卷之一百三十八 列傳第六十五

藤原道長、藤原賴通、藤原俊綱、藤原賴宗ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次9
  1. 藤原道長
  2. 藤原賴通
  3. 藤原俊綱
  4. 藤原賴宗
  5. 藤原俊家
  6. 藤原教通
  7. 藤原有國
  8. 藤原正家
  9. 藤原實政

藤原道長

藤原道長(ふじわらのみちなが)は、関白藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の五男である。生まれつき豪放で気性が強く、若い頃から気概を負っていた。兼家は常々、甥の藤原公任(ふじわらのきんとう)の人となりを羨み、我が子らを励まして「わが子らは公任にはるかに及ばない。あの後ろ姿を踏むことすらできまい」と言った。兄の道隆(みちたか)と道兼(みちかね)は自分たちが及ばないことを認め、首を垂れて答えなかったが、道長だけは「私はたしかに公任殿の影を踏むことはできますまいが、いずれその顔を踏むことになるでしょう」と答えた。飯室(いいむろ)にいた人相見が兼家の子らを順に見て回り、道長の番になると「この人には非凡な相がある。虎が険しい崖を歩くようなもので、他の誰とも比べものにならない」と言った。道長は詩歌に長じ、弓馬にも優れていた(注:『大鏡』による)。源頼光(みなもとのよりみつ)は当代随一の猛将であったが、道長が危急の際にも肝が据わっているという話を聞き、将帥の器であると評した(注:『古今著聞集』による)。

道長は十五歳で従五位下に叙せられ、左近衛少将に任じられた。その後次第に昇進し、永延元年、従三位に叙せられ左京大夫を兼ねた。翌年には権中納言に抜擢され、正暦年間には権大納言に転じ、従二位に叙せられて左近衛大将を兼ねた(注:『公卿補任』による)。このころ道隆の嫡子である伊周(これちか)が、若くして異例の昇進で内大臣に任じられた。道長はその驕り高ぶりを疎ましく思い、叔父と甥の間柄は常にしっくりいかなかった。

長徳元年、東三条太后(ひがしさんじょうたいごう、詮子)が右山寺に参詣した際、伊周と道長が共にお供をした。道中、伊周が方違え(かたたがえ)のために立ち寄る用ができ、車を降りて事情を申し上げた。太后のために車を止めていたところ、道長は馬を寄せて伊周に「日はすでに暮れかかっているのに、何をぐずぐずしているのか」と迫った。伊周は不満に思ったが、どうすることもできなかった。道隆はこれを聞いて、道長が大臣を軽んじ侮ったことに怒った。太后は道長を重んじ伊周を遠ざけていたが、帝(一条天皇)はちょうど中宮を寵愛しており、そのため伊周を格別に厚く遇していた。伊周は朝夕帝のそばに仕え、ひそかに太后との仲を裂こうとし、あわせて道長を讒言した。帝はこれをかなり信じ入れていた(注:『大鏡』による)。

この年、道隆が病の床についた。帝は道隆の願いにより伊周に内覧をさせたが、まもなく道隆が薨じたため、その弟の道兼に詔して関白の職を継がせた。しかし道兼は就任してわずか数日で、これもまた薨じてしまった(注:『栄花物語』『愚管抄』による)。伊周は自分こそ関白の座を得るべきだと考え、帝の意向もまた伊周にあった。しかし世論は道長を推していた。道長自身も「伊周に政務を任せれば必ず天下は乱れるだろう。摂政・関白の任は、自分をおいて他に誰がいるというのか」と思っていた。太后もまた帝に道長の登用を勧め、帝の意向がなかなか動かないのを見て涙を流して強く求めた。帝もついにやむを得ず(注:『大鏡』『愚管抄』を参照して記す)、道長に本官のまま内覧をさせる詔を下し、ほどなく右大臣に任じ(注:『公卿補任』『大鏡』『愚管抄』による)、藤原氏の長者とした(注:『公卿補任』による)。まもなく伊周とその弟隆家(たかいえ)は事件に連座して流罪となり、中宮は悲しみに堪えかねて髪を切り尼となった(注:『栄花物語』による)。

道長は左大臣に転じ、正二位に進んだ。祖父師輔(もろすけ)の先例にならい、六人の童子を随身として賜ったが、まもなくこれを辞退し、改めて左右近衛府の府生各一人と近衛各四人を賜った(注:『公卿補任』による)。長保二年、道長の長女で女御であった彰子(しょうし)が中宮に立てられた。これが上東門院(じょうとうもんいん)であり、のちに後一条天皇・後朱雀天皇を産んだ(注:『日本紀略』『皇胤紹運録』による)。道長は次第に権勢を思いのままに振るうようになり、帝はこれを疎ましく思うようになった。帝が崩御したのち、道長は帝の手蹟に「叢がる蘭は茂ろうとするのに秋風が吹いてこれを破り、王事を託そうとするのに讒臣が国を乱す」と記されているのを見て、自分を指したものと考え、怒ってこれを自ら破り捨てた(注:『愚管抄』『古事談』を参照して記す)。

