卷之一百廿五 列傳第五十二

橘清友、橘氏公、橘岑繼、安倍兄雄ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次10
  1. 橘清友
  2. 橘氏公
  3. 橘岑繼
  4. 安倍兄雄
  5. 藤原長岡
  6. 藤原大津
  7. 藤原衛
  8. 藤原助
  9. 藤原松影
  10. 藤原諸葛

橘清友

橘清友(たちばなのきよとも)は、奈良麻呂(ならのまろ)の次男である。(注:『橘氏系図』による。)幼い頃から落ち着いて思慮深く、書物や記録を広く読みふけった。耳の長さは六尺二寸もあり、眉と目は絵に描いたように整い、立ち居振る舞いはたいそう優雅であった。宝亀年間、高麗(こま)からの使節が来朝した際、清友は名門の子弟で容姿が立派なことから選ばれ、来朝した使者の応対にあたった。使者の史都蒙(しとぼう)は人相占いに長けており、通事舎人(通訳官)の山於野上(やまのうえののがみ)に「あの若者は何者か」と尋ねた。野上は「都の一介の若者に過ぎません」と答えた。都蒙は「この者は骨相が並外れており、子孫は大いに栄えるだろう」と言った。野上がその寿命の長短を尋ねると、都蒙は「三十二歳に厄がある。それを過ぎれば無事であろう」と答えた。

延暦五年(786年)、内舎人(うどねり)となり(注:『文徳実録』による)、正五位下に叙せられた(注:『日本紀略』による)。延暦八年(789年)、病により卒去した。享年三十二。清友は田口氏を妻に迎え、檀林皇后(だんりんこうごう)を生んだ。子孫は貴顕の身分に至り、まさに都蒙の言葉のとおりとなった(注:『文徳実録』による)。弘仁年間、従三位を追贈された(注:『日本紀略』による)。

仁明天皇(にんみょうてんのう)は即位に際し、次のように詔した。「盛んな徳は消え失せることなく、必ずさらなる栄誉を加えるべきであり、輝かしい功績は世に照らされ、尊号を定める制度によって受け継がれるべきである。それゆえ祖先を敬い尊ぶことは、昔から立派な典籍にも示されており、遠い先祖を追慕し弔うことは、時代を隔てても絶えることがない。朕の外祖父である従三位橘朝臣は、名門の家柄から身を起こし、高い位に上った。外祖母である従三位田口氏は、優れた家に生まれ育ち、その誉れは大いに広まった。しかし運命は移ろい、既に世を去って久しい。朕は徳の薄い身でありながら大業を継ぎ、過ぎ去った日々を偲べば、その清らかな人柄が今も遠く思い起こされる。そこで先例に照らし、手厚い礼を尽くすべきであると考える。外祖父と外祖母には、共に正一位を贈るべきである。山城国相楽郡の挊山墓、河内国交野郡の小山墓には、それぞれ守冢の戸を一戸ずつ置くこととする。」(注:『続日本後紀』による)承和六年(839年)、太政大臣を追贈された(注:『日本紀略』による)。承和八年(841年)、相楽郡の山四町を墓地として与えられた。子に氏公(うじきみ)がいる。

橘氏公

橘氏公(たちばなのうじきみ)は、皇后の弟であることから、次々と要職を歴任した。承和十一年(844年)、右大臣に任じられ、従二位に叙せられた。まもなく上表して食封千戸を辞退することを願い出ると、帝は書を賜ってこれを許した。そこで氏公は病を理由に自邸に退いた。承和十四年(847年)、薨去した。享年六十五(注:『続日本後紀』による)。世に井手右大臣(いでのうだいじん)と称された(注:『公卿補任』による)。帝は勅使を遣わして詔を宣べさせ、従一位を追贈し、参議の滋野貞主(しげののさだぬし)と治部大輔の房世王(ふさよおう)らを遣わして葬儀を監督させた(注:『続日本後紀』による)。子に岑継(みねつぐ)がいる。

橘岑繼

橘岑継(たちばなのみねつぐ)は、身の丈六尺余り、生まれつき穏やかでおおらかな性質であった。若い頃は愚鈍で、学問を好まなかった。母が仁明天皇の乳母であった縁で東宮の邸に仕え、次第に寵愛を受けるようになった。帝はかつて嘆いて言った。「岑継は大臣の子孫であり、国の近しい親戚である。もし才知があれば、公卿の位も望めるであろうに、なぜこれほどまでに学問を怠るのか。」岑継はこれを聞いて恥じ入り、行いを改めて学問に励み、師について学び、おおよそ音義(注:漢籍の読み方や意味)に通じるようになった。天長年間、内舎人となり、次第に昇進して右近衛少将に至った。当時、父の氏公が近衛府の大将を兼ねていたため、これを避けて左兵衛佐に転じ、まもなく左近衛少将に遷った(注:『三代実録』による)。承和年間、伊勢国壱志郡の空き地百三十町を賜った(注:『続日本後紀』による)。斉衡年間、正三位中納言にまで至った。貞観二年(860年)、薨去した。享年五十七(注:『三代実録』による)。

