要記』による。)五年、帯剣を許された。(注:『西宮記』引く『吏部王記』による。)八年九月に薨去し、行年四十九歳であった。(注:『扶桑略記』『一代要記』による。)重明は学問を好んで才名があり、また優れた品行を備えていた。村上帝が崩御するに及んで哀しみ慕う思いが尽きなかった。当時、臣下は皆定められた喪の期間で喪を除いたが、重明だけは朝廷の定めを超えて、衣食や器物に綾織・薄絹・朱漆を用いず、心喪を三年間続けた。(注:『花鳥余情』引く『重明記』による。)一方で性格はかなり豪奢なところもあり、あるとき異国からの使者が来朝した際、重明はこれを見物に出向き、身には黒貂の皮衣を八枚重ねて着し、鴨毛で飾った車に乗った。異国の使者はわずかに一枚の皮衣を持っていただけであったので、大いに恥じ入ったという。(注:『江家次第』による。)重明が住んでいた東三条第には、吉野の桜を移し植えていた。(注:『古事談』による。)天徳年間、内裏に火災があり、南庭の桜が焼けた際には、勅命によりこの木を献上させたという。(注:『禁秘抄』による。)天暦年間、内裏の宴で菊を賞でた折、重明に杯を賜った。天子が親王に自ら酒杯を賜るのは、これに始まるという。(注:『花鳥余情』による。)著書に『吏部王記』がある。(注:『仁和寺書籍目録』による。)  子の邦正(くにまさ)・行正(ゆきまさ)・信正(のぶまさ)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。邦正は侍従、(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)左京大夫となった。(注:『皇胤紹運録』による。)人となりは、背丈が高く首が長く、鼻が高く赤髭で、歯茎が剥き出しになり声はしわがれ、背中や尻は震え聳え、顔色は鴨跖草(つゆくさ)の花のように醜く、立ち居振る舞いも粗野であったため、人々に笑いものにされ、「青経君(せいきょうのきみ)」または「青常丸」あるいは「青侍従」と呼ばれた。帝はこれを聞いて気の毒に思い、側近たちに二度とこれを口にしないよう戒めた。人々は「禁を犯した者は酒肴や珍しい菓子を贖罪として出す」という約束をした。ところがその後、藤原兼通(ふじわらのかねみち)が真っ先にこの禁を犯したため、人々はその贖罪の品を求めた。約束の日になると、兼通は供の者ともども全員青い衣を着し、器物もすべて青色のものを用い、青い鳥を竹の枝に繋いでこれを捧げ持ってきた。人々はこれを見て皆倒れんばかりに笑った。帝もひそかにこれを見て、やはり大いに笑い、それ以来はこの話をとがめなくなったので、「青経」の呼び名はますます広まった。(注:『宇治拾遺』『今昔物語』による。「青侍従」は『尊卑分脈』による。)行正は従四位下・左馬頭。信正は従四位下・民部大輔となった。(注:『尊卑分脈』による。)娘に徽子女王(きしじょおう)・旅子女王(りょしじょおう)がいる。徽子は村上帝の女御となった。旅子は初め名を悦子といい、天暦年間、伊勢斎宮となった。(注:『一代要記』『貴女抄』による。)

式明親王

常明親王(つねあきらしんのう)は、初め名を将明(まさあきら)といった。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)延喜八年、親王となり、(注:『一代要記』による。)四品を授けられた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。『皇胤紹運録』は「従三品に叙され刑部卿に任じた」とするが誤りである。)天慶七年十一月に薨去し、(注:『日本紀略』による。)行年三十九歳であった。(注:『一代要記』による。)子の茂親(しげちか)は源朝臣の姓を賜り、従四位上・刑部卿となった。(注:『皇胤紹運録』による。)

有明親王

式明親王(のりあきらしんのう)は延喜十一年、親王となり、三品・中務卿に至った。康保三年十二月に薨去し、(注:『日本紀略』『一代要記』による。)行年六十歳であった。(注:『一代要記』の「親王となって五年」という記述による。)詔により絹布を賜って弔いとした。(注:『日本紀略』による。)子の親頼(ちかより)は源朝臣の姓を賜り、位は従四位上となった。(注:『皇胤紹運録』による。)

