卷之卅三 本紀卅三

朱雀天皇

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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朱雀天皇

朱雀天皇は、諱を寛明(ひろあきら)といい、醍醐(だいご)天皇の第十一子である(注:日本紀略・歴代皇紀・大鏡による。○案ずるに、醍醐天皇の皇子の生まれた順序については、諸書に異同がある。今、生没の年月から推算すると、天皇は第十三子、村上帝は第十五子にあたる。しかし本書では天皇を第十一子、村上帝を第十四子とすることがあり、これはおそらく臣籍に下って姓を賜った皇子を数に入れていないためであろう。そこで今は本書の旧文に従う)。母は皇后藤原氏。

延長元年(えんちょうがんねん)七月二十四日寅の刻、外舅(母方の伯父)にあたる右大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)の五条第(ごじょうてい)でお生まれになった(注:日本紀略による。○案ずるに、中右記の元永二年の記事は四月二十四日とし、歴代皇紀・本書の一説はいずれも四月四日とする。今は大鏡裏書・皇胤紹運録に従う)。十一月、親王となった(注:日本紀略・大鏡裏書による)。

三年十月、皇太子に立てられた(注:日本紀略・扶桑略記による)。

八年二月、初めて読書を始めた(注:日本紀略・大鏡裏書による)。九月二十二日壬午、皇太子は宣耀殿(せんようでん)において譲位を受けた(注:日本紀略・毘沙門堂所蔵記による)。左大臣兼左近衛大将・藤原忠平を摂政とし(注:公卿補任・日本紀略・扶桑略記による)、右大臣兼右近衛大将・藤原定方(ふじわらのさだかた)は元のままとした(注:公卿補任・一代要記による)。醍醐帝を尊んで太上天皇とした(注:○本書には日付の記載を欠き、今は考証のしようがない)。二十六日丙戌、麗景殿(れいけいでん)に参って上皇のご病気を見舞った(注:日本紀略による)。二十九日己丑、天下に大赦を行った(注:日本紀略・醍醐寺雑事記が引く李部王記による)。皇弟の章明(あきあきら)を親王とした(注:日本紀略・一代要記による)。この日、上皇が崩御した。冬十月十日庚子、醍醐天皇を葬った。十一月五日甲子、六条院(ろくじょういん)で火災があった。二十一日庚辰、天皇は大極殿で即位した。時に8歳(注:日本紀略・扶桑略記による)。十二月九日戊戌、文徳天皇の国忌(こくき、忌日の法要)を廃し、醍醐天皇の国忌を置いた(注:日本紀略による)。十七日丙午、摂政の忠平は左近衛大将を辞し、右大臣兼右近衛大将・藤原定方が左近衛大将に転じ、大納言・藤原仲平(ふじわらのなかひら)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。

承平元年(じょうへいがんねん)辛卯、春正月庚申朔、諒闇(りょうあん、天皇の父母の喪)のため朝政を執らず(注:日本紀略・北山抄による)、諸々の節会(せちえ)を停止した(注:日本紀略・貞信公記による)。十二日辛未、地震があった(注:貞信公記による)。二十八日丁亥、雷があった(注:日本紀略・扶桑略記・貞信公記による)。二月八日丙申、京中に盗賊が多かったため、近衛・衛門・検非違使(けびいし)に命じて毎夜巡回・捕縛させた。十三日辛丑、雹(ひょう)が降り風雷があり(注:扶桑略記による)、脩明門(しゅうめいもん)の陣座に落雷した(注:扶桑略記・貞信公記による)。十八日丙午、大極殿に鷺(さぎ)が現れる怪異があったため、七寺で読経させた(注:貞信公記による)。三月二日庚申、地震があった(注:日本紀略・扶桑略記・西宮記による。○案ずるに、紀略は庚午とするが、今、干支から推算すると庚午は十二日にあたる。しかし扶桑略記もまた二日とするので、これにより訂正した)。二十四日壬午、伊勢神宮以下六社に幣帛(へいはく)を奉り、即位を告げた(注:日本紀略による)。夏四月十七日乙巳、宇佐宮(うさぐう)に使いを遣わした(注:日本紀略・西宮記・貞信公記による)。二十六日甲寅、改元した(注:日本紀略・扶桑略記・貞信公記による)。閏五月三日庚寅、地震があった(注:日本紀略による)。七日甲午、長雨について占わせた(注:扶桑略記・北山抄・貞信公記による)。十一日戊戌、常平所(じょうへいしょ)の穀物を売り出した。二十七日甲寅、弘徽殿(こきでん)に僧を召して読経させ、諸寺で大般若経を転読させた(注:日本紀略・貞信公記による)。六月四日庚申、承明門(じょうめいもん)に虹が現れた(注:日本紀略・扶桑略記・貞信公記による)。二十三日己卯、再び承明門の太政官庁に虹が現れた(注:日本紀略・扶桑略記による。貞信公記は長楽門とする)。二十八日甲申、中務省(なかつかさしょう)で人馬の声がし、弘徽殿に鬼物(もののけ)が現れた(注:古今著聞集による)。秋七月二日丁亥、法皇(宇多法皇)のご病気が重くなった(注:貞信公記による)。三日戊子、鷺が太宰府の警固所に集まったことを占わせた。五日更寅、法皇のご病気のため、七寺で諷誦(ふじゅ、読経供養)を行わせた(注:日本紀略による)。七日壬辰、月が心宿(しんしゅく)を犯した(注:貞信公記による)。十九日甲辰、法皇が崩御した(注:日本紀略・扶桑略記・貞信公記による)。九月五日己丑、宇多天皇を葬った(注:日本紀略による。○案ずるに、扶桑略記・大鏡裏書は八日のこととするが、今、貞信公記・紀略を考証してこちらを是とし、これに従う)。九日癸巳、醍醐天皇の忌月にあたるため、重陽節(ちょうようのせち)を廃した(注:日本紀略による。年中行事が引く天暦四年の残菊会の詔による)。冬十一月甲申朔、日食があった(注:日本紀略・年中行事・貞信公記による)。二十八日辛亥、醍醐天皇の皇后を尊んで皇太后とした(注:日本紀略・大鏡裏書・一代要記による。○扶桑略記は四月二十六日とするが、誤りである)。この月、心喪(しんそう、服喪)のため大嘗祭(だいじょうさい)を停止した(注:貞信公記による)。十二月十日癸亥、天下に官符(かんぷ)を下し、農桑(のうそう、農業と養蚕)を勧め、耕作されていない田を開墾させた(注:政事要略による)。二十五日戊寅、初めて紫宸殿(ししんでん)に出て朝政をご覧になった。雅子内親王(まさこないしんのう)を斎宮(さいぐう)、婉子内親王(えんしないしんのう)を斎院(さいいん)に卜定(ぼくじょう、占いで選定)した(注:日本紀略・貞信公記による。雅子・婉子の名は紀略による)。この年、竹が枯れた(注:日本紀略・扶桑略記・皇年代略記による)。

