卷之一百三十一 列傳第五十八
藤原良房、藤原基經、藤原仲平、藤原忠平ほか
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
藤原良房
¶藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、左大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ)の次男である。(注:大鏡)風采や人柄が人並み外れて優れており、二十歳前後で選ばれて嵯峨天皇の皇女である源潔姫(みなもとのきよひめ)を妻とした。(注:文徳実録)天長年間、蔵人に任じられ、従五位下を授けられ、(注:公卿補任)次第に昇進して左近衛権中将となり、従四位下に進んだ。承和年間には参議に任じられて従三位に叙せられ、権中納言に転じ、陸奥・出羽の按察使を兼ねた。まもなく右近衛大将を兼ね、大納言に転じて民部卿を兼任した。兼職を辞したいと上表したが許されなかった。嘉祥元年、右大臣に任じられた。これを辞退し、重ねて上表したが聞き入れられなかった。また封戸の半分を減らしてほしいと上表したが、これも許されなかった。翌年、従二位に叙せられた。(注:続日本後紀)仁寿・斉衡年間に正二位に進み、左近衛大将を兼ねる地位に転じ、(注:文徳実録)国史の監修にあたった。(注:続日本後紀序・文徳実録)天安元年、太政大臣に任じられた。固く辞退して三度上表したが認められず、天皇は宝剣一対を賜って「あなたはこの剣を身に着け、朕の切なる思いに応えてほしい。蕭何(しょうか)だけに漢(かん)の朝廷での栄誉を独占させてはならない」と述べた。安車(あんしゃ、貴人用の車)を賜って参内するよう命じたが、固辞して受けなかった。さらに加増された封戸・職田・資人・帯刀などを辞退する上表をしたところ、これは許された。まもなく従一位に進んだ。(注:文徳実録)清和天皇が即位すると、帯刀の資人三十人を賜った。(注:公卿補任・大鏡裏書)貞観の初め、俸禄を減らし資人・帯刀を辞退したいと願い出て、許された。封戸は左右大臣に准じる額とされた。五年、内裏で宴を賜り、六十歳の賀を祝った折には、賜り物はすべて六の数にちなむ品とされた。翌年、天皇が染殿(そめどの)の花亭に行幸した際、良房は文人を召して詩を作らせ、一日中宴を楽しんだ。また御射場では天皇が自ら矢を射て的の中心に命中させ、群臣は万歳を唱えた。良房は天皇に農作業の苦労を知ってもらいたいと考え、山城国司の紀今守(きのいまもり)に郡司・百姓らを率いさせて田を耕す儀礼を行わせた。八年、政務全般を代行するよう勅命が下った。(注:大鏡はこの年を関白就任としているが、これは誤りである)良房は上表して固く辞退した。天皇は「近頃は災異が相次ぎ、内外が騒然としている。ぜひあなたの補佐を頼みたい」との勅を下し、辞退を許さなかった。(注:三代実録)十一年、『続日本後紀』を撰上した。(注:本書序)これより先、太政大臣には封戸三千戸が与えられ、随身の資人も賜る定めであったが、良房はその地位に就いても分不相応であるとして固辞し、千戸のみを受けた。十三年、重ねて勅が下り、「封戸を三千戸増やし、三宮に准じる待遇として年官を与え、(注:公卿補任・大鏡裏書は清和天皇の即位に際して良房が三宮に准じられ年官・年爵を与えられたとするが、本書には明文がないためこの説は採らない)内舎人二人、左右近衛各六人を随兵として与え、さらに帯仗の資人三十人を給する」とされた。良房はまた上表してこれを辞退したが、認められなかった。固く辞退した末に二千戸を受けることとし、天皇は禁中に良房のための直廬(じきろ、控えの間)を設けるよう命じた。十四年、病が重くなった。天皇は次のような詔を下した。「皇統の教えを汲み、帝王の系譜を陶冶するにあたり、厚恩を施して盛徳を崇めず、格別の恩恵を下して大きな功に報いなかった例はない。朕の外祖父にあたる太政大臣藤原朝臣は、三代にわたる功績が高く、位は最高位を極めている。その仁徳は九州(国内全土)を覆ってなお余りあり、その恩恵は千里に及んでも尽きることがない。