卷之一百廿七 列傳第五十四

滋野貞主、小野岑守、藤原三守、藤原有貞ほか

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次10
  1. 滋野貞主
  2. 小野岑守
  3. 藤原三守
  4. 藤原有貞
  5. 安倍安仁
  6. 安倍興行
  7. 藤原吉野
  8. 藤原良近
  9. 朝野鹿取
  10. 藤原良繩

滋野貞主

滋野貞主(しげののさだぬし)は、尾張守(おわりのかみ)であった家訳(いえわけ)の子である。大同の初め、文章生(もんじょうしょう)の試験に合格した。弘仁年間には大内記(だいないき)となり、外従五位下(げじゅごいのげ)に叙せられ、図書頭(ずしょのかみ)に移り、東宮学士(とうぐうがくし)を務めた。天長年間には従五位上(じゅごいのじょう)に叙せられ、勅命を受けて諸学者とともに古今の文書を分類してまとめ、あわせて千巻、『秘府略(ひふりゃく)』と名づけた(注:『文徳実録』による。従五位上への叙位は『類聚国史』『公卿補任』による)。また『経国集(けいこくしゅう)』二十巻を撰して奏上した(注:『経国集』序による)。仁明天皇(にんみょうてんのう)の即位後は内蔵頭(くらのかみ)・宮内大輔(くないのたいふ)を務めた。承和年間には兵部大輔(ひょうぶのたいふ)・弾正大弼(だんじょうのだいひつ)を歴任し、従四位上に叙せられ、大蔵卿(おおくらきょう)となり讃岐守(さぬきのかみ)を兼ねた。式部大輔(しきぶのたいふ)に移り、参議に任じられ、勘解由使(かげゆし)の長官となった(注:『続日本後紀』による)。まもなく時宜にかなう十四か条を上奏したが、その文章の多くは伝わっていない。嘉祥の初め、尾張守を兼任した。当時、太宰府(だざいふ)の官吏には不良の者が多く、政務の衰えが日に日にひどくなっていた。貞主は上表して次のように述べた。「そもそも太宰府は西の果ての大国であり、西国全体の中心である。東は長門(ながと)を関門とし、西は新羅(しらぎ)を防ぐ要である。加えて九国二島は郡県が広大で遠く隔たっており、昔から今に至るまで重要な鎮めの地とされてきた。ものごとをなすにはまず先例に則り、政治を行うには古人の言葉を参考にすべきである。旧記を調べると、唐(とう)・高麗(こま)・新羅・百済(くだら)・任那(みまな)などは、みなこの地を頼って初めて入朝することができた。ある者は貢物を献じるため、ある者は帰化の志を抱いて来たのであり、まさに諸外国の集まる要衝、国の内外を結ぶ関門と言うべきところである。それゆえ、徳のある者を帥弐(そちに)とし、才能のある者を監典(かんてん)としてきた。適任者がいない場合は弁官(べんかん)や式部省から選んで任じてきたが、近年はこれが絶えて行われていない。近ごろ聞いたところでは、『かの官吏たちは、目をつぶり口をつぐんで世を避けるような態度をとる者もあれば、恥を忘れて財をむさぼり収奪にふける者もいる。府の役人も国司も皆これを嘆き悲しんでいる。もしこのまま改まらなければ、取り返しのつかないことになりかねない』という。私はこの話を聞いて、心が乱れ落ち着かなかった。この噂が必ずしも事実だという確証はないが、臣下としての道理として、どうして前もって憂えずにいられようか。また聞くところでは、『少弐(しょうに)小野朝臣恒柯(おののあそんつねから)と筑前守(ちくぜんのかみ)紀朝臣今守(きのあそんいまもり)は、意見を持ちながらも力及ばず、不正を正すことができずにいる』という。真偽のほどは定かでなく、ただ耳にしただけのことである。私は誠意を尽くさずにはいられず、あえて畏れ多くも申し上げる次第である。」その言葉は切実で率直であったが、黙殺されて取り上げられることはなかった(注:『文徳実録』による)。まもなく宮内卿(くないきょう)に移った(注:『続日本後紀』『文徳実録』による)。文徳天皇(もんとくてんのう)の即位後、正四位下を授けられ、相模守(さがみのかみ)を兼ねた。仁寿二年、口もとに悪性の腫れ物ができ、天皇より薬が下賜され、見舞いの使者が絶えず道を行き交った。しかしまもなく亡くなり、享年六十八であった。子孫への遺言として「葬儀は必ず質素にせよ。死後はただ供養のみを行えばよい」と残した。貞主は身の丈六尺二寸(注:約百八十八センチメートル)あり、人物としての器量は非常に高かった。度量が広く、生まれつき情け深い人柄で、言葉が人を傷つけることを常に恐れた。人事を司る官にあっては、進士を引き立て、その能力に応じて登用した。亡くなった日には、彼を知る者も知らない者も、みな涙を流して惜しまない者はいなかった(注:『文徳実録』による)。唐の慈恩寺(じおんじ)を模して寺を造営したことから、慈恩寺と名づけられた(注:『百錬抄』による)。