時明親王

有明親王(ありあきらしんのう)は延喜十一年、親王となった。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)天徳三年、帯剣を許された。(注:『日本紀略』による。)三品・兵部卿に至った。(注:『一代要記』『日本紀略』『皇胤紹運録』による。印本『尊卑分脈』は一品とするが、おそらく誤りである。)応和元年閏三月に薨去し、(注:『日本紀略』『一代要記』による。)行年五十二歳であった。(注:『一代要記』による。)子の忠清(ただきよ)・正清(まさきよ)・泰清(やすきよ)・守清(もりきよ)は、いずれも源朝臣の姓を賜った。(注:『尊卑分脈』による。)忠清は左近衛中将・参議を歴任し、皇太后宮権大夫・伊予守・大和守を兼ね、正三位に至った。(注:『公卿補任』による。)正清は正四位上、(注:『職事補任』は従四位上とする。)左近衛中将・蔵人頭となった。(注:『尊卑分脈』『職事補任』による。)和歌を得意とした。(注:『新古今和歌集』による。)泰清は従三位・大蔵卿を歴任し、(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)左京大夫となった。(注:『皇胤紹運録』および印本『尊卑分脈』による。)守清は従四位上、(注:『皇胤紹運録』は従四位下とする。)弾正大弼となった。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)次男は僧となった。(注:『皇胤紹運録』による。)

長明親王

時明親王(ときあきらしんのう)は延喜十四年、親王となった。(注:『皇胤紹運録』および印本『尊卑分脈』はともに「三品・兵部卿」と記すが誤りである。)延長五年九月に薨去し、(注:『日本紀略』『一代要記』による。)行年十六歳であった。(注:『一代要記』の「親王となって三年」という記述による。『日本紀略』は十八歳とする。)

章明親王

長明親王(ながあきらしんのう)は延喜十四年、親王となり、四品を授けられた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)天暦七年閏月に薨去し、行年四十二歳であった。(注:『一代要記』の「親王となって三十一年」という記述による。文書に三十一とあるのは誤りである。)

盛明親王

章明親王(あきあきらしんのう)は延長八年、親王となった。天徳三年、帯剣を許され、(注:『日本紀略』による。)弾正尹となり、二品に至った。(注:『日本紀略』『一代要記』による。『皇胤紹運録』『尊卑分脈』『帝王編年記』はいずれも三品とする。)正暦元年九月に薨去し、行年六十七歳であった。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)子の近光(ちかみつ)・尊光(たかみつ)は、(注:『尊卑分脈』による。)いずれも源朝臣の姓を賜り、従四位下を授けられた。次男は僧となった。(注:『皇胤紹運録』および印本『尊卑分脈』による。)娘に済子女王(せいしじょおう)・隆子女王(りゅうしじょおう)がいる。(注:『皇胤紹運録』『尊卑分脈』による。)済子は永観年間、斎宮に定められたが、伊勢に赴く前に退けられた。隆子は安和二年、伊勢斎宮となった。(注:『日本紀略』による。『皇胤紹運録』は「小松女院と称した」というが、おそらく誤りである。)

兼明親王

盛明親王(もりあきらしんのう)は、初め源朝臣の姓を賜り、大蔵卿に任じられた。康保四年、親王となり、四品を授けられた。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)上総・上野の太守を歴任した。(注:『尊卑分脈』による。)寛和二年、僧となった。(注:『日本紀略』による。)五月に薨去し、(注:『扶桑略記』、印本『尊卑分脈』、『一代要記』による。)行年五十九歳であった。(注:『日本紀略』による。)子の斯忠王(これただおう)・教忠(のりただ)がいる。(注:『尊卑分脈』による。)斯忠は従三位。(注:『尊卑分脈』『皇胤紹運録』による。)教忠は初め名を則忠(のりただ)といい、源朝臣の姓を賜り、皇后宮亮・左京大夫・越前守を歴任し、従三位に至った。(注:『尊卑分脈』による。左京大夫は印本『尊卑分脈』による。『皇胤紹運録』および印本『尊卑分脈』は教忠と則忠を別人としているが誤りである。)