三条天皇が即位するに及んで、道長の専横はますます甚だしくなった。帝がまだ即位前であったころ、右近衛大将藤原済時(ふじわらのなりとき)の娘である娍子(せいし)を娶り、小一条院(こいちじょういん)を生ませていたが、道長はさらに自分の娘の妍子(けんし)を入内させ、ついに妍子を中宮に立てさせ、娍子は皇后とした(注:『大鏡』『栄花物語』による)。帝は在位わずかの間に目の病を患った。道長はしばしば帝に譲位を勧めたが、帝はこれを嫌った。やがて病がますます重くなり、帝はついに譲位を決意したが、小一条院を新帝の皇太子にしようと望んだ。道長はこれを阻んで「皇子方の中で皇太子にふさわしい者はいない。ただ先帝(一条天皇)の第三皇子だけがふさわしい」と言った。帝はますますこれに憤り、譲位の意志を失いかけたが、結局道長に詔して摂政の儀に准じ除目を執り行わせることとし、側近に「朕は今、除目を道長に委ねる。彼のなすことが不義であるならば、天罰は彼自身が受けるであろう。朕はそれに関与しない」と語った。その後も道長が譲位を促してやまなかったため、帝はついに後一条天皇に位を譲った。新帝はわずか九歳で、小一条院を皇太子とした。

道長は摂政となり(注:『小右記』による)、帯剣を許され、内舎人二人、左右近衛・兵衛各六人を賜った(注:『公卿補任』による)。また三宮(太皇太后・皇太后・皇后)に准じて年官・年爵を賜り、封戸を三千戸増やされ、帯刀資人三十人を給わるなど、藤原良房(よしふさ)の先例にならった待遇を受けた。翌年、摂政の職を子の頼通(よりみち)に譲り、従一位に叙せられた(注:『日本紀略』『公卿補任』による)。三条天皇が崩御すると、道長は小一条院を廃し、後朱雀天皇を皇太弟に立てた(注:『日本紀略』『大鏡』による)。ほどなく太政大臣に任じられた。寛仁二年、宮中を輦車に乗ったまま通行することを許されたが、太政大臣と内舎人隨身の職は辞退した(注:『公卿補任』による)。

この年十月十六日、道長の娘威子(いし)が中宮に立てられた。道長は喜びに堪えず、和歌に思いを寄せて「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧けたる事も 無しと思へば」と詠んだ。かつて道長がまだ栄達していなかったころ、伊周と弓を射て競ったことがあった。道長は矢をつがえて「わが娘が皇后に配されるならば、この矢は的に当たれ」と祈って射ると、一発で的を射抜いた。伊周が続けて射たが当たらなかった。道長はさらに矢をつがえて「わが身が摂政・関白に至るならば、当たれ」と言い、また命中させた。道隆はこれを喜ばず、弓比べを中止させたという。今にして思えば、一家から三人の后を出し、人臣として位を極めるという、まさに道長の望んだとおりの結果になったのである(注:『大鏡』による)。

寛仁三年、病のため剃髪し(注:『日本紀略』『愚管抄』『栄花物語』による)、法名を行観(ぎょうかん)、のちにさらに行覚(ぎょうかく)と改めた(注:『日本紀略』『愚管抄』による)。朝廷は非常の大赦を行い、道長の封戸をさらに二千戸増やした(注:『日本紀略』による)。東大寺で受戒し、多くの公卿がこれに従った(注:『日本紀略』『小右記』『栄花物語』による)。皇太后以下が見舞いに訪れ、その使者が道中に絶えなかった(注:『小右記』『栄花物語』による)。

万寿四年、病が重くなると、朝廷は詔して天下の調・庸を免じ、大赦と賑恤を行って道長を救おうとし、また千人の得度を許した(注:『日本紀略』による)。帝が見舞いに訪れ、その痩せ衰えた姿を見て、憂え恐れて涙を流した。道長は感謝して「昔から政をとった者は多いが、私ほど栄えた者はほとんどいますまい。聖恩の深いことは、もはや言葉に尽くせません」と奏上した。帝がしきりに望みを尋ねると、道長は「法成寺の落成にあたり、工事を監督した者たちにまだ褒賞がありません。ただそれだけが心残りです」と答えた(注:『栄花物語』による)。帝はすぐに勅を下し、家司らの位を進め、法成寺に五百戸の封戸を賜った。十二月、道長は薨じた。享年六十二(注:『日本紀略』『扶桑略記』による)。帝は錫紵(しゃくちょ、薄墨色の喪服)を着け、三か月の心喪に服した(注:『小右記』による)。祭祀や節会の多くが停止・廃止された(注:『小右記』『日本紀略』『扶桑略記』による)。長元元年、道長の墓は荷前(のさき)の例幣を供える対象の列に加えられた(注:『左経記』による)。

