卷之第一 本紀第一
神武天皇、綏靖天皇、安寧天皇、懿德天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝靈天皇、孝元天皇、開化天皇
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
神武天皇
¶神武天皇は、諱を彦火火出見(ひこほほでみ)といい(注:古事記には、名は若御毛沼、またの名を豊御毛沼という、とある)、幼名を狭野(さの)といった(注:幼名については、本書の一説および先代旧事本紀による)。天祖・大日孁尊(おおひるめのむち)は高天原を治めており、これがすなわち天照大神である(注:「天祖」という呼称は古語拾遺による)。天照大神の子である正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊の娘・栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を生んだ。天祖はすでに諸神に命じて葦原中国を平定させ、そこで天孫を降臨させて葦原中国に住まわせ、その主とした。八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣の三種の宝物を授け、こう言った。「豊葦原瑞穂国は、わが子孫が王たるべき地である。汝はそこに行って治めよ。皇位の栄えは、天地とともに窮まることがないであろう。」そこで瓊瓊杵尊は天の磐座を離れ、日向の高千穂峰に降り、ついで吾田に至り、大山祇の娘・木花開耶姫(このはなさくやひめ)を娶って彦火火出見尊を生んだ。彦火火出見尊は海神・豊玉彦の娘・豊玉姫を娶り、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を生んだ(注:本書の一説を参照して採った)。瓊瓊杵尊から葺不合尊に至るまで、代々この系統を受け継ぎ、天津日高(あまつひたか)の号があった(注:「天津日高」の号は古事記による)。後世、これを尊んで、いずれも天祖と称した(注:いずれも天祖と称するのは古語拾遺による。案ずるに、本書にもまた「わが天祖彦火瓊瓊杵尊」とあり、これは証とするに足る)。天祖の子孫は無窮に伝わるゆえに、皇位に昇ることを日嗣(ひつぎ)という(注:「騰極日嗣」は本書の持統紀および続日本紀の宣命文による)。上代の事は年代が悠遠で神異にして測りがたく、総じてこれを神代と称するのである。
¶天皇は、葺不合尊の第四子である(注:本書の一説には第二子、あるいは第三子とする)。母は玉依姫といい、庚午の年にお生まれになった(注:庚午年生誕は水鏡・歴代皇紀、および本書に崩年127歳とある記述による。愚管抄・皇年代略記では、正月庚辰朔の生誕とする)。生まれながらにして聡明で、意志は確固としていた。15歳で皇太子に立てられた。成人に及んで、吾平津媛(あひらつひめ)を娶って妃とした。
¶甲寅の年、天皇45歳のとき、高千穂宮においでになった(注:高千穂宮については古事記による)。このころ、西の国々はすでに久しく王化に服していたが、東の国々はまだ服従していなかった。長髄彦(ながすねひこ)は饒速日命(にぎはやひのみこと)を主と仰ぎ、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)・八十梟帥(やそたける)・兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)らは、それぞれ君長となって統一されていなかった。天皇は諸皇兄および皇子たちに(注:古事記には、兄の五瀬命と相談した、とある)、こう仰せられた。「天祖が天降りされてから多くの年月が経ったが、時運はいまだ開けず、この西の一隅を治めているに過ぎない。遠く隔たった土地には、いまだ王の恩沢が及んでいない。そのため、村や邑にそれぞれ君長がいて、勝手に境界を分かち合い、互いに争い侵し合っている。塩土老翁(しおつちのおじ)に聞いたところでは、『東に美しい土地があり、青山が四方を囲み、また天の磐船に乗って天降った者がいる』という。思うにそれは饒速日ではないか。その地はおそらく国の中心であり、そこに都して大業を広め、天下に光を及ぼすにふさわしい。そこへ行って都を定めるべきだ。」皇子たちはみな賛成した。