源高明

兼明親王(かねあきらしんのう)は、初め源朝臣の姓を賜り、「第二の源氏」となった。承平二年、従四位上を授けられた。三年、播磨権守に任じられた。天慶年間、紀伊権守・左近衛権中将となり、参議を拝して治部卿を兼ねた。天暦から康保の間に官を重ねて中納言に任じ、正三位に進み、左兵衛督を兼ねた。冷泉帝の即位に際し、従二位を授けられ、大納言となった。安和二年、侍従を兼ねたが、兄高明(たかあきら)の事件に連座して昇殿を停止された。天禄元年、皇太子傅を兼ねた。二年、左大臣を拝し、皇太子傅は元の通りとした。勅命により帯剣を許され、蔵人所別当を兼ねた。天延二年、輦車の使用を許された。(注:『公卿補任』による。)世に「御子左大臣(みこのひだりのおとど)」と称された。(注:『帝王編年記』および印本『尊卑分脈』による。)貞元年間、関白藤原兼通(かねみち)が政権を専らにし、従兄の右大臣頼忠(よりただ)を左大臣に代えて据えようとして、兼明に病があると偽って奏上した。(注:『栄花物語』による。)詔により左大臣を罷免され、親王の位に策立され、二品を授けられて中務卿に任じられた。(注:『日本紀略』『公卿補任』による。)兼明は内心これを不満に思った。(注:『本朝文粋』による。)後に一品に進んだ。(注:『日本紀略』『本朝文粋』による。)寛和二年、中務卿を辞そうとしたが許されなかった。(注:『公卿補任』『本朝文粋』による。許されなかったことは『日本紀略』による。)永延元年九月に薨去し、(注:『公卿補任』『日本紀略』、印本『尊卑分脈』による。)行年七十四歳であった。(注:『公卿補任』による。)兼明は生まれつき度量が大きく、博学多才で、とりわけ文章に優れ、(注:『本朝文粋』による。)書にも巧みであった。(注:『栄花物語』『江談抄』による。)その名声は当時第一であった。かつて嵯峨の小倉に山荘を営み、これを「雄倉殿」と名付けた。(注:『花鳥余情』による。)そこに隠退しようとしていたが、これもまた兼通に妨げられて志を遂げることができず、そこで「菟裘賦(ときゅうのふ)」を作って心中の思いを述べた。その文には次のようにある。「私は亀山のふもとに、ひとまず静かな住まいを求め、官を辞して身を休め、ここで生涯を終えようと思っていた。ところが草堂がようやく出来上がろうという時になって、政権を握る者のために不当にも陥れられてしまった。主君は道理に暗く臣下はへつらうばかりで、訴える先とてない。これも天命であろう。後の世の俗人は、必ず私を『かねてからの志を遂げなかった』と責めるだろう。しかし、魯の隠公は『菟裘』の地に隠退して晩年を過ごそうとしながら、公子翬(き)に殺された。それでも『春秋』の義はその志をたたえ、これを賢君としている。後の世の君子で、もし私の心を理解してくれる者があれば、これを隠すことはしないでおこう。そこで賈誼の『鵬鳥賦』にならって、『菟裘賦』を作り、みずからの心を慰めることとする。その詞にいう。『赤奮若(せきふんじゃく)の歳、清和の月、かの西山に登り、蕨を採る。鵬鳥賦を吟じては夕べに恐れ慎み、菟裘を顧みては朝に出立する。かつて隠公が禍にあったのは、まことに天が魯を見捨てたためであった。今わが身の不遇は、いったいどのような時世の転変によるものか。天は何を語ろうか、四季はめぐり、万物は成る。天に問うても答えはなく、どうか心情をもって答えとしたい。思うに天は高く地は広く、上に始まりなく下に極まりない。万物は生まれ出でては、あるいは消えあるいは息(や)み、風雨が万物を作り育て、寒暑が入れかわり、千変万化するさまに、いったいどのような常なる法則があろうか。禍と福とは互いに寄り添い、憂いと喜びとは定まりなく、栄えと枯れとは同じ枝にあり、歌と嘆きとは同じ道をたどる。下は人の世の事柄を学び、上は天命に通ずる。憂えず喜ばず、それができるのはただ至高の聖人のみであろう。伯夷は仁を得ながら飢えて死んだ、彼もどうしようもなかったのだ。