道長は代々にわたって朝廷の外戚となり、政治の実権はもっぱら自分に帰し、物事の是非も彼の胸先三寸で決まった。一条天皇の頃から、天皇がしばしば道長の邸宅に行幸し、下賜される品々は幾重にも重なって、その富は皇室をも上回るほどであった(注:『小右記』『栄花物語』による)。後一条天皇がかつて瘧(おこり、マラリア性の熱病)を患った際、僧綱に祈祷させて治ったので、絹幾ばくかを褒賞として賜おうとしたが、御用の蔵からは数を揃えられず、道長の家から取り寄せて与えたほどであった。

寛仁の初め、道長は上東門に私邸を造営し、諸国の国司に課役として工事を負担させた。大きな石を運ぶ際には、民家の戸や床、敷板まで取り払い、通行人の通行を止めてまで引かせた。邸宅が完成すると、皇族や公卿以下が次々と贈り物をした(注:『小右記』による)。道長はまた仏教を深く信仰し、六斎日(ろくさいにち)ごとに天下に殺生を禁じた(注:『栄花物語』による)。しばしば仏堂の供養を行い、その儀式は御斎会(ごさいえ)に準じるものであった(注:『日本紀略』による)。

はじめ木幡(こはた)の先祖の墓所に浄妙寺(じょうみょうじ)を建て(注:『栄花物語』『大鏡裏書』による)、別当や所司を置き、僧侶に冬夏の衣服を給した。のちには京極(きょうごく)に法成寺(ほうじょうじ)を創建し、これを東大寺に匹敵させようとして大がかりな造営を行った(注:『栄花物語』による)。公卿に命じて宮中の諸司や神泉苑(しんせんえん)の乾臨閣(けんりんかく)などから石を採らせ、その用に充てさせた(注:『小右記』による)。

土木工事がまだ完成しないうちに、道長は病に倒れた。頼通は工事を急がせようとし、諸国に「公の政務は多少滞ってもよいから、この工事を怠るな」と命じた。こうして公卿以下が日々数百人の人夫を出し、遠近から人々が馳せ集まって、程なく完成した(注:『栄花物語』による)。道長は病が篤くなると、法成寺に移り住んだ(注:『小右記』『栄花物語』による)。世間では道長を「法成寺摂政」と呼び、また「御堂殿(みどうどの)」とも称した(注:『尊卑分脈』による)。著書に『蓮府秘抄(れんぷひしょう)』があり、その日記は『法成寺摂政記』と呼ばれる(注:『法成寺摂政記』による)。

道長には妻が二人あり、一人を倫子(りんし)、もう一人を明子(めいし)といった。倫子は左大臣源雅信(みなもとのまさのぶ)の娘で、頼通・教通(のりみち)・彰子・妍子・威子・嬉子(きし)を生み、三宮に准じられて鷹司殿(たかつかさどの)と称された。明子は左大臣源高明(みなもとのたかあきら)の娘である。かつて高明が筑紫(つくし)に左遷された際、明子はまだ幼く、叔父の盛明親王(もりあきらしんのう)に育てられた。やがて父と叔父がともに亡くなると、東三条院(詮子)がその幼くして孤児となったのを憐れみ、引き取って宮中で養い、手厚く世話をした。侍女や献上品も分け与えられたほどである。皇后の兄弟たちがかつて明子を妻に迎えようとしたが、東三条院はこれを許さなかった。道長だけがこれと通じることを許され、頼宗(よりむね)・能信(よしのぶ)・顕信(あきのぶ)・長家(ながいえ)を生ませ、明子は従三位に叙せられて高松殿(たかまつどの)と称された(注:『栄花物語』『大鏡』を参照。明子が従三位に叙せられたことは『公卿補任』による)。

能信には別に伝がある。顕信は幼名を苔君(こけぎみ)といい、幼くして仏教を信仰し、右馬頭に任じられたが、まもなく出家して僧となり(注:『大鏡』による)、長禅(ちょうぜん)と改名した(注:『尊卑分脈』による)。長家は幼名を小若君(こわかぎみ)といい(注:『大鏡』による)、姿かたちが美しく和歌に優れていたので、倫子が自分の子として養い、特に目をかけて御子左家(みこひだりけ)に住まわせた(注:『栄花物語』による)。次々と清華の官職を経て、長元・寛徳の頃、権大納言に任じられ民部卿を兼ねた(注:『公卿補任』『栄花物語』による)。康平七年に薨じた。享年六十(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。世に御子左大納言(みこひだりのだいなごん)と称された(注:『尊卑分脈』による)。