朕が襁褓(むつき)の頃より今日に至るまで、朕を顧み守り助けてくれた勤めを言えば、周公旦(しゅうこうたん)や漢の光武帝(こうぶてい)でさえこれに並べることはできない。朕はこの報いようのない功に対し、並外れた恩寵を加えたいと考えている。しかし彼の至って謙虚な性分を知るゆえ、あえて口に出しては言わず、いくらかでも爵位と封戸を加えることで万分の一に報いようとしてきた。それでもなお彼の謙譲の思いはますます深く切実であり、その心情に感じ入り、逆らうに忍びない。朕の願いは、彼の謙譲の誠に支えられて、その長寿の福を増し、末永く生きて朕を導いてくれることにある。南山に寄りかかり平原に座すがごとく安泰であってほしいので、自分の思いを抑えて彼の意志に従い、その志を奪わないできたが、天下の人々が朕を恩を知らぬ者と見なすのではと恐れている。しかるに今、彼は私邸に伏せって久しく、玉や幣帛を捧げて祈祷を重ねてもいまだ効き目がない。朕はこの病を我が事のように案じ、寝食も安まらず、心は思い焦がれるばかりである。言葉とともに涙があふれ、彼を救い回復させる方法を深く考え、できる限りのことを尽くしたいと思う。仏典によれば、人を得度させ仏道に帰依させる功徳は、人の危うい命を救うことができるという。また先王の徳政では、訴訟を審議して刑を緩め、老人を憐れみ孤児を養ったという。この仁愛の恩恵を施し、朕の篤い思いに応えたい。たとえ病が膏肓(こうこう、治療の及ばぬ深い所)に入っていても、鍼や薬が効くことを願う。得度する者八十人を賜るべきである。また天下に大赦を行い、その病を救おう。」九月、東一条第(ひがしいちじょうてい)で薨去した。(注:三代実録。東一条第については日本紀略による)享年六十九。(注:大鏡裏書・公卿補任・日本紀略)天皇はこれを悼んで三日間朝政を停止した。(注:公卿補任・日本紀略)正一位を追贈され、美濃公(みののこう)に封じられ、忠仁(ちゅうじん)と諡された。食封・資人は生前と同様のまま据え置かれた。基経(もとつね)は良房の遺命であるとして食封を辞退する旨を上表した。そこで勅により位封・国封が与えられ、その愛宕(おたぎ)の墓は荷前(のさき、朝廷から幣帛を奉る対象)の例幣を列する数に加えられた。(注:三代実録)世に染殿大臣、あるいは白河殿と称された。(注:公卿補任・大鏡)元慶年間、墓を守る家一戸を置くよう詔が下った。(注:三代実録)
¶娘の明子(あきらけいこ)は、源潔姫の産んだ子である。文徳天皇の後宮に入り、清和天皇を生んだ。天皇は生後九か月で皇太子に立てられた。文徳天皇はもともと惟喬親王(これたかしんのう)を寵愛しており、東宮(清和天皇)がまだ幼いことから、先に惟喬親王を立て、成長を待って位を譲ろうと考えていた。しかしためらって決めかねているうちに(注:大鏡裏書)天皇が崩御し、良房が幼い天皇を補佐して即位させ、朝政を統括した。清和天皇はもともと良房の邸で養育されており、即位してからも旧恩を思い、終始変わらず良房を重んじ厚く遇した。良房は前後十五年にわたって政務全般を代行し、人臣として位を極め、権勢はその一族に帰した。(注:三代実録による)子孫が相次いで摂政・関白となり、藤原氏の隆盛は実にここに基礎を置くものである。(注:大鏡)良房には実子がなく、兄長良(ながら)の子である基経を後継とした。(注:藤原系図・簾中抄)
藤原基經
¶藤原基経(ふじわらのもとつね)は、幼名を手古(てこ)といった。(注:大鏡裏書)仁寿元年、東宮の内寝で元服し、天皇が自ら臨席した。(注:公卿補任・尊卑分脈、いずれも『家伝』を引く)正六位上に叙せられた。(注:文徳実録)斉衡・天安の頃、左兵衛少尉・少納言・左近衛権少将を歴任し、蔵人頭に任じられた。貞観年間、中将に転じ、参議となった。(注:三代実録。左兵衛少尉・蔵人頭については公卿補任による)伴善男(とものよしお)が源信(みなもとのまこと)を讒言した際、藤原良相(よしみ)がこれを信じ、基経に命じて信を捕らえさせようとした。基経はこれに陰謀があるとにらみ、良房に知らせた。良房が全力で救ったため、信はついに罪を免れることができた。(注:大鏡裏書)この年、従三位に進み、中納言に任じられた。