¶十月五日辛酉、天皇は自ら皇兄の五瀬命・稲飯命・三毛入野命、および皇子の手研耳命(たぎしみみのみこと)らを率いて、水軍を編成して東征し、速吸門(はやすいのと)に至った。漁師の珍彦(うずひこ)という者が出迎えた。これに道案内を命じ、椎根津彦(しいねつひこ)という名を賜った。さらに進んで筑紫国の菟狭(うさ)に至った。菟狭津彦・菟狭津媛が宮を造って饗応した。菟狭津媛は、侍臣の天種子命(あめのたねこのみこと)の妻として賜った。
¶十一月九日甲午、崗水門(おかのみなと)に至った。
¶十二月二十七日壬午、安芸に至り、埃宮(えのみや)に滞在した。
¶乙卯の年、三月六日己未、吉備国に入り、行宮を造った。これを高島宮という。三年間ここに滞在し、船や櫂を整え、兵糧を蓄え、一挙に天下を平定しようとした(注:古事記には、天皇は筑紫に行き着いて岡田宮に一年滞在し、また安芸国に至って多祁理宮(たけりのみや)に七年、また吉備国に入って高島宮に八年滞在し、吉備を発って速吸門に至ったとき槁根津日子(さおねつひこ)に出会った、とある)。
¶戊午の年、二月十一日丁未、水軍はついに東へ進んだ。船団は舳先と艫を連ね、浪速国(なにわのくに)に至った。
¶三月十日丙子、川をさかのぼって河内国の草香邑・青雲の白肩津(しらかたのつ)に至った。
¶四月九日甲辰、兵を整えて竜田(たつた)に向かったが、道が険しく狭く、並んで進むことができなかった。そこで引き返し、東に膽駒山(いこまやま)を越えて中州(なかつくに、大和)に入ろうとした。長髄彦は全軍を挙げて孔舎衛坂(くさえのさか)で待ち構えた。これと戦って利あらず、五瀬命は流れ矢に当たり、軍は進むことができなくなった。天皇はこれを憂え、こう謀った。「われは日の神の子孫でありながら、日に向かって敵を討つのは天の理に逆らうことだ。むしろ退いて弱みを見せ、神々を祭って礼をつくし、日の神の威光を背に負って、影のようにこれに従い攻めるのがよい。そうすれば刃に血を塗ることなく、敵は必ず自ら敗れるであろう(注:古事記ではこれを五瀬命の言葉とする)。」そこで軍を引いて退いた。敵もあえて追い迫らなかった。退いて草香津(くさかのつ)に至り、盾を立てて雄々しく気勢をあげた。これにより、その港を盾津(たてつ)と改め名づけた(注:古事記には、天皇は浪速から白肩津に至り、そのとき長髄彦が迎え撃ったので、船中の盾を取って防いだ、それゆえその地を楯津と名づけた、とある)。
¶五月八日癸酉、茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)に至った。五瀬命は傷が重くなり、憤然として剣を撫でて言った。「大丈夫たる者が敵に傷つけられ、報復もせずに死んでよいものか。」そして紀伊の竃山(かまやま)まで進んだところで薨(こう)じた。
