卷之一百三十四 列傳第六十一
三善清行
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
三善清行
¶三善清行(みよしのきよつら)は字(あざな)を耀(よう)という(注:『公卿補任』『桂林遺芳抄』による。○考えるに、本書では清行の字を「三耀」としているが、これは姓を冠して字としたものである。菅原道真が「菅三」と称したのをはじめ、紀寛や橘能なども同様の例であるので、ここでは姓を除いて単称に従う。また『江談抄』によれば、清行はまた居逸(きょいつ)とも名乗ったという。清行と居逸とは音が近く、ちょうど紀長谷雄(きのはせお)を紀発昭と呼び、田忠臣を田達音と呼ぶのと同類である)。父は氏吉(うじよし)といい、淡路守(あわじのかみ)であった(注:『公卿補任』による)。清行は巨勢文雄(こせのふみお)に学び、文雄は彼を推薦して「才学は当代の輩に抜きん出ている」と言った。菅原道真(すがわらのみちざね)はこれを聞いて嘲笑した(注:『江談抄』による)。
¶貞観(じょうがん)年間、文章得業生(もんじょうとくごうしょう)となり、越前権目(えちぜんのごんのさかん)に任じられた。元慶(がんぎょう)五年、対策(たいさく、官吏登用試験)に及第した。同七年、判丁第(はんていだい)に改められ、まもなく大学少允(だいがくのしょうじょう)となった。仁和(にんな)年間、少内記(しょうないき)に遷り、従五位下(じゅごいのげ)を叙せられ、大内記(だいないき)に転じた。寛平(かんぴょう)年間、備中介(びっちゅうのすけ)となり、従五位上(じゅごいのじょう)に進んだ。昌泰(しょうたい)三年、刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)と文章博士(もんじょうはかせ)を兼ねた(注:『公卿補任』による)。
¶清行は革命(かくめい)についての意見書を奏上して次のように述べた。「天の道は奥深く遠く、聖人でさえこれを語ることは稀である。暦数(れきすう、運命を定める数理)は幽玄で分かりにくく、緯候(いこう、讖緯・占候の学)の説はとかく荒唐無稽とされがちである。それゆえこの学を修める者は迂遠だと言われ、これを伝える者は根拠のない話だと思われ、端木賜(たんぼくし、子貢)でさえその奥深さを嘆き、桓譚(かんたん、字は君山)はこれを妄作と疑った。しかしながら、神秘の経典や怪異の記録は、書物の奥深くに埋もれてはいても、易(えき)の卦爻(かこう)の変化は、竹簡や革紐(かわひも)で綴じられた書物の中に燦然と輝いている。それゆえ、私はあえて蛍火のようなわずかな光をもって、烏(からす)の輝きにも似た太陽の光に付け加えようと思う。臣、清行はひそかに易の説によってこれを考察するに、来年の二月は帝王革命(ていおうかくめい)の時期に当たる。君臣の間に大事が起こる運気であり、四六二六(しろくにろく)の数、七元三変(しちげんさんぺん)の兆候を数えると、これを漢土(かんど)の歴史に照らせば、上は黄帝(こうてい)から下は唐(とう)の李氏(りし)に至るまで、些かの誤りもない。またわが国に照らせば、上は神武天皇(じんむてんのう)から下は天智天皇(てんじてんのう)に至るまで、これもわずかの違いもない。してみれば、来年の変事に、どうして意を用いずにいられようか。謹んで思うに、陛下は文治を守る聖明な君主であられるが、時運はまさに草創(そうそう、新たな出発)の時期に当たっている。それゆえ、御即位の初めには朔旦冬至(さくたんとうじ、めでたい暦の巡り合わせ)の慶事に遭い、改元の後にはしばしば寿星(じゅせい、南極老人星)が現れる瑞祥(ずいしょう)を得ている。彗星(すいせい)が古きを掃(はら)う兆しを示し、多くの瑞祥が新しさを示す応(こた)えとなっている。天の巡りが改まり、人の心もこれを喜んで推し進めようとしている。すでに人々の見聞の間にはっきりと現れているのだから、どうして占いの術に仮託する必要があろうか。ただし、変革の際には必ず武力が用いられ、乱を鎮める中では誅殺が行われないことはない。なぜなら、帝王の革命とは、『周易(しゅうえき)』の革卦(かくか)の変化に当たるからである。革卦を見ると、下卦が離(り)、上卦が兌(だ)である。離は火、兌は金であり、金は変革される性質を持つとはいえ、火を得なければ変化しない。それゆえ金と火が一体となれば、上下が互いに害し合う。破壊し尽くす道理がすでに極まり、君臣の位が新たに定まる。国にとってこれほど不吉なことはない。謹んで願わくは、陛下におかれては予め深慮をめぐらされ、群臣に勅命を下して警戒を厳にし、仁恩をもって邪(よこしま)な企てを塞ぎ、威厳をもって異心を抑えられたい。近くに仕える者には慈しみの目を向け、群雄には赤誠の心を推し及ぼされたい。そうすれば、猪(いのしし)のように貪欲な者どもも自然と心を改め、食を控える美徳もついには善き結果をもたらすであろう。乱を治める時に衣裳(いしょう、平和な統治の象徴)を垂れ、戦に臨む時に環佩(かんぱい、身を飾る玉)を鳴らすことができれば、なんと美しいことではないか。臣、吉凶の判断は難しく、天の意志は見誤りやすいが、あえて赤心を捧げる次第である。白虎(びゃっこ)の樽で祝杯を挙げることを望みながらも、その玉のようなしるしを確かめるにつけ、黄竜(こうりゅう)の瑞祥に対して責めを負うことを恐れる」(注:『革命勘文』『改元記』による)。
¶この時、右大臣(うだいじん)菅原道真(すがわらのみちざね)は権勢と寵愛が並ぶ者なきほど盛んであったので、清行は道真に身を退くよう勧めた。しかし道真はこれを聞き入れなかった(注:『続古事談』による)。そこで清行は書を送って諫めて言った。「交わりが浅いのに深い話をするのは軽率であり、今の身でありながら将来を語るのは大言に過ぎるが、その罪は甘んじて受けよう。清行はかつて学問修行の折に、ひそかに術数(じゅっすう、陰陽・讖緯の学)を学んだ。天道が革(あらた)まる運気、君臣に大事が起こる時期については、緯候の学者たちが先にこれを説き起こし、開元(かいげん)の経典が下にこれを詳しく説いている。その年紀を推し量れば、掌(たなごころ)を指すように明らかである。これは尊閤(そんこう、あなた様)がすでにお見通しのことであろうから、愚かな儒者の私が何を申し上げようか。ただ、離朱(りしゅ、伝説の明眼の人)の明るい目でさえ自分のまつげの上の塵は見えず、孔子(こうし)の智恵をもってしても箱の中の物は分からないという。私も浅学ながら、あえて申し添える次第である。謹んで見るに、来年辛酉(かのととり)の年は、運がまさに変革に当たる。二月、卯(う)の月に当たり、まさに兵乱が起ころうとしている。凶事や禍(わざわい)に遭う者が誰であるかはまだ分からないが、弓を引いて市に矢を放てば、不運な者に当たるのも道理である。天の数理は幽玄で推し量りがたいとしても、人の世の動きは、はっきりと知ることができる。謹んで思うに、尊閤は文人としての才により身を起こし、大臣の位にまで昇られた。朝廷における寵栄と、その道における栄光は、吉備公(きびこう、吉備真備)をおいて並ぶ者がない。どうか止まるべきところを知り、ご自分の栄達の分を見極められたい。煙霞(えんか、隠者の暮らし)に心を遊ばせ、丘壑(きゅうがく、山野)に智恵を秘められれば、後の世の人々もこれを仰ぎ見ることになろう。それはまた美しいことではないか」(注:『本朝文粋』による)。道真はこれを聞き入れず、ついに左遷の憂き目に遭った(注:『続古事談』による)。