小野岑守

小野岑守(おののみねもり)は、大徳冠(だいとくかん)小野妹子(おののいもこ)の玄孫(やしゃご)である(注:『皇胤紹運録』による)。父の永見(ながみ)は征夷副将軍であった。岑守は延暦の末に権少外記(ごんのしょうげき)となった。大同年間には畿内観察使判官(きないかんさつしはんがん)に任じられ(注:『公卿補任』による)、異例の抜擢で従五位下に叙せられ(注:『類聚国史』『公卿補任』による)、右少弁(うしょうべん)・式部少輔(しきぶのしょう)に移った。弘仁年間には内蔵頭(くらのかみ)となり、陸奥守(むつのかみ)・阿波守(あわのかみ)などを歴任し、その後治部大輔(じぶのたいふ)となり、従四位下に叙せられ、皇后宮大夫(こうごうぐうのだいぶ)を兼ねた。弘仁十三年、参議に任じられ太宰大弐(だざいのだいに)を兼ねた(注:『公卿補任』による)。翌年、民衆が困窮していたことから、管内九か国に命じて公営田(くえいでん)の制度を整えさせた。そこで詳しく事実を記録し、その施策の詳細を上表して次のように述べた。「洪水が天にまで及び、大旱魃が大地を焼くのは自然の摂理であり、いかなる聖人もこれを免れることはできない。ただ堯(ぎょう)・湯(とう)の御代には十年分の蓄えがあったため、道端に餓死者が転がったり溝に捨てられたりする話は聞かれなかった。これは蓄えが多かったからである。今、数年にわたり不作が続き、疫病も加わって、管内の諸国は最も甚だしい被害を受けている。たびたび救済を行ってきたが府庫は次第に空になり、寛大な政策を重ねても民の暮らしはなお足りない。軒を連ねても炊事の煙が立たぬ家が多く、家々には荒れて掠奪された跡が絶えない。そのため税を軽くし労役を減らそうにも、すでに費用を賄う手立てを欠いており、公の費用は変わらぬまま、民に貢納の負担を課し続けている。このまま変革を行わなければ、立て直すことは難しいだろう。『易経』に『その変化に通じ、民を倦ませないようにする』とある。劉子は『名君は法を整えることに努め、時に応じて制度を適切に定める。民の利益になるのであれば、必ずしも昔の法にこだわる必要はない。事の害になるのであれば、旧来のやり方に従う必要はない。夏(か)・殷(いん)の衰退は法を変えなかったために滅び、三代の興隆はそれぞれ前代を踏襲しなかったために王者となった』と述べている。これより見れば、法は時代に応じて変わるべきものであり、一つの時代に限られるものではない。今、法を司る者は古い律に溺れ、儒者は旧来の礼にとらわれている。もし一つの時代の法をもって百代の民を治めようとすれば、あたかも一枚の衣で寒暑をしのぎ、一つの薬であらゆる病を治そうとするようなものである。私はここに従来の制度を改め、新たな案を上奏する。事の趣旨は下記の通りである。すでに調(ちょう)・庸(よう)を免除し、あわせて食糧を支給することとする。これは民にとっては有利であるが、朝廷にとっては負担が重い。また昔は九年耕作すれば必ず三年分の蓄えができたとされ、三十年で計算すれば十年分の蓄えができる。そうすれば凶作や洪水の年があっても、民が飢えて顔色を悪くすることはない。今回提案する制度では、九か国で三十年間に積み立てる額は三千二百余万に及ぶ。