¶六月二十三日丁巳、名草邑(なぐさのむら)に入り、名草戸畔(なぐさとべ)を誅した。そのまま狭野(さの)を経て熊野の神邑(みわのむら)に至った。海を渡って進むうち、暴風に遭って船が漂った。稲飯命・三毛入野命は憤慨して海に身を投げた。天皇はただ一人、皇子の手研耳命とともに進んで荒坂津(あらさかのつ、注:本書の注に、またの名を丹敷浦(にしきのうら)という、とある)に至り、丹敷戸畔(にしきとべ)を誅した。このとき、ある神が毒気を吐いて人々を害し、軍勢はみな病に倒れて奮い立つことができず、天皇もまた眠り込んでしまった。そこへ熊野の人・高倉下(たかくらじ)が韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を献上すると、天皇はたちまち目覚めて言った。「私はどうしてこのように長く眠っていたのか。」兵士たちもすぐに起き上がった。その後、中州に進み入ろうとしたが、山道が険しく途絶えていて、進むべき方向がわからなかった。天皇の夢に天照大神が現れ、こう教えた。「今、頭八咫烏(やたがらす)を遣わそう。これを道案内とせよ。」ちょうど頭八咫烏が現れた。天皇は大いに喜び、道臣命(みちのおみのみこと)に大来目(おおくめ)を率いさせ、頭八咫烏に従って道を切り開かせ、ついに菟田(うだ)の下県(しもつあがた)に到達した。
¶八月二日乙未、菟田の首長である兄猾・弟猾を召した。兄猾は参上しなかったので、道臣命を遣わしてこれを誅した。弟猾は牛や酒を大いに用意し、王師をねぎらった。天皇は酒肉を軍に分け与え、そして歌を詠んだ。これを来目歌(くめうた)という。天皇は自ら軽装の兵を率いて吉野を巡った。土地の人である井光(いひか)らが従い仕えた。
¶九月五日戊辰、天皇は菟田の高倉山に登り、国中を見渡した。八十梟帥は国見丘に軍を構え、女軍を女坂に、男軍を男坂に配置し、墨坂には炭を盛んに焚いていた。また兄磯城の兵は磐余邑(いわれのむら)一帯に満ち、いずれもすでに要害を占めて守っていた。道は塞がれ、天皇はこれを憂いた。その夜、自ら神に祈って眠りにつくと、夢に神のお告げがあった。ちょうどそのとき弟猾が参上して申し上げたことが、その夢と合致した。天皇は大いに喜び、椎根津彦と弟猾に命じて天香山(あめのかぐやま)の土を取らせ、八十枚の平瓮(ひらか)と天手抉(あめのたくじり)、厳瓮(いつへ)を作らせ、丹生川(にうかわ)の上流で神々を祭り、こう誓った。「私はこの八十枚の平瓮を用いて、水を使わずに飴を作ろう。飴ができれば、刃を借りることなく天下を平定できるであろう。」飴は果たしてできた。またこう誓った。「私は厳瓮を丹生川に沈めよう。もし多くの魚が酔ったように浮き上がれば、私は必ず国を平定できるだろう。」瓮を沈めると、魚はみな浮き上がった。天皇は大いに喜び、丹生川上の真坂樹(まさかき)を抜き取って諸神を祭った。神を祭るのに厳瓮を用いるのは、これに始まる。また自ら高皇産霊尊を顕齋(あらわしいつき、公然と祭ること)し、道臣命を斎主(いわいぬし)として厳媛(いつひめ)の号を授けた。
¶十月癸巳朔、天皇は厳瓮で作った食物を口にし、兵を整えて出陣し、ついに国見丘で八十梟帥を打ち破って斬った。そこで道臣命に命じ、その残党をおびき出して殲滅させた。天皇は言った。「戦いに勝っても驕らないのが、良将のふるまいである。今、賊の首魁はすでに滅んだが、同類の悪はなお多い。いつまでも一箇所に留まっていては、変事に対応できない。」そこで陣営を別の場所に移した。
¶十一月七日己巳、大軍を挙げて磯城を攻めようとし、使者を遣わしてその首長を召した。兄磯城は命令を拒み、弟磯城は降伏してきた。そこで弟磯城に兄磯城、および兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)を説得させたが、いずれも聞き入れなかった。そこで椎根津彦の計略を用い、奇襲部隊を仕立てて墨坂からその背後に出し、挟み撃ちにしてこれを破り、ついに兄磯城を斬った。天皇は、五瀬命が長髄彦のために命を落としたことから、これを滅ぼし尽くそうと考えていた。