藤原賴通

藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、幼名を鶴君(つるぎみ)といった(注:『一代要記』『栄花物語』『大鏡』による)。わずか十二歳で正五位下に叙せられ、まもなく侍従となった。寛弘・長和の頃、次々と昇進して権大納言に任じられた(注:『公卿補任』による)。

道長が三条天皇に迫って譲位を勧めた際、帝は憂い憤ったがどうすることもできず、そこで皇女禔子内親王(ていしないしんのう)を頼通に嫁がせることで道長の歓心を得ようと考え、道長を召してその旨を伝えた(注:『小右記』『栄花物語』による)。道長はこれをまさに望んでおり、頼通に告げた。頼通は以前すでに具平親王(ともひらしんのう)の娘を娶っており、帝の娘を妻に迎えることを望まなかった。父の言葉を聞いても黙ったまま憂いの色を見せた。道長は「男子たる者、妻は一人に限らない。まして、お前にはまだ子がないのだから、広く跡継ぎを求めるべきだ」と言い、ついに強いて縁組みをさせた。ところが頼通はちょうど病の床に伏し、具平親王の祟りだと言い訳をして、この婚儀を絶ってしまった(注:『栄花物語』による)。

後二条天皇が即位すると、頼通は内大臣に任じられ、父に代わって摂政となり藤原氏の長者となった。まもなく関白となり、左大臣に転じた。康平二年、病を理由に官職の辞退を願い出たが許されず、朝廷は天下に大赦を行って病を癒そうとした(注:『公卿補任』『定家記』による)。康平四年、太政大臣に任じられたが、まもなく辞退した(注:『公卿補任』による)。

永承の頃、宇治の別荘を寺として喜捨し、平等院(びょうどういん)と名づけた(注:『扶桑略記』による)。治暦三年、天皇がこれに行幸し(注:『公卿補任』『一代要記』『扶桑略記』による)、三百戸の封戸を賜った。頼通は船を飾り立て音楽を奏でて行幸を出迎え、献上の品々は極めて精緻かつ豊かであった。天皇の行幸は三日間にわたって留まった(注:『扶桑略記』による)。勅に「前太政大臣は、名は君臣であるが、その情誼は父母のようなものである」とあり(注:『一代要記』による)、三宮に准じて年官・年爵と食邑三千戸を賜り、内舎人・近衛の資人については藤原良房の先例に従うこととされた。

翌年、帝の病が篤くなった(注:『扶桑略記』『百錬抄』による)。頼通は関白を辞したが、そのまま政務の相談にはあずかり続けた(注:『公卿補任』『一代要記』『今鏡』による)。かつて後朱雀天皇の病が重くなった際、頼通に帝の輔佐を託す遺詔があり、後三条天皇を東宮に立てようとしたが、頼通はこれを望まず「東宮を立てるのは、まだ急ぐことではありません」と言った(注:『十訓抄』『東鑑』はいずれも、朱雀帝の病が篤くなった際、頼通は遺詔を受けたものの、東宮の話に及ぶと黙って答えなかった、と伝える)。弟の能信がひそかに帝に言葉を弄して勧めたため、後三条天皇は東宮となることができた(注:『今鏡』による)。このため頼通と東宮とは折り合いが悪くなった(注:『栄花物語』による)。これに至って頼通は宇治に引きこもり、政務を遠くから委ねるのみとなった(注:『栄花物語』『今鏡』による)。

頼通はかつて関白の職を子の師実(もろざね)に伝えようとし、ひそかに上東門院にその旨を申し上げた。上東門院は、それが道長のかねてよりの志にそぐわないとして、帝に手書を送り「その願いを聞き入れてはならない」と伝えた。このため関白は教通に伝えられることとなったが、いずれ必ず師実に伝えるとの約束が交わされた。しかし教通はいつまでも伝える意志を見せなかった。頼通はこれを責めて「そなたは昔の約束を果たすべきだ。私は師実がその職に就くのを見られれば、それで安んじて目を瞑ることができる」と言った。教通は「それは私が勝手にできることではありません」と答え、頼通はこれを恨みに思ったという(注:『古事談』による)。

延久四年、剃髪して法名を蓮花覚(れんげかく)、のちにさらに寂覚(じゃくかく)と改めた(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。承保元年、薨じた。享年八十三(注:『公卿補任』『尊卑分脈』『今鏡』『栄花物語』による)。世に宇治殿(うじどの)と称された(注:『尊卑分脈』『今鏡』『栄花物語』による)。

