卷之二百十六 列傳第一百卌三
文學四
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
大江音人
¶大江音人(おおえのおとんど)は、左京の人である。父は本主(もとぬし)といい、備中介(びっちゅうのすけ)を務めた。(注:『公卿補任』による。○『皇胤紹運録』を見るに、音人は阿保親王の子であるとし、その注に「先祖の本姓は土師氏であるというのは、まったく根拠がない」とある。また『補任』を見るに、音人の母は中臣氏で、もとは阿保親王の侍女であったという。おそらく中臣氏は親王に寵愛されて身ごもり、その後本主に嫁いだのであろう。しかし他に明確な証拠がなく、今は考証できない。)音人は菅原是善(すがわらのこれよし)に学問を授かり、(注:『扶桑略記』による。)博学で文章に巧みであった。(注:『三代実録』『類聚国史』を参酌した。)天長(てんちょう)の末年、文章生(もんじょうしょう)に補せられた。承和(じょうわ)年間、秀才に挙げられ、備中目(びっちゅうのさかん)に任じられた。数年後、事件に連座して尾張(おわり)に左遷された。三年間そこに住んだのち、召し返されて京に戻った。ほどなく少内記(しょうないき)に補せられ、(注:『公卿補任』による。)従五位下を叙せられ、大内記(だいないき)に転じた。(注:『続日本後紀』による。)嘉祥(かしょう)三年、東宮学士を兼ねた。仁寿(にんじゅ)・斉衡(さいこう)の間、次侍従となり、民部少輔・左少弁を歴任した。(注:『文徳実録』『公卿補任』による。次侍従については『実録』による。)清和帝の即位後、正五位下に進み、式部少輔に遷り、ほどなく左中弁となった。貞観(じょうがん)年間、たびたび昇進して右大弁となり、参議に准ぜられた。八年、正四位下に進んだ。音人の先祖は土師宿禰(はじのすくね)姓であったが、桓武天皇の御代に外祖母の一族であることから、大枝朝臣(おおえのあそん)の姓を賜った。音人は「枝は幹より大きければ、折れずとも必ず摧ける。大枝の姓は、本来枝が長く固いという意味ではなく、子孫が絶えることのないようにという意味ではない。しかし先帝より賜った姓を、にわかに改めるのも心穏やかではない」と考えた。そこで姓を大枝から大江(おおえ)に改めることを奏請した。字は異なるが読みは同じであるからである。これが許された。ほどなく左大弁に転じ、勘解由長官(かげゆのかみ)を兼ね、従二位に進み、左衛門督(さえもんのかみ)を兼ね、検非違使別当(けびいしのべっとう)に補せられた。(注:『三代実録』『公卿補任』による。)十七年、帝が『史記』を読むにあたり、音人が侍読を務めた。元慶(がんぎょう)元年、勅命により、上皇が皇帝に書を送る際、御諱(ぎょき、実名)を書くべきか否かが議論された。音人は次のように奏議した。「謹んで礼経を按ずるに、『君の前では臣は名を名乗り、父の前では子は名を名乗る。それゆえ周公が文王に告げるときは、みな武王の名を称した』とある。また『父に似た人を見れば目を見張り、名を聞けば心が動揺する。そもそも父は子にとっての天である。それゆえその礼における隔たりは、天地ほどの差がある。どうして父が子のために、その名を称することがあろうか。そもそも天子の礼は、庶人と異なるとはいえ、父子の間においては差別があるべきではない。昔、太公(たいこう、漢の高祖の父)の家令(かれい)に臣下としての言葉遣いをする者があり、漢の高祖はこれを善しとして褒め称えた。これは太公がまだ尊位に登っていなかったからである』とある。とはいえ、漢の高祖はこのことで後世に短所とされた。また諸家の書儀を按ずるに、父母が子に書を送る際には、みな『父より、母より』とあるだけで、その名を注記することはないという。