清友の弟の清野(きよの)は、生まれつき質素で欲が少なく、交野に隠棲していた。太皇太后の叔父であることから、天長年間、従四位上を授けられ、八十歳で没した(注:『類聚国史』による)。

安倍兄雄

安倍兄雄(あべのえお)は、従五位上安倍粳虫(あべのうるちむし)の孫である。父は道守(みちもり)といった。兄雄は延暦の末、従五位下を授けられ、少納言、中衛少将を歴任した。大同年間、従四位下に叙せられ、大膳大夫に遷り、近江守を兼ね、山陽道観察使となった。准参議、右京大夫に任じられ、右兵衛督、近衛中将を兼任し、東山道観察使となり、正四位下に叙せられて、畿内観察使に遷り、在官のまま卒去した。兄雄は性格が明るく実直で、節操を曲げない気概があり、才は文武にわたった。歴任した官職ではいずれも公平で清廉であると評された。伊予親王(いよしんのう)が廃された際、帝はまさに激怒し、群臣の誰もあえて諫める者がなかったが、兄雄だけは断固として争った。結局は聞き入れられなかったが、当時の世論はこれを立派だとした(注:『公卿補任』による)。

藤原長岡

藤原長岡(ふじわらのながおか)は、右大臣藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)の第六子である。武芸に最も優れ、歩兵・騎兵として仕えた。大同年間、陸奥大掾に任じられ、左兵衛少尉に遷った。弘仁年間、出羽・駿河・播磨の介を歴任した。天長・承和の頃、山城守に任じられ、治部大輔、宮内大輔、木工頭を歴任し、右衛門佐を兼ね、右馬頭に遷り、越前守に任じられたが、任地ではいずれも清廉有能と評判であった。再び山城守に任じられたが、病により職を退いた。まもなく大和守に任じられたが、老齢を理由に固辞した。しかし許されず、従四位上に叙せられた。任期が満ちると、宇智郡に隠棲した。嘉祥二年(849年)、卒去した。享年六十四(注:『続日本後紀』による)。弟に大津(おおつ)がいる(注:『尊卑分脈』による)。

藤原大津

藤原大津(ふじわらのおおつ)は、体格は小柄であったが、気概は誰にも屈することがなく、また弓馬の術に優れていた。十八歳で大舎人允となり、常陸大掾に任じられ、その後右近衛将監として朝廷に入った。天長年間、従五位下に叙せられ、備後守となり、善政を敷いたため、民はその徳を歌に詠んで慕った。数年後、大監物となり、散位頭に遷った。承和年間、左馬助、信濃守を歴任し(注:『文徳実録』による)、神祇大副となった。伴健岑(とものこわみね)らが謀反を起こした際、大津は宇治橋を守った。事件が収まると、陸奥守となった(注:『続日本後紀』による)。まだ任地に赴かないうちに左衛門佐に転じ、伊予守に任じられた。在任すること一年余りで、国内は豊作となり、百姓は豊かになった。仁寿年間、備前守に遷り、正五位下にまで至った。斉衡元年(854年)、卒去した。享年六十三(注:『尊卑分脈』による)。子の良継(よしつぐ)には別に伝がある。弟に衛(まもる)がいる(注:『尊卑分脈』による)。

藤原衛

藤原衛(ふじわらのまもる)は、二歳で母を亡くした。五歳になった頃、そのことを尋ねて知り、悲しみ慕う様子は人の心を打った。内麻呂はこれを非凡だと見て、嫡子に立てた。七歳で学問を始めた。文章生の試験を受けて及第したのは十八歳のときで、当時の人々は彼を漢の賈誼(かぎ)になぞらえた。中判事となり、大学助に遷った。弘仁の末、従五位下に叙せられ、遠江守となった。政治は寛容で落ち着いており、百姓は喜んでこれを慕った。天長年間、朝廷はその治績を高く評価し、従五位上を授け、次々と昇進して木工頭、右少弁、式部少輔を歴任した。不法を行う者があれば必ずこれを糾弾し、身分の高い者や親族であっても容赦しなかったので、時の帝も大いにその器量を認めた。承和の初め、大輔に転じ、伊予守を兼ねた。その後、太宰大弐となったが、上表して次のように辞退を願い出た。