これを正税と合わせれば、末永い蓄えとなり、昔にひけをとらないものとなるであろう。倉が満ちる日もそう遠くなく、礼節をわきまえた世となる日も近いことを、伏してお願い申し上げる。」天皇はその是非を議論させた。公卿たちは「岑守の言うことには、確かに取り入れるべき点がある。ただし古くから行われてきた制度を急に改めることには、やはりためらいがある。試みに四年間に限り、申請通りに実施せよ」と議した(注:『政事要略』による)。天長年間には従四位上に進み(注:『類聚国史』『日本紀略』『公卿補任』による)、勘解由使長官(かげゆしのちょうかん)となり刑部卿(ぎょうぶきょう)を兼ねた(注:『公卿補任』による)。天長七年、亡くなった。享年五十三(注:『日本紀略』『公卿補任』による)。岑守は中納言良岑安世(よしみねのやすよ)、中務大輔朝野鹿取(あさののかとり)らとともに『内裏式(だいりしき)』を撰した(注:『内裏式』序による)。また式部少輔菅原清公(すがわらのきよきみ)、大学助勇山文継(いさやまのふみつぐ)らとともに『凌雲新集(りょううんしんしゅう)』一巻を撰して奏上した(注:『凌雲集』序による)。これより先、太宰府へ向かう旅人たちは道端で野宿をし、しばしば病にかかって命を落としていた。岑守は大弐となると、続命院(ぞくめいいん)を建てて旅人の宿泊に備えた。しかし公の後ろ盾がなければ長く維持できず、いずれ廃れてしまうと考え、その本来の趣旨を述べた解文(げぶみ)を作成して次のように記した。「太宰府が管轄する九か国二島の民は、公用であれ私用であれ、絶え間なく往来している。用件の軽い者は短期間の滞在で済むが、重い者は年を越えて帰ることもある。彼らは府の倉庫の下で旅宿し、あるいは民家に間借りする。もし病にかかり手足の自由が利かなくなれば、役所は病人を養う場所ではなく、宿の主人もまた死を忌み嫌って追い出してしまう。そのため道端に伏し、風雪にさらされて命を落とす者が絶えない。たとえ一時は治っても、飢えと寒さで死ぬ者が十人のうち八、九人に及ぶ。この惨状を見て、深く救済の心を起こし、続命院を一か所建て、檜皮葺きの建物七棟、釜一口、開墾田百十四町をもって病人や飢えた者の救済にあてることとした。志はあっても力が及ばず、万に一つでも役立てばと願うばかりである。しかし土地は人里離れており、監督が行き届きにくい。人手に委ねればさらに荒廃が進むおそれがある。もし公の力を借りることができなければ、この志も空しく終わってしまうだろう。伏してお願いするのは、府の判官または典(さかん)一人、および観音寺の講師に、この事業を管理させることである。交代の際には、事業の内容をすべて実地に検分の上引き継がせるようにしていただきたい。もし修理を怠って破損させたり、不正な費用を用いたりした場合は、官の法に照らして処罰していただきたい。」この解文は奏上される前に岑守は亡くなった。その後、遺族が改めて願い出た。天皇は担当の役所に「願い出の通りとせよ。管理の官が交代する際の解由状(げゆじょう)の授受は、すべて国司の例に準ずるものとする」との勅を下した(注:『続日本後紀』『類聚三代格』による)。子の篁(たかむら)には別に伝がある。