盗跖は悪事を尽くしながら天寿を全うした、これもまたどうしたことか。箕子は捕らわれの身となり、比干は殺されて傷ついた、天が善人に味方するというのも、はたして真実かどうか分からない。それゆえ柳下恵は三度退けられても悔いず、荘子は長逝して帰るところがなかった。まして今のように趙高が鹿を指して馬と言うような時代、梁冀が勝手放題に振る舞うような世にあっては、虎でありながら冠をかぶるようなもので、とても常の道理では語れない。梟でありながら鏡に映るようなもので、とても人倫の基準にはなり得ない。そもそも剣や戟というものは柔らかさを嫌うもので、硬すぎて折れることを嫌がりはしない。梁や棟というものはまっすぐであることを取るもので、たわんで傾くことを取りはしない。昔の賢者の身の処し方には、汚れに染まることもなく、といって濁り酒をすすることもなかった。たとえ漁父の教えにそむいたとしても、それで何の困ることがあろうか、むしろ顔回の言葉にこそ倣うべきである。また、世には治まる時と乱れる時とがあり、時勢には栄える時と塞がる時とがあり、運命には通じる時と塞がる時とがあり、行いの跡には表れる時と隠れる時とがある。扶桑の木に影がないわけではないが、浮雲がこれを覆えばたちまち暗くなる。叢生する蘭に香りがないわけではないが、秋風が吹けばまず先に萎れてしまう。かの孔子が一度振り返って見た時には、亀山が魯を覆い隠すのを嘆いた。屈原が幾度も振り返った時には、沅水・湘水をめぐって楚を悲しんだ。先賢の明らかな教えを尋ねて、それによってはるか昔の奥深い道理を照らし合わせたいと思う。唐風はすでに移り変わったとはいえ、なお古きものの面影を残しており、漢の徳はたとえ廃れたとはいえ、どうして新しいものにへつらうことがあろうか。ことに恨めしいのは、王者の風がもはや盛んでなく、正しい道もすでに埋もれてしまったことである。淫らな蛙の声を聞いては長く嘆息し、屈しているものが伸びないことを悲しむ。黄河が澄む日を待つというが、浮雲は幾つの春を経てきたことか。おおよそ人がこの世にあるということは、ほとんど花の上の露のごとく、空を漂う雲のごとくであって、去るも留まるも定めなく、生ずるも滅するも定めなく、集まっては散り、奥深く入り組んで、とても言い尽くせるものではない。語らず黙するというのも、維摩居士(浄名翁)の病であり、知る者は黙るというのも、老子(玄元氏)の教えにほかならないのではないか。馬を失った老人は、その吉凶を秋草に委ね、胡蝶の夢を見た荘子は、その是非を春の叢に任せた。冥冥たる道理には、これに適うもこれに背くもなく、如如たる真理には、有もなく空もない。ああ、周の文王はすでに世を去った、私はいったい誰に従えばよいのか。もはやどうしようもない、これも天命の衰えであろう。私はこれから亀のように岩間に隠れ入り、菟裘へと帰ってゆこう。』」(注:『本朝文粋』による。)兼明の薨去に際して、帝は子の伊陟(これただ)に「亡き父上は家で何をしていたか」と尋ねた。伊陟は「菟裘を愛玩していただけです」と答えた。帝はその菟裘の皮衣を献上させようとしたが、取り出して見てみると、それはかつて兼明が著した「菟裘賦」であった。その賦の序には「君昏臣諛(主君は暗愚で臣下はへつらう)」などの言葉があった。当時の人々は「伊陟は才人の子でありながら、父の志を継いでいない」と謗ったという。(注:『古事談』『十訓抄』『花鳥余情』による。『古事談』『十訓抄』は村上帝が尋ねたとするが誤りである。)世間では兼明を「小倉親王」と呼び、また「前中書王」とも称した。(注:『尊卑分脈』『帝王編年記』による。)子に伊陟・伊行(これゆき)がいる。(注:『尊卑分脈』『皇胤紹運録』による。)伊陟は官を重ねて中納言に至り、太皇太后宮権大夫・右衛門督を兼ね、正三位に至った。(注:印本『尊卑分脈』『公卿補任』による。)伊行は従四位上となった。(注:『皇胤紹運録』による。)

