卷之二百十五 列傳第一百卌二
文學三
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
都良香
¶都良香(みやこの よしか)は、左京の人で、初め名を言道(ことみち)といった。祖父は桑原秋成(くわばらの あきなり)、大和介(やまとのすけ)・外従五位下であった。父は貞継(さだつぐ)。(注:父が貞継であることは『古今和歌集目録』による。)弘仁年間、兄の腹赤(はらあか)とともに、姓を都宿禰(みやこのすくね)に改めることを願い出た。承和年間、主計頭(かずえのかみ)となった。嘉祥の初め、従五位下に叙せられた。貞継は式部省の要職を長く歴任し、旧来の儀礼に通暁していた。後にこの職に就いた者は、必ず貞継に相談してから事を行ったという。(注:『文徳実録』。「弘仁中」から「必咨訪而行焉」までは都良香の事績にかかわる記述である。)腹赤は文才があり、その名声は際立って高く、嵯峨天皇の御代にはしばしば宴に侍って詩を賦し、渤海の使者が来た際には、副使の高景秀(こう けいしゅう)と詩を唱和した。また信濃守仲雄王(なかおおう)らとともに『文華秀麗集』を撰した。(注:『経国集』『文華秀麗集』)あわせて朝廷の典礼に精通しており、『内裏式』の編集にも参与した。(注:『文徳実録』)正五位下・文章博士(もんじょうはかせ)に至った。(注:『日本紀略』。「腹赤有文藻」から「至正五位下文章博士」までは桑原腹赤の事績である。)良香は博識で記憶力に優れ、文章をよくした。二十歳で大学に入った。当時、学者たちは互いに驕り高ぶって、良し悪しの区別がつかなくなっていた。良香はこれを憎み、「薫蕕論(くんゆうろん)」を著してこう述べた。「人には賢者と愚者があり、物には美しいものと醜いものがある。人は賢才を備えていることをもって賢者とされ、物は美しい形をもって美とされる。それゆえ人の中にも別があり、賢才を持つ者は名声が高い。物の中にも別があり、美しい形を持つものは価値が高い。どうして人に賢愚の別がなく、物に美醜の別がないと言えようか。もしそうだとすれば、曲阜(きょくふ)の尼丘山(じきゅうざん、孔子生誕の地)もただの塚と何ら変わらないことになり、紫の蘭や紅の蕙(けい、香草)も雑草と入り混じって区別がつかないことになろう。仏典の論に照らしても、これはいかにも道理に反している。草に薫(香草)と蕕(悪臭の草)の別があるのは、人に賢愚の別があるのと同じである。薫も蕕も同じ庭に生え、共に枝葉を持つ。賢者も愚者も天地の間に共に暮らし、共に頭と足を持つ。人はときにこれを見分けず、両者に違いはないと言う。一方が賢者で一方が愚者であっても、世間はそれを異なるものと見なさない。一方が香り一方が臭いを放っていても、人はなお同じものと見なす。かくして賢愚は一つに混同され、香りと臭いは一つの気に混じり合い、しばしば紛れてしまう。こうしたときにこそ、よく見る者はこれを見て人の賢愚を見分け、よく嗅ぐ者はこれを嗅いで草の香臭を判別すべきである。さもなければ、白蔵(はくぞう、秋九月)には驚くような疾風がその猛威を振るい、玄英(げんえい、冬)の三冬には厳しい霜が殺伐たる暴威をふるうように、ただ厳しい気だけが立ち込め、凡草もろとも枯れ尽きてしまうだろう。しかし一年の終わり、陰の気が窮まり陽の気が兆すころになれば、多くの木々は林に栄え、あらゆる草花は野に咲き誇るが、もとより臭い草はやはり臭く、もとより香る草はやはり香る。これは生まれ持った性質が異なり、それぞれに気質が備わっているからである。したがって、臭い草は道端に生え、牛や羊の足がその若芽を踏みにじる。香る草は宗廟に供えられ、鬼神の口がその香気を味わう。今の君子たるものが、もしよく鶗鴃(ていけつ、悪声の鳥)のついばみを断って、その芬芳(ふんぽう)を長く保たせ、莨莠(ろうゆう、雑草)の根を除いて、汚れや悪をまじえることがなければ、器を同じくして蔵めず、別の場所に分けて植え、美醜香臭の別をはっきりさせることができるであろう。」(注:『都氏文集』『本朝文粋』)良香は対策(たいさく、官吏登用試験)に及第し、名声はますます高まった。当時の世評は「その文章は天性によって得たものだ」と評した。(注:『都氏文集』『江談抄』。『十訓抄』によれば、言道が対策を受けた際、春澄善縄(はるすみの よしただ)が問頭博士(もんとうはかせ、出題担当博士)を務めていた。言道はその侍女を誘って善縄が用意した草稿を手に入れ、あらかじめ神仙策の答案を作成しておいて及第を果たした。「三壺雲に浮かび」「七万里程波を分かつ」「五城霞に峙つ」「十二楼天を構え插す」という句があり、世に伝えられている。)正六位上・少内記(しょうないき)に遷った。貞観十四年(872年)、平季長(たいらの すえなが)とともに渤海からの客使を接待する掌渤海客使(しょうぼっかいきゃくし)となった。その際、上奏して「姓名が互いにふさわしく調和していることは、その意義が美しいものです。よい名でなければ、どうして遠方の客人に示すことができましょうか。どうか名を良香と改めることをお許しください」と願い出て、許された。従五位下に叙せられた。ほどなく大内記(だいないき)・文章博士となり、越前権介(えちぜんのごんのすけ)を兼ねた。