藤原三守

藤原三守(ふじわらのみもり)は、参議巨勢麻呂(こせまろ)の孫であり、阿波守(あわのかみ)真作(まさら)の子である。初め主蔵正(しゅぞうのかみ)となった。大同年間には美作権介(みまさかのごんのすけ)・内蔵助(くらのすけ)を歴任し、従五位下に叙せられ、右近衛少将(うこんえのしょうしょう)を拝命した(注:『続日本後紀』『公卿補任』による)。弘仁の初め、蔵人頭(くろうどのとう)(注:『公卿補任』『歴代皇紀』による)・内蔵頭を歴任し、春宮亮(とうぐうのすけ)を兼ね、従四位下に進み、式部大輔に任じられ、左兵衛督(さひょうえのかみ)を兼ねた。弘仁七年、参議を拝命し春宮大夫(とうぐうのだいぶ)を兼ねた。弘仁十二年、従三位に叙せられ権中納言(ごんのちゅうなごん)に任じられ、再び春宮大夫を兼ねた(注:『続日本後紀』『公卿補任』による)。三守は嵯峨天皇(さがてんのう)がまだ即位前であった頃からの旧恩により、特別な寵遇を受けていた。嵯峨天皇が譲位して嵯峨院にお移りになった際、三守は武官の職を辞して院に仕えることを願い出た。その申し出の言葉は懇切であり、自ら殿上で剣を外したので、見る者はこれに心を動かされた。淳和天皇(じゅんなてんのう)はその志を奪うことができないと知り、権中納言のまま太上天皇(だじょうてんのう)にお仕えすることを許した(注:『公卿補任』による)。天長年間には宮内卿(くないきょう)・刑部卿を兼任し、大納言に転じ、兵部卿・弾正尹(だんじょうのかみ)を兼ねた(注:『続日本後紀』『公卿補任』による。宮内卿への任官は『公卿補任』による)。仁明天皇の即位後、従二位に進み、皇太子傅(こうたいしふ)を兼ねた。承和五年、右大臣を拝命した。承和七年、薨去した。享年五十六(注:『続日本後紀』による)。後山科大臣(のちのやましなのおとど)と称された(注:『公卿補任』による)。参議文室秋津(ふんやのあきつ)らを邸宅に遣わして詔を宣べさせ、従一位を追贈した。参議安倍安仁(あべのやすひと)らが葬儀を監督した。三守は生まれつき温厚で謙虚な性格であり、物事の判断に明るかった。若くして大学に入り、五経を学んだ。詩人を招くことを好み、酒盃を交わし席を近づけて親しんだ。毎朝参内する道中で学生たちに出会うと、必ず馬から下りて通り過ぎたので、これによって高い評判を得た(注:『続日本後紀』による)。弘仁年間には右大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ)・藤原葛野麻呂(かどのまろ)、参議秋篠安人(あきしののやすひと)・橘常主(たちばなのつねぬし)らとともに、勅を奉じて格式(きゃくしき)を撰した。この四人が相次いで亡くなった後は、三守が一人で研究を続けて内容を定め、天長七年に書が完成し、これを上表して奏上した(注:『類聚国史』による)。子に有統(ありむね)、仲統(なかむね)、有貞(ありさだ)がいる(注:『尊卑分脈』による)。有統は従五位下侍従、仲統は参議正四位下となった(注:『三代実録』による)。

藤原有貞

藤原有貞(ふじわらのありさだ)は、幼少の頃から仁明天皇に近侍し、妹が女御(にょうご)であったことから、格別の寵遇を受けた。承和年間には丹波介(たんばのすけ)に任じられたが赴任せず、宮中に関わる憚りがあるとして常陸権介(ひたちのごんのすけ)として都を離れ、その後右近衛少将に任じられた。貞観年間には備中守(びっちゅうのかみ)などを歴任し、従四位下に叙せられ、近江権守(おうみのごんのかみ)となった。貞観十五年、亡くなった。有貞は権勢や高い身分を鼻にかけることがなく、自分の意にそぐわない者に対しても、決して相手を避けるようなことはしなかった(注:『三代実録』による)。