二年壬辰、春正月二十五日丁未、地震があった(注:日本紀略による)。二十九日辛亥、鹿が承明門に入り込んだ。三月十三日乙未、諸社に幣帛を奉り、疫病を祓った(注:扶桑略記による)。二十一日癸卯、地震があった。夏四月癸丑朔、地震があった。十二日甲子、使いを京中に遣わし、病民に物を施した。十三日乙丑、諸社に幣帛を奉り、疫病を祓った(注:貞信公記による)。五月壬午朔、日食があった(注:貞信公記・日本紀略・扶桑略記による)。二十五日丙午、牛が官庁に入り、鼠が官印の朱肉入れをかじったことを占わせた。六月三日甲寅、狐が侍従所の納言の座に上った(注:扶桑略記による)。十六日丁卯、雨乞いをした(注:貞信公記による)。二十六日丁丑、地震があった。秋七月十九日己亥、詔して天皇の日常の食膳を四分の一減らした(注:日本紀略による)。八月四日癸丑、右大臣兼左近衛大将・藤原定方が薨じた(注:公卿補任・日本紀略・扶桑略記による)。十三日壬戌、日華門(にっかもん)の官庁に虹が現れた(注:貞信公記による)。二十五日甲戌、兵庫の倉町の間の倉が理由もなく倒れた(注:扶桑略記による)。己卯晦、大納言兼右近衛大将・藤原仲平が左近衛大将に転じ、大納言・藤原保忠(ふじわらのやすただ)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。九月三日壬午、穢(けがれ)のため御灯(みあかし)を停止した(注:山槐記の元暦元年の記事による)。二十日己亥、常陸太守(ひたちたいしゅ)・貞真親王(さだざねしんのう)が薨じた(注:貞信公記・一代要記・皇胤紹運録による)。二十二日辛丑、大神宝使(だいじんぽうし)を発した(注:貞信公記・日本紀略による)。冬十月二十五日癸酉、御禊(ごけい)を行った(注:貞信公記・日本紀略・扶桑略記による。○一代要記は二十三日とする)。十一月十三日辛卯、大嘗祭を行った(注:貞信公記・日本紀略による。○案ずるに、扶桑略記・一代要記・皇代記などの諸書は十六日とするが、誤りである)。十二月十九日丙寅、詔して再び天皇の日常の食膳を四分の一減らした(注:日本紀略による)。

三年癸巳、春正月戊寅朔、朝賀(ちょうが)を停止した(注:日本紀略による)。二十三日庚子、京中に盗賊が多かったため、諸衛に勅して番を結ばせ、毎夜巡察させた(注:日本紀略・扶桑略記による)。二月十三日己未、大納言・藤原仲平を右大臣とした(注:日本紀略・公卿補任による)。十六日壬辰、朱雀院(すざくいん)に行幸し、侍臣に歩射(ぶしゃ)を試みさせた(注:花鳥余情が引く李部王記による)。夏四月丁未朔、若狭国(わかさのくに)が四本足の雉(きじ)の雛を献上し(注:扶桑略記による)、これを大内山(おおうちやま)に放った(注:花鳥余情が引く李部王記による)。二十七日癸酉、京中の三十一の堂、および天下諸国で仁王会(にんのうえ)を修した(注:日本紀略による)。六月三日戊申、諸陵寮(しょりょうりょう)で火災があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十五日庚午、八十島祭(やそしままつり)を行った(注:日本紀略による)。秋七月十一日乙酉、これより先、犬が紫宸殿の版位(はんい)に矢を差したことがあり、これを兵革(戦乱)の兆しと占った。この日、東海道・山陽道の二道、および丹波・太宰府に官符を下し、神社に祈らせ、兵備を警戒させた。十三日丁亥、つむじ風が家屋を吹き飛ばした。これを西北・西南に兵乱が起こる兆しと占った。またこの旨を山陰道・山陽道・太宰府に符して伝えた(注:扶桑略記による)。この月、紫宸殿にたびたび怪異があったため、仁寿殿(じじゅうでん)で相撲をご覧になった(注:西宮記による)。冬十二月、南海道に海賊が起こった。十七日己未、諸国に警固使(けいごし)を遣わした(注:扶桑略記による)。