貞観十八年(876年)、大極殿が焼失した。詔によって諸博士に、天皇が朝政を停止すべきか否か、また群臣が政務を執るべきか否かを議論させた。良香は大学頭(だいがくのかみ)の巨勢文雄(こせの ふみお)とともに、次のように意見を述べた。「『春秋穀梁伝』には『新宮が焼けたとき、三日間哭(な)いた。新宮とは何か。禰宮(でいきゅう、亡き父を祀る廟)である。三日間哭いたのは哀しみを表すためであり、その哀しみは礼にかなうものである』とある。また漢の建元六年四月には『高園の便殿が火災に遭い、帝は五日間素服(そふく、喪服)を着た』とあり、元鳳四年五月には『孝文廟の正殿が火災に遭い、帝と群臣はみな素服を着た』とある。また漢の元封六年十一月には『柏梁台が焼失した』とあり、永始四年四月には『長楽宮・臨華殿・未央宮・東司馬門がみな焼失した』とある。後漢の永和元年十月には『承福殿が火災に遭った』とあり、魏の青龍二年四月には『崇華殿が焼失した』とあり、晋の太康十年四月には『崇賢殿が焼失した』とあり、梁の普通二年五月には『琬琰殿が火災に遭い、延焼して後宮の建物三千間を焼いた』とある。これらの記録によれば、国の廟が火災に遭った場合には、必ず素服を着て哀しみを尽くす礼がある。しかし宮殿の火災については、服装を改めて朝政を停止したという記録はない。ただし『春秋』昭公十八年の『左氏伝』には『五月、宋・衛・陳・鄭がみな火災に遭い、三日間哭き、国中で市を開かなかった』とあり、『説苑』には『魏の文侯の御廩(ぎょりん、穀物倉)が火災に遭い、文侯は素服を着て正殿を避けること五日、群臣もみな素服を着て哭いた』とある。謹んで考えますに、昔の諸侯にはこのような火災に遭った際、服装を改めて哭礼を行った例があります。今、両者を折衷して論じますに、三日間朝政を停止するのがよろしく、天皇と群臣は普段の服装を改めず、ただ憂いの意を尽くすのみとすべきです。」詔によってこれに従うこととなった。元慶元年(877年)、陰陽寮(おんみょうりょう)が「四月一日の夜、日食が起こるはずです」と奏上した。あらかじめ四道の博士たちに、日食が夜に起こる場合、政務を停止すべきか否かを議論させた。良香は次のように述べた。「経伝や諸史を調べますに、太陽が欠ける日食が起きた際には、君主は正殿を避けてときを移し、百官は政務を停止する、とはっきり記されており、改めて述べるまでもありません。しかしこれは昼間の日食についての話です。夜の日食における欠損の道理については、正殿を避けて政務を停止するという記述は見当たりません。ただ『春秋穀梁伝』には『荘公十八年春三月、日食があった。日を言わず、朔(ついたち)を言わない。これは夜の日食である』とあります。鄭玄(じょうげん)はこれを解釈して『一日一夜を合わせて一日とする。今、朔日で日が昇り始めたとき、その欠損はまだ回復していなかった。それゆえこの日は夜の日食であったと知れる。夜の日食は前月の晦日(みそか)に属するものである』と述べています。謹んで考えますに、一日一夜を合わせて一日とし、その欠損があるとすれば、日食とその回復が丑(うし)の刻より前にあれば前月に属し、晦日の日食として晦日に政務を停止すべきであり、日食とその回復が寅(とら)の刻より後にあれば来月に属し、朔日の日食として朔日に政務を停止すべきです。また、日食が丑の刻に始まっても、欠損が寅・卯(う)の刻に至るまで完全には回復しない場合は、晦日・朔日の両日ともに政務を停止すべきです。昔と今とでは、この点で事情が異なります。なぜなら、昔の暦の専門家はあらかじめ日食を推算する術を知らず、ただ欠損を見てから初めて日食であると知ったのであり、たとえ夜の日食があったとしても、知る術がありませんでした。後代の暦の専門家は、術をもって推算し、あらかじめ日食の有無を寸分違わず知ることができます。それゆえ唐の『開元礼』には『太陽が欠けるとき、担当官があらかじめその日を奏上し、五穀と五種の武器を大社に置く。皇帝は政務を執らず、百官はそれぞれ自分の役所を守って政務を行わず、時が過ぎてからこれをやめる』とあります。この唐の礼の文によれば、昼夜を問わず、担当官があらかじめ奏上することになっています。今、夜の日食をあらかじめ知り得るのに、どうして夜であるからといって対処しないでよいでしょうか。すでに対処できる以上、どうして平常どおりに政務を行ってよいでしょうか。したがって、昼夜を問わず、必ず政務を停止すべきです。」この議に従った。この年、朝臣(あそん)の姓を賜った。元慶三年(879年)、没した。(注:『三代実録』)享年四十六。(注:『古今和歌集目録』『扶桑略記』。あるいは三十六歳とする説もある。)
¶世に伝えられるところでは、良香が月夜に羅城門(らじょうもん)を通りかかった際、自作の詩「気霽れて風は新柳の髪を梳(くしけず)り、氷消えて浪は旧苔の鬚(ひげ)を洗う」を吟じたところ、楼上から感嘆の声が聞こえたという。当時の人々はこれを不思議なことだと語り伝えた。また、良香が竹生島(ちくぶしま)に遊んだ際、「三千世界眼前に尽く」という句を得たが、対句がまだできずにいると、島の神が「十二因縁心裏空し」と続けて詠んだという。子は在中(ざいちゅう)。(注:『江談抄』)
都腹赤