(注:三代実録)翌年、特に勅により左近衛中将を兼ねた。(注:公卿補任)まもなく大将に昇進し、陸奥・出羽の按察使を兼ねた。十二年、大納言に転じ、従二位に叙せられた。十四年、右大臣に任じられた。陽成天皇が即位した際、まだ幼少であったため、基経に摂政を務めさせた。忠仁公(ちゅうじんこう、良房)の先例にならったものである。元慶元年、大将を辞した。天皇は大納言南淵年名(みなぶちのとしな)に上表文を持たせ、太上天皇に奏上させた。太上天皇は「政務全般の委任を一つの官職に限ることはできない。その願いを聞き入れるべきである。しかし腰まわりが急に空になり、武備が欠けてしまう。特に帯剣を賜り、儀容を厳かにされたい」との勅を下し、金銀で装飾した宝剣一振りを取り出して年名に授けた。天皇はその日のうちにこれを基経に賜り、大将の辞任を認めた。秋、旱魃を理由に摂政の辞退を願い出たが、丁重な詔により許されなかった。二年、正二位に叙せられ、随身の兵仗を賜った。蝦夷が辺境を騒がせていることを理由に再び辞退を願ったが、これも許されなかった。四年、太政大臣に任じられた。(注:公卿補任・愚管抄・大鏡裏書・一代要記はいずれも十一月八日に基経が摂政から関白に改まったとするが、ここでは『三代実録』に関白の文言が見えないことから、この説を採らない)翌年、従一位に叙せられ、自邸に退いた。重ねて辞職を上表したが許されなかった。この頃、公務が滞ることがあり、公卿たちが相談して、弁官の長を基経の直廬に遣わして裁可を仰ぐこととし、後にこれが慣例となった。天皇が元服すると、基経は政務を返上したいと上表したが聞き入れられず、かえって職封・職田・資人・雑俸を増やされたので、これを辞退した。特に勅により人事を任せ爵位を授ける権限を与えられ、三宮に准じる待遇とされた。忠仁公の先例にならったものである。(注:三代実録)天皇がやや成長すると、次第に常軌を逸した振る舞いが目立つようになり、宮中に厩を作って馬三十匹を飼い、これを北辺院と呼んだ。(注:三代実録。『将談抄』も参照)右馬少允(うまのしょうじょう)小野清如(おののきよゆき)は馬の飼育に長けていたため寵愛を受けた。権少属(ごんのしょうさかん)紀正直(きのまさなお)は道術を好んで宮中に出入りし、蔭子(おんし)の藤原公門(きんかど)は階下に仕えて常に使い走りをさせられた。中でも清如の不法な振る舞いが最も甚だしかったため、基経はことごとく彼らを追放した。(注:三代実録)それでも天皇の行いは改まらず、蛙や蛇を捕らえたり、犬猿を闘わせたり、人を木に登らせては打ち殺したりした。(注:世継物語)祈年祭の前に人を手にかけて斬るということまであり、(注:三代実録)基経は深く憂慮し、天皇を廃して別の人物を立てようと考えた。廃太子となっていた恒貞親王(つねさだしんのう)は以前から賢明な行いで知られており、基経は内心この人を立てたいと考えて、それとなく意向を示した。しかし恒貞親王はこれを拒んで受け入れなかった。(注:恒貞親王伝残編)そこで他の皇子を探したが、適任者がいなかった。(注:古事談・世継物語)かつて時康親王(ときやすしんのう)が良房邸の大饗に赴いた際、給仕の者が誤って身分の低い者の食事を取り違えて親王の前に出してしまったことがあった。親王は顔色ひとつ変えず、燭を消してその場を取り繕った。基経はたまたまこれを見て、その度量の大きさに深く感じ入り、以来ずっと目をかけていた。(注:大鏡)そこで時康親王の邸を訪ねて面会を求めたところ、しばらくして親王が出てきて対応した。その立ち居振る舞いは落ち着いており、身なりも質素で、静かに「何用あって参られたか」と尋ねた。基経はこれこそ人君たる器量の持ち主だと確信し、(注:世継物語。古事談も参照)天皇として推戴したい意向を伝えた。親王はこれを承諾し、日を定めて帰った。基経は宮中に入り、天皇に対しては「私が競馬を催しますので、ご覧いただきたく存じます」と偽って奏上した。天皇は喜んで「それはいつか」と尋ね、基経は「二日後です」と答えた。(注:世継物語)大方針はすでに定まっていたが、公卿たちを集めて事情を告げたところ、議論が紛糾した。