¶十二月四日丙申、長髄彦を討伐に進んだが、連戦しても勝てなかった。ちょうど空が曇って雨が降る中、鵄(とび)が飛んできて天皇の弓の弭(はず)にとまった。その金色は光り輝き、まるで稲妻のようであった。敵軍はこれに目がくらんで、再び戦うことができなくなった。そこで兵を放って急襲すると、饒速日命は長髄彦を殺し、部下を率いて帰順した。
¶己未の年、二月二十日辛亥、諸将に命じて兵士を訓練させた。別動隊を分遣して、層富県(そほのあがた)の土蜘蛛(つちぐも)・新城戸畔(にいきとべ)・居勢祝(こせのはふり)・猪祝(いのはふり)らを誅した(注:釈日本紀には、当時、賊のうち穴に住む者を土蜘蛛と呼んだ、とある)。また高尾張邑(たかおわりのむら)には土蜘蛛がいて、身の丈が低く手足が長かったので、葛(かずら)で編んだ網をかぶせて討ち滅ぼした。これにより、その邑の名を葛城(かつらぎ)と改めた(注:本書によれば、これより先、弟猾が「高尾張邑には赤銅(あかがね)の八十梟帥がいる」と奏上している。これに拠れば、ここでいう土蜘蛛とは、おそらくその赤銅の八十梟帥の類であろう)。ここに至って中州(大和)は平定された。当時の風俗は素朴で、人々は巣に棲み穴に住んでいた。天皇は宮室を営んで民心を鎮めようとした。
¶三月七日丁卯、畝傍山の東南、橿原の地に都を定めるよう命を下した。この月、担当の役人に命じてその造営に着手させた。
¶庚申の年九月二十四日乙巳(注:本書では己巳とするが、甲子から推算すると、この月は壬午朔で己巳の日はない。今は先代旧事本紀に従う)、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を娶って正妃とした。
¶元年辛酉、春正月庚辰朔、橿原宮において天皇の位にお即きになった。時に52歳(注:年齢は水鏡・歴代皇紀、および本書に崩年127歳とある記述による)。神日本磐余彦火火出見天皇(かんやまといわれびこほほでみのすめらみこと)と号した。正妃を皇后に立てた。神籬(ひもろぎ)を建てて八神を祭り、国家を鎮護した。天富命(あめのとみのみこと)は諸々の斎部(いんべ)を率い、天璽(あまつしるし)の鏡と剣を捧げて正殿にお安置した。天種子命は天神寿詞(あまつかみのよごと)を奏上した。可美真手命(うましまでのみこと)は内物部(うちのもののべ)を率い、矛と盾を執って厳重に警護し、道臣命は来目部(くめべ)を率いて宮門を守衛した。群臣は朝賀した。天種子命・天富命に、ともに祭祀を掌らせた(注:「神籬を建て」以下は先代旧事本紀・古語拾遺による。○先代旧事本紀・年中行事にはいずれも、十一月十五日庚寅、可美真手命が天皇と皇后のために天璽瑞宝を祭り、御魂を鎮め寿祚(じゅそ、長寿)を祈った、鎮魂祭はこれに始まる、とある)。
¶二年壬戌、春二月二日乙巳、功を定めて褒賞を行った(注:先代旧事本紀によれば、この日、可美真手命・天日方奇日方命(あめひかたくしひかたのみこと)を申食国政大夫(おすくにのまつりごとをもうすまえつきみ)としたとある。本書には記載がなく、いささか疑わしい。ひとまず付記して参考に備える。以下も同様とする)。道臣命に宅地を賜って築坂邑(つきさかのむら)に住まわせ、大来目は畝傍山の西に住まわせ、椎根津彦を倭国造(やまとのくにのみやつこ)とし、弟猾を猛田県主(たけたのあがたぬし)、弟磯城を磯城県主とし、高皇産霊尊の五世の孫である劔根(つるぎね)を葛城国造とし(注:高皇産霊尊の五世の孫という記述は新撰姓氏録による)、あわせて頭八咫烏にも褒賞を与えた。
¶四年甲子、春二月二十三日甲申、諸々の敵がすでに平定され、国内が無事となったことから、鳥見山(とみやま)に畤(まつりのにわ)を作るよう詔し、皇祖の天神を祭った。
¶三十一年辛卯、夏四月乙酉朔、天皇の車駕が各地を巡幸し、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登った。周囲を見渡してその地形が蜻蛉(あきづ、とんぼ)の臀(と、交尾する姿)に似ていると仰せられた。これにより、秋津洲(あきづしま)という名が初めて生まれた(注:「蜻蛉」は「秋津」と読む)。