「尚書の召しを受け、私を鎮西(太宰府)の大弐に任じるとのことです。剣の壁を越えるには汗を流し、弱水を渡るには心を寒からしめると申しますが、私に比べればそれもまだ譬えるに足りません。私は聞いております。『楡や枋の木にとまる小鳥には、大風に乗って高く舞い上がる勢いはなく、烏や鳥をさばく者に、牛を解体するほどの技はいらない』と。すなわち、大小の分は生まれつきの資質によって定まり、軽重の用は人の行いによって明らかになるものです。私は出仕して以来、二十余年になりますが、たびたび良い時運に恵まれ、いくつかの地方官を務めてきたとはいえ、都の役所では小さな職務を担い、地方に出ても取るに足らぬ小国を治めてきたに過ぎません。そのようなささやかな地でさえ、昔ながらのやり方で治めることを恥じてきました。まして辺境の要地を任されるには、必ず国家の威光にふさわしい人物でなければなりません。それなのに、私のような軽輩の者に、誤ってこの重要な選任を下されようとしています。心を尽くし、外にあって職務を果たそうとしても、それは蚊や虻が丘や山を背負うようなもので、いつになれば功績を上げられましょうか。富と地位は、誰もが望むものです。私とて、この世に輝く栄誉をどうして辞退できましょうか。ただ恐れますのは、朝廷の御用が空しくなることが、今のような明るい御代から始まってしまうことです。どうして陰で謗られることなど気にかけましょうか、それは人の口にのぼるだけのことです。どうかしばらくの間、わずかな威光を差し控えていただき、私のこの真心をよくお察しくださいますように。」

しかし許されなかった。これより先、朝廷が管轄する北国の二島(注:壱岐・対馬)の医師や博士は、太宰府自らが任じるものであった。しかし名目と実質が一致せず、無駄に俸禄を費やしていた。衛は次のように奏上した。「博士は経典を学び授業を行う職であり、医師は薬を調合して治療にあたる官です。学問と医術とでは優劣の差こそあれ、事の急を要するかどうかに違いはありません。なぜなら、一夜の命は、正しい処方を得られれば生き永らえますが、百年の身も、施術を誤れば天寿を全うできなくなるからです。かの飛鳥の葺草(注:傷を癒す薬草の故事)や、香を流して魂を呼び戻す術(注:反魂香の故事)の逸話が示すように、これは世の中で最も急を要することであります。しかし今、太宰府が任じ置いている医師らは、必ずしも適任の者ではありません。名ばかりでその地位にあり、三種の薬さえ十分に知らず、十回治療しても一つも効き目がなく、ついには病人を失望させるに至っています。これが朝廷の本来の趣旨でありましょうか。どうか特別に朝廷の選考によって任命し、この弊風を改めていただきたく存じます。」この上奏は聞き入れられた。これ以降、典薬寮の学生は初めて正式な修業を経て道を修めるようになった(注:『文徳実録』による)。

また、衛は四か条の意見を上奏した。その一は、「新羅の朝貢は、その由来が古くからあります。しかし聖武天皇の御代以来、当代に至るまで、旧例に従わず、常に不穏な心を抱いて貢物を怠っています。商売にかこつけて我が国の様子をうかがっているのです。今、民は困窮し食糧も乏しい有様であり、もし不測の事態が起これば、どうしてこれを防げましょうか。願わくは新羅人の入国を一切禁じ、我が国に入れないようにしていただきたい。」

その二は、「交替の任務が終わっても、解由(げゆ、注:離任証明書)を得られない者があります。五位の者たちは、言葉巧みに符旨にかこつけて管内に留まり続け、農業や商売を営んでは百姓から利益をむさぼっています。巧みに不正な利益をたくらみ、いまだ納めるべき物を納めていません。願わくは交替の任務が終わり次第、速やかに都に上らせていただきたい。」

その三は、「太宰府には多くの官舎がありますが、破損しているものが少なくありません。従来は浪人(注:任地に留まる無位無官の者)を用いて、常に修理にあたらせてきました。しかし近年は多く官符によって他の用途に充てられています。願わくは一切他の用途に回さず、太宰府と国衙にこれを修理させていただきたい。」