左大臣源融(みなもとのとおる)は「皇族の血筋を求めるならば、融らがまだ健在である」と述べた。基経は「もっともなことだ。しかし古来、臣籍に降下して姓を賜った者が天位に登った例はない」と答えた。(注:大鏡・古事談)参議藤原諸葛(もろかず)は剣に手をかけて叱咤し、「今日のことは太政大臣の処分に従わぬ者は斬る」と言い放ち、議論はようやく決着した。(注:玉海承安二年)当日になり、事情を知らない老いた家臣を陽成天皇の供に付けて陽成院に至らせ、「陛下は乱暴で、天子としての徳に欠けるところがおありです。私どもは国家のために、ここで御位をお譲りいただきます」と奏上した。天皇はこれを聞いて大いに驚き、悲しみ悔やんで泣き叫んだ。基経は百官を率いて時康親王を迎え立てた。これが光孝天皇(こうこうてんのう)である。(注:世継物語)天皇は即位すると、基経が策を定めた功績を思い、いっそう手厚く礼遇した。輦車(れんしゃ)に乗ったまま宮中に出入りすることを許した。また諸道の博士に太政大臣の職掌について調べ奏上させた。基経はますます謙譲の姿勢を強め、たびたび辞職を願い出た。天皇は特に勅を下し、政務は従来通り基経にまず伺いを立ててから奏上する定めとした。基経はさらに源融・源多(まさる)に自分の代わりに政務を執らせたいと願い出たが、許されなかった。(注:三代実録)仁和元年、年中行事を屏風絵にして天皇に献上した。(注:年中行事抄)摂津の為奈野(いなの)を狩猟地として賜った。この年、節会において列に並ばず直接昇殿することを許され、また内裏の殿舎で宴を賜った。五十歳の賀に際しては夜通し音楽を奏でさせ、馬五匹、冬夏の衣各五領、寝具、屏風を賜り、また五十人を得度させた。(注:三代実録)天皇には多くの皇子がいたが、基経を憚って誰を立てるかを口にしなかった。三年、天皇が病に伏すと、基経は寝所に入って「陛下が万一のことになられた後、皇位は誰にお譲りになりますか」と尋ねた。天皇は「ただあなたの選ぶところに任せる」と答えた。基経は「私の見るところ、王侍従(おうじじゅう)殿こそふさわしいでしょう」と答えた。王侍従とは定省(さだみ)のことである。天皇は大いに喜んで定省を呼び、右手で定省の手を、左手で基経の手を取り、涙を流しながら「大臣の功労はこの上なく大きい。お前は決して忘れてはならぬ」と言った。(注:愚管抄)基経は退出すると百官を率いて上表し、皇太子を立てるよう求めた。こうして定省が皇太子に立てられた。天皇が崩御すると、(注:三代実録)皇太子が即位した。これが宇多天皇(うだてんのう)である。即位のその日、手ずから詔を書いて先帝の遺志を伝え、基経の輔佐の功をたたえた。(注:扶桑略記)まもなく百官に「政務の大小を問わず、すべて関白太政大臣に諮ってから奏上せよ」との詔が下った。(注:政事要略・扶桑略記・愚管抄)これはすべて先例に倣ったものである。(注:政事要略・愚管抄)「関白」の称はここに始まる。基経は上表して政務の返上を願い出たが、許されなかった。詔には「社稷(しゃしょく、国家)に仕える臣は、朕一人の臣ではない。阿衡(あこう)の任をもって卿の任とせよ」とあった。この詔は左大弁橘広相(たちばなのひろみ)の筆になるものである。当時、「阿衡の任」という言葉の意味が疑問視され、議論が紛糾した。(注:政事要略・扶桑略記)藤原佐世(すけよ)はかねてより基経に「阿衡には定まった職掌がありません。それでどうして政務全般を関白することができましょうか」と説いており、そのため基経は太政官の上奏文に目を通そうとしなくなった。(注:○十訓抄には、ある者が基経に「あなたは政務をお辞めになるのですか。阿衡は位こそ高いが政務には関与しないものです」と告げたところ、基経は「それならば私はただ人に尋ねるだけでよい。それを何に用いようか」と言い、厩の馬を放させたとある。参考までに付記する)この一件が知られると、天皇は諸博士に阿衡の職掌を調べさせた。(注:北山抄)中原月雄(なかはらのつきお)・善淵愛成(よしぶちのちかなり)らはみな「阿衡とは三公(さんこう)のことであり、座して道を説くだけの官である」と答えた。基経は次のように奏上した。「国家の政務は一日として万事あります。