頼通は父祖の余勢を受け継ぎ、朝廷の命をほしいままにした(注:『大鏡』『愚管抄』による)が、その驕り贅沢は道長をも上回った。かつて高陽院(かやのいん)を造営し、その華麗さは比類のないものであった(注:『栄花物語』による)。教通が二条第(にじょうてい)を造ると、これもまた極めて壮大であった。頼通はこれを喜ばず、師実に「私邸を大きく造営して街路を塞いでしまうとは、制度を踰えているのではないか」と言った。師実は「まことにその通りです。とはいえ、身内の者のすることに、誰があえて口を挟めましょうか」と答え、頼通はうなずいた。これ以来、人々は競って邸宅を広げ、互いに贅を尽くして張り合うようになった(注:『古事談』による)。

子の通房(みちふさ)は姿かたちが美しく(注:『愚管抄』による)和歌に優れ(注:『今鏡』による)、権大納言に至り右近衛大将を兼ねたが(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)、早くに薨じ(注:『今鏡』『公卿補任』による)、跡継ぎはなかった(注:『尊卑分脈』による)。次男の師実には別に伝がある。師実の弟が俊綱(としつな)である。

藤原俊綱

藤原俊綱(ふじわらのとしつな)は、その母がまだ懐妊中に讃岐守橘俊遠(たちばなのとしとお)に再嫁したため、いったん橘の姓を名乗った。のちに頼通が引き取って自分の子としたが、当時の人は俊綱が直衣(のうし)を着ているのを見て「橘直衣(たちばなののうし)」と呼んだ。俗に「革」を「直」と読み替えるといい、これは俊綱が姓を改めたことを言ったものである。尾張守・修理大夫に任じられた。伏見(ふしみ)の里に住んだので、伏見修理大夫と称された。その家は非常に富み、邸宅の眺めも優れていたので、当時の歌人たちが集まって吟詠し、それが絶えることのない日々であったという。

かつて白河天皇に仕えていたとき、帝が都に近い景勝の地を尋ねたところ、俊綱は「石田(いわた)が第一です」と答えた。帝がさらにその次を尋ねると「高陽院です」と答えた。帝が「それでは鳥羽(とば)が第三か」と尋ねると、俊綱は「あの鳥羽の宮の地は、眺めがそれほど格別に優れているわけではありません。ただ朝廷がお造りになった場所であるため、世間の人々がいたずらにもてはやしているだけです。もし第三を論じるならば、それがしの伏見でございましょう」と答えた。当時の人々はその率直さを称賛したという(注:『今鏡』による)。嘉保元年に没した。享年六十七(注:『中右記』による)。

藤原賴宗

藤原頼宗(ふじわらのよりむね)は、幼名を巌君(いわおぎみ)といった(注:『大鏡』『一代要記』による)。和歌に巧みで、当時の評は紀貫之(きのつらゆき)や平兼盛(たいらのかねもり)に並ぶものとされた(注:『今鏡』による)。若くして次々と清華の官職を昇進した。治安元年、権大納言に任じられた(注:『公卿補任』による)。長久の末、右近衛大将が欠員となり、頼宗は「当然自分がこれを補うべきだ」と思っていたが、甥の通房が異例の昇進でこれに任じられてしまった。頼宗は大いに失望し、門を閉ざして参内しなかった。ほどなく通房が薨じたため、頼宗が右近衛大将となった(注:『栄花物語』による)。

永承二年、内大臣に任じられた。康平元年、従一位に叙せられ(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)、輦車(れんしゃ)に乗ったまま宮門に入ることを許された(注:『公卿補任』による)。康平三年、右大臣に転じた。治暦元年、薨じた。享年七十三(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。堀河右大臣(ほりかわのうだいじん)と称された(注:『尊卑分脈』による)。子の兼頼(かねより)は正二位権中納言となった(注:『公卿補任』による)。兼頼の弟が俊家(としいえ)である。

藤原俊家

藤原俊家(ふじわらのとしいえ)は、長元年間に蔵人頭に補せられたが、殿上での酒宴の席で人を使って藤原経輔(ふじわらのつねすけ)を殴らせた罪により、籍を削られた(注:『古事談』には次のようにある。寛徳二年、殿上で酒宴があり、頭中将であった俊家が席についていて放屁してしまい、満座の者が口を覆って笑いをこらえた。俊家はそこで柑子(こうじ、みかんの類)を噛んで音を立て、人々の耳をごまかそうとした。藤原経輔が傍らの者に「柑子はかえって音がしませんな」と耳打ちしたところ、人々は皆こらえきれず吹き出した。俊家は恥じ憤り、笏(しゃく)を引いて経輔を殴ったため、不敬の罪に問われて籍を削られたという。考えるに、俊家はこのとき既に従二位参議であったはずで、頭中将と称するのは筋が通らず、また話の内容も卑俗であるので、ここでは採らない)。まもなく官に復した(注:『日本紀略』『歴代皇紀』による)。