¶四十二年壬寅、春正月三日甲寅、皇子の神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと)を皇太子に立てた。
¶七十六年丙子、春三月十一日甲辰、天皇は橿原宮で崩御した。御年127歳(注:古事記には137歳とある。古事記に載る崩年は、多くが本書と一致しない。ここではその違いを示し、参考に備える。以下も同様とする)。畝傍山東北陵に葬った(注:古事記には、陵は畝傍山の北、白檮尾(かしのお)の上にある、とある)。追って神武天皇と諡(おくりな)した(注:追諡の制度がいつの帝の時代に始まったかは明らかでない。釈日本紀が引く私記には、「神武などの諡は、淡海三船(おうみのみふね)が勅を奉じて撰んだものである」とある。親長記には、「神武から文武に至る四十二代の諡号は、淡海公・藤原不比等が定めたものである」とある。この二説は一致しない。案ずるに、古事記・日本紀の正文にはまったく追諡を記さないので、和銅・養老の間にはまだこの制度がなかったことがわかり、不比等が撰んだものでないことは明らかである。三船は孝謙・廃帝(淳仁)・光仁・桓武の数朝に仕えており、続日本紀・新撰姓氏録などの、桓武以後に成立した諸書はいずれも追諡を挙げている。すると、元正天皇以前の諸帝の諡は、おそらく孝謙天皇以後に追って奉られたものであろう。しかし史書に明確な記述がないため、どの朝で追諡されたかは記さない。以下も同様とする)。
綏靖天皇
¶綏靖天皇は、神武帝の第五子である(注:本書では第三子とするが、これはおそらく皇后の生んだ子として数えたものであろう。しかし帝には二人の庶兄があったので、古事記が第五子とするのが正しい)。母は媛蹈鞴五十鈴媛皇后。天皇は容姿が優れて気高く、若くして雄々しく抜きん出た気性があった。壮年に及んでは、体格が立派で沈着剛毅であり、武事に最も長じていた。
¶神武帝の四十二年、皇太子に立てられた。
¶七十六年三月、神武帝が崩御した。皇太子は生まれつき純粋な孝心の持ち主で、悲しみ慕うことこの上なく、心を尽くして葬儀を執り行い、庶務はすべて庶兄の手研耳命に委ねた。
¶丁丑の年、九月十二日丙寅、神武天皇を葬った。手研耳命は喪に服す間、権勢を思うままにし、ついに皇太子を害しようと謀った。皇太子はその企みを知り、密かに備えをした。
¶己卯の年、山陵の造営が終わった。皇太子は弓矢を作らせ、密かに同母兄の神八井耳命(かんやいみみのみこと)と謀って、手研耳命を射殺そうとした。ちょうど手研耳命が独り地窖(あなぐら)に臥せっていたとき、皇太子は神八井耳命にこれを射させようとしたが、神八井耳命は震えて矢を放つことができなかった。そこで皇太子は自らその弓矢を奪い取り、射てこれを殺した。
¶元年庚辰、春正月八日己卯、天皇が即位した。時に52歳(注:年齢は水鏡・皇代記・歴代皇紀、および本書に崩年84歳とある記述による)。これを神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)という(注:古事記には、天皇は手研耳命を殺した後、健沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)と改め称した、とある)。葛城に都を置き、これを高丘宮(たかおかのみや)という。
¶二年辛巳、春正月、五十鈴依媛(いすずよりひめ)を皇后に立てた(注:先代旧事本紀には、三年正月、彦湯支命(ひこゆきのみこと)を申食国政大夫とした、とある)。
¶四年癸未、夏四月、神八井耳命が薨じた。
¶二十五年甲辰、春正月七日戊子、磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)を皇太子に立てた。