¶都在中(みやこの ざいちゅう)は文才があり、越前掾(えちぜんのじょう)となった。在任中、渤海の使者である裴璆(はいきゅう)と交流した。別れに際して詩を贈ったところ、裴璆は大いにこれを称賛した。朝廷では外国人と私的に交流したことを咎めようとする議論があったが、裴璆に称賛されたことを聞き、これを許して不問に付した。(注:『江談抄』)
都在中
¶橘広相(たちばなの ひろみ)は、字(あざな)を朝綾(ちょうりょう)といい、左大臣橘諸兄(たちばなの もろえ)の五世の孫である。父は峰範(みねのり)、若狭守(わかさのかみ)であった。(注:『公卿補任』『橘氏系図』)広相は幼くして文名があり、九歳で昇殿を許された。その際、「荒村の桃李(とうり)猶(なお)慶愛(けいあい)す、何ぞ況(いわ)んや瓊林(けいりん)華苑(かえん)の春をや」という詩を詠んだ。(注:『江談抄』)成長してからは博学であった。貞観年間、文章生(もんじょうしょう)に補せられ、越前権少掾(えちぜんのごんのしょうじょう)となり、蔵人(くろうど)に補せられた。対策に及第して右衛門大尉(うえもんのだいじょう)となり、従五位下に叙せられ、文章博士に任じられたが、辞退して就かなかった。東宮学士(とうぐうがくし)・民部少輔(みんぶのしょうふ)を歴任した。(注:『公卿補任』)五条太皇太后が崩じた際、喪服についての議論が決しなかったが、結局広相の意見に従うこととなった。渤海の使者が来た際には、勅を受けて使者をもてなす宴で詩を賦した。(注:『三代実録』)従五位上に叙せられ、右少弁(うしょうべん)となり、学士は元のとおりであった。(注:『公卿補任』)皇太子が『千字文』を読む際、広相は侍読(じどく)を務めた。(注:『三代実録』)左少弁に転じ、美濃権守(みののごんのかみ)を兼ねた。学士としての功労により、破格の待遇で正五位上を授けられ、式部大輔(しきぶのたいふ)・蔵人頭(くろうどのとう)に遷った。元慶年間、勘解由長官(かげゆのかみ)・右大弁(うだいべん)となった。(注:『公卿補任』)光孝天皇が即位すると従四位上に進んだ。天皇が『文選(もんぜん)』を読む際にも、また侍読を務めた。(注:『三代実録』)ほどなく文章博士を兼ね、参議に任じられ、左大弁に転じた。宇多天皇が即位すると、広相は左中弁藤原有穂(ふじわらの ありほ)、左近衛中将藤原時平(ふじわらの ときひら)、左衛門佐藤原高経(ふじわらの たかつね)らとともに殿上に伺候した。関白藤原基経(ふじわらの もとつね)が辞職を申し出た際、広相が詔を起草したが、その中に「阿衡(あこう)の任をもって、卿の任とせよ」という語があった。基経はこれを不快に思い、天皇は基経のためにこれを釈明した。ほどなく近江守(おうみのかみ)を兼ね、正四位上に進んだ。寛平二年(890年)、没した。享年五十四。侍読としての功労により、中納言・従三位を贈られた。(注:『公卿補任』『扶桑略記』を参照して整理した。『十訓抄』によれば、藤原佐世(ふじわらの すけよ)が阿衡の語を指摘して基経を激怒させたところ、広相はこれを聞いて佐世を恨み、憂いのうちに没した。その霊は犬となって狂い、人に噛みついたという。佐世の家の周りを回り、「阿衡、阿衡」と吠えたため、その霊を慰めるために中納言を贈ったという。『歴代皇記』にもこの話が載っているが、怪異で奇怪な話であり、取るに足らない。また『十訓抄』はこれを貞観年間の事とするが、これも誤りである。)絹布を賻(ふ、弔慰の贈り物)として贈られた。
¶広相は三代の天皇に歴任して仕え、常に側近くに侍(はべ)り、省内の諸事はすべて彼の手によって処理された。(注:『公卿補任』)広く書物に通じ、いずれも一通り目を通して読破し、要点を抜き出して抄録し、忘れることに備えていた。策問(さくもん)への回答を献上した日には、一代分の蔵書を閲覧し、七日でこれを終えたという。(注:『江談抄』)文集八巻がある。(注:『仁和寺書籍目録』)『朝官当唐名略抄(ちょうかんとうとうみょうりゃくしょう)』を著した。(注:『拾芥抄』)また、かつて宇多天皇の勅を受けて『蹈歌記(とうかき)』を撰した。(注:『年中行事』所引の広相伝)広相は初め菅原是善(すがわらの これよし)に学問を学んだ。(注:『政事要略』『江談抄』)是善はかつて高雄山の鐘銘を作り、広相がこれに序を書き、藤原敏行(ふじわらの としゆき)がこれを書いたが、(注:『高雄山鐘銘』)世にこれを三絶と称した。広相は初め名を博覧といった。旧来の制度では仏や菩薩、聖賢の名号を人名に用いることはできなかったが、舎利弗(しゃりほつ)の別号である博覧比丘(はくらんびく)にちなんで名づけられていたため、父の峰範が奏上して今の名に改めさせた。(注:『公卿補任』)子の公頼(きんより)は和歌を得意とした。(注:『後撰和歌集』『新勅撰和歌集』)天慶年間、官位は中納言に至った。(注:『公卿補任』)
橘廣相