¶このとき、左大臣(さだいじん)藤原時平(ふじわらのときひら)が、諸官司や学生のうち菅原道真の門下にあった者たちを放逐しようとしたので、清行は書を送って諫めて言った。「近頃、京中の身分の上下を問わず皆が『外帥(がいそつ、道真)の門弟子で諸官司にある者は左遷され、その文章生(もんじょうしょう)や学生は皆放逐されるだろう』と噂しており、人々は悲しみ泣き、恐れおののいて立ちすくんでおります。思いますに、この事の成り行きは、必ずしも殿下ご本意によるものではないでしょう。しかし外帥は代々の儒家であり、その門人弟子は諸官司の半ばを占めております。もし皆を遷謫(せんたく)すれば、善良な人材を失うことを恐れます。悪逆の首謀者でさえなお軽い罪に処されるものですのに、門人に至っては、ただ教えを受けていただけであって、どうしてその企てを知っていたと言えましょうか。今はまさに世の乱れが騒がしい折であり、陰徳を積んで怨みの門を塞ぐのがよろしいでしょう。咎(とが)を多く問えば怨みも多くなり、寛大に許せば陰徳もまた大きくなります。謹んで願わくは、衛府(えふ)の宿衛や関所警備など兵事の要職にある者、及び道真の家司(けいし)や近親で謀反に加担した凶党の者を除いては、皆その職を動かすことなく、仁厚の心をお示しください。また式部丞(しきぶのじょう)平篤行(たいらのあつゆき)は、後進の中でも優れた人材であります。殿下はしばしばその才を称えられ、それも長年のことでございました。彼は外帥の門徒に名を連ねてはおりますが、常に殿下のご厚意に感謝しております。ところが今この噂を聞いて、日夜悲しみ泣いております。もしこの人物を失えば、学問の道が廃れることを恐れます。どうか恩情の意を伝えられ、才ある者の心をつなぎとめられますように」。時平はこれを聞いて放逐を思いとどまった(注:『本朝文粋』『政事要略』による)。
¶延喜(えんぎ)四年、清行は改元(かいげん)についての意見書を奏上して次のように述べた。「昨年十一月二十八日、謹んで愚見をもって、その年の正月・二月にあたる寅(とら)の月、卯(う)の月に革命の変事があるはずだと申し上げました。もしその予測が誤って的中したのであれば、その罪は万死に値します。謹んで思いますに、聖人は天地とその徳を合わせ、五行(ごぎょう)とその働きを同じくします。それゆえ天の道は急がずして速く至り、聖人は静かでありながら遅れることがありません。天の道は遠くないところで巡り戻り、聖人は動きながらも先んじることがありません。まして君主が臣下を得ること、臣下が君主に巡り会うことは、すべて天の授けるところであり、決して人為によるものではありません。その巡り合わせは風雲のごとく、その契りは魚と水のようなものです。それゆえ周(しゅう)の文王(ぶんおう)が呂尚(りょしょう、太公望)に出会ったのは玄亀(げんき)の兆しによるものであり、漢(かん)の高祖(こうそ)が張良(ちょうりょう)を用いたのは黄石公(こうせきこう)の神霊によるものでした。今まさに天の時運は革命の巡りを開き、天象は新たな始まりを示す瑞兆(ずいちょう)を垂れています。聖なる君主がその霊妙な機微を動かし、賢い臣下が朝廷の勝利を決するのです。この巡り合わせの妙を論じれば、その道理は自然のままです。もしなお謙譲の心にとらわれれば、かえって疑いを深めることになりましょう。この改元の制を滞らせ、新たな治世を始める話を抑えれば、天の意に背き、かえって咎(とが)の兆しを招くことを恐れます。謹んで願わくは、三皇五帝(さんこうごてい)の巡りに従い、四六(しろく)の変化の時運にすべて合わせ、遠くは太祖神武天皇(じんむてんのう)の遺された跡を踏み、近くは中宗天智天皇(てんじてんのう)の築かれた基業を継がれますように。この新たな出発を始め、中興の実を期すべきです。鳳暦(ほうれき、天子の暦)に新たな元号を建て、雷鳴(らいめい)のごとく大赦の令を布かれますように」。天皇はこれを嘉(よ)みして受け入れ、延喜(えんぎ)と改元した(注:『革命勘文』『改元記』による)。
¶まもなく清行は大学頭(だいがくのかみ)を兼ね、式部少輔(しきぶのしょう)となり、従四位下(じゅしいのげ)を叙せられ、式部大輔(しきぶのたいふ)に遷った(注:『公卿補任』による)。天皇はまさに政治に励んで治世を図ろうとし、詔(みことのり)を下して率直な意見を求めた。清行は意見十二箇条を奏上して次のように述べた。
¶「臣、去る二月十五日の詔を謹んで拝読いたしました。そこには『広く公卿(くぎょう)・大夫(たいふ)・方伯(ほうはく、国司)・牧宰(ぼくさい、地方長官)に、正しい議論を奉り、知恵を尽くすよう命ずる。歴代の王による澆薄(ぎょうはく、薄情)な風を改め、万民を塗炭(とたん)の苦しみから救い出せ』とありました。これは唐堯(とうぎょう、陶唐氏、堯帝)が諫鼓(かんこ、諫言のための太鼓)を設けたことや、周(しゅう)の盛世に官箴(かんしん、官に対する戒めの言葉)を制定したことになぞらえても、その徳政の美しさは、これに勝るものはございません。臣が謹んで昔の記録を調べますに、わが朝廷は神々の血統を伝え、天然の要害によって国土を開き、土地は肥沃で、人民は豊かでありました。東は粛慎(みしはせ)を平定し、北は高麗(こま)を服させ、西は新羅(しらぎ)を虜(とりこ)とし、南は呉会(ごかい、中国江南)を臣従させました。三韓(さんかん)はわが朝に入朝し、百済(くだら)はわが属国となりました。唐(とう)の使者はこれに賄(まいない)を納め、天竺(てんじく、インド)の僧はこれに帰化いたしました。それはなぜかと申しますと、国の風俗が篤く素朴で、民の気風が忠実で厚く、租税の取り立てを軽くし、徴発の労役を少なくしたからでございます。