¶三十三年壬子、夏五月、天皇が病に伏した。十日癸酉、崩御した。御年84歳(注:古事記には45歳とある)。桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)に葬った。追って綏靖天皇と諡した。
安寧天皇
¶綏靖帝の二十五年、皇太子に立てられた。
¶三十三年五月、綏靖帝が崩御した。
¶七月三日乙丑、皇太子が天皇の位に即いた(注:本書に皇太子に立てられたとき21歳とある記述から推せば、天皇の即位は29歳となる。しかし本書に崩年57歳とある記述とは合わない。もし崩年から推算すれば、このとき19歳となる。しかし本書に懿徳帝が皇太子に立てられたとき16歳とある記述によれば、天皇が15歳のときすでに懿徳帝が生まれていたことになり、いささか疑わしい。おそらく皇太子に立てられたときの年齢21歳がほぼ正しく、崩年57歳は五、あるいは六の誤りであろう。また水鏡・愚管抄はいずれも、元年に20歳とする。これもまた本書の崩年から推算したものにすぎない。今はひとまず疑いを残し、即位当時の年齢を注記しない。先代旧事本紀・水鏡・皇代記・愚管抄はいずれも、元年癸丑に即位したとする。これを付記して参考に備える)。これを磯城津彦玉手看天皇という。
¶元年癸丑、冬十月十一日丙申、綏靖天皇を葬り、皇后を尊んで皇太后とした。
¶二年甲寅、都を片塩(かたしお)に遷した。これを浮孔宮(うきあなのみや)という。
¶三年乙卯、春正月五日壬午、渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)を皇后に立てた(注:先代旧事本紀には、四年四月、出雲色命(いずもしこのみこと)を申食国政大夫、大禰命(おおねのみこと)を侍臣とした、とある)。
¶十一年癸亥、春正月壬戌朔、大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)を皇太子に立てた。
¶三十八年庚寅、冬十二月六日乙卯、天皇が崩御した。御年57歳(注:古事記には49歳とある)。畝傍山南御陰井上陵(みほとのいのえのみささぎ)に葬った(注:延喜式には、「山」の下に「西」の字がある)。追って安寧天皇と諡した。
懿德天皇
¶懿徳天皇は、安寧帝の第二子である(注:水鏡・皇代記では第三子とするが、誤りである)。母は渟名底仲媛皇后。
¶安寧帝の十一年、皇太子に立てられた。
¶三十八年十二月、安寧帝が崩御した。
¶元年辛卯、春二月四日壬子、天皇が即位した。時に44歳(注:年齢は皇代記、および本書に皇太子に立てられたとき16歳とある記述による。○愚管抄は34歳とするが、誤りである)。これを大日本彦耜友天皇という。
¶九月十四日己丑、皇后を尊んで皇太后とした。
¶二年壬辰、春正月五日戊寅、都を軽(かる)に遷した。これを曲峡宮(まがりおのみや)という(注:古事記には境岡宮(さかいおかのみや)とある)。
¶二月十一日癸丑、天豊津媛(あまとよつひめ)を皇后に立てた。
¶二十二年壬子、春二月十二日戊午(注:本書は戊子とするが、今は甲子から推算し、先代旧事本紀に従う)、観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)を皇太子に立てた。
¶三十四年甲子、秋九月八日辛未、天皇が崩御した。御年77歳(本書には享年の記載がなく、今は水鏡・皇代記・皇年代略記、および本書に皇太子に立てられたとき16歳とある記述による。○古事記には45歳とある)。畝傍山南纖沙溪上陵(まなごのたにのえのみささぎ)に葬った。追って懿徳天皇と諡した。
孝昭天皇
¶孝昭天皇は、懿徳帝の子である。母は天豊津媛皇后。
¶懿徳帝の二十二年、皇太子に立てられた。