¶島田忠臣(しまだの ただおみ)は、その祖先は神八井耳命(かむやいみみのみこと)に出る。(注:『姓氏録』)貞観の初め、越前権少掾となった。渤海からの聘使(へいし)が来た際、副使の周元伯(しゅう げんはく)はかなり文章に通じていた。忠臣が文章をよくすることから、臨時に加賀権大掾(かがのごんのだいじょう)に任じられ、客館に赴いて元伯と詩を唱和した。その後、少外記(しょうげき)に任じられて従五位下を授けられ、因幡権介(いなばのごんのすけ)となった。元慶年間、従五位上に進み、大宰少弐(だざいのしょうに)に遷り、美濃介(みののすけ)となって、玄蕃頭(げんばのかみ)の職務を代行した。式部少輔の菅原道真(すがわらの みちざね)とともに、渤海の聘使裴頲(はいてい)を出迎えた。(注:『三代実録』)その後、伊勢介(いせのすけ)となった。(注:『本朝文粋』)宇多天皇が大学博士の善淵愛成(よしぶちの ちかなり)から『周易(しゅうえき)』を学んだ際、忠臣は都講(とこう、進講の補佐役)を務めた。寛平三年(891年)、講義が終わって宴が催された際、忠臣は詩を賦してその序を作った。(注:『田氏家集』)忠臣が没すると、菅原道真は詩を作って哭(な)き、「これより春風秋月の夜、詩人の名は実(まこと)にあるべくもなし」と詠んだ。(注:『菅家文草』)紀長谷雄(きの はせお)は忠臣を当代随一の詩の名手と称した。(注:『本朝文粋』)関白藤原基経もその才を愛して厚遇し、かつて藤原敏行に命じてその詩五百余篇を屏風に書かせたことがあった。(注:『田氏家集』)著書に『百官唐名抄(ひゃっかんとうみょうしょう)』がある。(注:『拾芥抄』)
島田忠臣
¶大蔵善行(おおくらの よしゆき)は、文学をもって知られた。貞観十七年(875年)、勅を受けて蔵人所(くろうどどころ)に伺候し、宮中の書物の校定にあたった。また『顔氏家訓(がんしかくん)』を講じ、宮中で年少の者たちに教授した。翌年、講義が終わると、蔵人所で宴を賜り、大学の文章生らを召して詩を賦させた。元慶年間、少外記となり、正六位上に叙せられた。(注:『三代実録』)これより先、土佐権掾(とさのごんのじょう)であった際、大内記の都良香が自らの職を譲ろうとして上表し、「善行らは、文章は春の花のように豊かで、学問は秋の実りのように充実しています。もし筆を執らせて麟閣(りんかく)に、硯を洗わせて鳳池(ほうち)に置けば、しかるべき人材を得て、日々の政務も美しく伝わることでしょう」と述べた。(注:『都氏文集』『本朝文粋』)元慶七年(883年)、存問渤海客使(ぞんもんぼっかいきゃくし)となり、あわせて客使の応接を統轄した。出発にあたって天皇に拝謁した際、御衣と袴を各一揃い賜った。仁和年間、大外記(だいげき)に転じ、外従五位下を授けられ、播磨権大掾(はりまのごんのだいじょう)を兼ねた。(注:『三代実録』)姓を伊美吉(いみき)に改め、朝臣を賜った。(注:『三代実録』『雑言奉和』を参照して整理した。)寛平年間、従五位上に叙せられ、勘解由次官(かげゆのすけ)となり、参河権介(みかわのごんのすけ)を兼ね、大外記は元のとおりであった。これより先、左大臣藤原時平らとともに、勅を奉じて『三代実録』を編纂した。延喜元年(901年)、書が完成し、これを奏上した。(注:『三代実録』序)善行は経籍を究め、教え導くことに優れ、門弟が非常に多かった。藤原時平とその弟の仲平(なかひら)、平惟範(たいらの これのり)、平伊望(たいらの これもち)、藤原興範(おきのり)、紀長谷雄、三統理平(みむねの まさひら)らは、みな善行から学問を授かった。(注:『雑言奉和』紀長谷雄「水石亭詩序」)この年、善行は七十歳であった。時平は当代の英俊たちを城南の水石亭に集め、その長寿を祝ったが、会した者は十六人であった。時平は弟子の礼をとり、当時の人々はこれを栄誉なこととした。(注:『雑言奉和』)ほどなく従四位下に叙せられ、民部大輔に任じられた。(注:『延喜格』序、『河海抄』)その後、東宮学士となり、常に鐘乳丸(しょうにゅうがん、強壮薬)を服用していた。九十歳になっても、なお壮健な容貌を保っていた。家に婢妾(ひしょう)を蓄え、八十七歳で子をもうけた。延喜十七年(917年)、『漢書』を東宮に授けた。毎朝進講し、休むことがなかった。世の人々はこれを驚異とし、彼を地仙(ちせん、地上の仙人)と呼んだ。(注:『政事要略』)
大藏善行
¶藤原佐世(ふじわらの すけよ)は、式部卿藤原宇合(うまかい)の子孫である。父は菅雄(すがお)、民部大輔であった。佐世は初め摂政藤原基経の家司(けいし)であった。貞観年間、対策に及第し、(注:『尊卑分脈』『江談抄』。『江談抄』は「藤原氏が策を献じたのは佐世に始まる」というが、『文徳実録』によれば天長の初め藤原関雄(せきお)が文章生の試験を受けて及第しており、佐世に始まるのではない。『江談抄』の誤りである。)文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に挙げられ、越前大掾(えちぜんのだいじょう)に補せられた。貞観十四年(872年)、大学頭巨勢文雄とともに、鴻臚館(こうろかん)で渤海の使者をもてなす宴を催した。元慶年間、従五位下に叙せられ、弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)・民部少輔となった。陽成天皇が初めて『孝経』を読んだ際、佐世は都講を務めた。その後従五位上に進み、右少弁となった。元慶八年(884年)、大学頭に遷った。新銭三十貫を左右京職に貸し付け、その利子で大学寮の学生の食費に充てることを奏上した。仁和元年(885年)、次のように奏上した。