安倍安仁

安倍安仁(あべのやすひと)は左京の人である。治部卿(じぶきょう)東人(あずまひと)の孫にあたる。父の寛麻呂(ひろまろ)は参議大宰大弐であった。安仁は身の丈六尺三寸(注:約百九十一センチメートル)、容姿は堂々として立派であり、性格は沈着で威厳があった。弘仁年間には山城大掾(やましろのだいじょう)となり(注:『三代実録』による)、昇殿を許され(注:『公卿補任』による)、中務省(なかつかさしょう)・民部省(みんぶしょう)の少丞(しょうじょう)を歴任した。天長年間には近江権大掾(おうみのごんのだいじょう)に任じられ、介(すけ)の藤原弟雄(おとお)と深く親しみ、政務を委ねられた。安仁の政治は力強く行き届いており、その名は朝廷にまで聞こえた。任期が満ちないうちに従五位下を授けられ、信濃介(しなののすけ)に任じられた。三年間務めを果たすと、国内はよく治まった。任期の終わる年には、これを賞して一階昇進させられた(注:『三代実録』による)。蔵人頭(くろうどのとう)に補せられた(注:『公卿補任』による)。承和年間には兵部大輔・刑部大輔を歴任し、太上天皇(だじょうてんのう)(嵯峨上皇)に嵯峨で仕えた。太上天皇はことのほか安仁を信頼して用い、院の別当(べっとう)としたので、大小を問わずすべての事柄を安仁に委ねて決めさせた。それ以前は院の事務が滞っていたが、安仁が就任して数か月のうちに整理して落ち着かせたので、太上天皇は深くこれを称賛した。まもなく治部大輔に移った。太上天皇はかつて、くつろいだ様子で諸国の官吏の力量を評して、「信濃を治める手腕では安仁に及ぶ者はいない」と述べ、そこで牙笏(げしゃく)・玉帯(ぎょくたい)・金魚袋(きんぎょたい)および御衣一揃いを賜った。見識ある人々は互いに祝って、「これは宰相への道が開けたということだ」と語り合った(注:『三代実録』による)。その後累進して従四位下となり、参議を拝命し刑部卿を兼ねた(注:『続日本後紀』『三代実録』による)。太上天皇は安仁に、「そなたは早く要職に就くべきである。なぜいつまでも院の事務にとどまっているのか」と言った(注:『三代実録』による)。承和七年、左大弁(さだいべん)を兼ねたが(注:『続日本後紀』『三代実録』による)、別当の職を辞したところ、以後院の事務は滞ってしまった。そこで天皇は改めて別当と弁官の職務を兼ねるよう命じ、安仁は早朝から役所に出仕した。安仁は公務を退いた後も、常に嵯峨へ参上していた。朝廷はその往復の労苦をあわれみ、大蔵卿に転任させた(注:『三代実録』による)。文徳天皇がまだ皇太子であった頃、安仁は春宮大夫(とうぐうのだいぶ)となり、下野守(しもつけのかみ)・弾正大弼(だんじょうのだいひつ)を兼ねた(注:『続日本後紀』『三代実録』による)。河内・和泉の校田使(こうでんし)長官となり(注:『続日本後紀』による)、右大弁を兼ねた(注:『続日本後紀』『公卿補任』による)。従三位に叙せられ、中納言を拝命し、民部卿を兼ね、春宮大夫は以前の通り務めた(注:『続日本後紀』『三代実録』による)。文徳天皇の即位後、正三位を授けられた。斉衡年間には陸奥・出羽按察使(あぜち)を兼ね(注:『文徳実録』『三代実録』による)、権大納言を拝命した(注:『続日本後紀』『三代実録』による)。安仁は謙虚を志として、公の職務を自分の家のことのように大切に扱い、子弟に「諸国からの調(ちょう)・庸(よう)の多くは有力者の家に入り、朝廷に納められるものは少ない。自分がいただいている封戸(ふこ)は、身にとって十分すぎるほどである」と語った(注:『三代実録』による)。そこで上表して大納言としての封戸を減らし、中納言としての封戸を給わりたいと願い出た。天皇はその謙譲の姿勢を称賛し、特に願いを許可した。まもなく正式の大納言となり、右近衛大将(うこんえのだいしょう)を兼ねた(注:『文徳実録』『三代実録』による)。いくらも経たないうちに大将の職を辞し、重ねて上表したところ、これも許された。貞観元年、薨去した。時に年六十七であった。安仁は政治の要諦に通じ、朝廷の制度にも明るかった。奏上や議論の際には、応対に滞ることがなかった。休暇の日には子孫に教え諭した。八人の子があり、貞行(さだゆき)・宗行(むねゆき)・清行(きよゆき)・与行(ともゆき)が特によく知られている。貞行には別に伝がある(注:『三代実録』による)。

安倍興行

安倍興行(あべのおきゆき)は、秀才(しゅうさい)として推挙され、対策(たいさく)の試験に合格した。貞観年間には大内記・勘解由次官(かげゆのすけ)を授けられ、従五位下に叙せられ、太宰府へ派遣されて密告事件を取り調べる使者となった。元慶年間には民部少輔(みんぶのしょう)を歴任し、上野介(こうずけのすけ)に累進した。かつて清和天皇(せいわてんのう)が太皇太后(だいこうたいごう)の崩御に遭った際、喪服を着る期間が定まらず、諸学者に議論させたが、興行もこれに加わった(注:『三代実録』による)。