それならば、御諱を書くべきかどうかは、拠り所がわからない。謹んで勅命を承るに、『いま勅を出すにあたり、ただ御書とのみ記し、御諱を注記しなければ、見る者は誰が書いたか分からないであろう』とのことであるが、これを世の情理に照らして論じれば、そうとは言えない。謹んで摯虞(しぐ)の『決疑要』を按ずるに、『昔は文に臨んでは諱まなかったが、今なお諱むこととしている。嫌名(けんめい、似た音の名)は諱まなかったが、今なお諱むこととしている。二名(二字の名)は片方だけを諱まない。孔子の母の名は徴在(ちょうざい)というが、徴と言うときは在と言わず、在と言うときは徴と言わない。今もまた片方だけを諱まないことにすべきである』とある。もし孔子の先例に拠るならば、ただ御諱の一字だけを注記し、体裁に応じて臨機応変にするのが適当であろう。」この議は採用された。ほどなく薨じた。(注:『三代実録』による。)享年六十七。(注:『公卿補任』による。)かつて勅命を奉じて『弘帝範』三巻、『群籍要覧』四十巻を撰した。また菅原是善とともに『貞観格式』を撰定した。その上表文および式の序文は、みな音人が作ったものである。(注:『三代実録』『類聚国史』による。)長岡京(ながおかきょう)の牢獄が朽ち傷んでいたため、刑徒がしばしば逃亡していた。音人は検非違使別当として、獄舎を平安京に移し、獄門を新たに立てた。これ以後、逃亡する者はいなくなった。また音人は食物を作って、道行く人に施した。ある年長者が言うには、「私は国のために大いに力を尽くした。子孫には必ず高位に至る者があるだろう」と。その孫の維時(これとき)、および七世の孫の匡房(まさふさ)は、みな官位が納言に至り、はたしてその言葉の通りとなった。(注:『江談抄』による。)
¶子は玉淵(たまぶち)・千里(ちさと)・春潭(しゅんたん)・千古(ちふる)。玉淵は従四位下、少納言・丹波守を務めた。(注:『大江系図』による。)詩歌に巧みであった。(注:『十訓抄』による。)千里は兵部大丞、正五位下で、和歌を善くした。(注:『系図』による。)春潭は正六位上、紀伊掾であった。(注:『除目大成鈔』による。)千古は従四位上、伊予権守・式部権大輔であった。(注:『系図』による。)こちらも詩歌を善くした。(注:『作者部類』『類題古詩』による。)
大江朝綱
¶大江朝綱(おおえのあさつな)。朝綱は玉淵の子である。(注:『公卿補任』による。)父祖の学業を継ぎ、学識広く該博であった。詞藻は典雅で美しく、若くして文章生に挙げられた。対策(たいさく、官吏登用試験)に及第した。(注:『江談抄』による。)村上天皇の御代、勅命を奉じて『新国史』を撰し、(注:『仁和寺書籍目録』による。)また『坤元録』を撰した。(注:『日本紀略』による。)かつて渤海使(ぼっかいし)の裴璆(はいきゅう)を送る詩の序に、「これから先の道のりは遠く、雁山(がんざん)の暮れの雲に思いを馳せる。再び会う日は遥かに遠く、鴻臚館(こうろかん)の暁の涙に袖を濡らす」と記した。(注:『本朝文粹』『和漢朗詠集』による。)裴璆は大いに感嘆した。後に渤海の人が本朝の人に「朝綱はすでに三公に昇ったか」と尋ねた。答えて「まだである」と言うと、「上邦(日本)はどうして才を重んじないのか。その評判が異国にまでこのように伝わっているのに」と言った。(注:『古今著聞集』による。)また朝綱は書にも優れ、小野道風(おののみちかぜ)と筆法を論じ合い、互いに譲らなかった。村上帝に優劣の判定を請うたところ、帝は「朝綱の書法は道風に及ばないが、それは道風の文章が朝綱に及ばないのと同じである」と言った。(注:『江談抄』による。)左右の中弁・大弁を歴任し、参議に任じられ、備前・美濃などの守を兼ねた。正四位下に至った。(注:『公卿補任』による。)天徳(てんとく)の初め、卒去した。享年七十二。(注:『日本紀略』による。)著書に『後江相公集』がある。(注:『仁和寺書籍目録』による。)世間では音人を「江相公(こうしょうこう)」、朝綱を「後江相公(ごこうしょうこう)」と呼んで区別した。子は澄明(すみあきら)・澄江(すみえ)・澄景(すみかげ)。(注:『系図』による。)