上の者は仁をもって下を治め、下の者は誠を尽くして上を戴く。一国の政治は、あたかも一身を治めるかのようでございました。それゆえ中国の史書はわが国を『君子の国』と呼び、唐の皇帝はわが国の天皇の尊さを推(お)し重んじたのでございます。しかしその後、風俗の教化は次第に薄れ、法令はますます煩雑になり、租税の取り立ては年ごとに増し、労役は代を追うごとに倍加いたしました。戸口(ここう)は月ごとに減り、田畑は日ごとに荒れ果ててまいりました。そうしたところに、欽明天皇(きんめいてんのう)の御代に仏法が初めてわが国に伝わり、推古天皇(すいこてんのう)以後はこの教えが盛んに行われ、上は公卿・官人から下は諸国の民に至るまで、寺塔を建てない者は人数にも数えられぬありさまでございました。それゆえ人々は財産を傾け尽くして仏塔を造営し、競って田園を寺の土地として喜捨し、多くの良民を買い取って寺の奴婢(ぬひ)といたしました。天平(てんぴょう)の頃になりますと、仏教はいよいよ尊ばれ、ついには田園を傾け尽くして多くの大寺を建立いたしました。その堂宇(どうう)の高さ、仏像の大きさ、工芸の巧みさ、荘厳の見事さは、まるで鬼神の作ったもののようで、とても人の力によるものとは思えぬほどでございました。さらに七道(しちどう)諸国に命じて、国ごとに国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)の二寺を建てさせ、その造営費用はそれぞれの国の正税(しょうぜい)を用いさせました。これにより天下の財政は十分の五を費やしました。桓武天皇(かんむてんのう)の御代に至り、都を長岡(ながおか)に遷し、その造営が終わるとさらに新たな都(平安京)を営み、大極殿(だいごくでん)を再び造り、豊楽院(ぶらくいん)を新たに構えました。また宮殿・楼閣、百官の官庁、親王(しんのう)・公主(こうしゅ、皇女)の邸宅、后妃(こうひ)・嬪御(ひんぎょ)の宮館まで、すべて土木の技を尽くし、調(ちょう)・庸(よう)の税をことごとく費やしました。これにより天下の財政は五分の三を費やしました。仁明天皇(にんみょうてんのう)が即位されると、殊に奢侈(しゃし)を好まれ、彫刻を施し、錦繍(きんしゅう)や綾織物を用いられました。農事を妨げ女子の仕事を損なうような制度は朝に定めて夕べに改まり、日ごと月ごとに変わりました。後宮の飾りや宴遊・歌舞の準備は、華麗さにおいて古今に比類なきものとなりました。これにより国庫は空となり、租税の取り立てはますます激しくなりました。これにより天下の財政は二分の一を費やしました。貞観(じょうがん)年間には、応天門(おうてんもん)と大極殿がしばしば火災に遭いました。太政大臣(だじょうだいじん)昭宣公(しょうせんこう、藤原基経)の身を顧みぬ誠意と、衆望を集める力とにより、庶民が子のように馳せ参じ、諸国から人々が群れ集まって、この建物を修復し、一年でこれを成し遂げました。しかしそれでも天下の財政は、さらに二分の一を失う結果となりました。してみれば、今の時代の財政は、かつての時代の十分の一にも及ばないのでございます。
¶臣は去る寛平(かんぴょう)五年、備中介(びっちゅうのすけ)に任ぜられました。その国の下道郡(しもつみちのこおり)に邇磨郷(にまのごう)という土地がございます。その国の風土記(ふどき)を見ますと、皇極天皇(こうぎょくてんのう)六年、唐(とう)の将軍蘇定方(そていほう)が新羅(しらぎ)の軍を率いて百済(くだら)を討伐し、百済が使者を遣わして救援を乞うたとあります。天皇は筑紫(つくし)に行幸(ぎょうこう)され、救援の兵を出そうとされました。その時、天智天皇(てんじてんのう)は皇太子として政務を摂(と)り従っておられましたが、その途上、下道郡に宿られた折、ある郷の戸口(ここう)が非常に栄えているのをご覧になりました。天皇が詔(みことのり)を下してこの郷から試みに兵士を徴発させたところ、二万人もの精兵を得ることができました。天皇は大いに喜ばれ、この邑(むら)を『二万郷(にまのごう)』と名付けられ、後に『邇磨(にま)』と改められました。その後、天皇は筑紫の行宮(あんぐう)で崩御(ほうぎょ)され、結局この軍は派遣されませんでした。それならば、この二万の兵士は、その後もますます増え栄えているはずでございます。ところが天平神護(てんぴょうじんご)年間、右大臣吉備朝臣(きびのあそん、吉備真備)がこの郡の大領(だいりょう)を兼ねていたとき、試みにこの郷の戸口を計算したところ、課役を負う成人男子(課丁)はわずか千九百余人しかおりませんでした。貞観(じょうがん)の初め、亡き民部卿(みんぶきょう)藤原保則(ふじわらのやすのり)朝臣がその国の介(すけ)であったとき、旧記に『二万兵士』とある記述を見て、大帳(だいちょう、戸籍台帳)を作る際にその課丁を調べたところ、七十余人しかありませんでした。清行が任地に着いてこの郷の戸口を調べたところ、老丁(ろうてい)二人、正丁(せいてい)四人、中男(ちゅうなん)三人しかおりませんでした。去る延喜十一年、その国の介藤原公利(ふじわらのきんとし)が任期を終えて都に帰った際、清行が『邇磨郷の戸口は、今どれほどになっているか』と尋ねたところ、公利は『一人もおりません』と答えました。謹んでその年数を計算しますと、皇極天皇六年庚申(かのえさる)から延喜十一年辛未(かのとひつじ)まで、わずか二百五十年にすぎません。衰退の速さは、これほどのものでございます。一つの郷からこれを推し量れば、天下の疲弊は、掌(たなごころ)を指すように明らかでございます。
¶今、陛下は千年に一度の巡り合わせを担われ、万古の興亡盛衰を照らし見られ、多くの民に憐れみの心を垂れ、四方に恩愛を施しておられます。夜も明けぬうちに起き、日が傾いてから食事をとられ、夜は思いを巡らせ朝には政務に励まれ、広く詔(みことのり)を頒布し、広く民草にまで意見をお求めになっておられます。昔、虞(ぐ)の舜(しゅん)が住んだところは三年で都となり、孔子(こうし)が政治を行えば一か月ほどで自ずと治まったと申します。それならば、民が再び増え栄えるのは五代を待つまでもなく、国が再興するのも、十日ほどの間に叶うはずでございます。臣、喜びに堪えず、あえて愚見を述べ、謹んで以下に記し、天のご裁断をお待ち申し上げます。」