しかし去年八月から今日に至るまで、太政官が申し上げるべき政務についてまだ何も奏上しておりません。私は去年十一月二十一日の詔書に『政務の大小を問わず私に関白させる』とあるのを謹んで承りましたが、上表して辞退し、あえてお引き受けしませんでした。また同年閏十一月二十七日の勅旨に『阿衡の任をもってあなたの任とせよ』とあるのを承りましたが、私はいまだ阿衡の任がいかなるものか分からず、長らく疑問を抱いております。伝え聞くところによれば、左大臣が明経博士らに調べさせたところ『阿衡の任には定まった職掌がないはずである。定まった職掌がないからこそ、阿衡が貴いのだ』ということです。私にはとても務まるものではありません。そもそも定まった職務がないというのであれば、それは奇しくも私の願うところと合致いたします。どうか早く政務を執奏する官にお命じになり、政務が滞ることのないようになさってください。」そこで紀長谷雄(きのはせお)・三善清行(みよしのきよゆき)が佐世とともに官制の沿革を論じ、「殷代の阿衡は、すなわち周代の三公にあたる。三公に定まった職掌がないことは経書や史書に明文があり、もはや疑う余地はない」と述べた。天皇は広相・佐世・月雄に朝廷で議論させ、左大臣源融に裁定させた。佐世は先の主張を固持しようとし、融はあいまいな態度で決着をつけることができなかった。折しも真夏の盛りで、天皇はすっかり倦み疲れてしまった。公卿たちは基経を憚り、みな病と称して退出してしまった。政務の滞りが長く続いたため、諸官司は不安を募らせた。天皇は源融を基経の邸に遣わし、先の詔の通りに政務を執るよう求めさせたが、基経は「阿衡の職掌についてはまだ議論が決着しておりません。私はその明詔をお受けすることができません」と答えた。融がこれを奏上すると、天皇は不満を示した。融は「太政大臣が長らく政務を執られないのは憂うべきことです。どうか後の詔の文言を改めてください。さもなくば思いがけない事態が起こる恐れがあります」と述べた。天皇はやむを得ず、百官に次のような詔を宣した。「太政大臣は先帝を擁立し、朕の身を守り助けてくれた。その功徳の大きさは周公や霍光(かくこう)をはるかに超えるものである。歴代の聖明な天子でさえ、なおその補佐を仰いだ。まして朕のような未熟な者が、どうして頼らずにいられようか。そこで去年、政務を関白するようにとの詔を下したが、大臣は上表して固く辞退の意志を示した。朕は政務を従来通り大臣に関白してほしいと望んだが、左大弁橘広相が詔を起草した際、朕の本意を損なう文言となってしまい、そのため大臣に疑いを抱かせ、政務を執ろうとしなくなってしまった。天下の政務はすべて滞ってしまった。今後は、奏上すべきこと、下達すべきことは、必ずまず太政大臣に相談してから行うこととする。朕は手をこまねいて、その成果を仰ぐこととしよう。」菅原道真(すがわらのみちざね)もまた書状を送って基経を説き諭した。基経はついにこの詔を受け入れた。(注:政事要略)寛平元年、腰輿(ようよ、手で担ぐ輿)に乗ることを許された。(注:公卿補任。『歴代皇紀』は腰輿を輦車とするが、これは誤りである)二年、病にかかり、天皇が見舞おうとしたが、固く辞退して思いとどまらせた。病が重篤になると、辞職を願い出た。天皇は丁重な詔でこれを許し、得度者を賜り、罪人を赦免して病気平癒を祈らせた。(注:菅家文草)翌年、薨去した。享年五十六。天皇は三日間朝政を停止した。正一位を追贈され、越前公(えちぜんのこう)に封じられ、昭宣(しょうせん)と諡された。(注:公卿補任)食封・資人は生前と同様のまま据え置かれ、(注:愚管抄・歴代皇紀)墓を守る家一戸が置かれ、荷前の例幣を列する数に加えられた。(注:延喜式)