「令には『およそ大学が公私の礼儀ある行事に列するときは、儀式を見学させよ』とあります。また承和十二年の宣旨には『天皇の行幸の日には、官人・弓場・文章生らが供奉せよ』とあります。そうであれば、朝堂の儀式、公私の礼、節会や宴享の日、巡狩や遊猟のときには、必ず学生を率いて見学・供奉させるべきです。しかし大学寮にはもともと幕幔(ばくまん、幕)がなく、事に臨むたびに不足することが多くあります。諸司には通例二張が支給されますが、四百人の生徒を抱える大学寮では、二張の幕では収容しきれません。どうか四張を賜り、これを備えとしたく存じます。」これが許可された。仁和二年(886年)、左少弁となり、式部少輔に遷った。(注:『三代実録』)寛平三年(891年)、陸奥守に任じられ、大蔵少輔を兼ねた。(注:『続本朝文粋』所載の藤原敦光(あつみつ)の書状)従四位下・右大弁に至った。(注:『尊卑分脈』)著書に『見在書目(げんざいしょもく)』があり、世に行われている。(注:『見在書目』)昌泰元年(898年)、没した。子の文貞(ふみさだ)は対策に及第し、文章博士・式部大輔正五位上に至った。子の後生(のちお)もまた策を献じ、文章博士となった。(注:『尊卑分脈』)子孫は相次いで儒学を家業とし、世にこれを式家(しきけ)と称した。
藤原佐世
¶紀長谷雄(きの はせお)は、字を寛(かん)という。祖父の国守(くにもり)は内膳正(ないぜんのかみ)であった。(注:『公卿補任』)医術に優れ、典薬頭(てんやくのかみ)となった。あるとき東宮(とうぐう)が病に伏し、国守に薬を献じさせた。国守は「必ず瞑眩(めいげん、めまいや苦しみ)を経てから治ります」と申し上げた。ほどなく東宮は果たして苦しみ悶(もだ)えた。そこで天皇は国守を帯刀陣(たちはきのじん)に下し、「万一のことがあれば、速やかに斬れ」と命じた。その後東宮の病は癒えたが、国守は人に「もし東宮の病が治らなければ、私は必ず誅殺されていただろう」と語り、そのため子孫を戒めて医術を学ばせなかった。(注:『古事談』。「祖国守」以下は国守の事績である。)父の貞範(さだのり)は彈正忠(だんじょうのじょう)であった。(注:『公卿補任』)貞範がちょうど長谷寺(はせでら)に参詣した際に長谷雄が生まれたため、これにちなんで名づけられた。(注:『紀氏系図』)生まれつき聡明で、成童(せいどう、十五歳前後)になると学問を志した。十八歳で文章を作るようになった。(注:『本朝文粋』所載の「延喜以後詩序」)大蔵善行に学問を学んだが、(注:『雑言奉和』)まだ名を知られていなかったころ、あるとき諸生が集まって酒を飲んだ際、「幽人釣春水(ゆうじん しゅんすいをつる)」の詩を賦した。島田忠臣ひとりが長谷雄の詩を賞賛し、「韻を綴る様は、まことに風骨を得ている」と評した。これ以来、才名は日に日に高まった。しかし長らくの間、これを妬む者が善行に讒言し、長谷雄は何年も不遇のまま埋もれていた。貞観十八年(876年)、ようやく文章生に補せられた。その後菅原道真の門に出入りするようになった。道真は初めこれを格別なものとは見なしていなかったが、たまたま大極殿(だいごくでん)が再建されて初めて催された宴集の詩を目にし、「これほどの詞藻とは思いもよらなかった」と感嘆した。以後、しばしば互いに詩を唱和した。(注:『本朝文粋』所載の「延喜以後詩序」)元慶年間、文章得業生・讃岐掾(さぬきのじょう)となった。(注:『公卿補任』)当時、見識ある士人たちは論議を好んで争ったが、その立論は堅固でなく、あるときは酔って舞い狂ったように歌い、互いに罵り辱め合うまでに至った。道真は長谷雄に師として寄り添い、詩を吟ずることを勧めた。(注:『菅家文草』)仁和年間、少外記となり、従五位下に叙せられた。寛平年間、図書頭(ずしょのかみ)・文章博士を歴任し、讃岐介・式部少輔・右少弁・大学頭を兼ね、従四位下に進んだ。寛平九年(897年)、式部大輔となり、侍従を兼ね、博士は元のとおりであった。(注:『公卿補任』)宇多天皇が唐に使者を派遣しようとした際、菅原道真が大使、長谷雄が副使に任じられたが、ちょうど唐が乱れていたため中止となった。(注:『扶桑略記』)醍醐天皇が即位すると、上皇は藤原時平・藤原定国(さだくに)・菅原道真・平季長、そして長谷雄に勅して天皇に侍らせ、諮問に備えさせた。(注:『古今著聞集』)昌泰元年(898年)、天皇に『群書治要(ぐんしょちよう)』を授けた。(注:『日本紀略』)この年、右大弁となり、(注:『続本朝文粋』所載の藤原敦光の書状)左大弁に転じた。延喜年間、参議に任じられ、次第に従三位に進み、中納言に任じられた。延喜十二年(912年)、薨(こう)じた。享年六十八。(注:『日本紀略』。『江談抄』および『今昔物語』によれば、長谷雄はかつて長谷寺に参詣し、大納言に任じられることを祈願した。夢に人が現れて「汝には文才があるので、他国に遣わされるべきである」と告げた。ほどなくして薨じたという。)