四年甲午、春正月十五日丙戌、天に雷のような音があった。二月五日乙亥、烏(からす)が官庁の梁の上に巣を作った。三月十一日辛亥、山城国(やましろのくに)が、頭が一つで身体が二つ、足が四本で尾が二つある鶏の雛を献上した(注:扶桑略記による)。二十六日丙寅、常寧殿(じょうねいでん)で皇太后の五十の御賀(ぎょが)を行った(注:日本紀略・扶桑略記による)。夏四月二十三日壬辰、諸社に幣帛を奉り、海賊の平定を祈った(注:扶桑略記による)。五月庚子朔、左京職(さきょうしき)に宣旨を下してこう述べた。「人民にとって肝要な生業は、機織りと糸紡ぎを根本とする。家々が豊かに足りるのは、まことにこの道による。しかし近ごろの民の風俗は、桑を栽培することに努めていない。養蚕はすでに乏しく、座して寒さに苦しんでいる。種まき・栽培のあり方を諸国に知らしめよ。京内に命じて、同じく木を植えさせるのがよい。それぞれの条(坊)ごとに牒(通達)を示し、あわせて保長(ほちょう)に命じよ。管轄の民を率い励まし、豊かな殖産に至らせよ。官人はこれを巡検し、たびたび勧め督励せよ。使いを遣わして実情を調べさせ、もし怠る者があれば保長を罰し、あわせて担当の役人にも罪を科せ。」(注:政事要略による)。九日戊申、使いを遣わして山陽道・南海道の二道の諸社に幣帛を奉り、賊の平定を祈った(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十七日丙寅、紫宸殿の東南に虹が現れた(注:日本紀略による)。秋七月二十六日甲子、兵庫允(ひょうごのじょう)・在原相安(ありわらのすけやす)を遣わして海賊を追捕させた(注:扶桑略記による)。九月戊戌朔、日食があった。冬十月十九日丙戌、地震があった。この日、東大寺の西塔に落雷し、火災となった(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十二日己丑、追捕海賊使(ついぶかいぞくし)を定めた(注:日本紀略による)。

五年乙未、春正月二十八日癸酉、弁官庁(べんかんちょう)に烏が巣を作り虹が現れたことを占わせた。十九日甲申、地震があった。二十日乙酉、また地震があった(注:扶桑略記による)。三月乙未朔、日食があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。六日庚子、延暦寺の根本中堂(こんぽんちゅうどう)で火災があった(注:日本紀略・扶桑略記による。○園太暦の康永四年の記事は五日とする)。夏四月四日戊辰、霜が降りた。七日辛未、地震があった(注:扶桑略記による)。十五日己卯、大きな地震があった(注:日本紀略による)。二十七日辛卯、諸社で雨乞いをした(注:扶桑略記による)。五月四日丁酉、百人の僧に大極殿で三日間大般若経を読ませ、雨乞いをした(注:日本紀略・扶桑略記による)。九日壬寅、東大寺の講堂の落慶を祝った(注:扶桑略記による)。六月二十八日辛卯、諸社に幣帛を奉り、海賊の平定を祈った(注:日本紀略による)。秋九月癸巳朔、左衛門府の官属が盗賊十三人を捕らえた。この月、烏が時刻を報じる籤(くじ)をくわえて去ったため、常寧殿で七日間不動法を修した(注:扶桑略記による)。冬十月七日戊辰、菊花の宴を催した(注:日本紀略・西宮記による)。この年、下総国(しもうさのくに)の人・平将門(たいらのまさかど)が、常陸大掾(ひたちのだいじょう)・平国香(たいらのくにか)を殺した(注:歴代皇紀・将門記による)。

六年丙申、春正月辛卯朔、雨のため朝賀を取りやめた。三月五日甲午、豊楽院(ぶらくいん)で大元法(だいげんぽう)を修し、海賊の厭除(えんじょ、まじないによる退散)を行った。十二日辛丑、再び治部省(じぶしょう)でこれを修した(注:日本紀略による)。夏六月、従四位下・紀叔人(きのすくひと)を伊予守(いよのかみ)とし(注:○略記では「守」を「大介」に作る)、海賊を追捕させたところ、賊の首領・小野氏彦(おののうじひこ)らは兵を率いて降伏した(注:日本紀略・扶桑略記による)。秋七月十四日庚子、大納言兼右近衛大将・藤原保忠が薨じた(注:日本紀略・公卿補任による)。八月十五日辛未、大納言・藤原恒佐(ふじわらのつねすけ)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任による)。軒廊(こんろう)で長雨について占わせた(注:北山抄が引く貞信公記による)。十九日乙亥、左大臣・忠平を太政大臣とし、摂政は元のままとした(注:日本紀略・公卿補任による)。九月十二日戊戌、徽子女王(きしじょおう)を斎宮に卜定した。十二月八日壬辰、宜陽殿(ぎようでん)で日本紀を講じさせた(注:日本紀略による)。この年、延暦寺に延命院(えんめいいん)を造った(注:叡岳要記による)。

七年丁酉、春正月二日乙卯、日食があった(注:日本紀略・西宮記・百錬抄の二条記による。○案ずるに、二日は日食にあたるはずがない。紀略が引くある記には、元日に日食があり、二日に宴会があった、とある。今、干支を推算すると、去年十二月は大尽(三十日)で甲寅が晦日にあたり、今年正月は乙卯朔となる。しかしここで「二日乙卯」とするのは、おそらく当時、元日の日食を忌んで、去年十二月を小尽(二十九日)とし、甲寅を今年正月の朔としたためであろう。今はあえて改めない)。四日丁巳、天皇は紫宸殿で元服(げんぷく)された(注:日本紀略・大鏡裏書による)。五日戊午、大極殿に出て朝賀を受けた(注:西宮記・日本紀略・扶桑略記による)。還御ののち、身分に応じて品物を賜った。七日庚申、紫宸殿に出御した。公卿が元服を祝う表を奉り、詔して人々に位階を賜った(注:日本紀略による)。二十二日乙亥、右大臣・藤原仲平を左大臣とし、大納言・藤原恒佐を右大臣とした(注:日本紀略・公卿補任による)。二月甲申朔、太宰府が白雉(はくち)を献上した。十九日壬寅、熙子女王(きしじょおう)を女御(にょうご)とした。三月甲寅朔、雪と雹が降った(注:日本紀略による)。壬午晦、中務卿(なかつかさきょう)・代明親王(よしあきらしんのう)が薨じた(注:日本紀略・李部王記による)。秋九月八日丁巳、勅して、諸司の官人で使いを奉じる者が、病により百二十日を過ぎても、そのまま滞留することを許した。理由なく参上しない者は、通常の規定に準じて解官(げかん)する。ただし親の病と称する者は、実情を調べたうえで斟酌して免ずる、とした(注:政事要略による)。この月、深紅色の使用禁止を重ねて申し渡した。冬十月十八日丁酉、大極殿の鴟尾(しび)に鷺が集まったことを占わせた。十一月、甲斐国(かいのくに)が「富士山が燃えている」と報告した(注:日本紀略による)。十二月十一日庚寅、伊勢大神宮に幣帛を奉った(注:北山抄、中右記の永久二年の記事による)。