¶第一条。「民を以て天と為す。民は食を以て天と為すのであって、民がいなければ何に頼り、食がなければ何を資(たす)けとしましょうか。してみれば、民を安んずる道、食を足らす要は、ただ水害や旱魃(かんばつ)が起こらず、毎年の穀物が豊作となることにございます。それゆえ朝廷は毎年、神祇官(じんぎかん)において祈年祭(としごいのまつり)・月次祭(つきなみのまつり)を行い、厳かに斎戒(さいかい)して広く神々に祈り、豊作を願っております。その返礼として、神祇官では社ごとに幣帛(へいはく)・清酒・鉄鉾(てつぼこ)を棚の上に並べます。馬を献上する社もあり、祝部(はふりべ)は身を清めてこれを捧げ持って進めるべきところ、実際には上卿(しょうけい)の前で、幣帛の絹はすぐに懐に入れられ、鉾の柄(え)は捨てられてその穂先だけが取られてしまいます。瓫(かめ)の酒は傾けて一気に飲み干され、これを完全に神祇官の門から持ち出す者は一人もございません。まして神馬(しんめ)などは、郁芳門(いくほうもん)の外で市の商人がすべて買い取って去ってしまう始末でございます。してみれば、祭られている神々は、はたして供物を享(う)けておられるでしょうか。もし享けておられないならば、どうして豊作を求めることができましょうか。謹んで願わくは、諸国に勅を下し、史生(ししょう)以上の役人二名を差し向け、祝部を率いて祭物を直接その社に届けさせ、神がそこにいますかのような礼を尽くさせていただきたく存じます。また朝廷は毎年、吉祥悔過(きちじょうけか)・仁王会(にんのうえ)を修して豊年を祈り、疫病を鎮めております。しかし今これを修める僧徒の多くは、そのふさわしい人物ではございません。上は僧綱(そうごう)から下は諸寺の僧に至るまで、戒律を守る者は少なく、律を破る者が多うございます。このような修行で、どうして御利益に与れましょうか。御利益はもとより望むべくもなく、かえって妖(あや)しい咎(とが)が至ることさえ恐れられます。謹んで願わくは、乱行の噂のある僧たちは、一切これらの法要に用いないようにしていただきたく存じます。また諸国の国司たちは多忙で手が回らず、国内の仏事は講読師(こうどくし)に委ねられておりますが、その多くは戒律を守る者ではなく、あるいは労役を金銭で贖(あがな)っただけの者たちでございます。まして国分寺の僧は、皆恥知らずの徒であり、妻を蓄え家を営み、田を耕し商いをする有様でございます。それなのに国司が慣例に従って祈念を行わせ、その御利益を望むのは、たとえるならば木に縁(よ)りて魚を求め、竈(かまど)に向かって花を採ろうとするようなものでございます。重ねて願わくは、諸国の講読師は、たとえ官位の階梯を経ていても、精進潔斎して修行に励む者でなければ任用しないでいただきたく存じます。また国分寺の僧に乱れた行いがあるのに、講読師がこれを糺(ただ)さない場合は、その講読師を解任していただきたく存じます。このようにすれば、聖なる君主の祈りには速やかに感応があり、公田(こうでん)の税は都に山と積まれるほどに蓄えられ、百日の雨も時節に従って降り、豊作を詠う声が街に満ちることでございましょう。」
¶第二条。「昔の聖明な王たちの御代には、節倹(せっけん)を尊び、奢侈(しゃし)を禁じ、洗い張りした衣を着し、粗末な食事を口にされました。ところが澆薄(ぎょうはく)な風潮が次第に広がり、王の教化が行き渡らなくなり、百官(ひゃっかん)・諸役人、女官や侍女たち、さらには権貴の子弟や京洛(けいらく)に無為に暮らす徒輩に至るまで、衣服・飲食の奢りと賓客をもてなす宴の費用は日に日に華美になり、際限を知らぬありさまでございます。今、その一端を挙げて事実を申し述べます。貞観(じょうがん)・元慶(がんぎょう)の時代には、親王・公卿は皆、生の筑紫絹(つくしぎぬ)を夏の汗衫(かんさん、下着)とし、晒(さら)した絁(あしぎぬ)を表袴(うえのはかま)とし、東絁(あずまあしぎぬ)を韈(したうず、靴下)とし、染めた絁を履(くつ)の裏としておりました。ところが今では、諸官司の史生(ししょう)ですら皆、白い練絹(ねりぎぬ)を汗衫とし、白絹を表袴とし、白綾(しろあや)を韈とし、兎褐(とかつ)を履の裏とし、その婦女に至っては侍女に至るまで、斉紈(せいがん、上質の絹)でなければ裳(も)を着けず、越綾(えつりょう)でなければ衣を裁たぬというありさまでございます。その他の奢侈は、逐一申し述べることもできぬほどでございます。富める者はその贅を誇り、貧しい者はこれに及ばぬことを恥じます。一着の衣が一生の財産を破り、一度の饗宴が数年分の資産を使い尽くしております。田畑はこれによって荒れ果て、盗賊はこれによってますます起こっております。このまま禁じなければ、聖なる教化を損なうことを恐れます。謹んで願わくは、身分に応じて衣服の制を定め、検非違使(けびいし)に命じてその分をこえた奢りを糺していただきたく存じます。また、王臣から庶人に至るまで、死者の冥福を追う儀礼や葬送の費用は、その身分に応じてそれぞれ定めがございます。しかし近年、喪家(そうか)では七七日(なななぬか)の法要や一周忌の法会において、競って財産を傾け、盛大に斎(とき)の供養を設け、一台の食膳が積み上げられて方丈(ほうじょう)を超えるほどになり、一人の僧への布施が千金にも及ぶほど費やされております。あるいは他家から借金をし、あるいは自宅を売り払う始末で、孝行な子は借金から逃げる者となり、幼い孤児はさすらって飢え死にする者となっております。そもそも育ての恩を受けた者ならば、誰しも故人を偲び恩に報いたいという志を持たぬ者はございません。しかしながら、この功徳を修めるにも、しかるべき程度がございましょう。どうして必ず子孫の財産を破らせてまで、亡き父祖の冥福を期さねばならぬのでしょうか。まして、この斎(とき)を修める家では、さらに弔問客をもてなす饗宴を設け、盃のやりとりが飛び交い、まるで宴会のようになっております。初めは這いつくばって泣く悲しみがありながら、たちまち酒に酔う楽しみに変わってしまいます。孔子は喪のある人の傍らで食事をするときには、決して満腹になるまで食べなかったと申しますが、これはそれとまるで正反対ではございませんか。ただ、都とその周辺には道場(法要の場)が数多くあり、検非違使もこれをすべて禁じる暇がございません。謹んで願わくは、公卿・大夫・百官諸国司に勅を下し、それぞれこの分をこえた奢りを慎ませ、天下の庶民にもその節度を知らしめていただきたく存じます。また維摩会(ゆいまえ)・最勝会(さいしょうえ)の竪義僧(りゅうぎそう)たちは、皆貧しい修行の身であり、一鉢の食のほかに何の資産もございません。しかし近年、僧綱(そうごう)や聴衆への斎(とき)の供養が盛んになり、食膳が山のように積まれるばかりか、美酒が淮水(わいすい)のように注がれ、すでに仏の戒律に背き、聖なる教化をも損なっております。謹んで願わくは、僧綱に戒めを申し伝え、早くこれを禁じていただきたく存じます。上に立つ者が正しく率いなければ、下の者は自ずと乱れます。もし公卿が法を守り、僧統(そうとう)が制度に従うならば、源(みなもと)が澄んで流れも自ずから清くなり、表が正しければ影も必ずまっすぐになりましょう。」