¶基経は在職中、細やかで慎み深く、神仏に恭しく仕えた。災異があるたびにたびたび政務の返上を願い出て、それが許されないと、身を慎んで職務に励み、天の戒めに応えようとした。清和天皇の時代には政務全般を統括し、国益の増進に努めた。役人は職務に忠実で、人々はその恩恵に浴した。朝廷は無事平穏で、内外は粛然としていた。儒学を篤く尊び、釈奠(せきてん、孔子を祀る儀式)の日には公卿とともに先聖を拝し、明経博士に『周易』を講じさせた。(注:三代実録)元慶年間、勅を奉じて『文徳実録』十巻を撰した。(注:本書序)秋田城司の良岑近(よしみねのちかし)は貪欲で、際限なく民から搾り取っていたため、蝦夷が反乱を起こし、北辺が騒然となった。基経はこれを憂慮し、右中弁藤原保則(やすのり)を推挙して出羽権守を兼ねさせ、辺境の統治を委ねたところ、ついにこれを鎮定することができた。しかし保則は結局恩賞にあずかることがなく、良岑近もまた罷免されることはなかったため、当時の人々は基経の賞罰の与え方が適切さを欠いていると批判した。(注:三善清行が撰した『藤原保則伝』)基経はかつて内裏の宴に侍った際、たまたま清和天皇から賜った御衣を着用していた。当時、天皇はすでに譲位して水尾(みずのお)に隠棲していたが、基経はこれにちなんで「酔いながら西山を望めば仙駕(せんが、天皇の御輿)は遠く、微臣は旧恩の衣に涙を落とす」との詩を詠んだ。これを聞いた者は皆感じ入った。(注:江談抄)基経が幼い頃、仁明天皇(にんみょうてんのう)に従って芹河(せりかわ)に行幸した際、天皇はうっかり箏(そう)の爪を落としてしまった。供の者は大勢いたが、天皇は基経の利発さを見込んで彼を呼び、「お前ならきっと見つけられるだろう。戻って探してきなさい」と命じた。基経はどうすればよいか途方に暮れながらも、心の中で「もしこれを見つけることができたなら、一つの寺院を建てよう」と誓った。果たして爪を見つけて献上した。天皇は大いに恥じ入り、これがきっかけとなって極楽寺(ごくらくじ)を創建した。(注:大鏡。裏書も参照)基経は初め枇杷第(びわてい)に住み、(注:三代実録)後に堀河院(ほりかわいん)と閑院(かんいん)の二つの邸を行き来した。堀河院は敷地が広々としていたため、大規模な饗宴はここで行われた。物忌みや親しい者を招く際には閑院を用いた。世に堀河大臣(ほりかわのおとど)と称された。(注:大鏡)子に時平(ときひら)・仲平(なかひら)・兼平(かねひら)・忠平(ただひら)がいる。(注:大鏡裏書)時平については別に伝がある。兼平は宮内卿となり、琵琶の名手であったため世に琵琶宮内卿(びわのくないきょう)と称された。(注:尊卑分脈)
藤原仲平
¶藤原仲平(ふじわらのなかひら)。仲平は仁和三年、正五位に叙せられ、次第に昇進した。延喜八年、参議に任じられた。十七年、中納言となった。延長年間、大納言に転じ、右近衛大将を兼ねた。承平年間、左近衛大将を兼ねる地位に転じた。まもなく右大臣に任じられ、従二位に叙せられ、蔵人所別当を兼ねた。(注:公卿補任)七年、右大臣に転じ、大将はもとのままとした。天慶二年、節会において列に並ばず直接昇殿することを許され、輦車に乗って宮門を出入りすることを許された。数年後、正二位に進み、東宮傅(とうぐうのふ)を兼ねた。八年、剃髪して静覚(じょうかく)と改名した。享年七十一で薨去した。(注:公卿補任・日本紀略。改名については公卿補任による)枇杷第に住んだため、世に枇杷大臣(びわのおとど)と称された。(注:公卿補任・大鏡)財力に富み、蔵が建ち並んで邸宅の敷地の四分の三を占めるほどであった。(注:江談抄)しかし性格は温厚で人柄がよく、人々はみな彼を称賛した。かつて左大将であった頃、天文をつかさどる役所が星の異変を奏上し、その咎は大将にあるとされた。右大将実頼(さねより)はこれを嫌がって祓いを行おうとした。ある者がこれを仲平に告げ、祓いを行うよう勧めたところ、仲平は「それは咎を他人に押し付けて自分だけ免れようとするものだ。実頼は年若く才能もあり、朝廷に仕える日もまだ長い。私は老いており、生きていても世のために益することはなく、死んだところで何の損もない」と答えた。これを聞いた人々は皆感嘆した。(注:今昔物語)
藤原忠平