天慶元年(てんぎょうがんねん)戊戌、春三月四日辛亥、闘鶏(とうけい)をご覧になった(注:日本紀略による)。夏四月十五日壬辰、大きな地震があった(注:日本紀略・扶桑略記による)。内膳司(ないぜんし)の建物が崩れ、四人が圧死した(注:日本紀略による)。これを占わせた(注:日本紀略・扶桑略記による)。この月の末まで、日々地震が続いた(注:日本紀略による)。五月二日戊申、天皇がご病気になった(注:日本紀略による)。五日辛亥、端午(たんご)の節会を停止した(注:西宮記による)。右大臣兼右近衛大将・藤原恒佐が薨じた(注:日本紀略・扶桑略記・公卿補任による)。二十二日戊辰、改元した(注:日本紀略・一代要記、山槐記の文治元年の記事、皇年代略記による。○愚管抄・扶桑略記は二十三日とする)。二十六日壬申、大雨が降り、河が溢れ地震があった。六月三日戊寅、また大きな地震があった。二十日乙未、また地震があり、鴨川(かもがわ)が溢れて民家の多くが壊れた(注:日本紀略による)。二十三日戊戌、中納言・藤原実頼(ふじわらのさねより)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・西宮記による)。秋七月三日戊申、神社・仏寺に仁王経を読ませ、地震を祓わせた(注:外記日記による)。二十七日壬申、諸社に幣帛と走馬(そうめ)を奉り、雨乞いをした(注:日本紀略による)。八月三日丁丑、大きな地震があった。六日庚辰、また大きな地震があった(注:山槐記の元暦二年の記事、外記日記による)。冬十月九日壬午、宇佐宮に幣帛を奉り、地震を祓った。二十一日甲午、地震がたびたびあった(注:日本紀略による)。十一月十二日乙卯、また地震があった(注:醍醐寺雑事記が引く李部王記による)。十二月六日己卯、大雪が降り、深さ一丈ほどに積もった(注:日本紀略による)。

二年己亥、春正月二日甲辰、春日(かすが)の神殿から鼓のような音がし、また鳴鏑(なりかぶら)の音がした。三月四日丙午、祭主に命じて坂東(ばんどう)の兵乱を祓わせ、六衛府(ろくえふ)の宿衛を厳重にするよう申し渡した。この月、太宰府は高麗(こうらい)の使者を追い返した。夏四月十七日戊子、出羽国(でわのくに)が「俘囚(ふしゅう)が反乱を起こした」と報告した。二十九日庚子、盗賊を捜索させた(注:日本紀略による)。五月十五日丙辰、諸社に幣帛を奉り、兵乱を祓った(注:日本紀略・外記日記による)。十九日庚申、十五大寺および諸社に命じて坂東の兵乱を祓わせた。六月二日壬申、丹生(にう)・貴布禰(きふね)の社に幣帛を奉り、雨乞いをした(注:外記日記による)。四日甲戌、星が昼間に現れた(注:日本紀略・外記日記による)。十二日壬午、諸社に幣帛を奉り雨乞いをした(注:外記日記による)。十五日乙酉、二時(ふたとき)ほどの間、虹が現れた(注:日本紀略による)。二十日庚寅、大極殿で読経させ、雨乞いをした(注:外記日記・西宮記による)。秋七月八日丁未、旱魃(かんばつ)を占わせた。九日戊申、十一社に幣帛を奉り、雨乞いをした(注:外記日記による)。十二日辛亥、十五大寺・延暦寺で三日間仁王経を読ませた(注:北山抄による)。十五日甲寅、延暦寺で五日間尊勝法(そんしょうほう)を修し、雨乞いをした(注:扶桑略記・北山抄による)。八月十一日己酉、尾張国(おわりのくに)が「盗賊が国守・共理(ともまさ、姓不詳)を射殺した」と報告した(注:日本紀略による。○共理の姓は欠けている)。この月、天皇がご病気になった。二十五日癸亥、諸寺で五日間修法を行い、天皇のご病気平癒を祈った。二十八日丙寅、地震があった(注:外記日記による)。九月二日庚午、京中の街路で、木を刻んで神の像とし、子供たちが群がり集まって、これを敬い拝んだ(注:扶桑略記による。○本書は丙午に作るが、今、干支から推算してこれを訂正した)。冬十月十日丁未、地震があった。十五日壬子・十八日乙卯、また地震があった(注:外記日記による)。二十三日庚申、六十人を得度させ、皇太后のご病気平癒を祈った(注:日本紀略による)。十一月十四日辛巳、天皇が初めて史記を読み始めた(注:日本紀略・外記日記による)。十五日壬午、神宝(しんぽう)を石清水(いわしみず)以下八社に奉り、走馬を行った。これは承平七年に皇太后のご病気平癒を祈った願を果たすものであった(注:外記日記による。○日本紀略には、神宝と走馬を七社に奉り、太后のご不例を祈った、とある)。二十一日戊子、平将門が反乱を起こした(注:扶桑略記・将門記による)。常陸介(ひたちのすけ)・藤原維幾(ふじわらのこれちか)を捕らえ、武蔵権守(むさしのごんのかみ)・興世王(おきよおう)がこれに呼応した(注:将門記による)。十二月十一日丁未、将門は下野国(しもつけのくに)を陥れた。十五日辛亥、上野国(こうずけのくに)を陥れた。この月、武蔵・相模を略取し、国守を脅して印鑰(いんやく、官印と倉の鍵)を奪った(注:扶桑略記・将門記による)。ついに自ら新皇(しんのう)と号し(注:将門記による)、都を建てて百官を置いた(注:扶桑略記・将門記による)。これより先、前伊予掾(さきのいよのじょう)・藤原純友(ふじわらのすみとも)は海賊を招き集め、南海道・山陽道の二道を劫掠(ごうりゃく)していたが、このころに至って将門に呼応した(注:外記日記・扶桑略記・古事談による)。ひそかに人を遣わして東西の京に放火させ、京中は騒然となった(注:扶桑略記・古事談による。○案ずるに、日本紀略の承平六年六月の記事には、純友が伊予国日振島(ひぶりしま)に屯聚(とんしゅう)し、官物・私財を略奪した、とある。同月壬戌の条には、また前伊予掾・藤原純友を海賊の首領とする、とある。外記日記の十二月二十一日の伊予国解(いよのくにげ)を考えると、前掾・藤原純友は承平六年に海賊追捕の宣旨を受けたが、近ごろ兵を率いて海に浮かぼうとし、国内が騒動している、とある。これによれば、承平六年にはまだ反乱していなかったのであり、この年に至って初めて反乱したのである。よってこれに従う)。二十六日壬戌、藤原純友は備前介(びぜんのすけ)・藤原子高(ふじわらのさねたか)、播磨介(はりまのすけ)・島田惟幹(しまだのこれもと)を捕らえた(注:日本紀略による。○案ずるに、本書には子高の姓が欠けているが、今は扶桑略記・外記日記によってこれを補った)。二十九日乙丑、信濃国に勅符を下し、兵を発して国境を守らせた。また東西の警固使を発した。この日、諸衛に警戒を命じ、三関(さんげん)を固めさせた(注:日本紀略・外記日記による)。この年、右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)・源俊(みなもとのしゅん)らを推問東国使(すいもんとうごくし)とした(注:外記日記による。推問東国使の名は日本紀略による。○本書には東国密告使とある)。