源自明

源高明(みなもとのたかあきら)は延喜二十年に源姓を賜り、(注:『一代要記』による。)「第一の源氏」となった。延長八年、従四位上に叙された。承平から天慶の間に大蔵卿となり、参議を拝して右衛門督・備前守を兼ね、従三位に進んだ。天暦二年、中納言に任じられ、左衛門督・検非違使別当を兼ねた。七年、大納言に進んだ。九年、正三位に進んだ。十年、勅命により帯剣を許された。天徳二年、陸奥出羽按察使を兼ねた。応和元年、従二位を授けられた。康保二年、左近衛大将を兼ねた。三年、右大臣を拝した。翌年、冷泉帝が即位すると正二位に進み、左大臣に転じ、輦車の使用を許され、大将は元の通りとした。(注:『公卿補任』による。)これより先、高明は右大臣藤原師輔(もろすけ)の娘を娶っていた。(注:『愚管抄』『尊卑分脈』による。)その娘の姉の安子(あんし)は村上帝の女御であったが、帝は彼女を中宮に立て、高明に中宮大夫を兼ねさせた。ほどなく中宮は皇子を生み、この皇子は為平親王(ためひらしんのう)となって帝に大変寵愛され、帝は彼を冷泉帝の後継ぎに立てようとした。高明は自分の娘を為平親王の妃に差し出した。ところがまもなく師輔が薨去し、中宮もまた崩御したため、帝はついに円融帝(えんゆうてい)を立てて、冷泉帝の皇太弟とした。高明は大いに失望し、それが言葉や顔色に表れた。安和二年の春、帝(冷泉)は数年来、狂気の病にかかったままいまだ癒えず、人々は皆「譲位すべきである」と言っていた。(注:『栄花物語』による。)そうしたおり、左馬頭源満仲(みなもとのみつなか)、中務少輔橘繁延(たちばなのしげのぶ)、前相模介藤原千晴(ふじわらのちはる)らが密かに謀を巡らし、為平親王を奉じて関東で兵を挙げようとした。ところが満仲と繁延は互いに仲違いし、満仲は武蔵介藤原善時(ふじわらのよしとき)らとともに、かえってこの計略を密告したので、(注:『源平盛衰記』による。藤原善時のことは『日本紀略』による。)この一件に高明も連座することとなった。(注:『愚管抄』『栄花物語』による。『源平盛衰記』には「高明はその謀を知らず、満仲らに誣告された」とあるが、本書ではそのことを記さず、ここに付け加えるにとどめる。)このとき右大臣藤原師尹(もろただ)は、ひそかにこの一件に乗じて高明を除き、その地位に代わって座ろうとしていた。(注:『源平盛衰記』による。)そこで公卿らと廷議を開き、参議藤原文範(ふみのり)を遣わして密告の文書を職曹司に送らせ、諸門を戒めて出入りを禁じた。(注:『日本紀略』による。)検非違使を遣わして高明の邸宅を取り囲ませ、詔を伝えてその謀反を責めた。(注:『栄花物語』による。)高明は太宰権帥に貶められた。(注:『日本紀略』『公卿補任』『栄花物語』による。)また検非違使の源満季(みなもとのみつすえ)らを遣わし、手分けして高明の妾の兄である左兵衛大尉源連(みなもとのつらぬ)、僧の蓮茂(れんも)、繁延、千晴、およびその配下の兵士らを捕らえ、皆を獄に下した。(注:『日本紀略』による。源連を高明の妾の兄とするのは『尊卑分脈』による。)高明はこのため剃髪し、(注:『日本紀略』『公卿補任』『愚管抄』『栄花物語』による。)京に留まることを願い出たが許されなかった。(注:『公卿補任』による。)蓮茂・千晴らは、いずれも流罪となった。(注:『日本紀略』『愚管抄』による。)天禄二年、召し還された。翌年四月、京に入り、(注:『日本紀略』『公卿補任』による。)葛野の別荘に住み、三百戸の封戸を給された。(注:『日本紀略』による。)天元五年十二月に薨去し、行年六十九歳であった。