¶三十四年九月、懿徳帝が崩御した。明くる年乙丑、十月十三日庚午、懿徳天皇を葬った。
¶元年丙寅、春正月九日甲午(注:本書は甲子とするが、今は帝王編年記に従って干支を推算した)、天皇が即位した。時に31歳(注:年齢は本書に皇太子に立てられたとき18歳とある記述による。○水鏡は32歳、歴代皇紀は34歳とする)。これを観松彦香殖稲天皇という。
¶夏四月五日己未、皇后を尊んで皇太后とした。
¶秋七月、都を掖上(わきがみ)に遷した。これを池心宮(いけこころのみや)という。
¶二十九年甲午、春正月三日丙午、世襲足媛(よそたらしひめ)を皇后に立てた。
¶六十八年癸酉、春正月十四日庚子、日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)を皇太子に立てた。
¶八十三年戊子、秋八月五日辛酉、天皇が崩御した。御年114歳(本書には享年の記載がなく、今は水鏡・皇代記の一説、皇年代略記、および本書に皇太子に立てられたとき18歳とある記述による。○古事記には93歳とある)。掖上博多山上陵(はかたやまのえのみささぎ)に葬った。追って孝昭天皇と諡した。
孝安天皇
¶孝昭帝の六十八年、皇太子に立てられた。
¶八十三年八月、孝昭帝が崩御した。
¶元年己丑、春正月七日辛卯、天皇が即位した。時に36歳(注:年齢は水鏡・歴代皇紀・愚管抄、および本書に皇太子に立てられたとき20歳とある記述による)。これを日本足彦国押人天皇という。
¶秋八月辛巳朔、皇后を尊んで皇太后とした。
¶二年庚寅、冬十月、都を室(むろ)に遷した。これを秋津島宮(あきづしまのみや)という(注:先代旧事本紀には、三年八月、六見命(むつみのみこと)・三見命(みつみのみこと)をともに宿禰(すくね)としたとある)。
¶二十六年甲寅、春二月十四日壬寅、押媛(おしひめ)を皇后に立てた。
¶三十八年丙寅、秋八月十四日己丑、孝昭天皇を葬った(注:葬儀がここまで長く延びるのは不自然である。先代旧事本紀では元年己丑八月に葬ったとしており、こちらの方が実情に近いであろう。今はひとまず本書の旧文に従い、むやみに改めない)。
¶七十六年甲辰、春正月五日癸酉、大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)を皇太子に立てた。
¶一百二年庚午、春正月九日丙午、天皇が崩御した。御年137歳(本書には享年の記載がなく、今は水鏡・皇代記・皇年代略記、および本書に皇太子に立てられたとき20歳とある記述による。○古事記には123歳とある)。玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)に葬った。追って孝安天皇と諡した。
孝靈天皇
¶孝安帝の七十六年、皇太子に立てられた。
¶一百二年正月、孝安帝が崩御した。
¶十二月、都を黒田に遷した。これを廬戸宮(いおとのみや)という。
¶元年辛未、春正月十二日癸卯、天皇が即位した。時に53歳(注:年齢は水鏡・愚管抄・異本皇代記、および本書に皇太子に立てられたとき26歳とある記述による。○歴代皇紀・皇代記は、いずれも34歳とする)。これを大日本根子彦太瓊天皇という。皇后を尊んで皇太后とした。
¶二年壬申、春二月十一日丙寅、細媛(くわしひめ)を皇后に立てた(注:先代旧事本紀には、三年正月、大水口命(おおみなくちのみこと)・大矢口命(おおやぐちのみこと)をともに宿禰としたとある)。
¶三十六年丙午、春正月己亥朔、彦国牽尊(ひこくにくるのみこと)を皇太子に立てた。
¶七十六年丙戌、春二月八日癸丑、天皇が崩御した。御年128歳(本書には享年の記載がなく、今は皇年代略記・愚管抄、および本書に皇太子に立てられたとき26歳とある記述による。○古事記には106歳とある。水鏡は134歳、愚管抄は110歳とする)。片丘馬阪陵(かたおかのうまさかのみささぎ)に葬った。追って孝霊天皇と諡した。