¶藤原忠平(ふじわらのただひら)は、幼い頃から聡明であった。基経が極楽寺を建てようとしてその土地を見て回った際、忠平が供をしており、ある場所を指して「大人(たいじん、父上)が仏閣をお建てになるなら、ここに勝る場所はありません」と言った。基経がその場所を見ると、まさに地形が絶景であったため、「これはお前が後日邸を営むための土地としよう。私にはすでに別に定めた場所がある」と言った。これ以来、基経は忠平を非凡な人物だと見なすようになった。(注:大鏡)寛平年間、正五位下に叙せられ、侍従に任じられて肥後権守を兼ねた。昌泰三年、参議を授けられた。叔父の右兵衛督清経(きよつね)に譲りたいと上表したため、右大弁となった。延喜の初め、参議に任じられ、春宮大夫・左兵衛督を兼ね、検非違使別当に補された。まもなく従三位に叙せられ、権中納言に任じられて蔵人所別当に補され、右近衛大将を兼ねた。数年後、大納言に転じ、左近衛大将を兼ねる地位に移った。十四年、右大臣に任じられた。(注:公卿補任)十九年、邸で宴を賜り、四十歳の賀を祝った。(注:日本紀略)延長二年、正二位に叙せられ、左大臣に転じた。翌年、東宮傅を兼ねた。(注:公卿補任)かつて兄の時平が『延喜格式』の編纂にあたっていたが、完成を見ないまま薨去した。忠平がこれを引き継いで完成させ、(注:愚管抄)格十二巻、式五十巻を奉った。(注:日本紀略・延喜式)朱雀天皇が即位すると、忠平に政務全般の代行を命じる詔が下った。(注:日本紀略・公卿補任)基経の薨去後は摂政・関白が置かれていなかったが、この時、天皇がまだ幼かったため、改めて置かれることとなった。(注:神皇正統記)忠平は重ねて辞退を上表したが認められず、随身の兵仗、内舎人二人、左右近衛各四人を賜った。承平二年、従一位に叙せられ、牛車に乗ったまま上東門を出入りすることを許された。六年、太政大臣に任じられ、摂政はもとのままとした。(注:公卿補任)天慶二年、三宮に准じる待遇とされた。忠仁公の先例にならったものである。輦車に乗ることを許された。この年、六十歳になったことから、六つの寺に「経を読誦して長寿を祈願せよ」との勅が下された。太政官の官人たち、および延暦寺・興福寺などの諸寺もまたこれを執り行った。(注:日本紀略)四年、摂政を辞めて関白となった。(注:一代要記・攝関伝)「政務の大小を問わず関白太政大臣に諮ってから奏上せよ。仁和の先例の通りとする」との詔が宣せられた。七年、病にかかった。得度者五十人を賜った。(注:公卿補任・日本紀略)村上天皇が即位すると、辞職を願い出たが許されなかった。(注:本朝文粋)天暦三年、致仕(ちし、引退)を願う上表をした。(注:九暦・日本紀略)天皇は右近衛中将良岑義方(よしみねのよしかた)を邸に遣わして翻意を促し、辞職を許さなかった。(注:公卿補任・日本紀略)まもなく病が重くなり、天皇はこれを憂えて蔵人頭藤原有相(ありすけ)を遣わし、得度者五十人を賜った。忠平は「昔から人臣が病により得度者を賜るのは、みな国家に功績のあった者に限られ、しかもその数は一人二人にすぎません。私は近年しばしば病に苦しみ、職務を滞らせております。それなのに今、このうえない恩恵を蒙り、何と申し上げてよいか分かりません」と謝辞を述べた。また十六の寺に読経して祈願させる勅が下された。(注:九暦)病はいよいよ重くなり、再び致仕を願う上表をした。(注:九暦・日本紀略)天皇は右近衛中将源雅信(まさのぶ)を遣わして諭させ、辞職を許さなかった。(注:日本紀略)得度者三十人を賜り、天下に大赦を行った。八月、小一条第(こいちじょうてい)で薨去した。(注:九暦・日本紀略。小一条第については日本紀略による)享年七十。(注:日本紀略・栄花物語)世に小一条太政大臣(こいちじょうのだいじょうだいじん)と称された。(注:大鏡)天皇はこれを深く悲しみ、三日間朝政を停止した。法性寺(ほっしょうじ)に葬られ、大納言源清蔭(きよかげ)、中納言藤原元方(もとかた)、参議源庶明(これあきら)を遣わして正一位を追贈し、信濃公(しなののこう)に封じ、貞信(ていしん)と諡し、荷前の例幣を列する数に加えるよう勅した。(注:日本紀略)忠平は寛容で情け深く、その薨去に際しては朝廷内外を問わず惜しまぬ者はなかった。(注:栄花物語)