三年庚子、春正月丁卯朔、日食があった(注:百錬抄の二条記による)。腹赤(はらか)の奏を停止した(注:園太暦の貞和三年の記事による)。従四位上・藤原忠舒(ふじわらのただのぶ)を東海道追捕使、従五位下・小野維幹(おののこれもと)を東山道追捕使とした(注:日本紀略による)。六日壬申、叙位を停止し、天下の名神(みょうじん)の位を一階進め、音楽を止めた(注:日本紀略・西宮記による)。諸衛の次官以上に弓矢を帯びさせた(注:西宮記・北山抄、園太暦の貞和三年の記事による)。伊勢大神宮に使いを遣わし、賊の平定を祈らせた(注:日本紀略・北山抄による)。九日乙亥、逗留して進まなかったことを理由に、推問東国使・右衛門権佐・源俊らの官を奪った(注:日本紀略による)。十一日丁丑、東海道・東山道の二道に官符を下し、勇士を募った。賊の首領を殺した者には朱紫田(しゅしでん、位田)を賜って子孫に伝えさせ、次将以下を斬った者にはその功に応じて賞を与える、とした(注:扶桑略記による)。十三日己卯、諸社に幣帛を奉った(注:北山抄による)。十四日庚辰、追捕凶賊使(ついぶきょうぞくし)を任命した(注:日本紀略による)。十九日乙酉、参議・藤原忠文(ふじわらのただふみ)を征東大将軍とした(注:公卿補任・日本紀略による。「征東」は紀略、神皇正統記、職原抄による。○公卿補任・扶桑略記は「征夷」とするが、おそらく誤りである)。二十一日丁亥、参議・伴保平(とものやすひら)を遣わし、伊勢大神宮に幣帛を奉って賊乱の平定を祈らせた(注:伊勢公卿勅使例による)。二十二日戊子、延暦寺で二十一日間大威徳法(だいいとくほう)を修した(注:扶桑略記・古事談による)。二十四日庚寅、また美濃国(みののくに)の中山南神宮寺でこれを修した(注:扶桑略記による)。二十五日辛卯、遠江国(とおとうみのくに)・伊豆国が「賊が駿河国(するがのくに)の岫崎関(くきざきのせき)を破り、国分寺を掠め、官符使を捕らえた」と報告した(注:日本紀略による)。二月八日甲辰、紫宸殿に出御し、征東大将軍・藤原忠文に節刀(せっとう)を賜い、将門を討たせた(注:日本紀略・扶桑略記による)。二十二日戊午、綾綺殿(りょうきでん)で仁王会を修し、賊の平定を祈った(注:本朝文粋の呪願文による。○日本紀略は二十五日とする)。三月四日庚午、追捕海賊使を任命した。五日辛未、常陸掾(ひたちのじょう)・平貞盛(たいらのさだもり)、下野掾(しもつけのじょう)・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が「将門は誅に伏した」と報告した(注:日本紀略による。○諸書は二月十四日のこととするが、今は紀略に拠り、秀郷の奏上が届いた日とした)。九日乙亥、藤原秀郷・平貞盛らの功を賞し、それぞれの功に応じて官爵を進めた(注:日本紀略・扶桑略記による)。十八日甲申、藤原忠文が「藤原公雅(ふじわらのきんまさ)が興世王を誅した」と報告した。二十五日辛卯、上総介(かずさのすけ)・藤原滋茂(ふじわらのしげもち)は、将門に印鑰を奪われた責任を問われて任を停められた(注:日本紀略による)。夏四月丙申朔、国用(こくよう、国家財政)の逼迫を理由に、旬の宴を停止した(注:西宮記が引く九記による)。五月十五日庚辰、藤原忠文が京に帰った。二十一日丙戌、関を開いて厳戒を解いた。六月乙未朔、日食があった。秋八月二十日癸丑、石清水以下十二社に幣帛を奉り、南海の賊の平定を祈った。二十二日乙卯、近江国の兵士を徴発して海賊を討たせた。二十六日己未、讃岐国(さぬきのくに)・阿波国(あわのくに)が「賊が讃岐・伊予を掠め、備後国(びんごのくに)の船を焼いた」と報告した(注:日本紀略による)。讃岐介・藤原国風(ふじわらのくにかぜ)は淡路国(あわじのくに)に逃れた(注:扶桑略記・古事談による)。二十七日庚申、諸国の兵士を徴発し、警固使を分かち遣わした(注:日本紀略による)。尾張・参河(みかわ)・遠江の各十戸、および伊勢国の員弁郡(いなべぐん)を伊勢大神宮に奉り、賊の平定を報謝した(注:扶桑略記による)。二十八日辛酉、伊勢以下の諸社に幣帛を奉り、石清水に二十五戸を加封した。壬戌晦、延暦寺で五壇法(ごだんほう)を、法琳寺(ほうりんじ)で大元法を、初めて修した(注:日本紀略による)。この月、風雨のため穀物が実らず、民衆は大いに飢えた(注:扶桑略記による)。九月三日乙丑、石清水・賀茂上下社に幣帛を奉った(注:西宮記による)。十二日甲戌、狐が内印(ないいん)を納める櫃(ひつ)の鍵をくわえて去った。十五日丁丑、雉が外記局(げきのつぼね)の北の壇に入り込んだ。十七日己卯、日前国懸神(ひのくまくにかかすのかみ)の神殿の戸が鳴った。冬十月七日己亥、菊花の宴を催した。二十二日甲寅、安芸国(あきのくに)・周防国(すおうのくに)が「純友が太宰府を陥れた」と報告した。二十七日己未、相模国(さがみのくに)が「国分寺・定額寺(じょうがくじ)の仏像から汗が出た」と報告した。十一月二十日戊辰、周防国が「賊が鋳銭司(じゅせんし)を焼いた」と報告した(注:日本紀略による)。二十一日壬午、住吉(すみよし)の神宮寺で十四日間毘沙門天調伏法(びしゃもんてんちょうぶくほう)を修した(注:扶桑略記・帝王編年記による)。十二月七日戊戌、大雪が降り、深さ三尺に積もった。十九日庚戌、土佐国(とさのくに)が「賊が八多郡(はたぐん)を焼いた」と報告した(注:日本紀略による)。この月、出雲国(いずものくに)秋鹿郡(あいかぐん)の黒島(くろしま)が海に沈んだ(注:古今著聞集による)。右衛門権佐・源俊らの官を復した(注:外記日記による)。