孝元天皇
¶孝霊帝の三十六年、皇太子に立てられた。
¶七十六年二月、孝霊帝が崩御した。
¶元年丁亥、春正月十四日甲申、天皇が即位した。時に60歳(注:年齢は水鏡・愚管抄、および本書に皇太子に立てられたとき19歳とある記述による。○皇代記は51歳、歴代皇紀・皇代記の一説はいずれも61歳とする)。これを大日本根子彦国牽天皇という。皇后を尊んで皇太后とした。
¶四年庚寅、春三月甲午(注:本書の日付は「春三月甲申朔甲午」とあるが、今は甲子から推算すると、三月は癸未朔で、十二日が甲午にあたる。正月は甲申朔で、十一日が甲午にあたる。おそらく「正」を「三」に誤ったものであろうか。しかし訂正する根拠がない)、都を軽(かる)に遷した。これを境原宮(さかいはらのみや)という。
¶六年壬辰、秋九月六日癸卯、孝霊天皇を葬った(注:先代旧事本紀では四年のこととする)。
¶七年癸巳、春二月二日丁卯、鬱色謎(うつしこめ)を皇后に立てた(注:先代旧事本紀には、八年正月、大綜杵命(おおへそきのみこと)を大禰(おおね)としたとある)。
¶二十二年戊申、春正月十四日壬午、稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)を皇太子に立てた(注:水鏡・皇代記・皇年代略記はいずれも、三十九年六月に大雪があったとする)。
¶五十七年癸未、秋九月二日癸酉、天皇が崩御した。御年116歳(本書には享年の記載がなく、今は皇年代略記・異本愚管抄、および本書に皇太子に立てられたとき19歳とある記述による。○古事記には57歳とある。水鏡・愚管抄はいずれも117歳とする)。剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)に葬った(注:古事記には剣池中岡上陵とある)。追って孝元天皇と諡した。
開化天皇
¶孝元帝の二十二年、皇太子に立てられた。
¶五十七年九月、孝元帝が崩御した。
¶十一月十二日壬午、皇太子が天皇の位に即いた。時に51歳(注:年齢は水鏡・愚管抄・皇代記、および本書に皇太子に立てられたとき16歳とある記述による。○歴代皇紀は52歳、異本皇代記は56歳とする)。これを稚日本根子彦大日日天皇という。
¶元年甲申、春正月四日癸酉、皇后を尊んで皇太后とした。
¶冬十月十三日戊申、都を春日(かすが)に遷した。これを率川宮(いさかわのみや)という。
¶五年戊子、春二月六日壬子、孝元天皇を葬った(注:先代旧事本紀ではこれを六年のこととするが、これはおそらく即位した年を元年として紀元としたためで、本書とは一年の差が生じている。今はこれを採らない。安康紀・雄略紀・仁賢紀なども、即位した年を元年としており、本書と異なる。しかしそれ以外の出来事を年に配する記述は本書と同じである。宣化紀の紀元のようなものは、誤りがとりわけ甚だしいが、今はすべての箇所についていちいち示さない)。
¶六年己丑、春正月十四日甲寅、伊香色謎(いかがしこめ)を皇后に立てた(注:先代旧事本紀には、八年正月、武建命(たけたつのみこと)・大峯命(おおみねのみこと)をともに大禰としたとある)。
¶二十八年辛亥、春正月五日丁酉、御間城入彦尊(みまきいりびこのみこと)を皇太子に立てた。
¶六十年癸未、夏四月九日甲子、天皇が崩御した。御年111歳(本書には享年の記載がない。今は皇年代略記、および本書に皇太子に立てられたとき16歳とある記述による。○本書の注・先代旧事本紀はいずれも115歳とする。古事記には63歳とある)。春日率川坂本陵(かすがのいさかわのさかもとのみささぎ)に葬った(注:延喜式では「本」はもと「上」に作る)。追って開化天皇と諡した。