その四は、「辺境の要地は、警戒を要する土地であります。延暦年間、特別に規則を定めて、新たに田を開くことを許しませんでした。しかし近年はかなり開墾が行われています。願わくは延暦三年四月二十六日の官符に従い、一切これを停止していただきたい。」

いずれも許可された(注:『続日本後紀』による)。任期が満ちて都に帰った。嘉祥年間、端午の節句に、帝は武徳殿に出御し、渤海(ぼっかい)からの使者に宴を賜った。弁舌に優れた侍臣を厳選したところ、衛がその選に入った。続命縷(しょくめいる、注:端午に身につける魔除けの糸)を賜ってこれを身につけると、使者はその立派な立ち居振る舞いに感嘆した。まもなく弾正大弼となり、王侯貴族もみなこれを畏れはばかった。仁寿・斉衡の頃、勘解由長官に遷り、加賀守を兼ね、正四位下右京大夫にまで至った。天安元年(857年)、卒去した。享年五十九。弟に助(たすく)がいる(注:『文徳実録』による)。

藤原助

藤原助(ふじわらのたすく)は、若い頃から大学に学び、史伝の書をかなり広く読んだ。弘仁の末、少判事を歴任し、大学助となった。都と地方の官を歴任した。承和年間、参議に任じられ、治部卿に遷り、左兵衛督となった。正四位下に叙せられた。性格は清廉で正直、悪口や評判を気にすることがなかったので、朝廷の臣たちはこれを恐れ憚った。仁寿三年(853年)、卒去した。享年五十五(注:『文徳実録』による)。

藤原松影

藤原松影(ふじわらのまつかげ)は、父を星雄(ほしお)といい、刑部少輔、従五位下であった。松影は人柄が厳格で正しく、眉と髭は絵に描いたように整っていた。出仕して内舎人に補された。天長年間、式部大丞に遷った。当時、東宮の官人には評判の高い人材が厳選されており、松影はその威風が世に聞こえていたため、抜擢されて少進となった。まもなく再び式部大丞に戻った。ある朝会の日、源常(みなもとのときわ)が勅命により剣を帯びていたが、式部省の役人が詔の内容を知らぬまま詰問したため、常は恥じ入って退出した。帝はこれを聞いて大いに怒り、式部省の官人を責めて、松影を左遷して弾正少忠とした。承和年間、遣唐使の判官となり、山城権介を兼ねた。母が老いていることを理由に判官を辞退し、再び式部大丞となり、その後丹波介として都を離れた。まもなくまた式部大丞となり、従五位下を授けられ、左少弁に任じられ、次々と中務、治部少輔、出雲・山城などの守を歴任した。斉衡二年(855年)、卒去した。享年五十七。松影は四度式部の職に就き、故事にきわめて通じており、その立ち居振る舞いや礼儀作法は生まれつき身についたものであった。後に式部の官についた者は、みな彼を手本とした(注:『文徳実録』による)。

藤原諸葛

藤原諸葛(ふじわらのもろかつ)は、右大臣藤原三守(ふじわらのみつもり)の孫である。父の有統(ありむね)は侍従従五位下であった。諸葛は承和年間、但馬介となり、蔵人に補された(注:『公卿補任』による)。仁寿・斉衡の頃、従五位下を授けられ、加賀権介となった(注:『文徳実録』『公卿補任』による)。貞観年間、中務少輔、少納言、兵部大輔(注:『三代実録』による)、蔵人頭を歴任した(注:『公卿補任』による)。左近衛権中将となった。元慶年間、参議に任じられ、まもなく右衛門督を兼ね、正四位下に叙せられた(注:『三代実録』による)。

太政大臣藤原基経(ふじわらのもとつね)が陽成天皇(ようぜいてんのう)を廃そうとした際、公卿たちが集まってこれを議した。居並ぶ公卿たちは互いに顔を見合わせるばかりで、あえて発言する者がなかった。諸葛は目を怒らせ剣に手をかけて、「今日のことは、太政大臣の処分に従うべきである。あえてこれに逆らう者があれば斬る」と言った。これによって議論は決着した(注:『玉海』承安二年の条による)。寛平三年(891年)、従三位に叙せられ、中納言に任じられた。寛平七年(895年)、上表して致仕を願い出た。この年、薨去した。享年七十(注:『公卿補任』による)。

子の玄上(はるかみ)は(注:『公卿補任』による)、和歌を得意とし(注:『尊卑分脈』による)、琵琶を弾くことに優れていた(注:『江談抄』『尊卑分脈』による)。延喜年間、参議従三位にまで至り、刑部卿を兼ねた(注:『公卿補任』による)。