長暦・長久の間に参議に任じられ、従二位に進んだ。永承三年、権中納言となった。治暦の初め、権大納言に転じた。承暦の頃、右大臣に至った。永保二年、薨じた。享年六十四(注:『公卿補任』による。『一代要記』は六十二とする)。世に大宮右大臣(おおみやのうだいじん)と称された。その日記は『大右記』と呼ばれる(注:『仁和寺書籍目録』による)。

俊家は歌謡に巧みであった。宿直(とのい)の禁を犯して、たまたま紫宸殿に至り、満開の桜を眺めて欄干にもたれ拍子をとりながら「桜人(さくらびと)」の曲を歌った。楽人の多政方(おおのまさかた)はこれを聞いて感激を抑えきれず、あわせて「地久楽(ちきゅうらく)」を舞ったという。人々はこれを語り伝えて称賛した(注:『宝物集』『古今著聞集』による)。

子の宗俊(むねとし)は権大納言となった。次男の師兼(もろかね)は参議となった(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。次男の基俊(もととし)は歌人伝にある。次男の基頼(もとより)は鎮守府将軍となった。次男の宗通(むねみち)は権大納言となった。俊家の弟の能長(よしなが)は叔父の能信の養子となって出て、内大臣に至った(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。能長の弟の基貞(もとさだ)は美濃守となった(注:『尊卑分脈』による)。基貞の弟の能季(よしすえ)は権中納言となり(注:『公卿補任』による)、伊勢中納言(いせのちゅうなごん)と称された(注:『尊卑分脈』による)。

藤原教通

藤原教通(ふじわらののりみち)は、幼名を世治君(よじぎみ)といった(注:『大鏡』による)。寛弘年間に次々と昇進して左近衛権中将に任じられ、三位に叙せられた。長和二年、直ちに権中納言に任じられた。治安元年、内大臣となった。永承元年、皇太弟傅(こうたいていのふ)を兼ねた。翌年、右大臣に任じられた。天喜・康平の間に輦車・牛車の使用を許され、従一位左大臣に転じた(注:『公卿補任』による)。頼通に代わって藤原氏の長者となり、治暦元年には左右近衛の番長各一人、近衛各三人を随身として賜った。治暦四年、頼通に代わって関白となった(注:『公卿補任』『扶桑略記』による)。

後三条天皇が即位すると、教通はたびたび関白の辞表を出したが許されず、左大臣を罷免された(注:『公卿補任』による)。当時、帝は国司の再任を禁じていたが、教通が興福寺の南円堂を造営しようとして、その費用のため国司の再任を旧来どおり行うよう願い出た。帝は髭を震わせて激しく怒り、「朝廷が摂政・関白を特に重んじるのは、その者が外祖父となることがあるからにすぎぬ。朕はそれとは事情が異なる。何を憚ることがあろうか」と言って、その奏請を厳しく退けた。教通は憤然として衣を払って立ち上がり、大声で「藤原氏の卿相たちよ、皆その職を辞せ。春日の神威も今日で尽きたのだ」と叫んだ。すると藤原氏の者たちが皆立ち上がり、教通に従って退出してしまった。帝はやむを得ず彼らを呼び戻し、願いを聞き入れた(注:『続古事談』による)。

大和国司と興福寺が争論を起こした際、帝が自らこれを裁定し、その意向は国司の側にあった。教通はこれを喜ばなかったため、帝はこれに譲歩して従った(注:『愚管抄』による)。延久二年、太政大臣に任じられたが、まもなく辞退した。承保二年、薨じた。享年八十。正一位を追贈された(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。大二条殿(おおにじょうどの)と称された(注:『尊卑分脈』による)。著書に『澄池記(ちょうちき)』『二東記(にとうき)』がある(注:『仁和寺書籍目録』による)。

子の信家(のぶいえ)は正二位権大納言となり(注:『公卿補任』による)、山井(やまのい)と称された(注:『今鏡』『尊卑分脈』による)。信家の弟の信長(のぶなが)は次々と顕官を歴任し、延久元年、内大臣に任じられた(注:『公卿補任』による)。教通が薨じた際、信長を自分に代わって関白にしようとしたが、結局従弟の師実がこれに代わった(注:『栄花物語』による)。承暦四年、太政大臣に任じられ(注:『公卿補任』『扶桑略記』による)、左右大臣を経ずに直ちに太政大臣となったのは、これが初めての例であった(注:『源平盛衰記』による)。寛治二年、従一位に叙せられた。嘉保元年、薨じた。享年七十三(注:『公卿補任』による)。九条(くじょう)と称された(注:『今鏡』『尊卑分脈』による)。

藤原有國

藤原有国(ふじわらのありくに)は、字を賢(けん)といった。右大臣藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)の子孫である。六代前の祖である真夏(まなつ)は(注:『尊卑分脈』による。字は『江談抄』による)、大同年間に右近衛中将となり、山陰道観察使に任じられた。弘仁の初め、観察使を罷免されて参議となったが、事件に連座して備中権守に左遷された(注:六世祖以下ここまでは真夏についての記事である)。父の輔道(すけみち)は豊前守であった(注:『公卿補任』による)。