¶第三条。「朝廷が口分田(くぶんでん)を班(わか)ち与えるのは、調(ちょう)・庸(よう)を収め、正税(しょうぜい)を挙げるためでございます。ところが今では、すでにその田は不正に扱われ、ついには貢納すら欠けるありさまでございます。国司は無用な田籍を空しく抱え、豪族や富める者はますます土地を兼併(けんぺい)して利を収めております。これは朝廷の損失が深いだけでなく、役人の統治の妨げともなっております。今、諸国に命じて実際の人口を調べさせ、口分田を班給させるべきでございます。その余った田は、国司がこれを公田として収め、随意にこれを貸し出すべきです。もし地子(じし、地代)を納めさせれば、それを口分田の割り当てを受けられない民の調庸租税に充てることができます。なお余った稲は、そのまま納めさせて動かさないようにします。今、その収入される見込みの額を概算しますと、百姓が納める調庸の三倍にもなります。朝廷にとって利益となり、民にとっても煩わしさがない、これはひとえに国司が専断で行うべきことであって、特に差し支えはないはずでございます。しかし旧来の慣例に反することでもあり、民の愁いを招くことも恐れられます。謹んで願わくは、諸国に勅を下し、試みにこれを施行させていただきたく存じます。」
¶第四条。「国を治める道は、賢者・有能な人材を根源とし、賢者を得る方法は、学校を根本とします。古の明王は必ず学校を設け、徳義を教え、経学(けいがく)や技芸を習わせて人の道を正しました。わが朝廷が大学(だいがく)を設立したのは大宝(たいほう)年間に始まります。天平(てんぴょう)年間に至って、右大臣吉備朝臣(きびのあそん、吉備真備)が学問と技芸を大いに広め、自ら教授にあたりました。すなわち学生四百人に、五経(ごきょう)・三史(さんし)・明法(みょうぼう)・算術・音韻・籀篆(ちゅうてん、書体学)の六道を修めさせました。その後、代々勅命が下され、越前国(えちぜんのくに)加賀郡(かがのこおり)の没官田(もっかんでん)百余町、山城国(やましろのくに)久世郡(くせのこおり)の公田三十余町、河内国(かわちのくに)茨田(まんだ)・渋川(しぶかわ)両郡の田五十五町が学生の食料に充てられ、『勧学田(かんがくでん)』と名付けられました。また毎日、大炊寮(おおいりょう)から百度飯(ひゃくどのいい)一石五斗が支給され、読書に励む労をねぎらうのに充てられました。さらに勅命により常陸国(ひたちのくに)は毎年稲九万四千束を、丹後国(たんごのくに)は稲八百束を挙(あ)げ出挙(すいこ)し、その利稲を学生の食料に充てさせました。しかし年月が経つにつれ、これらの制度はことごとく違えられてしまいました。承和(じょうわ)年間には、加賀郡の勧学田が伴善男(とものよしお)に返し与えられました。また勅命により久世郡の田を四分し、その三分を典薬(てんやく)・左右馬(さゆうめ)の三寮に与え、わずかにその一分だけを学生の食料に残しました。河内国の両郡の田は水害に遭って河となり、常陸・丹後の出挙稲は元本ごと失われ、利稲もなくなってしまいました。今日残っているのは、ただ大炊寮の飯料米六斗と、久世郡の残田七町(注:七町の数字は『政事要略』による)のみでございます。これで数百人の学生を養おうとすれば、薄い粥を作ってさえも、なお大いに不足しております。それゆえ後進の者たちは大学を困窮の府、凍え飢える里だと思い込み、ついには親たちが互いに戒め合い、子孫を大学に入れないようにする有様となっております。これにより南北の講堂は生い茂る雑草に覆われ、東西の役所は人けなく静まり返っております。そのため博士たちは、人材を推挙する時期になると、ただ経歴の名簿によって人を推薦するばかりで、才能の優劣や努力の程度を問うことがありません。これにより請託(せいたく、私的な口利き)が横行し、いい加減な者たちが数多く紛れ込むようになりました。権門の余沢に浴する者は羽翼を得て高い地位に昇り、孔子の学問の道を歩む者は、志半ばで学舎(がくしゃ)を去るありさまでございます。このような衰退が続けば、再興のすべもございません。先王が設けた学校は、ついに廃墟と化してしまいましょう。人材を集める道は、まず食を根本とします。どうか、諸国の田租(でんそ)の穀物をもって、常陸・丹後の出挙利稲に代えて学生たちの食料に充てていただきたく存じます。加賀郡の田は元通り勧学田に戻していただきたく存じます。また式(しき、律令の施行細則)には『学生で寮に住まぬ者は、推薦してはならない』とございます。近年この式がありながら実行されないのは、学生に食料がないことによるものでございます。今、博士や寮頭(りょうとう)らに厳しく命じ、諸道の学生は、たとえ才芸があっても、寮に居住していない者は推薦してはならないとしていただきたく存じます。このようにすれば、優れた俊才たちはわが国の学問の府に集まり、立派な人材が朝廷の列に並ぶことになりましょう。」
¶第五条。「朝廷の五節(ごせち)の舞姫(まいひめ)は、大嘗会(だいじょうえ)の時には五人が選ばれ、位を授かる資格が与えられます。新嘗会(にいなめえ)の時には四人が選ばれますが、位を授かる例はございません。それゆえ大嘗会の年になると、権門貴族の家は競ってその娘を差し出しますが、通常の年には皆これを辞退いたします。謹んで先例を調べますに、弘仁(こうにん)・承和(じょうわ)の二代は、殊に後宮の寵愛を好まれた時代であったため、諸家に広くこの舞姫を選び進めさせ、後宮に入れる便宜としておりました。今、聖なる朝廷では男女の別をわきまえた規律を正しく保たれており、この舞姫たちは舞を終えれば家に帰り、天皇の御寝所に侍ることはございません。それならば、この数人の舞姫は、いったい何の用に立つのでございましょうか。謹んで願わくは、良家の未婚の女子二人を選んで五節の舞姫とし、その時節の衣服や月々の費用を、いくらか手厚く支給していただきたく存じます。祭りの当日の衣装も、朝廷の物を賜るようにしていただきたく存じます。もし貞節を守って嫁がず、十年を経た者があれば、女官としての叙位に与らせ、嫁ぐことを許していただきたく存じます。宮仕えを続けることを望む者は、蔵人(くろうど)の列に加えていただきたく存じます。」