¶兄の時平・仲平とともに、三人そろって高位の官職に登ったことから、当時の人々は彼らを三平(さんぺい)と呼んだ。(注:大鏡)かつて醍醐天皇が宮中に人相見を召し、皇太子および左右大臣の人相を占わせたことがあった。人相見は文献(ふみのり)太子を見て「容貌が美しすぎます」と言い、時平を見て「知恵が働きすぎます」と言い、道真(みちざね)を見て「才能が高すぎます。いずれも完全な幸福を得る人相ではありません」と言った。このとき忠平は末席にいたが、人相見は座を見回して遠くから彼を指し示し、「精神・才能・容貌のいずれをとっても調和がとれ、吉相でないところがありません。長く朝廷に仕え、栄華と高い地位を保つのは、この方をおいて他にいないでしょう」と言った。宇多法皇はかねてより忠平の風格を高く評価しており、この人相見の言葉を聞いてますます彼を重んじ、自らの娘である頎子女王(きしじょおう)を忠平に嫁がせた。(注:古事談。○大鏡には、高麗から来た人相見がいて、忠平と二人の兄がこれに会ったとあり、人相見の言った内容もおおむねこれと同じで、実際は同じ出来事であるが、伝わり方が異なっている。ここでは両方を採らずにおく)天暦年間、忠平の二人の子である実頼(さねより)・師輔(もろすけ)がそれぞれ左右大臣となり、父子が同時に三公に並び立ち、その栄華と顕達ぶりは世に比類のないものであった。(注:栄花物語)忠平はかねてより菅原道真と親しく、道真が左遷された後も音信を絶やすことはなかった。兄時平との確執を理由に道真を疎んじることもなかった。その度量の広さはこのようであった。(注:愚管抄)邸のそばに宗像神社(むなかたじんじゃ)があり、忠平は行き来する際には必ず車を降りて敬意を示した。ある夜、神が人に憑いて「私の位は低く、たびたびあなたが敬意を示して身をかがめられるのは、実に恐れ多く堪えられません」と告げた。忠平はこれを受けて神の位を正一位に昇叙するよう奏上した。(注:大鏡)
¶子には実頼・師輔・師保(もろやす)・師氏(もろうじ)・師尹(もろただ)がいる。(注:尊卑分脈。○本書では師保・師輔の順で記しているが、ここでは公卿補任によって訂正した)実頼・師輔については別に伝がある。師保は従五位下であった。(注:尊卑分脈)師氏は正三位大納言に至り、世に桃園(ももぞの)と称された。(注:公卿補任・尊卑分脈)和歌を好み、家集を『海士手古良(あまのてこら)』といった。(注:八雲御抄)師尹は左大臣正二位に至り、薨去後に正一位を追贈され、(注:公卿補任)世に小一条左大臣(こいちじょうのさだいじん)と称された。(注:大鏡・栄花物語)子に済時(なりとき)がいる。(注:藤原系図)
藤原濟時
¶藤原済時(ふじわらのなりとき)は、康保年間、右中弁に任じられ、蔵人頭に補された。安和の初め、右近衛中将となり、従三位に叙せられ、まもなく右兵衛督となって参議に任じられた。天延三年、権中納言に任じられた。貞元二年、藤原兼家(かねいえ)に代わって右近衛大将を兼ねた。永延・正暦年間、大納言に任じられ、左近衛大将を兼ねる地位に移り、まもなく陸奥・出羽の按察使を兼ね、正二位に至った。(注:公卿補任)世に小一条大将(こいちじょうのだいしょう)と称された。(注:大鏡・公卿補任)長徳元年、薨去した。享年五十五。(注:公卿補任・小右記)藤原忠輔(ただすけ)は空を仰ぐ癖があり、済時はこれをからかって「天の様子に何か変わったことでもあるのか」と言った。忠輔はすかさず「星が大将を犯しております」と答えた。済時はこれを不快に思った。まもなく病に伏し、そのまま亡くなってしまった。かつて三条天皇がまだ皇太子であった頃、済時の娘娍子(せいし)を妃に迎えることになった。その宣下の日、済時は輦車を許してもらいたいと望み、関白兼家のもとを訪れてその意向を伝えた。兼家は「承知した。あなたのために奏請しよう」と答えた。済時は大いに喜び、望みは必ず叶うものと思い込み、拝舞して退出した。しかし輦車を許す宣旨はついに下らなかった。当時の人々は済時を「空拝大将(からはいのだいしょう)」と呼んだが、これは彼の邸の庭に紅梅(こうばい)の木があったことにかけて、「空拝」と「紅梅」の音が近いことをからかったものである。(注:江談抄。○紅梅と空拝は音が似ている)後に娍子が皇后に立てられると、済時には太政大臣が追贈された。(注:大鏡・栄花物語)