有国は若い頃から父によく仕え、かつて父の赴任に随行した。父が急病で危篤となった際、有国は泰山府君(たいざんふくん)に父の延命を願い、懇ろに祈った。まもなく父は蘇生し、人々はその孝心が天に通じたのだと言った(注:『古事記』『十訓抄』による)。

貞元年間、従五位下に叙せられ、次々と石見守・越後守などを歴任し、蔵人・右中弁を経て蔵人頭に任じられ、従三位に叙せられた。正暦年間、事件に連座して除名された(注:『公卿補任』による)。かつて関白兼家が臨終に際し、子らの中から後継を選ぼうとして有国に相談したところ、有国は道兼を推した。兼家はこれに従わず、平惟仲(たいらのこれなか)の言葉を用いて、結局長男の道隆に職を継がせた。道隆はこのことで有国を恨んでおり、これに至ってついに中傷を受けることとなった(注:『江談抄』『古事談』による)。人々は皆、有国が無実の罪を着せられたと思った。

その後、道隆が死んで道長が実権を握ると、有国は太宰大弐(だざいのだいに)となった。当時、道隆の子である伊周が罪により大宰帥(だざいのそち)に左遷されていた。有国は任地でこれを聞き、感慨深く「私はあの方(道隆)の父君ゆえに、罪もないのに官を削られた。それでもなお恥辱と思っていた。まして彼(伊周)は帝の外戚たる貴族の身でありながら、遠く辺境の地に流されたのだ。その恥辱はいかばかりであろうか」と言った。そこで自分の子の広業(ひろなり)を遣わして出迎えさせ、「役目があって郊外まで自ら出迎えることができません。もろもろの御用立ての品が不足しておりましたら、何なりとお申し付けください。私は老いてなお生きながらえておりますが、こうしてあなた様にお仕えする機会を得たのは、まさに私が誠意を尽くすべき時であります」と伝えさせた。そして数十品の贈り物を届け、至れり尽くせりの世話をした。伊周は大いに恥じ入ったが、その厚意に感じ入り、格別に親しく交わるようになった。人々はこれを称賛したという(注:『栄花物語』による)。

長保元年、弾正大弼(だんじょうのだいひつ)を兼ねた。長保三年、参議に任じられ、従二位に叙せられた。寛弘八年、薨じた。享年六十九(注:『公卿補任』による)。

有国は藤原惟成(ふじわらのこれしげ)と並んで、文章の才で世に名を知られた(注:『本朝文粋』による)。有国はかつて自分の名簿(みょうぶ)を惟成に渡したことがあった。惟成は驚いて「藤原の賢(有国)と式部大輔(惟成)は、もとより並び立つ者同士であるのに、どうしてこのようなことをするのか」と言った。有国は「むしろ一人の股をくぐってでも、万人の頭に立ちたいのだ」と答えたという(注:『江談抄』『古事談』による。『江談抄』には「式大」を惟成の字とするが、惟成は式部大輔に任じられているのだから、これが字でないことは明らかである)。

有国は人柄が聡明で才幹があり、摂政道長に親しく重んじられた。道長がかつて東三条第(ひがしさんじょうてい)を造営した際、有国にその監督をさせた。西の泉のほとりの渡り廊下の南の柱について、中間の一区画だけ長押(なげし)の木を入れていなかった。道長はこれを見て頑丈でないと考えたが、有国は弁明せずそのままにしておいた。上東門院の后冊立の儀の際、初めて輿(こし)で内裏に入ることとなり、輿がこの廊下を通ったところ、廊の一区画が広く開いていて何の障りもなかった。有国は廊の上を仰ぎ指して道長に見せた。道長はここに至って初めて、有国の配慮が深く遠いものであったことを悟った(注:『十訓抄』『古事談』による)。

上東門院がお産にあたって難産となったとき、道長はひどく心配し、慌てて障子を開けて内から出てきて、公卿たちに相談し、祈祷をさせようとした。そのとき有国はその場にいて「もう既にお生まれになったのに、今さら何を祈祷することがありましょう」と答えた。言い終わらないうちに、女房が走ってきて皇子誕生を告げ、皆が万歳を唱えた。のちに道長が有国に「どうしてそれが分かったのか」と尋ねると、有国は「先ほど、あなた様が障子を開けて出てこられるのを見て、障子がもう開いているのだから(生まれたのだろう)と思い、それで分かったのです」と答えた(注:『十訓抄』による)。