¶第六条。「謹んで職員令(しきいんりょう)を調べますに、『判事(はんじ)六人は、皆人の罪を裁断することを掌る』とございます。近頃では、大判事(だいはんじ)一名は常に律学(りつがく)に通じた者が任じられますが、その他の五人は必ずしも明法(みょうぼう)の道に通じた者ではございません。寛平(かんぴょう)四年、詔により四人が省かれ、ただ大判事・少判事(しょうはんじ)各一人のみが置かれることとなりました。しかしそれでもなお、大判事は法律家が独り任じられているものの、少判事はふさわしい人物ではございません。今、この詔の趣旨を考えますに、ひそかに疑いを抱かざるを得ません。なぜなら、聖なる君主の政治において、刑法は最も重大なものでございます。昔、皋陶(こうよう)は大賢者として刑官(理官)となり、帝舜(ていしゅん)もなお『慎め慎め、ただ刑罰については憐れみの心を持て』と戒められました。後漢の光武帝(こうぶてい)は刑獄を明察に詳しく調べることを重んじ、桓譚(かんたん)もまた『法を扱う役人の好悪の情によって、刑罰には二つの門が開かれてしまう』と奏上いたしました。してみれば、疑わしい訴訟の裁断は、古今を通じて難しいものでございます。それなのに今、万民の生死を一人の肩と口先にかけ、五刑(ごけい)の軽重を、一人の独断による判決文で決めております。これはすでに事実を確かめる道理に背き、濫(みだ)りな罰の科(とが)を招くことを恐れます。近頃、安芸守(あきのかみ)高橋良成(たかはしのよしなり)の罪について、大判事惟宗善経(これむねのよしつね)が遠流(おんる)の刑に処し、これによって螭魅(ちみ、悪霊)を防ごうとしました。すでに奏上され、太政官符(だじょうかんぷ)まで下っておりましたが、たまたま刑部大録(ぎょうぶのだいさかん)粟田豊門(あわたのとよかど)の異論により、良成の身は幸いにも赦免され、朽ちかけた骨に再び肉が付き、さまよう魂が生き返ったような有様でございました。してみれば、法律の適用にはこのように出入りがあり、信頼を置くことが難しいのでございます。天下の人々は皆、恐れおののいております。謹んで願わくは、旧来通り判事六人を置き、皆法律に明るく通じた者を選んで補任していただきたく存じます。そして共に法文を議論させ、条文を詳しく定めさせ、各々その意見を確かなものとした上で、天皇に奏上させていただきたく存じます。このようにすれば、怨みを残す裁判は永遠になくなり、罪人も自ら納得することでございましょう。扶南(ふなん)の鰐(わに)による神判を待つまでもなく、また堯(ぎょう)の時代の獬豸(かいち、神獣)を用いるまでもございません。」
¶第七条。「謹んで式(しき)の条文を調べますに、二月・八月には、百官(ひゃっかん)に春夏秋冬の季禄(きろく)を支給するとございます。しかし近年、官庫(かんこ)の物資が乏しく、行き渡らせることができません。公卿(くぎょう)や出納(すいとう)を扱う諸官司には毎年支給されておりますが、その他の一般の官人には、五、六年のうちに一季分の支給すら難しい有様でございます。謹んでこの事の趣旨を考えますに、上下の身分によって階級が分かれているため禄の多少が異なるのは当然であり、暇な役目と忙しい役目とで扱う物資の質に違いがあるのも当然でございます。しかし、いざ支給する段になれば、差別があってはならないはずでございます。どうして共に朝廷のために勤めながら、別に偏った待遇を受ける官人を作り出し、同じ列に並びながら、このような貧しい国のような風習を生み出してよいものでしょうか。謹んで願わくは、物資の多少を計算し、公卿から百官に至るまで、一日のうちに式の条文通りに一律に支給していただきたく存じます。もし官庫に物資がなければ、同様にすべて支給しないことにして、偏りのないようにしていただきたく存じます。このようにすれば、鳲鳩(しきゅう、かっこう)が桑の木にあって七羽の子を等しく養うように、また一杯の酒を川に投じて三軍の兵士が皆その味に酔うことを期待するように、公平が行き渡ることでございましょう。」
¶第八条。「牧宰(ぼくさい、国司)は、天子の憂いを分かち、一地方を委ねられる者でございます。国政の六条の綱紀(こうき)を総べ、万民の指導者となるべき存在でございます。それゆえ漢(かん)の宣帝(せんてい)は『朕(ちん)と共に天下を治める者は、ただ善良な二千石(にせんせき、郡の太守)のみである』と申しました。必ずその才能ある者を選んで用い、その職を尊び重んじるべきでございます。官の威厳を重んじて民の心を鎮め、小さな過ちには目をつぶって大きな功績を責め求めるべきでございます。ところが近年、任用された役人の中には、私怨を結んで上司の官長を誣告(ぶこく)する者があり、あるいは管轄下の民の中には、公事にかこつけて国司を怨んで訴える者がございます。朝廷はその訴状を受け取ると使者を派遣しますが、事の真偽を問うこともなく、理の是非をわきまえることもなく、ひたすら使者の型どおりのやり方に従って一律に処置し、官印や鍵を取り上げ、厳しく禁固し、官長という尊い身分でありながら、身分の低い小役人や賤民と肩を並べ、口を揃えて取り調べを受けさせております。その受け答えのうちに、わずかな食い違いでもあれば、たちまち縄をかけられ、牢獄に入れられてしまいます。訴えの内容が、たとえすべて事実に反していたとしても、すでに威信は失われ、政令は行われなくなってしまいます。教化を損なう原因として、これに勝るものはございません。先年、阿波守(あわのかみ)橘祕樹(たちばなのひめき)は、管轄地を粛清し、貢納を慎み実行いたしました。朝廷に尽くす誠意は、当時第一でございました。本来ならば、特に取り立てて登用し、善良な官吏の模範とすべきでございました。ところが身分の低い民の誣告により、朝廷の使者による取り調べを受けることとなりました。事はすべて偽りであり、訴えた者は逃亡してしまいましたが、それでも祕樹の身は結局廃人となってしまいました。このような有様では、恥を知る士は、誰が好んで役人になろうと思いましょうか。今の世は末世であり、公務も成し遂げがたいものでございます。それゆえ国司の統治も、何もかも正しい法にばかり拘泥することはできません。時には尺(しゃく)を枉(ま)げて尋(じん、より大きな長さ)を正しくするようなこともあり、始めは失敗しても終わりを全うすることもございます。昔、龔遂(きょうすい)は渤海(ぼっかい)の太守となったとき、上奏して『どうか丞相(じょうしょう)・御史(ぎょし)に勅命を下し、私を法文に拘束することなく、便宜に従って事に当たらせていただきたい』と申しました。またわが国の格(きゃく、律令の補足法令)にも『国司が原則に反しても事に応じた処置をとり、その行いが私利私欲によるものでなければ、寛大に許し、法文に拘泥しない』とございます。謹んで願わくは、これらの告発や訴訟については、謀反(むほん)・大逆(たいぎゃく)を除いては、一切朝廷の使者の派遣を停止し、もっぱら後任の国司に委ねていただきたく存じます。もし実際に罪過があった場合は、これを解由状(げゆじょう、離任時の引継ぎ文書)に詳しく記載しないこととし、これを検討・判定した後に、刑部(ぎょうぶ)の役所に下し、その罪科を諭していただきたく存じます。」