(注:『公卿補任』『日本紀略』による。)「西宮左大臣」と称された。(注:『皇胤紹運録』による。)備前の土地の人々は祠を建ててこれを祭った。後花園帝の文安五年、その願い出により、詔をもって従一位を追贈された。(注:『康富記』による。)高明は学問を好み、朝廷の典礼に通じており、著書に『西宮記』がある。(注:『仁和寺書籍目録』による。)応和年間、奨学院の学生たちに、勧学院の例に準じて年官を給するよう奏請し、詔によりこれが許された。(注:『西宮抄』『日本紀略』による。)以前、伴廉平(とものかどひら)という人相見がいて人相を見るのが巧みであったが、高明の人相を見て「私は多くの人相を見てきたが、あなたほどの貴い相はまだ見たことがない」と言い、その背中を見るに及んで「恐らく遠くへ流される相がある」と言った。その言葉は果たして符合したという。(注:『続古事談』による。本書には、高明がかつて神泉苑の東北を通りかかった際、塀の中に三体の大きな鬼が立ち並んでおり、その胸が塀と同じ高さであったこと、先払いの声が聞こえると鬼はうつむき、声が止むとまた争ったこと、高明は少しも怪しまず頻繁に先払いさせて通り過ぎたが、その後鬼が背後から高明の名を呼んだという話が載せられている。また『今昔物語』にも、高明が桃園に住んでいた頃、寝殿の柱に虫食いの穴があり、毎夜そこから何かが小さな手を出して人を招くような仕草をしたこと、高明はこれを嫌って仏経や仏像を掛けて封じたが怪異はなお止まず、征矢でその穴を塞いだところようやく止んだこと、しかしまもなく禍が起こったという話が載せられている。この二書の記すところはいずれもかなり荒唐無稽であるので、ここでは採らない。)子に忠賢(ただかた)・惟賢(これかた)・俊賢(としかた)・経房(つねふさ)がいる。忠賢は従五位下・左兵衛佐となり、(注:『尊卑分脈』による。)父と同じく剃髪した。(注:『扶桑略記』および印本『尊卑分脈』による。『日本紀略』には忠賢を「致賢」とし但馬権介であったとあり、高明とともに剃髪したというのは、おそらく忠賢の初名であろう。)惟賢は従四位下・左近衛少将となった。(注:『尊卑分脈』による。)俊賢には別に伝がある。経房は官を重ねて権中納言に至り、勅命により帯剣を許された。寛仁年間、正二位・皇太后宮大夫に至り、本官のまま太宰権帥を兼ねて、任地で薨去した。(注:『公卿補任』による。)

源允明

源自明(みなもとのよりあきら)は伊予・越前守となった。天慶年間、侍従・右兵衛督となった。天暦年間、播磨守となり、正四位下を授けられ、近江守を兼ねた。天徳二年、参議を拝した。(注:『公卿補任』による。)四月に卒去し、(注:『日本紀略』『西宮抄』による。)行年四十一歳であった。(注:『類聚符宣抄』にある延喜二十一年時点で四歳という記述による。『公卿補任』は四十八歳とするが誤りである。)子に元忠(もとただ)がいる。(注:『尊卑分脈』による。)

源為明

源允明(みなもとのちかあきら)は従四位上・播磨守となった。(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『吏部王記』による。)天慶五年七月に卒去し、(注:『一代要記』による。)行年二十四歳であった。(注:『類聚符宣抄』にある延喜二十一年時点で三歳という記述による。)

源為明(みなもとのためあきら)は正四位下、(注:『皇胤紹運録』『一代要記』による。)刑部卿となった。応和元年六月に卒去した。(注:『日本紀略』『一代要記』による。)子に文明(ふみあきら)がいる。(注:『尊卑分脈』による。)