四年辛丑、春三月、客星(かくせい、彗星のような一時的な星)が西方に現れ、その光は白い虹のようで、一か月ほど経って消えた(注:扶桑略記による)。夏五月十九日戊寅、征南海賊使・小野好古(おののよしふる)が「賊が太宰府を劫掠した」と奏上した。参議・藤原忠文を征西大将軍として、これを討たせた。六月二十四日癸丑、右近馬場(うこんのうまば)で近江・美濃・伊勢の兵を閲した。秋七月七日乙丑、これより先、伊予警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)が純友を捕らえてこれを誅していた(注:○本書は「橘」を「高階」とするが、今は扶桑略記・古事談に従う)。この日、その首が京師に伝えられた(注:日本紀略による。遠保を警固使と記すのは扶桑略記・外記日記・古事談による)。十六日甲戌、藤原慶子(ふじわらのよしこ)を女御とした(注:日本紀略・一代要記による)。この月、十六社に幣帛を奉った。七大寺・延暦寺・東西二寺で読経させ、雨乞いをした。諸国に官符を下し、豊作を祈らせた(注:北山抄による)。八月七日甲午、小野好古が京に帰った(注:日本紀略・外記日記による。○本書は甲子に作るが、今、干支から推算してこれを訂正した)。九日丙申、使いを遣わして石清水・賀茂に幣帛を奉り、純友の残党の平定を祈った。九月六日癸亥、追討凶賊使・源経基(みなもとのつねもと)が、賊の首魁・桑原生行(くわはらのなりゆき)を捕らえた。十五日壬申、太宰府が駅馬(えきば)を馳せて賊乱を奏上した。十九日丙子、備前国(びぜんのくに)が駅馬を馳せて、賊・藤原文元(ふじわらのふみもと)、三善文公(みよしのふみきみ)らの反乱を奏上した。二十二日己卯、播磨国(はりまのくに)が駅馬を馳せて、「三善文公を捕らえた」と奏上した(注:外記日記による)。二十五日壬午、版位(はんい)の制を定めた(注:外記日記・拾芥抄による)。冬十月二十六日壬子、但馬国(たじまのくに)が、賊・藤原文元らの首を京師に伝えた(注:外記日記による)。丙辰晦、太政大臣・忠平が摂政を辞した(注:外記日記・歴代皇紀・公卿補任・一代要記による。○愚管抄・摂関伝は二十日とする)。十一月八日甲子、忠平を関白とした(注:公卿補任・扶桑略記・帝王編年記・外記日記による。○日本紀略・愚管抄・一代要記は、いずれも二十八日とする)。二十九日乙酉、太宰府が捕虜とした佐伯是基(さえきのこれもと)、および桑原生行の首を京師に伝えた(注:外記日記による)。十二月二十九日甲寅、天下に大赦を行った(注:日本紀略による)。この年、豊作であった(注:扶桑略記による)。