¶第九条。「謹んで内々に調べますに、三宮(さんぐう、太皇太后・皇太后・皇后)の舎人(とねり)、諸親王の帳内(ちょうない)・資人(しじん)、諸大夫(だいぶ)・命婦(みょうぶ)の位分資人(いぶんのしじん)、諸官司の勘籍人(かんじゃくにん)、諸衛府(えふ)の舎人などで、式部省(しきぶしょう)・兵部省(ひょうぶしょう)の二省が季符(きふ)に記載する者は、一年四季の間で三千人近くにも及びます。今、課役を負う成人男子(課丁)の概数を計算しますと、五畿内(ごきない)、陸奥(むつ)・出羽(でわ)、及び大宰府(だざいふ)管内九国を除いて、三十万人にも満ちません。そのうちの大半は、実際には身柄が存在しない者でございます。してみれば、実在する課丁はわずか十数万人にすぎません。この十数万人のうちから、毎年三千人の課役を除いていけば、大まかに計算しても四十年に満たぬうちに、天下の人は皆、課役を免れる民になってしまいます。それでは、国司はいったい誰に調庸を納めさせればよいのでございましょうか。このため、国司は免除の符(ふ)を奉行して、実際には富豪で実在する課丁の課役を免除し、代わりに実在しない課丁を計帳(けいちょう)に書き上げております。それゆえ、通例通りに調庸を納めようとしても、自然と徴収する手立てがなくなってしまいます。してみれば、調庸を集めがたいのは、決して国司の怠慢によるものではなく、すべてこの免除の符の乱発が招いた結果でございます。それなのに今、この結果をもって国司の怠慢とされ、解由状(げゆじょう)を得られずにいるとは、なんと悲しいことでございましょうか。謹んで願わくは、国の大小に応じて、毎年その定数を定めていただきたく存じます。大国は一年に十人、上国は七人、中国は五人、小国は二人を、免除の符に記載することとし、これ以外には一人も加増しないようにしていただきたく存じます。」
¶第十条。「諸国の検非違使(けびいし)は、境内の奸濫(かんらん、不正)を糺し、民間の凶悪邪悪な者を取り締まる役目を担っております。すなわち国司の爪牙(そうが)であり、万民を導く手綱でございます。必ず法律に明るく通じ、かつ判断に長けた者でなければなりません。ところが今この職に任じられている者は、皆その国の百姓であって、労役の代わりに贖(あがな)いの金品を納めた者ばかりでございます。いたずらに公の俸給を費やすばかりで、労役にも堪えられず、明察の役目を帯びながら、決してその器ではございません。これはまるで、絵に描いた餅は食べられず、木で作った役人は口をきけないようなものでございます。謹んで願わくは、明法(みょうぼう)を学ぶ学生を試験して選び、この職に任じていただきたく存じます。その試験のやり方は、明経(みょうぎょう)の国学の試験と同様にし、国中の追捕(ついぶ)や断罪はすべてこの検非違使に委ね、あたかも都に判事(はんじ)や検非違使があるのと同様にしていただきたく存じます。また辺境の諸国に、それぞれ弩師(どし、弓弩の師範)を置くのは、外敵の侵略に備えるためでございます。臣が謹んで思いますに、わが朝の武器のうち、強弩(きょうど、強力な弓弩)は神技とも言うべきものであり、その用途としては、追撃には短所がありますが、防御には長所がございます。古くから伝わる言葉に『この武器は神功皇后(じんぐうこうごう)が巧みな工夫によって特別に製作されたものである。それゆえ唐国(とうこく)に弩という名の武器はあっても、この武器の強靭さには及ばない』と申します。陸奥(むつ)・出羽(でわ)の両国では、しばしば蝦夷(えみし)の反乱がございます。大宰府(だざいふ)管内の九国では、常に新羅(しらぎ)からの警戒がございます。その他、北陸(ほくりく)・山陰(さんいん)・南海(なんかい)の三道の沿海の国々も、皆隣国からの侵略に備えるべきところでございます。ところが今、弩師の職は皆、年給(ねんきゅう、位階に応じた収入)に充てられ、これを売買することが許されており、ただ価格の高低が論じられるばかりで、才能や技量の優劣は問われておりません。それゆえこの職に任じられる者は、軍器に弩(ど)があることさえ知らず、まして機(からくり)や弦(つる)の使い方を理解していないのでございます。もし隣国の敵が攻めてくるようなことがあれば、いたずらにこの武器を抱えているだけで、いったい誰がこれを用いることができましょうか。謹んで願わくは、六衛府(ろくえふ)の宿衛(しゅくえい)の者たちに弩を射る技術を練習させ、その才能や技量を試験し、その功労に応じて弩師に任じていただきたく存じます。そうすれば、人材はその名にふさわしくなり、城や砦も守りやすくなることでございましょう。」
¶第十一条。「謹んで去る延喜元年の官符を見ますに、すでに権門貴族が山川を囲い込み占有すること、勢力ある家が田地を侵し奪うことを禁じております。これは州郡(しゅうぐん)の茨(いばら)を刈り取り、万民を害する害虫を除くものであり、役人の統治も施しやすく、民の暮らしも安らかになりましょう。しかしなお凶暴で邪悪な存在として残っているのが、悪僧(あくそう)と宿衛(しゅくえい)の者たちでございます。謹んで思いますに、諸寺の年分度者(ねんぶんどしゃ)や臨時の得度者(とくどしゃ)は、一年のうちに二、三百人にも及ぶことがございます。その半分以上は、皆邪(よこしま)で乱れた輩でございます。また諸国の百姓で課役を逃れ、租調(そちょう)を怠ろうとする者は、私的に髪を落とし、みだりに僧衣を着けております。天下の人民の三分の二は、皆このような剃髪した者たちでございます。彼らは皆、家に妻子を蓄え、口には生臭いものを食らい、姿は僧のようでありながら、心は屠殺人(とさつにん)のようでございます。ましてその甚だしい者に至っては、群盗となって集まり、ひそかに私鋳銭(しちゅうせん)を鋳造し、天の刑罰を畏れず、仏の戒律も顧みません。もし国司が怖じ気づいてこれを取り調べようとすれば、彼らは霧のように雲のように集まり、競って暴逆を働きます。先年、安芸守(あきのかみ)藤原時善(ふじわらのときよし)を攻め囲み、紀伊守(きいのかみ)橘公廉(たちばなのきんかど)を脅し略奪した者たちは、皆この乱れ悪しき僧たちが首謀者となったものでございます。