かつてある人が、闇に紛れて有国を襲おうと企てたことがあった。有国はこれを聞きつけ、暗がりに油を持って立っていた。果たして襲おうとして通り過ぎる者が現れたので、その袖に油をかけておいた。翌日、それを目印として確かめると、その者は言い逃れることができなかった。有国の機知はおおよそこのようなものであった(注:『江談抄』による)。

子に広業・公業(きんなり)・資業(すけなり)がいる。広業は次々と文章博士・播磨守・式部大輔・左大弁を歴任し、参議従二位に至った。公業は中宮大進となった。資業は次々と官を歴任して従三位式部大輔に至り、その家は日野(ひの)と号した。広業の孫が正家(まさいえ)である。

藤原正家

藤原正家(ふじわらのまさいえ)は、学問の才があり和歌に優れ、対策(たいさく、官吏登用試験)に及第した(注:『尊卑分脈』による)。次々と官を歴任して左少弁に任じられ、文章博士を兼ねた(注:『辨官補任』による)。大江匡房(おおえのまさふさ)と名声を並べていた。後三条天皇はちょうど匡房を親任していたが、正家はまだ帝に知られていなかった。

たまたま宮中に火事があり、公卿や側近の者でまだ駆けつけた者がいなかった。帝が南殿(なでん)にお出ましになると、正家は宿直をしていて内侍所(ないしどころ)からお出ましになった帝を奉じ、右近陣(うこんのじん)に入って輿を求め、階(きざはし)の前まで参ってお迎えした。帝は不審に思い「誰か」とお尋ねになると、正家は「左少弁正家でございます」と答えた。帝は「そなたは弁官であるから、御前近くに控えるのがよかろう」と仰せられ、正家はそのまま帝を奉じて外にお連れした。これによって正家は自らその名を帝に知られることとなった。当時の人々はその機敏さを称賛したという(注:『今鏡』による)。

のちに正四位下右大弁に至り、蔵人頭を兼ねた。永保の初め、実政(さねまさ)が地方官に転出することとなり、正家もまた左遷されて若狭守となった(注:『辨官補任』による)。のちに盗賊に傷つけられて死んだ(注:『尊卑分脈』『百錬抄』による)。享年八十一。子は俊信(としのぶ)。藤原俊信は左少弁となった。資業の子が実政である。

藤原實政

藤原実政(ふじわらのさねまさ)は、長元の末に学料を賜り、まもなく文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に補せられ、対策に及第した(注:『公卿補任』による)。後三条天皇がまだ皇太弟であった頃、実政は学識ある老儒として春宮学士(とうぐうがくし)となり、帝から特に親任された。互いの心情は深く通じ合い、友人のように親しく交わったという(注:『十訓抄』による)。

侍読(じどく)を務めること十五年に及んだ。康平の頃、地方官として出て甲斐守となった(注:『公卿補任』による)。帝は詩を賦してこれを送別し、「国の民はほしいままに甘棠(かんとう)の詠を発するであろうが、長年の風月の遊びを忘れることのないように」と詠んだ(注:『古事談』『十訓抄』『今鏡』による)。また和歌を賜って実政を慰めたという(注:『新古今和歌集』『古事談』『十訓抄』による)。

帝が即位すると、実政は再び春宮学士となった。延久四年、左中弁となった(注:『公卿補任』による)。かつて帝がまだ東宮であった頃、実政は使いとして春日社に参向し、木津(きづ)に至って藤原隆方(ふじわらのたかかた)に出会った。隆方は自分の家柄を誇り、実政を辱めた。実政は帰ってから、泣いてこのことを東宮に訴えた。これに至って、隆方が権左中弁となり、実政もまた左中弁を求めた。帝は「何事にも少しでも道理に反することがあってはならぬ。初めて左中弁に任じるのに、いきなり正官とするのはどうであろうか」と言った。そのとき蔵人頭藤原資仲(ふじわらのすけなか)が側にいて「実政はただ一日も早く木津での恨みを晴らしたいだけなのです」と言った。帝はしばらく考え込んだのち、「朕はこれを天照大神に願おう」と言い、ついに隆方を越えて実政を左中弁に任じた。ちょうど隆方は朝廷にいて除目があると聞き、自分が左中弁を得るものと思っていたが、蓋を開けてみると特に備中権守を兼ねることとなり、恥じ恨んで退出したという(注:『今鏡』による。『続古事談』も参照。隆方が備中権守となったことは『辨官補任』による)。

実政は白河天皇の御代に、次々と官を歴任して参議に至った。永保の頃、太宰大弐に転じた(注:『公卿補任』による)。ほどなく従二位を授けられた。寛治二年、八幡宮の一件に連座して伊豆に流された。道中で剃髪した。朝廷はこれを気の毒に思い、慰めを送った。まもなく薨じた(注:『公卿補任』『尊卑分脈』による)。子の敦宗(あつむね)は式部大輔となった(注:『尊卑分脈』による)。