藤原吉野

藤原吉野(ふじわらのよしの)は、大宰帥(だざいのそち)藏下麻呂(くらじまろ)の孫であり、参議綱継(つなつぐ)の子である。性格は寛大で、多くの人を受け入れる度量があった。若い頃から学問に励み、常に書物を手放さず、目下の者に教えを請うことも恥じなかった。自分より優れた人物を見ると、それに追いつこうと努力した。弘仁年間には主蔵正(しゅぞうのかみ)・美濃少掾(みののしょうじょう)・春宮少進(とうぐうのしょうじん)を歴任し、従五位下に叙せられ、駿河守(するがのかみ)に任じられた。国内はよく治まり、その力強い政治手腕で知られた。淳和天皇の即位後、中務少輔(なかつかさのしょう)として都に戻り、左近衛少将に移った。天長年間には従五位上に進み(注:『続日本後紀』による)、左少弁(さしょうべん)を拝命し(注:『公卿補任』による)、伊予守(いよのかみ)を兼ね、畿内巡察使(きないじゅんさつし)となり(注:『続日本後紀』による)、蔵人頭に補せられた(注:『公卿補任』による)。従四位下に進み、皇后宮大夫・右兵衛督(うひょうえのかみ)を兼任し、参議に任じられ、式部大輔・春宮大夫を兼ねた。正四位下に叙せられ、右近衛大将を兼ねた。累進して従三位権中納言となった。仁明天皇の即位後、正三位を授けられた。宿衛(しゅくえい)の職を辞し、太上天皇(淳和上皇)に淳和院で仕えた。承和の初め、中納言となった。太上天皇の崩御の後は、一切朝廷への参内をやめ、重ねて辞職を願い出たが許されなかった。朝廷はしばしば使者を遣わして無理にでも政務に復帰させようとした。まもなく親が高齢であることを理由に職を辞して孝養に努めたいと願い出たが、これも許されなかった。吉野は生まれつき孝行深く、朝夕の親への気遣いに至るまで、とっさの場合でも礼を欠くことがなかった。かつて父が新鮮な肉があると聞いて人を遣わして求めさせたところ、料理人は吉野が不在であることを理由に、頑なに渡そうとしなかった。吉野は帰宅してこれを聞くと大いに悔やみ悲しみ、涙を流して料理人を責め、以後生涯にわたって肉を口にしなかった。子弟を教え諭すにあたっては、温かく寛大に接した。過失があっても、決して怒りをあらわにすることはなかった。しかし議論を貫くべき場面では、決して譲らなかった。住まいを移るたびに常に木を植えたので、当時の人々は、竹を植えたという王徽之(おうきし)の風流に通じるものがあると称えた。承和九年、伴健岑(とものこわみね)の事件に連座して、大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)に左遷された。まもなく山城国(やましろのくに)への配流に改められ、都に入ることを許されなかった。承和十三年、薨去した。享年六十一(注:『続日本後紀』による)。子に良近(よしちか)がいる(注:『三代実録』による)。

藤原良近

藤原良近(ふじわらのよしちか)は、風采が優れ、立ち居振る舞いも見応えがあった。学問の才には恵まれなかったが、政治の実務手腕によって推挙された。天安二年、初めて官途に就き刑部大丞(ぎょうぶのだいじょう)・式部少丞(しきぶのしょうじょう)となった。貞観の初め、伊勢権介(いせのごんのすけ)となったが、赴任の途中で召還され、右少弁を拝命した。貞観四年、母の喪に服して職を辞したが、天皇の詔により元の官職のまま喪中の出仕を命じられ、次侍従(じじじゅう)となり、越前権守(えちぜんのごんのかみ)に任じられた。貞観十二年、右中弁(うちゅうべん)に任じられた。貞観十四年、少納言正岑王(まさみねおう)らが病や喪のため職務に就けなかったため、勅により良近が少納言の職務を代行した。翌年、土佐権守(とさのごんのかみ)となり、左中弁(さちゅうべん)に移った。貞観十七年、従四位下に叙せられ、神祇伯(じんぎはく)に移った。在官のまま亡くなった。享年七十五。良近はかつて酔って人と同じ牛車に乗った際、戯れに「自分にはこの牛を歩かせない力がある」と言い、手を車の床に押し当てて息を止めてじっと座ったところ、牛は四本の足を踏ん張って前に進まなくなった。彼の腕力が人並み外れていたことは、これほどであった(注:『三代実録』による)。