大江澄明
¶大江澄明(おおえのすみあきら)。澄明もまた文章に長け、対策に及第し、兵部丞に任じられた。(注:『本朝文粹』による。)父より先に卒去し、朝綱は悲しみ嘆いて、これを悼む文を作った。その中に「悲しみの中でも最も悲しいのは、老いてから子を亡くすことである。恨みの中でも最も恨めしいのは、若くして親より先に死ぬことである」との句がある。(注:『本朝文粹』『源平盛衰記』による。)澄江の孫が佐国(すけくに)である。(注:『百錬抄』『扶桑略記』による。)
大江佐國
¶大江佐国(おおえのすけくに)。詩文に大いに優れていた。長久(ちょうきゅう)四年、惟宗孝言(これむねのたかとき)・源時綱(みなもとのときつな)らとともに、校書殿(きょうしょでん)で試験を受けた。(注:『百錬抄』『扶桑略記』による。)後朱雀・後冷泉・後三条・白河の四朝に仕えた。掃部頭(かもんのかみ)となり、越前権介を兼ねた。佐国の子の通国(みちくに)もまた才知があり、藤原明衡(ふじわらのあきひら)に学問を授かった。(注:『朝野群載』による。)大蔵大弐(おおくらのだいに)となった。(注:『系図』による。)
大江維時
¶大江維時(おおえのこれとき)。維時は千古の第三子である。若くして文章生に挙げられ、策試を経て秀才に抜擢され、蔵人(くろうど)に補せられた。延喜(えんぎ)・延長(えんちょう)年間、大学助(だいがくのすけ)に任じられ、文章博士(もんじょうはかせ)に遷った。承平(じょうへい)年間、式部少輔となり、(注:『公卿補任』による。)北曹(ほくそう)で『文選(もんぜん)』を講じた。天慶(てんぎょう)の初め、講義を終えた。(注:『日本紀略』による。)大学頭に任じられ、式部大輔に転じ、東宮学士を兼ねた。天暦(てんりゃく)四年、参議となった。九年、従三位を叙せられた。天徳年間、中納言に進んだ。(注:『公卿補任』による。)人となりは博聞強記で、経史に広く通じていた。おおよそ遷都以来の邸宅の変遷や人物の死亡について、その年月をすべて暗記していた。(注:『続古事談』による。)かつて醍醐帝が勅命により、宮中の庭に咲く花の名を記録させたところ、維時は仮名でこれを書いた。人々はその才を、漢字も知らぬほど劣っていると嘲った。維時は「私はこれを知らないわけではない。もし漢字を用いれば、読み解くのが難しくなるであろうと思ったのだ」と言った。記録が完成して奉ると、帝は漢字に改めて書くよう命じた。維時はただちに書いてこれを献上した。人々は案の定これを読み解くことができず、たびたび問いに来た。(注:『古事談』による。)朱雀・村上・冷泉・円融の四帝の御諱は、みな維時が撰進したもので、人々はこれを名誉なこととした。(注:『江吏部集』による。)応和(おうわ)三年、薨じた。享年七十六。詔により従二位を贈られ、絹布・銭・物を賻(ふ、弔慰の贈り物)として賜った。(注:『公卿補任』『日本紀略』による。)世に「江相公」と称された。(注:『系図』による。)著書に『日観集』がある。(注:『仁和寺書籍目録』による。)子は重光(しげみつ)・斉光(ときみつ)。重光は左京大夫に至った。(注:『系図』による。)斉光は対策に及第し、村上・冷泉・円融・花山・一条の五朝に仕え、式部大丞・右少弁を歴任した。再び東宮学士となり、蔵人頭に補せられ、式部大輔を兼ね、参議・左大弁正三位に至った。永延(えいえん)元年、五十四歳で薨じた。(注:『公卿補任』による。)子は為基(ためもと)・定基(さだもと)。為基は従四位、参河守(みかわのかみ)であった。(注:『系図』による。)