¶長谷雄は文才豊かで、人々に推されていた。詔勅や上表文の多くは彼の手によるものであった。世に紀納言(きなごん)と称され、また紀家(きけ)とも呼ばれた。(注:紀家の呼称は『江談抄』による。)長谷雄はよく身を律し、かつて紳(しん、帯)に書きつけて「人に知られることを頼みとせず、己の賢さを誇るなかれ。須(すべか)らく誡めと慎みを胸に抱き、もって身の安全を思うべし」と記した。(注:『朝野群載』)三善清行(みよしの きよゆき)がかつて長谷雄と文章論を戦わせ、罵って「昔から才のない博士などいたことがないが、今お前がその初めての例だ」と言ったが、長谷雄はこれに言い返さなかった。当時の人々はその度量の大きさに感服した。惟宗孝言(これむねの たかとき)はこれを聞いて、「竜同士が闘えば、たとえ苦しめられても死ぬことはない。他の獣はこれに近づくことすらできない」と語った。これは二人(清行と長谷雄)の才が高く、他の者には及びもつかないことを言ったものである。(注:『江談抄』『今昔物語』)道真が政治を執るようになると、文会があるたびに、必ずまず長谷雄に文章の起草を委ねた。かつて内宴に侍って詩を賦した際、道真はその手を執って「元稹(げんしん)・白居易(はくきょい)が再び生まれ出たとしても、これに勝ることはあるまい」と言った。島田忠臣もまた、しばしばその文才を称賛した。道真が薨じた後、忠臣や小野美材(おのの よしき)らも相次いで世を去り、長谷雄ひとりが文壇の実権を握ることとなった。延喜以後の詩については、その心を知る者がいないことを嘆き、「延喜以後詩巻」と題した。(注:『本朝文粋』所載の「延喜以後詩序」)文集は散逸し、今はわずかしか残っていない。子の淑望(よしもち)・淑人(よしと)・淑信(よしのぶ)・淑光(よしみつ)・淑行(よしゆき)・淑間(よしま)・淑方(よしかた)・淑久(よしひさ)・淑江(よしえ)は、みな才学があり、多くが高官に至った。(注:『紀氏系図』。系図の一本には淑江を載せていない。)淑人については「小野好古伝」を参照。
紀長谷雄
¶巨勢文雄(こせの ふみお)は左京の人で、もとの姓は味酒(みさけ)といった。貞観の初め、文章得業生に抜擢され、正八位下を授けられた。対策に及第し、位階を三階加えて賜り、大内記を授けられた。貞観三年(861年)、今の姓を賜った。これより先、巨勢河守(こせの かわもり)が次のように奏上した。「文雄が謹んで申し上げるには、『先祖は武内宿禰(たけのうちのすくね)大臣の五男である巨勢男韓宿禰(こせのおからのすくね)に出ており、これは巨勢朝臣の祖です。また三男の平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)は文雄の祖にあたります。木菟宿禰の後裔は味酒臣(みさけのおみ)の姓を賜り、落ちぶれて伊勢に本貫を移されました。文雄の先祖の代に至って、臣の姓を改めて首(おびと)の姓を賜り、左京に本貫を移しましたことは、系図に明らかです。文雄は同じ一祖の子孫であり、八つに分かれた氏族の一支ですが、独り衰えた氏族となり、長らく栄達の道から隔てられております。加えて、酒というものは、もっぱら礼を成すことに用いられるべきものであり、酒に耽ることの過ちは深く戒められております。しかるに今、味酒を姓とし、これに首の字を添えることは、すでに吉祥とは言えません。まして首長を意味する字を冠することなど、なおさらです。それゆえ改姓を望む思いは朝夕に深く、一族の衰えを嘆く思いは兄弟ともに深く抱いております。願わくは、明時(めいじ、聖代)の恩恵をこうむり、巨勢の名門に入りたく存じます。ただし、祖先の血筋に従い、平群の姓を賜ることも考えられますが、平群という字の呼び名は平凡であり、巨勢という文字はその義理において愛すべきものです』と。私、河守らが謹んで本来の系図を調べましたところ、すでに同族であることが判明いたしました。その嘆きを見るに、道理として許可されるべきものと存じます。特に巨勢朝臣の姓を賜り、落ちぶれた一族の者の思いを慰められますよう。」これにより、その願いのとおりに許された。民部少輔・文章博士・備後権介(びんごのごんのすけ)を歴任し、大学頭に遷り、従五位上に進んだ。これより先、応天門(おうてんもん)が火災に遭った。修造が終わると、博士たちに門の名を改めるべきかどうかを議論させ、あわせて応天門・朱雀門(すざくもん)・羅城門など諸門の名の由来についても尋ねた。文雄は次のように議した。「宮殿や城門が火災の後に名を改めた例は、前漢・後漢以前には聞いたことがありません。魏の青龍二年四月、崇華殿が火災に遭い、これを修復しました。青龍三年七月にまた火災に遭った際、高堂隆(こうどうりゅう)は『再建すべきではない』と考えましたが、帝はこれに従わず、結局再建して九竜殿(きゅうりゅうでん)と名づけました。唐の天宝二年、応天門が火災に遭い、十一月に完成すると、名を乾天門(けんてんもん)と改めました。わが国の制度は多く唐にならっております。おおよそ火災の様相は異なっていても、いずれも不吉な兆しであることに変わりはありません。修復の後、旧号を除いてめでたい名に改めることは、道理にかなっているのではないでしょうか。洛陽(らくよう)の都城門を応天門と呼ぶのは、『礼含文嘉(れいがんぶんか)』に『湯王(とうおう)は人心に従い天に応じた』とあることに基づいたものと思われます。長安の南面の城門を朱雀門と呼び、大明宮(だいめいきゅう)南面の五門のうち正南の門を丹鳳門(たんぽうもん)と呼びます。丹鳳と朱雀は、その意味するところは同じであり、南方に位置することから朱雀と呼ぶのでしょう。羅城門については、周の国の門、唐の京城の門にあたるもので、西都(長安)ではこれを明徳門(めいとくもん)と呼び、東都(洛陽)ではこれを定鼎門(ていていもん)と呼びますが、わが国で今これを羅城門と呼ぶ理由については、詳らかではありません。ただし『唐六典(とうりくてん)』の注には『大明宮より、東の羅城に沿った複道を経て、通化門(つうかもん)を通り興慶宮(こうけいきゅう)に入る』とあります。今、この文脈から考えますに、おそらく羅列(られつ、めぐらし連ねる)という意味でありましょう。」元慶年間、右中弁に至り、従四位下、越前守を兼ねた。(注:『三代実録』)