朝野鹿取

朝野鹿取(あさののかとり)は大和国(やまとのくに)の人である。正六位上忍海連鷹取(おしぬみのむらじたかとり)の子である。叔父の朝野宿禰道長(あさのすくねみちなが)の養子となった。延暦年間に連(むらじ)の姓に復すことを願い出た。天皇の勅により鷹取の姓はさかのぼって宿禰(すくね)に昇格された。鷹取は若くして大学に学び、史書や漢籍に広く通じ、あわせて漢音にも精通していた。初めは音生(おんじょう)の試験を受け、相模博士(さがみのはかせ)に任じられ、後に科挙に登第して文章生(もんじょうしょう)となり、まもなく遣唐使の准録事(じゅんろくじ)となった。式部少録(しきぶのしょうろく)(注:原文にはここに「少」の字が脱けているが、『公卿補任』によって補った)、左大史(さだいし)、左近衛将監(さこんえのしょうげん)を歴任した(注:『続日本後紀』による)。弘仁年間には蔵人に補せられた(注:『公卿補任』による)。親王邸で侍講(じこう)を務めたことにより従五位下に叙せられ、左衛門佐(さえもんのすけ)となった。まもなく喪に服して官を辞したが、喪が明けないうちに起用されて近江介(おうみのすけ)となった。数年後、右近衛少将に移り、内蔵頭(くらのかみ)に転じ、正五位下に進み、兵部・中務・民部の大輔を歴任した(注:『続日本後紀』による)。蔵人頭に補せられ(注:『公卿補任』による)、左中弁に移った。天長年間には従四位上を授けられ、太宰大弐に任じられたが、上表してこれを辞退した。しかし許されなかった(注:『続日本後紀』による)。赴任にあたり、天皇は紫宸殿(ししんでん)に出御して送別の宴を催し、文人を召して詩を詠ませた。雅楽寮(うたりょう)が音楽を奏し、天皇御製の詩と御衣を賜った(注:『日本紀略』による)。天長十年、参議を拝命した。承和年間には左大弁を兼ね、藤原愛発(よしちか)に代わって民部卿となったが、上表して次のように述べた。「私はすでに衰えの兆しが表れており、朝廷の官職を返上すべき身であります。それにもかかわらず、今こうして民部卿を拝命したことは、この上ない御恩でありながら、身に余ることに恐縮しております。中納言従三位藤原朝臣愛発は、この顕職を愚かな私に譲るにあたり、『鹿取は古今の事情に通じている』と述べられたそうですが、この言葉はまったく的外れであります。私の器量には見合わず、我が身を省みて大いに恥じ入るばかりです。伏してお願い申し上げますのは、このご恩命を取り消していただき、私の憂いと重荷を免じていただきたいということです。」しかし許されなかった。数年後、越中守(えっちゅうのかみ)を兼ね、従三位に叙せられ、あわせてその子女十九人が朝臣(あそん)の姓を賜った。承和十年、薨去した。享年七十。鹿取は多才で、生まれつき慎み深く、物事にあたって的確に判断し、実務能力に優れているとの評判であった(注:『続日本後紀』による)。