もし太政官符の発行が遅れ、朝廷の使者の派遣が緩慢であったならば、時善や公廉はいずれも彼らの餌食となっていたことでございましょう。もし禁圧する制度がなければ、防衛の方策に背くことを恐れます。謹んで願わくは、僧たちの中でいたずらに凶悪乱行を働く者は、直ちに追捕(ついぶ)し、得度の縁を証する戒牒(かいちょう)を取り上げて返上させ、俗服(ぞくふく)を着させて元の課役に戻していただきたく存じます。また私度(しど、無許可で出家した)の沙弥(しゃみ)で凶党に加わる者は、直ちに枷(かせ)をはめて、その身を使役していただきたく存じます。また六衛府(ろくえふ)の舎人(とねり)は、皆毎月交代で勤番し、朝夕警備に当たるべきものでございます。しかし今では諸国に散らばり、あるいは千里も離れた駅路の彼方、百日の行程を要する境にいる者もおり、どうして門籍(もんじゃく、名簿)に名を連ね、宿衛の勤番を分担することができましょうか。彼らは皆、その地方の強豪であり、民間の凶暴な者たちでございます。国司が法に基づいてこれを取り調べようとすれば、あわてて都に馳せ上り、金品を納めて宿衛の職を買い取ったり、あるいは徒党を率いて国府を包囲し脅したり、あるいは老いた拳を振るって官長を凌辱したりいたします。その害悪は、単なる疥癬(かいせん、皮膚病)のような軽いものではございません。そもそも衛府の兵士を選んで置くのは、緊急事態に備えるためでございます。ところが今、彼らは遠く地方にあって、都には居住しておりません。もし緊急のことがあっても、馳せ参じることができません。してみれば、いたずらに諸国の豺狼(さいろう、山犬と狼)となっているだけで、決して六軍を守る猛獣とはなっておりません。願わくは、諸衛府の舎人は、任命された後は本国に帰り住むことを許さないようにしていただきたく存じます。もし帰郷を望む者があれば、それぞれ休暇の日数を限り、本府の証文を取って国衙(こくが)に送り届けさせ、期限を超えて滞在することを許さないようにしていただきたく存じます。もしなお怠けて期限内に戻らない者があれば、国司はまずその職を解き、その事情を記録して本府に牒(ちょう、公文書)で送っていただきたく存じます。このようにすれば、猨臂(えんぴ、猿のような腕の強者)が門の柵に肩を並べて守り、犬の吠える声も国中で鳴りやむことでございましょう。」
¶第十二条。「臣が謹んで見ますに、山陽(さんよう)・西海(さいかい)・南海(なんかい)の三道における船の航海の行程は、檉生泊(むろうのとまり)から韓泊(からとまり)まで一日の行程、韓泊から魚住泊(うおずみのとまり)まで一日の行程、魚住泊から大輪田泊(おおわだのとまり)まで一日の行程、大輪田泊から河尻(かわじり)まで一日の行程と定められております。これらは皆、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が行程を計算して建置されたものでございます。しかるに今、朝廷はただ大輪田泊のみを修造し、魚住泊は長らく廃れたままにしております。そのため公私の船は、一日一夜のうちに続けて航行し、韓泊から一気に大輪田泊を目指すこととなっております。冬の季節、風が急に強まり、暗い夜には星もまばらであると、船首と船尾の前後も分からず、岸辺の遠近もわきまえられず、帆を落とし櫂(かい)を捨てて、漂流・沈没の憂き目に遭う始末でございます。これにより毎年、転覆する船は百艘を超え、溺死する人は千人にとどまりません。昔、夏(か)の禹王(うおう)は仁徳深く、罪人でさえその処罰に涙されたと申しますのに、まして、この百姓たちは、皆朝廷の役務に赴く途中の者たちではございませんか。謹んで思いますに、聖なる御心をもって、必ずや哀れみをお垂れくださることと存じます。臣が謹んで昔の議を調べますに、この泊(とまり、港)は天平(てんぴょう)年間に建立されたものでございます。その後、延暦(えんりゃく)の末まで五十余年の間、人々はその便益を得ておりました。弘仁(こうにん)の時代になると、風浪の浸食を受けて石は崩れ砂は流れ去りました。天長(てんちょう)年間、右大臣清原真人(きよはらのまひと)が奏議を起こしてこれを修復いたしました。承和(じょうわ)の末には、再び破壊されてしまいました。貞観(じょうがん)の初めに至り、東大寺の僧賢和(けんな)が菩薩行を修め、利他の心を起こし、石を背負い鋤(すき)を担いで力を尽くして基礎工事を行いました。彼一人の誠意によって、その事業は完成には至らなかったものの、その後の数年間、人々はその恩恵を蒙らぬことはございませんでした。賢和が入滅してからおよそ三十年、人民の漂流・水没は数え切れず、官物の損失もまた巨万に及んでおります。謹んで願わくは、諸官司の判官(はんがん)で有能かつ工夫に長けた者を差し向け、この泊を修理させていただきたく存じます。その費用は播磨(はりま)・備前(びぜん)両国の正税を充てていただきたく存じます。願わくは、早く朝廷が援助の仁徳を垂れられ、天の民が魚の餌食となる嘆きから脱せしめられんことを。その他の便宜については、去る延喜元年に献上した意見書に詳しく記載しておりますので、ここに重ねて述べることはいたしません」(注:『本朝文粋』による。○延喜元年に奉った意見書は、今は伝わっていないため、ここには載せない)。
¶延喜(えんぎ)十七年、清行は参議(さんぎ)に任じられ、宮内卿(くないきょう)を兼ねた。翌年、播磨権守(はりまのごんのかみ)を兼ねた。十二月に薨去(こうきょ)した(注:『公卿補任』による)。享年七十二(注:『本朝文粋』に載る「詰眼文(きつがんぶん)」に、延喜十三年に自分は六十七歳であると記されているのに基づく。『公卿補任』では七十五歳とし、『日本紀略』『扶桑略記』では七十三歳とするが、いずれも誤りである)。清行は法律に明るく、算術に精通し、経書・史書を広く読み、諸子百家にも通じていた。記憶力に優れ見聞も広く、当代随一と称された。かつて「詰眼文」を著し、その志を託した(注:『本朝文粋』による)。著書に『善家集(ぜんけしゅう)』がある(注:『仁和寺書籍目録』による)。五条堀川(ごじょうほりかわ)に凶宅(きょうたく、不吉な屋敷)があり、人々は誰もそこに住もうとしなかった。清行はこれを買い取って移り住んだ。親戚は皆これを止めたが、清行は聞き入れず、住んでみると怪異もやんだ(注:『今昔物語』による)。清行には子が多かったが、その名は詳しくは伝わっていない。第八子の浄蔵(じょうぞう)は聡明で早熟であり、七歳で髪を剃って僧となり、術数(じゅっすう、陰陽道)に通じ、当時の人々から称賛された(注:『扶桑略記』『元亨釈書』による)。