大江以言
¶大江以言(おおえのもちとき)。以言は玉淵の孫で、大隅守(おおすみのかみ)仲宣(なかのぶ)の子である。(注:『系図』による。)以言は初め弓削(ゆげ)の姓を名乗っていたが、後に本姓に復した。(注:『東鑑』建保四年の条による。)若くして藤原篤茂(ふじわらのあつしげ)に学問を授かり、(注:『江談抄』による。)対策に及第した。長保(ちょうほう)・寛弘(かんこう)年間、文章博士に任じられ、(注:『本朝文粹』による。)式部権大輔を兼ね、従四位下に至った。寛弘七年、卒去した。享年五十六。(注:『日本紀略』による。)
¶以言は長年不遇であったため、帝はこれを取り立てようとしたが、摂政の藤原道長(ふじわらのみちなが)がこれを阻んだ。以言は憤って詩を作り、「鷹も鳩も、いつの世も見分ける目は変わらないはずなのに、鹿も馬も、時の権勢によって是非が惑わされることがある」と詠んだ。(注:『古事談』『江談抄』による。)その雄渾な文章と美しい詩句は、後世に広く伝わるものが多い。当時、紀斉名(きのただな)と並び称され、また従甥(いとこおい)の匡衡(まさひら)とも並び称された。(注:『江談抄』『本朝麗藻』『本朝文粹』による。)一族の匡房(まさふさ)は近世の才子を論じて、「橘在列(たちばなのありつら)は源順(みなもとのしたごう)に及ばず、順は以言と慶滋保胤(よししげのやすたね)に及ばない。彼らはみな一時の傑物と言うべきである」と言った。(注:『江談抄』による。)
大江匡衡
¶大江匡衡(おおえのまさひら)。匡衡は重光の子である。(注:『系図』『中古歌仙伝』による。)人となりは背が高く、肩がいかり肩であった。(注:『今昔物語』による。)七歳で書を読み始め、九歳で詩を作り、祖父の維時に学問を授かった。(注:『江吏部集』による。)成長するにつれて学識広博となり、当時これに及ぶ者はいなかった。讖緯(しんい、予言の書)についてもおおよそ理解していた。(注:『小右記』による。)和歌にも優れていた。(注:『今昔物語』『中古歌仙伝』による。)天延(てんえん)年間、文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に挙げられ、秀才に補せられた。天元(てんげん)二年、対策を受けた。ほどなく右衛門権尉に任じられ、検非違使となった。(注:『中古歌仙伝』による。)当時の人は、秀才でありながら検非違使宣旨を受けたのは、まさに特例であると評した。(注:『小右記』による。)永観(えいかん)・永祚(えいそ)年間、たびたび昇進して甲斐権守・弾正少弼を歴任し、文章博士に遷り、従五位上に進んで、帝の読書のお相手を務めた。(注:『中古歌仙伝』を主とし、『江吏部集』も参照した。)正暦(しょうりゃく)年間、次侍従に補せられ、尾張権守を兼ねた。長徳(ちょうとく)年間、越前権守・東宮学士を兼ね、式部権大輔となった。長保年間、正四位下に至った。(注:『中古歌仙伝』による。)寛弘二年、敦康親王(あつやすしんのう)が初めて読書を始めた際、匡衡はまた侍読を務めた。(注:『日本紀略』による。)七年、丹波守を兼ね、侍従となった。(注:『中古歌仙伝』による。)長和(ちょうわ)元年、卒去した。享年六十一。(注:『日本紀略』による。)著書に『江吏部集』がある。(注:『江吏部集』による。)匡衡は、その才に地位が見合わず、官途は不遇で、たびたび願い出ても叶わず、そのたびに自らの不遇を嘆いた。(注:『本朝文粹』による。)かつて朝廷の人々と大井川(おおいがわ)に舟を浮かべて遊んだ際、それぞれが和歌を詠んだ。匡衡の歌に、「川舟に乗りて心の行く時は沈める身とも思はざりけり」とある。(注:『今昔物語』による。)子は挙周(たかちか)・時棟(ときむね)。