藤原良繩

藤原良繩(ふじわらのよしただ)は、字(あざな)を朝台(ちょうだい)といい、右大臣内麻呂(うちまろ)の孫、備前守(びぜんのかみ)大津(おおつ)の子である。物腰は上品で優雅であり、立ち居振る舞いも慎み深かった。興福寺の僧円壱(えんいち)は人相見に優れており、良繩を見て「この人は必ず公卿にまで昇り、この上ない栄華と寵愛を得るであろう」と言い、退いて人に語って「ああ、惜しむらくは寿命だけだ」と言った。承和四年、内舎人(うどねり)となった。当時、同僚たちはみな有力な家の若者で、贅沢気ままに振る舞い、何の慎みもなかった。良繩だけは常に法度を守っていたので、それを見た者は内心恥じ入り、それぞれ身を正すようになった。人々は互いに、「朝台がいるとこちらが辛くなり、いなくなるとかえって恋しくなる」と語り合った。中務省(なかつかさしょう)の上奏により東宮に仕えるよう命じられ、皇太子に才を認められて可愛がられ、蔵人(くろうど)に抜擢された。嘉祥の末、左馬大允(さまのだいじょう)に移った(注:『三代実録』による)。仁寿・斉衡の頃、従五位下を授けられ、侍従となり、播磨介(はりまのすけ)を兼ね、春宮亮を拝命した(注:『文徳実録』『三代実録』による)。父の大津が任地で病にかかると、良繩はこれを聞いてただちに駆けつけようとしたが、天皇はこれを許さなかった。訃報が届くと、血を吐いて気を失い、しばらくしてようやく息を吹き返した。これにより職を辞したが、天皇は喪に服す情を押しての出仕を命じ、元の官職のまま復帰させた(注:『三代実録』による)。まもなく左兵衛権佐(さひょうえのごんのすけ)を兼ね、右中弁に移った(注:『文徳実録』『三代実録』による)。天安年間には累進して参議に任じられ、近江権守を兼ねた。貞観の初め、正四位下に叙せられ、左大弁に転じた。かつて山城国葛野郡(かどのぐん)に道場を一つ建て、真如院(しんにょいん)と名づけた。その母紀氏(きし)は尼となってそこに住んだ。良繩は自らの俸禄を割いて、供養の費用にあてた。この頃、紀氏は病の床につき、なかなか回復しなかった。良繩は付き添って世話をし、その傍らを離れなかった。衣の帯を解くこともなく、一睡もせずに看病を続けた。母が亡くなると職を辞し、悲しみが度を過ぎて、ほとんど身をやつすほどであった。数か月後、元の官職に復帰した。この頃、右大弁南淵年名(みなぶちのとしな)、左中弁大江音人(おおえのおとんど)は、いずれも良繩より官位の序列が下であった。良繩はひそかに人に語って、「この二人は、一人は大学者としての重鎮であり、もう一人は朝廷の政治を支える人物である。私は年齢がこの二人より若いにもかかわらず、地位は彼らより上にあり、出入りするたびに常に恥ずかしい思いをしている。左近衛少将藤原基経(もとつね)は、若くして人品に優れ、才能と声望はきわめて高く、当時の評判でもただならぬ器量の持ち主だとされている。先の天皇もその立派な人柄を重んじ、最も親しく寵愛されていた。今、私と基経はともに四位を帯びているが、私がどうして安穏としていられようか。そもそも少将で四位を帯びる者が現れれば、中将の者は職を辞するというのが、昔からの賢人の慣わしである。私には昔の人のような立派な行いはないが、ひそかにそれに倣いたいという志を抱いている。長らく賢者の進む道をふさいでいるようなものであり、早くこれを退くべきである」と言った。そこで病が重いと称して、懇切に辞退を願い出て、決して政務を執ろうとしなかった。しばらくして、年名が左大弁、音人が右大弁となり、基経は中将となり、良繩は右衛門督(うえもんのかみ)に移った。貞観九年、太皇太后宮大夫(たいこうたいごうぐうのだいぶ)となった。翌年、亡くなった。享年五十五。良繩は生まれつき度量が広く、華美を好まなかった。孝行で謹み深いことは天性のもので、忠実で誠実な人柄は早くから知られていた。心を尽くして主君に仕え、決して機密を漏らすことがなかったので、特に文徳天皇の信任を受け、寵愛と待遇はますます厚くなった。宮中の内外の事柄はすべて彼に委ねて決めさせた。諸司や諸院の別当としての職務を担っても、過失があったことは一度もなかった。継母の安倍氏は気性が激しく嫉妬深い性格で、他の子供たちはみな叱責を受けたが、良繩は従順に仕えたため、ひとり深く愛されていた。文徳天皇の忌日のたびに法華経を講じ、生涯にわたってこれを絶やすことがなかった。当時の人々はその忠孝を称えた(注:『三代実録』による)。