巨勢文雄
¶善淵永貞(よしぶちの ながさだ)は、初め名を福貞(ふくさだ)といい、もとの姓は六人部(むとべ)で、火明命(ほあかりのみこと)の後裔である。代々美濃国厚見郡(あつみのこおり)に住んでいたが、後に弟の愛成(ちかなり)らとともに左京職に移り隷属し、今の姓を賜った。貞観年間、直講(じきこう)に抜擢され、外従五位下に叙せられ、助教(じょきょう)となり、越後介を兼ねた。貞観十四年(872年)、上表して、母の病を看護するため職を辞することを願い出た。ほどなく従五位上に進み、大学博士に遷り、越中守を兼ねた。光孝天皇が『孝経』を読んだ際、永貞は侍読を務め、正五位下に進んだ。仁和元年(885年)、在官のまま没した。享年七十三。弟は愛盛(ちかもり)。(注:『三代実録』。母の病を看護するため職を辞することを願い出たことは、『菅家文草』による。)
善淵永貞
¶善淵愛盛(よしぶちの ちかもり)は、貞観年間、右中弁となり、山城介(やましろのすけ)を兼ねた。天皇が『群書治要』を読んだ際には、都講を務めた。従五位上・大学博士に至った。(注:『三代実録』)昇殿を許され、侍読を務めた。(注:『職原抄』)
善淵愛盛
¶三統理平(みむねの まさひら)は、大蔵善行に学問を学び、(注:『雑言奉和』)策試(さくし)に及第した。(注:『朝野群載』)寛平・昌泰の間、大外記となり、備中掾(びっちゅうのじょう)・越前介を兼ね、(注:『三代実録』序、『二中歴』、『雑言奉和』)従五位下を授けられた。(注:『官職秘抄』)延喜年間、大内記に遷り、周防権介(すおうのごんのすけ)を兼ね、(注:『延喜格』序、『釈日本紀』、『日本紀竟宴和歌』)『三代実録』および『延喜格』の編纂に参与した。(注:各書の序)当時、天皇は学問を好み、藤原春海(はるみ)に『日本紀』を講じさせ、当代の文士たちを召して講筵(こうえん)に侍らせたが、理平もこれに加わった。講義が終わると、竟宴和歌(きょうえんわか)の序を作った。(注:『日本紀竟宴和歌』)ほどなく従五位上に叙せられ、文章博士となった。(注:『二中歴』)理平はかつて宴に侍って月を賞でた際、「天山(てんざん)は何年の雪か弁(わきま)えず、合浦(がっぽ)は応(まさ)に旧日の珠に迷うべし」という詩句を賦した。読師(どくし)が順に群臣の詩を読み上げていったが、理平の詩に至ると、天皇は再三この句を誦させた。理平は深く感じ入った。(注:『江談抄』)晩年、式部大輔に任じられ、従四位下に進んだ。(注:『作者部類』『二中歴』)延長四年(926年)、没した。享年七十四。(注:『作者部類』)理平は詩をよくし、菅原文時(ふみとき)はその詩を愛し、かつて自らその詩集を書写したことがある。大江匡房(おおえの まさふさ)もまた理平を巨匠と称した。後進の者たちから慕われることはこのようであった。(注:『江談抄』)子は元夏(もとなつ)。
三統理平
¶三統元夏(みむねの もとなつ)は、対策に及第し、文章得業生となった。(注:『類聚福宣鈔』)式部丞に任じられた。朱雀天皇が藤原在衡(ありひら)から『史記』を学んだ際、元夏が復習を指導した。(注:『外記日記』)天暦年間、式部少輔・文章博士を歴任し、(注:『本朝文粋』『二中歴』『類聚符宣鈔』『政事要略』)東宮学士となった。(注:『作者部類』『二中歴』)四位を授けられ、康保年間に没した。(注:『作者部類』『葉黄記』)子の篤信(あつのぶ)もまた文才があり、学問料を賜った。(注:『葉黄記』『西宮記』)少内記となった。(注:『本朝麗藻』。『仁和寺書籍目録』によれば、理平伝一巻が載っているというが、今は伝わっていない。)
三統元夏
¶惟宗公方(これむねの きんかた)は、その先祖は功満王(こうまんおう)で、秦の始皇帝の後裔である。応神天皇の朝に人々を率いて帰化し、子孫はこれにより秦(はた)を氏(うじ)とした。元慶年間、公方の祖父直宗(なおむね)、父直本(なおもと)が、姓を惟宗と改めることを奏請した。(注:『三代実録』。父祖の名は『政事要略』『本朝文粋』『清獬眼抄』による。)直宗は勘解由次官に至り、(注:『三代実録』『政事要略』)直本は主計頭となった。(注:『二中歴』)代々法律を学び、明法博士(みょうぼうはかせ)に任じられ、巡察糾弾の職を兼任した。(注:『三代実録』『政事要略』『本朝文粋』)公方は、延長年間、左衛門大志(さえもんのだいさかん)を歴任し、明法博士に任じられ、(注:『政事要略』『類聚符宣鈔』)主計助(かずえのすけ)となった。天慶年間、大判事に遷り、勘解由長官・大和介を兼ねた。ほどなく民部少輔に任じられた。