五年壬寅、春三月十四日戊辰、公卿大夫、内外五位以上の官長、および秀才(しゅうさい)・明経(みょうぎょう)に及第した儒生に詔して、それぞれ封事(ふうじ、意見書)を奉らせ、時政の得失を述べさせた(注:日本紀略による)。十六日庚午、地震があった。十七日辛未、たびたび地震があった。十八日壬申、また地震があった。十九日癸酉、狐が御殿に上った。閏三月十八日辛丑、地震があった(注:外記日記による)。夏四月八日辛酉、神祇祐(じんぎのじょう)・大中臣正直(おおなかとみのまさなお)が白い烏を献上した(注:日本紀略による)。九日壬戌、使いを遣わし、東西の京の飢えた者・疫病にかかった者に銭を与えた(注:外記日記による)。十四日丁卯、伊勢大神宮に幣帛と神宝を奉った(注:日本紀略による。神宝については外記日記の宣命の文による。○外記日記は己卯に作るが誤りで、今、干支から推算して本書に従う)。二十七日庚辰、宇佐宮・香椎宮(かしいぐう)に幣帛を奉り(注:日本紀略による)、初めて石清水臨時祭(いわしみずりんじさい)を修した(注:扶桑略記、北山抄が引く李部王記、江家次第、年中行事による)。二十九日壬午、賀茂社に行幸し、神宝を奉り走馬を行い、賊の平定を報謝した(注:日本紀略による。○案ずるに、本書の二年四月二十五日の記事も同じことを記すが、これは誤りである)。賀茂行幸はこれに始まる(注:歴代皇記・愚管抄・濫觴抄・拾芥抄による)。五月十六日己亥、深紅色の使用禁止を重ねて申し渡した。六月二十一日癸酉、祇園社(ぎおんしゃ)に東遊(あずまあそび)と走馬を奉り、乱の平定を報謝した(注:○一代要記は二十五日とする)。秋八月十一日壬戌、大風が吹いて家屋を壊し木を倒した。九月八日己丑、宜陽殿で物が落ちるような音がした(注:日本紀略による)。冬十一月五日乙酉、伊勢大神宮に幣帛を奉った(注:日本紀略・西宮記による)。十五日乙未、出雲国が「新羅(しらぎ)の船七隻が隠岐(おき)に至った」と報告した(注:日本紀略による)。

六年癸卯、春三月四日壬午、太宰府が「壱岐島(いきのしま)で牝牛が、尾が二つ足が八本の犢(こうし)を生んだ」と報告した。十二日庚寅、穀倉院(こくそういん)で火災があった。十五日癸巳、京中に流言があり、物忌みして家に籠もる者が多かった(注:日本紀略による)。この春、竹に実がなった(注:東寺長者補任による)。夏四月戊申朔、日食があった(注:日本紀略・西宮記による)。二十日丁卯、宮中で孔雀経法(くじゃくきょうほう)を修した(注:東寺長者補任による)。二十二日己巳、官庁に白い物が現れ、踊りながら鳴いた。五月戊寅朔、地震があった。十七日甲午、百人の僧に大極殿で読経させ、雨乞いをした(注:日本紀略による)。二十七日甲辰、かつて廃された太后・藤原氏の位号を追って復した(注:日本紀略・本朝文粋による)。丙午晦、温明殿(うんめいでん)で蹴鞠(けまり)をご覧になった(注:西宮記が引く李部王記による)。この月、石清水・賀茂以下十一社に幣帛を奉り、豊作を祈った(注:北山抄による。豊作を祈ったことは公事根源による)。五龍祭(ごりゅうさい)を修した(注:北山抄による)。この夏、旱魃と疫病があった(注:東寺長者補任による)。秋七月九日乙酉、十一社に幣帛を奉り、雨乞いをした。二十六日壬寅、兵部卿(ひょうぶきょう)・元良親王(もとよししんのう)が薨じた。八月二日戊申、伊勢大神宮に幣帛を奉り、太宰府の四王寺(しおうじ)の鳴動を祓った(注:日本紀略による)。

七年甲辰、春正月二十八日辛丑、詔して意見を奉らせた。二月六日己酉、美濃介(みののすけ)・橘遠保が盗賊に殺された(注:日本紀略による)。夏四月九日辛亥、大納言・藤原実頼を右大臣とした(注:公卿補任・日本紀略・扶桑略記による)。二十二日甲子、皇弟・成明親王(なりあきらしんのう)を皇太弟に立て(注:日本紀略・扶桑略記による)、左大臣・藤原仲平を傅(ふ、教育役)とした(注:公卿補任による)。秋七月二十日庚寅、羽蟻(はあり)が北野(きたの)に群がり起こった。九月庚午の朝、日食があった(注:日本紀略による)。この日、左近衛府で火災があった(注:北山抄による)。二日辛未、天下に大風が吹いた(注:扶桑略記による。○案ずるに、本書は三日とするが、今は干支に拠り、日本紀略に従う)。京中の公私の家屋の多くが壊れた(注:日本紀略・扶桑略記による)。信濃国庁(しなののくにちょう)が壊れた(注:扶桑略記による)。国守・紀文幹(きのふみもと)が圧死した(注:日本紀略・扶桑略記による)。十一日庚辰、大雨が降り河が溢れた(注:日本紀略による)。この月、十五大寺、および供養のある諸寺に命じて般若経を転読させ、晴天を祈らせた(注:北山抄による)。冬十月六日乙巳、狐の群れが左近衛の陣に入り込んだ(注:日本紀略による)。十一月九日戊寅、四品(しほん)・常明親王(つねあきらしんのう)が薨じた(注:日本紀略・一代要記による)。