大江舉周
¶大江挙周(おおえのたかちか)。挙周は早くから対策に及第し、播磨掾(はりまのじょう)となった。(注:『本朝文粹』による。)永延(えいえん)の初め、帝が摂政藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の邸に行幸し、文人を召して詩を作らせた。(注:『日本紀略』による。)挙周が序文を作ったところ、帝はこれを褒め称え、抜擢して蔵人に補した。(注:『続往生伝』による。)後に挙周の母の赤染衛門(あかぞめえもん)が、和歌を作って摂政道長の妻に奉り、挙周のために地方官への任官を求める意を述べた。その言葉は切実であった。道長はこれを哀れに思い、ついに和泉守(いずみのかみ)に任じられることとなった。(注:『今昔物語』『赤染集』による。)任国にあって病に臥せった際、赤染衛門はこれを憂え、住吉(すみよし)の神に祈り、自らの身を代わりに差し出すことを願った。挙周は病が癒えた後にこれを聞き、驚き恐れて「かりそめにも我が身を生かすことで、親の身に不利益が及ぶとは、子としてどうしてそのような心でいられようか」と言い、自らも住吉に赴いて祈った。(注:『古今著聞集』を主とし、『袋草紙』『今昔物語』も参照した。)長和四年、東宮学士となった。(注:『栄花物語』による。)後三条帝がまだ即位前であった頃、その侍読を務めた。(注:『今鏡』による。)たびたび昇進して大学頭・式部権大輔となった。(注:『続往生伝』『系図』による。)永承(えいしょう)元年、卒去した。ふだんから仏を好み、仏像を見るたびに、必ず涙を流して嘆息した。(注:『続往生伝』による。)
大江定基
¶大江定基(おおえのさだもと)。定基は斉光の子である。早くから家業を継ぎ、文章に優れていた。(注:『続往生伝』による。)天元(てんげん)年間、父祖の功労により、抜擢されて蔵人に補せられ、(注:『小右記』による。)ほどなく参河守に任じられた。(注:『続往生伝』『系図』による。)初め赤坂(あかさか)の遊女力寿(りきじゅ)を寵愛し、ついに正妻として、もとの妻を追い出した。力寿がたまたま病死すると、(注:力寿については『源平盛衰記』による。)定基はその遺骸を抱いて号泣し、幾日も葬らずに殯(もがり)を続けたが、やがて次第にこれを厭うようになり、ついに埋葬した。(注:『今昔物語』による。)これによって人生の無常を悟った。ちょうどそのころ、鏡を売る女がいて、定基が箱を開けて見ると、そこに和歌があり、「今日までと見るに涙のます鏡、馴れぬるかげを人に語るな」とあった。(注:○「涙のます鏡」とは、真澄(ますみ)の鏡に「涙が増す」を掛けたものである。)定基は心にこれを深く哀れみ、物を与えてその困窮を助けた。ますます世を遁れる志を持つようになった。(注:『十訓抄』『古今著聞集』による。)永延二年、ついに髪を下ろして僧となった。(注:『百錬抄』『一代要記』による。)如意輪寺(にょいりんじ)に入り、僧の寂心(じゃくしん)を師と仰ぎ、(注:『続往生伝』による。)名を寂昭(じゃくしょう)と改めた。寂心とは、すなわち大内記慶滋保胤(よししげのやすたね)のことである。寂昭が托鉢に出て、たまたま以前の妻の家に至ったところ、妻は食べ物を与えながらこれを嘲笑ったが、寂昭は平然としてこれを食べた。