(注:『政事要略』)天暦年間、左衛門権佐となり、検非違使(けびいし)に補せられ、(注:『二中歴』『官職秘抄』『日本紀略』)正五位下を授けられた。(注:『類聚符宣鈔』)このころ、諸国は疲弊し、貢賦(こうふ、租税)が納められなくなっていた。天皇はそこで制を立てて法を厳しくした。その後、法を犯した国司十数名について、法律家に罪を議定させた。公方はこれを調べ、式(しき、施行細則)に違反するものとした。右弼(うひつ、名は欠けている)は勅に違反するものとした。公方は「詔旨に違うことを勅に違うといい、式制に違うことを式に違うという。今回国司が犯したのは式制ではないか」と述べた。右弼は「式制もまた勅を奉じて定められたものであり、これを勅に違うと言って何ら差し支えない」と述べた。二つの議論は決しなかったため、この件が天皇の耳に入り、公方の言を非とされた。藤原文範(ふみのり)に命じて公方を詰問させたが、公方は前言を固持した。文範がこれを奏上すると、勅により上疏して過ちを謝罪するよう命じられたが、公方はこれに従わなかった。(注:『北山抄』『江談抄』)天徳二年(958年)、大蔵権大輔に左遷されたが、(注:『日本紀略』)なお明法博士を兼ねた。(注:『西宮記』)識者は「公方の言は正しかったが、天皇の意に逆らったために左遷された」と評した。(注:『北山抄』)安和年間、左大臣源高明(みなもとの たかあきら)が事件に連座して大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、その後髪を剃って、京にとどまることを願い出た。(注:『公卿補任』)このとき議論が決しなかったため、公方に議定させた。公方は「およそ僧尼が罪を犯した場合、なお還俗させて刑に処すものである。今、事に臨んで髪を剃ったからといって、どうしてその罪を許してよいものか」と述べ、この意見に従うこととなった。(注:『政事要略』)公方は詩賦を得意としなかったが、博覧強記でよく物事に通じており、とりわけ家学(法律学)に精通していた。当時の法律の多くは彼の手によって成った。(注:『政事要略』『類聚符宣鈔』『本朝月令』を参照して整理した。)『本朝月令(ほんちょうがつりょう)』を著し、典故を詳しく記した。(注:『仁和寺書籍目録』)かつて子弟に語って言った。「延喜の御代、寵姫の内匠(たくみ)という蔵人が、『白馬節会(あおうまのせちえ)を見物する際、深紅の衣を身につけて牛車の外にあらわす』ことを奏請した。深紅は歴代の朝廷で禁じられていたものである。検非違使の源中正(なかまさ)がその衣を取り、まさに裂こうとしたところ、内匠は和歌を詠んでその真意を解き明かした。中正はその衣を裂くに忍びず、これをやめた。およそ法律を掌る者は、この心構えを持つべきである。」その寛大さはこのようなものであった。(注:『政事要略』)孫は允亮(まさすけ)。(注:『清獬眼抄』)
惟宗公方
¶令宗允亮(よしむねの まさすけ)。允亮は早くから才名があり、家学(かがく、法律学)に長じていた。明法博士となり、その論断は精確であった。当時の法律家たちは、みな彼に及ばなかった。(注:『政事要略』『続往生伝』)常に、祖父の公方が式に違反するという議論のために天皇の意に逆らい左遷されたことを悼み、密かにその議論を繰り返し検討していた。数年を経て、ようやく論説がまとまり、藤原文範の家を訪れてこれを論じようとした。文範は「先帝はすでに崩御され、あなたの祖父もまた亡くなり、私もすでに老いた。今さらまた煩わしい論議をする必要はあるまい」と述べた。允亮はついに論じることができずに帰った。(注:『江談抄』)正暦年間、勘解由次官となった。(注:『小野宮年中行事』)ほどなく左衛門権佐(注:『二中歴』には右衛門とある)・検非違使に任じられた。(注:『年中行事』『政事要略』『日本紀略』『官職秘抄』)正暦五年(994年)、宇佐神宮の社人が大弐(だいに)藤原佐理(すけまさ)と争い、朝廷に訴え出た。允亮が推問使(すいもんし、糾問の使者)となってこれを厳しく取り調べ、ついに佐理は職を罷免された。(注:『日本紀略』)長徳年間、藤原伊周(これちか)とその弟隆家(たかいえ)が謀反の罪に問われ、配流に処された。允亮は追下使(ついげし)となり、邸に赴いて勅を伝えた。ちょうど中宮が伊周の邸に滞在していた。伊周兄弟は敢えて外に出ようとしなかった。允亮は邸内に入って捜索することを奏請した。伊周は愛宕山(あたごやま)に逃げ隠れたが、允亮は配下を率いてこれを追った。伊周はついに配所に赴いた。(注:『古事談』)長徳四年(998年)、姓を改めることを奏請し、令宗朝臣(よしむねのあそん)の姓を賜った。ほどなく彈正判事(だんじょうのはんじ)を兼ねた。(注:『政事要略』)寛弘年間、河内守を兼ね、(注:『政事要略』『二中歴』)従四位下に叙せられ、検非違使佐(けびいしのすけ)となった。(注:『官職秘抄』)検非違使佐が四位に叙せられたのは、これに始まる。(注:『官職秘抄』『二中歴』)かつて父祖の旧記や諸書を編纂して『政事要略』百三十巻を著し、また『類聚判集(るいじゅうはんじゅう)』百巻を著した。(注:『仁和寺書籍目録』)その日記は『宗河記(そうがき)』といい、法律家たちはこれを準則としたという。(注:『清獬眼抄』)