八年乙巳、春三月、天皇がご病気になった。夏五月二十日乙卯、七寺で諷誦を修し、平癒を祈った(注:日本紀略による)。秋七月二十六日庚申、太宰府が「呉越(ごえつ)の人百人が肥前国(ひぜんのくに)松浦郡(まつらぐん)の栢島(かやしま)に着いた」と報告した。これより先、民間に「志多羅神(しだらのかみ)が京に入る」という流言があり、これに至って人民数百人が神輿を奉じて摂津国(せっつのくに)豊島郡(てしまぐん)に至り、夜通し歌舞した(注:外記日記による)。二十七日辛酉、大風雨があった(注:西宮記による)。八月三日丙寅、石清水の三綱(さんごう、寺院の役僧)らが「神輿が摂津国島上郡(しまかみぐん)より至った。庶民が幣帛を奉り、歌舞して取り囲む者は数千万人にのぼった」と報告した(注:外記日記による)。五日戊辰、宣陽門(せんようもん)・建秋門(けんしゅうもん)で人馬の声がした。十日癸酉、紫宸殿の庭に馬の足跡、鬼物の足跡が見つかった(注:古今著聞集による)。九月甲午朔、左大臣兼皇太弟傅・左近衛大将・藤原仲平が辞任した。五日戊戌、前左大臣・藤原仲平が薨じた(注:公卿補任・日本紀略・外記日記による)。冬十月癸巳晦、石清水で最勝王経(さいしょうおうきょう)の長講(ちょうこう)を修し、往年の賊の平定を報謝した(注:日本紀略による)。二十九日壬辰、省試(しょうし、官吏登用試験)を行った。十一月甲午朔、暦(こよみ)を奏上した。物忌(ものいみ)のため御殿に出なかった(注:外記日記による)。二十五日戊午、右大臣兼右近衛大将・藤原実頼が左近衛大将に転じ、大納言・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)が右近衛大将を兼ねた(注:公卿補任・一代要記による)。十二月七日己巳、天変を理由に、徒罪(ずざい)以下の罪を許した(注:日本紀略による)。

九年丙午、春正月二十一日癸丑、内宴(ないえん)を停止した。二月壬戌朔、日食があった。八日己巳、地震があった。二十五日丙戌、大風があった(注:日本紀略による)。夏四月二十日庚辰、天皇は皇太弟に位を譲った(注:日本紀略・大鏡裏書・毘沙門堂所蔵記・帝王編年記による。○公卿補任・愚管抄・栄花物語、および紀略・編年記の一説は十三日とする。扶桑略記・一代要記の一説は、いずれも十九日とする)。天皇は謙り、太上天皇の尊号を受けなかった。村上帝が固く請うたので、これを聞き入れた。七月、朱雀院に移り住み、たびたび嵯峨(さが)・醍醐・大井河(おおいがわ)・宇治(うじ)・東山(ひがしやま)に行幸し、芹河野(せりかわの)・栗隈野(くりくまの)で遊猟した。あるときは文人を召して詩酒の歓を楽しみ、あるときは別宮に出て騎射(きしゃ)をご覧になった(注:日本紀略による)。

天暦元年三月、去る年の兵乱で多くの人が死亡したことから、仏画を描き経を写した(注:本朝文粋による)。延暦寺で千僧供(せんそうく)を修した。二年八月、東二条院(ひがしのにじょういん)に移り住んだ。

三年四月、また興福寺で千僧供を修した。十一月、再び朱雀院に移り住んだ(注:日本紀略による)。

六年三月、髪を剃って出家した(注:醍醐寺雑事記が引く帝皇系図、扶桑略記、大鏡裏書による)。法名を仏陀寿(ぶっだじゅ)といった(注:扶桑略記・大鏡裏書・李部王記による)。四月、仁和寺(にんなじ)の本院に移った(注:李部王記による)。八月十五日戊戌、崩御した。御年30歳(注:大鏡裏書・扶桑略記による)。遺詔により、葬司(そうし)の任命と山陵の造営を停止させた(注:扶桑略記による。葬司の任命を停止したことは北山抄による)。先例では、跡を継ぐ帝が大行天皇(たいこうてんのう、先帝)の子でなければ大赦を行わないものであったが、このときは特に文徳太子(もんとくたいし)の例を用いて、天下に大赦を行った(注:李部王記による)。北野(きたの)の来定寺(らいじょうじ)で火葬し(注:大鏡裏書・一代要記、醍醐寺雑事記が引く帝皇系図による。○扶桑略記は愛宕郡(おたぎぐん)の山とする。帝王編年記の一説は法性寺(ほっしょうじ)の東、中尾の南原とする)、御骨を後山階陵(のちのやましなのみささぎ)のかたわらに納めた(注:帝皇系図・扶桑略記・一代要記・大鏡裏書による)。国忌は置かず、荷前(のさき)の使いの列にも加えなかった(注:扶桑略記による。荷前の列に加えなかったことは北山抄による)。朱雀院と称した。

天皇の政治は寛仁(かんじん、寛容で仁愛深いこと)を旨としており、議者の中にはこれを寛大に過ぎると評する者もあった。藤原忠平がかつて落ち着いた様子でこれを奏上したところ、天皇はこう仰せられた。「朕はこれを先帝(醍醐天皇)から聞いている。公(忠平)の先人(藤原基経)はかつてこう言ったという。『政治は琴の弦を張るようなものだ。太い弦を強く張りすぎれば、細い弦が切れてしまう。』朕がもし厳しく引き締めれば、下々の民はどうして堪えられようか。」(注:古事談による)