(注:『今昔物語』による。)また延暦寺の僧源信(げんしん)について仏道を学び、(注:『元亨釈書』による。)かねてより宋(そう)に渡りたいという志を持っていた。母が老いていたため遠くへ旅立つことを躊躇っていたが、後にその意志を告げた。母は「恩愛の情は、母子の間より深いものはない。今お前と遠く別れるのは、実に悲しいことである。しかしお前に仏道を究めさせることは、もとより私の望むところである。私がどうしてその志を奪おうか」と言った。寂昭は大いに喜び、願文を作り、母のために法華八講(ほっけはっこう)を宝寺(ほうじ)で修した。(注:『続往生伝』による。)長保(ちょうほう)四年、ついに宋に渡った。(注:『百錬抄』『日本紀略』による。)これより先、源信は天台宗についての問目二十七条を作っていた。この時、これを寂昭に託し、南湖の僧智礼(ちれい)に質問させた。智礼は寂昭を丁重にもてなした。(注:『元亨釈書』による。)宋の皇帝は寂昭を引見し、日本の事情を尋ねた。寂昭は紙筆を求めて答え、持参していた仏像を献上した。宋の皇帝は大いに喜び、紫の衣と束帛(そくはく)を賜り、上寺に宿泊させ、(注:宋の楊億(ようおく)『談苑』『元亨釈書』による。)円通大師(えんつうだいし)の号を賜った。(注:『扶桑略記』『今昔物語』『宋史』による。○『談苑』には、寂昭自らが円通大師と号したとある。)三司使(さんししし)の丁謂(ていい)は寂昭を大変手厚くもてなした。智礼が問いへの答えを寂昭に託し、寂昭はこれを持ち帰ろうとした。丁謂はこれを引き留めようとし、姑蘇(こそ)の山水の美しさを盛んに語った。そこで寂昭は呉門寺にとどまり、人を遣わして答えを源信のもとに送った。丁謂はそこで自らの月々の俸給を分けて寂昭に与えた。その後、次第に言葉も通じるようになり、戒律もいよいよ厳格になった。呉の地方の僧俗の多くが寂昭に帰依した。かつて黒金(くろがね)の水瓶と詩を丁謂に贈ったこともある。(注:宋の楊億『談苑』による。)長元(ちょうげん)七年、宋にて卒去した。(注:○『帝王編年記』には八年に卒去し、享年七十七とあるが、今は『続往生伝』に従う。)臨終の際の詩と和歌は、世に伝えられ詠み継がれている。(注:『続往生伝』による。)寂昭は書に優れ、王羲之・王献之父子(二王)の書法を学んだ。宋の人々はその書体の優美さを称賛した。(注:宋の王洙(おうしゅ)『談録』による。)
大江時棟
¶時棟(ときむね)。その父は詳らかでない。幼くして聡明で、瞳が二重であった(注:重瞳、聖人の相とされる)。摂政藤原道長が道でひとりの童子に出会った。歩きながら書を読んでおり、その様子は並外れていた。道長は心にこれを不思議に思い、連れ帰って家に迎え、匡衡の子として養わせた。才学は日に日に進み、経史に広く通じるようになった。(注:『十訓抄』による。)長徳三年、省試(しょうし)で詩を献上した。大内記の紀斉名(きのただな)がその欠点を指摘したため、これによって落第となった。慣例では、省試の日には文章博士が諸儒とともに式部省に会して判定するものであったが、時棟の試験については、諸儒は匡衡の意見に賛同しなかった。匡衡は詳しく弁明し、時棟の詩には実際には欠点がなく、斉名の評価は不当であると述べた。帝は斉名に弁論させ、斉名は詳しく書いてこれを奉った。匡衡はさらに古今の例を引いてこれに反論し、時棟はついに及第することができた。(注:『本朝文粹』『朝野群載』による。)受験は全部で二度であった。(注:『十訓抄』による。○『古事談』には三度とある。)官は河内・参河などの守に至った。(注:『朝野群載』『今昔物語』を参照した。)